多事毒論(1998年5月分)




遺言書
1998年5月31日(日曜日) はれ

今日は天気が良かった。気分も良いので、遺言書を書いてみよう。

まだそんなものを書く歳では無いと言われるかも知れないが、人間いつ死ぬか分からない。備えあれば憂えなしというわけだ。さて、民法上でいう遺言には数種類存在するが、いわゆる自分で書いて保管しておく遺言書は自筆遺言と呼ばれるもので、遺言者の自筆でなければならず、この記事に法的な根拠は無い。しかし、世田谷に100坪の土地と豪邸を持っている金持ちならともかく、今月はどうやって生活費を削ろうかと日夜努力しているわたしにとっては、遺産配分で醜い争いが起きることも無かろう。まあ気軽に書ける遺言書としては、これで十分なのだ。

まず最初に言いたい事は、葬式を挙げないで頂きたい。葬式には幾度か参加したが、わたしの趣味には合わない。喪主の主観では一応葬式を挙げているつもりなのかも知れないが、わたしにはただの葬式ゴッコにしか見えない。顔も見たこと無い親類が集まり、お食事会なのか何か知らないが適当に騒いで、献花の時だけは取り敢えず泣いておこうという葬式は異様だ。また仏教徒でも無いのに、坊主らしき人物が出てきて経を読むスタイルも気に入らない。

さて本題に戻るが、わたしが死んだときは、以下に掲げる次項は厳守して頂きたいと思う。

・葬式及び告別式、或いはそれに類する如何なる儀式も挙げてはならない。
・死後又は死体発見後、速やかに火葬すること。
・火葬前の見送りに参加できる者は、親しかった者に限定する。
 例え血縁であっても、生前に関係の無かった者は参加してはならない。
・遺骨は保管せず、速やかに廃棄すること。
・墓、或いはそれに類する碑、位牌などは一切禁止する。
・遺産相続は法に基づく。

これらが守られれば、ひっそりと世から消え、忘れ去られるだろう。死後の処理は、できる限りひっそりと、そして速やかにして頂き、わたしが生きていたことを後世に伝え得る事物は一切残さないで欲しい。今わたしが生きているだけでも、世の中とってのわたしは小さな汚点に過ぎない。そんな愚かな人間を死後に渡ってまで祭る必然性はないと思うのだ。わたしが死んだ折りには、わたしの全てを無に帰して欲しいと思う。



頭は何で洗う?
1998年5月30日(土曜日) くもり/はれ

テレビのCMを見ていると、シャンプーやら、ヘアケア商品やら、立ち替り入れ替りに宣伝されている。また、新製品も次々に出てきているように思える。きっと、それだけの広告費を使うに値する市場があるのだろう。自慢でも何でもないが、わたしは石鹸で頭を洗っているので、全然関係ないのだ。それだけ宣伝されていることを見ると、石鹸なんか使っているのは全国でも自分ぐらいではないのかと感じられるが、これと言って問題も無いのでどうでも良い。

実は、実家ではちゃんとシャンプーを使っていたので、石鹸を使うようになってからは横浜に来てからだ。越してきた直後、取り敢えず石鹸はすぐに要るだろうと思って用意してあったのだが、シャンプーまで用意する余裕が無かったのだ。その頃は仕方が無く石鹸を使い始めたのだが、次第にシャンプーを買うのも面倒臭くなり、今となっては、もうどうでも良くなってしまった。

俺は石鹸だって方、いる?

昨日の、ku.nu ドメイン、ネームサーバーにも登録されて開通した。とは言ってもMXレコードしか登録していないので、メールしか届かないが。暫定のメールアドレスなのだが、kunugiza@ku.nu には、ちゃんとメールが届くはずなので記念に何か送られたし (本当は kunugiza@cds.co.jp と同じアカウントなのだが)。実は、会社のサーバーを無断(!)で使っているのだが、近いうちに自前のサーバーにしたいと思う。



ドメインを取得
1998年5月29日(金曜日) あめ

ドメインを取得した。前々から個人でドメインを取得しようと思っていたのだが、わたしの私生活や環境が時々刻々と変化していて、ドメインを取って運用しようかという状況ではなかったのだ。最近、定職にも就き、少し落ち着いて来たので申請した。

そのドメインは、日本のjpドメインやInterNICのcomドメイン、或いは時々見掛けるto(トンガ)ドメインでもない。馴染みが薄く、初めて聞く方も多いと思うが、それは "nu" ドメインなのだ。さて、第一レベルドメイン名は国名を表すが、"nu" はどこの国なのだろうか? これまた馴染みの薄い国だが、太平洋に位置する "ニウエ" という小さな国のドメインなのだ。

何故そんな捻ったドメインを取ったのか? 答えは簡単、捻くれているからだ。

いや、もっとマトモな理由はちゃんとある。わたしは名字が「くぬぎざ」なので、あだ名は大抵「くぬちゃん」とか「くぬ」などが多いのだ。そこで、考えた。第二レベルドメイン名が "ku" であるニウエ国ドメインを申請したら、"ku.nu" になる。冗談のようなドメインだが、これはわたしの名前と大変良く合致しており、個人で使うドメインにはちょうど良いと考えたわけだ。

まだ、このドメインをどのようにして使うかは考えていないが、kunu@ku.nu というメールアドレスも作ることができる。それらしくは見えないが、これはインターネットで使える列記としたメールアドレスなのだ。ちなみに、ku.nu のDNS情報はまだ伝わっていないので、上記のメールアドレスも当然使えない。本日、MXレコードを登録したが、世界に伝わるまでには1週間ぐらいかかるだろう。使えるようになったら、またここで報告したいと思う。



ナンバープレートのナゾ
1998年5月28日(木曜日) はれ

少し前から自動車のナンバープレートの形式が新しくなり、種別番号(というのか?)のフィールドが2桁から3桁に増えた。早速だが、近所に3桁のナンバーを付けたクルマを発見した。そのナンバーは自光式の“横浜800”、いわゆる8ナンバーだ。8ナンバーは特殊用途車両に割り当てられているが、そのクルマは見るからに趣味の悪い改造車だった。

さて、前々からナンバープレートについて不思議に思っていたことがある。例えば、2桁の5ナンバーについて考えて見たい。その場合、横浜であれば“横浜50”から“横浜59”までのナンバーが理論上存在し得る。が、湘南自動車検査登録事務所がオープンした時のことを思い出して欲しい。“湘南”と聞いてもピンと来ない関西人には理解し得ない感覚だが、その際に湘南ナンバー第一号が欲しいという人々が車検場に殺到したらしい。そして、見事に普通車ナンバー第一号を取得した人のクルマには“湘南55/さ・・・1”が取り付けられたそうだ。

しかし、何故か最初に発行されるナンバーは55から。次に56、57と番号が増えていき、59になったら最初に戻って51が、最後に54が発行されるというルールになっているようだ。50は軽自動車用だから省くとして、なぜ51から59へと割り当てていかないのか? 55から数え始めないと、重大な不都合でも起きるのだろうか? 昔から不思議で仕方が無くて困っているのだ。知ってたら、誰か教えて下さい。

