多事毒論(1998年10月分)




万年初心者論
1998年10月31日(土曜日) くもり

今日は会社のアクロバイター(アルバイターのこと?)S氏のお宅を襲撃。彼は少し前にヤマハのISDNルータ(RTA50i)を購入したのだが、高度な設定が出来ないということでわたしが救済に行ったわけだ。そのルータには、あろう事か印刷されたマニュアルが殆ど付属されていない。基本的な事項を記したものはあるようだが、残りはCD-ROMのPDFファイルを見なさいという塩梅だ。コストダウンのためには、マニュアルさえも省くという徹底さのようだが、これは不便である。

ネットワーク屋としては、ルータはコマンドをカタカタと打ち込みながらやるものという固定観念があるのだが、最近の民生用のものにはHTTPサーバが内蔵されており、ブラウザからでも簡単に設定できるようになっている(勿論コマンドラインも使える)。IPアドレスの割り振りなんかも、DHCPが勝手にやってくれるので、そんなことも考えなくて良い。ブラックボックスなルータ様がどういう仕事をしているのか理解していなくても、一応は使えるようになっているわけだ。従って、普通の人には印刷されたマニュアルが無いのも、大した問題ではないのだろう。

しかし、便利だがやや高度な設定がしたくなった場合には、そういうユーザーはたちまち困るであろう。ブラウザから出来ることはやはり限られているし、そうなればコマンドを叩くしかない。GUIで分かりやすく簡単に越したことはないが、時として、コマンドと戦う覚悟も必要なのが、この世界の掟ってものだ。GUI設定可能なルータがポコポコと発売されているところを鑑みるに、万年初心者的な人も買っているのではないかと思うのだが、そういう人間がルータなんか買って何をするのだろう? 高度な設定をして、普通のダイアルアップ接続と差別化できてこそ、価値があると思うのだが。

いや、わたしは初心者が悪いと言っているのではない。誰にだって初めてのことはあるのだから、決して初心者が悪いのではない。ここで問題にしたいのは、「自分は初心者だから」と向上心を捨ててしまってる、万年初心者だ。彼らには、マニュアルは読もうとしない、新しいことは覚えようとしない、ややこしいことは直ぐ人に頼る、などの傾向が見られ、各要素は相互に作用し、悪循環に陥る結果となる。更に、人に聞いて「そのぐらい自分で調べろ」と言われたら、「何も教えてくれない冷たい奴だ」と、自分の学習意欲の欠如を人に転嫁するので、救いようがない。

少しオーバーに書いたきもするが、こういう話は技術系のニュースグループや、メーリングリストなどで見られる傾向である。確かに、それなりの知識を持っている者は冷たいように感じられ、とりわけ初心者を嫌っているようにも見える。しかし、そこらに書いてあるようなことを質問する側に問題があり、敢えて返答を書く必要は無い、というのは筋の通った話だろう。仮に初心者が嫌われていたとしても、マニュアルなどをある程度把握していれば、その人はもう初心者の域は卒業しているのだから。



サウンドカード
1998年10月30日(金曜日) くもり/小雨

最近、会社のPCに入れているサウンドカードで苦労している。会社にはサウンドカードが何枚か転がっていたが、NTを入れているのでプラグアンドプレイのサウンドカードは認識すらしてくれないものが多い。その中で、たまたま動くものがあったので、それを使うことにした。ところが、その音質は極めて酷く、音量は殆ど上げていないのに音が割れる。そいつは、オペアンプで直接スピーカーをドライブしていたのが原因のようだ。

いい加減にまともな音が出るものが欲しくなり、秋葉原でYAMAHAのXG音源が乗ってるPCIのサウンドカードを見つけたので買ってみた。PCIでNT用のドライバも入っていたので、認識には困らない。それにXG音源付きならMIDIもそこそこの音質でなるであろうと思ったわけだ。ところが、能書きには4ワットのアンプ付きと書いてあるにも関わらず、音量が極端に小さく、それに低音が全く出ない。ボリュームコントロールを前回にしても、聞こえるか聞こえないかという程度の音なのだ。最初は何かの設定ミスかと思ったが、そうではないようだ。

幸い、会社に同じアンプのICを使ったサウンドカードが転がっていたので、アンプ周りの回路を見比べてみた。どう見ても、新しい方に乗ってるケミコンの数が少なく、ついているものの容量も小さすぎるのだ。回路を調べたところ、新しいサウンドカードに載ってる部品は明らかに間違っている。買ったばかりなので保証期間内ではあるが、そのために秋葉まで行くのも面倒だ。音が小さすぎると言ったら、どうせ動作試験をやってみたりと時間もかかるし、修理してみることにした。

で、まず問題はアンプ周りのケミコンだ。古いサウンドカードには100uFのケミコンが乗っているのに、新しい方は同じ場所に4.7uFのものが付けられていた。これはきっとゲイン調整用のケミコンだろうと推測、容量の大きいものに取り替える。そして、スピーカ直前に入っている直流カット用のケミコンは、本来ならば470uF程度の大きなものがついてなければ低音がカットされてしまうのだが、ここにも何故か4.7uFがついている。これでは、低音がカットされてしまい出なくなってしまう。取り敢えず、手元にあった220uFのものに取り替えた。

そしてPCに戻して音を鳴らしてみると、音量も普通になり、低音も出るようになった。これは明らかに、部品実装間違いだ。こんなものを製品として売るなよ>TwoTopめ。ところが、まだ問題があった。スピーカを端子に繋いでいる間は特に異常はなさそうなのだが、スピーカを抜くとたちまちアンプICが手で触れないぐらいの温度になってしまう。異常発振かもしれないが、詳しい人が言うには、DAコンバータのローパスフィルタが欠落しているからかもしれない、ということだった。

近々、秋葉へ行く用事があったら部品を元に戻して文句言ってやる。なければそのまま。



民主主義と安定期
1998年10月29日(木曜日) くもり

馬鹿な人間ばかりがいる組織で選定された代表者は馬鹿以外にあり得ない...という理屈が正しいならば、国家の代表者においても、民主主義的に選ばれた代表者にその国民よりレベルの高い人間が選ばれることはあり得ないはずである。民が選んだ民による政治には、極端なハズレはなくとも、またアタリもない。なぜなら、救いようのないような人間は最初から選ばれないが、一般人の中から突然「英雄」のような者が生まれるはずもないからだ。もっとも、ヒロイズムを普及させようとしている訳ではないが。

建前上は民主主義を唱えている日本も、当然ながら当てはまる。このごろの政治に対する批判は改めて説明するまでもないが、批判の相手は民自身が民の中から選んだ人間、又はその選ばれた人間が運営するシステムであり、政治に問題があるならば、問題は民に回帰する。ここでは、その問題がなにであるかを考えたい。1998年6月26日の多事毒論で、民主主義は虚構に過ぎないと書いたが、そのような偽りの物語はいつかは破綻するものであり、そろそろ民主主義の建前と現実の隔たりが間接的な実感として現れてはじめているのではないかと思う。それは例えば、政治システムへの絶望や諦め、無関心など色々とある。

民主主義は虚構ではあるものの、幻想が事実と信じられている間は機能していたはずだ。では、それはどういうときなのか。わたしの考えによれば、民主主義には国民の向上心が必須だ。何らかの理由で国民に向上心が芽生えている間、つまり独裁者に嫌気がさしていたり、貧乏だったりして、国民主導で世の中が変わるべきだと信じられている間は、命を懸けてでも民主主義を崇拝し、民主化を実現させようと頑張る。大正デモクラシーだって自由主義の高揚から成り立ったものだと思うし、今でもなお民主化が叫ばれている社会では、その背景に軍事政権などが存在したりする。

ところが、社会が向上指向の強い成長期から、これといって改革すべきものが見つからない安定期に移れば、命を懸けてまで守らなければ重大な支障が発生するようなものは見つからなくなる。取り敢えず食っていける金はあるし、政治も駄目といえば駄目だけど生活ができなくなるほどじゃないし、まあマッタリと楽しく生きようじゃないのという時に、自主的に新しい思想を引っ提げて世の中を変えようと騒ぐ民衆は多くない。また、いたとしてもそれに共鳴する奴まではいないだろう。これが、世の中で言われている「政治無関心」の状態であり、民の無関心状態は民主主義の機能不全、つまりは破綻である。

