多事毒論(2000年2月分)



閏年
2000年2月29日(火曜日) はれ

4年に一度しかない2月29日。でも、今年は400年に一度しか訪れない特殊な閏年である。4で割り切れる西暦年は閏年だが、100で割り切れる西暦年は閏年でないという例外規定がある。但し、400で割り切れる西暦年はやっぱり閏年になるという例外規定の例外規定があるから、2000年の閏年は400年に一度だけやってくる特殊な閏年なのだ。そっち方面の思考な方には「((4で割り切れる && 100で割り切れない)|| 400で割り切れる == 真) ならば閏年」と書いた方が分かりやすいだろうけども。

報道では「特殊な閏年だからコンピュータ色々と問題が発生するかも」とか書いてあるけれど、わたしには「特殊だったからこそ問題は最小限だった」と思えて仕方がない。閏年の正しいの判定方法を知らないプログラマなら「4年に一度」という判定方法を使いそうである。しかし、もし「400で割り切れれば、例外的に閏年」という規定がなければ、そのような判定方法を採っていたシステムではカレンダが狂っていたことだろう。そのようなシステムは、例外の例外という特殊な規定で救われたというわけだ。

ところで、閏年の規則は、なぜそのようになっているのか? 計算してみた。ここでは、地球の公転を365日5時間49分と仮定する。年によって地球の公転にかかる時間は違うらしく、正確を期せばミリ秒単位で計れるようだが、計算を簡単にするため無視して構わないだろう。実際の余りは、5時間49分よりも十数秒短いらしく、5時間48分の後半になるそうだ。

まず、地球の公転が365日よりも5時間49分(349分)多いため、1年で暦の方が349分遅れることになる。一日が1440分であることに注目すると、4年間の公転による累積誤差1396分とほぼ一致するため、4年に1度の間隔で閏年を入れて余分な1日追加すれば、誤差は大まかに修正することができる。ところが、それだけでは暦が 1440 - 1396 = 44分と、逆に進んでしまう。この進み分もどうにかして補正しなければならない。

そこで、4で割り切れ、なおかつ100で割り切れない西暦年を閏年とすれば、100年間にある閏年の回数は24回になる。誤差を100年単位で見ると、公転による暦の遅れは 349 x 100 = 34900分。100年間に24回ある閏年による暦の補正分数は 1440 x 24 = 34560分だ。これを相殺すると公転と暦の誤差を修正できるが、しかしこれでは100年間に暦の方が340分遅れてしまい、少しだがまだ無視できない誤差が残る。

この誤差を400年間ためておけば1360分の遅れとなり、1日の時間とほぼ同じとなる。そこで400年に一度、余分な閏年を入れれば暦が1440分進む。これで、この計算の上では400年で80分の進み誤差で落ち着き、地球の公転と暦の不一致をほとんど修正できるというわけだ。気まぐれに入れられる閏秒とは違い、覚えやすい法則だからもっといい加減なのではないかと思っていましたが、なかなか正確なものである。

わざと回りくどいことをやってみたが、閏年の計算は400年単位で考えればとても簡単だ。400年の公転による暦の遅れは、 349 x 400 = 139,600分。閏年は400年で 24 x 3 + 25 = 97回ある。よって閏年による進みは 1440 x 97 = 139,680分。相殺すると、80分の進みで済むという結果が出てくる。



衛星
2000年2月28日(月曜日) はれ

ねこねこ。ねこ、しなやか。だから美しい。

DirecTV が SkyPerfecTV に統合されるそうだ。そうなれば、実質的には一社独占状態になってしまうが、便利になることは確かだろう。いまの状況では「いずれかでなければ見られない」番組よりも「どっちでも見られる」番組の方が多いから、独自性に欠ける2つの事業者が加入者数だけで鬩ぎ合っているだけという印象は色濃い。わたしは、一方だけで放送されている一部の番組のためだけに DirecTV と SkyPerfecTV の両方と契約しているため、これらが一本化されれば、それなりに有り難いのだ。

実際に統合された場合、両方に加入している客はどうなるのだろう。統合されてチューナが一つだけで済むようになれば、いま2つあるチューナが1個無駄になる。どうせロハで手に入れたチューナだからどうでも良いと言えばどうでも良いのだが、DirecTV が買い取るとか言い出したら面白そうだ。ロハどころか、インセンティブまで入ることになって、棚から牡丹餅である。しかし、牡丹餅なんか最近食ってないし、食いたいとも思わない。同じなら「棚から女の子(14〜16歳、童顔限定)」ぐらいの方が嬉しいな。

思わず「うんうん」と頷いているそこのあなた。にゃははは



俺様的哲学2
2000年2月27日(日曜日) はれ

最近の PHS 端末は、1ヶ月間ぐらい充電しなくても待ち受けしてくれる。あの小さな電池から得られる電力だけでそんなことができるのは、利便性の追求よりも「連続 100000 時間待ち受け!」といったカタログスペックを華やかにするためだけに、省電力設計へと費やされた技術者たちの尊い青春の賜物と言えよう。ところが、長い待ち受け時間を良いことに充電をサボっていると、通話を始めてすぐに「電池切れ」を喰らい「騙された」と嘆くことになるのだ。これは、青春を棒に振った技術者たちの罠に違いない。

部屋が余りに散らかっている。そろそろ掃除しないと、積もった埃の重みで宇宙が崩壊する、ということに気付いたのは、つい先ほどのこと。宇宙の崩壊を招けば、多くの人に多大なご迷惑をおかけすることになるが、まだ元気に生きている親の遺言によれば「何をやっても良いが、人様だけには迷惑をかけるな」ということなので、掃除を開始した。ところが、一つ何かを始めればとことんやらなきゃ気が済まないわたし。整理はされつつあるが、ふと気が付けば朝の4時を過ぎている。どうせ3日もすれば元通りに散らかるというのに、深夜まで何と無意味なことをやっているのだろう。

「わたし役者になりたいけれど、容姿に自身がないんです。だから声優を目指しています」というAさん。思わず目を覆いたくなるような姿のAさんにそう言われれば、有無を言わせない説得力があるから恐ろしいものだ。ところが最近、「姿を見せず声だけで出演する俳優(広辞苑)」であるはずの声優さんにも、何故か歌手デビューしたり、何を血迷ったか写真集を出したりと、多角経営化の波が到来している。「声だけなら、自信はあったのに」と、涙ながらに思わしくない傾向を語ったAさんのその後は知らない。

しかし、多くの声優さんはその方面の秀才ではないから、結果として、聞くに堪えないCDとか、視力低下の原因となる写真集が世に送り出されているのだ。んなもん、誰が買うんだか...と首を傾げたくなるが、売れないものは出てくるわけがない。んなもんでも経済的に成り立つということは、つまり不思議と売れるから売り出すのであり、実力主義が叫ばれるこんな世の中でさえ、あるいは実力ばかりが勝負所ではないということを示唆しているのだろう。オタク産業、恐るべし。



俺様的哲学
2000年2月26日(土曜日) はれ

なんか知らないが、お腹を壊したらしい。その前は便秘気味だった。便秘と下痢を繰り返す状態は非常に芳しくないそうなのだが、悪いモノを食ってるとも思わないし、どうしてそういうことになるのか。糞の話が出たついでに、屁の話でも? 日常的に噴射されるおならの平均的な量は知れていると思うけれど、強烈な屁は教室サイズの部屋でも文字通り充満させるパワーを持つ。ppm レベルの臭気を感知できる嗅覚の感度も凄いけど、色んな香りが混ざる中で特定の臭いを嗅ぎ分けるフィルタの特性も凄いものだと思う。

