多事毒論(1999年2月分)



算数わからん
1999年2月28日(日曜日) はれ

まともな整数演算回路を持たないわたしは、加算減算すらままならないぐらい、数字が苦手なのだ。そんなわたしの前に、リニアにならない数値が適当に並ぶ二次元のルックアップテーブルを参照したとき、テーブルに存在しない中間値は近くの値から計算で近似値を求めて動的にテーブルを補完せよ、という無理難題が立ちはだかった。つまり、

1002150
1301300
2001000

というようなテーブルがあったとすると、左側に並ぶ既知の数値を元に、右側に並ぶ未知の値を求めるというもの。ただし、テーブルエントリには無い中間の値は計算で出さなければならない。100の時は2150になると分かっているが、110は不明なので、これに対応する数値がいる場合は、2150と1300の間に存在する未知の数を計算で補完してを求めなければならない。考えただけで蕁麻疹が出てくる話だ。

1時間ぐらい考え込み、取りあえずテーブルに数値が存在するしないかを判定し、存在しない数値であった場合は、その値の上下二つの数値をテーブルから取り、その2点を通る一次線上に求めるべき数値があるのだろうと気づく。そのためには、その一次関数の傾きを求めれば、リニアな補完できるだろうと思いつく。確かこういう問題は中学校の時にやった気もするが、考えてみればそれ以来のこと。更に30分ぐらい、独り言を言いながらグラフを書いたり数式を書いたりしてると、それっぽい関数が完成した。xに数値を入れて計算するとyが出るという、一般的な関数だ。

しかし、俺って天才かも...と浮かれていられたのも束の間。よく考えると、この計算をやらせる相手は難しい計算が使えないのだ。出来た式を見ると、(aX-cY)(bX-cY) を展開し、さらにそれを別の数で割り、その商を別の数値に足すと答が出るような塩梅。数式としては綺麗だが、計算機にやらせるには荷が重すぎる。この理論をアセンブラで記述するのが最終目標なのだから。また更に30分ぐらい、小数点の演算を無くし、式を変形して時間のかかる乗算や除算の利用を最小限にする方向で考える。なんだかんだやってる内に、減算命令4回と、加算、乗算、除算、それぞれ1回ずつの量で計算が出来るコードが完成する。計算順序を工夫するだけで、ここまで簡単になるのね。

やれば出来るもんだと自惚れながらも、式を入力するだけでこの程度の問題なら勝手に計算してくれるHPの電卓は、(遅いけど)何て偉いんだろうと、ちょっと感心するのだ。考えてみれば、普段から何気なく使ってるC言語の math ライブラリなんかも、結構高度なテクを使ってるのだろう。平方根や三角関数は、四則演算しか出来ない計算機が解くことは不可能である。そこで、四則演算のみで出来た多項式に展開し、近似値を計算させているものと思うが、考えてみれば凄い計算量だ。遅いマイコンだと何秒オーダーの時間がかかってしまうもの...



働け!
1999年2月27日(土曜日) はれ/くもり

むかし、あるところにとても重たい荷物を運ばされているロバがいました。

ロバは毎日の重労働に嫌気がさしてきていた、そんなある日のことです。
荷物を運ぶ途中に橋を渡ろうとしたロバは、足を踏み外して川に落ちて
しまいました。するとどうでしょう、運んでいた荷物が水に流れ出して
みるみる軽くなっていくではありませんか。

ロバが運んでいた荷物は、水に溶ける塩だったのです。
「ケッ、これは良いことを発見したぜ」と、ロバは思いました。荷物が水に
流れてしまえば、もう重たい荷物を運ぶ必要はなくなります。

次の日も、ロバはまた同じように重たい塩を運ばされていました。そして
前の日に落ちた橋に差し掛かった時、ロバはわざと足を踏み外して川に
落ちたのです。昨日と同じように、塩は水に流れて荷物は無くなりました。

「コイツは使えるぜ、毎日やってる」と、ロバは改めて認識しました。
そうして、ロバはいつも川に落ちることで楽をしました。

別の日も、ロバは荷物を運ばされていました。しかし、今日はいつもと
違う、軽い荷物です。このぐらいのものは苦痛ではありません。それでも、
ロバは楽をしたかったので、例の橋でわざと足を踏み外して川に落ちました。

ところが、なんと今日の荷物は軽くなるどころか、どんどん重くなっていく
ではありませんか。今日、ロバが運んでいたものはスポンジだったのです。

スポンジはみるみると水を吸い、やがてロバは溺れて死んでしまいました。

というような物語を、小さい時に聞いたことがある(よく覚えていないけど、絵本か何かだったかな)。この話が何を言おうとしているかは、説明しなくても分かるだろう。人間、嫌でも働かない(勉強しないと)と行けないんだよ。楽ばっかりしようと思ったら、必ず失敗するんだよ。このロバは楽をしようとしたから死んでしまったんだね。努力しない奴は馬鹿だね、ということである。

言い換えれば、資本主義社会において労働者からの搾取を正当化し、経営者と言われる一部の特権階級が他人をコキ使って利益を生むことも正当化し、コキ使う者を除いては、人間はコキ使われるためにあるのだということを幼児に洗脳するための物語である。そういう物語は、何もこればかりではない。誰でも知ってるような、ウサギとカメが競争するお話も、ここまで明示的なものでは無いが、やはり資本主義社会における労働者の不条理さを正当化するものであると考えられる。

そう考えてみると、こういう何気なく存在する物語は恐ろしい洗脳道具だと思う。もし自分が不当に利益を搾取されて生活せざるを得ない労働者であるとすれば、自分の子供にも「積極的に」そういう事を正当化する洗脳物語を聞かせてあげたいとは思わない。さて、この物語を、権利意識を高めた物語に改造すればどうなるのであろうか?


スポンジはみるみると水を吸い、やがてロバは溺れて死んでしまいました。

そこへ、グリーンピースが横断幕を持ってやってきました。横断幕には、
動物虐待と同等の労働を強いる運送会社に対する抗議文が書かれています。

グリーンピースは更に激しい抗議活動に出ました。マスコミが取り囲む
運送会社が昨年建てたばかりの自社ビルに火を付けてしまいました。
泣き崩れた社長が見守るなか、炎に包まれた建物は崩れてしまいました。
おもしろくない...

そうして、ロバはいつも川に落ちることで楽をしました。

しかし、ある日の事です。そのような勤務態度に耐えかねた経営者は
無情にもロバを銃殺してしまいました。仕事をしない愚か者に対する
当然の粛正に、異議を唱える者はもちろんいません。
こんな物語が普及するようになったら世の中は終わりだね...



