今日の一言(1997年10月分)




長すぎる駅名を考える
1997年10月31日(金曜日) くもり/あめ

ここで何度か登場している大阪市交通局には、いつもお世話になっている。そんな交通局も、地下鉄の路線を延ばしたりなどして頑張っている。だけど、最近ちょっと気になることが一つ。それは、駅名が長すぎるのだ。なんでそんなに長い駅名が必要なのか、理解に苦しむ。そもそも、駅名なんてものは、最長4文字程度で、その駅がどこら辺にあるのかを簡単に判別できる名称、つまり地名が良いはずなのだ。

だけど、「鶴見緑地線」が延長されたとき、路線名が「長堀鶴見緑地線」に変更された。これは長い。主に長堀通りの地下を通ってるんだから、「長堀線」でも十分じゃないのか。そして延長に伴って新設された一部の駅には、妙に長ったらしい名前がつけられた。「大阪ビジネスパーク」と「大阪ドーム前千代崎」が長い駅名である。

前者は、「OBP」と略されることが多い。だけど、その場所の地名をつければ良いことだと思うね、例えば「片町」とか。また後者も、普通に「千代崎」だけではいけないのか。千代崎は昔からあった地名だし、わざわざ取って付けたように大阪ドームの前にあることを強調しなくても、大阪ドームは駅前から逃げたりなんてしない。

そして、既存の駅名も変更された。谷町線の「四天王寺前」は、最近「四天王寺前夕陽丘」と、余計な3文字が付加された。何も、変更する必要なんか無かったと思う。仮に寺の名称が駅名になるのが不都合なんだったら、「夕陽丘」に変えてしまうのが正しいと思う。別々の名称を無理にでも繋げたみたいで、長いし、うっとうしい。

これから新設されようとしてる路線名にも、妙に長ったらしいものが多い。それが、「OTS北港テクノポート線」だったか、記憶に頼って書いているので、詳しい名前を思い出せないが、そんな感じの路線名だ。つまり、覚えられないぐらい長い名前なのだ。同路線に新設される予定の駅も「コスモスクエア」だったか、カタカナで、何となく覚えにくい名称だったと記憶している。

駅名をより具体化するのは、土地に詳しくない利用者にとって分かりやすくなるとい意見もあるかも知れない。だけれど、大阪ドーム前千代崎駅を利用する乗客が、みんな大阪ドームに行くのかと言うと、そんなことないはずだ。駅名なんてものは、覚え易く、ゴロが良く、汎用的であることが重要だと思うのだ。地名をそのまま駅名にするのはとても良いことだと思う。既に知っている人が多いから、覚えてもらう必要も無い。ゴロが良い場合が多いし、極めて汎用的だ。

また、長い名前がいけないのは、大阪人の人間性にも相応しくない。大阪人は長い名称は嫌うらしく、地下鉄の駅名である「天神橋筋六丁目」も、「てんろく」と略されてたり、「谷町九丁目」も「たにきゅう」と略されてたりと、長い駅名はどうせ短くされてしまうのだ。やっぱり駅名は簡潔に保とう>大阪市交通局殿。



続・ちびくろさんぼ
1997年10月30日(木曜日) くもり/あめ

10月21日の一言で、絵本「ちびくろさんぼ」が1988年に絶版になり、最近また話が浮上したので、その問題点について書いた。しかし、この問題への関心の高さを反映しているのだろうか、私が書いたことが一方的すぎたのか、(前者であることを願いたいけど)記事の内容についてかなり多くのご意見を頂いた。そういうことで、続編を書くことにした。

前の記事には色々と書いたが、差別的であるとされた出版物は、取り敢えず無かったことにしておけば済むだろうといった甘い考え方を改めなければならない。これが、一番言いたかったことだ。本が無くなくなっても、忘れ去れれても、差別意識は人の心に残るものであるのだから、これは日本人お得意の「臭いものに蓋」である。

なぜ、ちびくろさんぼの内容が、黒人差別を助長するものであっとされたのか。果たして、本当にそうだったのか。どうして、黒人はそれを差別的であると感じたのか、あるいは感じていなかったのか。今の日本人は、どのような意識で黒人という人種を認識しているのか。それ以前に、人種差別の概念自体を知ってる日本人は、どれほどいるのか。そのような議論はあまりされないままの絶版は、短絡的すぎる。

また、「相手が差別と感じれば差別」であり、これを大原則とすべきだ、とのご意見も頂いた。確かに、それは多くの場合、正しいと思う。差別する方はなかなかそれを意識しないものだし、差別される方は、些細なことで傷つくのも事実だと思う。しかし、何事もそれで片付けてしまったのでは、何も解決しないはずだ。

ある人が、差別的な用語とは思ってもいなかった言葉を言ったとしよう。そこで、その言葉を聞いた人が、『お前は、俺を差別している』と主張したとしよう。ここで「相手が差別と感じれば差別」が正しいのであれば、発言者が一方的に悪いということになる。しかし、発言者が、『いや、俺はそんなつもりはなかったぞ』と反論したのでは、埒があかない。『俺は今の言葉でそう感じたんだから、無条件に差別なんだ』などと言い合ったところで、なにが進展するだろうか。

差別したとされた方も、何が差別的だったのかを意識し、必ず考える必要がある。『確かにそうだった、今の言葉は悪かった』と意識すれば、差別は無くなる方向に向かうかも知れない。また、差別されたと感じた方が、『俺は意識過剰になっていて、被害妄想だった』と認識して、問題は解決されるものも知れない。

「黒人差別をなくす会」だったか、そんな感じの団体があったと思うのだが、ちびくろさんぼを絶版に追いつめたのは、その団体だった。その会の活動内容は知らないので詳しいことは書けないが、現状から推測すると、同会がしたことは、前述の例と、何ら変わらないことではなかろうか。



色々なことがあり過ぎた日
1997年10月29日(水曜日) くもり/はれ

ここ数日間、考えさせられるシチュエーションばかりが、悪夢のように積み重なってる。普段から難しいことを考えることは避けている自分に、ちょっとは考えろと、誰かが言っているのか。それとも、普段と同じ出来事について、自分が考え過ぎているだけなのか。

ある程度ならば、整理できると思う。だけど、こう続くと、自分では処理しきれなくなってくる。色々な想いを、心の中で "賽の河原" やってても、いずれは崩壊するだけと言うか。崩れる前に、どこかから整理してやらなければ行けない。人に話したりもしたんだけど、自分の中では考え込むばかりで、変な想いが募るだけ。

今日も本当に色々なことがあり過ぎて、色々と考え過ぎてしまった。
人間の汚れた部分が、少しだけ見えてしまった。
そして自分の弱さも、少しだけ照らし出された気がする。

今日は、ちょっと落ち込んでいる。



子どもの権利条約
1997年10月28日(火曜日) ややくもり

久しぶりに良好な体調で書ける日...