遭難したとき「寝たら死ぬぞ」「寝たら死ぬぞ」「寝たら死ぬぞ」というが、本当に寝たら死ぬのだろうか。もしこれが本当だとすれば「死ぬときってどんな感じ」という、実経験者にはなかなか意見を伺えないため仮説の検証が極めて困難で形而上学的な質問に対しても「寝る感じ」という簡単な答が使えて非常に便利になる。しかし、もしこれが本当だとすれば「死ぬとき=寝るとき」という等式も成り立ち、毎晩から目覚ましのスイッチを入れながら永眠する恐怖に怯えることになるから、少々厄介かもしれない。

文明は、いつか滅びるに違いない。ところで、もし自分が不老不死の神となることができ、滅び行く文明都市を最後まで観察することが出来たら、どういう光景を目の当たりにするのだろうか。傾き、外装は朽ち果てても、まだ文明の未練を象徴するかのように形を残す高層ビル? それとも、文明の痕跡すら残さない砂漠だろうか? 人の管理が及ばなくなった都市インフラが気象現象といった要因によって自然に滅び、その場所に都市が出来る以前の姿を取り戻すまで、一体何千年かかるのだろう。

都市ばかりでなく、世の中には丈夫に出来ているものも沢山ある。明石海峡大橋が海に飲まれ、関越トンネルがまた土砂で埋まり、憎たらしく川を堰き止める黒部ダムから川が自由を取り戻すことは? ああいったものが自然に壊れる姿は想像しがたいものだ。もしかすると、巨大隕石が衝突したり、地球の形が変わるほどの地殻変動が起きたりするまで、人間の産物は残るのかも知れない。



村八分(2)
2000年2月25日(金曜日) はれ

<昨日からの続き>
オウムに対抗する手段として、近所のオッサンが細々と村八分活動をやっているだけならともかく、転入届の受理拒否や、麻原の娘だったかの就学拒否といった形で、行政も同じ次元のことを当然のようにやっているのだ。しかし、行政が村八分紛いのことを堂々とやるわけにはいかないから、特例扱いの根拠として「公共の福祉」という大義名分を掲げていることはご存じの通りだろう。確かに、オウムは社会にとって有害だから特殊な扱いが必要だという理屈も、あるいは一つの正論だといって良いと思う。

だが、「公共の福祉」を天秤の皿に載せれば、もう片方の皿には「基本的人権」が常に載っていることを、行政も、そしてややもすれば我々も忘れがちである。今はたまたま、公共の福祉を理由にオウムを排除することによって、オウムとは無関係な人間の利益が確保されているかもの知れない。しかし思い返せば、公共の福祉の名の下に様々な「暴挙」もまた許されてきた。例えば、幹線道路による騒音が原因で、沿線住民から静寂を奪うことは致し方がない、という考え方も「公共の福祉」を持ち出せば罷り通るように。

従って「公共の福祉」に基づき「オウムに人権はいらない」という考え方を正当化することが適当だとは思わない。それが通用するのなら、同じ公共の福祉という共通項で括られる「幹線道路の沿線住民は騒音を我慢して当然だ」も論理的には良しということになるし、実際にそうとしか解釈できないような判断もある。騒音の問題に関しては、多くの人が住民側の立場に立って「我慢を強いることは不条理ではないか?」という疑問を持つし、マスコミでも嫌というほど騒いだりする。それはそれで、良いのだろう。

ところが、例えば麻原の娘の就学を拒否するような超法規的措置については、オウムの側から見れば不法で不条理であるにも関わらず、明確な根拠もなく「当たり前だ」という考えをする人は少なくない気がする。オウムの肩を持つわけではないが、社会はその矛盾を容認しているし、それを指摘する声がマスコミに出てくるわけでもない。わたしは、社会の受け止め方もマスコミも余りに都合が良すぎると感じるし、恐らく司法も不当だと判断するだろう。

じゃあどうすれば良いのか? 結論から言えば、どうすることも出来ないと思う。根拠不在の村八分的な制裁が横行しており、あるいはそれしか出来ないことが、その証左と言えよう。結局、オウムも日本という社会が生み出したもの。社会の構造がその出現と持続を許したとしか言うしかなければ、それを見て見ぬ振りをし、避け、村八分的な制裁だけで何とかしようとしても、何の解決にもならない。紋切り型の結論だが。



村八分(1)
2000年2月24日(木曜日) くもり

こんな怪文書がポストに投函されていた。[原文

誤字なども含めて全て原文のままだが、やばそうなところは伏せ字(×の部分)にさせて頂いた。

各位

オウム上祐が横浜に長期滞在していますが
事務所としての機能しかない部屋での日常
生活は無理です。実は横浜支部のある
マンションの××××は××××××××
××××で夫婦共オウムの信者です。
裏で入浴食事等の援助していますので上祐の
滞在はまだまだ続くでしょう。
尚、この×××××夫婦は6年程前から
野毛で居酒屋“×××”を経営し
現在は寿し居酒屋“××”に改名して
野毛2店、伊セ佐木1店で商売をしており
オウムの資金源の可能性があります。
又、オウムは昔から疑装(カモフラージュ)が
得意で平気で嘘をつきますので、暮々も
だまされない様にして下さい。
皆さんの力でオウムを追い出しましょう。

“横浜からオウムを追放する会”

Webmaster 注釈:











「伊セ佐木」→「伊勢佐木」

「疑装」→「擬装」
「暮々も」→「呉々も」






なかなか笑える怪文書だ。内容が内容だから言うに及ばないことかも知れないが、この怪文書を書いた人間から知性というものが全く感じられない。文章のレベルは相当に低く、教養のある人間なら「入浴食事等の援助していますので」とか「オウムの資金源の可能性があります」といった下手な文章は書かないだろう。日本語能力にも明らかな問題がある。「伊勢佐木」の「勢」が書けなかったためかカタカナ書きだし、「疑装」とか「暮々も」という謎の言葉も登場する。それぞれ「擬装」と「呉々も」の誤りだろう。

ここはオウムの横浜支部に近いこともあり、オウムに対抗したくなる意識は分かる。しかし、これは村八分の一形態であり、少しも好感の持てるものではない。発行元の連絡先も無く(というより書けないのだろうが)「横浜からオウムを追放する会」とあるだけで、陰険さにかけては極上モノだ。悪戯などで無いと仮定すれば、当人はこれでオウムやその信者に対抗し、正義を全うしている積もりなのだろうが、思い上がりも良いところである。大義名分はどうであれ、手段の不当性はオウムのそれに勝るとも劣らない。

<続く>



あくでえー
2000年2月23日(水曜日) はれ

他人のメールアドレスを使い、メールでソフトバンクの子会社にウイルスを送りつけて嫌がらせを働いていた少年が逮捕されたという(毎日新聞の記事)。通信販売で買ったソフトウエアの代金を支払わず、その督促を阻止することが目的だったと言うから、そのパワーに恐れ入る。普通、後先を考えたらそんなことは出来ないだろうに。

プロバイダで苦情受け付けなんかやっていると、色んなことがあるから「良識」の感覚がズレてしまい、多少の極悪非道では驚かなくなってしまう。やれ掲示板が荒らされただの、嫌がらせのメールが山のように来るだのと、ややヒステリックな電話がかかってくる。被害者側からすれば、確かにそれらは尤もな怒りなんだろうけど、話を聞いていると「またか」ぐらいにしか感じないことも多い。言っては悪いけれど、「そもそも、なんでそういうことに巻き込まれるんだ?」と、理解に苦しむトラブルも多かったりする。

というのも、わたしも個人的にインターネットを使っているし、こんな Webpage もやっていたりするが、攻撃されたり嫌がらせを受けたりして困った経験はないから、特定の人間が狙い打ちされるに至る経緯が見えてこない。たまたま運が良かっただけかも知れないけれど、常にワンクッション置いてネットと接するようにすることも大切な自衛策ではないかと思う。ガードを堅くしろというわけではないが、何かあったときでも不用意に感情を見せてはいけない。事務的に、そして論理的に対処するようにする。