安定期には安定期に見合った社会システムが必要であるのは言うまでもない。経済システムなど、現在あらゆる物が成長を前提としているように思うが、成長がいつまでも続くはずが無いのは至って当然のことだ。バブルとその破綻の結果でも分かるように、自称経済専門家のような一部の馬鹿はそうと信じていたようだが、人間がやっていることで永遠に成長するものは、わたしには思い浮かばない。経済成長率がゼロや負数になるのも自然なことであり、問題にするほどのことではない(成長を絶対と信じる者にとっては死活問題だろうが)。

要約すれば、いま日本で騒がれている多くの問題は、国民が建前上理想としているところ(民主主義幻想)と、現実との隔たりが大きすぎるからだと、わたしは思っている。はじめに書いた事に戻るが、そのように冷めた国民により選ばれた代表者が、健全な間接民主制政治を行えるはずが無い。そこには、代表を選んで民意を反映する民主主義システム自体の破綻があると思うのだ。そして、その歪みは様々なところで現れているが、政治自体や無関心な若者に対する批判などのように、筋違いなものに向けられ、問題が関係のないところに逸らされている気がしてならない。



メガデモ
1998年10月28日(水曜日) はれ

むかし、メガデモというものにハマったことがあった。当時はまだ、486-50MHzの互換機といったら、かなりの高級品であった時代。わたしは486-33MHzのPCを使っていた。間もなく、パソコン通信か何かでメガデモという文化に出会った。知らない人に説明すると、メガデモとはPCの性能を限界まで引き出し、美しい音楽や画像を一方的に表示させ、見てる者を楽しませるソフトだ。多くはリアルタイムで計算されたポリゴンなどを多用し、(つまり、ちゃちなムービーではない)それらをうねうねと動かせながら見てる者を圧倒させるために存在する。Amigaのような、怪しい世界に手を出していた方なら、ご存じの方も多いのではないだろうか?

わたしが初めてみたメガデモは、圧縮された状態でも2メガバイトぐらいあった。今でこそ2メガ程度のフリーソフトぐらいはいくらでもあるが、あのころの2メガと言えばかなりでかいもの...それを解凍すると、3メガを越える実行バイナリに展開された。早速、それが何であるかも分からず実行してみた。そしてデモの終了まで、わたしは画面に釘付けになったのであった。とろくてチャチな画面描画はいくらでも見てきたが、まさか自分のPCが、音楽を鳴らしながら、リアルタイムで計算されたポリゴンがうねうね動くとは想像できなかったからである。

メガデモを作ろうとなると、美術的なセンスはさることながら、数学的才能や、それを表現するソフトウェア技術、それにあのころはまだVGAレジスタを直接していたような時代なので、ハードウェアの知識も欠かせないと思う。それを組み立てて一つのメガデモに仕上げるのだから、その技量には圧倒されるばかりである。メガデモに添付されていた能書きを見ると、作ったのはスウェーデンの方で(何故かヨーロッパ製が多い)、コメントには高校の卒業がどうのこうのとか書いてあったので、同じぐらいの年齢の人間だったのだと思う。今のわたしには...もちろん、そんな技能は無い。

あのメガデモを作った人はどうしているのだろう? 懐かしくなって、そのメガデモをWEBで探してみた。FTPサーチで調べたところ、ヨーロッパのFTPサイトに落ちていたので、ダウンロードしてみた。もっとも、それはハードウェアをバシバシ叩くような制御をしているので、WindowsのDOS窓では絶対に起動してくれない。古いDOSの起動ディスクを使ってフロッピー起動させ、メモリーには日本語フォントすら常駐させず、本当の純英語DOSモードでなければ駄目なのだ。なぜなら、変な常駐物はシステムのパフォーマンスを低下させるからだ。そして、予めハードディスクに置いてあったバイナリを実行した。

いま、わたしが使っているPCは当時の物とは比べ物にならないようなものだ。486-33MHzがK6-233Mhzに、メモリは4MBのFPだったのが、128MBのSD-RAMに。多少の計算や画面描画ぐらい、なんてことのない性能だ。それでも、あのメガデモを見ると今でも凄いと思ったりする。むかし見たときは処理の遅れからか、多少のぎこちなさのあった部分も、今回はすらすらと動いた。常駐物は全て解除し、本当のシングルタスクで限界に挑戦していたと思われるメガデモ...PCの性能が悪買った頃の工夫や技術は凄かったと思うな、いまとなっては、多少の遅さなどパワーでもみ消している感じだけど。



寝る
1998年10月27日(火曜日) くもり/あめ

おやすみ。



どうでもいいが
1998年10月26日(月曜日) くもり

放射性元素・・・放射能を持つ元素。広義には、放射性物質とも。
放射能・・・放射線を出す性質。その能力の単位はベクレル。
放射線・・・放射性元素が崩壊する際に放出される粒子線とか電磁波とか。

上記の単語で最もよく使われるのが「放射能」だと思うが、こうやって並べてみると、どうも正しく使われていない気がする。「放射能が漏れる」なんて良く言うけれど、性質あるいは能力という実体のない物に、普段は出てはならないところに閉じこめられている、という大前提がなければ存立し得ない「漏れる」という言葉が使われるのが明らかに変ではないのか? 必ずしも実体的に目に見えるものではないが、「漏れ」得るもののは、放射性物質若しくは、それから出た放射線であろう。小便が漏れる、香りが漏れる、情報が漏れるとは言うが、性質が漏れるとは言わない。

NHKでやってる週間こどもニュースという番組があり、こども向きに分かりやすく解説したニュース番組だが、だからと言って侮っては行けないと思う。大人向き?の、いわゆる普通のニュースで聞いていても、どうも分かりにくいこと。たとえば、選挙やらの政治の話とか、経済などの小難しい話になってくると、漠然とは理解しているつもりでも、実はちゃんと分かっていないことは多くある。政治経済は、とりわけ難解に出来ているとわたしは思う。難解なことを無理して理解しようとするよりも、原点に戻って勉強してみると、複雑な絡まりが一気に解れることもあると思う。

週間こどもニュースのサイトへ行くと、「今週のわからん」というコーナーがあり、長銀ってどんな銀行?という記事がある。経済方面には疎いわたし、長期信用銀行とはどのような銀行を言うのか説明せよ、と問われても、正確に答えられるはずがない。なるほど、こういう風に順序立てて説明してくれれば、浅学非才なわたしにでも、なんとか理解できそうなものだ。特に初めて勉強する分野では、岩波新書よりも、岩波ジュニア新書の方が読んでいて明解で面白いと感じるのも、このためだろうか。

話が逸れた。先ほどのサイトに、動燃核再処理工場の爆発事故を解説した記事を見つけた。重箱の隅をつつくような指摘かもしれないが、まあそういう性格の人間だからとあきらめているから、許してもらおう。同記事の三行目からを引用すると。

 この事故で放射能が一部、外部にもれました。放射能と放射線の違いがわかりますか?体に害のある放射線を出すものを放射能と呼ぶのです。「放射線を出す能力」という意味なんですね。

引用ここまで。ほら、なんか矛盾してると思いませんか? 放射能が一部、外部に漏れた...という部分は百歩譲って見逃すとしても、放射能を「放射線出す能力」と定義しながら、放射線を出すものを放射能と呼ぶって、やっぱり変...何らかの実体を持ち、概念の理解しやすさから言えば、「放射性物質」がもっとも幅広く使われても言いような気もするが。



セレロン
1998年10月25日(日曜日) はれ

お天気が良いので、秋葉へ。実は、臨時収入が入りそうなので、それでセレロンマシンでも組もうかという気になった。気が向いたらCPUとマザーを買ってこようと思ったが、ハードディスクUltra Wide SCSI化計画の絡みや、今使ってるケースがATXではなくATであることなどが祟って、購入には至らなかった。Ultra Wide化計画を同時に遂行するなら、SCSIアダプタオンボードなマザーを買った方が合理的だが、IBMのUltraATAなハードディスクが、容量10GBで36000円程度という、非常にコストパフォーマンスに長けた選択もあり、その場合は必要ない。なんせ、倍以上の値段だからね、考えてしまう。