「児童の権利に関する条約」を知らない人でも「子どもの権利条約」と言えばわかると思うが、正式名称は前者の方である。条文はユニセフのサイトにあるが、噛み砕いた要約もあるので、お堅い条文を読みたく無い人でも大丈夫だ。大体、子どもの権利を保護するための条約が、大人でも難解な文のままであること事体がおかしい。子どもの権利条約を題材としたサイトは他にもあるようだが、さすがはユニセフだ。

子どもの権利条約は、基本的人権が子どもにも保障されるべきことを国際的に定めた条約であり、1989年に国連総会で採択され、日本は1994年に、この条約に批准した。具体的に子どもをどう保護するべきかの内容もあるが、本質は「子どもも一人の人間である」ことを言っているものなのではないかと解釈している。子どもであっても一人の人間であることは当たり前だが、現実的にそうなのかどうかは、疑問の多いところだと思う。

特に思想や表現の自由、そんなに大げさなものじゃなくても、子どもが考えを述べる機会は、少なすぎるのではないだろうか。世の中、理に適わないことばかりだ。誰もが、不合理な世の中に一言言いたいと思いながらも、言う機会を与えられずに育ってきたものだと思う。そんな中で、大人の良い訳として生まれた言葉は多々ある。大人が言う、「良い訳をするな」「口答えをするな」とかは、都合の悪いことを突かれた時の対策用語だと言っても差し支えはないはずだ。

どんな場合でも、まずは耳を傾けることのできる人間こそ、良い大人だと思う。だけど、そんな人はどのぐらいいるんだろう。子どもと触れるのが商売であるはずの、学校教員でも少ないと思うしね。いや、そういう地位にある方って、(私の経験上)自分が正しいという妄想が強い場合が多いから、仕方が無いか? だけど、「ガキは黙っとれ」的な考え方が、根強くあるのは改めるべきである。

こんなような問題を取り扱う業界?では、暗黙の了解となっている、「子ども」と書くことについて。「子供」と漢字で書けばいいものを敢えて一部平仮名にするのは、子どもを一人の人間として扱うことを目的としているらしい。子供は、元々「多くの子」という意味があり、個人としては扱ってなかったこと。また、「供」は「人につかえる者」というような意味があるから、おかしいということ。ようするに、子どもは「人間のついで」として扱われてきた用語を改めたものらしい。



落とし物〜
1997年10月27日(月曜日) くもり

昨日の午前零時前、駅の近くで定期入れを拾った。交番へ届けたろうかとも思ったが、時間が時間だったし、交番はやや遠かったのでそれはやめとく。とりあえず家に持って帰り、翌日処理することにした。(そんな時間に帰ると、これ書いてる時間が無いのね...)

中に入っていた定期券は、ちょうどバイトの通勤に使えるものであった。これで交通費が浮く! そのまま頂いてしまおうかとも思ったが、一緒に運転免許証も入っていたので、そうも行かなかった。免許証まで頂いてしまうのはちょっと悪いし、持ち主が分かってるのに、定期券だけを貰うのも良心が痛むしね(そんなものあったの?)。

翌朝交番へ行くと、私服のオネーチャンと、制服の非常に愛想の悪い巡査がいた。当然の事ながら、オネーチャンに対応してもらおうとしたが、結局巡査が出てきて、ぶっきらぼうに「じゃ、ここに座ってください」と、机に案内された。後からオネーチャンと喋ったら非常に感じが良かったのに、なんで巡査はこう愛想が悪いのだ!!(予想通りだったと言うか、毎度のことだけど)

巡査は、なんか知らんけど書類を書き始める。こちらとしては、とっとと終わらせて欲しいのだが、マイペースでチンタラと書く。それどころか、書き方を知らないらしく、オネーチャンに指導されながらの記入。それだったら、最初からオネーチャンが書けば良いことじゃないのか? オネーチャンはテキパキ対応するのに、巡査はとにかく、遅いのだ。

書類の記入が済むと、オネーチャンが色々と説明してくれ、丁寧なお礼をするが、巡査は一言も喋らず。遅すぎる書類記入に付き合わせても、当然のようにしてるんだから、接客とはどういう事かを、全く知らないらしい。ところで、あの私服のオネーチャンも警察官なんだろうか。それらしからぬ、とても感じの良い対応だった。


発車ベル鳴りっぱなし

帰宅途中、京阪の淀屋橋駅で大変おもしろい状況に遭遇!!

淀屋橋駅の場合はメロディを発車ベルとして使ってるのですが、それが鳴りっぱなしになってたのです。メロディは5秒程度のものだと思いますが、それが10秒周期ぐらいで連発的に鳴る訳です。

それで、電車が発車するのと勘違いする人が続出したらしく、多くの人は階段を駆け降りてきて電車に飛び乗るの。だけど発車しない電車に乗ってから、ようやく冷静になっておかしな状況に気付く模様。

ニセ発車ベルに惑わされる人は、見てておもしろかった(笑)



客商売やってると
1997年10月25日(土曜日) はれ

客商売(レストランのホール)をやってると、色んなお客さんが来るので、人間観察するのには打ってつけ。まあ、人間というのは色々といるみたいで、やってて飽きないです。

50歳ぐらいの中年のオジサンも割と多いんですが、無愛想な方の多いこと。やたらに態度がでかいと言うかね。そりゃまあ、相手はお客様で、こちらは店員の関係だから、感じ良くしろとは言いません。だけど、あそこまで無愛想に振る舞って、自分は楽しいのかなって思うんですよね。

それとも、自分は偉い!!とでも思ってるのかな? たとえその人が大企業の社長さんとか、偉い偉い政治屋さんだったとしても、私から見れば、その人がとてもエライということは何ら関係のないことですよね。私は偉くなったことがないから分からないですけど、偉いってことはそういう事なのかなあ?