この世界では、下手な正義感など禁忌である。「正義が勝つ」なんて考えは、不条理だけが蔓延する無法地帯においては、ただの幻想に過ぎない。掲示板で議論が始まっても、我こそが正義と言わんばかりに「正論」を書き連ねてはならない。相容れない別の正義を持つ人間が敵に回るだけであり、無用な争いは初めから避けるのが一番だ。中途半端に自意識過剰な振る舞いも、人の攻撃心を掻き立てる要因だ。お色気全開だったり、博識を余すことなく誇示するなど謙虚さに欠ける者は、その存在自体が、人の深層に眠る「なんかムカツク」という感情を召還させる。

不条理を「遠い目」で見つめるぐらいが、ちょうどいい。



英語版ポケモン
2000年2月22日(火曜日) はれ

テレビ東京で火曜日の19時より、ポケモンを再放送していることは以前から知っていたが、きょう何となく見ていたら、テレビのオンスクリーンに12の文字が赤色で表示されていることに気付く。ん? なぜアニメに副音声? 大方の想像は付くが、取り敢えず副音声に切り替えてみると、聞こえてきたものは案の定、ポケモンの英語吹き替え版である。しかし、あれが英語になると一体どんな代物になるんだろう? 想像すら付かないという興味にそそられ、そのまま見ちゃうことにした。

...ダメ...違和感がありすぎて、見られたものじゃない。

恐らく、アメリカ人の市場傾向に合わせた結果がこれなのだろうが、ポケモンと呼ぶにはノリが違いすぎる。一回見ただけだから比較は難しいけれど、英語版はダメダメ要素を薄くしてシリアス目に作り直した感を受けた。台詞の吹き替えは言語の壁がある以上やむを得ないことだが、ノリが変わったためか音楽まで変えてあり、単なる吹き替え版というわけではない。輸出先迎合主義については、制作者から不本意だという意見が多数出ていると小耳に挟んだが、背後に京都の花札屋がいる限り、尤もな結果だろう。

最初は、いつものボケとツッコミで句を起こす。続けて適当なエピソードで承けるも、ここで微妙に位相の違うエピソードを辿ってきたムサシとコジローが、予定されたいたようなアクシデントでサトシ一味と鉢合わせして話は一転。初めは両者とも格好良く決めるが、最後はドジと結果オーライで落として一話を結う。常日頃はそんな流れで笑い誘うが、合間合間のここぞというときには、格好良さや哀愁も埋めておく。このぐらいに還元できてしまうノリが、ポケモン一話の起承転結パタンではないだろうか。

こういうノリでウケるのは日本人だけじゃないかと思うのだが、これは思い込みだろうか。輸出が成功している事から見てそうではないのだろうが、オリジナルのままでは恐らく失敗している気がする。そうすると、作り替えにもそれなりの妥当性はあると思う。「なんだかんだと聞かれたら」「答えてあげるが世の情け」と美しく登場するが、吹っ飛ばされてしまうだけのムサシとコジローは、誰が見ても理解できるだろう。しかし、それとなく出てくる心理描写はどうだろうか。

屋台のおでん屋でモンスター達が管を巻くシーンがあった。そもそも屋台のおでん屋というものが、どういう心理的な意味を持つのかは日本人でなければ分からないだろうし、分かったとしてもモンスターがそんな場所で愚痴っていることが、なぜ面白いのかなんて簡単に分かるものではあるまい。結局、ポケモンそのものと、登場人物のキャラクタと(これも少しは作り替えてあるだろうし)、ドタバタに興味があるだけで、こういう微妙なところは、あってもなくても同じなんだろうな。



ねむ
2000年2月21日(月曜日) はれ

すこぶる絶好調な一日であった。草木も眠る丑三つ時、夕朝兼用のメシを食ってから、なんだかんだと用事をしてたら、夜が明けている。ま、日曜日だし...って、おい。待てよ。日曜日なんかとっくに終わって、今はもう月曜日なんだっけ? ひょっとしなくても、月曜日って会社に行ったりする日だよな? もう6時半だよ? まぢ?

はっと気付けば、時既に遅し。過ぎ去った時間を遡ることが出来れば、今頃わたしはノーベル物理学賞に敢えて輝かず、株とか馬とか諸々の犯罪行為で悠々自適の生活を送っているところだが、絵に描いた餅なんて食えやしない。糠に腕押しすれば袖が汚れちゃうし、暖簾に小判なんか吊しておけば盗んでくださいと宣伝しているようなもの。あまつさえ、猫に釘なんか打ったら、生類憐みの令に違反する。脳味噌暴走モード。

取り敢えず壊れて「ひゃひゃひゃひゃひゃ」と下賤な笑い声を上げながら、布団を敷く哀れな自分。2時間だけ寝よう。6時半に寝て、8時半に起きるのだ。こりゃ勤務中に寝ちゃうかも...と思っていたが、目が覚めてしまえば案外に元気なもの。若さの特権だと言ってられるのも今だけか。ガソリンとか灯油で洗っても平気な手が粉を噴いているのを見ると、寝不足に対するお肌の反応は正直なものだと思う。



オトモダチニ ナッテクダサイ
2000年2月20日(日曜日) あめ/くもり

PHS が鳴った。番号通知によれば、相手も PHS だ。
しかし、名前が出ないから知人の番号ではない。誰だろうか。

「はい、もしもし?
「カチャ.

切りやがった。いきなり切るとは、まったく失礼なヤツだ。
俺が礼儀ってもんを叩き込んでやると、通知されてきた番号にかけ直す。

「...ゴソゴソ... 「あの、もしもし〜。さきほど電話.. 「カチャ.

また切りやがったか。こうなったら、出るまで何度でもかけてやる!

「プルルルル プルルルル プルルルル プルルルル プルルルル...

シカトしてんじゃねー 出やがれ、このやろぅ 出るまで鳴らしてやる!
と思ったが、だんだん馬鹿らしくなってきて、やめにした。

しかし数分後、PHS の液晶にはこんな文字列が。

「オトモダチニ ナッテクダサイ」

なんだろう、これ。ひょっとして、メール機能というやつ?
「ウルサイ」と送ってやりたかったが、生憎ながら機械音痴のわたしには、
メールの送り方が良く分からない。面倒だから、もう一度電話をかけるみる。

「もしもし? メールを貰ったんですが
「はぁい

今度は、電話に出た。頭の悪そうなコギャル風のしゃべり方をする女の声だ。

「どうしてこの番号が分かったの?
「適当に押してただけ

嘘か真か。無数にある電話番号のうち、偶然わたしのPHSに繋がったらしい。

「おいくつ?
「17。

17歳か、やったら条例違反だな。でも、暇だから少し付き合ってやるか。

「どこに住んでるの?
「福岡。

この女、こちらから何を話しても一言しか口にしない。お友達募集中なん
だったら、もう少し積極的に話して欲しいもんだ。わたしも決して饒舌な
人間ではないから、会話が続かない。

暇つぶしにもならないから、切ってやった。



字幕
2000年2月19日(土曜日) くもり

洋画の字幕と言えば、戸田奈津子氏。でも一体、あの人は何者だ? 検索エンジンで「戸田奈津子」を検索すると、色々なインタビューが出てくるけれど、それらを見ていると苦労が多いらしい。それはそうだろう、耳で聞く言葉よりも、目で見る言葉の方が認識速度は遅い。マシンガンのように吐かれる台詞でも、数行の日本語に変換しなければならないし、しかも人間が字幕を読むためには少なくとも何秒かは表示しなければならない。はしょり方や表現次第で、映画そのものの品質も左右されてしまう。

昨日見た「アルマゲドン」の字幕は、ややタコだったと思う。わたしの大好きな、ブルース・ウイルスお得意の皮肉たっぷりな台詞だけは正しく伝わらないと、彼が出演している映画の楽しみは半減するだろう。とはいっても、英語だからこそ笑えるようなユーモアを正しく日本語に訳すことは至難の業で、例え訳したとしても笑えないことが多い。字幕とともに「訳注」なんかが入っていれば少しは面白くなるかも知れないけれど、それでは字幕でなくなってしまいそうだ。

