多事毒論(2002年7月分)


海外逃亡
2002年7月31日(水曜日) はれ

明日8月1日から海外逃亡するので、しばらく更新をお休みさせていただきます。ネットに繋げられれば何か書くかも。

そんなわけで、明日から台湾へ行くのだ。大義名分は、一応、毎夏恒例の温泉旅行ということになっているのだが(台湾にも温泉がある)、つめこみまくって山あり谷あり海もあり。いつものことながら、慰労目的では絶対にあり得ないような強行プランに仕上がっており、台湾の人でさえ「やや厳しいのではないか」と言うぐらい。確かにちょっと怪しいところもあるが、どうにかなるだろうというノリで、南端部分を除いて台湾を一周してくる予定である。

ちらっと耳に挟んだ業界裏話(?) を二編ほど。ある大手ビール会社の社員さんたちは、お客という立場で飲み屋さんに入ったときでも、店主への挨拶を欠かさないという。ビールを作っている側からすれば、飲み屋さんはビールを大量に売りさばいてくれるお得意先なのだから、その店の客であっても、店は「お客さま」なのだ。自社のビールを使っているお店には「いつもありがとうございます」、他社のビールを使っているお店には「今後は弊社のビールもぜひ」。また、とある大手便器会社にお勤めの方の中には、出勤する前に自宅で「大きい方」を排出してはならない場合があるという。なぜなら、実使用テストで必要となる、イミテーションでない「アレ」は人間の体内で生産するしかないため、ためておいて職場まで持っていかないと、新たに開発した便器の使い心地や汚れの流れ具合を試すことができないからだとか。



食品と安全性
2002年7月30日(火曜日) はれ

夕焼けが怪しい感じだった。ぜんぜん関係ないが、一般に眼鏡は人間の耳に合わせて作られていることを考えると、猫耳+眼鏡っ子は、やはり無理があるんじゃないかと思う。

最近は食品の安全性が取り沙汰されることが多く、これまでには BSEだの無認可の添加物だのと色んな問題が出てきたが、実際のところ、我々の食べているものはどれほど危険だというのだろう。どこかの統計調査によると、大多数の人が「食品に対する不安」を感じているそうだが、具体的な問題のあった指摘といえば、わたしの記憶にある限りでは中国産の冷凍野菜ぐらいで、一連の事件でマスコミが大きく報じたのは、大規模な回収が行われた、買い控えが起きた、国の失策にも原因があるのではないかというような、食品の安全性そのものとはあまり関係のないことばかりであった。まあ、食べれば美味いものでも見た目がグロテスクでは食欲がわかないのと同様に、こうも色々とあれば不安になるのも当然だとは思うが、しかし、本質とはあまり関係の問題ところから、こんな調子では何一つとして安心できない、などと結論するのは、やはり過剰反応である。

完全に安全性な食品があるはずだと考えるのは、幻想に過ぎないが、食品の安全性をほとんど信仰のように求める、いまの日本の傾向は如何なものか。例として、食品添加物に対する嫌悪感にしても、危険だ何だとやたらと騒ぐだけでは話にならない。保存料の入っている食品を食べて何らかの病気になるリスクと、それが入っていない、「いわゆる健康的な」ものを食べて食中毒になったりするリスクとを比べれば、どちらを選ぶべきかは明らかなのだ。合成された添加物が入っている食品は危険で、自然に由来するものこそが健康的であるといった切り分けをしている馬鹿もいるが、自然に由来するものにもやばいものはいくらでもあるから理解に苦しむ(食中毒だって自然食)。自然食品や健康食品やらは、こうした連中をターゲットにしているのだろうが、そういうものにこそ、どことなく怪しげなものが多いと感じるのは、わたしの偏見だろうか。

そういえば、少し前の朝日新聞の天声人語が「素早く腐敗するのが食品の自然な姿である」というような、わけの分からないことを書いていたが、アホか? より安全な食品を、安い値段で、安定的に供給していこうとなれば、なるべく腐りにくいものを合理的に作るという当然のことを否定する見事な化石発言であるうえ、無根拠な自然信仰によるリスクの見誤りの典型例と言えよう。腐りやすい食品を食べるためには、廃棄される分のコストが食品の値段に上乗せされることも厭わず、食中毒で死ぬ覚悟を決めた上での発言であろうと思われるので恐れ入るが、それでは困る人の方が多いはずなので、全国紙の目立つところでの発言は慎んでいただきたいものだ。それに、やたらと腐って廃棄が増えるようでは、単純に勿体ない。天声人語を書くぐらいのお方なら、ごみ問題や、限りある食物生産能力で 100億を超える地球人口を養っていかなければならないことを知らないはずがあるまいが。

