今日の一言(1997年7月分)




ふれあい
1997年7月31日(木曜日) 晴れ時々くもり

役所や福祉関係の団体が決まって使いたがる言葉で、「ふれあい」がある。ときによっては平仮名、そうでないときは「ふれ愛」と言う感じに、「愛」だけを漢字で書く。ふれいあ号、ふれあい公園、ふれあい図書館。恐らく、全部実在するだろう。こうやって使いまくる様は、まるでアホの一つ覚えみたいで、異様である。

もうちょっとオリジナリティの感じられる名称は思い付かないのだろうか? だいたい、「ふれあい」って何なのだ? 自分なりに解釈してみる。きっと「ふれ愛」は「溢れる愛」が縮まったものだろう。愛が満ちている中で、人と人とが触れ合い、いつか人間はお互い分かり合えるだろうという概念なのだろうか。

人間が他の人間を分かり合えれば、差別も、イジメも、その他その類の社会問題はなくなるのかも知れない。が、そりゃ建前と言うもの。人間がお互いを分かり合えるような時代は、永遠に訪れないだろう。それに対する考えはどうであれ、それが現実だと思う。

では、現実を見詰め直す必要があると思う。人間はお互いに分かり合えないものと言う事実を前提とした福祉なんてのも、あっても良いんではなかろうか。誰が誰を見捨てようとも、ゼニさえあれば、ゼニと引換に差し伸べてくれる手も絶対にある。

かねづる号、かねづる公園、かねづる図書館、なんてのも悪くない。
あらゆる方法で、福祉の為のゼニをかき集めるのさっ。

と、マジメなようで、かなり現実離れしたお話でした。



バイト Part 2
1997年7月29日(火曜日) くもり/雨

昨日の続き。

私の主な仕事は、マーガリンの元となる植物油脂の塊を、油を溶かす釜に放り込むことである。重さが20〜25キロぐらいある塊を釜の口まで持ち上げるのは流石に無理なので、実際に仕事をするのはコンベヤなのだが。包装された油脂を箱から出してコンベヤに乗せたり、釜で片寄らないように管理するのが人間の仕事となる。が、釜の周りは暑い...

その仕事が早めに終わったので、今日は他の仕事のお手伝いもした。連れられた場所は冷凍倉庫で、仕事は冷凍ホットケーキの出荷。しかし、マイナス20度を体験するのは始めてだが、これほど寒い所とは思わなかった。防寒着を着ていたが、それでもまだ寒い。

それは短時間で済んだのだが、冷凍倉庫が終わったかと思えば、冷蔵倉庫の仕事にまわされた。こちらは普通の冷蔵庫並みで、5度ぐらい。が、5度を侮っては行けない。3時間以上も連続で中にいると、手がかじかんで来て、指先の感覚が無くなってくる。私は寒いのは駄目なのだ。まぁ、夏なのにこんな寒い体験をするとは思わなかった。

大型の冷凍倉庫って、どんな風になってるんだろう? かなり広いところをマイナス20度に保つのは大変だろう。冷媒はフロンでは駄目かな。やっぱりアンモニアと巨大なコンプレッサで冷やしてるんだろうかねぇ。



○○ちゃんの為なら、バイト、バイト、バ〜イト
1997年7月28日(月曜日) 雨

って、彼女いない歴long値(!) 年なので、タイトルはご愛敬ね(笑)

今日から新しい仕事をすることになった。職種は菓子工場での工場内作業である。場所が淀川区三津屋と言うこともあって、最初は町工場を想像していたが、意外に立派な工場だった。ちなみに、三津屋と言う場所はには、有機溶剤の香り漂う町工場なんかが多い場所である。

家からは電車、地下鉄、市バスを乗り継いで1時間半ぐらいかかる。8時には入らないといけないので、家を出るのは6時半と、ちょっと辛い。が、「今ごろから夏休みの終わりまで」と言うような我が侭を聞いてくれるところと条件を付けると、「且、近いところ」なんて事は言ってられない。まぁ、8月の終わりまでだ。朝は弱いが、頑張ろうっと。

配属は今日行くまで知らされてなかった。朝行くと、連れられたのは製造部マーガリン課。文字どおり、マーガリンを作っているところだ。部屋へ入ると、吐き気がするぐらいバター臭い。グリセリン脂肪酸エステル(?) のような香料を加えているからだと思う。また、保存剤である、ソルビン酸カリの粒子なんかも置いてあって、食品業界の恐ろしさを感じる(笑) そういうモノをいじってたので、家に帰っても手がバター臭い。

が、マーガリン課はその工場で最もキツイ場所でもあった。そこへ配属されたのは私一人だけなのに、よりにもよってそんな場所が当たるのだろう。マーガリンの原料は重いものが多くて、それらを動かすのは割と疲れる。短期なバイトと言うのは、ケーキの日付張りとか、ダルイ単純作業を繰り返す方が好きなのだ(笑)

これを安い給料でやらないと行けないのかと思うと、うんざり... なんて思ったところ、マーガリン課は特にキツイので時給200円アップになるという噂を耳にした。帰りに事務所で確認したところ、それは事実であると担当者の方。不公平感が生じるので公にはできないが、「公平な差別」と。納得。

考えて見ると、お掃除屋、塾の講師、事務屋、ラーメン屋などと、一通りのバイトはやってきたが、製造業は初めての体験である。普通の人がやりそうな、コンビニやらファミレスはやってないなぁ。



電気代
1997年7月27日(日曜日) くもり

日本の電気代はよく欧米諸国と比べて、高いと言われる。例えばUSと比較して、2割ほど高いそうだ。一般的な家庭で月いくらぐらいの電気代を払っているかは知らないが、2割安ければ家計もちょっとは助かるのだろう。