ちなみに、3桁のナンバーは500から割り当てられて行くそうな。



デブ?
1998年5月26日(火曜日) しとしと

お天気がパッとしないので洗濯ができない...明日は晴れて欲しい。

周りに、自分はデブだといつも気にしている人達がいる。わたしの目から見れば、その人達は全く太っていないと思うのだが、何故か本人は真剣に太っていると思っているようだなのだ。飯を奢ってやるからと言っても、太るからとか何とか理由をつけ、せっかくの料理もあまり食べなかったりする。わたしは決して大食いではないが、何も気にせずに飯を食うわたしの姿を見て、驚く人もいたぐらいだ。希に、逆に痩せ過ぎと思われる人にも「太っている」という者がいるから恐ろしい。減量だか何だか知らないが、それ以上痩せたら死ぬんじゃ無いかと逆に心配したくなる。

何故に太ってもいない人までが「太っている」と気にするのだろう? こういう人達は、自分に対して相当な劣等感を持っているのではないかと思ったりする。肥満でなくても、ホクロやら顔の部品の位置関係、足の長さや手の大きさまで、容姿のことは気にし始めるときりが無い。人に指摘されて気にし始める場合もあるのだろうが、そのような場合にでも、自分を卑下しているのは、結局自分に他ならない。

ちなみに、わたしが自分に対して持っているイメージを言わせて頂くと、わたしは顔は悪く、O脚で短足、身長も低く痩せており、お世辞にも女にモテるようなタイプではない。この様に欠点を挙げていけば限が無いが、長所はなかなか思い付かないものだ。もっとも、これらを欠点と位置づけるのは当人の主観だ。欠点だとしなければ、これらはわたしの物理的形状の説明でしかなく、実の所、そうとしか思っていない。生まれて以来の彼女いない生活において、過度に自分の容姿を気にしていたこともあったが、もう良い加減に諦めてしまったと言うか。諦めは最強の手段だ(笑)

ちなみに、わたしは身長165センチ、体重52〜55キロ(けっこう変化する)と痩せているが、自分にはどうすることもできない。わたしはすぐ腹が減る方で、平日の仕事をしている日であれば、朝昼晩の三食は必ず食べなければ死にかける。だが、いくら食っても太らないのだ(主食が飯・魚・野菜だからかも)。馬鹿な親や親戚たちからは「体重が足りん!」と言われたりしたこともある。しかし、わたしの体重が55キロ以下だと、死ぬとでも言うのか? 太ってるとか痩せているとか、何れにせよ何故そこまで気にする必要があるのか、わたしには理解できない。



ねむい :-)
1998年5月25日(月曜日) はれ/にわか雨

ねむい :-) 昨日は何をしていたのか床に就いたのが3時、だから眠くて眠くて。飯を作る気もしなかったから、久々に外食したのだ..それも吉野屋。でもたまに食うと旨いのだ、卵を落として、紅生姜はタダだから遠慮せずにタップリ入れて。貧乏臭いけど、うまい(笑)

最近、自宅のPCのWindowsの挙動がおかしい。バックアップを取り、全部消してOSから再インストールしてやりたいところなのだが、それも面倒くさくてやる気になれない。事の発端は、ネットワーク関連の設定をいじったときだと考えられる。その時に。どうもいつもと違うことに気付いたので、変えた設定を元にもどしたのだ。しかし、異常は元に戻らないところがWindowsらしい。理屈の上では、変えた設定を元に戻せば、異常は解消されるはずなのだが。

馬鹿なOSならばそれでも良いから、どこのファイルに何の設定があるのかぐらいは特定して欲しいものだ。どこの設定をいじっても思うように行かなかったり、ある設定を変えたら全然関係の無いところに問題が起きたり..いったい内部ではどうなっているのだと、設定ファイルらしきものなどをエディタで覗いてみるが、よく分からない。そう言えばプラグアンドプレイなんかも、無い方がマシってときが多い。ジャンパー設定ほど分かりやすい設定方法は無いのに...と思うのは廃人だけなのだろうか? 初心者のマトモに動かない馬鹿PnPで悩んでいる姿を想像すると、誠に気の毒に思う。勝手に動いてくれるはずのものが動かないより、自分で工夫して動かせた方が良いのでは?

FreeBSDと比較するのは(BSDに)失礼な話かも知れないが、/etc/ にあるファイルを隈なく探せば大概のことがわかるのとは大違いだ。まあ、今日は恐怖の sendmail.cf をエディタで触わっていたが、あのファイルだけはいつ見ても神の領域だ。Windowsと違うところは、書いた通りに動いてくれるところかな。



琴線不感症
1998年5月24日(日曜日) しとしと

5月16日に書いた「タイタニック」において「感動に値するものではない」と書いたが、それを読んだある人から「無感動だ」と言われてしまった。実のところはその通りなのだが、小さい頃は自分の無感動さによく悩んだ。昔から小説などを読むのが嫌いな方で、滅多に読まなかったのだが、たまに「泣いたよ、これ」などと薦められたりすると、騙されたと思って読んでみたこともあった。ところが、他の人が泣いたという小説でも、わたしは感動などしないのだ。内容についても、そういう事もあるのかとしか思わず、白けてしまって読むのを止めてしまう。

そんなことなので、読書感想文を書けといわれた折りには大いに困った。感想と言っても「面白くも無かった」とか「だるかった」とか、消極的なものばかりで、敢えて原稿用紙に書かなければならないような美しい感想は無いのだから。だが、周りの連中が書き上げる読書感想文を見せてもらうと、わたしには思いもつかない所感がびっしりと書き連ねてあるのだ。一体どこからこんな臭い言葉達が生まれてくるのだと思うぐらいに。そんなこともあって、多くの人が感動する作品を見ても何も感じないわたしは、実は病気なのではないかと思い始めた。その気持ちは、美女を見ても勃起せず、自分は不能なのではないかと悩む男性のそれのようなものか。しかし、今になって考えて見ると、事後正当化と言われるかも知れないが、わたしの琴線不感症は正常だったのかなという気がする。

だってそうだろう、人間が感動する作品などは、大概はそのような結果を生むように仕組まれている。例えば、テレビでやっている、動物ナンタラ番組を見て感動して泣いている人もいるが、そのようなシーンには決まって感動的な音楽やナレーションが入れられている。しかし、その映像から音楽やナレーションを取り除くと、たちまち感動は得られなくなる。まさかと思った人は、動物の出産を取り上げた番組を消音にしたテレビで見られたい。きっと違いが分かることだろう。小説を読んで泣いている者も、所詮は作者の意図された通りに心を動かされたているだけだ。そんなものを「感動」として位置づけ、やれ素晴らしいだの良かっただの。感動している自分に浸っているだけではないのかと思うこともある。

しかし、例え感動がその程度のものであってもそれが悪いと言いたいのではない。虚妄に過ぎなくても良いから感動できるのであれば、それはそれで構わないと思うし、わたしが非難する筋合いのものではない。ただ、実際に自分が目で見る物理現象では感動しないとわたしは思うのだが、その認識は重要だと思う。テレビで見た動物の出産シーンで感動しても、実際の出産に立ち会って感動できるのか? テレビドラマで見た人が死ぬシーンで感動したからと言って、実際に死に行く人や死屍を見て感動できるものなのか? バーチャルなものを見て感動し、それがあたかも実際の物理現象として捉える様は、ある意味危険であると思うのだ。



ホームページ
1998年5月23日(土曜日) はれ

会社のホームページを作り替えた。従来のものは整理されておらず、訳が分からなくなりつつあったので、新装開店させたって訳だ。何年前のことだったかは忘れたが、HTMLというものを始めて触わった時は、何かのきっかけで「ホームページ作成講習会」みたいなものに参加したときだったと記憶している。その頃は今のように猫も杓子もインターネット騒いでいた訳ではなく、まだブラウザはMOSAICなんかも使われていて、ネスケもボチボチ、IEなんて存在すらしてなかったと思う。