敢えて非効率的な食品生産を求めるのは、ある意味で金を持っている先進国のエゴなんだよね。



住基ネット
2002年7月28日(日曜日) はれ

住民基本台帳ネットは、IP-VPNを使っているからとか、Windows を使っているからとか、そんなような理由を挙げて「セキュリティ的に不安な部分がある」とぎゃあぎゃあと騒ぎ立てている連中がいるが、そんなことよりも、いちばん危なくて不安なのは人間である。コンピュータやネットワークといった機械に限れば、少なくとも理屈の上では、完璧なセキュリティを実現することも可能だろう。しかし、それを利用するのは結局のところ人間にほかならず、その人間とは、不可解なバグを抱え、ミステリアスなエラーを起こしまくる存在なのだから、本質的なセキュリティホールたる人間が、コンピュータネットワークとの接点を持った時点で、そこに完璧なセキュリティはありえなくなる。セキュリティの観点のみから言えば、マンマシンインタフェースこそが史上最悪最強のセキュリティホールといってもいい。

住基ネットを推進する側ならばなおさら、あるいは反対する側でさえこれだけは認めたくないと思っているのかも知れないが、人間に勝るセキュリティホールがどこにあるという。役所の人間は信用できないとか、札束を見せられると人間はどう行動するか、といったことを言いたいのではない。そんな話は、住基ネットがあろうがなかろうが関係なくありうることだ。それより、当人には悪意の欠片すらなくても、あとから考えてみればアホとしか言えないような個人情報流出事件や詐欺事件が跡を絶たないのはなぜなのだろうか。住基ネットに限らず、コンピュータネットワークの問題を論じる際に、やれシステム上どこが脆弱だ、などとそれらしいことを言いたがる連中は多いが、現実に起きた過去の事件では、コンピュータそのものも問題に原因があったものと、ヒューマンエラーによるものと、どちらの方が多いというのだろう。

では、仮に住基ネットに言われているようなセキュリティホールがあるとして、それらが解決されれば、何かが変わるというのだろうか。多少は安全になるかも知れないが、その結果、なんの悪用事件も起きなくなるわけではあるまい。ネットワークが危ない、というのは単なる言い訳のようなもので、早い話が扱いが簡単なネットワークという形で余計な管理をしてくれるなと言いたいだけでは?



ワン切り
2002年7月25日(木曜日) くもり→雨→はれ

何日か前に大阪で起きた電話の通話障害は、ワン切りによる激しい発呼の繰り返しに、五十日と月曜日が重なったことによる呼量の増大で輻輳が起きたことが原因であったという。これがどの程度の負荷になったのかは分からないけれど、報道で言われているように、ワン切り業者ごときが、これだけの規模の事件の主因になりうるものなのだろうか。業者の事務所があるという北区内で通話障害が起きたとか、携帯電話と一般電話間の通話のみに障害が起きたのなら分かるが、たかだか何本かのINS1500が非常識な使われ方をしたおかげで、大阪府下全域で通話障害が起きましたというのは、波及事故に近いものがあるだろう。こういう事故は様々な要因が複雑に絡み合って起きるものだが、いちいち説明するのは面倒だから、巷で話題の悪いワン切り屋をスケープゴートに挙げておこう、ということだったりして。ワン切り屋を悪人にしても、これといった異論は出まい。

ユニバーサルスタジオジャパンでは、水飲器に誤った配管を接続し、工業用水が飲用に提供されていたとか。ことの是非はともかく、工業用水(略して工水)は、いわゆる普通の水道水よりも美味しい。本来は飲んではいけないのだが、好奇心から少しだけ味見をしてみたときにそう感じた。工業用水が飲用に不適なのは、上水と違い、一般に濾過や塩素処理が行われていないためらしい。が、塩素が入っていないぶん、かえって独特の水道水くささがなく、美味しく感じるのだろう。どうでもいいが、USJのほかにUFJ銀行なんてものがあって、どうも見間違えることが多くなったと思うのはわたしだけ?



続・人とくるまのテクノロジー展2002
2002年7月24日(水曜日) 晴れ/くもり

昨日の続き。人とくるまのテクノロジー展2002では、部品メーカの出典も興味深いものであった。個人的に目が行ったのは、光学系のメーカさん。その中でもひときわ派手だったのが、自社名を青色LEDで描いてしまった豊田合成のブースだ。展示内容はいまいちだったが、やはり、この看板は綺麗だ〜。写真に写っているテレビみたいなのは、フルカラーLEDを並べたディスプレイ。確かに、LEDでもこんなことができるようになったのかという面白さはあるけれど、実用からは程遠い感じだった。一つの画素が5φもあるので画像は荒く、その荒さを隠すためにか乳白色のフィルタがかけられているので、近くで見れば見るほどコントラスト感や発色が悪く見える。繁華街で見かける巨大な街頭テレビぐらいにはなるかも知れないが、家庭にLED式のテレビなんてものが入ってくることはしばらくなさそうだなと思った。