関係ないですけど、ボチボチと寒くなるみたいですね。日が暮れてからも、私は今日も半袖でうろうろとしてたのですが、なんと! マフラーを巻いたオネーチャンを発見。ありゃ何が何でも暑いと思うんだけどなー。

夏でも、11月ぐらいまでは同じ服を着てる私です :-)



緊張感
1997年10月24日(金曜日) はれ

中間テスト中なのだ。

フツー、と言っても何を基準にフツーと言うのかで変わってくるが、多分フツーの高校生だったら、テスト期間中は、こんなものを書いてる場合ではないのじゃなのだろう。私のフツーでは、テスト前もテスト中も、生活は全く変化しない。

生まれてかれこれ18年、フツーと言えるような学生生活をした記憶もないが、緊張感が無いと言うのは恐ろしいものである。同じ「テスト中」でも、大学への推薦状がかかってるとか、何らかの緊張感があれば頑張るだろうが、私のように投げ出していると、どうでも良くなってきたりする。世界史のテスト、何も勉強してなかったので、答案は殆ど関係の無いことを書いてきた。10点もあれば良い方じゃないかな。

「バルカン半島の政治情勢が不安定になった理由を書け」
『ミニスカートが流行したから』

ナメた答案を書けるのは、緊張感が無い証拠なのかも知れない。今日も動燃がニュースに登場している。また嘘の報告をしたらしい。朝になれば陽が昇るのと同じぐらい当然のように、そんなナメたことをしてくれる動燃の辞書にはきっと、緊張感と言う言葉はないのだろう。緊張感が無いと言うことは、それは恐いもの知らずを意味する。

運営してるところも、監督するところも、同じところ。同じところ、つまり馴れ合いにより纏まってる組織が、マトモに機能するとは思えない。なにか怖い圧力がないと、人間と言うものは、面倒くさいことには立ち向かえない生物なのに。なーなーでは済まされない、原子力を扱う組織に、何の緊張感も無いということは大変恐ろしいことである。

それも、アホな答案と同じレベルで議論できるところが、また怖い。



ボランティア活動
1997年10月23日(木曜日) はれ

学校の友人数名が生徒会に入った。生徒会は好きじゃない。一概には言えないかも知れないが、生徒会というところは、恐ろしいほど低効率で仕事をするところ。そういう組織にいると精神衛生上良くないため、最初から属さない事にしている。まあその話しは置いといて、生徒会では、ボランティア活動とかをするらしい。

けど、結論から言うと、そのような「ボランティア活動」はすべきでない。

ボランティア活動というのは、個人が自発的にやってこそ「ボランティア(奉仕)」と呼べるものなのではないだろうか? ここで個人に限定しているのは、組織としてボランティア活動をするのは、完全に自発的とは言えないから。実際の労働を行うのは個人だが、例えその人が個人としてはやりたくないと思っている仕事でも、所属する組織にやらされている可能性がある。

ヤラセ奉仕?なんて矛盾してるお話。そんな偽善的なボランティア活動は、最初から企画すらしない方がなんぼかマシ。正しいと思われるボランティア活動は、完全個人主義であるべきだと思うんだけどね。個人の意志で、個人がやってこそのモノじゃないのか。

逆に、ボランティア活動を他人にやらせようとする人間も、その辺の精神を正しく理解していない人間であると言えるのではないだろうか。学校教員の研修か何かにボランティア活動を義務づけるとか、学業成績として認めるとかは、間違ったあり方。だがそれ以前に、そんな事を決めた奴こそが、ボランティア活動のあり方を間違ってるんじゃないの? やりたいと思った時にやる、やりたくないヤツはやらないくても良いのが本当の意味でのボランティアだと思う。



臓器提供意思表示カード
1997年10月22日(水曜日) はれ

臓器提供意思表示カードは、ご存知の方がほとんどだろう。自分が死んだ時、移植のための臓器を提供するかしないかを明確にするためのカードである。これに○印とか×印を付けて、自分の意思を表示する。今日は、臓器移植法の是非を考えようとか、そんなハイレベルなことではなくて、このカードの問題点に関して考えて見る。

この記事を書くために実物を入手しようと思ったのだが、どこへ行けば貰えるのか分からなかった。是非カードに記入して下さいとか言いながらも、配布方法すらよく分からないカードに、何人の人間が書くんだろう? 繁華街でティッシュと一緒に配ってたというような話は聞いたが、その程度。役所などの公的機関で配ってるのかも知れないが、わざわざ貰いに行くような人も少ないだろうし。大体、カードを配って書かせるという方針自体が、現実性を欠いてると思う。

しかし、WEBを見れる環境の人なら、臓器移植の情報サイトからカードを注文できる仕組みになってるみたい。また、そのサイトにはカードの写真、記入例やFAQなどがあり、どんなモノなのか、一応見ておきたいだけの人にはオススメのサイトである。

そのサイトにあった、「記入例」に注目した。該当する項目に○をするようにとの指示がある。例えば、脳死後に臓器を提供するのならば、その項目に○印をつけ、心臓・肺・肝臓・・・などの臓器名が並んでいるので、提供したいものに○印をつける。小さな字でカッコして、「×をつけた臓器は提供しません」と書かれているが、どちらかと言うと任意的に感じられる。

すると、何も印を付けていない臓器が残っていれば、署名した後にでも○印を付け加えることが出来てしまう。本人が提供したくなくて、○をつけてなかった臓器に、誰かが後から○をつけることも可能となる。こちらにある、記入例2のカードは、後から記入例1に改変することも可能ではないのか?

無断直接リンクの画像(^^;
(http://www.medi-net.or.jp/tcnet/card/sample.html より)

↓これに近いものに改変可能なのでは?


×印が任意的な感じになってるのをやめて、提供したくない臓器は明確に×印を書くようにする。または、記述式の方がより「意思表示」として適切だと思うのだが。



ちびくろさんぼ
1997年10月21日(火曜日) はれ

絵本は素晴らしい。幼稚園の頃は良く読んだ記憶があるのだが、最近になってまた読むようになった。買うまでは行かなくても、本屋で立ち読みとか、図書館で読むとか。あの優しくて分かりやすい言葉の行間に、メッセージ的なものを隠すのは難しいだろうね。絵本は馬鹿にしちゃ行けないと思うぞ。

で、今日の新聞に「ちびくろさんぼ」のお話が載っている。この絵本は、私も幼稚園の時に読んだはず。内容は正確には覚えてないが、最後にトラがバターになるのが、いまでも何故か強烈に印象に残ってる。それだけ素晴らしい作品であったのだろう。だけどこれ、1988年に絶版となったらしい。「黒人差別を助長する」というのが理由であったそうなのだが、現物が無いのでもう確認できない。

だが、かわいい?幼稚園児であった私には、無害であったと思うし、多くの他の子供たちにも同じじゃないかと思う。こういうドロドロとした問題を絵本の世界まで持ってくるのは、残念な話だよね。絵本の内容が、子供の潜在的差別意識を作ってしまうものなんだろうか?

