多事毒論(2000年12月分)



ありがとう
2000年12月31日(日曜日) くもり/雨

月並みですが、今年一年間、多事毒論をご愛読いただきありがとうございました。

去年の年末も紅白歌合戦を見ながらこれを書いていた記憶があるのだが、とても一年も前のことだとは思えない。今年は、仕事が忙しかったせいか、それともほかに理由があるのか、一年はあっという間だった。色々なことがあったと言えばあったような感じもするし、これといって何もなかったと言えばなかったような感じもするし。結局、惰性で過ごしたという言葉が最も似合う一年であったと思う。

現時点では、あと1時間もしないうちに21世紀に突入するわけだが、世紀の変わり目に立ち会っているという実感はない。だれかの歌の歌詞に「21世紀は目前なのに、車は今でも地上を走ってる」というような感じがフレーズがあったけれど、その通りなのだ。わたしが小さかった頃の21世紀像では、車は空を走っているはずだったのに、そんなものは実験段階ですらない。物心が付いた1980年代からの時代の変化を振り返ってみると、この20年間で大幅に進歩したものは、むしろ形の無いもの・・・情報技術ぐらいだろうか。

ちょうど一世紀前の、1900年から1901年への移り目に立ち会った人は、どのような感想を持ったのだろう。地域によっても時期は前後するだろうが、大まかに言えば産業革命がどうのこうのと言っていたころ時期だろう。アルビン・トフラー的に言えば、それが「第二の波」。そしてその流れからすれば、いま我々が目の当たりにしているのは、情報革命、すなわち「第三の波」である。第二の波によって、人類は物質的な豊かさを手に入れた。第三の波によって人類が得られるものは、一体なんなのだろうか。

それが、余暇やゆとりといった精神的な豊かさであればと、切に願う。もっとも、「第三の波」に関係する職業に就いている限り、望みは薄いようだが。



冬コミ
2000年12月30日(土曜日) くもり

二日分連続更新。冬コミへ行くのだ。朝から行くつもりだったのだが、昨日からの体調不良の影響か、身体が怠くて起きたら14時前だった。そんな時間から行ったところで仕方がないと言えば仕方がないのだけれど、行くと言った以上は、顔だけでも出しておくことにする。知ってる人で朝の6時ぐらいから出ていった人が一人いるのだが、みんな気合い入ってるよなあ・・・

何を血迷ったか、コミケ60(来年の夏コミ)の参加申込書を買ってしまった。そんなものを買ってどうするんだ? と言われそうだが、ある人から突撃実験室で何か出してみるのも面白いんじゃないかという提案があって、確かに面白そうなので、来年の夏コミにサークル参加する・・・かも知れないのだ。まだ決定じゃない。ネタがあって、予定的にも難がなく、そして最大の条件として、わたしの踏ん切りが付けばの話だが。さてさて、どうなることやら。



横浜へ
2000年12月29日(金曜日) くもり

更新が途絶え気味で申し訳ない。横浜の自宅に戻ってきた。

午前中に大阪を出る予定だったのだが、思いっきり体調を崩してしまい、とてもではないが横浜まで身体が持ちそうになかった。朝起きたときから何だか変な感じだったのだが、そんなことも言っていられないので取り敢えず食事を摂ると、さらに気持ちが悪くなって嘔吐。飲み過ぎたとか、原因が明らかな場合を除けば、今まで吐いたことなんてない。こりゃ相当に危険な状態かも知れないと悟って再び寝たら、夕方になってしまった。

まったく、肝心なときに何をやってんだか。徹夜でカラオケしたりとか、ここのところやや無謀な生活が続いていたから、その影響も少なからずありそうだ。もう若くないということなのか、まあ周りの人間に言わせれば十二分に若いらしいのだが、昔ほど無理が利かなくなってきているような気がする。そんなわけで寝たら幾分だが体調も回復したので、新幹線に乗って横浜へ戻ってきた。なにか食ったらまた吐きそうな感じだったので、お茶と気力だけで来たのだけれど、食えないってのは辛いねえ。



うむ〜
2000年12月26日(火曜日) 寒い@大阪

いろんな人と会い、いろんなことをしゃべる。何をしゃべったのかは、はっきりとは思い出せないのだけれど、それでいいのだ。奥深い話ほど、直ぐには理解しがたいものであるが、それは時間をかけてゆっくりと咀嚼し、熟成させながら理解してゆくだけの価値があるからだ。ただ、その過程で話の肝心な部分が頭から抜けてゆかないよう、努力する必要はある。漠然とした何かを文章に書き記し、備忘録を作成すると同時に内容を弁証学的に濃縮することが一つの方法であるならば、わたしは多事毒論を一生書き続けなければならないかも知れない。

考えることは好きだ。無意味で非現実的なことだとは分かっていても、抽象的で直感的には理解できないものを、人間が認識できる形で表現しようという試みが好きなのだ。物質的な豊かさが既にある状態において、次に求めるべき豊かさは、精神的なものだと思っている。という大げさな言い方をすると、哲学者気取りと言われそうだけれど、それほどのことでなくても良いのだ。たとえば、なんでも金に換算して考えることはとても悲しいことだと思うし、その金を生むための過剰な労働も、必ずしも美徳だとは思えない。