日本に居ると、停電が無い。今のマンションに3年ぐらい住んでいるが、地震の時に一度あっただけだったと思う。雨も風も、或いは人為的な事故もあり得る中で、全然停電しないのはなかなか凄い。24時間稼動の計算機が2台もあると、UPSでも着けようかと思ってしまうが、その必要性は低いようである。

一方で、US辺りへ行くと停電は多い。年に数度は数分間停電するし、3秒程度の短い停電はよくある。たった3秒でも計算機は落ちるから、UPSは一般家庭のパソコンにも比較的普及しているようだ。

この2割の料金の差は信頼性にあると考えれば、日本の電気は意外とお買い得だと言えるかもしれない。が、一般家庭の電力にそこまで高い信頼性が必要かどうかは疑問のあるところ。たまに停電があっても、それで2割安ければ喜ぶ人は多いだろうと思う。

計算機を扱うところでは困るかも知れないが、そういう人間はUPSなりつければ良いんだしね。10分ぐらいなら持つかな。



台風きてますねぇ
1997年7月26日(土曜日) 台風

台風が来て暴風警報が出てたが、朝から仕事。風は強かったが、電車は動いていたので問題ない。しかし、ビルに居ると少々の風雨は感じない。表へ出ると、それなりに風も吹いてるんだけど。

ウチとこは教育機関なんで、朝から授業の有無を確認する電話が相次いだ。朝は私一人でやってたので、どっちとも答えられないので困った。上の人も来てから、中止にするかどうかを議論しないと行けない。取り敢えず待機するように伝え、詳細は折り返し電話をすると伝えたが、休みとなった授業は他の日に振り替えて貰えるかとか、ややこしかった。結局、各地で強風が吹いてたようなので休講にし、振替授業の予定を立てて電話で伝えた。

台風は夕方ぐらいに上陸すると言うことなので、電車が止る可能性もある。こちらも帰れなくなっては困るので、定時よりも少し早めに終わり帰宅した。京阪の場合は風速が25メートルを超えると運休するらしい。まだ、25メートルではなかったが。

大阪市内に居ると、ビルが多くて風が吹いてるのか吹いてないのかよく分からない。しかし、枚方まで帰ってくると風を遮るものが少なくて、傘も飛ばされそうになる。空き地もあるし、田んぼもあるし、やっぱり田舎やな、ここは。



くぬぎ式自転車返還
1997年7月25日(金曜日) くもり時々はれ

昨日の一言で書いた通り、自転車の保管所まで行ってきた。

ハガキを近くにいたジジィに渡す。そのジジィは自転車を取りに行ったが、私は受け付けに居たちょっと偉い感じのジジィとモメはじめたのだ。久々にモメたので、気持ちが良かった(イヤな奴)

盗難車である事情を一通り説明し、従って1500円は払えないと言ったが、それじゃ、自転車は返せないと言う。予想通り、マニュアルは用意されていなかった。それどころか、向こうも答えに戸惑って言葉が無くなってきてた。そこで、話の分かる人間を出せと、市役所に電話をさせる。もちろん、受話器を寄越せと貰った。

相手は枚方市の交通対策課のおっさん。色々と喋ったが、向こうの概ねの主張は盗難届けを出せば、1500円は後で還付すると言うのだ。こちらは財産権(←大層だこと)を盾に、自転車を返還する義務を説明したが、向こうは市条例を盾に譲らない。そろそろラチが開かないと判断した私は、条件付きでカネを払うことにした。まぁ、それだったら最初から払えばいいのだけど、ちょっとモメないと、気持ちが収まらないのね(笑)

まず、自転車の撤去業務はシルバー人材センターとか言う感じの財団法人に委託されていることが判明。それだけでも、ばっちぃ天下りの香りが漂ってくる。本当に1500円は正しく使われているのか、疑問も浮上してくるところだ。ちなみに、原付の場合は2500円。同じ場所でちょっと重たいものを移動すれば、1000円増しなのか、これも理解できない。どういう単価計算をしてるんや?

そこで、市役所のおっさんに1500円の算定根拠と使い道を明かすように求めた。すると、それは財務課の仕事なので、分からないというのだが、自転車の撤去の経費以外のところにも使われているようだ。財務課の担当者は昼休みで電話に出れないと言う。サービス業の観点から言うと、一般企業では通用せんぞ、それ。まぁ、昼休みの無い企業も問題なのは事実だけど、市役所にお勤めの方々は、昼休みだけはちゃんと取るらしい。

仕方が無いので、自宅の電話番号を伝え、後で電話を入れるようにと伝えた。本当に電話が来るのか、楽しみである。が、いま考えると、これから仕事やった... 留守録は流石に失礼だ、悪いことしたなぁ。

文を読み直した限りでは、ただの暇つぶしと言うか、八つ当たりね。って、ケンカしに行ったわけじゃなくて、現場のジジィとは仲良くなって帰ったんだけどね。たまにはこういうモメ事も大好きなの(悪魔)



自転車
1997年7月24日(木曜日) 晴れ

7月11日の一言に自転車を盗まれたことを書いた。

仕方が無いから新しいのを買おうか、なんて思ってた最中のこと。先日、枚方市の放置自転車保管所からご丁寧にも葉書を頂いた。それによると、私の自転車は放置されていて、移動して預かってるので取りに来いということ。駐輪場の自転車は移動されることはないだろうし、今ごろ葉書が届いたことから考えると、どこかで乗り捨てられてたと考えるのが自然かもしれない。

枚方市の保管所は田口(地名)にあって、そこはこの上なく不便な場所。クルマで取りに行けば良いのだが、そのクルマもないので、行きはバスか何かで向かうことになる。さらに、帰りはこのクソ暑いなか、家まで1時間近く乗って帰らなくてはならない。