歴史を見ると、英国の主婦が植民地のインドで書き、1899年に出版されたものが原作なのだそうだ。まあ歴史については全然明るくないのだが、時代背景やシチュエーションを考慮すると、多少の偏見が含まれている方が、むしろ正しい内容と言えるんではないだろうか。差別を肯定するわけではないが、私の歴史認識が正しいとすれば、まあ納得できることじゃないかな。

でさぁ、「それは悪いことだから、無かった事にしよう」なんて風な、歴史を闇に葬る考え方が「絶版」なんだろう。差別は人の心の中に根強く生きるものだと思うし、臭いものには取り敢えず蓋しておしまい、じゃ何も変わらないはず。前にも何かで書いた気がするが、問題の認識こそが最重要なんだと思うんだが。「絶版」というやり方には、それは感じられない。

また「さんぼ」が差別用語だったから使うのは止めとこうという理屈も、何も考えてない言葉狩りだと思うしね。前に書いた「ボケ老人」と通じる部分もある気がするね。



早く起きた
1997年10月20日(月曜日) はれ

飲食関係の仕事で、晩にシフトを入れると帰宅が遅くなる。家は大阪市内よりもかなり郊外、もうとなりの駅は京都府みたいなところ。なので、難波からだと1時間以上かかってしまう。昨日も家に帰ったら0時前で、飯食って、風呂入って、メールの返事を書き終わったら2時半だった。

なのに、アホなことに、間違えて目覚まし時計を1時間早くセットしてしまった。まったく、ドジなんだから。もっと寝てたかったのにと思いながらも、二度寝したら昼まで寝ちゃうので、こんなの書いてます。

冬休みの計画がそろそろ決まってきた。数年前にもやったのだが、また同じところで中学生に理科を教えるはめになったと思う。「理科テストコース」といって、模擬テストをやらせて採点するのが主な業務で、教えるのは職務項目には無いはずなんだが、質問などを受け付けてると、成り行きで教えることになるんじゃないかな。

別に悪いお仕事じゃないのだが、実際にやってみると、教える仕事は精神衛生上芳しくないと痛感する。教師の批判などもしょっちゅう書いてるが、マトモにあの仕事をされている方は、本当にエライと思うぞ。自分では知ってるつもりの知識でも、いざ他人に教えるとなると、話が変わってくる。教える為の整理が付いてないと行けないのだろうか?

また中学理科を勉強しないといけない。これで3度目(中学の時、前に教えた時、今回)。中学の場合は、範囲が非常に広いので辛いのだ。電気と化学ぐらいなら何とかなりそうだが、生物や天体などが苦手。特に天体に至っては、もう完全に忘れてる。大体、あんなもんを全部すらすら分かったら、かなりマニアックな部類の人種なんじゃないかと思うんだが。



スエヒロで仕事です
1997年10月19日(日曜日) はれ

夏休みに稼いだ貯えもそろそろ底を尽きそうなこともあり、また新しい仕事を始めることにした。友人に「何でもやるから、良い仕事ないかな?」と持ち掛けたところ、彼がバイトしてる店が人手不足で来て欲しいと。その店とは、難波CITYのスエヒロ。ステーキ屋さんである。

んで、今日は面接に来いと言われて、そのつもりで行ったのだが、店長と顔を合わせた途端に「今日から仕事できる?」と尋ねられる。友人の紹介であるとは言え、日雇い感覚で人を雇う飲食店は初めて。余程、人手が足りなかったんだろう。まあ、どうせ家に帰っても暇だし、そのまま仕事に入った。

難波CITYと言うと南海の高架下の飲食店が並んでるところで、私もお客としては良く通っていたが、従業員として歩いてみるのも面白いもの。隠し通路とか、従業員控え室が随所に在るのには、今まで気付かなかった。(プラボの裏辺りとか)

というわけで、難波CITYのスエヒロでホールやってますんで、土日ぐらいに来ると私がいるかも知れません。日本橋の買い物帰りとか、WINS帰りに寄りそうな場所だから、来る人はいるかもね。まあ、バタバタしてるだろうから、話は出来ないだろうけど。そうそう、ちょうど裏に難波WINSがあって、競馬開催日にはその関係の客で溢れるみたい。



食品添加物
1997年10月18日(土曜日) はれ/にわか雨

年に1度か2度、学校で開催される「各種講習会」なるものに行ってきた。教師の専門を生かして、授業とは無関係に様々な講習が行われ、今日は25種の講習から1つ選んで参加するというもの。それも今回のテーマは、教育機関お得意の?『人権』だったりして、まあ、社会問題という社会問題を、よくここまで集めたなと思うようなお題ばっかりなのだが、例によって的外れなのも幾つかあった。(参考資料:10月7日の一言)。

私が行ったのは、唯一趣味に合いそうだった「危険な食品(食品の化学実験)」というもの。だけど、これと人権とを、どう結び付ければ良いのか悩んでしまうでしょ。蓋を開けてみたら、講習の内容は、食品添加物の検出実験だった。ますますわからん。

実験室へ行くと、スーパーの袋に入ったままの食品がずらーり。ソーセージのような添加物の塊とも言えるものから、お漬物や、袋詰めのモヤシ、生のサツマイモまで。モヤシやサツマイモは、天然モノと思われがちだろうし、成分表示が無いだけに、問題が多いと思う。

漬物からはタール系色素(黄色○号みたいなやつ)が含まれることを証明するために、漬物の汁に酢酸を混ぜたもので毛糸を炊いて染色。すると、漬物の色が毛糸に出るわけ。酢酸が無くても食酢でも可能だろうから、毛糸の漬物染色ぐらいならお家でできるかも知れない。

ソーセージや明太子などの肉類からは、亜硝酸ナトリウムを検出。これは肉類の発色剤に使われいるが、試験紙で検出できる。明太子から特に多く出た。漬物+明太子と来たら、お昼を食ってなかった私は、ご飯が食べたくなってきた。だけど、食いたくなくなるよね。

生野菜からリン酸ナトリウムが出たことは、ちょっと嫌なお話。袋詰めの生のモヤシから出たが、袋には無添加の表示があり、疑わしい。サツマイモからも出たが、こちらは表示なんてない。だけど、不自然だよね、本当のサツマイモの色を知ってる人なら分かるだろうけど、スーパーのサツマイモの鮮やかな色は、明らかに人工の色。掘り出しただけのサツマイモは、もっと鈍い色だ。

こんなので商品を選び、変な薬品を食わされる消費者は低レベルなものだよね。



京都府立の制服問題
1997年10月17日(金曜日) はれ

昨日は、家に帰ったらぶっ倒れてしまい、サボった...