当たり前だが、金も労働も必要じゃないなんていう極論を言うつもりはない。要は程度の問題というわけだが、分からないのは、そこで次に発生する「どの程度ならば適切なのか」という問いに対する答えだ。いまの日本人にはゆとりが無いなどと言われているが、じゃあ我々は過剰に労働しているのかというと、そう簡単に割り切れるものでもないと思う。統計の数字だけが現実を示しているわけじゃない。ある見方では、日本人は働きすぎているような気もするけれど、意外と暇な国民なのかなと思うときもある。いったい、どっちなんだろうか。



忘年会
2000年12月24日(日曜日) はれ@京都

京都で友人らと忘年会。主催者によると、これはクリスマスパーティも兼ねているそうなのだが、感情的な問題もあり、どうもそのことを認める気になれない。あくまで、これは忘年会なのだ。12月24日の夜に男4人で居酒屋に集まって、馬鹿話に花を咲かせるような形式のクリスマスパーティなど、断じてあってはならないのである。やはりというか、周りの席を見回すと(というか京都中が)アベックだらけだ。くそったれ、上等じゃねえか。こちとら男4人の忘年会、楽しませてもらうぜ。

というような敵意の現れなのか、とにかく話題がお下劣な方向へと進む。うんこの話とか、宴会でリッパナモノを丸出しにしてみる話とか、とにかく真っ当な題材が殆ど出てこない。それも必要以上の大声で露骨にシモのお話をしているものだから、かなり顰蹙を買っていたような気がする。普段なら誰かが制止にかかるところだが、今日に限っては「周囲の雰囲気など誰が気遣ってやるものか」という暗黙のコンセンサスがいつのまにか形成されていたようで、絶えず周囲のアベックに睨まれていたような・・・

ところで、飲み会の席では、大抵わたしが最も下品というか露骨である。文字を伏せてみたり、忌憚した言い方は、滅多にしない。敢えて使うとしても、それはいずれ飛び出るであろう言葉をよりインパクトの強いものにするための伏線に過ぎない。最後には、必ずそのもをずばりをストレートに示す表現が登場するのだ。しかし、今日もいつものようにウーロン茶しか飲んでない。ヤツだけには酒を入れるな、と言われる所以はここにある。言葉による表現は、すっぴんでも限界までやっているのだ。

アルコールの作用により次なるフェーズへ転移したときには、もう体で(以下略)



新世紀
2000年12月23日(土曜日) はれ

年賀状を書いたり年賀状を書いたり年賀状を書いたり(以下略)していたら、朝になってしまった。年賀状はもっと前に買ってあったのに、書く暇なんか全くなく、突貫集中工事となってしまった。わたしは手書きしているので、プリンタにセットしたら後は紙切れに対処するだけというわけにもいかない。いまや年賀状など機械に書かせるのがトレンドとなっているが、うちにはプリンタという文明の利器がないので、そういうわけにもいかないのだ。年賀状作成の省力化とペーパーレス化は、相反する課題である。

ここのところ「思えば20世紀も・・・」とか「21世紀まで・・・」なんていう出だしが定番となっているが、わたしは、暦の問題に過ぎないことを何らかの区切りとすることが無意味と思えて仕方がない。実際に意味深い出来事を転機と見るのは良いかも知れないが、便宜上設定されている暦を区切りと捉えることは、暦とは非同期な位相で波打っている人生という現象には馴染まない。20世紀が終わって21世紀が始まるというのは暦の上では紛れもない事実だが、だったらどうだというのだ、って感じなのだ。

それでも人間には、ある年に発生して未解決のままになっている問題は、その年のうちに片付けておき、できるだけ真っ新な状態で新しい年を迎えたいという本能があるらしい。それが新世紀ともなれば、なおさら綺麗な状態で始めたいと思うものなのだろう。言い換えれば、それはある種の自己リセットみたいなことになっているわけだ。いやはや、そんなことで解決し難い問題が整理されれば苦労はないのだが、そう考えると何となく整理された気分にはなれるから不思議なものである。

最近は「20世紀には、こんなことがありました」みたいな過去形の論調で進められるテレビ番組がやたらと多いが、確かにそういうのを見ていると、問題だらけだった20世紀が終わり、来るべき21世紀がより良い世紀になれば良いなという願いみたいなものが伝わって来る。しかし、そういったまとめ方は、未解決の問題は取り敢えず差し置いて、既に解決済みでそろそろ結晶化しているようなことだけを取り上げ、なんか区切りがついたような感覚を擬似的に作り上げているだけではないのか。

敢えて世紀の変わりを区切りと見て、新世紀の抱負を語るのなら、逆をやらなきゃダメだろう。



i-Mode版多事毒論
2000年12月22日(金曜日) はれ

今日は会社の忘年会。わたしは基本的に酒は飲まないのだが、半年に一回ぐらいは焼酎のお湯割りを頂いてみるのも悪いものではない。しかし、仕事が終わったのは23時ごろ。それから始めたもんだから、今日も帰りは午前様である。今週は、一度もまともに寝てないという・・・・明日から冬休みという事実に感謝するしかない。

「i-Mode版多事毒論」なるものを作った(http://www.exp.org/remark/i/)。実は、以前にわたしが P502i を買ったとき、こんなものでも携帯電話で読めたら暇つぶしぐらいにはなるかも知れないと思って i-Mode 版多事毒論の準備を進めていた。ところが、変換スクリプトを半分ぐらい完成させたところで自分が飽きてしまい、完成半ばで放棄してしまったのだ。そんな折り、「i-Mode で読んでます」というメールを頂いた。そしてそれに触発され、作成途中で放棄されていたスクリプトをある程度まで完成させてみた次第なのだ。