専門用語なども訳しにくいものなのだろうか。Discovery Channel で放送されている番組には全て字幕が入ってるけれど、見ていると誤訳も少なくない。映像に映っているものは明らかに油圧器なのに、「hydraulic」が「油圧」ではなく「水圧」と訳されていたりという具合に、特に辞書に書いてあることと現場での使われ方が違う単語に多いようだ。科学系の番組なのだから、ちゃんと訳してほしいところだが。



アルマゲドン
2000年2月18日(金曜日) はれ

映画「アルマゲドン」を見る。公開されてからもう1年は経っている気もするが、アルマゲドンは、見ようと思っていて忘れていたのであった。最近、SkyPerfecTV のペイパービューで放送していることに気付いて、いっちょ見ておくことにした。400円だし、レンタルビデオ並と考えると高くはない。

地球への直撃コースを旅する小惑星。もしその小惑星が地球にぶつかれば、全ての生命は絶滅するだろう。核爆弾を打ち込んで軌道を変えるという案が最初に浮かぶも、それは残念ながら焼け石に水だと分かる。残された救いの道はただ一つだけ。小惑星の地中で核爆発を起こし、惑星を真っ二つに割る以外に助かる道はない。しかし、そのためには人間が小惑星に出張し、穴を掘ってその中で核爆発を起さなければならない。そういった「誰かがこれを、やらねばならぬ」という状況における人間模様を描いた内容である。

色んな国の映像が出てくるところが何とも嫌味たらしく、やはり「地球を救うのは俺達アメリカ人しかいない」という思想がたっぷりと詰められたプロパガンダ的な映画ではあったが、思っていたほど悪くは無かった。最初は、かなりコミカルな路線で笑いを誘うが、後半戦では急にシリアスな展開へと転じ、勇気とか真の男とか愛といったものを描き、涙腺を弛緩する。もっとも、ストーリをつつけば細かい疑問は山ほど出てくるし、一貫して観客を裏切らない展開は、ハリウッド映画の安っぽさそのものだけど、良いのだ。

予告編でも使われて有名な、ニューヨークに隕石が飛来するシーンは、非常によくできていた。しかし、そこでパワーを使い果たしてしまったのか、それ以外は大したことが無かった。実際のところ、ニューヨークの隕石は本編と殆ど関係が無かったりして、「技術力誇示のためにやってみたかったから、やった」という印象だ。やりたいことが終わったら、あとは適当に御茶を濁しておこうという方針か。後半の大部分を占めた、スペースシャトルや小惑星でのシーンは、作り物っぽさが目立っていて残念。ミニチュアと分かってしまうような撮影では、単なる救いようのない喜劇になってしまうのに。



バッファオーバーフロー
2000年2月17日(木曜日) はれ

官庁のホームページが相次いで荒らされた事件では、バッファオーバーフローでサーバを攻撃したとか新聞に書いてあった。簡単にいえば、ある大きさのバッファに、その大きさ以上のデータを流し込み、溢れさせて誤動作を起こすという手法だ。入りきらないデータは捨てる、といった当たり前の対策がされていれば問題にならないことだが、たまに未対策のものがあったりするのだ。前々から危ないと知られていることだが、広く使われているメジャなソフトからも同種のバグが発見されたりして、話題に上ったりする。

ネットワークなどからデータの入力を受け付けるとき、入力されるデータの大きさを事前に知ることはできない。実際にデータを受け取ってから、初めて大きさを知ることができるからだ。しかし、データを受け取るには何らかのバッファが必要、というジレンマがある。そこで、例えばバッファの大きさを常識的に入力され得るデータの量よりも多めに確保しておき、実際に受け取るデータの量もバッファの大きさを超えることはない「だろう」という前提に期待した実装をすることがある。こういうのがいけないのだ。

通常の通信であれば、データ量も常識の範囲内に収まるだろうから、それはそれで問題にはならないし、危険性に気付かないことも多い。ところが、攻撃的意志を持って常識の範囲を逸脱したような量のデータをぶち込めば、「超えることはないだろう」と仮定して実装されたバッファは、簡単に溢れてしまう。コンピュータは、バッファのデータも命令も区別できない。しかも、「この処理が終わった直後に実行すべきメモリの番地」なんてものが同じ記憶領域に格納されていたりする。

そこで、バッファには大量のデータをぶち込み、バッファから溢れた部分には、例えば認証をパスさせるような「攻撃的命令」を入れておく。その近くには、「この処理が終わった直後に実行すべきメモリの番地」が格納されているから、その場所を「攻撃的命令」を格納したメモリの番地に書き換えてしまうのだ。そして、暫くすると「攻撃的命令」が実行され、セキュリティが破られるという仕組みである。やれば分かるが、コツさえ掴めば意外と簡単にできてしまう。



古いこと
2000年2月16日(水曜日) くもり/はれ

寒い。寒すぎる。凍え死にそうな夜である。

最近は、ちょっとした電気製品を買えば間違いなくリモコンが付いてくる。お陰で、いつのまにか6本のリモコンを使い分けながら操作する羽目になり、まあ置いてあるだけでも邪魔なこと。えーと...テレビの音量はこれで、衛星のチャンネルはあれで、ちょっと寒いからエアコンは...なんてジャラジャラやってると、イライラしてくるのだ。本体側では、リモコン受光のために待機電力を食っているのだから、勿体ないことである。でも、折角だから少しリモコンで遊んでみるか。ということで、リモコンのコードを解析したくなった。

取り敢えず手近にあったテレビ(松下製)のリモコンをバラして、LED のところにオシロに繋いでみる。繰り返し信号ではないが、ストレージオシロがあれば見られなくもない。最初に一回だけトリガするように、トリガのホールドオフ時間を数百ミリ秒ぐらいに設定しておき、あとはメモリに取り込まれた波形をゆっくりと拝見すれば良いのだ。すると、36kHz ぐらいのパルスで変調された信号がバースト的に出ているのが分かる。調歩同期か何かだと思っていたが、違うようだ。モールスみたく、長いバーストと短いバーストの組み合わせで送信しているようである。

しかし、オシロで取り込んで目視で調べるのは結構辛い。そこでパソコンで取り込んでやろうと画策し、リモコン受光モジュールを買ってきた。電源さえ繋げば、パルス変調の外れたロジックレベルの信号が出てくるという便利なもの。これをパソコンに繋ぎ、簡易ロジアナみたいなソフトで取り込めばいいのだ。でも、Windows のプログラムは書けないし、こりゃ久々にDOSか? サンプルソースのタイムスタンプが93年とかになっている古い本とかに目を通すが、もう綺麗さっぱり忘れてる。割り込みやBIOSの機能などは、本を見れば分かるけど、86のアセンブラなんか思い出せそうにない。

カビが生えてそうなぐらい古いことと言えば、仕事で BASIC をいじる羽目になりそうな調子(もちろん Visual Basic ではない)。もうそんなもの、全く覚えてないのだ。何処吹く風モードっていうか、オラ知らねえモードになっていたら、目の前でスラスラと書き始める人がいたりして「どういう脳味噌してるんだ?」と思わず叫んでしまうところだった。新しいことを覚えるのは比較的早い方だと自負しているけれど、忘れることにあってはもっと早くて、使わないことはどんどん忘れる。不要なことで脳がパンクしないように、うまいことできているのだろう、と諦める。



