プルタブと車いす

車イスのためにプルタブを収集しています

近所にあるコンビニの窓に、こんなポスターが貼られている。写真にはモザイクをかけてあるが、ポスターの右下には横浜市内のとある小学校名が書いてあり、それから推測するに学校のボランティア活動として行われているのであろう。


しかし、なぜ?


そういえば、わたしが通っていた高校の生徒会も、車いすのために空き缶のプルタブを収集するとかしないとか言っていた記憶がある。結局その計画は倒れたのか、実現に至ったという話は耳にしていないが、それ以前にわたしは幾つかの疑問を持った。

そもそも、車いすを買うためには金がいる。しかし、空き缶のプルタブに大した金銭的価値があるとは思えないし、金属資源として売りさばき金を作るのなら、プルタブよりも空き缶そのものを回収した方がよほど効率的だ。にも関わらず、空き缶のプルタブ収集活動は、他の学校でも行われていたりする。活動の規模がそれなりに大きくなれば、何らかの元締め的な組織があって然るべきだが、それすら明確でない。

そして、どんな理由があって車いすなのか。全国各地で車いすが不足しているとか、車いすを必要としている施設に買う金が無くて困っているという話など、聞いたことがない。日本国内に限って言えばだが、戦後間もなくという時代ならまだしも、ん千万円の医療機器が揃っているご時世、たかだか車いす程度のものを寄付に頼らなければならないほどの貧困があるとは考えられない。


仮説


どうも要領を得ない部分が多すぎる。そこで、検索エンジンで色々と調べてみたので、関係サイトを紹介しよう。

プルタブ回収運動プル・タブで車いすを!によれば、140万個(約700kg)程度という想像も出来ない量のプルタブをアルミ資源として売れば、その金で車いすが一台買えるのだという。予想通り、プルタブに特別な価値があるわけではなかった。早い話が、物量作戦である。

また、プルタブ回収運動の元締めが環公害防止連絡協議会というところであるらしいことも、上記のサイトから知ることができる。やっているところがあるとすれば福祉に関係する組織だと考えていたが、意外な団体が出てくるものである。しかし、その理由は「何故、プルタブなのか」という疑問に答えることで分かる。

缶ふたの豆知識というページを見ると、缶ジュースの蓋が何種類か紹介されている。現在で主流の缶は、開封してもプルタブ部分は外れず、缶に残る構造になっている。しかしそれ以前の缶では、缶を開封するとプルタブが缶から外れる構造になっていた。そのため、街頭でジュースを飲む際、外れたプルタブの処分に困り廃棄場所として道路を選ぶ人が多かったのだろう。道路脇にプルタブが落ちている有様を記憶されている方も多いことと思う。

そのことを重く見た環公害防止連絡協議会が何とかプルタブの散乱を防ごうと画策し、プルタブを収集させて車いすに変えるという案を思いついたと仮定すると、話の筋は通る。この仮説が正しいとすると、プルタブの散乱防止が第一の目的ということになる。従って、プルタブ収集の目的自体はプルタブ散乱の解決策に過ぎず、福祉的なことをすれば敏感に反応する教育機関を巻き込んで収集率を高めるために、車いすというエサを用意したと見ても良いのではなかろうか。


時代錯誤


しかし、散乱の原因となる外れるタイプのプルタブを採用している缶は、何年も前に廃れてしまい、現在では殆ど存在しない。プルタブの散乱防止が目的で、次第にプルタブが外れないような構造の缶に置き換わっていったためだ。よって、道路脇に転がるプルタブが問題となるわけでもなく、散乱防止が本来の目的であるならば、いまとなってプルタブを収集することに何ら意味は無い。

プルタブ 右の写真は、コンビニで発見したポスターに貼ってあったプルタブの実物見本を拡大したものだ。ご覧の通り、これは道路に散乱して問題となった、昔の空き缶に使われていたプルタブではない。プルタブが外れないタイプの缶から無理矢理もぎ取ったプルタブなのである。散乱防止のために改良された缶から、わざわざプルタブを外して集めているのだ。プルタブが外れない缶を開発した者が見たら、何というだろうか。

ここに挙げた仮説が正しければの話だが、「車いすのためにプルタブ収集」は、今は過ぎ去りしプルタブ散乱時代の名残でしかなく、時代錯誤と言うべきだ。同じアルミ資源なら、空き缶そのものを収集した方が現実に即しているし、また効率的だと思う。それでもプルタブが車いすに化けるのなら、毒であり止めるべきであるとまでは言わないが、本来の目的から逸脱した活動には疑問を感じざるを得ない。


そもそも


なぜプルタブなのか。プルタブ収集が何になるのか。車いすがどうしたのか。小学生自身が、そういった疑問を感じるべきだとは思わない。しかし、学校の教職員なら何か気付いても良さそうなものだ。

教育機関の、こうした活動が間違っていると言いたいのではない。しかし、どうも歪になりがちなのも事実だと思う。何となく福祉問題や環境問題の香りがすることならば、活動は何であろうが美しいではないか、という観念だけに基づいた発想が多すぎるにように思えて仕方がない。あるところではプルタブを集めて車いすに変えたり、またあるところでは、使用済みの割り箸を原料に紙を作ったりしているとも聞く。

だが、大方どれを取っても実用性や合理性はない。まず第一に問題意識を持つことも、重要なことである。一人一人の些細な心がけが、大きな解決を導く場合もある。しかし、そういった考えは一歩間違えば、極めて不合理、あるいは時として負の結果さえ招きかねない集団の力へと発展する危険性を孕んでいる。だからこそ、その意義や理由、過程や効果を正しく吟味しないままの行動は、改めるべきではないのか。




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