多事毒論(1999年9月分)



INS64にするのだ
1999年9月30日(木曜日) はれ

自宅の電話回線は、未だに普通のアナログ回線を使っているのだ。IP接続は専用線で行っているから、加入電話を使う用途と言えば、音声通話やFAXと、それに時々使うモデムぐらいのもので、要するにアナログ回線で充分なのである。だが、料金的な問題からINS64に切り替えることにし、今日申込書を書いた。基本料はアナログよりもINS64の方が高いはずなのだが、うちの場合はその限りに非ず。計算すると、

アナログ回線の場合
基本料1750
プッシュ回線使用料390
ダイヤルイン使用料1800
合計3940
INS64回線の場合
基本料2830
プッシュ回線使用料なし
ダイヤルイン使用料900
合計3730

と、ご覧の通りに若干だが安くなる。秘密は、ダイヤルイン使用料にある。わたしのところでは、FAX 用にアナログのダイヤルイン番号を1つ取ってある。アナログ用のダイヤルインもINS64と同じく900円であり、NTTの案内にもそう書いてある。ところが、アナログの場合、ダイヤルイン番号を1個追加すると自動的に2番号分の契約をさせられるのだ。なぜなら、元の番号と、追加の番号で「2つの番号」という考え方をするかららしい。

どう考えても筋が通らない。電話に加入すれば、取り敢えず1つ電話番号が割り当てられる。そこにもう1つ追加して、追加料金900円というのなら分かるが、なぜ既に番号があるのに、その分の料金まで取るのか理解に苦しむのだ。それだけならまだ良い、116 の受付(概ね、知識レベルは低いので仕方がないが)もこのことを知らなかったから説明されなかったし(900円ですね?って確認したら「はい」との返事)、電話帳などにも追加1番号に着き900円とだけしか書いていなかったし、詐欺に違い。

ムカついたので、116 受付の責任者みたいなヤツに怒鳴っておいたが、なぜ2番号分の料金が必要となるのかまでは、そいつすら筋の通った説明はできなかった。だが、理由は簡単だ。ダイヤルイン契約をした場合、契約電話番号での着呼と、ダイヤルイン追加番号での着呼のいずれの場合にも、DTMFによるダイヤルイン識別信号が交換機から送られてくる。だから、両番号とも特殊な扱いを受けているとみなされ、2番号分の余分な料金がかかるのである。つまり、アナログ回線にダイヤルイン使用料は、追加番号分の料金ではなく、特殊な着呼方法にかかる料金と考えると筋が通るのだ。

合理的に考えれば、追加番号での着呼時にのみ識別信号を送出すれば区別できるはずなのだが、何故かそのようにはなっていない。しかし、INS64のダイヤルイン契約では、契約時に「グローバル着信」を指定すると、追加番号での着呼時にのみ特殊な扱いをするという形の契約となるので、1番号分の900円だけで事が解決するのだ。iナンバーは、その識別方法をもっと簡略化したもので、場合によってはダイヤルインの代わりにもなるし、料金の節約にもなる。だが、TAが対応していないので、ダイヤルインの契約とした。

結局、世の中では事実上ダイアルアップIP接続用回線と化してしまったISDNという存在。だが、こいつの仕様を決める際には、デジタル電話機やG4-FAX、それにテレビ電話などといったデジタル通信機器が普及するだろうという仮定があったようだ。ISDNの室内配線はデジタル通信バスであり、それは、端子さえあればデジタル通信機器をブスブスと差し込んで手軽に使える便利さを追求したものだ。しかし、結局そういったものは今に至っても普及せず、良い悪いは別として、過程ではアナログ通信機器が幅を利かせている。

大方のご家庭ではTAを買ってきて、パソコンや既存のアナログ機器を接続したりしているぐらいだろう。しかもISDN回線に加入するときは、TAが必要という話も一般常識となりつつある。しかし、デジタル機器の普及を想定したISDNの精神から言えば、TAは過渡的な存在に過ぎない。通信機器の回線インターフェースが全て統一されるされるまでは、アナログやシリアル接続機器(パソコン)などのレガシーデバイスにも存続の道を残しておこうという意味を持った装置である。なのに、安価で高級な交換機エミュレータになりつつあるTAは、ある意味、邪道な存在だ。



オカルト
1999年9月29日(水曜日) くもり

残尿感。それは、なんて琴線に響く言葉なのだろう。チンチンを生やして産声を上げれば必ず一度は経験するであろう残尿感。パンツに膿が付着していればとっとと泌尿器科へ行くべきだろうが、思い当たるような夜の関係が無いのなら、なにも好んで行きたい場所でもない。聞いた話だが、可変硬度海綿体の問題にはシジミを食うと良いらしい。シジミは肝臓に良いとは知っていたが、何故シジミなのだ? そもそも、何が気に入らなくて機嫌を悪くしたりするのだろう、ヤツは。

シジミはともあれ、いつの世の中にも「オカルト」というものが存在する。広義な意味での「オカルト」について取り扱った書籍は、いわゆる「トンデモ本」として、その他とは区別されている。しかも、明らかなトンデモ本が、一般の書店で堂々と新刊の棚を占めていたりするから、トンデモ本とそうでない物の区別も非常に曖昧なのである。最近の動向では、医学などを扱った本にトンデモ傾向が認められるものが多いようで、脳内革命などは、その一例と言えよう。

トンデモ本の一般的な特徴として、下記のような事が挙げられる。

1.インチキもあるだろうが、大方の著者は遊び半分ではなく真面目に書いている
2.普通なら信じようのないことを、それらしく書くのが非常に上手い
3.著者の意図とは全く別の観点から、大いに楽しめる可能性を秘めている

これらを総合すると、著者は本気で正しいと信じ込んでいる節があるので自分を疑ったりはしないし、文もそれなりに説得力があるので一見それらしいが、どう考えてもあり得ないことを書いていたりするので、別の見方が存在するというものである。そして、内容が普通の人が何となくでも理解していることであっては簡単に見破られてしまうので、扱う物は決まって疑似東洋医学のように根拠が明確でないものに限定されてくる。

根拠のハッキリしない事象の全てが嘘っぱちだとは思わない。例え科学的根拠は不明であっても、豊富な経験の蓄積があって結果に再現性のあるのなら、それはそれで立派なことである。しかし、謎のデータを針小棒大に持ち出し、根拠の不在を逆手に取って独自理論を捏造しながら強引に意味を与えるトンデモ本というもの。不思議と、こういうものを盲目的に信じる人がいる手前、有害な存在とも言えるが、プライドを捨てる覚悟があるのなら、信じる人間は非常に美味しいカモでもある気がするのだ。

良く分からないオカルトな現象を持ち出して、強引でありながらも、見事な理由付けをする正真正銘のトンデモ本を書いて、印税ん億を味わってみたい。そのためには先ず、「自己を疑うことなく、あくまで真剣に」しかも「筋の通った文章で」という二箇条を達成しなければならないが...何にしろ、そんな野望が少しだけ自分の中にあったりするから恐いものだ(笑)



はう
1999年9月28日(火曜日) はれ

眠い、というのも用事が多くて寝不足だから。どうでも良いといえばどうでも良い用事なのだが、ふと気付いたら夜中っていうパターンが続いているこの頃の日々であるが、皆々様におかれては如何お過ごしだろうか。涼しくなったかと思えば暑くなって、なんだか理由は分からないが、抜け毛の増えるこの季節。白髪一本無い元気なわたしには関係無いことだが、それでもストレスは身体に悪い。ところで、何が言いたいんだ、今日の毒論は?