成分献血とか
2000年2月15日(火曜日) くもり/はれ

会社をサボってアキバへ。平日に来ると空いていて気持ちの良いものだ。道も店も狭っ苦しいところが多い割に、デブが通り道でチンタラしていて、休日の秋葉原は行くだけでイライラするのだ。いつもの巡礼コースを辿るわけだが、パソコン関連のブツにあっては、ここのところどうもぱっとするものが無く、物欲ってやつを刺激してくれない。やたら速いクロックで動く脳味噌が出てきたりはしているけれど、今までになかったような、斬新なモノが出てこないからいけないのだろう。

パソコンも、ある段階まで進化すると「遅くてやってられん」とか「ディスクが足りん」といった切実な問題を抱えることもなくなり、だったら取り敢えず現状維持で良いだろうということになってしまう。CPUのクロックなんかもUHF帯に突入すると、ベンチマークマニアでもなければ、多少の遅速に興味が湧くこともない。次にCPUを買うときは、SHF帯のものが安くなってからだろう。まあ、貧乏な Webmaster にとっては、そのぐらいが経済的にとっても有り難い。金なんて幾らあっても足りないんだから。

成分献血ってやつを一回やってみたかった。血液から血漿だけを取り、血球は頂きませんという、あれのことだ。普通に考えると、これは大変恐ろしいことである。血漿だけを血管から抜くわけには行かないから、取り敢えず全成分を抜いて血漿だけを分離し、残った血球は血管に戻すのだ。「出血」だけなら分かるが「入血」もするのだから、やはり恐ろしいことと言うべきだろう。折しも今日、渋谷の東急ハンズに寄ったら「臨時休業」とか書いてある。仕方が無く帰ろうとしたら、献血ルームの呼び込みに...

恐いもの見たさに、成分献血を申し込む。太くて長く奥まで感じて失神するほどでも無いけれど、あの針は太い。そこから伸びたチューブが、なにやら遠心分離機らしきものと、こういう感じのポンプのもうちょっと高級なヤツや流量計が何個かついている機械に繋がれる。ポンプがついてる時点で「出血」じゃなく「吸血」だけど、そんなことはどうでも良いのだ。いままさに「血球と血漿が分離してますよ」ってところを見に来たのだ。でも、5000rpm 以上で回っているという遠心分離機の中身は、見えそうで見えない。

くそ、見たかったのに。だいたい、ちょっとしたハードディスク並に回っているところから、ションベンみたいな色した血漿がタラタラと出てくるのだから、あの中は何がどうなっているのか気になってしょうがない。しかも、血漿が無くなったら頃にはポンプが逆転して血球が身体に帰ってくるし...これって固体じゃないのかなあ?

想像図



ばらんたえん
2000年2月14日(月曜日) はれ

世の中では「ばらんたえん」ってことになっとるそうだ。なんだまったく、最近の若ぇモンのすることには、怪しからんにも程がある...と僻むのは、自他とともに認める多感な16歳の美少年こと Webmaster である。きっと美しすぎることは罪なのだろう、世の中不公平なもんだ。ラリった書き出しだ。ありがとう>Aさん、去年のこれ、全く効果が無かったよ。

というわけで、チョコレート。誰からも意外と言われるのだが、わたしは筋金入りの甘党だから甘いものは大歓迎なのだ。砂糖の結晶が口の中で「じゃりっ」と音を立てそうなアメリカ風の激甘は頂けないが、日本のチョコレートは美味しい。ところで、チョコレートには、ご存じの通り白色のホワイトチョコレートもある。これなら、様々な色に着色することも可能だろう。例えば、黄色のカレー風味チョコとか、赤色の唐辛子チョコ激辛40倍とか、ヨモギ粒入り緑色チョコなんてのもアリだ。

どれも積極的に食いたくはないけれど、「真っ青」に着色したチョコレートなんてものは如何だろうか。どんな味がするのか想像しがたいし、大体、青という色は食欲を低下される色だと思う。かき氷でも、緑とか黄色はOKだけど、「ハワイアンブルー」は、味はともあれ見た目で食う気にならない。青いご飯とか、青い味噌汁とか、青いおかずが出てきたらかなり嫌だ。考えてみると、自然に存在する青い色の食品なんて見たことがない。緑や紫は思いつくけれど、透き通るような青い色の野菜なんて無いだろう。

きっと、自然に存在しない(あるいは見たことがない)色の物体を、人間は食べたがらないのだと思う。どんな味がするのか想像し難く、良く分からないから取り敢えず毒々しいと判断している気がする。まあ、良く分からない。実験的に1週間ぐらい、全て青色に着色した食事を摂っていれば、最初の数日は嫌だろうが、次第に慣れてきて何とも思わなくなるのかも。もちろん、醤油もマヨネーズも青で。



感想文
2000年2月13日(日曜日) はれ

今月は感想文でネタを埋めている日が多いけれど、読み直せば読み直すだけ、文才の無さ悩まされる。斜め30度のひねくれた方向から書いた下手くそな感想文を、快く読んでいる人は殆どいない気がする。昔から「感想文」ってやつが苦手で、小中学校で書けと言われた日には、真っ白な原稿用紙を前にして途方に暮れたもの。「感想というものは、当人が把握していれば良いことであって、文章化する必要はない」と論理武装して逃げていたけれど、多事毒論を書き始めてから感想文も書くようになった。

別に深い理由があったわけではない。映画を一本見れば、その日の毒論は埋められるのだから、ネタ作りには極めて有効な手段であり、最初はそんな理由から書き始めた。だが、ここのところ感想文を書くことが習慣のようになり、積極的に書いている。何故だろう。まだ感情的な面からでしか正否の判断ができていない材料に対して弁証法的論証を行い、判断の合理的根拠を文章化する感想文は、書いている本人が漠然としたものを自分なりに説明して解釈するのに有効だと思い始めたからだ。

そんなことは勝手にやれば良いことだと言われれば、確かにその通りである。だから一歩進んで、僭越ながら、ここでは不特定多数に読んでいただくことも前提に入れた「解説」を書くようにしている。けれど、その内容がいつも散々なものである気がして、書いたものを公開すべきかどうか悩むのである。結局は「もったいないから」公開しているけれど、必死に頑張った末、訳の分からない内容になった文章を読み直して、まあ誰がこんなものを読むのだろうという...品質検査基準ではボツなのに。

漸く気付いたことだが、映画やアニメといった具体性の無い遠回しの訴えかけから感じたことを、的確に文字化することは容易ではない。何かの感想を書く度に、元より乏しい自分の語彙力や表現力、あるいは想像力といった要素に更なる乏しさを感じてしまう。文に特別な才能があるわけでもない普通の人間が、普通の言葉を用いて、漠然としたものを他者にも分かるように説明することは、不可能なのではないかとさえ思ったりする。いや、もしかすると自分が難しく考えすぎているだけなのかも知れないけど。



アンナと王様
2000年2月12日(土曜日) はれ

また映画。「アンナと王様」を見る。

サイコなネーちゃんが中世末期の血生臭い戦場で暴れた末、火炙りにされる映画を見た直後だから、何とも心温まる穏和なお話に見えてしまう。ラブストーリと言えば、ラブストーリに分類されるのだろうか。シャムの王室に、家庭教師としてやってきた未亡人の英国女性、アンナ。風習の違いなどから王室における儀礼を心得ないアンナは、王室入り直後から相当の苛立ちを覚える。郷にいれば郷に従えと教えられるも、それを拒否し、無礼極まりない態度でモンクット王を謁見。だが、度胸のある女として認められ...という感じの幕開けだ。

安易なヒューマニズムに訴えるわざとらしさは少しあるものの、「こここそは感動させよう」というような意図が見え見えの作り物っぽさはあまりなく、涙腺のコックを自然と開かせるだけのパワーはあったと思う。しかし、話の一部終始に繋がりがあってテンポよく起承転結が訪れる構成ではなく、個々の出来事と時間の経過よる各人物の微妙な心模様の変化を総合的に評価させるアプローチだったから、途中から軽い冗長感を覚えてしまった点は否めない。野郎一人で見たからいけないのかも知れないけれど(笑)