臓器移植?
1999年2月26日(金曜日) くもり/あめ

高知の病院で脳死かも知れないという患者が現れ、臓器移植の可能性があったことから昨晩よりテレビ各局で熱く報道されていた。中には臨時ニュースを入れた局もあったが、そこまですることなのだろうか。わたしが見て感じたところでは、まだ死んだと決まっていない人間なのに、出来れば脳死と判定されて死んで欲しいという期待とも思える論調が伴っていた報道を、少し不快に思った。これはきっと問題になるだろうと思っていたら、案の定、今晩テレビを付けると問題になっている。

もっとも、あれほど議論を呼んだ臓器移植法に基づいて「脳死判定が真と確定する可能性のある第一号の患者」という観点から言えば、社会的関心が大きいのは否定できないことである。もしわたしが患者だったら、まあ第一号という名誉的な人間になれるかなとか、気楽な事を考えてもいられるわけだが、そこで親が立ち会っていたら断固として許さないであろう。そういう家族の気持ちを考慮すると、間もなく第一回目の脳死判定が行われ、6時間後に行われる二度目の脳死判定の結果によっては、

初の脳死患者となる
見込みです。

のような、有り体に言えば、「第一号なんだからちゃんと死んでよ」とも感じられる表現はかなり不適切である。

臓器移植が行われる事に対する関心は大いに結構だと思うが、今後、「せっかくの部品取り人間なのだから、とっとと死んでくれ」という余計な期待を持っていては、今後も成功しないということを示唆しているのではないだろうか。当人は良いとしても、現在の日本人が持つ死に対する意識は、かなり厳密なものであると思う。もし自分の愛する人が脳死と判定されたときを想像してみると、言葉は悪いかも知れないが、やはり諦めるに諦めきれない、死んでいるとは割り切れないという微妙な感情が、必ず発生すると思うからである。

そこを、本人の意思があるからと無理に納得し、臓器提供に同意するのなら、家族の気持ちは複雑にならざるを得ないだろう。普段は冷たく割り切って色んな事を書いたりしているが、大切な人が暖かいまま死んだと判定された時にまで、医学的正当性と論理的正当性に基づいて自分が納得でき、「早速ですが、切り刻んで下さい」と言う意味で「お願いします」と言えるのか。そう考えてみると、直ぐには割り切れないと思う。



お受験勉強
1999年2月25日(木曜日) はれ

今年は親戚の子が高校受験を控えているそうだ。ここ何年かは会っていないが、その親がまた筋金入りの教育ママで、お勉強について説教する時のママの姿は、昔からスーパーサイヤ人に勝るとも劣らない気合いの入ったオーラを漂わせていた。何もそこまでせんでも...と、端で見ているだけで心配になってくるのだが、そんなことを口にしようものなら命は無いかもしれないと思わせるぐらいの、非常におっかない勢いなのだ。

やっぱり恐ろしいと改めて思ったのは、今年の正月に起きた事件である。例年は正月になると親戚で集まったりするのだが、今年は高校受験の勉強をするため、その子は家で監禁されていたそうだ。正月ぐらい少し休んでもいいように思うのだが、教育ママの価値基準においては例え正月であろうが休むなど言語道断!ということになるようだ。受験勉強で張り切るのも一概に否定するわけではないが、ママばかりが熱くなって空回りしているように思え、何となく憐憫の情を感じるところである。

前にやっていた仕事が似非教育産業だったので、熱くなりすぎた教育ママや教育パパは多く見てきたが、何となく本人のやる気と親のやる気は反比例しているように感じることもあった。つまり、親から「嫌なら良いのよ」という調子に比較的寛大な選択肢を提示されている子が、それでも予備校にやってくる場合は当人の希望も少なからずあって来ているので、やる気を感じることが多い。逆に三日に一度のペースで「先生、うちの子は」と言ってくる熱狂的な親のいる子は、親の熱中からして嫌気がさしているのか、それ程のやる気も感じない。

そういう法則が必ずしも成り立つとは思わないが、言いたいことは何となく分かると思う。しかし、どちらの方針が正しいのかと聞かれると難しいところかも知れない。任意主義で当人の希望を尊重する場合、提示された選択肢を適切に選ぶ技量が当人に必要となるだろうし、それには一定のリスクが伴う。かと言って強制主義は、親子の価値観が一致している間は良いとしても、乖離が激しくなると熱狂的教育ママに冷めたガキという、如何にも哀れな空転の構図が出来上がってしまう。それと、後者の本当の恐ろしいところは、教育ママは自分をそうと認識していないところかも知れない。

わたしの両親は、相反する両方の方針に毒電波が少し混ざったような感じだった。オカンは前述した親戚ほどではないが、それでもかなりの教育ママだ。で、親父の方は、勉強するなら協力するとは言うものの、それ以上のことは自分で決めろ的な方針であった。わたしがこんな調子の勉強嫌いなので結局は親父の方についていったのだが、するといつしか教育ママの権力や強制力も失効し、最終的にはママだけが取り残された形になり、一人で参加する空回り大会の絶望を味わうことになる。勝手に頑張って勝手に人生の悲哀を人一倍痛感した教育ママに、残ったものは何かあったのだろうか...



口内炎
1999年2月24日(水曜日) 雨

奥歯の歯茎付近に派手な口内炎が出来て凄く痛い。口を動かすだけでも痛いし、ただじっとしているだけでも何となく異物感があるのだ。この気持ち悪さ、大体わかるだろう。わたしの場合、少し疲れが溜まっただけで直ぐに口内炎が出来る。少し夜更かししただけで、数日後に口内炎というパターン。今回の口内炎は、先週の金曜日に朝まで起きていたことに神様が下さった天罰なのであろう。

しかし、PCをいじることに喜びを感じる人間なら誰しも理解できることだと思うが、PCいじりに夜更かし徹夜はもれなく付いてくる。対寝不足性能は人によって異なるようで、一晩ぐらい寝なくたって次の日も平気という人もいれば、次の日は死んだように寝てしまう人もいる。わたしの場合は後者の方で、オマケに少し遅れて口内炎が出てくるタイプの人間であるようだ。対寝不足性能は、中学生ぐらいの時までは自身があった。一晩寝なくても、次の日も普通に起きてられたからだ。

ところが、高校ぐらいからそれが通用しなくなった覚えがある。若いから徹夜ぐらい平気とか思っていたら次の日は昼前には寝てしまい、今日はたまたま疲れていただけだと自分に良いわけするのだが、そのような事が繰り返しあるともう自分は若くないのだと認識せざるを得ない(笑) そして年老いたわたしには、必ず口内炎が発生するのだ。昔から疑問なのだが、この口内炎って厄介者は、何故出てくるのだろう。防いだり、効果的な治療法はないものであろうか。

口内炎は口に出来る物であるからして、耳鼻咽喉科へ行くのが正しいように思われる。耳鼻咽喉科なWebサイトと言えば、九州大学耳鼻咽喉科にある、ばーちゃる耳鼻科が非常に詳しい。早速だが調べてみると、アフタ性口内炎というものに該当するようだ。ビタミン不足、睡眠不足などが原因として挙げられており、ようするに根本はビタミンを良く摂取してとっとと寝ろ!ということかな。軟膏類もあったりする。実家にケナログという薬があったので使っていたが、即効性は無く、一週間で治る物が5日で治るという程度のものと思う。結局、端から作らないのが一番だね。



非核三原則
1999年2月23日(火曜日) はれ

なんやかんやと忙しいところに、親父が東京出張とかでやってくる。まあ、前日のうちに部屋からやばそうなものを撤去したり、ちょっと掃除したりという手間はあるものの、来るのは良いが、なにもこの忙しい時を選ばなくてもという感じだ。親父の会社の人に、「このホームページ作ってる方、椚座さんって息子さんですか?」みたいな事を聞かれたことがあるらしい。名字が変なのでバレバレっていうか、世の中も狭いものというか、ここにも余りヤバイことを書けない時代がやっきたのだろうか...