後はケースの問題...現在、未だと言われそうだが、ATケースを使っており、今度こそは、ATX化したい。ところが、適当なケースであれば何でも良いと言うわけではなく、ベイを占有しているドライブの数からすれば、どうしてもフルタワーが必要だ。しかし、とてもフルタワーを電車で持って帰ろういう気にはなれないので、また今度というこになって...マザーとCPUだけ買ってきても仕方がないので、今日は見るだけにした。

それとは関係ないが、別の悪巧みを実行すべく部品を買ってきた。うごかん。



お掃除
1998年10月24日(土曜日) あめ/くもり

飯を食いながらPCをいじっていた。そういう調子でダラダラ食っていたため、茶碗にこびり付いたご飯粒にお茶をぶっかけたら、ついでにキーボードにもお茶を飲ませてしまった。一応拭いたら、これといった異常は無かったのだが...何故か10分後ぐらいに、動作がおかしくなってしまった。どうやら、お茶を飲んだキーの一部が、押しっぱなしの状態になってしまったようだ。

しゃーないから、お掃除も兼ねてキーボードをバラす。今使ってるキーボードは、会社から横領したメカニカルスイッチが使われているものだ。多くのキーボードは、テレビのリモコンみたいに基板上の接点を消しゴムみたいなもので押す仕組みだったり、回路を焼き付けたフィルムのようなものに圧力を加えて押下を検出しているようだが、メカニカルキーは、構造がより複雑だ。キートップの下にあるスイッチは、金属製の接点や、接点を接触させるメカ、キーを押し戻すバネなどで構成されている。

つまり、何かを飲ませてしまった場合は、スイッチ自体も分解してお掃除しなければならないということだ。接点に何かが付着して、押しっぱなし状態になっているのであろうから。スイッチをバラして元に戻す作業は難しいことではないが、大いに面倒なこと。幸い、今回は一個だけで済んだ。んが...バネがどこかに飛んでいってしまった。機械物をバラすときはバネ類には特に気を使わなければならないが、それでも力のかかったバネはとんでもないところまで飛んでいく。

しゃーないから、探す。着地した場所は、普段は掃除すらしない机の後ろが怪しく、綿埃をかき分けながらの探索だ。しかし、綿埃を見てるとお掃除がしたくなるのがわたしの性格で、半年分の埃を排除する。それでも、肝心のバネが見つからないと思ったら、すごくわかりやすい場所にあったりして。灯台もと暗しってやつかな、くそ。



また...
1998年10月23日(金曜日) くもり

またまた更新をサボってしまった。言い訳をすると風邪...そう、おととい書いた風邪で寝込んでしまったのだ。しんどくて仕事する気分になれなかったので、会社を早めにあがって家に帰り、そのままぶっ倒れて何もする気が起きなかった。しかし、わたしは大概のことは、寝たら解決する方だ。薬が嫌いなので、風邪薬は飲みたくない。とにかく寝まくると、風邪が治る。変な対処療法よりも、寝た方がよほど確実なのだ。

わたしが薬を嫌いになったのは、いつの頃からだろうか。小学校の頃は、色々と病気をしていて薬漬けになっていたのを覚えている。しかし、何年か前に、以前は福島区にあって、その後は吹田市に移転した某大学病院のタコな医療がきっかけで医療全体に不審を抱くようになり、そのころから医者とか薬とかを拒否するようになった気がする。結局、それから診療を受けた回数は数えるほどしかなく、飲んだ薬と言えば正露丸ぐらいのものだが、それでも生活上の問題は無い。

日本の医療費が膨大で...と、いつか嘆かれていたと思うが、殆どは必要のない無駄なものなのだと思う。わたしの周りにも、意味もなく通院・入院する年寄りは数多くいるが、高齢であるからある程度は仕方がないとは言え、無駄が多い。百歩譲って年寄りは見逃すとしても、以前に「オカン列伝」で書いたように、なぜか病院依存症になっている中年女性もいる。そういう連中がもう少し合理的になれば、少しは変わるとおもうのだが。

そんな訳で、わたしは医療を受けず、代わりに無関係な連中の医療費を負担しているのかと思うと健康保険に入る気がしない。年に数度も使わないのなら、その方が合理的だろう。保険証が無くても、金さえ払えば病院は拒否しない。しかし、聞くところによれば、非保険医療は価格を自由に設定できるため、ぼったくりのような金額を取る病院も多いらしく、その多くは明瞭会計ではないようだ(料金表とかないでしょ、普通は)。やってることはキャッチバーと同類であり、ますます医者=タコの構図が定着する。

業務連絡;今日は先に帰って済みませんでした>お二人。久々に呑んだら、倒れちゃった。



風邪&先送り
1998年10月21日(水曜日) くもり/あめ

なにが祟ったのか、風邪を引いてしまったようだ。今日は会社で一日むずむずモード。鼻の下がヒリヒリとする。風邪独特の身体の怠さはないが、鼻炎で気分からして憂鬱だ。家に帰ってから直ぐに寝て、少しましになった。この調子だと、明日は会社を休みたいところだが、煽られている仕事が一つあるので、そういうわけにもいかない。わたしも人間だから時々風邪はひくが、滅多に寝込むような風邪はしない。気力で頑張れば、そのうち直る場合が多いのだが...今回もそういう風にいくかな。

国鉄精算事業団が解散するという。聞くところによれば、土地なども思うように売れず、利子などで借金は膨れ上がるばかり。結局、それに限らずだが、何でもかんでも面倒くさいことは先送りという具合に事は運ばれ、今になってそのツケにあわてていると言う感じがする。それでも、新たな処理法も先送り的なところがあり、今度は一体どうなるのだろう? 処理されるべきものはとっとと処理しなければ、いつかは破綻するということは先学非才なわたしにでもわかることだが、将来に起こりうることを鑑みずに取り敢えずの処理しか行えない、というのは日本の役人の体質なのだろうか。

国鉄の赤字について思うことだが、JRに移管された今でも赤字ローカル線は多く存在する。わたしに言わせれば、これからも発展の見込みがないような過疎地を通るような問題の多い路線は積極的に廃止すべきである。周りの鉄道オタク仲間は、保守的というか、路線廃止に対しては批判的だったりするが、色々と理由を付けて鉄道事業を慈善事業的なものとして位置づけることはどうかと思う。鉄道線は、運営を行う以上はいい加減にはできず、維持経費は大きい。それに見合った乗客がいなければ、より維持経費のかからない手段に切り替えられるべきであるのは、言うまでもないことだ。

日本の鉄道は、いろんな意味で変わらなければならないと思う。今の時代のニーズを考慮すると、大都市周辺の近郊線と、比較的近距離の都市間を結ぶ中距離ぐらいしか必要がない。電車が有用な場合は、通勤通学と、あとは近距離のお出かけぐらいしか思いつかない。ここ横浜からなら、新幹線で仙台か大阪ぐらいが我慢の限界。札幌とか福岡へ行くならば、おそらく飛行機を使うだろう。すると、田舎のローカル線や、都市すら存在しない場所を結ぶ中距離の路線も、廃止の対象だ。夏休みに青森まで行って来たが、東北本線も貨物列車で持っているようなものだと思った。「○○本線」と偉そうな名称だが、あそこも、乗客収入だけでは無理だろう。

廃線は地元の同意を得るのが難しいという。それも理解できない話ではないが、それなら「じゃあお前ら全員毎日乗れ」という反論が成り立つ(笑)。たとえば、かつて栄えた炭坑から石炭を運び出すことを目的に作られた鉄道が、廃坑後は稼ぎもしないくせに残っていることに疑問を感じずにはいられない。



三角木馬
1998年10月20日(火曜日) くもり

先日、暇つぶしにちょっと危険なSMなCGを拝見していた(笑) 実体験でのSM趣味はないが、たまにそういうCGをみるのも悪いものではない。そこで登場するのが三角木馬。女が上に座らされた上に足に重石を繋がれ、蜂蜜を垂らしているというシーンである。この三角木馬ってやつ、元はと言えば中世ヨーロッパの拷問道具の一つであったらしく、それだけでかなり極悪なものと想像できる。しかし、何となく痛そうな印象が薄い。こんなもん、本当に痛いのだろうか?