ついでに、返還に際しては、移動・保管料の1500円が必要だと言う。盗みの被害者であると言うのに、1500円も取られるのか。納得が行かない。もちろん、枚方市には関係の無い話なのだが、放置をしていない私にも全く関係の無い話である。従って、そんな金は払いたくない。

そこで、理論的に払わない方法はあるのかと考えてみた。理論的というのは、泣き落としとか、そういうの以外と言う意味で。市の条例にはどう書かれているのかは知らないにで、適当に筋書きを立ててみる。

まず、所有者が自転車を返せと現れたのだから、市は自転車を返還する義務があるはずである。しかし、私に移動保管料を払う義務まではあるのだろうか? もしも移動された場合は払う、などと約束したことは無い。従って、払わなくても良い、となるか? 無茶苦茶な理屈だが、これでゴネてみるつもり。八つ当たりの意もあったりして(笑)

で、その保管所にいるのは70ぐらいのジジィ数名である(確認済)。そのジジィに理屈を言っても通らないのは想像できるから、その辺は考えなくてはならない。自転車は返せというが、金は払わんという人間が現れた場合の対応マニュアルは用意されているのだろうか。役所のことだろうから、そんな器用なことはしてないと思うんだけど。

小心者の私がどこまで勝てるかなぁ。ちょっと反論されたら払ってしまうかもしれない(笑)

しかし、この自転車の移動事業で無駄な人間を何人も雇っているのも事実。放置自転車を移動して街を綺麗にしようと言う方向は正しいと思う(先にすべきことは他にあると思うが)。が、滅多に人も来ないような保管所に、仕事もしてないジジィを何人も雇う必要はない。移動の現場でも、1つの現場での自転車を移動するのに5人ぐらい使っているのは、理解の範囲を超えている。あほか?



浄水機
1997年7月23日(水曜日) 晴れ

どこで手に入れたのか、オカンが蛇口に取り付ける小型の浄水機を出してきた。取り付けてくれと言うので、つけてみた。道具要らずで、本当に簡単に取り付けられるようになっている。不器用なオバハンでも、それなりに使えるようになっているのか。

その浄水機は東レ製で、中空糸(FEPで出ない)フィルタと活性炭を使ったもの。フィルタ部分は見えるようになっていて、一言で言えば、細い素麺の束のようなものが入っている。こんなもので、本当に水が綺麗になるのか。ちょっと信用できない。

と言うか、私は元々水道の水を信用している方である。蛇口を捻れば水が出るのに、重たいペットボトル入りの水を、わざわざ買ってくるなんてナンセンスとしか思えない。近所に「水道の水は絶対に飲みません」主義の幼稚園があるのだが、テレビでその幼稚園が紹介されてた時には、水道水はまるで汚染されてるかのように園児は教育されていた。大阪の水は不味いが、不味い水をそのまま飲んだぐらいでは死にはしないハズ。人間、そんなヤワじゃない(笑)

やっぱりというか、浄水した水と、原水とを飲み比べてみた。カルキの臭いは減っているようにも思うが、気持ちの問題のような気もする。



色々とあった一日
1997年7月22日(火曜日) 晴れ

今日は久々に色々とあった一日だった。朝は、某工大をお邪魔してちょっとした実験をさせて頂いた(後日WEBの突撃実験室報告予定)。昼飯を食ったあと、学校へ行って音楽部のバンドに文句?を付けに遊びに行く。初めて行った割には、あーだーこーだと批評。中音が多いとか、高音が少ないとか、スペアナ?みたいなことをしてたっけ。

全然関係無いけど、こちらのサイトでは、色んな電子機器をバラしている。さらに、独自の理論?による解説も面白く、私も中毒患者の一人だ。ちなみに、うちの実験室でも参考にさせて頂いているサイトの一つである。

そう言えば、私も色んなものをバラしてきた。記憶に残る最古のバラシは小学校2年ぐらいのときだったかなぁ。何故か鮮明に覚えてるのだが、被害者第一号は目覚まし時計だった。もちろん、本当にバラバラになってしまい、二度と時計として機能することはなくなったのだが。

そんな感じで様々な機器が形を失ったわけだが、いま思えばかなり壊してるな。しかし、次第にバラシのノウハウも培われて、今では複雑なものでも、まず元どおりに復元するが。組み立ててから、ネジが一本余ってる。どこのネジや〜、みたいな時はあったりして(笑)



二酸化炭素
1997年7月21日(月曜日) 晴れ

ビールの美味しい季節だ。が、極端に弱い私は一口飲んだだけでも真っ赤になってしい、どちらかと言うとビールは苦手。そういう人のためにあるのか、アサヒのREDSと言う赤いビールはあっさりとしてて、比較的飲みやすい。けど、酔うことには変わりはない :-)

あ、未成年者がビールの批評をやってては行けないので、話を変える。ビールには炭酸が含まれているのはどなたもご存知の通り。ビールは後から炭酸を封入しているわけではなく、麦芽の発酵の時に自然と出る炭酸ガスを閉じ込めているだけだそうだ。つまり、発酵という過程では大量の二酸化炭素が発生するというわけ。

発酵で作られているものは多い。多くの食品や調味料を初め、医薬品なども発酵で作られるものがある。例えば、「味の素」が一般名称となったl−グルタミン酸ナトリウムは、サトウキビのカスを発酵させることで作られている。化学合成もできそうなものだが、d体とl体が同量できてしまい、味がしなくなる。(美味しいのはl体だけ)

最近、工業活動などで排出される二酸化炭素が問題になっている。一般的に二酸化炭素と言えば、工場の煙突やら自動車の排ガスを思い浮かべるかもしれない。しかし、こう何でもかんでも発酵してると、その際に発生する二酸化炭素の量も相当なものだと思うのだが。



睡眠不足
1997年7月20日(日曜日) くもりのち晴れ

睡眠不足でラリっているところ。

ここ暫くは非常に規則的な生活をしていて、朝6時頃に床に就いて、昼の2時頃に起きる生活リズム。変?だけど、これを維持してるからそれはそれで規則的だと言える。

しかし、昨日は昼から学校があったので10時起きだった。こういうことがあると、生活のリズムが乱れてしまうのだ。朝6時に寝ても、4時間しか寝られないんでしょ、昨日は眠たくて眠たくて。この日はちゃんと起きれたけど...