そんな日は決まってネタの無い日である。東ティモールで何があろうが、豊橋の女が服毒自殺未遂のためネットの風当たりが強くなろうが、イザムと吉川ひなのが離婚しようが、近所で壮絶な夫婦喧嘩が勃発しようが、近所の猫が交わっていようが、江戸川区にモスラが現れようが、わたしの日常生活には何ら関係しないことである。平坦な日常ってやつよりも、ほんの少し上等なものがあれば、ネタになるというだけのコラムなのだ、ここは。

「嘆きの雪」でデビューした、小谷美沙子。「なごり雪」のイルカに、ガラス繊維を鏤めて強化したものを丁寧に研磨したような感じ(FRPかい、そりゃ)は結構好きだったのだが、いきなり張り切りすぎて、燃え尽きてしまったか。なんか新しいアルバムを出しているようだが、どうもぱっとしないので買っていないのだ。好きファンではあるが、だからといってカリスマ的にCDを買ってやるほど、わたしは優しい人間ではない。

ここの Webmaster は、どんな音楽の好みをしているのだろうと知りたがっている人間も、日本には一人か二人いるに違いない。実はOKと判断すれば何でも聞いたりするのだが、過去には堀内孝雄とか谷村新司ってこともあったし、最近のだと GLAY も良いと思った。女性歌手だと、アカペラも出来るぐらいの歌唱力があって、派手じゃない人なら大体OKだ。ということは、前述の小谷美沙子や新居昭乃、演歌歌手にも該当者はいるし、洋楽も聞く。声優さんだと桑島法子ぐらいかな、マトモなのは。



電波汚し
1999年9月27日(月曜日) はれ

番組の放送日、実は今日だったのである。勘づいて見てくれた方もいらっしゃるかも知れないが、どうだっただろう。実は、当人はまだ見ていないという...ビデオの予約録画のやり方が良く分からなくて、取り損ねてしまったというわけ(笑) 何だか違う感じがしたのだが、まあ良いかと思っていたら、やっぱり録画されていなかった。番組では「電気回路技師」というような大袈裟な肩書きが出ていたらしいが、ビデオの予約も出来ないのに、電気回路技師かいな。

機械音痴というわけでも無いのだが、ビデオを買い換えたばかりで、能書きを読むのが面倒くさくてそうなったというわけだ。まあ、情報を仕入れた実家が張り切って録画していたらしいのだが、わたし自身、あんまり見たくない。ちなみに、肩書きは自己申告ではない。自分でもやっている仕事が良く分からなくて、ネットワーク屋のような、プログラマのような、弱電屋のような、何でもやってますと話していたら、いつのまにかそうなったという...

教習所で学科の模擬試験を受けたのだが、合格だった。小生は大変な努力家ゆえ、教習は適当に聞いて、たまに重要箇所があれば鉛筆で線を引いた程度。今日も教本を斜め読みして、数字なんかを暗記した程度だったので受からないだろうと思っていたら、受かって何だか拍子抜け。答えは○か×だから、どちらか一方を書けば必ず正解だ(笑) 具体的な数値は別として(法廷速度とか)、それ以外は怪しげな言葉に騙されなければ良い、という感じがした。

学生のときから疑問に思っていることなのだが、教科書には色彩豊かな蛍光ペンなどで丁寧な傍線を入れ、達筆な文字でノートを取り、自習室でシコシコと勉強している割に、テストの点数が悪い人って結構いる。わたしは、常日頃から赤点常習者だったので「凄いなー、きっと勉強家なんやろな」と指をくわえて眺めていたわけだけれど、それが必ずしも結果に反映されるわけでは無いのだ。ノートの「美観」を気にする余り、肝心の内容は頭に入っていかないのではないかという仮説が有力と見ているのだが、どうなのだろう。

いわゆる「点数のいい人」のノートを見ると、字は汚いし、派手な蛍光ペンは使ってないし、傍線を引くのに定規なんて使った形跡も見当たらない(偏見?)。もし、それが最も合理的なあり方だとすると、お勉強に際しては、見た目の美しさを撤廃すべきだという結論に達せざるを得ない。だから真似してみたというわけでもないが、ボールペン一色で蚯蚓の這ったような字を書き続けていたわたしは...やっぱり、点数は上がらなかったので、そういう問題でもないらしい。



シャチハタ
1999年9月26日(日曜日) はれ

シャチハタ印鑑が欲しい。名字のシャチハタは、10mm の通常印と 5mm ぐらいの訂正印を持っているのだが、これらは会社においてある(私物なんだけどね)ので、自宅にも一本おいておきたくなった。宅配便とか書留の受け取りは、サインでも良いのだが、それも面倒である。ところが、一つ問題があって「椚座」なんていう名字の印は、既製品のラインアップには存在せず、特注しなければ買えないのだ。それだと、納期は3週間ぐらいかかるうえ、価格も普通より何百円か高い。

しょうがないから注文してやろうかと思ったら、その場で作ってくれるという朱肉不要の名前スタンプが目に留まった。構造はシャチハタよりも安っぽいくて玩具に毛が生えた程度のものだが、宅配便の伝票に押印するぐらいなら使えるだろう。それを買うことにする。テプラを少し高級にしたような感じのスタンプ製作機が文具屋のカウンタに置いてあって、カラー液晶画面に平仮名を入力すると漢字に変換される仕組みだ。その画面なのだが、UI がどう見ても Windows + IME95 ライク。

スタンプに打ち出す名前の入力が終わると、サンプルが画面に表示される。OKなら、何も彫刻されていないスタンプのゴムみたいなものを治具にはめ込み、機械の中に入れて暫くすると、サンプル通りのスタンプが彫刻されるという仕組み。あとは、出来上がったものに取っ手を付けて完了だ。出来上がり品は、シャチハタよりは不鮮明だけど、使えなくもないから良いだろう。そういえば、ゲーセンでスタンプが作れるものを見たことがあったが、文具屋でも使われているとは。

今日は予定が無いから暇だと信じて昼頃まで寝ていたら、教習所の予約が入っていたことを急遽思い出す。うわ、やべぇと身体にむち打って行ってきた。睡魔との戦いの合間を縫って断片的に耳に入る講義では..坂道発進は、サイドブレーキを使ってどうのこうの..俺は下がったりしないから関係ないやと思いながら聞いていたら..ちなみにカーブを通るときに使うと後輪が滑って..「でも、危険だからやってはいけません」と付け加えつつも、なんか間違ってるぞ、おい。教習所も流行に合わせてドリフト教習?



収録
1999年9月25日(土曜日) はれ

収録風景 午前9時から自宅にて、Webmaster 出演番組の収録があった。予想していたことだが、わたしはテレビに出るべき人間でないことを、心底実感した一日であった。従って、背広を着て台本を坦々と読み上げるだけのような、放送大学級の糞真面目な番組ならばいざ知らず、テレビ出演、もとい磁気記録媒体に人生の汚点を残すような行為(?) は、これを以て最初で最後としたい(笑)

結局、わたしに適した唯一無二の活動舞台はネットだ。もう少し範囲を広げるとしても、文字媒体が良いところだろう。これからも、ここをお読みの皆様とは互いの顔が見えない素晴らしい関係を保ちたい所存ゆえ、勝手ながら放送日などの公表は差し控えさせて頂くことにする。どうしてもって方は、来週の新聞の番組表を注意深く見られたい。勘のいい人なら、どれだか気付くかもしれない。そういえば、いまごろ親戚中でビデオ録画を準備していたりすると、かなり青い。親父には出る番組を言ったのだが、口止めしておくのを忘れてしまった。

撮影に来たスタッフは、ディレクタ、カメラ、照明、それに音声の計4名。ただでさえ狭苦しい部屋に、わたしも含めて野郎が5人。それに加えて、2発の強力な照明が煌々と焚かれ、暑苦しいわ、暑苦しいわ。早速、無線マイクを服に仕込んで、撮影を開始した。準備無しのぶっつけ本番となったため、緊張も祟ってNGだらけ。後で放送を見たら、OKが出たカットも、NGと紙一重が良いところだろう。自分でも、何となく見たくないのだが、一応ビデオぐらいは録っておくことにしよう。

わたしのマスコミ初登場は、以前にマイナーな地方新聞の第一面にカラー写真で登場した経験がある(逮捕、とかではないよ)。新聞は文字とスチル写真が伝わるだけだから、テレビと違って気が楽なのだ。写真撮影も一瞬だけ一眼レフを向けられて終わりだし、テレビカメラという無言の威圧感を覚えさせる機械が随時回っているわけではないから、インタビュも雑談並にやりやすい。伝えたい意思以外の不要なノイズ成分まで伝わってしまうテレビだと「変なことしちゃいけない」っていう意識が無意識に働くからねー。



ハンディ機が欲しい?
1999年9月24日(金曜日) くもり/あめ/所々はれ/やや台風

昨日のネタを書いたのは良いが、サーバに転送し忘れて未更新..ごめんなさい。

どうでも良いが、今日の天気には参った。午後からアキバにいたりしたのだが、晴れてるかと思えば急に曇ってきて風呂桶をひっくり返したような雨が降ったり止んだりで。幸い、屋根のない場所にいた間は、そんなに凄い雨には遭わなかった。ツキが尽きると、狙ったように徒歩移動中が大雨が降り、濡れない場所へたどり着くと止んだりするんだ、雨ってヤツは。日頃の行いは極めて善良な筈なのに。