疑問を持った突撃実験室では、さっそく身をもって実験を行った。まず、手近に三角木馬などあるわけないので(あったら怖い)、代用品を探すことにした。堅くて、二等辺三角形で、上に座っても壊れないもの...なかなかそんな都合のよいものはない。世の中、三角形のような不安定な形よりも、四角形を元にした物体の方が圧倒的に多いからだ。で、思いついたのが、椅子を二つ用意し、背もたれをくっつけて並べたもの。背もたれは直角ではないのだが、120度のスロープではないので、急勾配な三角形が形成される。

その上に座ってみた感想は...はっきり言って30秒も耐えられないね、これは。痛いとかそういう次元の世界ではない。ケツに食い込むことはないが、寛骨(股間にある骨?)を直接ぐいぐい圧迫されるため、むしろ食い込んだ方が楽ではないかと思うほどである。今回の実験では特別に急勾配な代用品を用いたが、椅子の背もたれには厚みがあるので接触面積が多く、また着衣のままだったので、実際のものとの単純比較は難しいだろう。体重を「点」で支えるような鋭い三角木馬に、全裸で座らされたら、それは想像を絶するような苦痛であることは言うまでもない。一説によれば、「上から三角木馬に落とす」というやり方もあるそうだが...あまり考えたくない。

画面の前で笑ってる奴のためにまじめな話? 我々は、拷問にかけられ味方を裏切った者に対しては批判的になりがちであるが、もし自分が敵方の捕虜となり、残虐非道な拷問にかけられれば、裏切り者にも一定の理解を示さざるを得なくなるに違いない。極度な肉体的苦痛を加えられ、それに伴う精神的な疲労の最中、それでも人は正義を貫き通すことなど可能だろうか? こればかりは実際にやってみなければ分からないかもしれない。誰もやらないと思うけど。

# スマートに終わらせたいが、今回ばかりはまとめるにまとまらん。



フリーソフト
1998年10月19日(月曜日) はれ

何か忘れてる...と思ったら、昨日はここを更新するのを忘れてしまっていた。食事と同レベルの日常イベントである筈なのだが、何をしてたんだろう、忘れてしまっていた。そういえば、昨日はちょっとしたプログラムを書いていた。SSIプログラムとしてWEBページに埋め込んでおけば、カウンタとアクセス解析として動作するもの。Perlは遅くてイライラするので、Cで書いている。

しかし、文字列処理をやるには、やはりPerlに軍配が上がるだろう。Cが悪いわけではないが、そういう種の処理には向いていないということだろう。ちょっと失敗したら、Segmentation Fault が出るしね...わたしは、開発は主に FreeBSD でやっている。コンパイラは、もちろん gcc だ。もし、これでバグが出たら gdb という強力なデバッガもある。わたしはとても使いこなせているとは言えないが、時々思う。こんなものが、ただで手に入っていいのだろうか、と。

友人などから、ここのサーバー(めぐみ)について聞かれることがある。サーバーと聞くと、さぞかし豪華なハードに高価なソフトが乗っかってるものと想像されがちなのかも知れないが、金など殆どかけていない。時代遅れになって余ったパーツを適当に組み合わせて作ったAT互換機に、FreeBSDを突っ込んだだけだ。FTPインストールしているので、CD-ROM代すらかからない。WebサーバーであるApacheもただ、Perlもただ、めぐみのディスクには、金を払って入手したソフトは入っていない。

何となく申し訳なくなってくるとともに、タコな製品しか作れないMSみたいな会社が、やたらと儲かる世の中の不条理...ソフトウェア業界って歪だなあ。



伝記
1998年10月17日(土曜日) あめ

今日は台風の影響か、天気が悪い。秋葉原へ行こうと思っていたが、何となくそういう気にならないので、やめてしまった。会社の買い物もあったのだが、とりあえず急がないので、うっかり忘れてしまったことにしよう。表に出る気もしないので、一日家でゴロゴロしてたら、テレビで守護月天やってるよ。そう言えばそんな話を以前から聞いていたが、忘れていた。毎週チェックのキューリストに入れて置こう。

小学生の頃、親戚から「偉人の伝記」なるものを何十冊か譲り受けたことがあり、よく読んだことを、ふと思い出した。それは、エジソンとか野口英世とかキュリー婦人とか、そういう人間の人生を題材にしたものだ。昔からわたしは本が嫌いだったので、あまり熱心に何かを読んだという記憶がない。本をわざわざ買いに行くという習慣がなく、家にたまたま多く転がっていたからかもしれないが、何故か伝記ものを多く読んでいた。

伝記になっている人物には、努力して苦労のどん底から這い上がったという者が多いと思う。小学生にそんなものを読ませるということは、「努力しなさいよ、さもないと...」ということを暗示しているように思えるが、何となくピンと来ない。そういう感覚は、はやり見を持って苦労せずには理解し得ないのではないだろうか。この日本で、マジで苦労している奴はそう多くはないだろうし、過保護な親ばかりで、敢えて苦労を強いるようなのは、寡聞にして知らない。

かく言うわたしも、語るほどの苦労はしていない。人間なので一度も苦労したことがないといえば嘘になるが、欲しいものは大体手に入れ、やりたいことは大体やり、やりたくないことはやらず、好きにやってきた気がする。それに、あんまり努力して何かをするのは嫌いである。もし仮に、もちろん有り得ない話だが、わたしが伝記に書いてもらわなければならないぐらいの偉人になったとしたら、生い立ちの章には何を書かれるのだろう? 小学校では変態があだ名となり、17でタバコを覚え、高校は面倒臭くて2回中退...伝記というよりは、教育上芳しくない暴露本と言った方が正しいもになるだろう。

科学の世界では、研究者の人名がそのまま残っている場合が多い。ファラッドとか、ボイル・シャルルとか、ニュートンとか、色々いるでしょう。理科の教科書に名前ぐらいは残ってても面白いと思うが...

・100マイクロクヌギザ(単位?
・クヌギザ定数
・クヌギザ触媒
・クヌギザ現象
・クヌギザ第二法則

...やっぱり生きてるうちは凄く凄く嫌かも。吐き気がしてきたのでや〜んぺ。



更新報告
1998年10月16日(金曜日) くもり/あめ

ISDNの回線終端装置、DSUをバラしてみた。それだけでは面白くないので、ISDNの用語や仕組みなどについても解説したが、写真を撮りながら、図を書きながらやってると疲れてしまった...寝る!

明日はアキバへ行きたいが、天気が悪いようだ。雨降ってたら、中止かな。



全文検索システム
1998年10月15日(木曜日) くもり

昨晩、突撃実験室内の全ての文書を検索できる検索エンジンを設置してみた。Namazuという、この手のものでは最もメジャーな全文検索ソフトを利用させていただくことにしたのだ。これは、全文を検索しているので、キーワードのみのものではない。わたしの語彙力は知れているとはいえ、言葉が一つ一つ検索されていくわけである。それにしては非常に高速に検索でき、1秒もかからない。非常に満足な結果が出た。最近、文章量が増えてきたので、過去の記事を探すのには便利であろう。

このサイトに存在する全てのテキストの総バイト数はわたし自身も把握していないが、800KB程度ではないかと推測している。Namazuは、検索には事前に作成されたインデックスファイルを参照している。これは、日本語を単語毎に分離し、それをキーワードにインデックス化しているものと思われるが、Namazuがどのような検索アルゴリズムを取っているのか、良く知らない。参考までに、インデックスファイルの作成には、40分程度を要し、容量は元の文章量の倍ぐらいになってしまった。

インデックスは、リアルタイム更新ではないので、記事が更新される度にインデックスも更新されなければ、検索に引っかからない。そのため、定期的に再構築しないと行けないのが、ちょっと面倒だが。古いバージョンのNamazuでは、インデックスの更新は不可能だったようだが、ここで使っているバージョンは、ベータ版ながら既存の情報を新しくすることも可能なようだ。その方法までは、まだ勉強してないけど。

Infoseekなど、一般向けの検索エンジンは、インデックスの作成はロボットにやらせているようだが、全文検索を行なっているようだ。あの膨大な量の情報を、同時に何名のもクライアントが検索するのだから、どんなシステムを使っているのだろうと、不思議に思う。それでも、何秒も待たされないうちに結果が表示されるのだから、たいした物だねえ。