世の中には「ホームページデザイナ」って専門のデザイナの人がいるそうだけど。実を言うと、デザイナが作ったと思われるサイトは、見栄えは良いと思うが、チャラチャラしてて嫌い(^^; 女に例えて言えば、いわゆる「ケバイ」って種類ですな。馬鹿みたいに階層が深くて、結局どこにどんな情報があるのか分からなくて、実用性という概念を著しく欠落しているサイトとか、ありますよね。



エリート志向
1998年5月21日(木曜日) はれ

趣を全く異にする2校の高校に通った経験がある。まずは、関西では良い大学と言われているが、共産主義の赤旗大学としても有名な某R大学の附属高校に第一期生として現役で入学した。この学校は高校大学の7年一貫教育を売りとしており、あのまま通っていれば、今頃はエスカレーター式にR大生になっていたかもしれないのだが、入学から数ヶ月で中退。勿体無いと多くの方に言われたきたが、肌が合わなかったものはどうしようもない。この辺から人生転落物語が始まるのだが、それは別の機会にでも書こう。

その次にいった学校は無く子も黙る、悪名高き大阪市立C高校だ。大阪の公官庁街の外れに聳え立つ7階建てのビルがその本拠地である。市内の商業高校を何校か廃統合し、その少し以前に廃校となった中学校跡に建てられたという、都市のドーナツ化現象を顕露したような学校だ。定時制過程があったり、単位制過程があったりで、それが1部〜3部ある。そのため、昼頃から出てくる生徒がいたり、それに制服なんか無く、どことなくガラが悪く見えたりするようで、何となく悪名が高くなってしまうのも理解できる。そんな雰囲気も決して悪いものではなかったが、わたしは今年の初めに中退した。二度目の高校ぐらいマジメに行けと多くの方に言われてきたが、面倒臭くなったものはどうしようもない。この辺から人生孤城落日物語が始まるのだが、それは別の機会にでも書こう。

前者の学校の特徴は、来てる人間の粒ぞろいが良かった、いや、良すぎたと言うべきか。そもそも大学直結と宣伝しただけでエリート志向の人間が集まってくる気がするが、それに加えて入学審査を行い、篩に掛ければ似たような人間で固まってしまうのも無理はない。例外もあるだろうが、そのような風通しの悪い全日制学校に現役で入学したら必然的に視野が狭くなるというか、視線を変えろと言っているのではないが、周辺視野の角度がその世界の外に広がる可能性は低いだろう。それに比べると、後者の学校のように外観や世間体や統一性は悪くても変な奴(ここで変というのは、おのおのの世界基準から外れているという意味で)が多くいる組織では、風通しも良く、視野の狭窄するどころか、逆に広がる可能性さえ有り得る。

実際のところ、初めの高校では無駄な月日を過ごしたという後味の悪さが残るが、二度目の高校ではその感はない。怪しげな奴とか、過去が複雑な奴とか、まあ色んな奴いるわけで、そういう人間との出会いがなければ今のわたしはなかっただろうと、正直に思う。エリート志向や、その筋の学校が良いとか悪いとかを決着付けたいのではない。ただ、世の中には変な奴やらも含めて色んな奴がいるのは言うまでもないことだし、その色んな奴に包括される意味でエリート志向もあっても良いだろう。しかし、他のあり方が無いかの如く扱われ、構成員がそうと妄想している(少なくともわたしにはそう見える)ような所では、これと言った発展性もないと思う。

知り合いの中学教員曰く、中学校でも他視点を覆い隠しているようなエリート志向が横行しているらしい。原因は生徒ではなく親にあるそうで、親の視野が狭いからいけないのだと言う。高校ぐらいだとまだいいが、中学あたりだと現に色んな奴がいるから、そういう雰囲気の中で疎外される人間も出てくるだろうし、色々と問題があると思う。



熱中?
1998年5月20日(水曜日) はれ

わたしは何事においても決まった作業を淡々と続けるのは大嫌いで、なかなか一つの事に集中できない方だ。今日こそは片付けようと決心し、あまり気の向かないようなことを処理していても暫くするとにやる気が失せてしまい、別のことをしたくなる。だからと言って、その別のことに熱中するかといえば、そう言う訳でもない。結局、それにも飽きて元どおりのことをやっていたり、また別のことをやっていたり..変な所でタスク切り替えばかりする、設計の悪いマルチタスクのような人間なのだ。

そんなわたしだが、本当にどうーーでも良いようなことに妙に熱中してしまうことがある。そんな時は食うことも寝ることも忘れてしまい、メシ抜き徹夜も苦ではなくなるし、他のことはまるでやる気が起こらない。分からないことなども異様に熱心に調べたりして、見付けた文献が難解すぎて書いてあることがわからなければ、それを解読するための文献を探していたり。その結果に発生する成果も、大した意義などないようなことなのだが、本人は真剣そのものだったりするのだ。

そんな性格が影響したのか、結局は詰まらないと思ったら学校はやめてみるし、仕事だって給料を得るための手段として打算的に捉えなければ、続ける自信はない。そういう人のことを、世の中はオタクと呼ぶのか...日頃はごく普通に社会生活を送り、オフの時はおもいっきりオタク道に走る。こんな生活ができれば理想的だと思うのだが、わたしの道程はまだ遠いようで。



メールとかWin98とか
1998年5月19日(火曜日) くもり

会社にて、わたしのついていけない話題が交わされていた。どうやら、あるテレビドラマのお話らしい。そりゃ、わたしはドラマなんか全く見ないので、ついていけないわけだ。どれどれ、何となく今夜9時からやってるどうでも良いようなトレンディドラマを見てみると、なかなか興味深い。何だか知らないが電子メールとやらが過度に美化されて恋愛ツール?やらに仕立て上げられている。職業柄、電子メールを事務連絡用の媒体にしか使わないわたしとしては、メールなんかに美しいイメージなど無いからねえ。

ちなみに、メールの送信時には認証といえるような認証が無いので、メールの内容は信用できるものではない。送信元の氏名やアドレスや時刻など、大体のものは任意に設定できる。他人に成りすましてメールを送ることも可能なのだ。

Windows98の話題が新聞に載っている。朝日新聞は「人気基本ソフト」と書いているが、そうなんだろうか。わたしの言語解釈が正しければ、「人気」とは人々から好かれていてこそのものだと思うのだが、独禁法違反で提訴されるようなソフトが好かれているというのか? わたしの所では、できれば使いたくないが、使わざるを得ないから使っているようなもの。嫌がる人も魅了す、Windowsの泣く子も黙る「人気」ってやつかね。



不景気?
1998年5月18日(月曜日) あめ/くもり

不景気だ不景気だと騒がれているが、今週のわたしは極めて景気が良い。
今日は刺し身食ったぞー、景気いいだろー(そういう意味じゃない...
星の巡りが良いのだろうか、何だか知らないが妙に上機嫌なのだ。

でも、書くネタが無いことの解決にはならないですな。

あーそうそう、インドネシアの方々は大変なようだ。ジャカルタ周辺には、割と多くの数の日本人がいる。行け〜と言われたら家族道連れで世界のどこでも飛ばされるジャパニーズサラリーマンは大変だね。わたしなんか転勤はおろか、出張さえも無さそうだ。それどころか、平日は自宅から半径1キロも動いてないんじゃないだろうか...運動不足が著しい気がする。