高知県が、核兵器を載っけたお船は来ちゃダメよ、なんてことを言っている。それに対して政府は、テメーら地方の出る幕じゃねぇんだよタコ!みたいな見解を示しているそうだ。理屈から言えば、非核三原則があるんだから -> 核は持ち込んじゃ行けないことになってるんだし -> 核は持ち込んじゃ行けないから -> そういうお船は当然ダメよん、というような三段論法のようなものが見事に成立する。また、政府がそういう政策を採っていることになっているから -> 地方もそうするね、ということも理屈としては正しい。

なのに、政府は色々と理由を付けてやめさせようとしているから、わたしのように何事も論理的に正しくないと気持ち悪く感じる人間からすれば、半分ぐらい出てきたクソを途中で腸に押し戻したような感触である。ついでに言えば、「核兵器もその限度を超えない限り合憲」というような国会答弁は、しょんべんを膀胱に逆噴射するぐらいの気持ち悪さが伴うところである(どんなのや)。いっそうのこと、「非核三原則なんて建前に過ぎないよ、今頃気づいたの?」ぐらいのことを言ってくれた方が、様々な矛盾に論理的整合性が取れて気持ちがいい。よく言った!と誉めてやるだろうね。

わたしは何も核を認めると言っているのではなく、非核の建前と、「核を持ちたくて我慢できない」という気持ちを示唆する肯核の間に存在する齟齬が気持ち悪いと思うだけなのだ。わたしに外交なんて難しいことは理解できないし、もしどうしても核が必要という事態があれば(具体的なものは想像が付かないけど)、それはそれで認められる場合もあるかも知れない。しかし、その時は是非、非核三原則という物を完全に否定していただいた上で、核を持って貰いたい物なのだ。

ところで、わたしは「アメリカ人は馬鹿」という安直な偏見も持つ攘夷主義者である。以前に何名かのアメリカ人に、原子爆弾 (atomic bomb) と核兵器 (nuclear weapon) の違いを答えよ、という質問を出したことがある。その結果、原子爆弾は日本に落っことしてきた物であり、核は(今は無き)ソ連との戦争に際して使われていたかも知れない種の兵器で、別々の物と考えている者も意外と多くいる者だ。日英問わず名称は違うが、原子爆弾は核兵器の一種であり、ウランなどの核分裂反応を応用させたものを挿す。従って、原子爆弾は核兵器に包括される小概念である、というのが正しい答えだろう。



○○紀行
1999年2月22日(月曜日) はれ

テレビを見ていると、○○紀行とか、全国△△めぐりとか、そういう感じの番組が色々とある。どこそこ湯けむり紀行とか、何々食べ歩き紀行とか、あの手の番組だ。思うのだが、ああいうのを見て何が良いのだろう? 大方のパターンとしては、男女それぞれ売れない三流タレントが出てきて、ことある毎に何もかも大袈裟に褒め称える映像が延々と続くものだ。全然面白くないという次元を通り越して、

・いやぁ、本当に素晴らしい景色ですよね〜 <そう?>
・このお料理は本当に美味しいですよ <俺が食ってる訳やないから>
・ここのお湯は最高の気分ですねぇ、はあ <お前が癒されても意味ないんじゃ>

という感じで、「チャンネル変えるぞ」というよりも

「いてまうど、おんどれ!」

的な鬱陶しさがある。旅行なんて自分で行くと初めて「いいな」と思うもので、テレビで全然関係の無い奴が楽しんでいても、代理満足すら得られない。ま、こっちはこっちで「人が働いてる時に何さらしとんじゃ」という見方であるが、出演している人間も、

「うわ、うまい! これは美味しいですね」

と笑顔で褒め称えながら、実は不味い料亭だったりして

「お前んとこの板前は味覚音痴か、あほんだらー」

ぐらいの事は思っているかも知れないね。



国民年金
1999年2月21日(日曜日) はれ

区役所からラブレターが到着。「20歳になったら国民年金1年生」とか、訳の分からないことが書いてある封筒を開けると、「国民年金払えコノヤロー」という旨の赤紙が入っていた。もうそういう歳なんだと気づく訳だが、毎月13300円が給料から飛んでいくとかなり痛い。払って払えない金額ではないが、安い月給に対する割合から言えば結構な金額なのだ。

払わない奴が多いためか、それとも年金に対する不信感が強いためなのか、横浜市が出しているパンフレットには国民年金を納付するメリットがしつこいほど書かれている。将来のことなんて分からないし、払ったところで同等またはそれ以上の金額も貰えないんじゃないのって感は無くもないので、「国民年金は明るい未来を見つめて20歳のあなたと歩みます!」なんてセリフは余計に怪しく感じてしまうものだ。

国民年金第1号被保険者の中で未納者は1割を超えているそうだが、未納者の多くは経済的な理由により払えないそうだ。確かに、この金額はかなり割高感がある。キチキチの生活をしている人間が、毎月これだけの額を生活費からさっ引かれると思えば、払う気が無くなるのも無理の無い話だと思う。ついで、経済的な理由よりも年金制度に対する不信感などから、積極的に払わない者が多いとか。

わたしもばっくれちゃおうかな、なんてね。



マイク
1999年2月20日(土曜日) はれ

アキバでマイクを買ってきた。物は、本来はメーカー製パソコンに付属しているはずのものである。NEC とか書いてあるから、恐らくバリュースターか何かの付属品と思われる。ところで、メーカー製のパソコンを買うと必ずマイクがついてくるのだが、これを使っている人はいるのだろうか? サウンドカードは昔からPCに挿しているが、マイクで何かをしたことはあまりない。自分の声を録音してもしょうがないし、ちゃんとした録音をしたい時に、パソコン用のボロマイクを使うことは無いだろう。

もっとも、最近はインターネットに繋いでいる人も多いだろうから、インターネット電話用として使う人もいるかもしれない。実はわたしも、こちらの方に誘われ、インターネット電話の実験がしたくなったので買ってきたのだ。取りあえずは音声通話、最終的にはテレビ電話という話が上がっているのだが、それにはカメラなどもいるし、ちょっと面倒くさそうなのだ。モニタの上に置く丸っこいカメラも良いように思うが、デジカメで出来たらおもしろそうかなと思って、ハードは完成、ソフトは設計中。しかし、毎分1フレームってところかな(^^;

有線無線問わず、伝送路の世界には「通話」と「通信」という、非常に恣意的な分類が存在する。言葉の通り、前者は電話のように音声を運ぶ場合を良い、後者はそれ以外の符号を運ぶ場合を言う。例えばアナログの電話は明らかに通話と分類できるが、インターネットでリアルタイムな音声通話をする場合、それは音声を流しているのだから「通話」に相当するのか、それともビットの流れに過ぎないから「通信」なのか、難しい所だと思う。そう言えば昔、「通話」を目的とした電話回線にモデムを接続して「通信」することは、違法であったこともあったらしい。このような分類は、そろそろ時代遅れだね。



続・ファームウェア
1999年2月19日(金曜日) くもり/ところにより雨

午前2時を過ぎたが、まだ会社にいたりして。何となく会社からホームページを更新してみたりする。何もかもは昨日書いたファームのバグのせいなのだ。良く分からないバグが出たりして、それを除去していたらこんな時間。それもすごく詰まらないことだったりして、半泣き状態。なんか今日はこれ以上パソコンに向かっている気もしないので、短く終わりにすることにしよう。



ファームウェア
1999年2月18日(木曜日) はれ/くもり/ところにより雨

最近、医療機器もどきのファームウェアを書いているのだが、今日でやっと半分ぐらい完成ってところか。取りあえずの納期は今月末ということで、間に合うかどうか少し怪しいことろ。まあ、変なバグさえ出なければ大丈夫...と思う。アセンブラでカタカタと打つのは久しぶりだが、たまにやるのも楽しいものなのだ。ファームなどは趣味で書いていたことがあるので経験はあるのだが、仕事でやるのはこれが初めてだ。さて、わたしの処女作は、動くのだろうか。

なんだか知らないが、ソフトなんてその気になれば何でも書けると勘違いしている人がいるのだが、それは間違いであろう。アセンブラやC言語のような低級言語と、パスカルぐらいは何となく書けるのだが、Windows 関係は体が受け付けなかった。前に半ば騙されて(笑)VC++を囓ってみたが、その後は起動画面を見ただけで蕁麻疹が出るようになってしまった。仕事だからしょうがない..と割り切ってもダメなものはダメ。なんでWindowsのAPIとかって、あそこまで複雑難解なの?(というより、未だオブジェクト指向という概念が理解できないの..)

