多事毒論(2000年11月分)



紅葉
2000年11月28日(火曜日) はれ

澄み切った青空を背景に、ちょうど色づきはじめた街路樹はとても美しかった。いつも通っている何の変哲もない道路なのに、ちょっと雰囲気が変わるとそれだけで景色が新鮮に映るから不思議なものだ。この時期は、片側三車線ぐらいの比較的広い道路で、強風に煽られて舞い上がる落ち葉の動きを眺めていると面白い。ふうっと浮かんで渦を巻き、何回か同じ場所でくるくると回ったあとは、どこへとも無く消えていく。となりのトトロではないけれど、風のとおり道が視覚的に見えるというのは良い。哀愁を認めざるを得ないんだが、野郎一人でそんなものを観察している様には。

今日は八王子で打ち合わせ。その帰り、喜ぶべきか泣くべきか、時間的にもうガラガラの保土ヶ谷バイパスを走っていたら、どう考えてもブレーキの要らないところで前方にブレーキランプの点灯を認める。何があったんだと思ったら、どうやらその場所に設置されていたNシステムにビビって減速したらしいが、あれは自動記念写真装置(有料)とはまた別のもの。そういう意味でのブレーキは要らないんだから、お好みの速度で通過して良いんですけど。オービス(とか、似たようなやつ)の前方で思いっきり減速して流れを乱しているやつが時々いるけれど、何も法定速度まで落とす必要はないだろう。

詳しくは知らないのだが、最高裁か何かの判例があるらしく、40キロオーバーとか免停レベルの違反でないと、オービスによる記念撮影は不味いらしい。だったら、極端な速度で通過しない限り大丈夫だと思うんだけどねえ。実際、どのぐらいの速度が境目なのか、その免許証を賭けて実験してみないか? などとは言わないように。わたしは、飛ばし屋じゃないから。



理系的お馬鹿
2000年11月27日(月曜日) はれ/あめ

最近、突撃実験室が

「お馬鹿なページのリンク集」

みたいなところからリンクされることが多くなり、作っている当人としては、ささやかな達成感を味わっている次第である。いや、正直に言うと編纂中は至極真面目に書いているのである。何だかまた堅苦しい文章を書いちゃって、こんな睡眠薬のような文章を読んで本当に楽しいと思うヤツはいるのかと自問自答をしながら校正にかかるほど、書いている間の脳味噌は真面目に働いているのだ。後悔とも、コミカルな文章を書ける人への嫉妬ともつかない感情を抱きながら、いまさら書き直す気にもなれない文章で妥協するのは、いつものことである。

もちろん、お馬鹿なことをクソ真面目に叙述しているという言い方をすれば、確かにそういう見方もできるだろう。しかし、例えばコテコテのドツキ漫才をやろうというときに、ニュースキャスタのような口調で喋って面白いだろうか。やはり、あれは下品な大阪弁でやってこそ、コクと深みが生まれるもの。それと同じように、お馬鹿なことを表現するには然るべき方法というものがあって、坦々とした叙述文は適切ではないと思うのである。ところが、残念なことにわたしにはコミカルな文章を書けるような口でもなければ、バリバリの理系でもないので、どこかその中間の半端なところで揺れているのではないかという気がしてならない。

そんな突撃実験室に対しての「馬鹿」という評価は、「ニュースキャスタ口調でドツキ漫才をやるのも、それはそれでありでしょ」と考えることと同じように、「叙述的お馬鹿も、それはそれで面白いんじゃないの」ということ解釈することができるのだ。だから、もちろんこれは個人的にそう思っているだけかも知れないけれど、「馬鹿」という言葉には、ほかのどんな誉め言葉よりも重みを感じるのだ。てんこ盛りの憂いを抱えながらもどうにか成り立っている突撃実験室の「叙述的馬鹿」が、単に馬鹿と理系の狭間を彷徨う中途半端なものでなく、それも一つのスタイルとして認められるのなら、それはそれでありがたいことなのだ。

そんな中、まさか朝日新聞のサイトである asahi.com から突撃実験室が紹介されることになるとは思わなかった。普通に読めば、それはウェブサイトの紹介でしかないわけだが、どうもこう冷静にやられると、当人としてはむしろ示唆に富んだ話に見えてしまう。特に目に留まったのは、「インタープリター」という表現だ。事実、理屈の噛み砕きを意識して書いているときも多いのだ。しかし、そこで「どこまで噛み砕くべきで、どこは噛み砕くべきではないのか」という微妙な匙加減に悩むことも少なくない・・・ここで間違うと、とことん「中途半端」なものになってしまうと思うからだ。