その晩は取り敢えず早く寝ようと思って夜は0時頃に寝たのだが、2時ごろ目が覚める。う〜、今度は9時に起きなければと思えば思うほど寝付けなくなり、結局ウトウトしてると、やっぱり6時ぐらい。そこから本格的に寝てしまい、気付けば朝の10時で寝坊(^^; とある待ち合わせに少々遅れてしまった。

こんな日に限って何故かハードスケジュール。今日こそちゃんと寝ます〜



世間2
1997年7月19日(土曜日) 晴れ

世間について考えて見る。

社会でも個人でもない「世間」という概念は私もよく分からない。何を指して世間というのか。近所付き合い、学校や職場、あるいは、日本全体のことか? 思えばどれも世間として当てはまるように思える。規模や範囲も定かでは無い無常な世間、お前は一体何者じゃ。

言わずと知れた神戸の例の事件では、容疑者の少年の本名やら保護者の勤務先などは、マスメディアを介すことなく、すぐに伝わったように思える(FOCUSなんかもあるんだろうけど)。で、親にはある程度の責任があるとしても、兄弟などは関係ないはず。しかし、身内に罪人が出れば、兄弟までもが後ろ指を差されて一生を過ごすことを強いられるというのは良く聞く話だ。世間という概念がそのような状況を生み出していると思うと、非常に腹立たしく思える。

これは一例としても、世間というものは、合理的な理由はなくても、その世間を構成する人間に、場合によっては非常に冷たく当たるものなんだと思う。日本でよく人権やら差別という問題が議論される。しかし、「世間」という概念が根強く残っている社会では、これを分離してそのようなことを解決することはできないはず。いくら法による人権がどうのこうのと言っても、それを容赦なく否定する存在なのだから。

でもまぁ、まずは世間の解体から始めないといけないと考えると、このような社会での真の意味での人権は遠い夢なんだろうね。

睡眠不足で歯切れの悪い文章。この辺で切っておきます。



番外編(笑)
1997年7月19日(土曜日) 晴れ

本家には書いてないので、番外編として扱う(笑)

日経NETN@VIのBookmarksとか言う雑誌に「突撃実験室」の紹介が載った。PHSでBBS開局の妖しさ?が買われたらしく、それの紹介が載ってた。ここからもリンクを張ってる主要なPHS関係のサイトと同じ場所にあったしね。

雑誌紹介とは言っても、適当に2000サイトも載せているようなのでは人はこないだろうなぁ。1680円と値段も高いし、だれが買うんだろう? 記念に一冊欲しかったが、財布を考えるとやっぱりやめた。んでも、ちょいと嬉しい :-)



世間1
1997年7月18日(金曜日) 晴れ

弟が「東京大学物語」と言うマンガを借りてきたので少し読ませて頂いた。最初は健全な青春モノとして始まるのだが、途中からはまるでエロ漫画を思わせるような、ややお下劣な内容に方針転換すると言う、変な展開の作品だ。主人公は高校生で東大の文1志望。非常に理屈っぽい人間像になっている。ちなみに、文1は俗に言う法学部ね。

それとこれとは余り関係ないと思うのだが、理屈っぽい奴は嫌われるらしい。何故なんだろうか、理に適ってるということは、素晴らしいことだと思う。少なくとも、理に適わないことが、平気でまかり通るような社会よりは、一定の理屈で善悪を判断する方がフェアだろう。その辺が法治国家の概念であろうし、日本でもそうなりつつあるのではないかと思う。

ガキの頃、怒られたりすると理屈をこねる。しかし、大抵は「屁理屈いいなさんな」ぐらいで片付けられる。私は相当なワルだったから、小さい頃は毎日のように、あらゆる人間に叱られたが、その中でも強く印象に残ってるのは、絶対に向こうが間違ってたもの。ガキだった私にも、何が理屈として正しくて、そうでないかぐらいは理解できた。

それと法治国家とはあまり関係のないことかも知れない。ひょっとしたら全然関係のないことかも知れない。しかし、昔、いつか偉い人?が「理屈でフェア」の精神が日本の社会に持ってきたときも、個人の考え方までは変わらなかったはず。社会の仕組みはフェアなもので、個人の考えは「ムラ社会」の理屈は禁物的な考えを引きずってるんじゃないかな? この辺は私も良く分からないけど。

「屁理屈を〜」には「そんな言い訳は世間にな通用しない」なんて感じの言葉が続く場合もある。日本には「世間」と言う概念があるのだ。個人でもなければ社会でもない、世間というもの。現在の世間というものは、個人と社会の意識のずれの狭間に、人目をしのんで密かに存在しているんだと思う。



世のおじさん達
1997年7月17日(木曜日) どしゃ降りの雨+雷

電車通学してると、人間観察は暇つぶしにちょうど良い。普段は文庫本を読んでいることが多いのだが、眠たい時などは本を読む気が起こらないので、ボーとしてるか、人間観察に走るわけだ。

ダークスーツに身をくるめたおじさん達。没個性的で、何にしろ、このくそ暑い時には、夏用のスーツと言っても、暑いんだろうね。暑がりの私としては、「お勤めご苦労さま」を通り越して「異様」に見えてしまう。もちろん、これは悪いわけでも何でもない。個人的にすごく異様に見えるだけ。

そんな中、見てて興味深いのが上司と部下と思われる関係。上司と思われる人は割と感じの良さそうな方。部下であろう人はペコリペコリと、腰が低い。そこへ気色の悪い笑顔面をニコニコとさせている感じの人。なんだか知らないけど、あの笑顔は本当に気持ち悪かった。