京都府立桂高校で、制服が導入されることになったそうだ。公立高校で制服なんて普通でしょと思ったあなた、京都府民に聞くと、違う答えが返ってくるはず。服装に関してはゴチャゴチャ言わないのが、京都府立高校の昔からの伝統なのだとか。そのためか、世間は府立の生徒はガラが悪いなんて言うみたいだけど。

そして、その暗黙の掟が破られようとしている桂高校では、生徒と学校との間で猛烈な争いが起きているらしい。校長が「来年の新入生から、制服を導入します」と、一方的に決めてしまったらしい。服装の乱れはなんだ、「高校生らしくない」と言うのが理由とのこと。

だけど、高校生らしくない高校生とはどんな高校生なんだろう? あるいは、高校生らしい高校生とはどんな高校生を指すんだろう? 大体、「○○らしい」というような概念自体がナンセンスだと思うのだが、たぶんその校長は、寝ても醒めても理想の高校生像を追い求める的外れ思想家なんだろう。ま、頑張ってください :-)

というような批判は私もするのだが、制服自体を否定する訳ではない。現に、日本には制服が好きって人間もけっこういるんだから、そういう人間も無視してはならない。小学時代に、学ランに憧れていた方もいるのではないだろうか。完全廃止論を唱える制服廃止論者は、どこか偏ってるように思える。だから、「どっちでもいい」のが、最も良いと思うんだけどね。結局、この軟弱さを持てないのが、一番悪いと思う。

着たい奴は着る、着たくない奴は着ない。これで良いと思うのだが。

# 生徒の反対運動も、駅前で署名集めるなど、気合が入ってる。
こちらは、本当の意味で頑張ってください。



郵便番号7桁化を考える
1997年10月15日(水曜日) 雨

郵政省の気合の入ったPRによりご存知の方も多いはずだが、来年の2月から郵便番号が7桁化される。今の3桁又は3桁+2桁の中途半端な可変長コードを、3桁+4桁の固定長の合理的なシステムに変更。郵便番号だけで、○○町×丁目まで特定できるそう。それでも、どうせ宛名書きの量は減らないんだし、利用者は余計な番号を書く手間が増えるだけであろう。まあ、分類の合理化に際しては仕方がないか。

郵便物の書かれた7桁の郵便番号は、機械で読み取られ、無色透明のバーコードを郵便物に印刷するそうである。以下は、配達の中継地でそのバーコードを読み取り、機械的に分類していくというシステムなのだそう。×丁目まで機械で分類できれば、後は手作業分類量も知れていそうだがm今までの郵便番号だと「大阪府枚方市」ぐらいまでしか特定できない。

と言うことは、枚方市までは機械的に届けられても、それ以下の分類は手作業でなされてるのだろう。今までのそんな郵便システムは時代遅れも良いところだと思う。やっとこさ機械化なんだから、誉める気もしない。そもそも、そんな将来性のない中途半端な郵便番号システムを考案したヤツは何を考えていたんだろう。

アメリカの郵便料金は安い。もちろん全国一律料金で、国土は日本の25倍(多分)なのに、何故か郵便料金は日本のそれの半額程度だったはず。日本からアメリカに手紙を送ると110円だが、アメリカから日本だと60セント。この価格差は何なんだろう? そういえば、国際郵便の場合、お互いの料金の取り分はどうなってるんだろ。誰か知りませんか?

アメリカにも郵便番号は存在する。ZIP Codeとよばれ、ZIPとは Zone Improvement Plan の略であることから、直訳すると「区域向上計画」になるんだろうか? これは、配達区域ごとに5桁の番号を振っていく。更に、その下に4桁の番号を、多分住所毎に振っていってたはず。さらに、そこにバーコード化された郵便番号を印刷する場合が多い。ビジネス郵便などなら簡単だが、パソコンがあれば個人でも可能。宛名印刷ソフトでバーコードを印刷できるものもあるみたいだし、フリーソフトでも見たことがある。

日本もこんなのをパクったのかな。



例:私が時々利用する通販屋の封筒。



内申書
1997年10月14日(火曜日) 雨

今日の朝日新聞朝刊にの社会面に、内申書裁判の話が載っている。大阪のローカルな話題なので、他の地域の新聞にも載ってるかどうかは知らないけど。その記事に実名で登場している人物の一人が、私と同じ高校に通ってる人間だと思う(確認はしてないけど)。

ご存知の方も多いと思うが、中学校から高校に渡される内申書は非公開とされている場合が殆どだ。しかし、自分の成績を自分で知ることができないのは、おかしな話。同じようなもので、指導要録が非公開なのについても問題があると思う。

それも、教師と生徒の信頼を保つために公開できないとか、理由もハッキリしない。きっと、他にもどうしても公開できない理由があるんだろうけどね。しかし、非公開にすることで、本当に信頼関係が保てられると思っているのであれば、役所や教育者は、余程ずれた思考回路を持つ連中なんだねぇ。

って事で、大阪で裁判が起こされた。その結果、いくつかの自治体で内申書や指導要録を公開しても良いって話になったみたいだけど、詳しくは忘れた。裁判に関係していた友人がいて、傍聴を薦められたり、いきさつや結果などについて話を聞いたこともあったのだ。しかし、詳しく触れることもできずに、その友人は行方を暗ました。もし読んでたら、連絡下さい>Y。

たしか、大阪市の場合は申請すると内申書を見せてくれるらしい。ということは、大阪市立の高校に通う私の内申書も見れるはずだと思う。裁判の結果、必ず見せてくれることになったと聞いたが、それでも申請しないと行けないし、申請後に何故か審査があって、2週間ぐらいかかるそうで、必ず開示されるものに、何故審査が必要なのか? 直ぐに作れそうな書類でも、役所は待たすのが好き。待たすことに、喜びを感じてるんじゃないのって思う時もあるし(笑)

んだけど、今更自分の内申書なんて見ても仕方が無いしね。中学校の時は担任や、他の教員には良くしてもらってたし...