しかし、本当にそれだけなのだろうか。最近のネタで特に反響が多かったのは「液体窒素でお料理」だ。今までとは敢えて「ノリ」を変えてみたことが功を奏したためと推測されるが、それはわたしにとって、とても実験的なことだった。ややこしい話は全部切り捨てて、とにかくお馬鹿に徹するというのは、実は初めてやってみたことなのだ。「うお〜」といった感嘆詞を多用したのも初めてである。元々、そういう感嘆詞を使った表現は、御茶を濁しただけの邪道な表現だという気がして、あまり好きではなかった。が、こうした結果を鑑みるに「お馬鹿には感嘆詞が不可欠」と言わざるをえないか、やっぱり。



タイトル絵
2000年11月26日(日曜日) はれ

今週の休みこそは溜まった用事を処理してやると思いつつ、やっぱり何もできなかった。んー、、なにやってたんだろ。はっきりとした用事で潰れたのなら、それはそれで仕方のないことなのだが、なんかあれやこれやと細かい用事を十把一絡げに処理しているうちに気が付いたら夕方になっていたりするのだ。そんな時間から出かける気にもならないし・・・となってしまういつものパタンだから、「結局なにしてたんだろ」という虚無感だけが後に残るのである。


「この時期に及んでも半袖なんて、あの女の子が寒そうで見ていられません」


といった心温まるものから、


「どうもミスマッチがねえ・・・」

「またかよ」

「ていうか死ね」


というように、とっても愉快な気分になれるものまで。平素より多数の忌憚なきご意見・ご感想を頂いている弊サイトのタイトル絵だが、ありがたいことに、冬バージョンを描いていただいたので、さっそく差し替えたのだ。あそこが女の子の指定席となり、そして事実、女の子が鎮座するようになったのはいつのころからだか。けっ、文句いうんじゃないよ。それじゃあ暑苦しい男の指定席にしようかなぁ? と言ったら、家に火つけにくるでしょう、やっぱり。



マルチパス障害の心理学
2000年11月24日(金曜日) はれ

電話で喋っていたら、車載テレビの話になった。

そこで、どうして走っていると車のテレビはチラチラと画面が乱れてしまうのかと、相手方が質問してきた。いや、走っているときならまだ分かる。でも、赤信号などで車が静止していても画面が乱れたままのときもあるし、こういうときは少し車を進めただけで受信状態がパーフェクトになることもあったりする。どうもこういった現象が不思議に思えて仕方がない、と相手の方は仰るわけだ。わたしの車は貧乏仕様なのでテレビなんて付いていないが、必ずラジオが入らなくなる交差点があったりとか、ラジオでも同じことが起きることがある。そういわれてみれば、原理が分からなければ妙な話である。

そういえば、わたしも中学生のころ、どこかで拾ってきたブラウン管式の車載テレビを親の車に乗っけて随分と悩んだ覚えがある。車が動き出すと、テレビの画面は乱れてしまう。原因が良く分からないまま、わたしはエンジンの点火ノイズが電源に乗っているのだろうと判断して、電源回りの対策をした。それはそれで効果があったのだけれど、エンジン回転数とともに増えるプチプチノイズが改善されただけで、ちらつきやゴースト障害は一向に改善されないのだ。アンテナを変えてみたりしてもダメ。きっと、広い世の中には電波の強いところと弱いところがあって、そもそも弱いところには、電波が来ていないんだから仕方がないと諦めた覚えがある。

何故かは分からなかったけれど、それはそれで正しかったのだ。だからアンテナを複数設け、いずれかのアンテナが電波の強いところに入っていることに期待して受信品質を改善しようという空間ディバーシティアンテナなんてものがある。色々な反射物が点在している空間においては、直接波と反射波がお互いを強め合ったり打ち消し合ったりして、空間中の電界強度分布にムラが発生する・・・とまあ、こんな具合に分かって「ああ、あれはそうだったのか」となるのだけれども、そういうときの「目から鱗」な気分というのは、単に仕事なんかで必要になった知識を一夜漬けで理解したときの気分とは、全くちがう。理解したという点では同じでも、どうしてか、爽快な気分になれるのだ。