実は、アキバへはリグを見に行ったのだ。折角、従免を持っているのに、局免が無いというのは寂しい限りである。だから、なんか買ってきて開局でもしてみようと思い立つ(実は、職場に開局ブームが到来中でして)。安いハンディ機でも..と考えるも、144Mhz と 430MHz、それに 1200MHz も出た方が良いかなとか段々と欲が欲が欲が。結果、該当品の値札を見て思いとどまるに至った。華奢な図体にしてはトリプルバンドで5ワットとか出ちゃうのね、ハンディ機って。

明日は、朝から出演番組の収録である。なるべく自宅での撮影は遠慮願いたいと言ったのだが、スタジオが確保できないなどといった理由から結局は自宅で録ることになり、困ったことになった。実験室として紹介したいらしいが、ここは賃貸マンションの一室だし、極めて普通の部屋である。決して、窓のない地下室であったり、天井から吊されたラックにパイプや電線が張り巡らされていたり、謎の機械が表示灯を点滅させていたりしない、ごくごく普通のところなのにぃ(笑)



心理テスト
1999年9月23日(木曜日) くもり/はれ

教習所で受けた心理テスト(OD式安全性テスト)の結果が出た。結果から言うと、わたしは注意力が足りなくて、安全運転者にはならないらしい。そんなことは以前から分かっていたので、然るべき結果と言えよう。色んな人から「注意散漫だ」なんて怒鳴り声が日々飛んでくるので、いまさら驚くべきことでもない。それでも、頑張ったヤツには運転免許は与えるというのだから、公安委員会も寛大なものだ。

このテストの総合評価も、やたらと当たっている。「注意力に多少問題があります。運転のさいは、細かいところまで充分気を配るよう注意してください。」というようなことが書いてある。言われたとおり、意識して注意することはできるし、そういうときは安全なのだろうけども、事故はうっかり意識して注意するのを忘れたときに起きるものではないかと。で、要するにどうすれば良いというのだ(笑)

こういうテストで良好な結果が出るように、身体をチューニングしてしまう強者も存在する。弱点を意識して次回を受けいると、徐々に結果が最良に近づいていっているらしい。文章問題(あなたは、時々○○したくなることがありますか、など)は嘘をついて誤魔化せるかも知れないが、この手のテストに多いパターンマッチングのような問題などは、その場凌ぎ的な手段で結果を良くすることは不可能だろう。凄いね。



テレビ出演依頼
1999年9月22日(水曜日) あめ

Web ページの管理人をやっていると、時として何が起こるか分からない。昨日、某テレビ番組のディレクタから電話があり、固めるテンプルの謎について詳しい話を聞きたいので、伺いたいという。話をするぐらいなら構わないので、自宅の住所を告げると、その日の夜に参られた。で、話をしているうちに、ついでに出演もお願いされる。「あー良いですよ。で、収録はいつなんですかね」という二つ返事で引き受けてしまったのだが、いま思えば断るべきだったような気もする(顔を出すのは何となく..)。

油について蘊蓄を並べてくれというので、後から油脂に詳しい人に電話をする。そこでギャラ貰えるのって尋ねられて、やっと何も聞いていなかったことに気付いた次第。余りに二つ返事過ぎて、考えもしなかった。それはそうと、この実験はテレビウケが良いらしく、以前にも他局の番組から問い合わせがあった。その番組は実用本位の番組だったのだが、牛脂で廃油を固形化することは現実的ではなく、結局不採用となった経緯がある。今回のディレクタにも、現実性はないがそれでも良いのかと問うと、面白ければ別に構わないということなので、その点は問題とならなかったようだ。

実験の内容について少し補足しておくと、牛脂で植物油を固形化するのは容易ではない。概ねの原理は、牛脂によって全体の融点を引き上げて油を固形化しているだけなので、多量の牛脂を入れないことには、油は固まらないのだ。それをうまく行うためには、牛脂の品質も重要であり、なるべく融点の高いものが望ましい。従って、これは可能であるというだけの話であって、固めるテンプルの代用になるものではない。スーパーや食肉店などで普通に置いてある牛脂だけで廃油の処理を行うことは、現実的ではないのだ。

では、なぜ固めるテンプルが、たった10g程度で600mlもの廃油を固形化させられるのだろうか。先にも述べたとおり、融点上昇だけで油を固形化させることは、難しい。固めるテンプルの原料はひまし油という植物油脂で、これ自体は不飽和脂肪酸が大半の液体であり、廃油の処理はできない。そこで、こいつを変化させて12-ヒドロキシステアリン酸という飽和脂肪酸を作る。12-ヒドロキシステアリン酸には秘密があって、このような繊維を作る。この繊維に、油の包容力があるので少量の処理剤でも廃油の処理が可能となるらしい。

ってことで、本日予備実験を行った。牛脂を食肉店で貰ってきたのだが、これは肉から切り落とした脂肪そのまま。これでは成功しないだろうと考えていたら、案の定、廃油は固形化せず、代わりの牛脂の唐揚げみたいなものができてしまった。では、「固めるテンプルの謎」で成功したのは何故? わたしも今日まで気付かなかったのだが、使ったものが偶然にも精製牛脂だったのが幸いしたらしい。精製牛脂は、加工されていない脂肪と比べ飽和脂肪酸の純度が良く、融点が高いようである。普通の牛脂は、オレイン酸など融点の低い脂肪酸が40%程度、含まれているようなのだ。



台湾で地震
1999年9月21日(火曜日) あめ

台湾で地震があったようだ、ご愁傷様である。しかし、特定の業界で心配されていることは、PCパーツとか半導体が入ってこないというようなこと? PC関連の製品は台湾製がやたらと多い。以前は、なぜ技術力のありそうな日本のメーカーが参入しないのだろうと疑問に思っていたのだが、概ねのところ品質も悪くはなく、しかも安価の値段で品質の良いマザーボードなどを売られたようでは、コスト的に不可能なのかも知れない。

むしろ国産のPCパーツとなると、いまいち品質的に不安を覚えるところもあったりして。メ○コの製品を使うとメ○コダウンするとか、悪い噂の絶えないメーカーもあったりする(笑) ハードディスクなんかもでも、Made in Japan とか書いてあると泣く子も黙るM下寿製造の疑いアリ、なるべく海外製を買おうとなったりするわけだ。国産品でいけてるのは、PCカード類だろうか。小さいものを作らせると上手いのがこの国の掟か。

今週も朝から教習所通いで、怠くて仕方がない。でも、午後から昼寝のできる暇な生活も今週一杯で終わりだ。来週の月曜日には社会復帰かと思うと、それはそれは怠い。まあ、世の中怠いことのてんこ盛り、飯を食うのも風呂に入るのも、寝るために布団を敷くことすら、怠い。とか言いながらも、ここだけは怠いと思いながら毎日更新してたりして、極度の物臭な癖に変なところだけマメ..確かに、変だな。



ハーブティ
1999年9月20日(月曜日) くもり/あめ

昨日書いたスーパーの一角に、ハーブティを売っている店があったので、興味本位で寄ってみる。まあ、色々とあるわあるわ。それぞれ、飲めば様々な効果が体に現れるらしく、「酒を飲み過ぎたときに飲む茶」というのは分かるけど、「上司に怒られたときに飲む茶」というような、理解に苦しむブレンドまで存在する。何だか面白うそうだ、わたしは、夜になると神経が輻輳して寝付けない傾向があるので、寝る前に飲むと落ち着くものがあれば試してみることにする。

なにせ、わたしを知る者は口を揃えて「似合わない」と叫ぶであろう、ハーブティが相手である。何も分からないので店員さんを捕まえて、何を選ぶべきか聞いてみる。実は、ここの店員は揃ってやたらと可愛いのだ。そのような不純な動機を隠蔽するために「不眠症」という大義名分を急遽捏造したのかも知れないが、それが男というもの。真摯な態度で話を聞くと「スイートドリーム」というのが良いという。言われるがまま、30グラムほど買って約800円。案外高い。

こいつは、わたしが普段から飲み慣れている「お茶」とは一線を帰すものだ。花の蕾が多く入っていて、植物の葉と思われる物体少しは見られる程度。まるでドライフラワのようだ。香りは、ミントガムみたいな匂いに若干の甘ったるさを加え、そこに薄いシナモン臭を混ぜたような感じである。午前1時過ぎ、そろそろ寝ようかという時刻になって煎じてみた。まだ眠たい訳でもない、そろそろ寝ないと朝が辛いから寝るというだけの、事務的な理由からそう決めたに過ぎない。