一日分の記事を見るたびに一ヶ月分の記事が送られてくるようでは、ドコモが儲かりすぎるので、面白くない。そこで、このファイルを解析して一日分の記事だけを抽出し、不要なタグを取り除くなどして再整形するようなスクリプトを作ることにした。しかし、このHTMLは普通のテキストエディタで手書きしているだけなので、機械的な処理で抽出するためには、手書き特有の問題に対応しなければならない。今年からは機械的な処理を行いやすいように考慮した構文にしているが、それでもミスもあれば揺らぎもある。

そんなわけでパーサの作成にはちょっと苦労したが、取り敢えず実用に耐えうるレベルにはなっていると思う。というわけで、使う人は使ってください。



3億円
2000年12月20日(水曜日) くもり

くそ忙しい。もうキャパオーバーも良いとこだ。

年末ジャンボ宝くじを10枚買ったのだけれど、なんか買うたびに3000円をドブに捨てているような気がする。結局いつも、ほとんど残念賞である下一桁一致の300円が当たるだけなのだ。商店街の福引きで、ティッシュとか商店街限定のけちくさい割引券をもらうよりも虚しいものがある。ある知人は、真剣にパチンコをやった方がよほど金になると指摘する。確かにそうかも知れないが、わたしは一カ所に座って同じことをやっているとイライラする方だから無理。台が爆発するまで待てない人に、パチンコは向いてない。

しかし、もし仮に3億円が自分の手に入ったら? そう考えてみると、意外と使い道がない。わたしは、どちらかと言えば質素というか、合理的な生活を好む方なので、必要最小限のものが揃っていれば何の不満もない。むしろ、それ以上のものが揃っていることは、不合理に思えて仕方がないのだ。自慢ではないが、その合理主義ゆえに下着などは多少破れていても平気で着ていたりする。下着なんて人に見られるものでもないし、極端な破損が無ければ自分自身も困らない。とすると、多少の破れで新しい下着を買うことは、合理的ではないのである。

従って、その3億円が生活レベルを向上させるために使われることになるとは思えない。必要以上に金がかかるゴージャスな生活というのは、すなわち不合理な生活なので、生活は合理的に行うべきだという主義とは真っ向から相対立するのだ。宝くじに当たると、人が変わるという話を聞くが、わたしはどう想像力を豊かにしてみても、自分が宝くじの当選金でやたらとゴージャスな生活をして、当選金がすぐに消えてしまうような過程を、どうしても思い描けない。普段からやっていることよりも凄いことをして、何か得るものがあるというのだろうか。



帰宅・・
2000年12月17日(日曜日) 雨@横浜

横浜の自宅に帰宅した。

一週間分の郵便物に目を通していると、一通の喪中葉書が目に留まった。わたしの人格形成に深く関わった恩師の一人が、亡くなられたとのこと。自分の意志のままに行動する人で、常識的な行動規範を持つ者からは、型破りというか、下手すればそんな次元を通り越し、単に無茶苦茶な人間だという一言で片づけられていた気がする。そんなわけで敵も多かったようだが、逆に色々な意味で問題の多い人間には良く慕われる人だった。

収まるべき枠の中にどうしても収まらない人間ってのは細かな矛盾に敏感なもので、口では綺麗なことを言いつつ、一方で枠というものを重んじる人間は、まず信用しない。出る杭は打たれる、ということを身を以て体験しているので、そう簡単に人の言うことに耳を貸していては、とてもではないが世の中なんてものを渡っていけないからだ。当人が無茶苦茶であるがゆえに、無茶苦茶な人間と歩調を合わせてくれる・・・というより、素でそういう歩調だった人が亡くなられたことは、とても寂しい。

昨日は、実家の車を借りて大阪市内まで行き、その帰りは京都の烏丸今出川へ来てくれと言われたので、名神の京都南で降りた。そこから四条大宮までは良かったのだが、その先で迷う迷う。京都市内の道路は概ね碁盤の目になっているから簡単だろうと高を括っていたのが敗因だった。どうして、いきなり斜めに貫く失礼な道が登場するのかねえ。仕方がないので電話で道案内をお願いすると、メールで詳しい道案内が送られてきたのだが、通りの名前のオンパレードではないか。

余所者には、通りの名前を言われても、その通りがどこにあるのかが分からない。通りの名前と位置関係を把握していないと、京都では行動できないらしい。しかし、いけずな運転してるよなあ、京都人って。



何となく実家へ
2000年12月15日(金曜日) 概ね晴れ@山陽新幹線沿い

やっと出張の日程を消化した。今日のお仕事は思いのほか順調に終わり、昼過ぎには任務完了。というわけで、帰路に就くのだ。しかし、せっかく来たのだから真っ直ぐ帰るのも勿体ない。少し寄り道することにした。まずは、姫路で途中下車して、暫く会っていない友人と食事。それから実家に寄ることにしたのだけれど、着いたのは23時前。なんかもう、どっと疲れた。やっと終わった、という安堵の気持ちが、どういうわけかとてつもない疲労感へと昇華されてゆく。