ジャンヌ・ダルク
2000年2月11日(金曜日) はれ

映画「ジャンヌ・ダルク」を見る。

題名の通り、フランスを救う奇跡の少女こと、ジャンヌ・ダルクを描いたものだ。神の御言に従って、王太子シャルルに会い、自分が神の使者であることを告げる。ジャンヌが神の使者であることが認められ、フランスの軍を率いて前線でイギリス軍と戦い、フランスは奇跡の勝利を得る。しかし、王となったシャルルに裏切られたジャンヌは、異端裁判にかけられ、火刑に。というようなお話。「悲劇の少女」云々というより「妄想型精神分裂病者の奇跡的成功例と宗教的結末」という感じの、サイコな内容である。

前半では、主にジャンヌのカリスマ性や武勲が描かれており、戦闘などが大半を占める。甲冑を身に纏い、剣を振るうジャンヌも格好良い。リアルでスペクタルな戦闘シーンも、「ブレイブハート」並みにお勧めできる出来映えだ。しかし、後半では一転して暗く、ジャンヌを抽象的な英雄として扱うのではなく、一人の少女として扱う。心理的な描写が多く、彼女の心の揺れ動きや迷いといった非常に内面的な部分が中心だ。人の内面に関心のない方には冗長かも知れないが、わたしは面白いと思った。

特に後半部分での、良心と悪心の葛藤の描き方は面白い。フラッシュバックや心理描写をふんだんに使いながら「もう一人のジャンク」を登場させ、様々な矛盾について自問自答する。建前では、神の声に従って軍を率い、フランスを救うという大義のために剣を振るったことになっている。しかし、ジャンヌが13歳のときを描いたプロローグでは、姉カトリーヌが侵略してきたイギリスの軍に殺され、犯されるところをジャンヌ本人が目撃しているのだ。それを踏まえて、建前の裏側にあったものとは...



知事
2000年2月10日(木曜日) はれ

大阪に初の女性知事誕生、ってことで話題になっている太田房江氏だが、女性蔑視傾向のあったノックとはえらい違いだ。新聞の写真を見ているだけで伝わってくる気迫みたいなものは、気のせいなのか。男勝りなんて甘いレベルを通り越して「おっかない女」に対する警戒を覚えずにはいられない。少しでもセクハラじみた不穏当な言動があれば、何を言われるか...二言三言で「すみません」と謝ってしまうかも(笑)

それは冗談だとしても、知事は、ちょっと暴言癖があるぐらいのはっきりとした人間の方が向いているように思う。何でも良いと言い切ったら語弊があるけれど、ああでもないこうでもないと曖昧なことを良いながらチンタラしている知事よりは、具体的な行動に出てくれた方が気持ちが良いのだ。この際だから、その案がある問題に対して最適かどうかは二の次でも良く、やってみれば結果は自ずと分かるから取り敢えずやろうぐらいの勢いも、あれば良いのではと。

そういう意味で言えば、東京都知事の石原氏はちょっと暴言傾向があって面白い。さて、このまま突っ走れるだろうか。東京都をアメリカの州に例えれば「カリフォルニア」と言われるぐらいにね。



続・人を殺すということは?
2000年2月9日(水曜日) はれ

最前線で戦う兵士の仕事は、その場で敵兵を殺すことである。だが、初めて戦地に赴いたときに、躊躇なく敵兵を殺せる兵は意外に少ないという。一人の兵がどんな思いで出兵していくのかは分からないけれど、使命感や義務感といった類の強弱に関わらず、いざ現場に立てば、最初の第一歩がなかなか踏み出せないものなのかも知れない。分かる気もする。相手は憎むべき敵兵だ。と、頭ではそう分かっていても、敵兵とて自分と同じく46の染色体を有したヒトであることに変わりはない。

指を銜えて見ていられる間は良いが、そこは戦場だ。殺らなきゃ殺られるという状況は早かれ遅かれやってくる。突然、目の前に銃を構えた敵兵が現れたとしよう。自らが滅びを選ぶのでなければ、相手に滅んで頂くしかないという、この上なく分かりやすい二者択一を突き付けられた人間は、どういう行動に出るのだろうか。簡単なことだ。滅ぶか滅ぼすか、どちらかを選べば良いのである。自分も半分死んで相手も半分死ぬなどという量子化できない選択は、シュレーディンガーの猫が許さないのだから。

自分が生きる道を選べば、その引き金を引く以外に無い。乾いた銃声が響けば、やってしまったという認識を持つよりも早く、鉛玉を喰らった人間などその場へ突っ伏すに違いない。そして、あらゆる無念さを訴えるかのような断末魔に歪んでいた顔が、フラッシュバックのように写る。目の前に転がっているのは、ほかの誰でもない自分が作った屍だ。これは仕方がなかったという自己正当化と、人を殺したという罪悪感の狭間で、揺れ動くものなのだろうか。何れも否定できない事実であることに、違いはないが。

何事にも初めてはあるが、しかしこれもまた慣れなのかも知れない。何人か殺していれば、最初にあった躊躇なんてものは適当に薄れていく気もする。それが正しいとすれば、一人殺せば殺人者、百人殺せばという言葉も別の意味で正しいことになる。一人だけ殺して逃れようのない罪悪感を一生引きずるよりは、罪悪感が麻痺するぐらいの人数を殺して堂々としていた方が、殺人者にとっても幸せだろう。



人を殺すということは?
2000年2月8日(火曜日) はれ

京都の方では何かとお騒がせな事件が続いている。小学生をぶち殺したらしい容疑者が、警察官らが任意同行するよう説得している最中に逃走。その後、団地から飛び降り、自殺を図った。京都府警は、やむを得なかったと説明しているそうだけれど、そんなことはどうだって良い。後味の悪すぎる終わり方であることには、違いないのだ。ところで、無実だとすると、恐くなって逃げることはあっても自殺までするだろうか。わたしなら、死にはしないだろうけど、やったらなら潔く死を選ぶかも知れない。

人を殺すことは、気持ちの良いことなのだろうか。殺したいと思ったことのある人間は数名いるけれど、計画を立てていると、次第に殺しそのものよりも如何に美しく殺すかという殺人審美学に興味が流れてしまう。そして、ああしてこうしてと具体的なプロットが完成する頃には、ほとぼりもすっかり冷めてしまって、立派な計画だけが後に取り残されるのだ。まあ、初めから実行する積もりすらない、こうして殺してやれば気分爽快だろうなという満足感だけが得られれば良いのだ。

しかし、本当に殺人せざるを得ない状況に遭遇したら? 幾ら憎くても、殺す相手もまた人間。妻も子もいて、田舎ではお袋さんも元気なんだろうな。憎いとはいえ、そんな人間の未来を一方的に奪うことは正しいと言えるのか...などとゴチャゴチャ考える前に、人間というものには、ほかの人間を簡単に殺さないよう、本能的に仕組まれているらしい。殺人の不当性を論理的に説明することは出来なくても、いくら人間という生物であっても、本能の一線を超えることは、そう簡単なことではないだろうと思う。

想像だが、本能のリミッタを無視するには、それを正当化しうるだけの理由を要求するようにできているような気がする。何でも良いのだ。許せなかった、そうするほかなかった。と、人を殺した者なら誰でも口にしそうな言葉だが、それを無くして人を殺すことは不可能だということ実証しているのかも知れない。そして、殺した相手は誰であれ、事後にはそれなりの罪悪感を味わうものなのかも知れない。正当化と罪悪感といった経過を経ず人を殺せるようになれば、それは最早ヒトではなく、廃人ということか。