マグカップの上に載せた茶こしに小匙一杯分のハーブティとやらを出し、熱湯を濯ぐ。待つこと5分、薄黄色い液が抽出された。お味は、どうも自己主張に欠ける、薄い味。強いて特徴を探せば、やや薬臭く、少し甘いという程度のものであるが、決して嫌な風味ではない。息で冷ましながら少しずつ口に濯ぎ、ネットを巡回しながら効果の程を確かめる。そして午前1時半頃、お茶の効果かどうかは分からないが、横になりたくさせる脱力感のようなものを感じ、布団に入った。

実際に寝付いたのは、午前2時を過ぎていたのだが、確かに精神を落ち着かせる効果はあるらしい。普段、夜中までネットしていても、どうしても横になりたいと感じることはなく、途中で中断して布団に入っても、なかなか思考力の低下は起こらない。それよりかは、脳は落ち着いている様子だった。プラシーボかも知れない、でも効果があると思えるのなら、それでも良いとも思う。「強い覚醒効果がある」と偽って無知の被験者に飲ませ、その後の脳波でも調べたいところであるが。

でも、ハーブティよりも手軽で安価な精神安定剤は世の中にある。眠たいのに脳のクロックが低下してくれずに寝付けないとき、タバコを急いで一本吸うと、大概のときは落ち着いて眠れたりするのだ。



秋の味覚と言えば、サンマ
1999年9月19日(日曜日) はれ

糞暑い中、みなとみらい21でオープンした World Porters だっけか。なんか名前は忘れたが、そういうところへ行ってみる。オープンしたてということもあり、凄い人混み。どうせなら平日に行くべきだったかもしれない。名前は大袈裟だが、中身は要するにビブレで、マイカル系の映画館とかも入っている。マイカル系だと本牧まで行く必要があったので遠かったのだが、家から歩いていけるところに出来て便利になることだろう。柄の悪いところだが、百貨店と映画館だけは困らない桜木町界隈である。

その World Porters の1階には、スーパー(これもビブレ)が陣取っている。高級食材みたいなものも扱っているようだが、野菜とか魚とかも売っている普通のスーパーである。みなとみらい21に一般住宅らしき場所は無い。そんなところで日用品を売って客が来るのかと疑問に思うのだが、何故か大繁盛。日曜日だからだろう、平日ともなれば閑古鳥が鳴くに違いない。あるいは、みなとみらい近辺に勤務している人が、仕事の帰りに寄るとかはあるのかな。

スーパーといえば、どこでも通路の天井から陳列案内をぶら下げてあり、それがあるからこそスーパーという雰囲気が出るのだ。ここも例外になく案内が吊してあるのだが、何故か英語、それから日本語の順番で案内が書いてあり、しかも英語の方が字が大きい。おい、ここ日本やぞ! と、つい突っ込みを入れたくなる西洋カブレな案内である。しかし、いくら案内を英語で書こうとも、実体は日本という国に存在するスーパーに過ぎないのだから、無理を感じるものも多い。

・ふりかけ -> rice topping -> 確かにそうだけど..
・あられ、せんべい -> arare, senbei -> Dr. スランプを連想させる
・みそ -> miso -> 実は訳語があって、soybean paste ともいう

っていうか、強引に訳したりローマ字書きするぐらいなら、最初から日本語で書けやっ(笑)

とか思いながら、自分もついでだからと晩ご飯のおかずを買う。三陸産サンマと小松菜。オバハンと肩を並べて買い物をする様は、所帯染みていると言われそうだが、まあいい。普段は切り身ばっかり買ってくるせいで、久しぶりにサンマを開くと、出来の汚いこと。やっぱり、現代人は切り身が適当なのかも知れない。それにしても、大根おろしとサンマは、最高なのだ。

で、そうそう。ハーブティなんてものを買ってきたのだ。その話は明日。



ビデオデッキ
1999年9月18日(土曜日) くもり

S-VHSのビデオデッキを買ってしまった。もちろん東芝製! なんてことはなくて、買ったのはビクターのHR-V100という、現行より一型前の機種。最初は、近所のLAOXで展示品処分を値切ってみて、39800円税込みになった。しかし、どうも高いような気がして、ヤマギワへ行ってみると、同じ製品でもっと状態の良い展示品処分を31200円という値札付きで発見。更に値切ってみたら、30000円+税になったので、ヤマギワで購入した。

折角S-VHSにしたのだから、画質の違いを確認してみたいところである。しかし、家には普通のVHSテープしか無い。値切ったついでにテープも何本か付けろと言ったのだが、店員もわたしも忘れていて、うちに帰ってからテープが無いことに気付く。後からテープだけ奪い取りに行くのもちょっと悪い気がしたので、これは仕方がないので買ってきた。ケースが無意味に抗菌加工されているところが、ちょっと気になるが(笑)

折しも、今日は21時から「ぼくの地球を守って」なんてものが衛星から降ってくることになっていた。これは録らなければと、性能評価も兼ねて録画してみるのだ。使ったテープは、S-VHS普通グレードのTDK製XP120。録ったものを見ると、当たり前だがVHSよりも美しく画像が再現されている。比較用に、別のアニメ番組をVHSの普通グレードテープで録ってみた。S-VHSには及ばないが、それでも今まで使っていたデッキよりは遙かに美しい。保存用で無いのならVHSでも十分なようだ。

「ぼくの地球を守って」は、何度見ても良く分からない内容なのだ。クドクドと回りくどく理由付けしている割には、そのどれ一つも重要な意味を持たないように思え、結局のところは、ぶっ壊れた少女漫画とでも言おうか。なんだけど、

・きゃー君かわいい〜
・ねこねこ、ねこっ
・いっしょに寝たいの、きゃー君っ
・密かに菅野よう子
・でもやっぱり、きゃー君ラブラブ

という5点に注目すると、大変すばらしい作品なのである。



るろけん
1999年9月17日(金曜日) あめ/くもり/時々ねこまっしぐら

るろうに剣心のOVA版なんてものが宇宙から振ってくるものだから、何となく見てる。でも、PPVで1200円も払っている割には、続編を買わせるための2時間プロモーションって感じが否めなくて少しむかつくのだ。確かに質は高いが、こういう形で宣伝されると、誰が買うか畜生と、逆に購買意欲が失せるもの。どうでもいいけど「剣の一振りで世が動くと思うのか」っていう台詞、「ケツの力で鉛筆が折れると思うのか」と絶妙に語呂が一致する。

自動車学校って不思議なところである。もう少し役所じみたイメージがあったのだが、教習生は「お客様」だし、呼び出しがかかったりすると名前は「様」付けで呼ばれて、何となく丁寧すぎるところが気持ち悪いのだ。警察OBの集まりゆえ感じが悪いだろうぐらいに思っていたから、余計である。まあ、融通も利かなくておまけに感じが悪いと来たら、いまどき流行らないのかも知れない。その割に、学校法人とも株式会社とも書いていないし、良く分からない組織だ。

時として、やりにくい教官に当たってしまうと面倒だ。流石に「鬼教官」なんてのは居ないようだが、やる気が吸い取られていくような人はいる。黙って横に乗っていれば良いところ、「あ、君の実家は枚方なの」「そうです、ご存じなんですか」「いや、あそこは高校野球が云々で、あーそう知らないの。そうかあ、阪神とかは、あー詳しくない? でも野球も少しぐらいは見るでしょ。まあそうだね、でもああだし、こうだし...はいっ、そこ合図出して右ね。」と、教習と何ら関係のない話の機関銃。

「はぁ、高校野球は興味ないんで。そうですね。まぁ。はあ。えぇ..」っていうか「横でゴチャゴチャうるせー! 二度と口聞けねーようにされてぇか、このやろー」と胸中で呪詛しながらも「右ですね..」なんてやってると、イライラするのだ。どうもこのオッサンは熱狂的な野球オタクらしく、わたしが野球に明るくなくて話が噛み合わないことを察するや否や、いきなり態度が大の大に変身〜んっ。態度大は許すとしても、自分から持ちかけた野球話の縺れが原因でそうなられるようでは呆れてしまう(笑)



告発ページ開設ラッシュ?
1999年9月16日(木曜日) くもり/あめ

東芝事件以来、何だか知らないが世の中における不正を告発するサイトが開設ラッシュを迎えているようだ。教習所通いで電車に乗るようになって、吊り広告を毎日見るようになったのだが、週刊誌でも「インターネットという凶器!」なんていう感じの大袈裟なタイトルでネタとして使われている様子だから、実社会に与える影響も計り知れないものだ。ここみたいに、愚痴ばかりを並べているサイトは、なんの影響もないだろうが。