教習所事件を考える
1997年10月13日(月曜日) くもり/雨

ちょっと前に、安室奈美恵(漢字あってる?)がどっかの教習所で時間外練習を受けていたとか、なんかそんな事件があった。私が行って頼み込んでもそんな事はしてくれないだろうが、安室だったからやったというようなことは容易に想像できると思う。そんなのはフェアじゃないし、それ自体は問題がある。

だけど、売れてる安室奈美恵のこと。過密と想像されるスケジュールをこなしていたら、教習所にチンタラ通ってる時間の余裕なんてあったんだろうか、疑問である。教習所に行ってる人で、仕事も学校も無い人は、どのぐらいの割合なんだろう。恐らく殆どいないと思うんだが。本当に時間の無い人は、教習所に行くのは難しい気がする。

教習所だけに限らず、そのように利用者側の都合を全く考えていないサービス業が多すぎると思う。役所をはじめ、郵便局、NTT、銀行。一般の窓口業務が9時〜17時、金融関係は15時なんかもある。そんな営業時間で都合が付くのは、昼間仕事も学校も無い人間だけだとだろう。無理に抜け出せない人もいる。

極端なことは言わないから、もうちょっとだけ利用者の都合も考慮して貰えないだろうか? 朝はもうちょっとゆっくり開けても良いと思うから、晩は20時ぐらいまでやってくれないかなー。窓口は客商売なんだから、客の都合に合わせる努力も必要であるはず。晩に学校行く奴の為に、定時制高校もあるんだから、ちっとは見習えっ!



アニメを考える
1997年10月12日(日曜日) はれ

アニメを考えてみる。

「アニメ=ガキのモノ」と言う考え方は、古くなった。最近の多くの作品だと、私ならば中学生以上をを対象年齢とすると思う。昔の作品には無かった、残虐シーンやお色気シーンなど、どう評価しても「子供向きのほのぼのアニメ」とは間違っても言えない内容が多くなったからである。

しかし、それが不健全な方向へ向かっているのかと言えば、そうとは思わない。例えば、「サザエさん」においては、誰も歳をとらないし、誰も死なない。しかし、現実には人は歳をとるし、遅かれ早かれ、いつかは死ぬ。そんな不老不死の不自然すぎる世界を、子供に見せつづける方が、変なのではないだろうか(まあ、それはそれって意見も間違っては無いと思うけど)。

子供に死を伏せることは正しいんだろうか? アニメーションは、現実にはなかなか無いが、いつか起こり得るだろう事象を遠回しに表現する手段としては、非常に有効なものだと思う。だから、最近のアニメは残酷すぎる、みたいな理由をつけて遮断してしまうのは、あまり良くない発想だろう。

そこまでは、それで良いと思ってるんだけど。

お色気シーンはどう説明すれば良いんでしょうねぇ? ここでお色気シーンと言うのは、ストーリー上必要な男女の関係とか、セックスシーン(そんなんあるの?)とかじゃなくて、ただ単にムネとかケツを強調しただけのシーン。

男性の需要に対して供給があるんだろうけど、アニメにそういうのを求めるのって、あんまり好きじゃないなー。これは、変な方向に行ってると言えるのかも知れない。



かせーそーだ
1997年10月11日(土曜日) はれ

右手の指の皮膚が、荒れて少し剥けている。また何か妖しい薬品にでも触ってしまったのかと、思い返せば、数日前に水酸化ナトリウムの水溶液を素手で触ってたような記憶がある。水酸化ナトリウムは、蛋白質を侵す性質があるから、当然皮膚もやられる。そんな意味では、そこらの酸なんかよりも、塩基は注意すべきである。

水酸化ナトリウムについて語り合う場合(そんなヤツいるのか?)、「すいさんかなとりゅーむ」などと言っていたのでは喋りにくい。そこで、慣れた人は「かせーそーだ」なんて言い方をする。私は、耳から覚えた言葉であるが、恐らく教科書などには出てこない俗語なのだと思う。

それがどうしたって、書く場合はちゃんと「水酸化ナトリウム」って書くよね。だから、どんな字を書くのか全然知らなかった。が、最近辞書をめくってると「苛性ソーダ」なんて文字が。漢字で書くと、こうなるらしい。(私が知らなかっただけだと思うけど)

「苛性:皮膚を侵す性質」なんだってね。



日米回線
1997年10月10日(金曜日) はれ

今日の朝日新聞に大手一次プロバイダであるIIJの社長さんのお話が載っている。アメリカのサイトまでは必ずと言って良いほどIIJの日米回線を経由しているようだが、KDDが持つ日米回線の半分以上を、IIJが使用しているのだという。すごい話だ。

日米回線とは言っても、アメリカのサイトに接続する時にだけ経由する訳ではない。東南アジアの一部の除けば、外国のサイトへのルートは、ほとんどアメリカを通って、アメリカからもう一度、国際回線を通るような形になってたと思う。(例:欧州、オーストラリア)下手すれば、国内のサイトの場合も、何故かアメリカ経由になってしまう場合もある。

国内のインフラ整備がいい加減なお陰で、国内でインターネットにまともに接続すると、かなりの経費がかかる。そんな訳で、アメリカにWWWサーバーなどを置くサービスを提供する企業が星の数ほどあったりする。それを考えれば、日米間トラフィックの急増も無理はないだろう。そういうのを除いた、純粋な?日米間の回線需要は少なそうだし。

これは前々からの疑問だったのだが、その回線接続費は、全額日本側が負担しているのだと言う。確かにアメリカ側にしてみれば、日米間の大容量回線なんて大した需要もないんだろうが、全額日本負担は、フェアじゃない気もする。その辺がIIJのコストダウンの障害になってるとか? 日米間に1.5Mbpsの回線を持つと年間1億以上の費用、などと聞いたこともあるし、300Mbps近い回線の経費は凄いのだろう。



明日から3連休
1997年10月9日(木曜日) はれ

今日は朝から音楽の授業だったのだ。音楽は決して嫌いではないが、歌のテストだけはいただけない。今日みたいに、イタリア語で歌えなんて言われても、そんなもん歌えるかー。

暗譜でと言うことになっていたが、それは余りにも酷なので譜面は見てもOKに変更された。訳の分からない、カタカナの羅列なんて覚えられる筈が無い。ちょっとばかり感情を込めれば評価も良くなるだろうと、イタリア語をも、演歌調で歌って差し上げた。果たしてそれは、どのように聞こえたのだろう?