えー、そんな訳でインドネシアに自衛隊の輸送機が出ていったとか? わたしがもしインドネシアにいて、どうせ緊急帰国するなら、もちろん輸送機に乗って帰りたい。普通の航空会社の普通の旅客機で帰っても、普通通りで面白くない。乗り心地の悪すぎる(と思われる)軍用機で、自衛隊員に囲まれながら帰ってきたら、2〜3日は雑記のネタに困らないだろう。



映画に見る上流階級の話
1998年5月17日(日曜日) くもり

昨日タイタニックの話を書きながら思ったのだが、映画を見るだけで何でこんなに苦労しないと行けないのかと思うことがある。話題の映画はいつ行っても混んでいるし、入館料も安くはない。中に入ればカップ入りの飲み物が、足元を見やがって200円だぞ、ふざけるな! 実家に住んでいたころは、もっと大変だった。映画を見ようと思ったらわざわざ電車で大阪か京都まで出ていって、並んで、というパターンになってしまう。それだけでほぼ一日が潰れてしまうし、下手をすると交通費などの直接関係の無い経費が入館料を上回ったりする。

それ以来、わたしの中では「映画を見に行くこと=この上なく面倒くさいこと」という構図が出来上がってしまった。そのうちビデオで見るか、テレビでやってくれるだろうからと思って、映画鑑賞は好きだが、劇場からは遠のいてしまったのだ。それが、横浜に来てから、伊勢佐木町辺りの映画館まで歩いて行ける便利な場所に住むようになった。それでもわたしの大嫌いな混雑という問題は解消されないが、前より気軽に見に行けるので、そろそろこの構図から脱却したいとは思う。おまけに、勤労者福祉共済とやらの被共済者証を見せると入館料が割り引きされることが判明。学生の時と同じ価格で見られるから嬉しいのだ。

繰り返しタイタニックの話題で申しわけないが、慢性のネタ不足に付き構わず続行する。あの中に出てくる上流階級の行動を見ていると面白い。何らかの非常事態を題材にした物語では、必ずと言って良いほど「こういう時は身分なんか関係ないんだよ」という感じの設定がある。例えば、最初は優先的に助けられそうだった上流階級は結局は死んじゃって、実際に助かったのは努力をした貧乏人という設定などなど。そしてそのような描写を、わたしのような貧乏人が見て「ケッ、上流階級とて所詮はそんなものよ」と喜べるようにできているのだと思う。

これは、貧乏人は普段から金持ちや上流階級の連中を純粋に羨むのではなく、潜在的にどことなく妬んでいる(=金持ちだから偉いのかクソヤロー、など)から「非常時に襤褸が出る」のを見ると「ザマ見ろ」と、妬みの溜飲が下るというか、何となく爽快な気持ちになれるもだと言える。特にそういう状況は現実には起こりにくいことから、映画の中だけでも発生してくれると、観客として見ていると実に楽しい。ところが、そういう見方をするとタイタニックは特殊だと思った。一部のシーンを除くと、上流階級は映画の中でも良い思いをしているのだ。助かる時も優先的に救命ボートに乗せられ、3等客室の貧乏人はあまり助からない設定になっている。やっぱり金持ちが優遇され、非常事態にまで現実的な不公平感を残している点が、特徴的だと思うのだ(*注)。

同じような観点で日本の皇室報道を考えると、実に特殊だと思う。普通、ワイドショーが皇室のような手の届かないぐらいの上流階級を取り上げるならば、イギリス王室のように、スキャンダルを伝えなければ意味がない。王室という上流階級の人間が、不倫だの離婚だのの不名誉な話題で連日のように下品な新聞に書き立てられてこそ、庶民は喜ぶはずだ。ところが、いやがうえにも上品な声のアナウンサが「今日の雅子さまは紺のブラウスをお召になり〜」とポジティブなレポートするのは、全く正反対のことなのだ。

わたしに言わせれば誰が何色のブラウスを着てようと知った事ではない。しかしどう言う訳か、わたしの母親はこのような報道を見て喜んでいる。本人に直接理由を聞いてみると「最新のファッションが〜」などと言うが、真相はよくわからない。皇室婦人が多くのヒマな女性の憧れの的になっているのだろうか? 象徴天皇制が意外なところでその象徴性を発揮しているのかも知れない。

注:現実の話を元にしてあるだけに、当然といえば当然だが。



タイタニック
1998年5月16日(土曜日) はれ/くもり

久々に映画を見に行った。前から見たいと思っていたタイタニック、混雑が嫌で、おまけに映画館へ行くのが面倒くさて、いつまでも放ってあったのだ。本日は特に予定が無かったので、今日こそは見に行くこうと決心...が、最初に行った劇場では「満員です」と言われる。そこで別の劇場を紹介され、そちらに行ってみると「直前でも座ってご覧頂けます」と。混雑しにくい?18時40分始まりの分だったので、終わったら22時前になってしまったが、遅くなるのは別に気にならないので良しとする。というわけで、これから夕飯。

タイタニックだが、ストーリーはさておき、映像技術は良く撮った映画だと思った。圧倒されるシーンの半分ぐらい(殆ど?)はCGらしいので「撮った」というよりは「合成された」と言うべきだろうか。船の中に海水がドバーと流れるようなシーンなどはかなり昔から完成されていたから、目新しくもない。それよりも、実物大の本物に見えるタイタニックが動く人物を乗せて大海原を進むシーンなんて、普通に撮ろうと思っても撮れるものではない。まだ如何せん作り物っぽさが微妙に残るものの、あんなものをCGで作ってしまう人は凄いと思う。

ところが、最近ハリウッド映画は全米人気ナンバーワンなどと言いながら、タイタニックも含めてストーリー性は大したことのないものが多い。タイタニックを「実話を元にした感動のストーリー」と評価する声をどこかで聞いた気もするが、わたしに言わせれば、災難発生時におけるあのような物語は特殊なものでも何でも無い。身分の違い過ぎる恋愛というのは良くある設定だし、それを沈み行く豪華客船という舞台でやればどうなるかなど目に見えている。駆け落ちしようと誓い合ったアツアツの状態から、突然二人が引き裂かれそうになったり、片方が死んでしまったりという事態が発生するのは、ごく自然なことだ。そこにお母様の反対や、悪役婚約者の妨害などのイベントをいくつか付加してやれば、物語は早完成だ。後は音響や画像効果などで適当に修飾し、意図的な心理操作で感動を導き出してやれば感動を呼ぶパニック映画に出来上がる。

言っては悪いが、わたしでも書けてしまいそうな程度のシナリオに、「感動ストーリー」などの過大評価をする自称映画評論家などの意見は無視するのが一番である。もしそんな言葉を信じて映画を見に行けば、期待外れにガッカリとするのはあなた自身だと言うことを忘れてはならない。つまり、今後もハリウッド映画のストーリー性が向上するとも思えないし、期待してはならないということだ。日本人が最新ハリウッド映画を見る時は、「おおーこの特撮すげー」と技術を評価するのが正しい(アメリカ人には別の見方があるので、日本人に限定だが)。金もかけず、特殊なこともせずに、感動的な映画を撮る人もいるんだけどね。こういう人は、認められにくいんだろうか?


注:「全米人気ナンバーワン」は、実は毎週集計しているので、ちょっとした映画なら公開時期を調整するだけで全米ナンバーワンになれるのをご存知だろうか?