王立宇宙軍オネアミスの翼
2000年2月7日(月曜日) はれ

王立宇宙軍オネアミスの翼を見る。1987年作のちょっと古い劇場用アニメだけれど、スタッフロールには、いまだからこそ非アニメオタクに属する方々にも大変興味深いと思える名前がズラリと並んでいる作品である。それもそのはず、これがあのガイナックスの初制作作品である、というよりは、こいつを作るために設立された会社がガイナックス...ということらしい(詳しいことは知らないし、どうでもいいことだけど)。

人類初の有人宇宙飛行の実現を目的に設立された、戦わない軍隊「王立宇宙軍」。オープニングは、森本レオ演じる主人公、王立宇宙軍の士官ことシロツグの語り部から始まる。一軍の士官と言えども、あの森本レオのとろけるような語り部に、士官としての緊張感、いや軍人としての緊張感などあるはずもない。適当に中流家庭に生まれて、適当に宇宙軍に入隊し、ここでは適当やっていれば取り敢えずは食っていける。これといって困ったこともないけれど、かといって夢があるわけでもない。それが、シロツグなのだ。

その彼が殉死した仲間の葬式に、礼服も着用せず遅刻してくるところが、オープニング開けのシーンワンである。それを上官に注意されて口答え、お次は訓練はサボって昼寝と、徹底的に無気力感を印象付ける幕開けがこの作品の特徴だ。しかも、そんな人間はシロツグだけではない。彼のような、とても軍人とは思えないようなダメダメ人間の集団が、「王立宇宙軍」の実体なのである。無理もない。戦闘もせずに、実現できるかどうかすら不明な有人宇宙旅行を目指す軍隊で、若い連中に士気が湧くはずなど無いのだから。


−−−−以下若干のネタバレあり−−−−

けれども、ある少女との出会いによって、シロツグの宇宙への想いは急上昇。彼の熱意が仲間達をも動かし、そして最終的に...というのが全体的なお話である。ありがちな話だが、その中において「日常の怠惰感」や「世の乱れ」といった要素に相対立する「夢」の描き方は実に巧妙だ。こんな世の中だから、無気力感はあって然るべきだという前提をオープニングで描く。だが、日常を否定する格好で「夢」があるのではない。ただ、マイブーム的に「夢」を追いつつ、やはり筋金入りの無気力青年シロツグは、日常の中における自分の立場を模索しているのだと思う。

形而上学的な要素が前面に出ていている点は、おもしろい。世の中は汚れている...天罰の時が...要するに、何かが間違ってると。シロツグが宇宙に熱い想いを抱いたのは、実はそういう教えを説く宗教の勧誘がきっかけなのだ。だから、これをいまになって見ると、最近名称を改めた某宗教団体を連想させる部分もあったり、酷似する部分もあったり。実際、シロツグはのめり込みはしないが、教えの精神みたいなものには同調したようだ。どうなのだろう、宗教もこういう形で機能すれば良いのだろうけど。

アニメーションでここまでのリアリティを表現できるのかと思うぐらいに、作品全体のクオリティは高い。飛行機とか戦闘とか、極めてリアルに描かれている。その中でも特筆すべきは、シロツグの住む世界の世界だ。色彩感覚が変だというツッコミはさておき、細かいところまで描かれていて美しい。世界観は、けだるい日常を実体化させたもののようにも見える。だが、どことなくファンタジックで、意味もなく楽しそうな、ノスタルジックな良い雰囲気を醸し出している。

「日常」「怠惰」「文明」「宗教」「戦争」「産業」といったキーワードに過敏な方には、一押し。



飛行機
2000年2月6日(日曜日) くもり

飛行機に乗ると電波を出す装置は使うなと決まっているが、ラジオのような無線受信機もダメらしい。しかし、ラジオでどういう障害が生じるのだろう。ラジオから出る電波によって計器が狂うとか無線通信が不能になるとか言うけれど、本当にそこまで脆弱なものなんだろうかと、ふと疑問に思ったのだ。人が空を飛ぶという、ただでさえ危険なことをしているのだから念のための要望措置ということは分かるけれど、多少の妨害で全てが色んなものが狂い始めるような危なっかしいものだとは考えたくない。

受信機でありながらラジオからも電波は出るが、ラジオ如きから出る電波なんてたかが知れている。局発漏れの著しいラジオがあったとしても、場所は客室だ。そんなところで発生した極めて微弱な電波が、変な影響を及ぼすとは思いにくい。東京タワー近くを飛んでいるときは計器がラリったり、空港近くにキロワットオーダーのCBなんかを積んだトラックが走っていると離着陸不能になったりするなんていう話は、寡聞にして知らない。もっとも、航行中にハローCQCQなんてやるのはかなりの問題があるだろうけど。

だとすると...表向きは計器云々ということになっているけれど、これは機内における治安上の措置に違いない。根拠は無いが、そうに違いないのだ。ダイハード2みたいに、何かが著しくトラブったときに航空無線を聞いていた客がいたとしよう。機長の落ち着いたアナウンスとは裏腹に、13x.xxMHz には管制塔とは緊迫した交信が。嘘だっ! 突然そう叫びながら立ち上がった一人の乗客が、ベールに包まれた運命の真実を大告白。騒然となる機内。ある者は意味もなく叫びだし、ある者は遺書を書き始め...

というシナリオになると困るから、ラジオは使用禁止なのだ。多分。



新聞
2000年2月5日(土曜日) はれ

休日出勤。一日単位で見れば余り規則的では無いけれど、週単位で見れば極めて規則的な生活をしているお陰で、土曜日の朝は一週間分の寝不足を取り返すべく昼まで寝る癖が付いている。でも何とか身体に鞭を打って仕事。しかし、こういう日も悪くはない。電話とか事務といった妨害要因は無く、思いのほか順調に仕事が進んで明日は休めそう。毎日こういう調子だと良いのだが、零細企業に勤めていると一つの作業に専念できないことも多い。誰かがやらなくてはならぬことだ、やむを得ないことだろう。

夕方、新聞屋さんが集金に来た。ついでに、そろそろ1年契約が終わりなので契約更新を進められたが、取り敢えず保留と返答。いまは朝日新聞を購読しているのだが、どうも新聞を変えてみたいのだ。理由を問われると難しいが、強いて言えば、朝日新聞の安っぽいヒューマニズム論にも飽きてきたという点が大きい。それはそれで、記者の意図とは逆の意味で楽しめたりするのだが、もうちょっと事務的かつロジカルに書かれた記事を読みたいのだ。しかし、そんな新聞は世の中に存在するのだろうか。

友人らに言わせると、わたしが朝日新聞を読むとは意外らしい。左翼的な新聞とは、最も縁の遠い人間だろうと言うのだ。ちょっと待ってくれ。わたしが、そこまで右傾化した人間だと言うのか。それとも他に理由があるのか、よく分からん。読み始めに、特別なきっかけがあったわけではない。生まれ育った環境にいつも朝日あったたから、慣性で読むようになっただけである。そういえば、仕事で朝日を読んでいたこともあった。学校の入学試験は、何故か朝日新聞からの出題が多いのである。

新聞屋さんに言われる。新聞を選ぶのはお客様の自由だけど
読売だけは取らないで欲しいと。その新聞屋さんも筋金入りのアンチ巨人らしい。当たり前だ、まかり間違っても読売と報知だけは読むもんか。そんな話をしているうちに、朝日の販売所で取り扱っているからという理由で東京新聞と神奈川新聞を薦められた。地方紙は読んだことがないので、興味本位で1週間ほど見本を入れて貰うことにした。東京新聞は良いとしても、「横浜市立○×小学校でガラス破損」なんてローカルな内容だったら嫌だな>神奈川新聞。




2000年2月4日(金曜日) はれ

最近、役所のホームページ荒らしがクラッカー界のトレンドとなっているようだが、対象が役所となれば放っておいても警察などが大々的に動いてくれるから、お得なものだと思う。www.exp.org が同じように荒らされても「じゃ、被害届でも出してログちょうだい」ぐらいで済まされそうだ。それを元に凄い捜査が行われるとは考えにくい。理論的に可能だった望ましくないことが執り行われた結果がクラックなら、クラックに大も小も無いけれど、まあ世の中そんなものだろう。