その二人、切符のことで車掌さんと何かもめはじめた。部下の方が立ち、車掌室へと動く。先ほどの謙虚?な態度は掌を返すように無くなり、偉そうになる部下の人。別人のように車掌と言い合う。話が終わった途端、また元の部下さんに。上司の前ではペコペコ。関係の無い人には偉そうに。見苦しいね、こういう人。



学校の問題点3
1997年7月16日(水曜日) はれ時々くもり

お詫びその1:先日の今日の一言に変な文字が混じってました。本家の書き込みがくっついてた模様。(よりにもよって変な内容)

お詫びその2:昨日は休むつもりはなかったんですが、家のPCがダウンしてしまいまして。すみませんでした。


学校と同時に不登校も問題になっている。

問題を解決するには原因を探らなければならない。しかし、不登校の人間すらも、なぜ学校に行きたくないか分からない場合が多いという。私もそうだったから、間違いない :-) 不登校が発生する原因は学校のシステムにあるとしても、そのシステムを変えるのは容易ではなく、時間がかかる。そこで、短期的な措置も必要だと思う。

理由もなく、学校を休むと気まずい。そこで適当な理由を考えておくわけだが、それも毎日続かない。すると、だんだんと休むことへの罪悪感が出てきて、これがストレスとなる。同時に、学校から出てこいと催促みたいなのが来るので、余計にストレスが増す。

行きたくない−来いと言われる−行かないといけない−でも行きたくない。この構図が悪循環となり、もっとも悪いんだと思うのだ。学生は毎日学校へ行ってればそれで良いという考え方は捨てて、休むことへの理解も必要であろう。

それと、不登校は怠けではない。不登校の人間が空いた時間にアルバイトなんかをやってみると、マジメに働くなんて場合も多い。学校に行ってる人間でも、使えない奴がいかに多いかを考えると、決して怠けではないはず。



学校の問題点2
1997年7月14日(月曜日) くもり時々はれ

高校にもなると、「生徒指導部」や「生活指導部」、またはそれに相当する部署(と言うのだろうか?)を設けている学校が多い。名称に若干の違いがあり、それがどう違うのかはわからない。ここでは、生徒の生活上の行いを指導する部署として扱う。

で、それらは最も廃止されるべき部署の一つである。

「生活上の行いの指導」は簡単に言うと「しつけ」というものだ。それは親がするべきことで、学校がやるべき事では無い。親が出来ないのであれば、それは仕方が無い。とにもかくにも、学校が手を出すべきことではないのだ。大体、私生活についてボケな教師に介入されたくないのが本意。一言で言えば、「公私混同」か。

と、個人的に廃止案?を考えていたら、現に廃止したり、廃止を考えている学校もあるそうだ。一種の権威主義+公私混同からの脱出の第一歩として、正しい方向だと思う。



学校の問題点1
1997年7月13日(日曜日) くもり

「学校の先生は塾の先生ではない」

当たり前のことなんだけど、須磨の事件なども関連して、最近言われている教育の問題の根本はこの一文にあると思うのだ。学校の教育が悪いと教師を責めるのは筋違い。まぁ、ダメ教師なんてものはどこにでもいるんだけど、やっぱり問題はシステム的なことでしょ。

私の知る小中学校や高校の教師は忙しい、大変な商売だと思う。授業はもちろん、事務やら電話番やらの雑用から人生相談やしつけまで受け持っていると考えると、ちょっと無理がある。こんなシステムは改善されるべきだろう。

学校に電話をかけると、電話を取るのは大抵教員だし、生徒の(つまらない)生活指導をしているのも教員。さらに、カウンセリングのプロでもないのに、教員が生徒の人生相談をやってるのは何故なのか。学校の教師も、ただ授業をやるだけの、塾の教師と同じで良いのだ。

事務は事務員がやれば良い。居ないわけではないんだからね。また、カウンセリングはカウンセリング専門の人間がやれば良いこと。大体、こんなことは経験の無い人間がマトモにできることとは思わない。しかし、カウンセラーの居る学校は少ないそうで、これは各学校に一人以上置くべきだと思う。USなんかでは、専門の人がいる場合が多い。

つまり、教師は授業以外は能が無いという認識を持つこと。酷い言い方だけど、ある程度大きい組織では完全分業制って大事だと思うしね。専門的なことは専門家に任すことも当然だと思うし。

予算も問題? 田舎の誰も通らないような道路に誰も使わないトンネルを掘る金や、行動力の無い自衛隊を作る金があったらねぇ(苦笑)



連絡運
1997年7月12日(土曜日) 雨雨雨雨

普段学校へ行く時は電車一本なので、特殊なことがない限り遅れることは無い。しかし、今日みたいに何本か乗り継ぐときは連絡の善し悪しでかなり変わってくる。

乗り換え2回、所用時間1時間ぐらいのところでも、一つ間違えると15分ぐらい変わってきたりする。待ってくれーーと思ったらドアが閉まったということが朝に一度あると、その日は何度も続くもの。それを私は「ケツを見たモード」と呼んでいる。電車が去っていき、電車のケツを見てしまうからだ。今日は重度のケツを見たモードで、本当にまいった。

この時期、電車が発車する寸前であっても、走る気が起こらない。まぁ次の電車を待てば良いかという気もあるのだが、何しろ暑い。走っただけで汗が出てくるような日は、ゆっくりと歩くのが一番だ。階段なんかを駆け上がると、しんどいよねぇ。



ネタがない :-)
1997年7月11日(金曜日) 今日も雨じゃのぉ

ネタが無い。ネタが無い日は「ネタが無いネタ」が一番(笑)