メシ
1998年10月14日(水曜日) くもり

今日は始めて魚の煮付けがマトモに完成した。今までも食えないようなものを作ったことはないが、どこか違う...血の滲むような努力と研究の結果(大袈裟な)、美味しいものができたと言う訳だ。しかし、ババァ(祖母)の煮付けには叶わない。作ってるところを見てると調味料なんかどうみても適当に入れているようなのだが、これがまたノスタルジックに上手いのだ。さすがに、年季には勝てないってことだろうか。

ついでに、炊き込み御飯の元みたいなのを買ってみる。普通の米に交ぜて、炊くだけなのだが、そんなに不味くない。おもしろいのは、もち米は混ぜていないのに、ご飯はもち米を混ぜたかの如く粘り気を増す。ある業界関係者の話によれば、飯などに混ぜると粘り気が増す添加物はバカ売れしているらしい。それもただの糊みたいなものなので、儲かって仕方がないとか...コンビニの弁当の飯も妙に粘り気があると思うが、同じく使われているかもしれない。

ここのところ、野菜の価格が高騰して困っている。萎びて廃棄処分寸前の、値引きシールが二重、三重にも貼ってある野菜で、やっと日頃の価格という調子だろうか。レタス一玉498円みたいな値段がついていると、買う気が起こらない(メモリーとかマザーは買うけど?)。しかし、こういうことばっかり気にしてると、結婚したら嫁はんに嫌われるんだろうな? 結婚できないから大丈夫と言うツッコミは...あながち間違いではなかったりして。



疲れたぁ
1998年10月13日(火曜日) くもり/あめ

先日から会社でお客さんを収容しているサーバーが挙動不審なのだが、原因が分からなくてイライラ。昼から慣れないSEみたいな仕事をやって、それは問題なく終わったかと思うと、絶妙のタイミングで雨が降ってきて。濡れて会社に帰ってきたら、訳の分からんトラブルが発生してて、頭に来るわ。ロクなことの無い一日であった。なんか愚痴ばっかり書いてるけど...厄日かな。

わたしがやってる仕事は、比較的ストレスの少ない方だと思う。滅多なことでは外に出ることが無く、普段は他からは隔離されたような場所にある机に向かい、自分の世界で仕事をしていることが多い。今日に限っては、例外的に近所の会社に、営業を兼ねたようなシステムエンジニア的なことをやりにいった。ネットワークに関して色々と説明したり、質問に答えたりという程度のことだったのだが、なにぶん初めてのことなので、かなり緊張していたのかも知れない。終わってから、妙な脱力感を味わった。それも、傘はないのに雨振ってるし。

ここの下手な文を日頃から読んで頂いている方には分かると思うが、わたしは、筋道を立てて説明するのは上手い方ではないと思う。自分の脳の中ではある理解していても、それを人に伝授するのはまた別の話で、綺麗にソートされて言葉になれば良いのだが、簡単ではない。色んな人と喋るのは嫌いではないが、作り笑顔で専門用語交じりの下手な説明を聞かされる側は、あまり嬉しくないだろう。とどちらかというと、客のところへ行って何かするよりも、自分の世界にこもってやってる方が合っている気がする。

どうでも良いが、あと1ヶ月ぐらいでカウンタが5万を数える。感謝の気持ちでいっぱいなのだ。そこで、ちょうど5万人目のお客様に何かプレゼントをすることにした。どうでも良いような粗品を貰っても、わたしならすぐに捨ててしまうような気がするし、洗剤とかコーヒーの詰め合わせとかだったら、ケチな歳暮と間違われそうだ。そこで、味気は無いがギフト券が良いだろうと、それに決めた。詳しいご案内は、こちらに書いた。(1999/12/01補足:終了しました)



おケツ激痛
1998年10月12日(月曜日) はれ

今日はシモネタのみだから、嫌いな人は読まないように :-)

昔の話だが、ある朝、起きて小便をしようと思ったら、なんか噴射圧力が弱い。朝立ちでもしているのか? いやいや、そう言う訳では無さそうだ。その弱さは、膀胱かどこか、もっと中の方で詰まっているような感覚であった。その時は、そういうこともあるのかなという程度にしか思わなかったのだが、次の日はますます悪くなった。少々心配になったわたしは、泌尿器科に行ってみることにした。

なにせ医学に詳しくないわたしのこと。問診票の症状を書く場所に、なんと書いたら良いのか良く分からない。もう少しスマートに書きたかったのはやまやまだったが、率直に「小便の出が悪い」と一言だけ、有り体に書いてみた。全て書き終わって提出すると、看護婦が症状を確認する。「しょ、小便の出が悪いんですね?」「そうですが」。そう言いながら、看護婦はクスクス笑っているように見える。あれは俺のウルトラ汚い字で書かれた症状を見て笑っているに違いないと、被害妄想に陥るや否や、いきなり呼ばれる。

診察室に通されると、中には鬱陶しいオヤジ(多分医者)とガリ痩せの看護婦が一人いた。またも、問診票に書いてある通りにしか解釈できない症状を確認し始めるので、イライラとするが、もう少し詳しく話てあげる。じゃあ検査するからと、ベッドを指差し、パンツを脱いでその上で四つんばいになれ...なにぃ? 何となくエロマンガの変態プレイシーンを彷彿とさせるような状況だ。その間、医者は手袋を装着し、ティッシュとか色々と準備をしてている。もしや...非常に嫌な予感が頭を過ぎった。

ふと気付くと、自分の視界には、ある病院の診察室を空から見下ろしている絵が映っていた。そこには、ケツの穴に手袋をした医者の指を押し込まれ、その苦痛に顔を歪ませながら喘ぐ、チンチン丸出しでベッドに四つんばいになった自分と、その状況を平然と見ながら立っている看護婦が居た。自分が自分を眺めていたということは、あまりの苦痛に、臨死体験でもしてしまったのではないかと思われる(かなり嘘)。看護婦も仕事とは言え、毎日あれを見るのは、気持ちの良いものじゃない気がする。

通常ならそんな激しい苦痛はないのだろうが(実は一週間後来いと言われ、脅えながら同じ検査をしたら、そうでもなかった)、その時はケツの奥が炎症を起こしていたので、気持ちが悪かったようだ。わたしがまだ喘いでいる中、なにやら医者は、ケツから採取したものを顕微鏡で調べている。何を調べているのかは知らないが、童貞なのに性病でも気にしていたんだろうか。とりあえず、泌尿器のどこかが膿んでいるという診断結果で、抗生物質を貰って、うちに帰った。その日は、一日ケツ周りが気持ち悪くて仕方が無かった。

わたしは自転車が好きなので、比較的長距離乗ることが多かったのだが、医者の話によると、それが行けないのかもしれないということだった。サドルでケツが長時間圧迫されると、そういうことになり易いのだと言う。従って、細いところにケツを掛けないで、ゆったりと座れと指導される。指を突っ込まれて気持ちが良ければ良いのだが、もうあんな体験は二度としなくないので、忠実に指導を守っていたりする...