人体汚染
1998年5月15日(金曜日) くもり/はれ

歩いて行ける距離に松坂屋がある。夕方の閉店間際に行くと地下の食料品売り場では過激な安売りをしているので、割と良いものが安く買えたりするのだ。特に魚屋は値引率が激しい。定価が600円か700円かの石持が値切ると250円に...元の値段は何だったんだ? といいたくなるが、安いことは良いことだ。最近はPOSとか消費税とかのお陰で値切るのが難しい。バーコードなどで予め値段が決められていると、レジに通すだけの場合が多いので値引きはなかなか期待できない。また、消費税も値切りの際には邪魔臭い存在だ。「これとこれで300円にしてよ」「うーん、まけてあげるよ。じゃ消費税が入って315円ね」なんて言われたりする。プロの値切り師は15円ぐらいなんとかするのだろうが、気の弱いわたしにそんな高度なテクニックは無いので15円を払う羽目に...どうも納得いなかない。

本日の朝刊で一際目を引くのが、(社)日本即席食品工業協会の意見広告だ。最近問題になっている環境ホルモンが、カップ麺などの発泡スチロール製容器から溶け出し、人体に影響を及ぼすという説があるらしい。この広告は、それらの報道などに対する反論であるようだ。スチレンダイマー、スチレントリマーなどという、環境ホルモンの疑いがある物質がカップ麺の容器に微量に含まれているらしい。そして、それらがラーメンを食った人間に悪影響を及ぼす可能性があるのだという。ところが、同協会はそれらの物質が容器から溶け出すことはなく、人体には影響を及ぼさないのでカップ麺は安全だと主張している。

その協会の実験報告によると、容器に90度の熱湯を30分間入れても、お湯からはスチレンダイマーやスチレントリマーは検出されなかったそうだ。そう聞くと何となく安全に聞こえるが、空のカップにお湯を入れてお湯を飲む奴はまず居ない。スチレン・・・あいにく専門外のことなので詳しくは知らないが、いかにも油に溶け出しそうな名前の物質だ。スープや麺には油も多いので、お湯だと溶け出さないが、油を含む食品だと溶け出す可能性は否定できない。実験するなら、実使用状況も考慮にいれてやってほしいものだ。この広告に対してわたしが言いたいのはこれだけだ。

実は、わたしも最近の環境ホルモンがどうとかこうとかの報道に疑問を持っていないわけではない。環境ホルモンが身体に悪影響を及ぼす、で、俺にどうしろと言うのだ? 仮に話題になっているあらゆる物質が危険であるとしてもだ。そこでカップ麺を食うのを辞めるわけには行かないし、野菜の農薬を全廃するわけには行かないだろうし、他にも帰られないことはたくさんある。結局、今の生活は捨てられないのだ。カップ麺が危険だからと言われて無くなれば、家事をしたくない日に食うものが無くなってしまう。農薬が危険だからと、仮に農薬を全部禁止にしてしまえばどうなるか? その結果、野菜の値段が今の何倍にも跳ね上がってしまうことをよく考えて見られたい。

地球上に何十億の人間が生息しているのかは知らないが、そもそもそれほどの数の人間が自然に身を任せて食っていこうとするのが無理な話だとはいえないだろうか。そうなれば少々の健康被害には目を瞑って農薬を使い、生産効率を上げることも仕方が無いと思う。今や日本人の平均寿命は70ぐらいだったか、取り敢えず寿命だけは必要以上に長いし、健康状態も極めて良好だと言える。それなのに、まだ求めなければならない「健康」があるのか? これ以上長生きして何になるというのだ。

わたしは科学的な向上心を否定しているのではない。つまり例えば農薬の話でも、仮に科学力がより進み、人体に無影響な農薬が開発されれば大変良いことだと思う。その為には、問題定義も向上心も必要だと思うのだ。ただ、それにマスコミや一般市民が同調して、やれカップ麺がどうだの騒いだところで楽しいか?といいたいのだ。



あたま悪いしぃ
1998年5月14日(木曜日) くもり/はれ

誰も読みたくも無いような話題で大変恐縮だが、わたしは頭が悪い。足し算なんかでもキャリーが立つとたちまち分からなくなるし、漢字は書けないし、高校へ行ってた時は1年で30単位中4単位しか認定されなかったので、見切りをつけて辞めた。そんなわたしだから電卓は手放せないし、手書きの時もよくFEPにお世話になる。こちらの会社に来てから自分の机に入ってた電卓が正しく機能しなかったときはかなり困って、新しい電卓を用意してもらうようにと要求したものだ(わたしにとっては死活問題)

まあ電卓もFEPも揃っているから、どうにかなるものだが。今日はTVチャンピオンで漢字王選手権みたいなことをやっていたが、よくぞあそこまで訳の分からない漢字が書けるものだと感心する。わたしにとっては存在すら知らなかった漢字のオンパレードなので、今後死ぬまでそれらの文字を知らずにいても実生活上の支障は無いと思うが、知っていたところで無意味だと位置づけるべき漢字が腐るほど書けるのも、ある意味すごい気がする。わたしの場合、不必要なことはおろか必要なこともなかなか頭に入ってくれない。いったん覚えた情報はあまり忘れたりしない方だと思うのだが、ちゃんと覚える以前にキャッシュメモリーから抜けていくので困ったもんだ。

頭の良い人っているよね。クロックは速いらしく、キャッシュも速くて、重要なことはキャッシュから消える前にちゃんとどこかに保管してる人。わたしが特に頭の悪い人間なので基準点が低いためか、そんな人は周りにも何人もいるが、しばしばついていけなくなる。おいおい待ってくれ〜と思った時には、かなり先に行ってしまっているので追いつけない。失礼な話かもしれないが、頭の良い人達が妙に冷たい人間だと感じることが、わたしには時々ある。思考に無駄が無さ過ぎるためなのか、彼等から発せられる無謬な言葉からは情味が欠落していると感じられたりする。

彼等にだって、悪意はないのだと思う。逆に彼等に言わせれば、わたしのような頭の回転の悪い奴とは一緒にいるだけでも、ストレスの種になるのかも知れない。頭の回転が速いとされる人の87%が、回転の遅い奴は嫌いだと答えたとする統計さえある(うそ)。そんなわけで、俺も頑張らねばという自己強迫と共に19年間生きてきたが、結果はやっぱり駄目のようだ。



会社人間
1998年5月13日(水曜日) はれ

最近忙しい。仕事じゃなくて、家に帰ってから妙に忙しいのだ。することが溜まっていて一つ一つ処理していっているのだが、その間にまた一つすることが増えるという感じ。こんな時に限って、友人からどうでもいいようなFAXが送られてくる。シカトでもしたいところだが、それではちょっと失礼だし、何か書いてあげなければ..