今日みたいに雨が降ってて、期末テストとやらで朝から鬱陶しくて、さらに先日自転車を盗まれたときたら、段々と書く気分なんて薄れてくるのだ。あー、そうそう。そういえば自転車が盗まれた。

実は数ヶ月前にボロい自転車を盗まれたので、最近新しいのを買ったのだ。ボロいのを盗まれるぐらいなら買い換えぐらいの気持ちで諦めも付くが、まだほとんど新品。それを盗まれたんだから、かなり頭に来ている。犯人が分かれば適当な拷問にでもかけたうえ、叩き殺してやるのに、そうも行かないから余計に殺意が溜まる(笑)

ちゃんと鍵もかけておいて、無料のところだけど駐輪場に入れておいたのにねぇ。それでも盗む奴がいるから困ってしまう。前フォークに着いている普通の鍵だからいけないのかな? あの鍵の構造なんてチャチなもんで、ちょっと工夫すればすぐに外せてしまうようだ。本当ならば、U字型の太い鍵をとかでも付けたいところなんだけどね。割と邪魔なのよね、ああいうのも。

ネタが無いとか言いながら、結構書いてたりして :-)



エレベータ
1997年7月10日(木曜日) 雨(うっとうしい)

学校は地下1階、地上8階建てのビルなので、エレベータが2基設置してある。(設置しないといけないことになってる)

普段の何も無い時は2基で十分さばけるのだが、昼休みなど、人が一斉に移動するときはおもいっきり過負荷になるのだ。簡単に言えば各駅停車仕様になってしまうので、階段の方が早い場合もあったりする。

しかし、よく観察してみると、誰も乗り降りしない階にもエレベータが止る場合がよくある。間違った階のボタンを押してしまう場合もあるだろうし、気が変わる場合もあるだろうし、いたずらで各駅停車仕様しる私のような馬鹿もいるだろうし。とにかく、これで効率が非常に悪くなるのだ。

そこで、階のボタンや各階にある上下のボタンに「取り消し機能」なんてものを付けられないものだろうか? つまり、間違った階のボタンを押しても、もう一度押したら取り消しできるようにするのだ。あれば便利だろうし、構造的にも別に難しくないと思うのだが、いままでそのようなエレベータは見たことがない。

ちょっとしたアイデアで混雑時の効率が上がると思うんだよね。



取り調べ
1997年7月9日(水曜日) 雨のちくもり

今日は何の日、ふっふっ〜 といえば、おもいっきりテレビか。毎日何が健康的で何がそうでないのか、よくネタが尽きないものだと脱帽するぐらい。俺様のように生きるのが最も健康的だと、限りなく傲慢に生きるのがくぬぎ式健康法なのだ :-)

1958年の今日7月9日、徳島ラジオ商事件の故富士茂子被告に刑事事件初の死後再審で無罪判決が出たそうだ。私は1979年生まれだから、そんな事件があったことすら知らなかったが、取り敢えず取り調べや刑務所について取り上げてみるのだ。

はけぇ〜〜こらぁ、お前がやったのはわかってんだよ、おい、え?
まぁいいわ、タバコ吸うか? あーそうだ、カツ丼でも食うかぁ?

なんて書いたら刑事ドラマの見過ぎだと笑われてしまいそうだ。けど、社会勉強がてらに、一度ホンモノの取り調べを受けてみたいという気はあったりする。警察の取り調べの問題点などは、その筋の暴露本のようなものである程度読んだことがある。が、それがどこまで事実なのかは分からないし、ひょっとすればそれ以上のことが行われているかも知れない。カツ丼を奢ってくれるのか、国家権力の真の恐ろしさを植え付けられるのか、非常に興味のあるところである。

こうやって私の興味をそそるのは、情報が乏しいからであり、全裸より半裸の方が性欲をそそるという、チラリズムの論理と同じであると思う(笑) 何度もそのものを見ていれば、そんな関心はなくなるものである。

また、監獄人権センターという偶然見付けた団体によると、その閉鎖性が人権侵害を生むと指摘する。刑事施設には公式な秘密主義があり、監獄について議論しようにも、議論のために使えるな情報が得られないそうだ。最近、神戸須磨の某事件で容疑者・被告の人権が問題になったりしているが、やっぱり根本にあるのは行政の閉鎖性なのだろう。

あれ〜、今日はうまく纏まらん。というわけで、おしまい。



国語辞典を考える
1997年7月8日(火曜日) くもり時々雨

ウチでは岩波の国語辞典の第五版を使っている。国語辞典なんてどれでも一緒だーと思って即決で買ったのだが、最近ある人にそうでもないと教えてもらった。んな訳で、ベンチマークテスト(笑)

調べる語群その1は数字。「零」を説明せよ、なんて言われても難しい。零についてだけで1冊の本が書けるぐらいのものだ。還元主義の現代科学?では難しいことはより簡単なことに分解していって、簡単にできるようだ。逆に簡単すぎることが一番難解と言える。

1.零・それを他の数に加えても値に変わりがないと言う性質を持つ数。(中略)また、物が全くないこと。ゼロ。
2.一・自然数の最初の数。零の次の整数。
3.二・一に一を加えた数。
4.五・十の半分。片手の指の数。

という感じ。零と一はまあまあ納得できるとして、二〜四までは一つ前の整数に一を加える形で説明されている。で、五は十の半分。結局なんだったのかなと、どうも納得できないのは私だけか?