最近の休日
1998年10月11日(日曜日) はれ

最近の休日の過ごし方がパターン化してきた気がする。土曜日は昼とも夕方ともつかぬ時間に起き出し、ラーメンを食って、ゴロゴロする。ラーメンはラーメン屋へ行くのも億劫だし、インスタントじゃ味気無いので、ハッキリとした名称は知らないが、生麺タイプの液体スープがついた奴を良く食っている。色々と試してみたが、「行列のできるラーメン屋」が一番上手いと思う。行列でイライラせずとも、お湯を沸かすだけであの味が食えれば、文句はない。

アキバのTWO−TOPの隣にいつ行っても行列の出来ているラーメン屋があるが、聞くところによると、あそこは不味いらしい。なのに何故行列ができるのか。いわゆるサクラ効果ってやつだろうか、行列が更なる行列を呼ぶのかもしれない。人が並んでいると、自分の何となく並びたくなるのが、人間の心理ってやつだろうか。もっとも、わたしは待つのと並ぶのだけ絶対に嫌なので、間違っても行列に参加しようと思わないが。案外、上手いラーメン屋は空いていたりする。

ラーメン論になってしまったので、ついでにもう一つ。最近のインスタントラーメンに見られる傾向だが、インスタント性が薄れてきていると思う。湯を注ぐだけで出来るカップラーメンも言うまでもなく数多く存在するが、一旦湯をかけて麺をほぐし、その湯は捨ててから、再度湯を注いでスープを作れと説明されているものもある(日清ラ王など)。湯を注ぐだけのものに比べれば遥かに手間はかかるが、より美味いものを食うためには、多少の手間には目を瞑る人も、数多く居るのかも知れない。

日曜日は、アキバへ行くか、若しくはアキバへ行かなければ、映画でも見に行くことが多い。今日も例に漏れず、本牧の映画館へ。深い意味はないが、ブルースウイリスが好きなので、マーキュリーライジングを見てきた。ブルースウイリスが出ているというだけで、残りの金は返せって感じかな。あんな中途半端なもの、金払って見させるなという具合であった。暗号解き坊やの話とか、もうちょっと面白いと思ったんだけどね。

どうでも良いが、暗号文は、フィクション小説でやってるほど簡単に解けるものではない。わたしは暗号技術に詳しいわけではないが、不可逆的な関数で計算すれば、元には戻らない。もっとも、絶対に不可逆な関数は有り得ない。なぜなら、偶然解けてしまうというがあるからだ。従って、暗号を破るには偶然を起こさなければならない。高性能な計算機で暗号を解くというが、別に難しいことをやっているわけではなく、可能性を総当たりで調べているに過ぎない。偶然に偶然が重なり、第一回目で当たってしまうことだってあるかも?



日韓関係
1998年10月10日(土曜日) はれ

先日、金大統領が来日したそうだ。今週はバタバタとしていて、一週間分の新聞を纏めて流し読みしてるような具合だが、「首相は日本の過去の植民地支配について『痛切な反省と心からのお詫び』を表明。大統領はこれを評価するとともに、『過去の不幸な歴史を乗り越えて未来指向的な関係を発展させる』努力が双方に求められていると指摘した。」(10月8日、朝日夕刊)という文が目にとまった。

「人間は何故過去の出来事にいつまでも拘るのか」ということに関してのわたしの見解(暴言ともいう)は、1998年6月1日に書いた。興味のある方は読まれたいが、結論は、要するに「過ぎ去ったことにいつまでも拘るのは年寄りが主であり、年寄りが死に絶え、若い者が世の中の主導権を握る頃には、その過去の出来事はほぼ忘れられている」ということだ。

これはわたしなりの理解なので間違っているかもしれないが、金大統領の言う「過去の不幸な歴史を乗り越えて未来指向的な関係を発展させる」とは、表現こそは穏やかではあるが、わたしの歴史に対する考え方と、ほぼ一致しているのではないかと思う。韓国の大統領がこういうことを言うと、当然「歴史に拘る」国民から反発が上がるのは、容易に想像がつく。しかし、そういう人間は直に死に絶えることを前提とし、将来を優先した先見的な民意無視決行なら、評価できることだろう。

もう少し書きたいのだが、今日は筆が進まないのでこのぐらいにしておこう..



めーるぅ!!
1998年10月9日(金曜日) はれ

数日前から、メール配送関係の問題で悩んでおり、睡眠不足気味だ。いまご覧のサーバーはメールサーバーも兼ねているのだが、事の発端は、このサーバーでメーリングリストを運営しようと思ったこと。メーリングリストを実現する方法には色々とあるが、専用の配送プログラムに到着したメールを渡し、処理させるのが普通である。わたしが購読している別のメーリングリストで使われているemlsというものが手軽で良さそうだったので、インストールすることにした。

インストールは至って簡単だ。Makefileをちょこっと修正するだけで、一発インストールされる。プログラム本体はperlで書かれており、普通なら悩むことも無いようなもの。作業が終わり、早速実験メールを作ったアドレスに送ってみると...記事として帰ってくるはずのメールが、何故か帰ってこない。別にエラーが出ているわけでもなく、ログには正常に受け付けられたと記録されており、確かに過去の記事が保存される場所にも、メールは残っているのだ。見かけ上は正常動作だが、配送されないという、非常に質の悪い動作だ。エラーになれば、その原因を推測することもできるのだが。

その問題は未だ解決されないまま、今度は追い討ちをかけるようなメールが飛び込んで来た。それは実に平和な昼下がり、仕事をしていると何やら英語で書かれたroot宛てのメールが飛び込んできた。読めば、「あなたが管理するメールサーバーはSPAM中継に使われており、SPAM中継サーバーリストに登録されました」とある。それは、メールサーバーのブラックリストセンターからの警告文だった。おりしも、メール配送問題でイライラとしているときに、抜群のタイミングで来やがる。泣きっ面に蜂という気分だ。

ご存知でない方に説明すると、SPAMとはいわゆる鼠講の勧誘などの「迷惑メール」のことだ。差出人は、自分の身元を隠蔽するために全く関係の無いメールサーバーを中継器にし、迷惑メールを被害者に送りつける。そこで、そのような用途に使われた実績のあるメールサーバーをリストアップし、リストに存在するサーバーから差し出されるメールは、受け取りを拒否するという対策を取るところもある。そのブラックリストを管理をし、対策機構を提供しているのがOpen Relay Blocking Systemである。ここから、何らかの対策をせよ、との警告が来たわけだ。

余計なお世話だとも思ったが、セキュリティを甘くしていたわたしにも責任はある(メール配送記録を見ると、そういう形跡はないんだけどなー)。SPAM問題の根深さを鑑みれば、やむを得ないことであろう。今までこのサーバーで動かしていたsendmailのバージョンは、8.8.8だった。このバージョンでも然るべき利用者以外からのメール受け付けを拒否することは可能だが、今は最新のsendmail、バージョン8.9.1aが登場しており、そのバージョンはデフォルトで対策が簡単にできる。そこで、sendmailを新しいものに入れ替えることにした。

sendmail自体の入替えは然程面倒なことではないが、面倒臭いのはそれの設定だ。ところが、設定ファイルであるsendmail.cfの複雑奇怪さは言わずと知れたことで、人間が見て分かる内容ではない。そこで、専用の設定プログラムのCFというものを使うのが普通だ。これは複雑ではないが、設定すべき項目が多くて面倒なことには変わりはない。あいにくわたしには根気がないのか、イライラする。自宅のLANと会社のマシン以外からはメールを受け付けないようにして、完了。しかし、こんなことを会社でやってるわたしは、不良社員かもしれない。

そして、ブラックリストから消してもらうように、先ほどのところに依頼する。後日安全テストをするということで、リストからは直ぐに削除されたようだ。まだ、メーリングリストサービスが稼動するには至っていないが...どうしよう、これ。



ベイスターズおめでとう
1998年10月8日(木曜日) はれ

横浜ベイスターズ、勝ちましたね。おめでとうございます。もっとも、いちおう関西人で阪神ファンであるわたしにとっては、阪神に負けてという事実を踏まえると、やや複雑な気持ちでもあるが、相手が横浜だから、たまには勝たせてやっても良いかなという感情が働くのかも知れない。これが、巨人なら、三塁側では血しぶきが上がり、甲子園周辺は今頃は暴動になっているに違いないだろう。わたしは、熱狂的なファンでは無いけどね。

横浜の方々だが、38年ぶりの優勝ということもあってか、何となく阪神ファン化しているような気がする。流石にアホな大阪人みたいに川に飛び込んだりはしないだろうが、野球の勝敗がかかると、ファンが壊れるのは全国において普遍的のようだ(阪神ファンには叶わないと思うけど)。秋になって気温が下がり、開放された窓から流れる仄かに冷たい風には、クーラーのそれとは違い、心を洗われる気分であるが、家の裏は飲み屋街。そよ風に紛れて、応援や歓喜と思われる叫び声も、存分に聞こえてくる。

関西人にしてみれば、横浜・東京・千葉ぐらいは、地理的にはすべて「東京」という一つの名称に包括されるようだ。わたしが幾ら横浜に住んでるよと言っても、いま東京にいるんでしょと言う人は案外多い。ところが、感情的には東京とその周辺地域は区別されているように思う(わたしの思い込みかもしれないけど)。出身はどこであれ、標準語らしき言葉を喋る人を卑下的に呼ぶ場合には「東京モン」と言ったりして、東京は特別に嫌われているように思うが、横浜など、その周辺地域にそこまで悪い感情を抱いてはいないようだ。これと言った理由があるわけでもないが、偏見などそういうもんだろう。

電車で30分程度しか離れていないのに、ちょっとふしぎ?