色々と考えてみると、わたしがWindowsアプリ開発嫌いになる最大の理由は、まともな資料な少なすぎる点だと思う。例えば FreeBSD で何か作りたくなったとする。最初からCコンパイラが使えるようになっているから開発環境を整える必要もないし、中途半端な知識しかなくても、whatis や man を使えば殆どのことは分かるようになっている。VC++にもオンラインマニュアルは存在するが、FreeBSD のそれほど使い勝手の良い物では無いし、全体的に難解だと思うのは、わたしだけではないだろう。

また、ソフトのソースコードが公開されているという点も非常に重要なことだ。そもそもUNIXのフリーソフトがバイナリで配布されている方が珍しいし、OS周りのソースもある。手探りでプログラムを書くときは既存のものを改造することから理解していくと比較的スムーズに事は運ぶし、やり方の分からない処理があれば、同じようなことをしているコードを探して、それを参考にすることも可能だ。そういう意味では、他人の書いたコードは極めて貴重な資料である。

比べて、VC++で書かれたフリーソフトでソースのついてくるものは殆ど存在しない。無いわけではないが、数少ない中に、参考になりそうなものがたまたま存在するとは限らない。本を買えば良いだろうという話もあるが、4〜5千円もするプログラミング本を買ってきてまでして Windows のソフトを書く気にはならないわけで。手軽に man とやれば説明書が出てきて、手軽に gcc とやればコンパイルされる環境を選ぶのは当たり前のことだろう。



助詞抜き・ら抜き
1999年2月17日(水曜日) はれ

関西弁でしゃべっていると助詞を省略したり、「ら抜き」言葉を使うことが多い。

例「豊中のおばはんテレビ出てたん知っとる?」
訳「豊中のおばはんテレビ出たというの知っているか?」

上記の例文は問題なく通じるものだが、このように、目的や所有を示す
比較的重要な意味を持つ「の」を除くと「が」や「に」などはよく省略される。

例「そうらしいけど、忙しいて見れんかった」
訳「そうらしいけど、忙しくて見れなかった」

例「これ正味期限切れとるけど食べれんの?」
訳「これ正味期限が切れているが食べのか?」

このように「ら抜き」や「れ抜き」言葉も結構使っているが、間違いとも思わない。

なんか頭のお堅い国語審議会には叩かれそうな言葉だが、そんな正しくない言葉を普段から使っていると、ちゃんとしたところでもつい出てしまうことが度々あった。しゃべっている時はまだ良いが、書いている時も出てしまうと困るのだ。FEP が変換してくれないと思ったら助詞が抜けていたり、ら抜きで書いて ATOK に文句を付けられたり、時にはそのまま気づかず、誰か人に校正されてしまったことも。

文法には不合理なところが多すぎると思う。「食べられる」よりも「食べれる」の方が一文字短く、それも前者はコンテクストが無ければ食べるの尊敬語なのか、可能を表しているのか不明確である。それなら、あってもなくても意味のない「ら」なんか抜いてしまえば合理的なのだ。助詞にも無駄なものが多い。文章にする場合は助詞が無ければ論理的秩序の欠けた意味不明の文になってしまうが、喋っているのなら、不要な助詞は大いに省略すべきであり、批判すべきものではない。

それはそうと、勝手気儘な音便も便利である。

例「電話とれ、ちゅーの」
訳「電話をとれ、といっているの」

音便とは発音上の便宜から発音を変えることだが、前に「関西人って何で『ちゅー』と言うの?」みたいなことを言われて少し考えたことがある。関西弁でいう、「ちゅー」とは、「という」の音便なのだろうと思われる。



バルブは全開にしちゃあ、いかんぜよ
1999年2月16日(火曜日) はれ

小学校ぐらいの頃か、プロパンガスのボンベについているバルブを開けていたら、親父が出てきて説教を始めた。曰く、ボンベのバルブは目一杯開けて使うのは間違いで、全開よりも少し戻して使うのが礼儀なのだとか。何故なら、ガスのバルブは開いているのか閉まっているのかが容易に分からないため、知らない者が閉まっているものだと勘違いし、全開のバルブを更に開けようとするかも知れない。もし全開になっていればそれ以上左へ回ることはないが、もしかするとその人は「最初は堅いのかな」と思って、力一杯回してバルブを破壊しかねないから、危険である。

と、大体そんなような理由で「バルブは絶対に全開にしてはならない」みたいなことを言われた。しかし、何故かそのことが妙に印象に残ってしまい、それ以来わたしはバルブというバルブを全開に出来ない体になってしまったのだ。これは一種の心的外傷なのだろうか、ガスボンベは勿論のこと、そこら辺にあるような水道の蛇口でさえも全開に開けた後は少しだけ左へ戻さないと、妙にそのことが気になるのだ。どういうわけだか知らないが、不思議とこれだけはいくら忘れようとしても忘れられない。

しかし、そんなどうでもいいような事を小学生ぐらいの息子に教え込む親父も親父で、どうかしているのだ。バルブの開け方一つにも気を配る安全第一の精神は、薬品工場勤務というオタク現場の気風にどっぷりと身を染めた証左であろう。昔から家庭にまで仕事を持ち込むなとオカンに言われていたようだが、所詮人間は、職業が陥れる病から逃れられないということの証明なのかも知れない。しかし、何れにせよ息子に「バルブを全開に出来ないトラウマ後遺症」を残した責任は極めて重大である(こともないか)。



本性を...
1999年2月15日(月曜日) はれ

部屋に籠もってアニメのビデオを鑑賞していた昨日が、バレンタインであったことに気づく。一昨日と今日は覚えているのに、何故か当日だけは忘れているのは、これまたいい加減な性格の現れなんだろうか、何かにつけてそうである。郵便ポストには大量のチョコレート...処分に困って会社の皆さんに分けてきた、なんて事は当然の事ながら空想の話に過ぎず、案の定、今年も例年通りゼロ。目くじらを立てて「バレンタイン」という制度を批判する元気もなくなり、俺は生涯孤独の身として終わるのだろう。

それはそうと、今日は何故か動かなくて悩んでいたプログラムが動いたりして、溜飲が下る思いだ。書いたソフトが意図した通りに動くのは誠に気持ちの良いことで、バレンタイン自己嫌悪デーは無かった事にしても良いだろう。と、そんな単純な理由で帳消しに出来てしまう今のわたし。立ち直りなんて言葉からはほど遠く、悩みの固まりであった昔の自分と比べればかなり成長したもんだ。お陰でいい加減な性格が余すことなく現れてしまったのが玉に瑕か...

そういえば、わたしはある組織などに暫く居ると「本性を現したか」というようなことをよく言われる。最初はどういう訳か「比較的マトモな奴」ということで通ってしまい、A型とうち明ければ誰もが首を縦に振る。ところが、次第に「いい加減」「注意散漫」「ちらかす」といった性格がバレてしまい、挙げ句の果てには誰もA型であることを信じてくれなくなる。「それはO型の性格でしょう」なんて言われて、結構ショックだったり。O型の人に失礼ではないか...