忙しいといえば、会社員の方で仕事が忙しくて堪らない方もいるのではないだろうか。最近、朝日新聞に「マリオネットと暮らして」という連載が出ている。会社人間の過労死がどうだとか、暗くて重々しい内容ばかりなのだが。わたしも会社員だが、自分のやっている仕事が比較的のんびりとしているせいか、恐らく過労死はしないだろう。特にダラダラと残業するのが嫌いな方なので、周りが幾ら忙しくしてようとも、わたしは平気でお家に帰ってしまう方だ。

わたし中での、労働者と使用者との関係における考え方は大変ドライなものだ。暫くフリーターとか委託みたいな仕事をしていたせいなのか、仕事というものは「ある仕事を1時間やって何円」とか「ある仕事を1件処理して何円」という概念として身体に染み付いてしまっている気がする。つまり労働者は仕事をして、その代償として給料を貰う。言い換えれば、労働者は給料以上の仕事はしない。今までこれでやってきたので、何となく、これで慣れてしまった。

会社人間がどういう人間か知らないので何とも言えないが、彼らは会社に忠誠を誓っているのだろうか? あるいは会社に対して卑屈になっているのだろうか? わたしの親父なんか見てると明らかに会社人間という気がするが、そこまで会社のために尽くして、自分も家族も犠牲にして、一体何のためになるのだと思うものだ。そういう人間が出世するのかも知れないが、されど勤め先は大企業。親父はまだ退職していないが、どう頑張ってもいわゆる「幹部クラス」までは行かないだろうから、出世したところで大組織の大勢の中の一人に過ぎない。それでも得るものがあるのだろうか。

大企業に勤める親父と、ぷー太郎だったり零細企業に勤めたりしているわたしとでは、その辺の考え方も違うのかも知れない。しかしわたしとしては、働く目的から奇麗事を差し引けば、やはり金ぐらいしかない気もする。



サッカーくじ
1998年5月12日(火曜日) あめ/くもり

今日はどうもお鼻の調子が悪い。朝から鼻が垂れるのは、雨のせいだろうか? 天気の悪い日は、お鼻の締まり具合も悪くなる気がする。なんかムズムズと気持ちが悪くて仕事がやりにくいので、今日は早めに家に帰った。

サッカーくじ法案が可決したらしい。各方面で多種多様な議論があるようだが、そんなに騒ぐことなのか、とも思う。もっと慎重な議論が必要だとか、青少年の教育上芳しくないとか、色々なご意見があるようだが、チンタラと議論していて何が変わると言うのだ。こんなことを議論しても、結局はサッカーくじを認めるか認めないかだけが決まるだけのことだ。くじを販売する前からPTAかどっかのババァ等が集まって議論して、青少年に悪影響を及ぼすかどうかが判明することだとでもいうのか?

そういう議論しても結論が見えてこないことは、取り敢えずやってみればいいと思うのだ。くじの販売をいったん始めるたら、二度と止められないというものではない。例えば期間限定などで「取り敢えず」試験的にやってみて、その結果から継続するかどうかを考えるというやり方ではいけないのだろうか。いったん始めると止められない事務上の体質は変えなければならないが、現実問題としてくじの販売などやめることは可能だろう。今みたいに下手に適当に始まってしまうと、いくら文部大臣が販売を停止できるといっても、結局止められなくなる可能性は十分あると思うのだ。

まあ、金の使い道とかは別の問題だけど。文部省役人の天下り先になるんじゃないかとか、そういう問題はあるが、新聞も書いてるからここで説く必要も無いだろう。




1998年5月11日(月曜日) くもり/あめ

何の変哲も無い月曜日。ただただ、時間がいつものように流れていく。

数日前、ちょっと変な夢を見た。その内容をここに書くと人格を疑われる可能性が大変高い気がするので伏せておきたいが、まあ妙な内容だったのだ。現実には有り得ないことだが、妙に現実的なのだ。そして話が二転三転して、結局なんのことだったのか分からなくなったころに目が覚める。夢というのは不思議なものだ。

比較的はっきりと覚えている夢には、二通りの種類があると思う。一つは、イメージが輪郭だけ構成された感じの、全体的にぼやけたもの。真っ白の画用紙に鉛筆だけで描いて行ったような、雰囲気は分かるが詳細は分からないようなやつだ。もう一つは、三次元的なイメージで、色鮮やかで、細かいところまではっきりと描かれた、映画のような夢。概ね前者の場合は、どうでもいいような夢に多いと思う。逆に後者は、先日わたしが見たような、気になる内容の夢の場合に多いのではないかと感じられる。

生まれた時からの視覚障害者、つまり一度も映像というものを見たことがない人間も夢は見る?らしい。見ると言っても日常生活から映像という概念が欠落しているため、夢も映像で見るわけではないそうだ。音でもない絵でもない、感覚のようなものでイメージを感じ取るということだが、どんなものなのだろう。



親への手紙
1998年5月10日(日曜日) はれ/くもり

残り物処分市! 冷蔵庫にあるものを何も考えずに混ぜて炒めてみる。調味料ももちろん適当だ。が、これがけっこう美味しい。ちゃんと考えて作ったものは不味かったりするのに、何も考えずに作ると意外と美味しかったりするから世の中分からない。

以前に福井県かどっかが一般募集した日本一短い母への手紙みたいなのが話題になったが、日本一醜い親への手紙というものがあることも忘れてはならない。日本一短い母への手紙では、母と子という関係が意図的に美化され、特に賞を貰っているもは感動を呼ぶような内容だけに限定されているいうに思える。例えば「死ね、母よ」も短くて、感情がこもっていて、「日本一短い母への手紙」という基準を大変よく満たしていると思うが、美化された審査基準には通過しないことはだろう。

ところが、現実には感動の物語だけが母と子の関係じゃないことは、今更ここで説くまでもないことだろう。つまり、そういう感動物語も否定はしないが、それらだけを読んで喜んでいるだけではいけない。それでは、ゲルマン民族の優位性を証明するために多くのユダヤ人が虐殺されたことを、民族優位性物語だけを聞いて喜んで、その裏側にあった虐殺を無かったものとして扱うのと同じことだ。汚れたものに目を瞑るだけの欺瞞に満ちたタテマエに疑問を感じるあなた、物足りないというあなたは、「日本一醜い親への手紙」を是非読まれたい。

と、ここまで「汚れた物語」をオススメするのは、これらの手紙が欺瞞や面白半分では無い、より現実的な話だと感じられるから。読んでいると、何となくいまニュースになっている少年事件などの裏側あるものが、見えてくるように思えるからだ。



サウンドカード
1998年5月9日(土曜日) はれ

今日は洗濯してから秋葉原へ...

サウンドカードを買ってきたのだ。いままでサウンドカードも入れていなかったのかと言われると、その通り。サウンドカードも買えないぐらい貧乏だったのだ。まあ今どき音もでないようではちょっと寂しいかと思い、Sound Blaster AWE64 Value のバルクが1万円弱であったので購入。遊びに使う程度なら怪しげな安いやつでも良いではないかという意見もあると思うが、NT4ではマトモな物を買わないと認識すらしてくれない場合がある。同じくNT4が入っている会社のマシンで怪しげサウンドカードを動作させた時の苦労話は、涙無しには語れない。

家に帰ってから、早速インストールしないで飯を食ってから、ゆっくりインストール。拡張スロットにSBを挿すぐらい普通なら何の苦労もしないことだ。ところが、それだけでなんと3時間近くも費やしてしまった。挙げ句の果てにはマザーをやや破損してしまって、半田付けして修理するまでに。スロットにSBを挿すだけなのに、何故? と思われるかもしれないが、その経緯は思い出したくもないので省略する。あとはドライバーを入れて一発動作。お陰で寝るのが遅くなってしまった。これでうちのPCも音が出るようになった(MIDI音源は前からあったんだけど)。

ところで、皆さんは自分のパソコンに名前をつけているだろうか? ネットワークが一般的になってきた今、ある意味において名前をつけることは必然的になってきたが、それとは関係無しに意識的に名前を付けている方もいらっしゃるだろう。斯く言うわたしも、自分のマシンには名前を付けているし、前に自宅で妖しいネットワークの実験をしていたときは局所的なネームサーバを立ちあげたりして、局所的なDNSにマシンを登録してあそんでたものである。計算機の命名方法に関しては色々な意見があるようだが、実は命名方法が解説されているRFCまでもが存在する。興味のある方はRFC1178 (Choosing a Name for Your Computer) を読まれたし。