件の電話で、それはたぶんマルチパス障害ってやつだよと、つい口を滑らせてしまった。しかし、「なにそれ?」と聞かれても、わたしは、モノを人に分かりやすく説明するのがとても苦手なのだ。頭で理解していることでも、しかし、それを人に説明できるとは限らない。ましてや、相手が電波の性質を全く理解していない人だと、そもそも電波というものをかみ砕いて説明してあげないといけない。山と谷があって、それが逆だと打ち消し合うから・・・なんて言っているうちに、つい「逆位相」なんていう言葉がでてくるのだが、専門用語の使用は無論のこと反則だ。それでは、説明したことにならないし、仮に相手がそれを理解してくれたとしても、わたしは満足できない。

物事をすかっと簡潔に説明できたときの気分というものは、お茶を濁したような説明をしたときの気分よりも、あるいは自分で理解したときの気分よりも、遙かに気持ちのいいものだ。もし、それを味うことなく事が終ってしまえば、説明の苦労は報われないのである。「技術屋には教えたがりが多い」と言われるけれど、あれはきっと、巧く説明できたときに分泌される脳内麻薬か何かに取り憑かれた結果と言えよう。なにかを質問すると、至って親切そうに教えてくれる技術屋は、実は親切心でやっているのではない。教えることによって自己の快感を得るためには、自ずと親切にならざるを得ないのだ。



ITと信頼性
2000年11月23日(木曜日) はれ

最近は、猫も杓子もIT革命がどうのこうの、インターネットで○○を・・・という話が腐るほどある。もちろん、それはそれで良い部分もたくさんあるわけだが、インターネットの悪い部分、具体的に言えばセキュリティの問題や信頼性といったことが、一般に話題にされることが少ないのはやっぱり気になる。セキュリティの問題は、まあ専門の人がどうにかすれば良いことなのでエンドユーザは気にしなくても良いのかもしれないが、やはり信頼性については心得ておくべき点もあるのではなかろうか。

今時、電話局の設備が故障して電話が一日使えなくなるということがあれば新聞に載るほどの事件になってしまうが、インターネットだとそういうこと常にどこかで起きていると言っても良い。ネットを頻繁に使っている方なら、どうも今日はサーバの調子が良くないとか、どうも昨日から海外へ出ていく経路が死んでいるといった経験があるだろう。もっとも、各通信事業者はそういったことが起きないよう努力しなければいけないわけだが、必ずしも経由する全ての事業者が信頼性に気を配っているとは限らない。

それが良いか悪いかは、別問題だ。信頼性を向上させるためには、やはりそれなりのコストがかかるわけで、そのコストは通信料金に転嫁される。考えようによっては、一秒たりとも停止してはならない基幹的なネットワークでも担えるような極めて信頼性の高いサービスを誰もが必要としているわけではないから、何か障害が発生しても直ぐには治らない代わりに安価なサービスを提供する業者があっても良い。しかし、信頼性というものは、部分的には高くても、複数のものが共同で働くときはそのうちの最低水準のものが全体の信頼性となるわけだから、どこかに信頼性のボトルネックが発生する可能性はある。

とすると、例え「障害はあり得ない」という通信事業者と契約していても、その業者とは関係ないところで障害が発生すればアウトだ。インターネットのような、複数の通信事業者間でデータを盥回しにして初めて通信が成功するようなシステムだと、そのうちのどこか一つでもコケれば、代替の経路が無い限り通信が寸断されてしまう。そういった状態で、何が悪いんだと直接に契約している業者に問い合わせてみたところ「うちでは障害は起きていない」という。調べてみると、どこかの経由点で問題が起きているようだが、その業者とは連絡がつかないし・・・結局、苦情の矛先すら確定しないまま、自然に復旧して解決ということも現実にある。当然ながら、通信事業者は、自前のネットワーク以外で起きている障害に対処できるはずもないし、その対応には消極的なところが殆どだ。しかし、それが悪いことだとは言えない。責任の範囲外で起きていることをどうにかしろと言う方が、非常識である。