昔から当有害コラムにお付き合い頂いている方はお察しのことだろう。本日のように虚実織り交ぜ、たわいも無い話を延々と書き連ねる日は他にまともなネタが無かった日と見ていただいて間違いなし。書き始めた当初は毎日書くというだけで精一杯だったが、気づけば連載開始から早、幾星霜。慣れというものは非常に恐ろしいもの、いつしかネタの無い日も適当に繋いでおけるようになってしまったのは、専らここだけの裏話。



英語吹き替えアニメ
1999年2月14日(日曜日) はれ

マクロスプラスのビデオを借りてきた。それも、英語吹き替え版というもの...
アメリカ市場向けということもあって、パッケージの粗筋も全て英語である。

日本のアニメを英語で見られるというのもおもしろい。逆に洋画の日本語吹き替え版は何度も見たことがあるのだが、外人が日本語で話しているという異常な様は気持ちの良い物ではなく、違和感は著しい。洋画はやはり字幕に限るというものだ。さて、アニメの場合はどうなのだろう。どうせアニメの登場人物に明確な国籍があるわけではなく(マクロスプラスの場合は若干あるけど)、端から何語でなければならないという制限も無いので英語版があっても不自然とは思わないが、少し心配しながらデッキに入れてみた。

見始めてから最初の数分は、言葉が違う事に対する違和感よりも、調子がいつもと異なることに対する気持ち悪さがあった。それは恐らく、無意識のうちに日本語版と比較しながら見ていたからであろう。しかし、しばらく見ていると英語版は英語版として割り切れたのか、英語版マクロスプラスも意外と板に付いている気がしてきて、それはそれで悪くなかったというのが正直な印象だ。セリフを無理に翻訳したように感じるところもあったが、結構いい感じのスラング英語で固められていて、英語版の声優さんも、予想していたよりアニメのアフレコが上手いものだ。

英語版は、日本語版を念頭に置いて見てしまうと、日本語吹き替え洋画と同質の違和感があるようだが、何も意識せずに「それはそれ」として見ればあまり気持ちの悪い物ではないようである。英語吹き替え版日本アニメは主にアメリカ向けに作られているもので、今回わたしが入手したビデオもその一つだ。しかし、実は同じ物が日本にも逆輸入されているようで、英語に吹き替えした日本アニメに、今度は日本語字幕を入れて売られている。何もそこまで遠回りしなくても良いと思うのだが...キャッチコピーは「まるでハリウッドムービー」。何か間違っている気がする。

もっとも、これがマクロスプラスであったから良かったのだろう。以前に英語吹き替え版「セーラームーン」なんて物を見てしまったが、あれはマジで気色悪かった。



ふう
1999年2月13日(土曜日) はれ but 寒い

朝からお洗濯、それが終わって午後からサーバメンテナンス、それからお出かけという、いつもは昼間で寝てる土曜日にしては忙しい一日であった。いまご覧のサーバで動いている httpd (Web のデータを日夜吐き続けるもの)を Apache-1.3.0 から Apache-1.3.4 にバージョンアップしてみた。これが一筋縄ではいかず、何度かコンパイルに失敗。これがうまくいったかと思えば、設定ファイルがそのまま使えず、その作り直しなどに手間取って予想以上に時間を食ってしまった。

昔の Apache-1.2.6 から Apache-1.3.0 に上げた時は、パフォマンスが良くなるなど、表面的な部分にも色々と変化があった。今回はそうでもないが、内部的なところで効率が良くなっているようだ。ここのように個人のWebサーバ程度なら少々パフォマンスが悪くても問題にならないが、アクセスの集中するプロバイダなどの高負荷なサーバではより効率の良いものが求められる。プロバイダも効率改善に色々と苦慮しているようだが、Netscape のサーバ を使っているところが Apache に切り替えるなど、評価は良いようだ。しかし、別に加入している某社のサーバは HP-UX に Netscape Enterprise だったりして、これが使い物にならないぐらい遅かったりする。

南青山にある、紀伊国屋とかいうスーパーへ行ってみた(書店ではない)。小綺麗な感じのスーパーで日用品を売っているようにも見えるのだが、値札はどれも日用品価格ではなく、どちらかというと高級食材店とも思える店だ。が、中にはそれらを当たり前のように買っていく客がおり、どいつも金持ちそうな雰囲気を漂わせている者ばかり...場所柄そういうスーパーがあっても不思議ではないが、「うわぁい缶詰88円均一、たくさん買っていこ」という倹約生活を送る安月給会社員は、改めて場違いを痛感するのであった。

しかし、ポテトチップス1袋400円とか、窓拭き洗剤1本700円とか、本当に売れるんだろうか...



愉快な営業列伝
1999年2月12日(金曜日) はれ/くもり

イライラとしているときに、某長距離系電話会社の営業がやってきた。
この営業はプロバイダ用の回線を売りに何度も来ているのだが...


『御社のサービスは23時から8時までは使い放題なわけですね?

「うちはいつでも使い放題ですけど。

『え...えーと、テレホーダイの時間帯だけではないのですか?

「まぁ、それは電話代の問題ですからね、サービス料金とは無関係です。

『でも、固定料金制で使い放題ということは、テレホーダイ時間帯でなければ...

「あのですね、先ほどから言っているように、うちの料金は固定なんですよ。

『はあ、それではテレホーダイ時間以外はどうなるんですか?

「それはお客さんが通常の通話料を払えば使えますよ。

えっ、御社がテレホーダイに加入しているのではない?

「全く違いますよ。
テレホーダイは利用者の方が加入するものですから。

『そっ、そうなんですか。失礼しました...


『ところで、
着信回線をフリーダイアルにするというのは如何でしょう?

「お話になりませんね。通話料は原則的にお客様持ちですので。

(っていうか
正気か、こいつわ?)

危うく会社をさせかねない愉快な営業であった。



うう..
1999年2月11日(木曜日) くもり/雪/あめ

今日は休みなので秋葉原へ行こうと画策するも、
そんな所へ調子の良い雪が降ってきたので敢え無く中止。

関東圏の住人が雪に不慣れであることは、誰もが知るところであろう。家で平和にお茶を飲みながら一つも面白くないテレビを眺めていると「東海道線東京小田原運休」とか「東名高速東京川崎通行止め」などというテロップが時折現れ、家で救いようのないグータラ休日を送ることが、的確な判断であったことを明らかとした。豪雪地帯ならこの程度の雪で電車が止まることはないし、道路脇には塩カルが積んであったりして積雪対策も出来ているが、普段から雪の降らない地方ではそうも行かないようだ。

折しも雪は雨へと変わり雪の積もった路面はシャーベット状態となったころ、夕飯のおかずを買いに出かける。こんな天候なので人通りは少ないが、歩いている人は滑らないようにと随分と慎重になっている様子。そこまで気にしなくても普通に歩いてりゃ滑らないし、仮に滑ったとしても落ち着いていれば転倒までは至らないと思うのだが。慣れてそれなりの体勢なら、走っても転けることはない。逆に変に意識して力を入れていると転けるようである。というのも、前に油まみれの滑りやすい仕事をしたことがあるので..

凍結路面を安全に歩くポイントは、前に出す足を路面となるたけ平行にし、それも臑とを路面と直角にして路面を踏むことだ。踵から路面を踏むと後方へ滑る原因となるし、爪先から踏むと前方へ滑る原因となる。また、臑が路面と直角するのは足自体の重心を膝から踝の中心にもってくるだめだ。足を前に出したとき、臑と路面で形成される角度は自分から見て鋭角になりやすく、摩擦が強く働く場合は問題ないが、滑りやすい路面では足がそのまま前方へと滑走することになり、尻餅を搗くことになる。両足の膝を曲げ、前に出した足の臑と路面の間の角度が直角となる五角形を形成するのだ。

しかし、これではまだ不完全だ。胴体の重心も中心に持ってくるようにし、重心移動は、両足が地に着いており、それも前に出している足と路面との角度を直角に保ったまま行うと良い。そうすれば滑らないはず。ちなみに、これはものすごく不格好で、泥はねしまくる歩き方だ。特に女性はいやがるに違いないと思うが、滑って転けるよりはましかな。