ちなみに、これを書いているマシンの名前は「柳宿」だ。

あなたも自分のPCに名前を付けているようなら、オタク度は10段階評価で2〜3ぐらい。上記の名前が振り仮名が無くても正しく読めるようなら、オタク度は7ぐらいだろう。



いろいろ
1998年5月8日(金曜日) くもり/あめ

連休が明けてまたマジメな生活が始まったせいか、体調をちょっとだけ崩してしまった。ということで、昨日は22時半ごろに寝たので、ここの更新もできず。家事もできず。どうせそんな時刻に寝れば、朝は5時か6時頃には起きるだろうと考え、何もかも放ったらかしで床に就いたのだが、けっきょく起きたのはいつもと変わらない8時過ぎ。何時間寝ても寝足りないのは、わたしの体質なのかも知れない。

10キロ2980円の濠太剌利産の米、早速だが炊いてみた。味や粘り気に違和感は少ないが、香りが明らか違う。ご飯を炊いてると部屋中にご飯の独特の香りが漂うものだが、この米は、もち米を炊いているような香りがする。餅を家で搗くためにもち米を炊く人も少ないだろうが、実家では何年か前までは、正月前になるとそんなことをしていた。その時の香りと同じ感じというか、普通の飯とは違う。まあ、そういう細かいことを気にしないのであれば、悪くはない。わたしのように食べ盛り?で、食費に困ってる貧乏人は挑戦されては如何。

先日は横浜に来てから始めて散髪をした。床屋に行かなくてはと思いながらも不精なもんで、もう3ヶ月近く切ってない。その間にかなり長くなってしまって、セミロンゲ?になりつつあったのだ。わたしもぷー太郎→マジメな会社員って職業になってしまったなんで、このまま放っておくのも不味い気もする。取り敢えず前髪の辺りから自分で切り始めるが、よく考えると鏡が1枚しかないので後ろ髪が切れない。後ろは暫く束ねておくとして、伸びてきたら纏めてバッサリ切ってもいいのだが(何度か経験あり(^^;)



オウム真理教
1998年5月6日(水曜日) くもり

今日から会社..ダルイ。

どうでも良いけど、米を買ってきた。前から気になっていたオーストラリア産のジャポニカ米、10キロ2980円と安いので貧乏人(=わたし)の気を引く。が、10キロを食うのに1ヶ月以上を要するため、不味かったらどうしようという恐怖感から買ったことがなかったのだ。うーん、でも...今日は騙されたと思って買ってみた。まだ食ってないから味のほどはまだ分からないが。

話は変わり..修行によってカルマを超えよ! ある朝、郵便箱を見たらこんなビラが入っていた。どっかでみたような台詞だなと思ったら、やっぱり。オウム真理教の名が何の恥じらいもなくかかれてあった。まだ懲りずに頑張っているようである。宣伝内容は、好評実施中とされているのは無料体験セミナー。恐いもの見たさでその無料体験セミナーやらに参加してみたいと思うが、お化け屋敷感覚で行くには少々恐すぎるのでやめとこう。

どうでも良いことだが、わたしがオウム信者、或いは入信希望者だと思っていた人が何人かいたようだ。以前、オウムを熱心に研究していたことがあったので、そう思われても仕方がないかも知れないのだが、あのような団体が何故あそこまで発展し得たのか、当時としては大変興味深いことだった。オウムは悪だから世の中から排除して抹消してしまえば良いことだと言う人も多いが、わたしはそうは思わない。幹部が逮捕され、組織の構成員が大幅に変わってしまっているはずなのに、最近の報道などを聞いていると、オウムはまだ組織として機能しているようだ。ここまで突ついても崩れないのは、けっこう立派な組織であったと考えるべきではないだろうか。

例えその活動内容が反社会的なことであっても、それほどの組織を築き上げてきた団体である以上、オウムも社会の歯車の一つとして見ないわけには行かないはずだ。わたしは人為的にオウムを抹消できるとは考えていないが、百歩譲ってオウムという歯車を社会から外すことができたとしても、その歯車を穴埋めする形でまた何か怪しげなものが登場することは十分に考えられると思う。そこで、やはり「臭いものには蓋」方式で解決できる問題ではないという認識が大切でだと思うし、オウムが善だとか悪だとか、そういうことは切り離れて考えなければならないだろう。

信者を一般募集している場合、いくら幹部が頑張って布教活動をしても、誰にも付いていけないような訳の分からない教義では信者は増えないだろう。オウムは全く無茶苦茶な宗教であるということを前提に、言葉巧みに騙したり、お得意の洗脳技術で信者を獲得したという意見も多いと思うが、そんなチャチな手段だけであれほど多くの人間を入信させられたとは考えにくい。何故オウムが多くの者を入信させ、組織を発展させられたかを理解するためには、その教義が多くの人々にどう感じられたかを理解すべきだろう。また、オウムの思想を理解するためには、世間一般からオウムがどう見えるかなどどうでも良くて、オウム側から世の中がどう見え、世の中をどう変えたかったのかを知る必要がある。

そういうふうなことを言ってたら「あんた信者?」と思われたわけ。



ラーメン博物館
1998年5月5日(火曜日) くもり

暫く重い?話題が続いたので、今日は軽いやつ。

今日は新横浜のラーメン博物館へ行ってきた。新横浜の駅に着くと凄い人...Jリーグのゲームと Kinki Kids のコンサートが同じような時間帯に開催されていたらしく、それで大変なことになっていたのだ。わたしたちは関係のないトラヒックに巻き込まれながら、関係のないダフ屋を避けながら、ラーメン博物館へと到着したのである。

ラーメンの歴史などが展示されている1階の博物館も面白いが、その地下にあるラーメン屋街もなかなか良くできている。昭和30年代の日本の下町を再現したような感じになっていて、昔の薄暗い駅に見立てた階段を降りて行くと街が現れるという味のある設計。その中にラーメン屋さんがならんでいるのだ。しかしここも凄い人...ラーメンを食ってきたが、ここのところの寝不足の胃には少々重かった。

1階の博物館にはラーメン屋の制服(調理用の白衣やら)や、どんぶり(ハチと呼んでたが)などが展示されてあったが、前にアルバイトで働いていた店のそれらも展示されてあったのも面白かった。ラーメンは旨いし好きだが、実際に店で働いてみると、その意識は少し変わってしまうもの。衛生感覚の問題もあるが、出汁も変なもので取っていたりする。わたしは特に気にならないが、トンコツの出汁に豚の脳みそが入っていると知ったら嫌になる人もいるかもしれない。

ちなみに、わたしの理想ラーメン象はというと。まずラーメンはスープや麺が注目されがちだが、わたしはチャーシューを比較的重視する。そこらのラーメン屋で使っているようなパサパサのチャーシューは駄目、しっとりと醤油で煮込んだ、とろりと口で溶けるようなチャーシューでなければならない。麺は細めで縮れが少なく、コシはやや強めのものが良い。すこしこだわると、芯が少しあるもの、つまり麺の外側よりも内部の方が硬くなっているものが好みだ。最後に、スープはトンコツに限る。コッテリとしつつも、油っぽさや臭みのない、さっぱりとしていなければ、上品なトンコツとは言えない。

結論:麺とスープは以上に述べたもの、具は理想のチャーシューと、葱が良い。好みによって、胡椒やニンニクなどを入れるのも可。



銀行あけろーボケ
1998年5月4日(月曜日) ややくもり/はれ

今日は久々にショッピング。何となく暇だったので横浜西口の辺りで、わたしとしては極めて異例だが、洋服なんてものを買ってきた。買い物でストレス解消をするという人もいるそうだが、わたしの場合は百貨店などに行くと余計にストレスが溜まる。人は多いし、好みの商品を吟味するのは面倒だし、できれば洋服なんか買いたくない。いつも同じものを着ているのび太君は理想的である。