尤も、インターネット自体は、凶器と呼べるほど華麗なものではない。あるホストから発せられたパケットがルーティングされながら、目的地へ配達されるというだけの世界であり、問題が起きうるとすれば、原因はそれを操る人間に他ならない。そのうえ、ネットもメディアの一種として扱うならば、凶器となりうる可能性は他種のメディアも同じである。テレビも週刊誌も、過去に何度も「凶器」となっているのだから。

東芝問題が必要以上に大きくなったのも、週刊誌が取り上げたことに責任の一部がある。だから、同じくメディアの一つに過ぎない週刊誌が、ネットを取り上げて凶器であると書く資格は無いし、そもそも凶器は人間自身である。そればかりでなく、こういう記事は、既存メディアの嫉妬とも思えるのだ。お前ら素人に報道や告発の何が分かる、勝手も知らない癖に出しゃばった真似をするな、という印象を受けなくもない。

もう一つは、ネットはネットの問題、実社会は実社会の問題という線引き難しくなってきた。傍観者も当事者もネット中毒者のみで構成された場で、喧嘩が勃発し、そのうち関係のないような問題も巻き込みながら、いつの間にか自然に収束するようなバーチャル戦争だけなら、今までのように大した問題にはならなかっただろう。でも、傍観者が週刊誌やマスコミ、当事者が普通の個人と東芝となれば、そうも言っていられない。

どうも今日のネタは、自分で読み返していて歯切れが悪い。わたしは、告発ページと週刊誌といった、既存メディアとの関係に非常に興味があるのだが、何しろ先の見えない話である。「実社会的事件の、本格的なネットへの流入」と捉えているのだが、それがどういう結果を招くのか? ネットは、ネット中毒者の住み難い場所になりつつあるような気がして、気持ちが悪かったりするのだ。



タッチパネルとか
1999年9月15日(水曜日) くもり/台風気味

下らないことで名高い朝日新聞の「声」なんかを久々に読んでみる。その中に、駅や銀行の「タッチパネルは使いにくい」というような、ご批判の声が。液晶やCRTのタッチパネルは、触っても押すべきところに感触の違いが無い。だから盲人が使いにくいじゃないかという理由で、便利なものを開発するときは、その辺も考慮すべきだという。どうも、こういうところに盲人を引っ張りだし、合理的な主張を捨ててヒューマニズムに訴えるアプローチはいけ好かないが、話自体はごもっともなこと。盲人でないわたしも、タッチパネルは大嫌いである。

駅の券売機でも、最近はタッチパネルのものと押しボタンのものと混在しているが、直感的に使いやすいのは、古典的な押しボタン式の方だ。銀行のATMは、殆どがタッチパネルだが、押しても(触っても?)認識されなかったり、あるいは関係のないところが機能したりするから、お世辞にも操作性が良いとは言えない。対人間のインタフェースは、論理的な動作だけで終わってしまうものよりも、ボタンが沈むといった、物理的なフィードバックがないと、なんとなく「やった気が」しない。

しかし、仮にわたしが新種の券売機を設計することになれば、タッチパネルにしていたかも知れない。押しボタン式にすると、ボタンの数などから機能拡張は限られてしまうが、ディスプレイを論理ボタンとして活用する分には、そういった制限はない。画面がスペースが足りなくなれば「次の画面へ」を作れば良いのだし、ついでに回数券を扱うことになっても、時差割引回数券が登場しても、対応は簡単である。いざ作ってみるという話になると、金額を7セグで出してボタンで受け付けるようなモノは、忌避すべき面倒な存在だ。

だからどうって訳でも無いのだが、まあ使う側と作る側では、考え方が正反対になってしまう。例えば、扇風機のような家電製品まで、最近はどういうわけかマイコン制御になっていたりするが、そうなるとスイッチ類は押しにくいタクトスイッチに置き換わったりする。扇風機なんて、露骨で安っぽいスイッチが、切・弱・中・強と並んでいるぐらいが、一番使いやすいと思うのだけどね。どうして、扇風機に 1/f 揺らぎ制御がいるの?



電話番号とか
1999年9月14日(火曜日) はれ/にわか雨

今日は朝からロクなことがない。個々の出来事を取ってみれば気にするようなことでは無いのだが、連発すると疲れるのだ。世の中の波長と自分の波長が合っていない、といえばその程度のことなのだろうが、自分の波長は当然ながら変えられないので、言うまでもなく世の中が悪いのだ。これまた極めて自己中心的な発想が、良いんだ、それで。地球は俺のために回ってるに違いないんだからと、諦める。

最近、NTT は4桁や5桁の市外局番を、次々と3桁に変えていっているようだ。例えば、0123-45-6789 という番号は、ハイフンの位置を変えて 012-345-6789 という並びに変えて3桁化する。だから番号自体は変わらない。しかし、実家のある地域に割り当てられている市外局番は、0720。仮に 0720-23-4567 という番号があったとすると、ハイフンの位置と変えただけでは、072-023-4567 という番号になってしまう。市内局番に、0と1から始まる番号は使えないから、うまくいかない。

結局、0を8に置き換え、072-823-4567 とすることにより、この問題を解決したようだが、番号が変わってしまうから混乱もあるだろう。以前から、0720 という市外局番は変だと思っていた。大阪北部の、未開と見放された地域用に割り当てたとも思える番号で、割り当て地域が必ずしも行政区画とは一致せず、しかもその土地面積は広い。つまり、ここら辺は田舎だから、面積は広くても局番は一つで良いですよ、という感じの地域が全体的に 0720 なのだ。

何年か前に、NTTが市外局番の3桁化を始めたとき、伝説の 0720 局番は、その特殊性ゆえに何年かすれば無くなってしまうのだろうと思ったことがある。ケツが0で終わっている点もそうだが、いくら未開の地とはいえ、電話の加入件数が増えればいずれは足りなくなり、電話番号の変更が近々あるだろうと考えた。予想通り、NTT西日本によれば、0720 地域の電話番号が枯渇しかけているらしい。



人工子宮とか
1999年9月13日(月曜日) はれ

オカンから電話がかかってきたので、人工子宮の是非について聞いてみた。

「ま*こってどう思う?
「え、わんこ?
「いや、ま*こってどう思う?

いきなり訳の分からない話題を振られて困り果てる様子。聞き方が悪かったようだ。もしも人間が子宮を使わなくなり、種は人工的に作って人工子宮で生殖するとしたら、どう思うと、丁寧に聞いてみる。わたしには分からない感覚だけれど、2度ほど妊娠していると、妊娠そのものが楽しみとなるらしい。腹が膨らむみ、中でガキが動くのは嬉しい...まあ、そうかも知れない。子宮を持たないわたしには、実感がないけど。

前にも書いたが、遺伝子工学のように生殖に関わる科学は、生理的に嫌なモノを感じさせるのだ。科学が人を幸せにするものから、不幸にするものへと転落したと言われて久しいが、知りすぎるのも良くないというやつなんだろうか。幸せにしてくれた部分も多いけれど、それが必ずしも良い結果だけを生み出すことは希だ。そう考えると、人間は余り賢くならない方が、幸せではないかと、ふとそんな思想に走ってしまうことも。

形成しつつある、科学に対する負のコンセンサスが、先端の研究を妨げると主張する研究者も少なくないらしい。はて、悪者はどちらなのだろう。知的探求心に容赦は無いが、それゆえ多くの危険を孕んでいるとも言える気がする。ドラえもんも鉄腕アトムも原子炉を持っていたと思うけど、作品が発表された当時はそれでも夢があったのだろう。でも、今になって原子炉と聞くと、どうも悪いイメージがある。その変化はなんだろう。

残念ながら、わたしも明確な答えを持っている訳ではない。だが、「知りすぎた」ということは、理由の一つとして挙げても良いと思う。夢の科学には、夢ばかりではなく、必ず負の結果もつきまとう。夢ばかりを見ていた時は、お互いやりやすかったのかも知れないが、表裏を問わない多くの現実を知ってしまえば、今まで見せられていた夢という欺瞞はなんだったのだ。と、そんな不信感が出てきても不思議ではない。

この考え方が正しいと貫くならば、一部を見せて喜ばせ、残りの部分で絶望させた、その責任は科学にある。そこから生まれ得る「倫理」といったものを、実体のない虚構として批判し、あまつさえ知的探求心を妨げるものと転嫁するのは筋違いだ。ある種のブレーキとして冷静に受け止めることは、間違っているのだろうか。