次は独断と偏見で以下の語を選んだ。長いものは、最初の一文のみ。

1.猫・古くから人間の愛玩用として、また、ねずみを捕らせるなどのために、飼い親しむ、ねこ科のけだもの。
2.男・人間の性別の一つで、女でない方。男子。
3.女・人間の性別の一つで、子を産みうる身体の構造になっている方。男でない人。女子。

猫は個人的に好きなので選んだが、簡単な解説をつけるとなるとやや難しいと思う。「けだもの」とされているところは、あまりいい印象を持てない。ほか、男女も調べてみた。女は子を産みうる身体の構造になってて、男はそうでない方という感じの解説方法だ。

しかし、男の特徴的な点が書かれてないのはちょっと寂しい。子を産むのは女性だけだが、子を作るのには男性の力も同等の必要性を持っているのではないだろうか。子を産むという点よりも、子を作ると言う点に注目した方が、男女平等を歌っている時代には相応しいかなと言う気もする。

すごくどっちでもいいことだったりして。



広島とヒロシマ
1997年7月7日(月曜日) 雨のちくもり

こちらのページの作成に協力して、2年が経とうとしている。戦後50年と言うことで、広島についてのページを作ることになり、広島へ写真撮影などに行った。
今はもう辞めた学校で私はあまり関係はないのだが、こちらのページに関するメールは、今となっても私の所に時々届く。その中で、何故に広島を「ヒロシマ」と片仮名で表記するのかと言うご質問を頂いた。そう言えば、そうだ。

希望のヒロシマ -市長はうったえる- (平岡 敬著、岩波新書)という広島市長の著書のタイトルも片仮名表記である。平岡氏は1991年に広島市長に就任された方で、平和の訴えなどからご存知の方も多い筈だ。以下は同書の前書きからの引用だ。

“あの日”以来、広島は二つの顔を持つことになった。
一つは中国地方の政治経済の中心として発展している人口百十万の近代都市「広島」であり、もう一つは第二次世界大戦の悲劇の象徴、核時代の平和運動の原点となった「ヒロシマ」である。
…中略…
広島のもつこの二面性は、広島市長の二つの顔でもある。地方自治体の首長としての「広島」市長と、被爆の歴史を背負って世界に世界に平和を訴える「ヒロシマ」市長である。

つまり、漢字の「広島」は行政区画であり、「ヒロシマ」と片仮名で書いた場合は世界へのメッセージを込めた、別の意味を持つ単語になるようだ。「ノーモアヒロシマ (No more Hiroshima)」なんて言い方もするぐらいだから、世界(これでは英語圏だけだけど)へ訴えたいという意味合いを持つ言葉なのだろう。長崎も「ナガサキ」と書くようだ。

ちなみに最近まで被曝と被爆の違いを知らなかった。「被曝」が一般的に放射線さらされること、「被爆」は特に原水爆による「被曝」を言うそうですねぇ。




1997年7月6日(日曜日) 晴れ。暑すぎる。

だいぶん伸びていた髪をバッサリ切った。なんで伸ばしてたのだ、と聞かれても自分でも全く不明なのだが、少し考えてみる。

中学の時ぐらいまでは割と短く切ってたのを覚えている。が、高校に入ってからは色々と忙しくて、床屋にあまりいってなかったのだ。そするうちに髪が伸びてきたのだが、ここからが重要。長髪はやめろー、切れー、などといちいちうるさいボケ教師がいたのだ。切れといわれれば、敢えて切らないのが挑戦的(笑)な奴のすること。それでかなり伸びてしまった。(その学校は辞めた)

それから伸ばす癖?がついてしまったて、ツレが伸ばせーなどと言うものだからついつい長くなってしまた。しかし、頭を洗うのがすごく面倒だったので、後ろの髪だけ置いといて、前は切ったのだ。つまり、何年も前に少しだけ流行った?ウルフな感じに(爆)

しかし、夏休みに飲食関係の仕事をやることになったのをきっかけに全部切ることにし、バッサリいった。泣きながら断髪式、なんてことはしていないので、念の為..

別にバンドやってるわけでもないし。髪型を気にする奴でもないし。伸ばしても仕方がないんだけどね。上司の人に「社会への反抗でしょ」という感じのことを言われたけど、そんなところかな?



今日の一言の傾向と対策
1997年7月4日(金曜日) 晴れ、それも暑い

1997年5月18日の一言にも書きましたが、何故こんなものを書いているのか、少し考え直してみたいと思います。

漠然とした考えを明文化し、形の無い思想に形を与えようとするのが私が「今日の一言」を書く私の目的です。書いたら書きっぱなしと言うわけではなくて、ホストに転送してからも、自分で書いた文を何度も読み直し、自己採点するようにしています。そうすることによって、自分をもう一度見詰め直せるのではないか、という方針です。

思想と言うものは漠然としていて、本人も掴みにくいものだと思っています。明文化したものを、だれか他の人が書いた意見と同じレベルで読めば、いかに自分の考えが歪んでいるか、あるいは正しいかなどを評価することができるのではないかと、最近思えるようになりました。さらには、文を公開することによって他人の意見も頂けるだろうし、話題の種にでもなれば一石二鳥だろうとも思っています。

文に批判的な内容が多いのは自分でも反省すべき点だと考えています。それは、個人的な意見なのですが、地球上で起こる9割の事象は何らかの形で気に食わないから。まぁどう言うんでしょうかね、日々募る社会への不満もここに色々と現れてしまうんでしょか。それと、何かを肯定する文よりも、何かを批判する文の方が100倍書きやすいからというのもあると思います。

ですが、それも度が過ぎるとあまり良くないと思っています。「何が悪いか」を論じるのも、真理を求める(?) うえでは非常な重要なこと思っています。しかし、「何が良いか」を同時に論じなければ、最後には何も残らなくなってしまような気がします。そんなわけで、今後はプラス思考な文(?) も書いてみたいと思っていたりします。

文をネットワークなどを通じて公開すると、当然ですが不特定多数の人が読むことになります。すると、変な配慮をしてしまいたくなる場合もあるのですが、本音で書くようにしています。中には、読んで不愉快な思いをする文を書いてしまうようなこともあるかも知れませんけどね。んなこと知るかー、で片づけてしまおうか :-)