インターネット
1998年10月7日(水曜日) くもり/あめ

新聞を読んだりテレビのニュースを見てたりすると、インターネットというものが、すごく有用で素晴らしいメディアだとするような風潮がある。わたしは職業柄、普通の人より多くインターネットを使ってると思う、というかこれで飯を食ってるようなものだが、そういう論調を見る度に、何となく可笑しくなる。これって、そんなに凄いものなの、だいたい。

WWWだって所詮は電子紙芝居に過ぎないし、電子メールだって単なる事務連絡ツールだ。もっとも、わたしはそういう物が悪いとは思わない。面白いサイトはたくさんあり、有用な情報を掲載してくれているところもある。利用すれば存分遊べば良いと思うし、わたしも暇つぶしとか情報収集になんだかんだやっているのだから、人を非難する資格ははない。ところが、これが社会的に大変有益なものかと言うと、どうもそうは思わない。役所のホームページが出来て情報公開の先駆けだ〜なんて言われるが、大体のサイトは、どこを見ても大した情報は書いていないのが、実状というものである。

そういう記事を見る度に、日本の将来に不安を感じるというか...



救急・消防無線
1998年10月6日(火曜日) あめ/くもり

昨晩は深夜に激しいサイレンが鳴り響いていた。火事かな、と考えながら、ふと家にレシーバーがあったことを思い出す。そう言えば、もう長らく救急も消防も聞いてない。久々にレシーバーを収納庫から引っ張り出し、聞いてみることにした。その昔、熱心にこういうことをやってたときには、一波だけのモニタには物足りなさを感じ、AORで共通波をモニタしながら、ユピテルでローカルを聞く、なんてこともやっていた。

この趣味?からお別れして、かなりの時が経つ。それも、横浜に来てしまったので、周波数も、横浜○方面がどこなのかもわからない。一々調べて...あれ、スキャンメモリーの登録ってどうやるんだろ、もう完全に忘れちゃった(笑) と、あれこれやりながら、取り敢えずこの地域の救急波とか消防波を聞くことができるようになった。以前はマンションに四方囲まれた場所の1階だったので電界強度が弱かったが、ここなら(鉄筋ビルの5階だけど)室内でも問題なく受信できる。が、流石にやや離れた移動局は難しく、PCのノイズも乗るわ乗るわ。

しかし、普通の人に言わせれば、聞いて何か良いことあるのと思われるもしれない。それはごもっともなご意見で、別に聞いてたってこれと言って得るメリットも無いし、野次馬に行くほどの元気もない(他の人はどうだかしらないけど)。強いて言えば、おマヌケな状況報告が入ってくると、笑えるという楽しみはある。○○で出火の模様...お、火事かな? と思ったら、暫くしてから、○○は花火やってるだけでした、とかね。こういう通報に日夜振り回されている隊員は、実に大変だろう。しかし、誤報であっただけ良かったのだろうが。

こうして不謹慎ながらも、傍らで嘲笑うのが人間ってもの?



寝起き(^^;
1998年10月5日(月曜日) くもり

今日は家に帰って直ぐに寝ちまった...どうも風邪気味っぽくて身体がダルイ。腹が減ってたので飯を食ってからにしようと思いつつ、その元気もなくてテレビを見ながら寝てしまった。そして、起きたら0時過ぎ、腹は依然として減っているので、今から飯を食おうかってところだ。夜遅くに飯を食うと身体に悪いとか言われるが、わたしはしょっちゅう寝る前に何か食っている。でも、いつ何を食っても太らないようだ。

和歌山の保険金詐欺事件だが、砒素カレー事件の現場近くの主婦が逮捕されたようだ。昨日はたまたま朝まで起きていたので逮捕と連行の模様を生中継で見ていたが、どう見ても生中継で放送するに値するものではなかったと思うのは、わたしだけなのだろうか? 要するに、家の周りにハイエナの如く群がった報道陣の間を、容疑者を載せた車が通過しただけのこと。事件が火曜サスペンス劇場的なので、それのようなドラマチックな逮捕劇を期待していたのかもしれないが、現実社会は至って地味なもんだ。

例の夫婦の疑惑否定インタビューを見た方も多いと思うが、言葉での主張がどうしても嘘臭く見えてしまうほど、いかにも拝金主義的な雰囲気を漂わせている。人は見掛けで判断しては行けないというが、いくら善人であっても、あれじゃエンジェル伝説(悪魔のような雰囲気を漂わせた善人が、ワルだと誤解されまくる漫画)にも匹敵するぐらいの感じだ。しかし、あれは特殊な例ではなく、ちょっと商売経験のある口巧みな関西人なら、大体はあの調子という模範例だったりして。



環境破壊促進スペシャル・風の谷のナウシカに見る人類存続の欲望
1998年10月4日(日曜日) はれ

地球がこれからどのような運命を辿るのか、わたしに知る由はない。ひょっとしたら、わたしが死んでからもずっと何事もなく存在するのかもしれないし、あるいは明日消滅する可能性だってある。それに、もし今のような地球環境が存続するとしても、それがいつまでも続くことはないだろう。いつか巨大隕石が衝突して環境が変わってしまうかもしれないし、人間が自らの手で住めないような環境にしてしまうかもしれないが、予言師ではないわたしに、どうなるか断定することは出来ない。

いずれにせよ、人間が住みよい環境が永久に存続することを望むのは、人間が将来に渡って存続したいからであり、住めさえすれば、例えば火星であっても構わないように思う。地球環境を守ろうなどと巷では騒がれているが、それは地球が大事であるからというような地球本位の環境守護感情ではなく、要するに自分等が住める場所を将来に渡って確保しようとしているだけなのだと、わたしは考えている。地球を捨て、地球以外の場所に快適な環境を人工できるのであれば問題もないのだろうが、その希望も薄い。

そのように、環境破壊という概念は地球を主観としたものではなく、人間が中心にあるものだ。人間は、直接的で無くても回り回っては利己的な生物だから、当然のことと言えよう。地球にしてみると、人間が環境破壊と呼んでいるものは、ただの環境変動でしかない。例えその原因が人為的なものであったとしても、昨日書いた話に基づけばそれは自然の流れに過ぎず、いわゆる自然現象と分類される原因、例えば巨大隕石の衝突などと本質的に変わりはない。

地球の大気の成分が大きく変動したり、気候が大きく変動したことは、以前にも起きていたとされ、そのことによってある種の生物が絶滅したり、あるいは新しい環境に適した生命が誕生したという説もある。酸素の登場は良い例だろう。呼吸する動物にとって酸素は欠かせないものだが、硫化水素中で生きていたとされる原始の生命体にとっては、酸素の登場は、あらゆるものを腐食させてしまう毒ガスの発生に他ならない。しかし、そうなったらそうなったで、酸素という毒ガスを利用する生命が現れ、発展したわけだ。今後また、地球の大気成分が大きく変動する可能性は否定できないし、もしそうすれば人間は絶滅するかもしれないが、その時にも新しい生き方をする生命が誕生する可能性は大いにあるだろう。

「風の谷のナウシカ」の世界はそれに近い気がする。ナウシカで出てくる腐海は、人間にとっての(人間自ら発生させた?)毒ガスで満たされており、人間はそこでは生きられない(それも腐海は面積を拡大しつつある?)。しかしそこには、その場所で生きることを決めた菌類や昆虫のような生命が存在するわけだ。もっとも、それらは腐海でなければ生きられないこともないようなので、毒物を生命活動に利用しているとまでは言えず、毒物を無害化しているというような設定になっていたと思うが。手元にビデオがなく、この辺の記憶が曖昧なので、細かな間違いはご勘弁を。

さて、これが本来の地球ならば、そのまま地球は毒ガスに覆い尽くされ、人間が絶滅するであろう。なぜなら、大気は一定の場所にとどまっていることはなく、常に風などににより、大気は移動するからだ。「風の谷のナウシカ」というタイトルの通り、ナウシカの世界にも風は存在するようで(未来の地球という設定だったと思うから、当たり前かな)、理屈の上では腐海が一定の場所に止まることは有り得ないと思う。

そもそも、毒ガスにより、その時点で人類が絶滅していたらナウシカの話は成り立ち得ないが、少数ながらも人間はしぶとく生き残っている。そして腐海の生物が毒物を無害化、つまり人間にとって住み易い環境に変えている点からしても、ここに「人類存続のエゴ的欲望(あるいは希望)」というものが見え隠れしていると思う。詳しくは知らないが、一説によると、その千年後には、世界は完全に浄化されるらしい?