SFとか
1999年9月12日(日曜日) はれ

屈辱的とも言えるほど大嫌いなSF小説を、敢えて読んでみようと思い立つ。何が嫌いなのかは自分でも良く分からないが、嫌悪感に明確な理由など不必要だろうから、どうだって良い。強いて言えば、「んな訳ねぇだろ」的な感覚が気持ち悪いのだ。科学的な見地が多少変でもフィクションだから気にならないが、登場人物の人間観や価値観、あるいは生活習慣といったものと、おかれた環境との間に何となく感じるズレみたいなものは、非常に気味が悪いのだ。

SFに限らず、未来予測みたいなものは下らない。例えば、未来の自動車なんて予測を立てても、その未来に自動車の存在価値があるかどうかも分からないし、仮にあったとしても、所詮は現在の価値観を用いた予想が当たるとは思えない。あるいは、子供は遺伝子を直接いじり、人口子宮で作るなんていう話も、肝心な部分が欠けていて変だ。海綿体を膨らまし、犯したり犯されたりする快楽を忘れて、そうなれるだろうか...と、これは現在の性に対する価値観を適用した感覚だけど、何れにしても予測は意味がない。

でもまあ、人間が捏造しうる世界ってそんなものかなと納得して、何か読んでみることにする。あるいは今までの選書が悪かったということもあり得るし、偏見も大いにあるし、たまには変な可能性を追求したフィクションを読むのも悪くなかろう。でも、実は忙しくて途中までしか読んでいないので、その話はまた後日。取り敢えず、文句を垂れてみただけであった..



学科教習、眠いよぉ
1999年9月11日(土曜日) はれ/くもり/にわか雨

というわけで、朝から教習所へ。鬱陶しい説明会と、ちょっとスリルのある心理テストと、それから眠たい学科教習も受けてくる。正直なところ、心理テストの類は好きなのだ。頭を混乱させるだけに生まれてきた図画を見ながら問題に答えたり、考える暇すら与えられずに混沌とした質問に答えまくったりするのは、焦る自分が見えて悪くないと思う。目視 grep みたいな問題もやったが、こういうのは比較的得意な方? 結果は、そのうち出るだろう。

夕方から、渋谷で。ハチ公前で、民主党の鳩山氏とか管氏が街頭演説を繰り広げていたため、報道関係者と観衆で大渋滞となっていた。何も、世界でも有数の人口密度を誇ると推測される土曜日17時半のハチ公前でやらなくても...聴取者の頭数は十分であるが、特に政治に関心のありそうな人間の割合は小さいのではないかと、その場の空気がそれとなく告げる。実際、わたしも無関心だし。

飯を食ってから、かなり久々にゲーセンへ。暫く来ないうちに、やたらと体力を消費するゲームが増えてやがる。お馬に乗ったり、MTB でダウンヒルしたり、踊ったり、飛んだり跳ねたりで、間もなく汗びっしょ。タバコをくわえながら座ってるだけのゲームよりは性に合ってるが、わたしの場合、身体全体で「下手くそですよー」と宣伝しているようなものだから、画面の中でこっそりやってるだけの方が良いかも(笑)

自分には絶対に無理であると知りながらも、Dance Dance Revolution に挑戦してみる。体内クロックジェネレータが外部から与えられるトリガと同期しないという極めて重大な問題を筆頭に、同期信号の生成に成功したところで、それを基にパタンジェネレータが足を正しく駆動してくれるとは思いにくい。コツさえ掴めば、パラッパラッパーは出来たが、指と足では反応特性がまるで違うから、同じではない?

鉄板とアクリル板の上でタコ踊りを披露するのも束の間、明日は朝の9時から教習所。はー。



免許がない!
1999年9月10日(金曜日) あめ/くもり

明日から、半月ほどの夏休みを頂くことにした。この時期になれば、もう秋休みとでも言った方が正確かも知れないが、それでも、わたしにとっては有り難い夏休みなのだ。土日と祝日をフル活用、加えて貯蓄されつつある有給休暇の消化デーも兼ねて休みの予定を組んだところ、16連休となった次第。

ところで、館ひろしではないが免許がない。一応、無線従事者免許証なんて書いてあるラミネートカードは持っていたりするが、第四級アマチュア無線士では大して役に立たない。そこで、夏休みは運転免許証を取るべく教習所へ通うことにした。日暮れとともに起きては、日の出とともに寝るだけの理想的な生活を営むはずの夏休みを諦めるのは非常に心惜しいのだが、時として理想を捨てねばならないこともあり得るのが世の例なのだと、自分を納得させるしかない。

運転免許の取得は、過去に何度か考えたことがあった。だが、時間がないとか、金がないとかを差し置いて「面倒くさい」という非常に単純な理由から却下され続け、今に至ったわけなのだ。今もなお、揺るがしがたい嫌気が差しているのだが、いい加減そんなことも言っていられないし、休みも取れたので、そろそろ潮時かなと。しっかし、教習所に通い詰めとは、これまた素晴らしい夏休みなのだ。未練と諦念が怒濤の鬩ぎ合いを繰り広げ、火花を散らす日々...しくしく。

明日から気が重いけど、花でも見付ければ? んな訳ないよね、はははっ。



コスプレ
1999年9月9日(木曜日) はれ

int きゅー[8]; な日。でも、キュウリのキューちゃんは美味しくないと思う。

興味のない人には至ってどうでも良いことだろうが、アニメキャラなどのコスプレに命を懸けた方々のサイトを見ていると、時々信じられないほど気合いの入ったコスプレーヤに遭遇することがある。主に布で作ってある衣装系のコスチュームは、ミシンなりで作るのだろうと容易に想像できるが、鎧や剣まで割とリアルに作ってしまわれる方もいる。あんなもの、どうやって作るのだと思っていたらこんな風にされているようだ。

鎧の素材と言えば金属、でもキャラデザな方々は、人間工学まで考慮に入れてデザインしているわけではない。忠実に模作すれば、恐らく重くて邪魔で着られないものが完成しそうだし、薄いアルミ版なんかで作ったら安っぽい。結局、密度の低い樹脂を使うのが現実的ということになるのだが、それだと金属光沢(元々セル画にそんなものは無いけど)がなくて見栄えがしなくなる気もする。しかし、先に述べたサイトでは、発泡ポリエチレンに化粧を施してそれっぽく見せている。なるほどね。

なぜ、そのようなことに興味を持ったかというと、幼稚園の頃から一つ不思議に思っていたことがあったのだ。わたしが、純真無垢な幼稚園児だったころ、親にテレビでやってた特撮番組と同じロボットのおもちゃを買ってもらった。材料は、恐らくABS程度のものだったと思う。ところが、樹脂なのに何故か金色に輝く部分があって、それが不思議でしょうがなかった。キラキラと光るのは金属だけで、プラスチックは光らないものだと考えていたからだ。

そんな疑問を持ったことすら長い間忘れていたのだが、コスプレの鎧はどうやって作っているのだろうと思ったときに、ABSのような樹脂で造形し、本物らしく見せるために金属メッキを施すという案が頭の中に浮かんだ。これは別に珍しいことではなく、携帯電話のボディなどには、よく使われている。尤も、コスプレの衣装作りでそこまでやっているとは思えなかったが、ふと、あのロボットのおもちゃを思い出した。実はメッキだったのかな、それとも違うのかな。結局、いまでも良く分からない。



くたばれ正義
1999年9月8日(水曜日) はれ

北海油田(海底にあるやつ)の建設で一番苦労したことは...悪天候? 大波? それとも塩害?