寄り道をするときは途中下車をするとお得で良いのだが、新幹線の特急券は途中下車が利かないので、こういうときは辛い。指定席特急券なら分かるが、自由席特急券なら途中下車させてくれても何ら問題ないんじゃないのかねえ。しょうがないから、とりあえず広島市内→横浜市内の乗車券を買う。さらに広島から姫路までの特急券と新大阪から新横浜までの特急券を買い、姫路から大阪までは新快速を使った。まあ、わたしの知識ではこの方法しか思い浮かばなかった。もうちょっと良いやり方は、ないものだろうか。

というわけで、最近恒例(?) の下らない写真集。




光学マウス
2000年12月14日(木曜日) くもり@広島

お好み焼きを食べる。広島に来てお好み焼きとは月並みにもほどがあるというべきだが、なかなか美味しいのだ。そういえば、高松にいたときは毎日うどんを食べていた。これまた高松で讃岐うどんとは月並みだが、兵庫町の商店街にはセルフサービスのうどん屋がやたらと多くあり、かけうどん小が150円前後と非常に安いので昼飯にはちょうど良いのだ。500円もあれば、腹一杯食べられる。最初のうちは良かったが、しかし毎日となるとさすがに飽きが来る。もう、うどんは暫く食いたくない。

携帯用のマウスが欲しくなった。わたしのノートパソコンにはトラックボールが付いているのだけれど、操作性はネズミ型の方が断然に良いのだ。何となく見つけたパソコンショップに入って見ると、まあいろいろな種類があることあること。最初は安いやつを買うつもりが、ちょっと欲が出てしまい3980円の光学マウスを買ってしまった。ちょっと贅沢しすぎだが、ノートパソコンを使用する環境を考えると、必ずしも平らな机の上でマウスを操作できるとは限らない。ならば、膝の上でも使える光学マウスが良いだろうと思ったわけだ。

モバイルに外付けマウスはちょっと邪魔だと思ったが、やはり使ってみると凄く便利だ。ホイールも付いていて、こいつは重宝する。家や職場ではホイールマウスを使っているおり、ホイールを多用しているわたしは、これがあるだけで嬉しいのだ。ところで、光学マウスというと昔のSunに付いていたようなやつを連想してしまい、使うときは細かい升目が印刷された専用のマウスパッドがいるというイメージがあった。最近のやつは、服でも素肌でも大丈夫(鏡はダメだった)、便利な時代になったもの。



広島へ
2000年12月13日(水曜日) くもり/はれ@広島

さらば高松、明日からは広島でお仕事なのだ。いまをときめくITの要である通信機器の設置設定作業。そういう言い方をすれば聞こえは良いが、ITなどという言葉が持つ美しいイメージとは裏腹に、やっていることは要するに肉体労働である。ラックにUPSを入れたり、サーバを入れたりと、そんな作業で腰が砕けたころに、一括りには配線作業と称されるインシュロックとのバトルが待っている。「やったるで」という意気込みで羽田を飛び立ち早四日、既に目の回りには隈が現れつつある。

ラックの配線作業など、極言すれば誰にだってできる作業だ。配線表も準備されているので、ケーブルの繋げ方が分からなければそれを見てもいい。しかし、配線作業こそ配線屋の腕の見せ所でもある。滝のように流れ落ちる無数のケーブルをいかに上手く束ねて整理し、美しく見せるのか。こういった部分に、作業員の性格が顕著に現れる。雑な人がやれば、アナーキーに縺れまくったケーブルにも疑問を感じないだろう。まめな人なら、本能的にインシュロックで束ねたくなるはずだ。

わたしの配線は美しい部類に入ると自負しているが、やはり上には上がいる。神業のように綺麗な配線をする人、どうやっているんだろう...

四国フェリー
というわけで、今日は広島への移動日である。高松から広島へ行くときは瀬戸大橋線のマリンライナーで岡山まで出る方法が一般的だが、それでは当たり前すぎて面白くない。同行者も瀬戸大橋は飽きたという意見だったので、高松から宇野までフェリーで行くことにした。どういうわけか高松宇野間の航路は3事業者が競争していて、やたらと便数が多い。しかも、瀬戸大橋線との競争があるためか、運賃は390円と安い。しかし、人間よりも自動車の輸送が主なのか、トラックばかりで人間はまばらだった。

宇野港には、一時間ほどで着く。瀬戸大橋線なら同じ時間で岡山駅まで行けるので急ぎの方にはお勧めできないが、時間があるときは、趣を変えて船から高松の湾岸風景を眺めるのも悪くはないものだ。宇野港のすぐ近くにはJRの宇野駅があるので鉄道への乗り換えには困らないが、岡山駅までは、宇野線で茶屋町までゆき、さらに茶屋町で瀬戸大橋線に乗り換える必要がある。そのため、同行者には「後悔するかも知れませんよ?」と高松を出る前に念を押しておいたが、宇野駅で単行(一両編成)のクモハ123を目にしたときは、さすがに少々ビビっていたようだ。東京の電車ばかり見ている人のリアクションは、こんなものか。

岡山から広島までは、さすがに新幹線に乗った。一人なら在来線にしていたかも知れないが、既に疲れの色が現れているオジサン同行者にそんなお付き合いを強要するほど酷なことはできない。まあ、わたしも敢えてマイナーな交通機関を使ってみるという自分の趣味を遂行することが出来て、楽しめた一日であった。