# 臑(すね) 踵(かかと) 踝(くるぶし)
# わたしは読めすらしないけど、ATOK12偉大なり。



ダイオキシンと農産物
1999年2月10日(水曜日) はれ

最近、所沢の野菜がダイオキシンで汚染されているのではないか、なんて問題で騒がれているようだ(久米宏が勝手に騒いでいるだけかも -> テレビ朝日も認めてるし)。わたしは野菜が好きで、ほうれん草などは良く食ってる方なので気にならない話ではない。何か「悪いもの」が含まれている食品は出来れば避けたいところではあるのだが、かといって、目くじらを立てて騒ぐほどのこととも思わない。所沢産の野菜を取り扱い中止にしたスーパーなどもあるようだが、普通に売ってたら、多分あまり気にせず買ってしまうと思う(生産地なんか普通は確認しないし)。

以下はわたしの個人的な食品哲学なので必ずしも正しい話とは思わないが、わたしは過剰な安全性を食品に求めようという気はない。無農薬・有機肥料使用・遺伝子操作一切無しのような野菜なら大いに結構なことだが、そのことでただでさえ高価な野菜の値段が更に跳ね上がったら、野菜は買わなくなるであろう。ただでさえ現在進行形で増え続ける60億もの人間を食わせて行かなければならない時代に、細かいことを気にして敢えて効率の悪い生産を行えと言わんばかりのエゴを聞いてられるか、とも思ったりする。

なら、お前は悪いものを食って死にたいのかなんて言われそうだが、そんな極端なことを言っているのではない。ある程度の品質保証や安全性は必要なことであり、それすら無くして多くの人間が変な病気になり、人類絶滅の危機(!) みたいなことになれば元も子もない。どこまでが必要で、どこからが過剰なのかという線引きは難しいところだろうが、現状でも最長寿国とか言われてるのに、何がいけないのだろう。

ダイオキシンの問題は産業廃棄物処理場が全て悪い! 操業停止にしろ!!
みたいな報道が一部ではなされているが、現実を見れば産廃自体が無くなるわけではないし、従って産廃処理場は必要な存在だ。処分場が無くなれば発生源が絶たれて問題も無くなるのは確かかも知れないが、処分場が無くなっても廃棄物は無くならないし、考え方が余りに安直すぎると思う。日本は全体的に潔癖性病にかかっているのではないだろうか。現実から目を逸らして綺麗なところだけに目を持っていっても、現実は消えて無くなるものではない。農協や役所も、汚染などのデータを隠蔽したところで問題が集結するものではないことを学べないものだろうか。



ファイナル?
1999年2月9日(火曜日) はれ

発売まであと二日! なんて派手な宣伝をしている「ファイナルファンタジー8」。これを直訳すれば

最終空想物語

というところだろうが、

いつになったらほんまに終わんねん!

とか

最終に連番振って続かす奴があるかいっ

などと色々と突っ込みはあるところだろうが、いくら突っ込んでも終わりは来ないようだ。

それはそうと、一個前のFF7は少しだけやったが、15インチテレビでやったらあの斜めスクロールの見にくさに嫌気がさして数分でやめてしまった記憶がある(早いな)。3次元の世界や迫力あるムービーも効果の一環として使うなら悪いとは思わないが、コンスーマー機の描画性能が上がってからというもの、そればかりが全面に押し出されていることは否定できないであろう。個人的に、ゲームをやりながら遅いCD-ROMをガリガリ言わせながら吐き出される中途半端なMPEGを見たいとは思わないし、そんなことのためにどうでもいい円盤を何枚も買わされる(焼かされる)のも堪ったもんじゃない。

あ、もちろん廃棄するときに焼却炉で焼くのが大変って言う意味です。誤解無きように。



罪と罰と刑
1999年2月8日(月曜日) はれ

少し前に、故・木下恵介監督の「衝動殺人・息子よ」を見たのだが、犯罪被害者の心境を上手く描写した作品だと思った。半分寝ながら見ていたので内容は詳しく覚えていないのだが、何もしてないのに突然殺された息子の父親が、同じような犯罪被害者の遺族を訪ねて歩きながら政府に被害者給付金制度を求める運動を起こすというようなお話だったと記憶している。何の罪もない犯罪被害者の遺族達が、泣き寝入りせざるを得ないことを全体を通して厳しく批判した社会派映画のように思えるが、それだけでは無かろう。

最近になって知ったのだが、これは20年も昔の作品なのだそうだ。にも関わらず、「藤田まことが妙に若い」みたいな物質的な面以外では、古臭さを感じさせないのが恐ろしいところである。最近起きたいくつかの事件で、また犯罪被害者の権利について議論されるようになった。神戸で某(!西)少年のやらかした事件をきっかけとなり、容疑者が少年であることを理由に、例えば殺人事件の遺族すら処分結果を知ることができいことが問題となったりした。しかし、事件を起こした者は手厚く保護されるのに被害者やその遺族はそうでもない、という構図は納得のいくものではない。

これらの事例では容疑者が少年であり、彼らに今後の更正の余地があるという特殊性はあるものの、それを差し引いても現代社会における罪と罰の関係を鑑みれば、大きな矛盾を孕んでいるものと思う。本来ならば、被害者やその遺族が自らの手で犯罪者の腸を引きちぎったり、斧で首を切り飛ばしたりするのが最も気持ちの良い形式の罰である。ところが、私刑が認められず密室で執行される公的な刑が全てとなれば、被害者にもたらされるのはその結果しかない。被害者は、その結果を聞いて「ザマ見ろ」と代理の満足で納得するしかないのが、私刑の禁じられた社会の掟となる。

そのように結果が全てならば、例え犯罪者が少年であれ、適切な結果が被害者に通知されない制度は社会の仕組みを逸脱した不適切なものと思う。犯罪が社会の仕組みにそぐわない罪深きものであるとするならば、そのような制度も同じぐらい罪深きものと言うしかないのだ。「衝動殺人・息子よ」は、見方を変えれば納得を求め続けた父親を描いたストーリーと言えるかもしれない。何らかの形で代理となる納得を提供するような制度が存在せず、それがもたらす罪と罰と刑の不均衡は、想像以上に被害者を苦しめるのではないだろうか。



ダメになる漢詩講座と分岐予測
1999年2月7日(日曜日) はれ

国語の授業は元々好きではなかった。現代文はまだ良いとしても、古典などは大嫌いなのだ。現代文は普段から読んだり書いたりしているから慣れているし、それをお勉強することにもそれなりの意味はあると思ったが、今や過去の産物である古典を勉強することに面白みを見いだすことは出来なかった。古典文学そのものを否定しているのではなく、個人的に反りが合わなかったと言うべきだろう。

しかし、簡単な漢詩だけは例外的に面白いと思ったりした。読んでみれば短い文の中に案外意味深なことが書かれているし、じっくり読まなくても「見れば何となく言いたいことが分かる」という、C調なところもまた良い。ところが、これを現代語訳しろなんて問題がテストで出てくるとたちまち嫌いになってしまう。しかし、嫌いな物も自分が知っている概念に置き換えてしまえば、ちょっとは好きになれるかも知れない。

例えば、漢文は、実は機械語だったと仮定してみる。

機械語

ただ、こういう考え方をしていると間違いなく廃人と化すので注意が必要である。

図中にある「分岐予測」とはプロセッサが分岐命令の分岐先を予測し、処理の高速化を図る技法だ。例えばPentiumなどパイプラインを持つプロセッサの場合、ある命令が実行される頃には次の命令が既にフェッチされているため、事前に実行した命令の結果によって分岐したりしなかったりする条件分岐は困った存在となる。図にあるような無条件分岐なら分岐先は決まっているので問題は無いが、条件分岐では条件判断を終えるまで次にフェッチすべき命令が確定しないからだ。

条件分岐があれば命令フェッチを一旦止め、条件判断を待ってから再びフェッチを開始するのが最も確実だが、それだと必ずパイプラインが崩れてしまうので効率が悪い。そこで、過去の分岐実績(というのか?)から条件分岐の成否を予測し、次に来るであろう命令をフェッチしておくのが分岐予測というものだ。予測が正しければパイプラインを崩さずに次々と命令を実行できるのだが、読みが外れるとパイプラインをフラッシュせざるを得なくなり、その損害は大きい(とは言ってもナノ秒オーダーなんだろうけど)。

ところで、Pentium 系プロセッサの分岐予測はどのぐらいの率で成功するものなのだろうか。アセンブラで分岐を予測しやすいように配慮して書かれたプログラムなら成功率は高いだろう。例えばループを作り、特定のレジスタをデクリメントして0になれば別の所へ抜けるようなコードを書いたとする。予測が外れ得るのはループの第一回目と終了時だろうから的中率は良いだろう。しかし、高級言語のコンパイラが吐くコードは最適化されているとは言え、必ずしも美しい分岐コードを吐くとは限らない。あまっさえ、そこに頻繁なタスクスイッチングが起きれば外れる確率は割と高いのではないかと思うのだが、実際のところどうなのだろう?