実は、クリーンピースの妨害だったというから笑えない。建設資材の海中放棄に抗議してだったかな、グリーンピースが襲ってきたらしいが、環境保全を大義名分に「襲撃」するグリーンピースも、決して正しいとは言えない。しかも、彼らはそれが正義と信じているから質が悪い。正義などという実体のない相対的価値観を絶対信仰とし、それに基づいて行動する団体は、正義と言いながらサリンを撒く宗教団体と本質的に変わりない。

正義なんてものは、見方次第で悪も正義に見えたり、正義も悪に見える。週刊文春の9月9日号には「青木雄二(ナニワ金融道)が「ある男」に払った“原作料”1億5000万円」なんて書いてあるので、これだけを見ると如何にも青木氏が悪そうに感じる。でも、要するに青木氏が取材して、その原稿料を払っただけなんだから、当たり前のことだ。そんな話は、こちらに宮崎学氏が書いているが、わたしも新聞広告の見出しを見て変な気がした。金額が大きいだけやん、と。

そういう訳の分からない「正義」を大義名分に、偏った取材をするマスコミは週間文春だけではない。絶対的な正義が成立するためには、前提として絶対的な悪が必要だけども、世の中にそんなものは無い。警察密着24時的番組を見ると、体を張って凶悪なホシを追う警察は正義のように感じるが、決してレッカー移動のような嫌われ者の役は取材に出てこない。邪魔でもない車を取り締まって、本当に迷惑な駐車違反にはチョークも引かない、というコンセンサスがある程度できあがってしまっている駐車違反の取り締まりなんて見ても、誰も正義とは捉えないだろう。

わたしの住んでいるところでも、レッカー車は毎日のように見かけるが、それを快く思っている人は少ないようだ。毎日のように、ある交差点の角に非常に邪魔な(事故の原因となりうる)車が止めてあるのだが、そこではチョークを引いた形跡すら見たことがない。変わりに、邪魔にもならない駐車を取り締まっているから、逆に取り締まりの方が鬱陶しいのだ。おまけに、ここは神奈川県。そこの一員として現場で汗水垂らして働く者も大変だろう、制服を着ると大嘘つき集団の構成員となるのだから。

結局、自分は正しいと思っている(ある意味信仰的な)奴ほど、物事を正しく認識していないのだ。



壊れる人々
1999年9月7日(火曜日) はれ

昨日は夕方に寝てしまい、しかも朝までぐっすり寝たので、それからの更新だ。普通、夕方に寝ると深夜に目が覚めるのだが、寝不足がたまっていたためか、久々によく寝て(寝過ぎて?)気分爽快なのだ。人間、寝てるときが一番幸せかも。

登校拒否、しかも先生の登校拒否なんて話が新聞で出ていたりする。つまるところ、職務放棄というものだと思うのだが、職業が学校教師となると、何故か特殊に扱われるようだ。学級崩壊のため教室に入りたくない、といえば聞こえは良いのかも知れないが、言い換えれば仕事が嫌になったというだけのことに、適当な被害妄想を織り交ぜたようなものと思ったりするのだが。

余計なことに干渉したがる教師ほど、自滅する傾向があると思う。言ってることが全て尤もなことであれば良いのだろうが、絶対に正しいことをしか言わない者なんて、神でもない人間の分際にはあり得ない。世話好きとはまた趣が違う余計なお世話系の人、本人的にはやる気満々だから頑張るのに、周りからは煩がられ、そのような空回りの過程で自滅していくという例は、何度か見たことがある。

やる気だけは人一倍あるのに、実際のところ能力的な問題があって、事が思うように進まない人もいる。使えないエリート意識ってやつだろうか、一応、自分は出来ると思っている(確かに実務外のことで凄いところはあるのだろうけど)ことはが伝わってくるのだが、実務はだめ。従って、口だけは達者なのに行動には表れないという状況を自ら作り、生徒としても関わると面倒なので、距離を置くしか無い人間も結構いる。

自滅する教師に共通する特徴は、やる気だけは凄いということが挙げられるのだ。やる気満々故に壊れる人って、端から見ている痛々しいものがあるし、かわいそうと言えばかわいそうなのだが。しかし、その責任を生徒の態度不良などに転嫁し、適当な被害妄想を膨らませ、職務放棄を正当化するのは筋違い。こういうところで素直になれないのは、やっぱり自意識過剰なんだろうかな。



床屋
1999年9月6日(月曜日) はれ/くもり

月曜日、要するにテンション激低。猫が会社の裏にある建物の屋根で、極めて気持ちよさそうに熟睡していて、非常にむかつくのだ。くそ、こっちは仕事しとるんじゃい。

気が付けば、髪が長くなってしまって鬱陶しい。床屋へ行けば済む話なのだが、床屋ってどうも好かなくて、面倒くさいから暫く行っていないのだ。態度のでかいところ店もあるし、料金がハッキリとしないところも多い。前に、それでモメたことがある。「普通調髪2000円〜」という設定で「〜」がミソになっていて、後から思った通りの料金を請求するという寸法。殿様な商売してやがるのだ。

もっと頭に来たのは、終わってから「2500円で..宜しいですか?」なんて聞き方しやがった近所の理髪店。仕事が極めて雑な上、わたしの顔色を伺って金額を決め、事後承諾を得るっていうのはどう考えても順番が間違っている。まあ、プロ意識が欠落している証拠だろう。俺はその金額に値する仕事をしたのだから、金を取って当然だ。そう自負できるのなら、そんな曖昧な聞き方はしない筈だ。こういう人は、恐いから人の髪を切らないで欲しいもの。

理髪師が一人処理するのに30分程度の時間を要し、2500円の金を取ったとすると、1時間で稼げる金は5000円である。経費としてその半分が消えるとしても、時間給2500円。この金額は、給料の安いわたしの時間給と比べれば、割の良い商売だ。「納得いかんな、クソ」と、下らない計算をしながら、風呂場で自分の前髪を切る。お陰で、前から毛が垂れなくなって、スッキリ。でも、後ろの髪が伸びて暑苦しいので、暇になったらやっぱり床屋へ行こう。



戦争ってね
1999年9月5日(日曜日) はれ

『新機動戦記ガンダムW EndlessWaltz/特別編』とも復調される毒電波の奔流が、南南西の空から降ってくるのでつい見てしまうのだ。まあ、話の内容はありがちなのだが、「兵器を捨て、兵士を封印すれば、それが平和だという考えは間違っている」か。いや、キザな一言なんだが、考えようによっては奥の深い話なのだ。かといって、強力な軍事力の維持により平和が保たれるというのも、これまた皮肉な話である。結局、絶対平和はあり得るのか?

という問いに対してでてくるのが、メタユートピア論だったりするから、もう哲学的空想論の次元である。現実的なレベルで考えると、そういう理想的な平和状態はあり得ないということになるのかね。いや、わたしとしては、歪な均衡状態でない種の平和を願っているから、そんな帰結は、嬉しくないのだが。それは、自分は何故生きているのかという問いに対して答えを求めるような、意味のない無駄なことなんだろうか。

ところで、人間が兵器を以て無差別的に争うことを戦争と定義するのは、もう古いのかも知れない。軍事施設だけに焦点を絞って攻撃するなど、なるべく犠牲者の少ない人道的な戦争をしようという傾向が世の中にあると思うが、人を大量に殺す戦い方はダサくて、新しい戦争こそ美しく正しいと割り切れるものとは思わない。むやみに犠牲を出さないハイテク戦争が理性の代わりとして扱われるところって、すごく危険だと思うな。

で、ハイテクが孕む独特の危険性を拭い去るためには、戦争はローテクが好ましいのだ。そのためには、人間は賢くなってはいけない。馬鹿な人間同士が適当な小競り合いを続ける状態が、最も平和なのかも...うげぇ、そういう風にして考えていくと、行き着くところは、やっぱりメタユートピア論。悲しいね、ユートピアじゃない現実って。



エアコンの掃除
1999年9月4日(土曜日) くもり

本腰を入れて、エアコンを掃除する。よく考えれば、ここに入居して以来、エアコンの掃除などまともにした記憶がなかったりして...カバーを外すと、もうフィルタは詰まっていて、再起不能な様子。わたしが使っただけでは、あそこまで汚れないだろうから、恐らくかなり前から、掃除されたことがなかったのだろう。こんなのでは効率が悪いし、しかも臭い。というわけで、掃除は諦めてフィルタごと取り替えることにする。

電気屋でフィルタを部品として注文すると、これが結構高い。1000円程度だろうと思っていたら、空気フィルタが1枚750円。これが2枚必要なので、それだけで1500円だ。さらに、洗浄フィルタというのが必要で、これが8枚入りで1200円ほどだった。説明書などには、フィルタが汚れたら取り替えろと書いてあるが、こういう値段だと、そうしょっちゅう取り替える気もしないのだ。

更に、最近よく売られているエアコン洗浄スプレーで、フィンのお掃除。こいつがなかなか面白くて、スプレーを噴くと炭酸飲料みたいに発泡する。中身は界面活性剤のようだが、この泡のお陰でフィンの間に詰まった細かい汚れが落ちるらしい。このスプレー、値段も高いし減るのも早い。値段は忘れたが、300ml 缶で、エアコン1台分という程度。役目を終えた薬剤は、汚れとともにドレインから流れてくる。でも、コマーシャルでやってるみたいに、大量の汚物が流れ出てくることはなかった。

お掃除の結果、エアコンの臭いは薄れたし、音も静かになった(最初は、本当に動いてるのかと思ったぐらい)。効率も改善されただろう。面倒だからしょっちゅうやりたいことではないが、時々掃除すべきのようだ。