こんぴら
2000年12月12日(火曜日) はれ@高松

今日は仕事が早く片づいたので、午後から時間が少し空いた。何をするか同行者と相談した結果、金比羅へ行ってみようということで話はまとまった。それは良いのだが、あそこへ行くと1000段を越える階段を登る羽目になる。わたしは良いが、同行者は年輩のお方。念のため「足腰は大丈夫?」と意志を再確認したが、頼もしいことにもゴーサイン。ほほう、良い根性だ。聞いてないとは言わせない。高松築港から琴電に乗り、1時間半ほどで琴平の駅に着く。

階段を登り始めるや否や、まだまだ序の口だというのに同行者は息が切れ始めている。本当に大丈夫なんかいな。途中まで登って降りても良いと提案してみるのだが、なんだかやる気満々で奥社まで行ってみるつもりらしい。気合い入っているなあ。そうして歩くこと1時間ほど、けっきょく音を上げることなく奥社まで登り切ってしまった。その頃には、すでに日が暮れかけていた。足が疲れたというより、日暮れの山に吹き荒れる身を切るような風が冷たくて冷たくて。

というわけで、どうでも良い写真集。




カッターとドライバ
2000年12月11日(月曜日) はれ@高松

機内持込規制品
今回の出張は、ネットワーク機材の設置と設定が主な仕事なので、工具を持参した。ニッパやドライバ、カッターナイフなど、飛行機に持ち込むにはちょっと不味いと思われるものが多数ある。が、わたしは荷物が多くなるのが嫌なので、持ってきたものは鞄は一つだけ。預けた荷物は一切なく、すべて機内持ち込みとなった。でも、X線検査で引っかかって、何か言われるのも面倒だ(テロを働くつもりなどまったく無いのに)。そこで、工具類は、なるべくX線で見えにくくするように工夫して詰めた・・・つもりが。

検査の人って、ぜんぜん見てないような顔して、ちゃんと見てやがる。「中身を拝見してよろしいでしょうか」と、一発で言われてしまった。「ドライバとか、工具類をお持ちですね?」と、もうバレバレ。ほとんど影絵みたいなX線撮影で具体的な物体を判別できるほど見えるとは思ってもいなかったし、検査官だって見てるようなふりをしているだけじゃないかとすら思っていた(失礼)。だから、かなりの的中精度に驚いてしまった。ここで文句を言っても仕方がないので、素直に応じて鞄を開ける。

ドライバは向こうから言ってきたが、カッターナイフは言われなかった。でも、人間とは証拠を突きつけられると観念するもので、ここは騙し通せないと判断して自己申告した。持ち込む意図は全くなかったんだけど、たまたま鞄に入れていたことをうっかり忘れていました〜、というような顔で「あ、そうそう。カッターナイフも駄目なんですよね、すみません〜」と言いながら差し出した。カッターナイフはその場で預けさせられたので、当然のようにドライバも預ける必要があるのだろうと思って渡した。そもそもの発端は、ドライバが発覚したことなのだから。

ところが、曰く「ドライバは持ち込みしても良いですよ」と、そんなものは邪魔だから自分で持って行けと言わんばかり。おいおい、カッターナイフが駄目でドライバが良いという、その理由はなんなんだ? ドライバでもその気になれば人ぐらい殺せるし、カッターナイフを持っていても、その気にならなければ人なんか殺せない。刃物であるか、そうでないかで線引きしているらしいが。すごく意味のない線引き。

羽田で没収され、高松空港で再び返却されたカッターナイフは、「機内持込
規制品収納袋」と題された緑の封筒に入っていた。なんだか凄く怪しげ。



というわけで高松
2000年12月10日(日曜日) 雨/くもり@高松

てなわけで、予定通り高松にやってきた。

ひこーき
←「ぼくこんなのに乗ったんだ」の図(要するにバカ)。

13時ちょうどの JAS 395 便に搭乗する予定だったのに、京急に乗って羽田空港に着いたのは11時ごろ。何となく6年ぶりの飛行機が嬉しくてやたらと早く家を出てしまったのだが、空港の端から端まで歩いて探検してみたり、展望台で写真を撮ったりしていたら直ぐに時間が過ぎてしまった(やっぱりバカ)。ところで、今日は日曜日だ。陸路にサンデードライバーが現れるのなら、空路にはサンデートラベラーがわんさかと?

「右も左も分かりません」という揺るぎない事実を、全身をもって余すことなく体現している爺さん婆さんがウジャウジャといる。団体旅行の連中なんてよ、旗の一振りもあれば思いのままだぜ・・・と言えれば苦労も少ないのだろうが、なぜかハミってるヤツは必ずいるものだ。ある添乗員は、叫ぶ。「は〜い、搭乗券を出してください!!」と、自らの搭乗券を見本に手本まで見せているのに、頑なにそれを実行ようとすらしない人がいる。どうして出さないのだろう。どうしても出せない事情でもあるというのだろうか。

「おらおらおら、何をチンタラさらしとんじゃぁ、とっとと出さんかいボケ!」と、わたしなら賺さずそう叫ぶところであるが、こここそ添乗員の腕の見せ所か。笑顔を絶やさず、ことさらに大仰な動作で「搭乗券をポケットから取り出して、手元に準備しておく手順」の手本を惜しげもなく演じるところは、さすがだ。団体旅行の添乗員さんって、大変な商売だ。まあ、どんな商売にも苦労は付き物、楽な商売なんてそうそうあるものではないが・・・わたしには、あれだけは絶対につとまらない。