「一言」を読んでくれている友人に、最近疲れてるやろ、みたいな事を言われた。なんだか知らないが、時々、行間から疲れが滲み出ていると言うのだが。うーん、確かに数日前に書いたやつを読み返してみると、ちょっと荒れてるなー。書いてる文に喜怒哀楽が知らん間に出ているとは、行間おそろしや。

まあ、明日から3連休。月曜日は気が重く、火曜日ぐらいには元気になるが、曜日にもなるとテンションも下がっているので、金曜日の祝日は非常にありがたい。



広島の海に家を建てよう!
1997年10月8日(水曜日) くもり時々はれ

朝方はやや冷え込んだ感じ。寒くなってきましたね。暑いのはまだ我慢できても、寒いのは駄目なんですよねぇ... 嫌な季節がきたものだ。PCやモデムにとってはすごし易い温度になるんでしょうが。

ニュースステーションで何度か登場している山田さん。誰かというと、広島の海にいかだを浮かべて、その上に家をお建てになった方だ。広島の県条例か何かに、微妙にひっかかるそうで、撤去命令が出たらしい。微妙にと言うのは、海を占用する場合は知事の許可が必要なのだそうだが、いかだは移動するから、微妙なのだそう。

もちろん、微妙でもなんでも、役所としては、何としてでも撤去させたいものだろう。そういう訳の分からない例外的なものが現れると、そういうものは全く想定していない現行の条例を、無理にでも適用してどうにかしようという態度がバレバレの、苦し紛れのお役所。端で見ている私には、笑いの種となる。

役所が強制撤去にやってきた。それを阻止するために、家に灯油をぶちまけ、自分も灯油をかぶる山田さん。「お前ら、俺の家にちょっとでも触れたら火ぃつけるぞ〜」というような方針であるらしい。家主は焼身自殺寸前、役所も公務執行妨害どころか、どうして良いのかわからないんだろう。「今日は許してやる」ってところで、尻尾まいて帰っていったらしい。

あのおっさん、馬鹿じゃない? と、冷ややかに見る方も多いと思うのだが、私はああいうのは大好き。頑張れ山田さん、私は応援してるぞ!!



沖縄のいろいろ
1997年10月7日(火曜日) くもり時々はれ

こっち方面には全然明るくないので、詳しいことは書けないが。学校行事と言う事で、お馴染みの三線(さんしんと読むらしい)の生演奏で沖縄の舞踊を見たり、民謡を聞いたりしてきた。

内容は素晴らしいものであったのだが、何の前知識も無い私が見ても、何が良いのか悪いのか分かるはずもない。伝統芸能を若い奴に見せるのも良いと思うが、分からんもんは分からん。もう少し丁寧な解説があったら良かったのだが。これで沖縄文化を少しでも理解しようってな意図があったみたいだが、いつものことだけど、学校のやることって何かと無理があるよなーー。

まあ、公演は良かったから、それは帳消し。でも、、、

これは「人権公演会」と言う題目で行われたものだが、沖縄の伝統芸能と、人権と、直接の関係は無いと思うんだけどね。沖縄と聞けば、集団自決やら、基地問題やら、何かと暗いことばっかり連想してしまう人が多いのではないかと思う。沖縄と人権をこじつければ、そういう暗いことを考えながら、人権について考えましょう、みないな構図が見えてくる。だが、それはいけない。

今、沖縄という土地ではどういう問題が起こっていて、実は過去にはこれこれこういう出来事がありました、というような事実を認識するという行為には問題はない。それが如何に悲惨で、将来において、絶対にこういう事は繰り返しては行けません、というのも、過去への反省なのだから、重要なことであろう。

しかし、それについて本州の人間が「人権」という言葉を出した時、沖縄の人間に対してある種の憐憫の情と、優越感ようなものを持っているのではないかと思うのだ。「沖縄の人々はこんな目にあってかわいそう」という文には、どこかに憐れみが含まれているのではないだろうか? 沖縄の人はかわいそうだから、人権を考える題材にしようと言う考え方は、本州の人間のエゴでしかない。

憐れみと優越感の下に人権を語るのが、正しい言えることなのか?



椅子と消火器投下
1997年10月6日(月曜日) はれ

6月30日の一言に学校での小火事件のことを書いたが、何かと問題の多い学校である。そして今度は、先週の金曜日に、4階窓と推測される場所から椅子と消火器が投下されるという事件が起きた。今日はその事件についての緊急集会なるものが行われ、一通りの状況説明などとともに、学校側の見解のような事も少し話された。

落下現場は、ビルの正面出入口とは別にある通用口の付近。まずは椅子が落とされ、暫くしてから消火器が落とされたとのこと。消火器が落下してきたとき、現場付近を数名の生徒が通行中だったらしい。幸い怪我などはなかったそうだが、一歩間違えば怪我では済まないこと。突然、頭に消火器が落ちてくる状況を想像すれば、生きた心地がしない。

怒りもしない、チクりもしないから、やった奴に一言きいてみたい。なしてそんな事するの? 結果を考えれば、冗談半分で出来ることではないだろう。窓から物を投げても得することは何も無い。何かちょっとした事にウズウズしていたとしても、こんな事で気は晴れないだろう。

人が死ぬかも知れないことを出来てしまう精神は、よほど何かに追いつめられていたものだと思う。小火のときは、人が騒ぐのが愉快なのかな、ぐらいに思っていたが、ここまで来るとそんなのじゃないだろうな。まあ、逆にただの無神経とも考えられるけど、それはあまり考えたくないし、その場合はまた別の議論だね...

今日の集会で、学校側も同じようなことを言っていた。つまり、私と一致の意見だが、こういう事件が起こると学校側も辛いだろうと思う。カウンセラらしき人も居ながら、生徒相談室なるものも開設しながら、生徒の悩み事の捌け口がこんな形では、そりゃ真面目な教育者だったらやり切れない思いもあるだろうね。

生徒指導的ではないやさしい口調で、「できるだけ、そういう悩み事に対しては話を聞いてあげるようには努力しているのだが」みたいなことをお話されていた。でもね、やっぱりお前ら、やってることが役所なんだよ。いくら制度上、あるいは教員の努力上、それらしいものがあっても、もっとそれらしい雰囲気を作らなくては、せっかくの努力も意味をなさないと思う。

職員室などの、何となく入りにくい雰囲気。忙しいのはわかるが、信頼のできる教員がいたとしても、会議や何やらで捕まらない。そんな状況下で、「やってます」と言って良いものだろうか? 家庭的な雰囲気を作らなければならないのではないかい?

もし読んでたら、一生徒の貴重なご意見として、関係者にお伝えください>T浦氏。



暇だったから
1997年10月5日(日曜日) くもり/はれ

久しぶりに暇な週末を送りました。

今日も暇だったし、気候も良いので、自転車でどこかへ行くことに。特に行くあてもなかったので、何となく京都方面へ向かいました。午後から出たので、あまり遠出はしなかったけどね。伏見区の横大路の辺までしか行ってません。

しかし、今日は競馬開催日だったんだ。それを忘れてて、間違って淀競馬場の前(京守)を通ってしまい、人と車でごったがえした交差点に入ってしまったときは、どうしようかと思いました(^^;

下手な交通整理が余計な渋滞を巻き起こしてるの>警備員

まあ、関係の無いトラヒックに巻き込まれたりしたわけですが、これでちょっとは運動不足が解消されたかな。昔はあちこち行ってたんですけど、最近は時間が無くて。



せいじ家こうむ員
1997年10月4日(土曜日) 雨

ここでは政治経済はあまり扱わないことにしているですが...