ラジオ紹介
1999年2月6日(土曜日) はれ

下関のコミュニティFM放送局、COME ON! FM で放送されている CLICK L@b というラジオ番組が放送されているそうで、その一コンテンツである「世にも不思議なホームページ」というコーナーで、突撃実験室の紹介していただいた。ここ横浜で下関の放送を聞くことは不可能だが、番組はリアルオーディオでも公開されており、こちらのページから聞くことができる。突撃実験室が紹介されたのは、2月5日オンエアの「世にもHP」というコーナーである。

というわけで、ストリーミングで聞いてみる!(要Real Player

下関と言えば山口県だが、わたしも6年ほど山口の光市というところに住んでいた事がある。時刻表で山陽本線を下ると岩国と徳山の間に「光」という一文字だけの駅がある。わたしは光駅から程近い虹ヶ丘というところに住んでいたのだが、「光」だの「虹」だの、何とも美しい風景を想像させる地名である。実際のところ、街は海と山の間にある僅かな土地に発展しており、光駅の北側にある小高い丘から南を見下ろせば、手前から順に目に入るものは、山陽本線、国道188号線、そして地平線まで広がる瀬戸内海だ。

わたしは光市内でも一度引っ越しており、この場所に居たのは小学校1年の時から3年の時までであった。好奇心旺盛だったその頃のわたしだが、海も山も庭同然であるこの土地で遊ぶことに困った覚えはない。危なっかしいこともたくさんして、その度に親にガミガミと叱られたが、今思えば都会に居れば絶対にできなかった体験かもしれない。何年か前にふと懐かしくなって光へ行ってみたことがあった。わたしは大阪生まれだが、幾度のも移転を繰り返している間に自分の生い立ちすら曖昧になってくる。自分がガキの頃を過ごした場所へ行って再確認してみるのも面白いもので、こんな事を書いていたら、また行きたくなってきたりして...



Webサイトの著作権について
1999年2月5日(金曜日) はれ

Web サイトにおける著作権は難しい問題だと思う。現在の著作権法には個人が大胆な侵害をする前提はないように思われるが、他人の著作物をホームページ上に転載すれば複製権侵害となるし、改変すれば分からないだろうなんて安易な考えは、一性保持権侵害にも当たる。また、自分がやっているサイトの内容が勝手に使われるのも気分は良くない、というよりは、自分の複製権が侵害されたことになる。しかし、企業のサイトならまだしも、昨日も書いたように個人運営サイトを相手に著作権者が訴訟を起こすのが難しいようである。

個人の良心ぐらい以外に頼るところ無いとすれば、やはりスケープゴートとして叩き台にされるのはプロバイダとなるのであろう。しかし、プロバイダは「置く場所」としてサーバを貸与しているに過ぎず、実際に違反物をアップロードするのはユーザである。コピー機で著作物を無断複製したからコピー機のメーカが悪いと言ってるのと同じようなものだが、それも誠に筋の通らない話だ。サーバを管理するのはプロバイダだからという理屈から出てくる発想なのだろうが、苦しい物がある。

ネットワークの特殊性から、一歩譲ってプロバイダにデータの監視を義務づけるとしても、人作りし法の違反を機械に判定させることは無理だ。じゃあ人間が監視すれば良いのだが、ギガ(テラ)バイトオーダーのデータを隈無くチェックし、違反がないか調べるのは現実的ではない。例えそれが可能であったとしても、mp3 や Warez など、誰が見ても分かる内容であれば取り締まりは容易だが、細かいところまでは分かるわけが無い。しまいにはインターネットの存在自体を否定する者まで現れる始末。何が良くて何がいけないのかすら不明確な現状が、状況を悪化させているように思う。

ちなみに、他人の著作物を勝手に複製すると「複製権侵害」に当たる。しかし、何をもって「複製」と言うのかも、非常に難しい問題だと思う。複製が問題となるのは他人の著作物を勝手にホームページに載っける場合が多いが、それだけではない。文頭にも書いたが自分のサイトも著作物であり、これも誰かが勝手に複製されると今度は自分の複製権が侵害されたことになる。しかし、ブラウザで「閲覧」すると言うが、これは本を「閲覧」するのとは訳が違う。あるサイトをブラウザで「閲覧」した時に、実際は何度「複製」が起きているか、考えてみられたことはあるだろうか。

インターネットの性質上、サーバから流れてくるデータはルータのキューバッファに何度も「複製」されながら転送され、最終的にはシリアルポートやNICなどの受信バッファに「複製」され、クライアントの計算機にデータは到達する。しかし、ブラウザにデータが届くまでにはまだ長い道のりがある。インターネットから流れてくるデータは、TCP/IPスタックというソフトが処理している。ここではデータを受け取ると、それをどう処理すべきか解析したり、通信途中に断片化したデータを再構築したり、という作業を行う。この間にも、計算機のメモリーの中に存在する数々のバッファに「複製」される。

ここを経てブラウザなどのアプリケーションにデータが届くわけであるが、ブラウザの中でも、表示中はシステムのメモリーにページの内容を「複製」していることであろう。これぐらいまでは直ぐに揮発する種の複製なので問題にはならないであろうが、ブラウザはキャッシュという形でデータをローカルディスクに「複製」する。これは暫く残るので、無断複製と言えば無断複製だが、まだ「個人的な利用目的」という抜け道が残されている。しかし、トラヒック軽減の為にキャッシュサーバを使っている場合は如何だろうか? キャッシュサーバのディスクにもページの内容「複製」され、されにこれは再配信されるという問題がある。キャッシュサーバの利用は、厳密に言えば、複製権侵害なのだ。

もはや「複製」という概念が何を挿すのかすら曖昧なネットワーク社会。「複製」という言葉を広く解釈すれば、あなただけではなく、あなたのパソコンもブラウザも、途中のルータやキャッシュサーバも、さらには memcpy() だって「無断複製」に荷担している一員ということも出来る。今の著作権法をインターネットのシステムに合わせるのは、キャッシュサーバの問題を例にしても、かなり無理があると思う(もっとも実際にキャッシュを問題とする人は少ないだろうが)。必要なのは、現状に見合った合理的なガイドラインではないかろうか。



著作権について
1999年2月4日(木曜日) はれ

少し前に、敬語の誤用についてか何かの本が盗作されたとして問題になった。法律云々以前の問題として、知的所有権の意識が低い国ほど後進国であるという意見もあるが、経済的先進国の中で言えば、日本は比較的レベルの低いところなのかもしれない。Web ページを作って者なら、誰しも著作権を侵害しうる時代である。著作権法自体の不備も多く指摘されているが、それ以前に個人の意識も高めなければ行けないと思う。