空港の人間模様も観察対象としては大変に興味深いが、そろそろ時間だ。高松空港が濃霧に包み隠されていて、着陸したくなくなったら、伊丹に降りるね。まあそういうこともあるちゅうことで、覚悟さらして乗れや。要約すればそんなような趣旨のアナウンスが流れはじめて、大阪から電車で高松に行くぐらいなら最初から電車にすれば良かったなどと思いながら飛行機に乗り込む。隣の席に、性別不詳・年齢不詳の人間が座っていた。しかも、何となく他事毒論を読んでいそうなオーラも匂わす人だった。性別は声で女の子と判明したんだが、横顔はどうみても男のそれだった。年頃は、未だに不明のまま。

さすがに見てるとは思えないけど・・・気になってジロジロ見てて、すみませんでした>隣の人。

飛行機は、ちゃんと高松まで飛んでくれた。良かった良かった。



Note で FreeBSD とか
2000年12月9日(土曜日) はれ

気付けば、一週間休まず更新していたり。取り敢えず仕事が一段落して、どうでもいい文章を書くことに思考を割く余裕も出来てきた。が、来週から出張なんてものが入っていたりして、明日のいまごろは高松にいることだろう。横浜からだとちょっと遠いのでお空を飛んでいくことにしたのだが、よく考えたら、羽田空港へ行くのは生まれて初めてなのだ。飛行機に乗るのは6年ぶりで、ちょっとだけワクワクしていたりするのは、小学生と変わらん(笑)

出張のお供にでもと思って、ノートパソコンに FreeBSD 4.2 を入れてみる。せっかくハードディスクを再フォーマットするんだから、ついでにパーティションを切り直しておいたのだ。ディスクが 3.1GB しかないので、Windows 98 と FreeBSD で半分に分けるとちょっと辛い。基本的なソフトをケチケチ構成で入れただけでも、1.5GB では半分ぐらいすぐに埋まってしまう。しかし、考えてみれば昔はこのぐらいでやりくりしていたのだ。2.1GB のハードディスクが「大容量」と言われていた時代もあったのだから。いまは 20GB のディスクが埋まったりするけれど、一体なにが10倍に膨らんだというのだろう。

そして、FreeBSD。適当に設定しただけで、ちょっとノロいけれど X も 800x600 で動いたし、PCカードの抜き差しやサスペンドといった機能もちゃんと動いてしまうのは、さすが。どうやら最近のやつは PAO が merge されたみたいで、ややこしいことは考えなくても良くなっているようだ。しかし、CardBus が使えないというのは痛い。わたしが持っている LAN カードが CardBus のやつなので、使えないのだ。動かす努力はされているようだが、暫くかかることだろう。そんなものは、CardBus ではない安いのを適当に買ってくればいいことだけれど。

最近の装飾系こだわり志向に乗せられて? GNOME + Enlightenment を入れてみた。うわ〜、派手派手。しかも美しい。環境変数 LANG を ja_JP.EUC すれば、メニューも日本語になる。便利な時代になったものだ。



続・壊。
2000年12月8日(金曜日) はれ

中途半端な動きをするようになったPCカードスロットの話の続き。

取り敢えずバラしてみると、PCカードスロットのモジュールを支えているネジがメインボードの裏側から止まっているため、どうしても完全に分解しないと外れないということがわかり、昨日は面倒くさくなって一旦は修理を諦めた。しかし、考えていたほど分解性が悪いとも思えなくなってきた。ノートパソコンは複雑なようで、意外と簡単に分解できるようになっているはずなのだ。こんなものでも、量産や修理はあまり器用でないオバハンなんかがやっているに違いないので、そういったところから苦情が出ないよう、とっても簡単に扱える設計にしていると想像される。

というわけで、今度は気合いを入れて素粒子まで分解するぐらいの勢いでバラバラにするのだ。キーボードを外し、液晶を取っ払って、やっとメインボードの基板が外れてきた。PCカードスロットのモジュールは、極小のカードエッジコネクタみたいなので基板に乗っていて、いかにも衝撃に弱そうな構造になっている。落下事故の直後に壊れたので、コネクタ類が接触不良を起こしたとか、半田付けが外れたとか、概ねそんなようなことが考えられる。取り敢えず虫眼鏡でコネクタ周辺を隈無く目視検査してみたが・・・目で見て分かるような半田付け不良は見当たらない。

こうなると、もう分からん。あとは、念力と少々の勘だけが頼りである。なにせ対峙しているものは、やたらと薄っぺらいくせに片面3層もありやがる多層基板だ。配線を辿るにしてもスルーホールが星の数ほど通っている。もしかすると、スルーホールが一個だけ切れているのかもしれないし、あるいは別に原因があるのかも知れない。この際、やむを得まい。少々の危険を伴うが、最後の切り札を使おう。そう判断したわたしは、目を瞑り、そして基板に向かってフルパワーで念力波を照射した。へっ、もう若いころのようにはいかんらしい・・・意識が一気に遠のいてゆく・・・

なわけない。とにかく押すのだ。だから、指で押すのだ。基板を押す。部品を押す。取り敢えず、押せそうな場所は、すべて押す。なんか写りの悪いテレビを叩くと治ったりするのと同じ原理なのか、それともほか理由があるのか、良く分からないけれど、これでこの手の故障の半数ぐらいは復活するから不思議なものだ。取り敢えず押しまくって、バラバラになったノートパソコンを組み上げると・・信じられないかも知れないが、見事に壊れたPCカードスロットは復活した。これにて一件落着。