電車
1997年7月3日(木曜日) はれ時々うすぐもり

最近、すごく熱くなった。今日も天気が良くて真夏日と言う感じだ。

このごろは紫外線の問題のこともあるのか、日傘をさしている人も多くなった。個人的な観念なのだが、日傘は少しお年を召したご婦人のものだと思っていた。しかし、若い方もよく日傘を使ってたりして、昔もそうだったかなと考えてしまう。前はどうだったんだろう。


この時期に電車に乗ると「弱冷房車」なんてものが連結されている。暑い日に駅まで歩いていき、汗だくになっている時はキンキンに冷えた電車を期待する。が、偶然前に止った車両が「弱冷房」だったりすると期待を裏切られた気分だ。他の車両へ移れば良いのだが、混んでたりするとそうも行かない。さらに、混雑が余計に蒸し暑くする。

また、弱冷車は冷房が苦手な人のためにあるのだろう。そんな方が偶然乗った車両が弱冷房以外の場合もあるだろうから、その逆も考えられる。これでは、あまり弱冷房の意味を成さない。

そこで、特急列車などである「禁煙車」とか「グリーン車」などと同じように、乗車位置などに「弱冷房車」と言う感じに案内を書いておけばかなり親切だと思うのだ。冷房が苦手な人ならば、予めそこへ並べばいいのだし、冷えた電車を期待している人はそれ以外の場所で並んでおけば間違いはない。夏季限定だから、ちょっと難しいかな?

個人的には、「強冷房車」なんてものがあると、尚嬉しい(笑)



喫煙
1997年7月2日(水曜日) 雨

最近、学校で未成年者の喫煙が問題になっているようだ。タバコぐらい、吸殻をちゃんと処理しておけば個人の勝手じゃないかと思うのだが、他にネタがないので取り上げる。

まず、それに関する勧告文?をみつけたので抜粋する。

〜タバコを吸う吸わないは自分の健康にかかわることで、他人に迷惑をかけているわけではない。だから本人が決めればいいんだと考えている人は多いと聞きます〜

とある。そのとおり、私もその考え方である。だが、

しかし、世間は高校生がタバコを吸うことを、それほど大目に見てくれません。学校の前で、大勢吸っていれば、それを見た人たちは次々に話します。そしてその話が、輪をかけたようにしだいに大きくなっていくのは自然の成り行きです。たとえば、(中略)「タバコの取り締まりもできない大変な高校じゃないか」となったりします〜

とある。なるほど、それも理解できる。つまり、世間体が気になって仕方が無いから、タバコは吸ってはならないと言うのが学校側の概ねの言い分らしい。世間の評価もあるし、就職のこともあるし、これから入ってくる生徒のこともあるし、そういう風に考えていったらどうしても「世間体万能主義」になってしまうのも無理はない。

しかし、問題の根本はそんなことではないはずだ。健康や法的な問題から説明するのが最も論理的だろうが、普通の人は法律なんていちいち気にしないだろうし、健康云々は「俺様の勝手だ」で片づけられる。ましてや、世間体なんて気にしない人は絶対に気にしないだろう。本当に喫煙はやめて欲しいと願うのであれば、なぜ喫煙するのかという根本から考え、原因を元から絶たなければならないと思うのだ。

世間の目が気になるから、というような中途半端な目的であれば、目くじらたててまで喫煙を取り締まる教育的必然性なんて見えてこない。さらには、その世間体を気にして、イジメや行き過ぎた体罰が闇に葬られた、というようなことも言われている。それは人の命にも関わる問題でもあり、そうであってはならない。

日本式の「世間体を気にして臭いものに蓋」も程々にしないと、そういう問題の根本はいくら頑張っても解決しないはずだ。時代に逆行した、こういう勧告文を平気で配布する意識こそ大いに問題がある思うのだが、その考え方は間違っているのだろうか。

そんなわけで、ご意見ご感想、お待ちしています。



時代
1997年7月1日(火曜日) うすぐもり

〜まわるまわるよ 時代は回る(中島みゆき)

なんてネタは前に使ったかな? 覚えてないけど、ずばり時代と言うのはそういうものなのだろう。今日から7月、いつかお節料理を食ったかなと思えばもう今年も半分終わったんだなと、月の初めには月日の流れの速さを、ついつい感じてしまう。

香港返還も大きなニュースなんだが、今日は青春18ねっとわぁくの1周年記念の日。私は飽きっぽい性格で、新しいことに魅力を引かれてしまい、古いことが続かないことが多い。ネットもすぐにやめてしまうかも知れないと思ってたが、とりあえず続いているのには自分でもちょっと驚いてしまう。

思えば、この1年、色々とあったから。

〜今日はくよくよしないで 今日の風にふかれましょう

そうなのだ。例外もあるだろうが、過去よりも今日が大事だと思うのだ。思い悩むことと言うのは過去の出来事によるもの。今日は今日、昨日は昨日。そうやって割り切れる人間はいいのだが、私の場合はなかなかそうも行かない。やっぱり、という冠詞が付いて、過去のことを色々と分析、考えてしまう。

そんな奴はそんな奴で、「忘れる」と言う技術を身に付ければいいのだろう。取り敢えず忘れりゃ、悩む要素も消えてなくなる。忘れると行っても、大げさなことではいけない。飯食って寝たら忘れた、クソといっしょに便所に流した、ぐらいの日常的な忘れ方が身に付いてれば良いのにね。だが、私は訓練中である。

そんなわけで。

〜めぐるめぐるよ 時代は巡る

時代が巡れば、新しい情報は増える。その情報は古い情報が格納されている脳のどこかを上書きする。上書きされれば、古いことは、ある程度忘れられるのだろう。それが「忘れる」ことのメカニズムなんだと思う。そのメカニズムをフルに活用すべく、今年が終わるまでに、また何か新しいことを見つけようっと。