それを許せるか? 日本人には、どうも信頼性を過剰に求める傾向があり、それはそれで良いことでもあるのだが、神経質になりすぎるのも考え物だ。インターネットがチヤホヤされるのは、安価な通信料金で全世界に対するネットワークが持てるという点だ。安いってことは、合理的に作られているということ以外にも、ほかのより高価な手段よりも信頼性が低いということもできる。例えば電話代が高いのは、ある意味では極めて信頼性の高いネットワークを全国に張り巡らせているからで、1日ぐらい電話が不通になることも許せるのなら、電話料金を半額にすることもできると思うのだ。「この書類をどうしても今日中に送らなくては」なんてときもあるだろうが、それが不可能であるかも知れないことは、インターネットというそもそも脆弱なシステムを使う以上は、意識として持っておくべきではなかろうか。



ばうう
2000年11月20日(月曜日) あめ

アメリカ人って、票の数も数えられないんだって。さすがは、科学技術の国。

雨の中、朝から東京出張。といっても、横浜からだから出張にもならんが。東海道本線は「前の電車が詰まってて信号が赤です」という情けない理由で遅れまくるわ、濡れるわ、寒いわ、眠いわで、まあロクなことがない。来月からは、1週間ぐらいの出張が入りそうな気配。ついでに仕事もそっちのけで温泉にでも浸かって・・・という感じののんびりとした日程には、とてもではないが転びそうにない。それじゃあ、面白くないんだよな(いかにしてサボるかということばっかり考えていたり)。



散髪
2000年11月18日(土曜日) はれ

久々に晴れ間を見た気がする。秋晴という現象は、どこへ行ってしまったのやら。

久々といえば、1年近く行ってなかった床屋へ行った。随分とご無沙汰していたが、顔は覚えていたようで「あら、お久しぶり」と、床屋のおばさん。前髪は自分で切っていたからさほど伸びていなかったが、後ろ髪は自分では切りにくいので肩まで届くほどあった。「ばっさり切っちゃって」というと、床屋は「本当にいいの?」と、何だか躊躇いがち。いいのいいの、半年前から床屋へ行こうという意志は持ちつつも、何だか面倒臭くて無精でこうなっただけなんだから。恐らく、久しく床屋をやっていると、訳あって髪を切りにくる人もいるのだろう。鋏を入れた瞬間、何かと訣別するかの如く啜り泣く人もいるのだとか。

切り終えると、床に落ちた毛髪を指差しながら、床屋のおばさん曰く「これ、普段うちで出る三日分ぐらい」。見ると確かに凄い嵩だ。ここまで一気に切ると、切る前は邪魔だとすら思っていた髪の毛が何となく勿体なくも思えてくる。そういえば、毛髪は人間にとって重金属の最終処分場である。例えば、ヒ素の中毒になると、そのときに生えた髪からは多量のヒ素が検出されたりする。ヒ素なんかあっても嬉しくはないが、あってうれしい重金属といえば金とか銀とか。そこら中の床屋から髪をかき集めれば、ちょっとした量が取れるかも・・・髪を切ったことを忘れた頃、鏡に映った自分を見て、一瞬「誰だお前!?」と叫びそうになった。雰囲気、極端に変わりすぎ。

必要に迫られ、スーツを買った。滅多に着ないからスーツらしき物体であれば安いので良いやと思いつつも、この生地もなかなか良いな、とか何とか言ってるうちに高い買い物をしてしまった。年に何回か着るか着ないかのものだ。わたしは内勤が主なので、普段はどんな格好で仕事をしていても良いんだが、ごくたまにあるお出かけのために自腹でスーツを買う羽目になるとは、これ極めて業務上の経費だ。けれども、サラリーマンってのは、こういう経費が税制上認められないから辛いよねえ。



運賃表
2000年11月16日(木曜日) くもり/あめ

JR東日本の駅に掲示されている運賃表に、間違いが次々と見つかっているとか。ダサすぎ(苦笑)

まあ、日本中には星の数ほどの運賃表があるのだから、そのうちの一カ所や二カ所で間違いがあったとしても驚きはしないけれど、これほどの数になってくると一体どういう管理をしていたのか不思議になってくる。安全の水準は誇るべきところにあると思うけれど、運賃表の確認が ATS を切って赤信号を突っ切るぐらいに危険なレベルでは、やはりダサすぎるわな・・・

ところで、広い世の中にはあれだけの運賃表が存在しており、世の中には「指摘大好きさん」がたくさんいるのに、どうして数年間に渡り誰も気づかなかったのかが不思議なぐらいだ。「間違い探し」を趣味とする人も世の中にはいるし、JRの運賃計算規則のうち主なものは時刻表に掲載されているので、自分で計算した運賃との相違に気づくこともあり得る。ならば、もうちょっと早く判明していそうなものだけど、「運賃表なんか誰が信用するか!」といって絶対に自分で計算するような、よほど捻ねくれた人でないと気づかないかな、やっぱり。