推測だが、踏み台にされたサーバも幾つかあるだろう。調査の結果、踏み台にされたサーバのIPアドレスが出てきたりして、ある朝、捜査員が突然やってきて「おたくから○○庁を攻撃した形跡があります」と、全く身に覚えのないことを言われる。そんなことは知りませんと言っても、そんな筈はない。ここから攻撃されたことは間違いないのだと、突っぱねられるだけ。結局、事態を飲み込めないまま、言われるままにサーバなどを強制的に任意提出する羽目になった可愛そうな人も、一人や二人はいそうな気がする。

そして、後から電話がかかってくる。「そうそう root パスワードを聞き忘れました」と問われて「何ですかそれ、設定した覚えがありません」とか、マジかよ?と思わせる回答はまさか無いと思いたいが...ひょっとしなくても意外とあったりしそうで恐い。数日後、再起不能にされたサーバが帰ってきて一言。保守担当者の名刺、どこいった? 良く分からないままブームに乗ってネットワークを入れたようなところで、最初から「管理」の二文字まで考慮されていたところは、そう多くない気がする。



壊れ方
2000年2月3日(木曜日) はれ

なんど確認したところで伸びるわけは無いのに、つい納期が気になって幾度となくカレンダに目を遣ってしまう麗しき日々。きゃはははは みんな帰っちゃったよ きゃはははは と、精神半壊の声を上げながら満喫する連日の残業。いっそう、このまま壊れちゃえば良いんだ。論理的に壊れた場合、意味深合体おーまいゴッドマヨネ〜ズ逝きま〜す!! などと叫びながら窓から飛び降りたりしそうで見栄えがしない。同じいかれる運命なら、蜘蛛膜下出血ぐらいの物理的な壊れ方をしたいものだ。

そういう按配に妖精さんが目の前を飛び交う日々が続いていて絶好調である。普通の忙しさが続くだけなら別に苦ではないが、暇なときと忙しいときの差が激しい。暇なときは、さて今日は何をしながら定時まで忙しそうに振る舞おうかと悩むこともあって楽しいけれど、納期前になればこの通り。稼働率の分散化がなかなか出来ない問題は、技術屋さんに共通するところなのかも知れない。来週には暇になるはずだ。また平和な日々が帰ってくるのかと思うと、何となく寂しく思ったりするのは気のせいか。

読み直していつも思う。今日は、というより、毎日凄く下らないことを書きまくっているのだ。表向きは「日刊毒舌コラム」ということにしてあった気もするのだが、なんだか日頃から鬱積している遣り場のない不平不満をぶちまける場としても機能しているらしい。本日の内容に至っては、早い話が単なる愚痴である。これが全国に散らばる数百名の方々に読まれていると考えると何となく申し訳なく思うのだが、夢を食べたバクは食後3時間以内に愚痴を食べなければ死ぬといま勝手に決めたから、何らかの存在価値はあるらしい(無いって)。



続・CATVのスクランブル
2000年2月2日(水曜日) はれ

家に帰ってから、何となくCATVにかけられたスクランブルのことが気になって、オシロを当ててみた。はっきりいって、何も分からない。普通のNTSCコンポジット信号なら、少し見ればどれがどの信号なのか見分けられるが、スクランブルされた映像信号はノイズに毛の生えた程度の波形にしか写らないのだ。そんなに簡単ではないらしい。

テレビは、何本もの走査線で画面を上から下まで埋めてゆくことで、一枚の絵を描き上げる。そのうち一本の走査線をオシロで見たものが、この写真である。ブラウン管上に光を出すものの正体は、ブラウン管の尻尾から画面へと向かって飛ぶ電子のビームだ。このビームが画面に塗られた蛍光体にぶつかると蛍光体が発光し、光になる。走査線は、電子ビームが画面に当たりながら左端から右端へと動くことで光の線となるのだ(水平走査)。走査線の書き始めのタイミングを決める信号が、一走査線分に相当する信号の前にある水平同期信号である。

一本の走査線を描いたあとに次の走査線を描くためには、画面の右端まで動いた電子ビームを左端まで戻さなければならない。この間も電子ビームが放射され続けていれば、画面が余分な線で溢れてしまう。そのため、描画を一旦止めて電子ビームが左端へ戻す時間が必要だ。このために確保された時間が、水平ブランキングである。この辺は記憶が曖昧なのだが、水平同期信号が画面に表示されないよう、水平ブランキング期間は水平同期信号と重なっていたと思う。

NTSCはインターレースされているため、走査線を画面の上から下まで描けば(垂直走査)、一枚の絵の半分(フィールド)が完成する。要するに、フィールドとは先に説明した走査線が数百本集まったものだ。フィールドを二回描いて、一枚のフレームとなる。あるフィールドを描いたあと、次のフィールドを続けて描くためには、直前のフィールドを描き終えて画面の下まで移動した電子ビームを一旦止め、画面の上まで戻さなくてはならない。このための時間が、垂直ブランキング期間である。この期間中に垂直同期信号が出現し、この信号で次のフィールドを描き始めるタイミングを決めているのだ。

こういう風に見ると、NTSCには映像そのものと関係のない情報がたくさんある。各ブランキング期間は、画面に表示されない部分だから、ここには映像情報がない。何らかの妨害を入れられそうな場所だ。同期信号を崩すと、画面が流れたり、見えてはいけない部分が見えてしまったりする。が、これも映像情報とは関係ないので後から復元できそうだ。ならば難しくないはず...と思ったのだが,オシロがトリガすらしないので、こんな風に信号を観察することも能わず...



CATVのスクランブル
2000年2月1日(火曜日) はれ

テレビを買い換えて、ケーブルテレビのバンドも受信できるようになった。積極的にケーブルテレビに加入しているわけではないのだが、難視聴対策のため、地上波は地元のケーブル局から配信されてくるのだ。難視聴地域は、何も人里離れた田舎だけに存在しているわけではない。ここは、日本一高いと豪語するランドマークタワーが近所に聳え立っているおかげで、送信所というよりは港区にある鉄骨の観光地から飛んでくる電波が遮られているだ。

スクランブルの画像 というわけで、ケーブルバンドにおける受信状況を調べてみた。難視聴対策だからケーブルバンドはフィルタされているのではないかと思ったが、ちゃんと見られる。MXテレビと放送大学、BS1/BS2、そのほかノイジーながら謎のチャンネルがケーブルバンドで再配信されていた。BSが見られるのは少し嬉しい。そのほか、右の写真のようにスクランブルされた(恐らく有料の)チャンネルも受信できた。WOWOW のノンスクランブル放送などが見られると、なおも嬉しいのだが、この中に含まれているかも知れない。

アナログケーブルテレビのスクランブルは、少し脳味噌があれば比較的容易に解除できるかも知れない。デジタル放送であれば、放送といっても数値に過ぎないから暗号化などはやりたい放題だ。しかし、アナログの映像信号のままでスクランブルをかける場合、スクランブル方式が複雑化すればするほど可逆性が失われてしまうという問題がある。よって必然的に映像情報は原型に近いまま残っている場合が多く、例えば先の写真でも分かるとおり、トヨタのロゴがそのまま見えていたりする。

ではどうのようにしてスクランブルをかけているのか? 除去可能な妨害信号を入れてあることも考えられるが、正規の信号も壊してあるように思う。第一ポイントは、同期信号だろう。同期信号は、少々いじくっても後から復元できそうである。写真の映像を見ると、横には流れまくっているが、縦方向は安定している。水平が怪しい模様だ。絵に注目すると、トヨタのロゴが見えるぐらいだから輝度信号は正常のようだが、色がおかしい。解読の第二ポイントは、カラー信号だろう。誰か成功していない?



突撃実験室