ちょっとアブナイ臭いの漂う日米防衛指針やら、なんやら、民主的な議論もあまり行われずに決めてしまうのが今の政治のやり方なのか。国民がどれだけ反対してることでも、お上のどこかで決まればハイ決まりって感じだし、これでも民主政治と呼べるのか?

みたいな話は良く耳にするが、私は二十歳未満だから選挙権も無いし。私にはぜーんぜん関係のない話。だから、ここでは政治経済ネタは扱いません。と割り切って言いたいのだが、そうもいかない。私には関係の無いはずの政治で決められた消費税はマジで身にしみてるし、何と言うか、世の中は不公平なものやね。

税金も払える分だけ稼いだら必ず払うから、クソ貧乏な学生の間ぐらいは勘弁してくれ〜 なーんて、ここでいくら嘆いても、傾けてくれる耳なんかありゃしない :-)

まあ、そうやって乱暴に色々と決めていく政治家は論外として、その周りで仕事してる人間もいる。政治家の秘書とか、官庁の公務員とか。公務員をやたらと批判したがる人もいるが、同じ人間だし、ヨメはんとガキと食わしていくのに頑張って働いてる人もいるだろうし、そうであれば家に帰れば普通のオトーサン。

そういう関係者は変な法案などが通りそうになったとき、どう思うんでしょうね。普通の生活をしてる人間だったら、「こんなのが通ったら倅に申し訳ないよなー」なんて考えながら、上から言われた、法案を何があっても押し通すための原稿をワープロでまとめてるとか。それとも、「仕事だから」と割り切ってやってるんだろうか。

わしにはわからん :-)



ことば
1997年10月3日(金曜日) はれ

今日の朝日新聞の投書欄には、「ボケ老人」の使用の是非に付いて数名の方のご意見が書かれてある。それが差別的だと言う方、それが現実だから使用には問題がないとする見方。失礼だが、私に言わせれば非常に低レベルな論議だとおもう。

人を差別するのは、それもまた人であり、言葉ではないはず。言葉を作り、使うのも人、その言葉の意味や背景も人が作り出すもの。差別やらの極めて人間的な問題の責任を、何も思ったのか言葉そのものに転嫁する。そして、どの言葉を使うのは止めよう、なんて話をするのはあまりにも馬鹿げていると思うのだが。

差別が存在して、それを何とかしたいのなら、言葉の差別的なニュアンスを生み出した根本にあるものを考えるべき。なんでそんなことも分からずに、言葉そのものについての低論議をするのかな? まあ、差別するためだけに作られた言葉なら、いざ知らず。

例を挙げると「障害者」なんてそれを聞いただけで差別を連想する人もいるそうだし、「外国人」も差別的だ、なんて言う馬鹿な話もみたことがある。そう思うから差別的に聞こえるだけのことであって、障害者や外国人が差別されない世の中であれば、そんな連想は起こらないはず。

「ボケ」に関しても、大阪人の日常会話で言えばツッコミ言葉という風にもなる。歳とったらボケるのは当たり前、だから何なんだ、と割り切れば何ら問題はないはず。なにか後ろめたい事でもあるの?



ガス漏れ
1997年10月2日(木曜日) くもりのち雨

学校へ向かう途中、ある交差点の角を曲がったところで、ガスの臭いが鼻をついた。そこは建物の解体現場だったようで、作業員がガス管を殺ってしまったのか。かなり漏れていたようであった。

既に大阪ガスの車が来ていて、大阪ガスの人が消火器を並べて処置作業をしていたのだが、救急車と同じサイレンが聞こえたと思ったらそれも大阪ガスの車。どうやら、同じ音をつかっていたようだ。

が、その処置作業で手を休めていた解体の作業員が、タバコを吸いながら大阪ガス職員の作業を眺めていたのには驚いた。普通、あれだけガス臭い場所でタバコなんか吸うか?


友人がコンビニで買い物したところ、素晴らしいことが起きたらしい。596円の買い物をすれば、600円出せば間に合うのだ。当然、友人もそうしたらしいが、ここのコンビニは太っ腹! 店員はちょっと桁を見間違えたらしく、599,404円のお釣を貰ったそうだ... と言ってたような気もしないこともない。なんだか知らないけど、みなさんもこのコンビニを利用しよう!!



新聞見てると
1997年10月1日(水曜日) はれ

新聞を広げてみると、学校教育について色々と書かれている。小中学校で学力テストを行ったらしく、概ねの結果は「知識や計算能力はあるものの、思考力や表現力が弱い」なんて感じらしい。あと、理科嫌いが増加しているそうだが、納得できるような気もする。

つまり、取り敢えず知識を詰め込んでおけば良いだろう、みたいな方針であるからこうなるのだと思う。それは非常に効率の良い授業形態なのであろうが、その結果が、知識はあるが思考力の無い人間の大量生産なのだから、効率だけではいけないと言う事になる。

じゃ、教科書の進み具合は遅くなってしまっても、意思表現や議論を多く行う授業を増やせば良いなんて言い出す人もいるのだろう。それはそれで間違ってはないと思うのだが、ふと現実を見れば、日本人にそれは無理なのじゃないかと感じてしまうのだ。国会で、○○君と名前を呼ばれたら、準備してあったのであろう原稿を読み上げるのが議論と思ってる?多くの日本人に、そんな上等なことができるのか?

恐らくシラけるだけだと、断言させて頂く。

まあ、日本の教育は良くないだとか、そのような内容の評論はよく見かけることである。それも一理あると思うが、アメリカへ行くと自国の教育は良くなくて、日本の教育を見習おうなんてお話もあったりするのだから、一概に否定できないのも事実。そういう詰まらない評論文で語れるほど、教育なんてものは浅くないのだろう。良いか悪いかは別として、日本ほど社会システムに良くはまってる教育システムだとは思うけどね。

話は変わるが、今日の朝刊には小学校の漢字学習の方針変更について書かれている。ワープロの普及により、読めるが書けない漢字については、OKとするらしい。それは分かるが、私もそんな漢字が本当に多い、多すぎる。手書きする時に、書けない漢字の調べ用にFEPを使うような人間になってはいけないよ>小学生の方々。