しかし、いくら運賃表が間違っている可能性があるといっても、現実には客として業者が提示した料金は正確なものと信用して払うしかない。いや、駅の運賃表のように、公衆に対して掲示されているものならば、もし間違いがあったとしても誰かが指摘できるから良い方だ。暗黙のうちに料金が計算されるものは、単なる間違いであれ意図されたものであれ、不正を発見するのは難しい。もし、電話通話料の課金が正しくなかったとすれば? もし、1リットルあるはずのガソリンがそれ以下だったとしたら? もし、タクシーのメータが狂っていたとしたら・・・

疑っていけばキリがないけれど、信用するしかない。



臥虎藏龍
2000年11月14日(火曜日) くもり/あめ

ここんところ全開で忙しかったので、今日は仕事も適当に切り上げて息抜きがてら映画鑑賞。台湾映画(あるいは香港映画?)なんかも面白いんじゃないかと思い、「グリーン・デスティニー」を観たのだ。中国語の原題は、「臥虎藏龍」だ。原題も漢字で表示できたことは、ちょっと驚きである。

誰もが絶賛するような作品でないことは断っておくが、わかりやすくて肩の凝らないエンターテイメントとして観るならば、なかなか良く作った作品で、わたしは素直に楽しめた。敢えて指摘するならば、アクションシーンはドラゴンボールさながらにマンガチックで、どこかチャチっぽいトリックを観ているような印象は否めない。ストーリも「許されぬ愛」や「政略結婚」とか、もはや手垢で薄汚れたネタのオンパレードである。あら探しをすれば幾らでもボロが出てくるのだけれど、香港スタイルというか、ここまで吹っ切れているとそんなことは気にもならない。

字幕を追う作業さえなければ、もうちょっと落ち着いて観られたと思うんだが・・・言葉が分からない、というのはやはり相当なハンディだ。日本語や英語なら良いのだけれど、本作品のように中国語で喋られるとさっぱり分からないから、どうしてもチンタラと字幕を読む羽目になる。どうやら、わたしの脳味噌は文字を読みながら映像も観られるマルチタスク仕様には出来ていないらしく、背景の美しいカットが出てくると(けっこう多いです)、つい景色に見入ったりして台詞を逃してしまうのだ。でも、一番おもしろくないのは、ギャグってる台詞で笑えないことかな。



甘党伝説
2000年11月13日(月曜日) はれ

うおりゃー サボりまくりだ・・・

最近、仕事が午前様になることも多いので、一緒に仕事をしている会社の人と夕食をともにすることも時々あるのだが、わたしの甘党伝説が有名になりつつある。食後、年甲斐もなく一人だけ馬鹿みたいに甘いものを注文するからだ。ある人が、こう呟いた。「くぬぎざさんちの冷蔵庫、見てみたいねえ」。それに対して「ああ、色々とストックしてますよ、こういうの」と、わたくし。事実、スーパーで売っている100円〜200円程度のゼリーとかプリンとかフルーツ系の甘いものを絶やしたことはない。

よく、冷蔵庫を開けたらビールばっかり入ってるという話があるけれど、あれと同じことなのだ。晩酌で「ぷはー」っと、やるときがあるだろう。ところが、わたしは酒を飲まないので、代わりに甘いものを喰うと。それはこういうわけなのである。多くの人に、「それとこれとは、話が根本的に違う!」と反論されるが・・・そういうものか?



青い粒
2000年11月9日(木曜日) あめ/くもり/はれ

お菓子なんかに入っているシリカゲルを見ると青い粒が1割ぐらい入っているんだが、昔から、どうして青い粒が必要なのか疑問に思っていた。聞けば、あの青い粒はシリカゲルが湿ってきて使い物にならなくなったことを示すためのもので、湿ると赤い色に変わるそうなのだが・・・古いシリカゲルを見ても、やっぱり青い粒は青いままだ。赤い粒のシリカゲルなんて、見たことないんだけども。