ノーとしか言えない日本人
1999年9月3日(金曜日) くもり

非常に希なことだが、「こんな題で書いて」というリクエストを頂くことがある。実は、いつまでも脳味噌の主記憶装置からスワップアウトされたまま暖めてあったリクエストネタが一つあるのだが、今日こそ書くことにする(ごめん> J氏)。多少の言い訳を許していただくと、いつも思いついたことを書き殴っているだけなので、リクエストネタって難しいのだ。外枠だけ決まった白紙の企画書に例えれば分かるだろうか、ボトムアップ方式で書くいつものアプローチが、トップダウン方式の遂行を難しくする。

というわけで、ノーとしか言えない日本人。例えば、何名かでメシを食いに行ったと仮定する。空腹感をまずます増幅させるような分子が随所に漂う、お昼時の飲食店街。そこには、路地の雑踏を切り分けながら当てもなく彷徨う団体の姿があった。彼らが食事を摂るべくこの街に現れたことは、時間と場所からして想像に難くない。しかし、メンバの中で適当な飲食店を探しているのは、幹事と思しき人間ただ一人。他の者は、みな関心が薄いようである。

『なに食いたいの?
「まあ何でも良いよ
『あっそ、じゃあ牛丼は?
「ごめん、おれ肉だめ
『仕方ねえな、そこのラーメン屋はどう?
「こってり豚骨じゃ、ちょっと重すぎるし
『向こうの角のソバ屋なんかは?
「なんか雰囲気悪くない?、あの店
『じゃあ、結局なにが良いのぉ?
「別に、何でも...
『どこが何でもじゃ〜〜

そんな、途方もない会話が延々と繰り返しながら、いつまでも腹の虫を泣かせているこの団体。とうとう幹事らしき者はキレたのか、少数意見は切り捨てて、一番最初に見付けた牛丼屋に入ることにしたようだ。だから俺、肉食えないんだって...るせぇっ、肉ヌキ汁ダクに卵でも掛けて食ってろ! と、やや強引に決めでもしないと、何も決まらないのが世の常か。大いなる決定のために小さな犠牲には目を瞑らなくてはならない幹事も、誠に辛いものである。

まず第一に、「何でも良い」という具体性の無い意見から非難を始める者もいるようだが、意思決定権を全て委任されたものと思えば、それが必ずしも問題であるとは思わない。しかし、実際のところは「マトモに決める気が無い=何でも良い、けれど実は条件付き」という場合が殆どだろうから、後から「アレはだめ、コレは嫌だ」の文句が発生する。しかも、文句は言うが、解決に至るための建設的な意見は何故か出てこないから、結局は誰かが強引に決めるしか無くなるわけだ。

敢えて明確な立場を持たないことを、謙譲の美徳とも言うらしい。場合によっては、それも悪いと思わないが、しかし、多人数で何かを決めようというときに、そんなものを発揮されても困るだけである。これが「国家的意思決定」といったより重大な話となれば、ますます問題だろう。駄目だの嫌だのという意見は数多く出てくるが(もちろん、不要というのも一つの意見だが)、合理的な妥協案というのは余り聞かれない。例えば、今の教育制度は駄目だという意見は新聞紙面を飾っても、具体的な改善策というのは、余り聞かれない。

そう言うと、また次なる謙譲的立場が現れる。当たり前だ、自分はその分野の「有識者」ではないから決められるわけが無い、と出る人もいる。それは確かにそうかも知れないから、非有識者であるから意見は避けるという立場も、認められて良いと思う。しかし、結果が出てから、(非有識者の癖に)やっぱりアレは駄目だなどと非難するようでは、全く筋が通らない。ノーとしか言えない日本人、意見はハッキリ出すべきだとは言わないが、「事後にノー」だけとは、みっともない。



激安米?
1999年9月2日(木曜日) くもり/あめ

わたしは、飯の味には比較的やかましい方だ。もちろん、貧乏人だから魚沼産コシヒカリを毎日頂くわけには行かないが、そこそこ美味しい米を安く買えるなら、それに越したことはない。色々と食ってみると、米の値段と味は必ずしも比例しないことが分かる。だから、ちょっとマイナーな銘柄で、ちょっと良さそうなのを買うと、案外うまかったりするのだが...もちろん、失敗もあるから何とも言えない。

しかし、ディスカウント屋などで激安で売られている米は、買わない方が無難だ。袋にはブランド名、しかし中身は実のところ偽物。そんな記事が今日の朝日新聞朝刊に載っている。そんな事実は、わたしは何年も前から経験的に知っていたが、意外と騙されて買ってしまう人がいるから、今更でも記事になるのだろう。ディスカウント屋も慈善事業では無いのだから、激安販売でも利益はあるはずである。しかし、正規の新米の卸値を考えれば激安な値段にはなり得ないのだから、まず何か裏があると考えるべきである。

と思ったら、まんまと騙されている人間が身近にいたりするから、誠に恥ずかしい。以前に、うちの母親があきたこまちを何十キロか仕入れてきた。ディスカウント屋で、大量に安く売られていたから、買ってきたのだという。購入価格を聞くと、どう考えてもあり得ない値段なのだが、それでも「あきたこまち」というブランド品なのだから、その品質基準は満たしているはず、値段が安いだけで問題はないと主張する。しかし、値段と購入場所からすると、モノを見なくてもマトモな米でないことは明白である。

一応の真偽を確かめるべく米を見ると、恐らく古米か古々米で、しかも小米や割れ米のオンパレード。本物のあきたこまちか否かまでは当然ながら分からないが、食ってみても然るべき味ではなく、不良在庫の処分品か何かであることは、確かなのだ。いや、別に品質の悪い米を否定するわけではない。中身を知りながら買ったのなら、文句は無いのだ。気に入らないのは、少し考えれば自ずと分かる結論すら出せなかったところ。銘柄に便乗して売る方も売る方だが、銘柄という実体の無いものに騙される方も、おマヌケである。



スポーツは健康的?
1999年9月1日(水曜日) はれ

9月か...で、9月というのは秋なんだろうか? 毎年、この時期に及んでも挨拶に「残暑」などという言葉が使われているのはご存じの通りだが、暑いってことは、直感的に言ってまだ「夏」なのである。例年には無い暑さが、時たまチンタラと残っていて、それを特に「残暑」と区別するのなら理解できるが、毎年の暑さを「残暑」と呼ぶのは変なのだ。涼しいというコンセンサスが取れるまでを夏と定義し、その日を過ぎても暑ければ、これを以て「残暑」とすべきなのだ。どうでも良いけど。

そんな暑い季節は、クーラーという名の生命維持装置に支えられながら、部屋で静かに過ごすのが一番健康的だと思う。だが、広い世の中には、いくら暑くても外へ行ってスポーツをしようという活動的な人間も多く生息しているようだ。それ自体は大変結構な事であるが、わたしのような人間を非健康的などといって咎める体育至上主義者は、排除すべきである。ある説によれば、運動好きかどうかは遺伝的に決まるらしく、やる気のない人間にまで無理な運動を強いるのは、極めてナンセンスなことである。

それでも、身体は動かして逞しくならなければ、健康な人生はあり得ないという人がいる。確かに、寝てばっかりというのも良くないだろうから、普通の運動は必要だろう。しかし、暑くても寒くても毎日のように身体を酷使し、その結果ヘトヘトになって寝てしまうだけのスポーツ少年まで「健康的だ」と言えるのだろうか。わたしの弟は、筋金入りのサッカー少年で、土日も練習、夏休みともなれば合宿という調子で頑張っているのだが、彼がわたしよりも健康的だとは、とても思えない。

見た目は、弟の方が断然逞しいし、関係ないけど女にもモテる。身体もがっしりとしているし、骨も太いし、足首に至っては太くなり過ぎて、踝の突起が辛うじて判別できる太さなのだ。だが、それは身体が毎日の酷使に耐えうるために、そういう頑丈な体型にならざるを得なかったと、わたしは思うのだ。しかも、そのような体型と健康状態は何ら関係が無いらしい。弟は年に何度か風邪で寝込むし、何かと医者の世話にもなっているみたいだし、徹夜にも弱い。体型と健康が無関係である証拠なのだ。

弟と比べると、非活動的で体も小さく、不健康な人間だと思われているわたしは、周りの人間が風邪でボコボコとダウンしていく中でも、一人だけ大丈夫だったりするのだ。この違いは、何だか良く分からないけれども、運動好きかどうかとは関係がなさそうである。むしろ、運動のやりすぎって、免疫力も弱ってくると思ったりするのだが。



突撃実験室