著作権意識の低さについては、わたしの考えによれば諸悪の根元は小中学校にあると思う。著作権の意識は、学校が教えなければならないことなのだが、これが出来ていないのである。日本の著作権法は個人的な利用を目的とした複製などに対してはかなり寛大であるため、家でやってる限りは大概のことをしても問題にはならない。従って、「やっては行けないこと」についてお勉強するには、どうしても学校などの公の組織に頼らざるを得ないのだ。

ところが、この学校という場所が無断複製天国なのだから、現状でそのようなことを教育するのは無理であろう。市販の問題集を買ってきてプリントにし、生徒に配っている教師は少なくない。教育目的の複製は許されていると言う人もいるかもしれないが、それもあくまで実害の無い範囲に限定されている。例えば市販のドリルをコピーすれば、そのドリルの売れ行きが悪くなる可能性がある。ここでは出版社が損害を被るため、例え教育目的といえども複製は許されないのである。

わたしが個人の意識を重視するのは、著作権法は建前上のお話に過ぎないからだ。著作権侵害は著者が訴えるまでは侵害ではないし、裁判になれば訴訟費用もかかるため、賠償額が少額であれば訴訟に持ち込む意味はないであろう。仮にわたしが何か行けない物を配っていたとしても、わたしから取れる金は知れている。訴訟費用を考えれば、見せしめなど別の目的が無い限り、著者は注意を促す程度しかできない場合が多いと言われている。警察も、その程度のことではなかなか動いてくれず、刑事事件に発展することは希のようだ。明日は Webサイトの著作権について書く予定。



電気代&その他
1999年2月3日(水曜日) くもり/はれ

会社にいたらラジオで「雪ふってますねー」とか「スリップに注意」なんてことを言っていたが、今日は本当に寒い。ところで、先月の頭に書いた話を覚えているだろうか? 暖房の使いすぎで電気代が1万円を超えてしまったという不幸な事件についてだ。寒いのはダメなわたしだが、先月は電気代節減が目的で暖房節約モードで頑張った。厚着をし、布団をかぶり、悴んで言うことの聞かない手を無理にでも動かして叩いたキーボード。耐え難きを耐え、忍び難きを忍んだ過酷な1ヶ月は、涙無しには語れない日々であった。(大袈裟)

で、今日は電気メータの検針日である。先月の10,017円が、6,633円に下落。うーん、もうちょっと下がっても良さそうな気もしたが、まあ見て分かるくらい下がったので合格としよう。ちなみに、東京電力によると2月は省エネルギー月間らしい。各業界毎に訳の分からない「○○月間」やらを制定しているが、その効果はさておき、普通はパン屋が「パンを食べよう週間」などと販促に繋がるようなのを実施するものだ。それを考えると、電力業界は変な所なのだ。料金体系は使えば使うほど高くなるシステムだし、パン屋が「ご飯を食べよう週間」を実施しているようなものだ。

二月は「寒いから電気ストーブ使いまくろう月間」
三月は「まだまだ寒い、ストーブは四月まで」

でも、こんなのが本当にあったらやっぱり問題かな(笑)



百貨店?
1999年2月2日(火曜日) くもり/はれ

日本橋の東急百貨店が閉店したそうである。その理由に興味は無いが、わたしは「百貨店=価格が高い」というイメージがあり、また店員の何となく慇懃無礼な態度もあまり好きではない。衣料品などを買うのなら、百貨店ではなくそこら辺の店で済ませてしまうことが多い。そもそも、エスカレータに人が並んでいるだけでイライラする人間なので、エスカレータを積極的に導入しているできれば大型店舗は避けたいところなのだ。唯一の例外として、夕方の地下食料品売場は好きなので良く行くが。

大型店舗系で頑張っていると個人的に思うのは、マイカルグループだろうか? 百貨店では殆ど財布の紐を開かないわたしでも、マイカル系の店ではちょくちょく物を買ったりしており、こないだ調子に乗ってマイカルカードなんてものを作ってしまった。自宅からだと、本牧(地名)にあるマイカル村みたいなところまでは自転車で行ける距離なので、季節の良いときは運動がてら行くことも多い。もっとも、ここのところは寒いので行っていないが(この辺が年寄り)。

今朝ローソンへ行くと「臓器提供意思表示カード」なんて物が置いてあった。少し前にテレビでさんざん騒がれた割には、全然普及していないらしい、言わずと知れたあの黄色いカードだ。普段は行かない役所の窓口だけに置いていてもしょうがないってことで、ローソンのようなところにも置くことにしたらしい。出たときはマスコミでも騒がれ、こいつは行けるぞと期待した厚生省なども、不本意な結果に終わって甚だ残念なことであろう。かわいそうなので、わたしも1枚貰ってきた。

裏側の提供したい臓器を選ぶところに、心臓、肺、肝臓...などと並んで「その他」という項目がある。この「その他」という、臓器であれば何でも書けてしまう欄が存在する曖昧さがこいつの味わい深いところで、やはりここで遊び心を余すことなく発揮するのが人間の暖かさであると言えよう。どうせ毒論のことだから、こういうことが言いたいんでしょ、と思ったそこのあなた。問題は、提供できるものはあくまで臓器[*1]に限られていることである。真面目な話、外部生殖器である陰茎は臓器に含まれるのだろうか?

[*1]:臓器 - 体の内部、特に胸腔と腹腔とにある器官。(広辞苑)



続・藻
1999年2月1日(月曜日) くもり

今日も家に帰ってから、NT4.0で言うことを聞かないMOドライブと格闘である。昨日は朝の3時ぐらいまで頑張っていたのでとっとと寝たいところなのだが、やはり気になってそういう気分ではないのだ。幸いな事に、今日はかなりの進歩だ。結果から言うと、取りあえずリムーバブルディスクとして認識され、エクスプローラから論理フォーマットができるまでに至った。フォーマットしたディスクにデータを書き込んでみたところ、成功したのでOKとしよう。

こちらのサイトで詳しく説明されているが、問題の魂胆は、Windows NT4.0 がMOのサポートをいい加減にしかやっていないところにあるようだ。わたしは詳しく知っているわけでは無いのだが、MOのフォーマットにはスーパーフロッピーフォーマットというのと、FDISKフォーマットというものが存在するらしく、NT4.0 では両方が扱えることになっているそうだ。ところが、わたしが事前に用意してあったフォーマット済みのメディアをNTが適切なフォーマットとして認識することができず、変な問題が起きるらしい。

その修正方法として、こちらで NT 3.51 のMOドライバを無理矢理組み込む方法が公開されていた。マイクロソフトの使用承諾云々に引っかかるのは明らかなので「そういうことはしちゃだめ」なのだが、昨晩見た、自分がPCを操作するという夢の中では、どうも上手く行かなかった。最後の期待をかけたのは、こちらで公開されている mo.sys というドライバだ。早速こいつを入れてみると、事は見事解決。若干の不具合はまだ残っているが、一応よしとしよう。

富士通などのOEMメーカーでも、NT4.0でMOを使うことには手を焼いているように思われる。問題の根本は、やはり誰がどう考えても

マイクロソフトが糞!!

であること意外にあり得ないのだ。仮にこれが FreeBSD のようなオープンソースのOSで起きている問題であれば、どうしても使いたければ自分で資料を集めてソースをいじるなりして対応させてしまうことも可能なのだ。ところが、Windows は訳の分からない動作をするOSである上に、ソースもないし(そもそも2000万ステップもあるようなソースは見たくないけど)、そればかりか内部資料も少ない。いじるにいじれず、下手にレジストリを変えてしまえば二度と立ち上がる恐怖もあり、今日は腰が痛いが、これもMSのせいに違いない。



突撃実験室