そういえば、洗濯に使っている洗剤にも微量ながら青い粒が混じっている。主として白い粉の中に青い粒がパラパラと。たとえそれが単に白い粉を青く着色しただけのものであり、実際の効果は白い粉と何ら変わらないとしても「この青いやつが洗浄力の源だ!」と言われると「はは、そうかな」なんて気がしないでもない。そこだけが青いというだけで、何か特殊であることを体現しているようにも思えるし、憎たらしくもちょっとだけ混ぜてあるということは、つまり「高価だから大量には入れられないけれど、少量でも多大な効果がある」ということを示唆しているのだと。

そういう心理的効果を狙ったものは、よく考えたらけっこうある。下らないことだけど。

ある基板の動作チェックをすると・・・これがまた動かない。製造不良だ。お陰で、0.5mm ピッチの TSOP の足に電線を半田付けするという、ちょっと面倒くさい尻拭いをする羽目になった。が、ここ暫くはソフト屋さんモードだったためか、久々に半田ごてを握ってみると一枚目が全く上手くいかない。プロの仕事とは思えないほど、フラックスまみれにしてやっと完成。手先が要領を思い出すまでには、やはり暫くかかるらしい。二枚目からは順調にいくのだけれど、慣れてくると、また作業が雑になる。半田付けもミクロンオーダの精度でやっていると、さすがに集中力が続かないようだ。



ぎゅーひ
2000年11月7日(火曜日) あめ/くもり/はれ

今日はやたらと道が空いていた。嬉しい・・・のか何だか、早く現着しすぎるのも芳しくない。

ある人の誕生日プレゼントにちょうど良いと思って、スーパで買ってきた寒天をシャーレの中に流し込む。ほほう、俺様に贈り物を要求するとは、良い度胸。「ならば絶対に後悔させてやる」と言い放った以上は、それなりのものを差し上げるのが礼儀というものだ。しかし、標準寒天培地なんていう良いものではない。食用の寒天を水道水で溶いて、いつぞやに使って余っている酵母エキスと普通の砂糖をぶち込んだだけのもの。これに適当な菌(手垢とか)を付けておいて、ビデオデッキの上に置いて暖めて。むっちゃ適当だ。そんなことで、育つんだろうか?

東急ハンズの食材売り場で「牛皮」なんてものを見つけた。え、牛皮? そんなもの食えるの? ここ、食材売り場だよ? クラフト材料と間違えてるんじゃないの?

しかし、商品には間違いなく「牛皮」と書いてあるし、「餡蜜などに」と具体的な使用例まで書いてある。疑問に思いながらも、その「牛皮」をよく見ると、確かに餡蜜の上に乗っかっている餅みたいなやつで、食べたこともある。しかし、牛皮といえば靴とか鞄の材料である。そういう類のものを今まで食っていたのかと思うと、なんだか複雑に気分になった。やっぱり、靴とか鞄に加工される部分は堅くて食えないだろうから、キンタマの皮とか、牛の皮でも特に柔らかい部分を「餡蜜の牛皮」にしているんだろうなと。

笑われるだろうけど、そのときは真剣にそう考えた。わたしの頭では、それ以外に「餡蜜の牛皮」という存在を合理的に説明できる仮説を考えることができなかったのだ。家に帰ってから調べてみて、やっと目から鱗が落ちた。「牛皮」は単なる当て字であるらしく、本当は「求肥」と書いて「ぎゅうひ」と読むそうなのだ(その字もなんか嫌だけど)。原料は白玉粉と砂糖、牛の皮でなくて良かったなあ。本当に。



更新報告
2000年11月5日(日曜日) はれ

実験室に、A7V を FastTrak 化するを追加。実をいうと未完成なのだが、このまま暖めていても解決しそうにないので、取り敢えず中間報告として公開することにした。内容的には、先週書いた AWARD BIOS を解析する に続く感じで、またもや技術屋オナニー系...次こそ、軽いのを書きたい。

この記事を書くための文献を集めるために国内外の検索エンジンを幾つも使ったのだが、今回は余り役に立たなかった。「○○を△△に改造したら××になった」という改造記事は探せば幾らでも出てくるのだが、既に出ている結果を再報告しているようなものが大半を占めるため、参考程度にしかならないのだ。改造して結果が出ても、なかなかその根拠にまで突っ込んで書こうとする人は少ないのかな? それにしても今回のネタみたいに少し詳しく書くと、メーカから苦情とか訴状が来そうな感じが・・・くわばらくわばら。