そんなこんなで、気付いたら財布の中身が1万円を切っていた。連休中は特にどこにも遊びに行かないつもりでいたので、あまり現金を用意していなかったのだ。銀行へ行って金をおろせば幾らでもある...と言えれば嬉しいが、ちょっとぐらいならある。そこで銀行へ行ってみたのだが。がーん、自動支払機コーナーのシャッターも下りてやがる。普通、祝日でも開いているのに、なんで今日に限って閉めてるのか困ったものだ。わたしは主に第一勧銀を使っているのだが、三和にも口座があるのでそちらも尋ねてみたが、こちらも閉まっている。というかどこも閉まってるみたいで、銀行周辺には同じような悩みを抱えてブーブー言ってる人が何人かいたから、困ってたのはわたしだけではないだろう。

ATMコーナーも、閉めるなとは言わない。ただ、A銀行が閉める日は、代わりにB銀行を開けるとか、そういう工夫はできないものだろうか? 大手都市銀行が一斉にしめてもらっては、困る人がでてくるのも当然であるといわざるを得ない(例えその旨を掲示したりしても)。新聞休刊日もそうである。一斉に休まず、朝日が休む日は毎日が読めるとか、そういう工夫はできないものだろうか。「新聞少年にお休みを」というような話で休刊日ができたと聞くが、新聞を休刊にしなければ配達員が休暇を取れないような労働体系こそが、そもそも問題ではないのか。新聞社の問題なのか、販売店の問題なのか、わたしは知りかねるが、妙なスローガンにより問題が覆い隠されているようにも思える。

なにに着けても、横並びはやめてもらいたいものだ。


社会復帰/お掃除♪
1998年5月3日(日曜日) くもり

ここの所連休で、完全に夜行性になってしまった。今日こそ生活を元に戻そうと思って、常人が寝るような時間まで起きていようと思ったのだ。そこで会社から貰ってきた雑誌に目を通しながら能を活性化し、お茶を飲みまくってカフェイン投入作戦に出たのだが。何時の間にかねてしまっていて、起きたら午後11時前だった。常人が寝る時間に寝ようとしたのに、その時間に起きてどうするんだ。

今日こそは、友人が泊りに来るので起きていなければならない。彼はきっと普通の時間帯に寝て起きる人間だろうと推測されるから、わたしだけが変な時刻に覚醒していては都合が悪いわけだ。これで体内時計がJSTに戻るかどうか..いや、戻ってもらわないと困る。泣いても笑っても6日から仕事だ。社会復帰できるかどうかが心配で..

お風呂場がやや黴っぽくなってきたので、カビキラーのようなものを撒いた。物々しい注意書きだけあってか、流石に綺麗になる。ゴム手袋をしろだ、マスクをしろだ、眼鏡をしろだと、執拗にまで書いてあるが、その格好で外を歩いたら職務質問は免れないだろうな。わたしの場合は普段から眼鏡をかけているが、マスクや手袋なんか面倒くさいので無視。自慢にはならないが、昔から漂白剤なんかも素手で触わってるのだが、特に何ともない。所詮は家庭用だから、ちょっと触わったぐらいでは大丈夫だ(大丈夫じゃない場合もありますので予めご了承ください)。

そういえば昔から怪しげな試薬とか有機溶剤とかをいじったり、ペンキが着いて取れなくなった手をガソリンで洗ったりしているが、特に何ともない。人間の肌って割と丈夫にできているようだね。うちのオカンは台所用中性洗剤に皮膚が負けるそうだが、この違いは...



ロリコン自己分析
1998年5月1日(金曜日) 晴れ

先月19日、目出度くも悲しくも彼女いない歴19年を達成したわたしだが、このままではマジで成人してしまう。ヤバイからなんとかしなくてはと思うのだが、職場は地味な会社だから出会いなんてものからは程遠いし、それこそナンパでもしない限り駄目と考えた方が良いのか。ビル・ゲイツと寝た女が「彼がマイクロソフトという社名にした理由がわかったわ」との感想を述べたとする未確認情報があるが、若い頃の彼は女に恵まれず、十分に鍛えていなかったのかも知れない。わたしが会社を興した時には「太硬(たいこう?)」という商号でも使いたいものだ。

頭から下ネタで書き始めた機会に乗じて、わたしがロリコンであると言うことに関して、自己分析結果を書いてみる(実話)。わたしがおかずとして認める年齢幅は12歳〜15歳ぐらいで、学年で言うと中学生全域ということになるが、第二次成長期前後の女性は体格などの変化が激しいので、まだ子供っぽさが残っている者に限定される。それも、あくまでも普通の娘でなければならず、チャラチャラとした連中などは却下だ。ロリコンと言っても、幼女を性的対象とするほど激しいものではなく、せいぜい眺める程度。それなら無害だし、三流のHマンガに描かれているような行為に出ることはないので安心されたい。その程度の軽症であればロリコンという用語は正しくないのかも知れないが、それ以外に適当な語が見付からないので構わず使う。

わたしがかれこれ20年近く恋愛をしていないのには、自分の女嫌いも絡んでいると思う。小学校の頃はどうだったかよく覚えていないが、中学校の頃からつい最近までは過度な女嫌いだった。女嫌いに至った経緯は話すと長いので省略するが、同い年ぐらい(同い年と限定するのは、何故か歳の違う女性とは何の問題も無かったので)の女と喋ることはおろか、女の側に近寄ることもできないぐらいの重症だったのだ。逆にわたしも女子からは嫌われていたらしく、嫌われているから嫌う、嫌うから嫌われているの悪循環。結局、中学を卒業してから更に3年ほど経った去年ぐらいまで立ち直れず(その辺の経緯はいつか書いた気がするが)、それ以前に同い年の女性と喋った記憶は無いとは言わないが、それに伴った良い思い出は皆無だ。

それからいつの頃からか、中学生ぐらいの女子に強い憧れのようなものを抱くようになった。特に、中学生ぐらいの男女が一緒に歩いている場合においては、(憧憬が嫉妬の手前の状態であると考えて)憧れを通り越した嫉妬のような感を持つことがある。その原因に、わたしが女嫌いであったことが関係しているのではないかと思うのだ。あの頃に帰りたいと思う願望ではないが、やりたい時にやりたい事、つまり中学の頃に女子と普通に接することができず、時宜が過ぎてからその当時の目的を達成している(実際は別れ話をしているのかも知れないが、傍目にはそのように見える)者を見て、悋気を抱いている。そう考えると、そのような感情を持つこと意味が説明できると思う。

ところが、中学の頃に特に不満無く同年代の女性と接していた人間を意見や、他にわたしと同じような境遇にいた人間の意見を聞いたことがないので、これが必ずしも正しいとは思っていないが...あくまでも自己分析による結果なので、これがロリコンや女嫌いなどを包括するような上等な理論だと言っているのではない。しかし、巷ではアニメ調の女子学生やら、お嬢様風の娘やらが題材にされたCGが多く流通していて、実はわたしもそういうものを鑑賞するのは嫌いではない。或いは、わたしはやらないが、恋愛シミュレーションゲームが流行ったりする。ひょっとすると、この系統の作品を好む人(特に憧れのような感情と共に好む人)には、女嫌いの傾向があった、又はあるのではないかと思ったりしたのだ。