壊。
2000年12月7日(木曜日) はれ

寒い。ダメなのだ。布団から出ないで会社へ行く方法は無いものか。

ノートパソコンの調子が悪くなって困っているところ。うっかりノートパソコンが入っている鞄を落としてしまったら、二つあるPCカードスロットのうち一つが中途半端な動きをするようになった。手持ちのLANカードやPHSカードを突っ込むと、Windows はそれを認識しようとするのだが、どうしてもドライバを組み込むところまでは行かないみたいで「ぴぽっ」という音が鳴らない。でも、コントロールパネルで見るとPCカードはささっていることになっているし、そのままイジェクトすると「ぽぴっ」と鳴くので、いなくなった事は分かるみたいだ。よくわからん。

ということで、分解。完全にぶっこわれたワケではないので、落とした衝撃でコネクタが接触不良を起こしたとか、半田クラックが起きたとか、そんなところじゃないかと思う。でも、上蓋が外れるなり分解性の悪さにビビって嫌気全開。どうしても外したいネジが、むちゃくちゃ外しにくいところにある。こりゃ基板を全部外さにゃ・・・とか思うと嫌になったので、代わりにOSの再インストールをすることにした(何でやねん)。Windows にありがちな「経年変化」が酷くなってきたので、綺麗さっぱりフォーマット。あら、クリーンな状態だとこんなに早く立ち上がるのね、Windows って。

しかし、どうしてPCカードスロットが一つだけ壊れてしまったんだろう。再インストールするためにSCSIカードとSCSIのCD-ROMドライブを借りてきたのだけれど、試しに壊れた方のPCカードスロットに挿してみたら、どういうわけか何ら問題なく動いてしまった。OSを入れ直したからかと思ったが、違う。LANとかは、やっぱり動かないのだ。なんだかむちゃくちゃ中途半端な壊れ方をしている。8割(推定)ぐらいは機能しているみたいだけれど、バスが一本だけ外れたりして、2割が動かなくなったというところかな。



マイペース?
2000年12月6日(水曜日) はれ

どうしてもスマートな解決方法が思い浮かばず、昨日から悩んでいた問題が解決して溜飲が下る思いだ。どうも、職場にいるという事実が問題の解決を阻害しているような気がする。さっさと諦めて家に帰り、取り敢えずメシを食って、やれやれとテレビでも見ながらお茶を飲んでいるときこそ、思考が絶好調に動いているらしいのだ。お怒り気味の電話を「あんまり良いやり方がないですねえ、う〜んが〜えへ〜は〜」などと、奇声とも呻き声ともつかない曖昧な音声でかわしつつ、バックグラウンドでは顎を掻きながら一生懸命考えているというような状況では、まず何も思い浮かばないものだ。

誰でもそういうものなのか、それとも自分だけが特殊なのか、そこのところは良く分からないのだけれど、わたしは人に干渉されているときは頭が全く回らないことが多い。干渉といっても、真横から上司が監視しているとかそういった状況に限らず、周囲に人がいるだけで脳味噌のトルクは半減するらしい。ここだけの話だけれど、会社で暇なときに「今晩の他事毒論でも書いておくか」と思ってエディタを開いたことがあった。けれど、全く書けなかった。わたしの机は、当人の強い希望により誰からも監視されないような配置にしてあるのだけれど、それでもなんか気分が乗らないのだ。残業していて、みんな帰ったあとなら書けるのに(それは何度かやってるし)。

他の人と仕事をしていると、そういう性格はマイナス面にしか働かないし、自分でもそれでは都合が悪いと良く分かっているのだが、もうそれは遺伝子に刻み込まれた気質みたいなもので、治せと言われて治るようなものじゃない。そのためか、わたしを極めてマイペースな人間と言う人もいる。確かにそういう面もあるかも知れないけれど、それはあくまで結果論だ。当人としては、変な干渉のために仕事などの効率が落ちてしまうのが嫌なので、あらゆることをマイペースに進められるよう、努めて調整しているからそう見えるのだ。どう考えても天然マイペースとしか思えない人もいるけれど、結果ではなく原因から考えれば「ワケあって積極的にマイペース」な人って、意外と多くいるんじゃないのかな?



アンドロイド
2000年12月5日(火曜日) はれ

昨日、ヒューマノイドの話を書いていて思ったのだけれど、身体機能の全てをスクラッチから作るのが無理だとしたら、身体の一部分だけを機械化するのも悪くはない。もちろん、不老不死を求めて機械の身体を追い続けるとかそういう夢いっぱいの?お話ではなく、現実的にちょっとあれば便利なものがあれば良いのだ。たとえば、肩の関節をちょっとだけ機械に変えて、どういうわけかいつも痒くなるくせに、残り数ミリのリーチ不足で手が届かない背中のあの場所にも手が届くようにするとか、3時間近くあるやたらと長い映画を観るときでもコーラの摂取を自粛しなくて済むよう、あと少しだけ小便を我慢できるように増設膀胱を設けて容量を倍にするとか。そんなことで良いのだ。