# こう書くと実も蓋もないんだけどね。ごめんなさい、ナウシカファンの皆様。
# でも、わたしもファンの一人として書いております。



環境破壊促進スペシャル・環境破壊は人為的な現象か?
1998年10月3日(土曜日) くもり

地球環境が破壊されつづけている言われているが、その犯人が人間であることに間違いはないだろう。現在の人間の営みが環境破壊の原因だとすると、環境破壊は人為的に行われていることと言え、逆に人間が関与せず自然に存在するものは、環境を破壊しないと言うことができると思う。しかし、そもそも人為的な行為とそうでないものを区別することができるのか、という疑問が、わたしにはある。これが自然でこれが人為と線引きをすることなど、本当にできることなのだろうか。

人間がなぜ存在するかという謎は、古今東西問わず多くの人々を苦悩させ、そして一部の者は何らかの説明を導き得た。それは例えば、神が人間を創造した、というような宗教的ものであったり、生命がいつどのように誕生したのかというレベルまで話を還元し、アミノ酸が、DNAが、進化が、という還元科学的なものなど、様々である。もっとも、それらの仮説の正否を客観的に判定することは出来ず、説の正当性は、その社会や時代のイデオロギーに依存するものだ。今の日本ならば、生命の起源に還元するような説が支持されるだろうが、神が絶対的である社会でそれを説いても、神を侮辱する気違いだとして投獄されるだけかも知れない。

では、もし人間が猿から進化た生物であるとし、進化を更に溯れば、いずれは生命の起源という唯一の事象に辿り着き、生命が誕生した原因は定かでないとしても、自然が作りだした産物とするならば、人間もその延長線上に登場した自然の産物に過ぎないということになる。そして、文明が発生したのも、人間が以前より賢くなったという進化の一種であり、文明の発生が起因となった様々な現象も、あるいはその進化の線を延長したものに過ぎないということができるのではないだろうか。

また、文明の中で必要とされる資源、エネルギーも、石油も、鉱物も、全て自然に存在するものである。例えばプラスチックはいかにも人為的に作られたような物質ではあるが、自然界に存在する石油を、自然発生した人間が加工してできた物質に他ならない。もし人間が加工を施したという実績自体が人為的だ、という定義をしたところで、全ての生命は、多かれ少なかれ自然界に存在するものを加工しながら生きており、そうせずには生きられない。従って、石油からプラスチックを生成するという行為も、その延長線上にあると考えることが可能である。

環境破壊が、自然を何らかの形で加工することであるならば、全ての生命は環境を破壊しているのであって、人間のみが行う人為的な行為ではない。人間も地球上に自然発生したものの一つであり、自然発生した人間が行う全ての行為もまた自然現象であって、自然の流れに他ならない。最近、環境破壊が問題となっている背景には、人類存続の危機があるのだと、わたしは思う。住む場所が汚れ、自分達が生きていけなくなったらどうしよう、という人間の恐怖感に加え、それでも将来を求める人間自身のエゴ(良く言えば希望?)から、地球環境を大切にしようと叫ばれているだけのことだ。快適に暮らせさえすれば、人間にとって地球などどうなろうが関係ないのである。



DSU
1998年10月2日(金曜日) はれ

今日の横浜は久々の快晴で気持が良かった。ここのところ雨ばかりが続いているので、尚更だ。さて、今日は仕事を終えてから、会社で便利にタダ働き?させられているアルバイターS氏のお宅を襲撃してきた。タダ働きばかりじゃ悪いのでと、ISDN用のDSUとTA一式を会社から支給されたS氏、そのDSUはNTTの古くてデカイやつだ。最近のDSUは小型化され、接続用の端子もモジュラのみとなったが、その古いDSUはネジ止め端子などもついている。

わたしは、そのデカイDSUに少々興味があったので、S氏家にある小型DSUと交換してもらうことにした。ただでさえ狭い部屋にデカイDSUは邪魔だからと、S氏も小さなDSUを見て大喜び。モジュラを差し替えるだけなので、取り替えなど誰でもできるのだし、そのままハッピーエンドになる...かのように思えた。

そして悪夢が始まったのは数日前のことだった。会社に来たS氏が、小型のDSUに繋ぎかえると、TAが使えなくなると言うのだ。モジュラジャックを差し替え、基本的に同じ機能のものを取り替えるだけなのだから、配線に間違が起きることも考え難い。わたしがあげたDSUが壊れている可能性もあったので、会社の回線で実験してみたが、問題なく動作した。DSUは生きているようである。

使えない原因がわからない...が、その原因に興味があるのでS氏宅を訪問することにした。確かに、古いDSUを繋ぐとTAは動作するが、新しいDSUを繋ぐとS/T点でエラーが発生する。良く考えると、新しいDSUには終端抵抗がついていない。ISDNはバス配線をした場合には、バスのケツに終端抵抗を付けなければ行けないことになっているが、TAとDSUを短い線で直結したような場合には、大概の場合、終端抵抗がなくても正常に動作する。念の為終端抵抗を取り付けてみたが、状況に変わりはない。

いい加減、イライラしてきたので、テスタを引っ張り出してきて、DSUの動作を調べてみた(実は違法かも)。テスタだけでは信号の流れなどを確認することは出来ないが、局側からの給電はちゃんと来ていたし、どうやら仕事はしているようだ。もとい、会社で動作確認をしてきたのだから、壊れているということは考え難い。結局、悪足掻きをしてみても問題の解決には至らず、非常に気分が悪い。

こうなると、DSU−TAの相性が悪いのか? とでも考えたくなるが、モデムじゃあるまいし、その可能性は低そうだ...S氏が嫌がらなければ、もう一回やってやりたい。



カビ
1998年10月1日(木曜日) あめ

さほど広いとは言えないその事務所には、測定器や計算機などがところ狭しと並べられており、フロアの片隅に置かれた大きな棚の陰には小さな台所がある。昼休み、わたしはカップラーメンを食べるべく、台所のポットに水を入れていた。ふと流し台に目をやると、急須が出しっぱなしになっている。それも、その急須は使われた形跡がある。もしや...そして、世にも恐ろしい仮説が、雷光が空を貫くかの如く頭を過ぎった。

この急須は洗われもせずに、ここに放置されたままになっていたのではないか? とすると、それはいつだかもう誰も覚えていないが、前にお茶を飲んだ時に使った茶葉が、そのままに中に残っているのではないか? 恐る恐る急須に手を伸ばし、仮説の正否を検証すべく、ゆっくりと蓋をあけた。そして、ちらっと覗き込み、「ううっ、見なかったことにしよう」とだけ呟き、その場を去った。

カビ

見たものはこれだった。変色した茶葉の一面に生えたカビ!

もうかなり前から放置されていると見られ、死体でいえば、もう白骨化している時期にあたるだろう。犯人は誰かは分からないが、この会社でお茶を良く飲むのはわたしだけなのだ。そのため、やった奴はかなりの確率でわたしということになる...これを洗うのは別に構わないが、これを見た後に同じ急須でお茶を飲む気は起こらないので、急須ごと捨てて、新しい急須を買うことにする。

今日から多事毒論のURLが変わった。今までは http://www.exp.org/remark.html で書き、月末になると http://www.exp.org/remark/remark_98??.html に移動していたのだが、ディレクトリを相対指定したリンクを張っていたり、画像も同時に動かさないといけないので、かなりの手間なのだ。そこで、今月からは最初から、./remark/remark_9810.html で書くことにした。最初からそうするべきだったが、書き始めた当初は、ここまで続くとは思っていなかったから...