かまた祭
2000年11月4日(土曜日) はれ/くもり

東京の蒲田にある某工学院専門学校の学園祭に行ってきた。

会社の同僚が行っていた学校で、その関係でわたしも「卒業生」という顔をして行ったのだけれども、想像していた雰囲気とは全く異質の空気が漂っていて驚いた。誘ってくれた会社の同僚も電気屋だし、工業系の専門学校だから、いわゆる「技術屋的オーラ」をプンプンと漂わせている人がいっぱいいると思っていた。ところが、現場に着いてみると、どこか「コミケ」に通じる空気が漂っている。特に、生徒さんと思われる女の子を観察していると、アニメオタクに見られる極端なファッションセンスが目立つ。

話を聞くと、最近は弱電系の学科が流行らなくて一線を退いてしまい、代わりに「マルチメディア科」とか「アニメーション科」といった学科がボコボコと誕生したのだそうだ。いつのまにかエンジニア養成学校がクリエイタ養成学校になってしまったというところなのかな。まあ、ソフト的な部分で競うのが趨勢のトレンドと言えば否定できないから、どうしてもそういうところに光が当たる傾向は分からないではない。ちまちまと半田付けする作業と、派手なCGを作る作業とでは、後者を魅力的と感じる人の方が殆どだろうから。

でも強電な方面は人気があるらしく「落雷実験」を見せてもらって感動。高電圧実験室(地下のめちゃくちゃ怪しい場所にある)みたいなところに 120万ボルトを作る設備があり、これで作った電圧をマネキンに放電させるというもの。「ぶばぁちぃっ」というような大音響とともに青白いアークがマネキンに飛ぶのだが、あれを食らった確実に死ぬと思った。落雷は一瞬だけなので「ひえっ」と思って終わりなのだが、より低圧(といっても20万ボルト)で、二本の銅線の間を暫く放電させるというデモもあった。アークが生きてるみたいに、うにょうにょと動いて可愛いのだ。うにょ〜、テスラ万歳。



ロトの紋章とか
2000年11月2日(木曜日) あめ

殆ど現実逃避モードで「ロトの紋章」を読む。なんか懐かしいよな、これ。

漫画でも小説でも、「愛」やら「勇気」やら「友情」といった類のがテーマとなっている作品を読むたびに、よくまあ、あそこまで「クサイ」台詞を恥ずかしげもなく書けるよなと思うのだけれども、書いている本人がどう思っているのかが。凄く気になるところなのだ。鉤括弧を使うたびに歯が浮いているんではないかと想像されるのが、あるいはそれも仕事だと割り切れば、そういう感覚も麻痺するものなんだろうか。わたし自身はそうなのだが「これが金を稼ぐ」と思うと、細かいことはどうでも良くなるってのはある。

例えば戦いを前にして、

ぼくは・・・ぼくの仲間と 死んでいった愛すべき人々の想いのために・・・勝つ!!

なんて台詞が出てくるんだけども、まあ心で思っている分には美しいのかも知れないが、これを文字で書いてくれるとやっぱり気持ちが悪いものがあるのだ。嘉門達夫風にいえば、「あんた言えますか? そんなこと言えますか?」って感じに。でもまあ、そういう台詞も

所詮は愛だの友情だの くだらぬしがらみのために戦っているというわけだ

と、悪いヤツがにべもなく切り返すための前置きだとすれば、必要なんだけど。

向こう見ずに突っ走っるホットなキャラクタがいるからこそ、わたくしの大好きな冷徹で極悪非道な悪役キャラクタがいい味を醸し出してくれると言えるのだけども。そのくせ、どういうわけか最後には友情といった精神論なんかでどうにかして勇者様が勝ってしまうから、納得がいかない。精神論には頼らず、卑怯な手も平然と用い、良否はともあれ合理主義で攻めた側が勝つのが世の中の仕組みってものなのだ。現実には、一筋縄では解決し難い問題には正面からかかっても自滅するだけで、搦め手から奇襲した方が解決になるものである。

凄く夢のない話だけれど、億分の一の確率に賭けながら苦労の末にようやく勝ち、その過程を美とするよりは、明らかに有利な状態にある側がスカっと気持ちよく、過程はさておき結果オーライで勝つ方が性分に合っているのだな。ちゃちゃっとね、ちゃちゃっと。

で、戦いを終えた勇者様って、次は何を生き甲斐とするのだろう。農業? それとも宗教?



突撃実験室