考えてみれば、人間が寝るときに枕を必要とするのも不便な話だ(いらないという人もいるだろうけれど、わたしは枕がないと安眠できない)。本来であれば、枕など使わずとも自然な格好で寝られるような構造になっていて然るべきなのだから、このことが不条理に思えて仕方がないのである。そんな不便な構造をしているのは人間だけかと思っていたら、のんべんだらりと寝ている猫も前足を巧いこと使って枕を作ったり、布団に潜り込んできては、いつのまにか人様の脇を枕に使ったりするので、この枕にまつわる不便さは動物に共通する悩みなのかもしれない。こういうところこそ、文明の英知をもって真っ先に解決されるべきところだと思うのだが、如何なものだろうか。

ところで、人間と同等の機能を持つヒューマノイドやアンドロイドを作るとき、やっぱり「枕がないと安眠できない」というような、どうしてそうなっているのか良く分からない人間の機能不全も再現すべきなのだろうか。朝起きてくるなり曲がった首で「ああ、なんか寝違えたわぁ」と独りごちるロボットがいたらそれはそれで恐いけれど、よく考えてみれば相手はロボットなんだから、そもそも寝る必要なんてないというのが正しい答えだという気がする。しかしである。たとえそれが論理的には正しい結論だとしても、現実としては、それは断じてあってはならない結論である。「あはー」と小さな欠伸をしながら「あたし、もうねる」という一言があるかないかで、ロボットの存在価値は大きく変わることであろう。

え? 意味は、勝手に考えておくれ。



アシモ*
2000年12月4日(月曜日) はれ

うっかりすれば、思わず「フ」を付けて呼んでしまいそうな ASIMO こと、本田技研のヒューマノイド。これまた、どう考えても「狙った」としか思えない大胆なネーミングだこと。ともあれ、わたしはこのデザインセンスが大好きなのだ。家に一台(一人?)いてくれても、決して「なんか気持ちが悪い」と感じることはなかろう。「ねえ、アシモー。悪いけどちょっとタバコ買ってきてくれない?」などと、わたしの家に来た限りはパシリ君として使役される運命にあるが、機械の分際でありながら「悪いけど」と前置きしてしまったりと、つい気を遣ってしいそうになるデザインが大好きなのだ。

これが母親のケツから出てきて産声を上げた人間とそっくりの格好ではダメ。かといって、自動車の製造ラインでシコシコと溶接作業をしているような、機械そのものというスタイルでもダメ。機械+人間の、ちょうど良いバランスってものがあって、本田技研のアシモ君は、そういう意味では的を射たデザインだと思う。あるいは。普通の人の目にはまだまだ機械的すぎると映るかも知れないけれど、日常から露骨な機械に囲まれて生活をしている、自分のような人間にとっては、少々露骨な方が性分に合っている。でも、重要なのは中身の技術だ。デザイナの意見を優先して外観を先に設計した機械では、必ず中身に歪みが現れる。

基板の配置が・・・配線の取り回しが・・・ノイズが・・・くそったれ、どうしてこんなどうしようもない形にしたんだ、くそデザイナめぇ! などという技術屋の悲痛な叫びが聞こえてきそうな今日この頃。パソコンとか、つい一昔前まで露骨な機械で当然であった品々にも、いまではエレガントなデザインが増えてきた。「ここに詰めろ」「無理です」「なんとかしろ」「どうしても無理です」「却下だ」という明らかに不利なバトルを繰り返しながら、集積レベルは上がってくるのだろうけれど。そうして、デザイナと技術屋の溝は、ますます深まってゆくらしい。



にゃ
2000年12月2日(土曜日) はれ

朝、電話が鳴った。発信元の通知は、191x39xxxxx という謎の電話番号だった。

そもそも日本には、そんな電話番号は存在しないのだ。1 から始まる電話番号は、113 や 119 など「3桁特番」として使われているため、19 から始まる電話番号はあり得ない。バグったのかもしれないとすら思いつつ、不可解な電話番号にやや警戒しながら電話を取ると、それはアメリカからの国際電話だった。なるほど、1 はアメリカの国番号で、91x はアメリカ国内の市外局番だったというわけだ。相手が国際電話の場合には、いままで、「通知不可能」といった表示になっていたのに、いつから発信者電話番号が通知されるようになったのだろう。

でも、もっと不思議だったのは、ナンバーディスプレイ未加入のISDN回線に通知されてきたことなのだ。NTTの陰謀で、ISDNには元から発信者番号通知のための機能があったにも関わらず、それをわざわざ殺して、アナログ回線からは通知されないようになっている。しかも、それを使えるようにするためにはアナログ回線よりも高い金を払わないとダメと来ているから、ナメているとしか思えない。まあ、国際電話はアナログじゃないから通知されて来ても良いのだろうけれど、このアナログ回線排除主義はどうにかならんだろうか。

用事があって、午後から秋葉原へ行く。結果、福沢諭吉三人減。思いっきり散財してしまった。買い物をしている間だは良いのだけれど、買い物を終えて再び車に乗ったときに襲ってくるとてつもない脱力感は、いったい何なのだろう。そして、無意識のうちに出てくる大きな溜息は何を意味するのだろうか。「もう、やめとけ」と解釈するのだが、毎度毎度、同じことを繰り返してしまうのは、何故なのだろう。そういう心境のためか、何となく帰りの高速代 (1400円) をケチって一般道で帰ったら酷く疲れてしまった。都心って、走りにくいよねえ。




突撃実験室