LEDと自動車の接点は、もちろん灯火系である。自動車用のランプなどを作っているスタンレーのブースでは、白熱電球の代わりにLEDを使用したテールランプの見本がたくさん置かれていた。LEDにすると、もちろん見栄えもよくなるが、安全性の向上にも繋がる。白熱電球は、フィラメントが加熱されるまで明るくならないが、LEDは電流を流すと即座に発光をはじめるという違いがある。このため、たとえばブレーキランプにLEDを使うと、視認までの時間が 0.2秒ほど早くなるという。刹那のようだが、これは高速道路上を走る車なら数メートルも進んでしまう時間である。これに加え、急制動を検知して数個のLEDを点滅させ、後続車に緊急性をアピールするARSという仕掛けも取り入れれば、避けられる追突事故もあるだろうというわけだ。実際に発光させたときの見た目は、鉄な業界でいうところのクルクルパー、すなわち特殊発光信号機のようだった。

LED式のランプ用に特化されたレンズを展示しているメーカもあった。LEDで必要な輝度を得ようとすると複数個のLEDが必要になるうえ、一般的にLEDからの光は白熱電球のように光が拡散しないので、これではランプ全体が均一に光らない。だから、比較的大きな面積をもつランプの輝度をほぼ均一にするには、レンズに何らかの工夫を加えるしかないわけだ。小糸製作所だったと思うが、傷を入れたアクリル棒のようなものをランプの内部に組み込んで、両端をLEDで照らし、傷で光を拡散させてランプの面積を稼ぐ方式が綺麗(ちょっと暗いが)。同じような方法を用い、BMWなんかのヘッドライトの周りについている「イカリング」と同じような白色LED式のリングもなかなかの見栄えだ。いずれは、ヘッドライトにさえ白色LEDが使われるだろうと言われている。まだ実用化はされていないと思うが、スタンレーが出していた白色LEDヘッドランプは、直視できないほどの明るさである。



人とくるまのテクノロジー展2002
2002年7月23日(火曜日) 晴れ

人とくるまのテクノロジー展2002」を見に行ってきた。自動車に関係する技術の展示会で、出典企業はメジャな自動車メーカをはじめ、部品メーカや、材料メーカなどさまざま。わたしは自動車の技術に詳しいわけでもないし、必ずしもそれに関係する仕事を多くやっているわけでもないので、つまるところ冷やかしに行っただけなのだが、色々と面白いものが見られて楽しめた。

時代の流れからいって当たり前といえば当たり前だが、特に大手自動車メーカからの展示にあっては、環境性能を全面に押し出したものが多かった。もっとも、電気自動車といった未来的なものはほとんどなく、ハイブリッド車などの展示が中心で、内容は極めて現実的。詳しかったのは、プリウスやエスティマハイブリッドなどをやっているトヨタのハイブリッドエンジン。ガソリンエンジンの中に電動機が組み込まれており、写真中の黄色いケーブルがインバータとバッテリに繋がっているわけだ。シビックハイブリッドに搭載されているホンダのハイブリッドエンジンは、カットモデルになっていた。ガソリンエンジンのほか、電動機CVTがセットになっている。エンジンから伸びる三相っぽいケーブルがいかにもって感じである。日本電池は、でっかいリチウムイオン電池を出していた。リチウムイオンといえば携帯電子機器を連想するのだけれど、こんなのもあったのか。

ハイブリッド車は現に街を走っているし、電気だけで走る自動車もいずれは出てくることであろうことを考えると、電気屋の端くれとしては、自動車向けのパワーエレクトロニクスは興味をそそるところだ。もちろん、電源がなければそもそも始まらないのだから、水素や燃料電池をどうするかといった話も確かに重要なのだが、制御も欠かせない。パワーエレクトロニクスなんて、ほぼ完成した技術だと思うけれど、モータやバッテリの制御や、回生ブレーキの効率などで電気の「燃費」も変わってくるのではないだろうか。またモータの電源電圧は12ボルトよりもかなり高くなることから、高電圧・高電流の開閉に対応したリレーなんかを出している部品メーカもあったりした。う〜ん、自動車にもインバータやら回生ブレーキなんぞといったものが付き始めるなんて、色んな意味で萌えるではないか。VVVFな音が鳴り響く交差点も悪くはない(注:実際のハイブリッド車はそんな音はしません)。

電気を駆使したもの以外にも、天然ガス車や、低環境負荷型のディーゼルエンジンなどの展示もあった。こちらは、排出ガスを浄化する技術が中心で、従来型よりも綺麗な排出ガスを出すエンジンに、ディーゼルパティキュレートフィルタを付けて排ガスの浄化を行うという仕掛け。いかにもって感じの黄色に塗装されたCATのエンジンは、軽油に天然ガスを混ぜて回すことで、排ガスに含まれる有害物質の低減を図るという。最後に、笑っちゃうというか、ホンダらしいなと思ったのが、電動トライアルバイクだ。技術的に云々というよりも、展示説明のパネルに書かれている「環境といっしょに二輪車のもつ楽しさやおもしろさ大切にしたい」というコンセプトは、大事なことではなかろうか。環境の二文字の後ろに、遅い、重い、つまらない、といった言葉がいつまでもついて回るようでは、いくら先進的であろうが、使えない、という言葉も続いてしまいかねない。実際のところ、近い未来にはもっと面白いものも出てくるのかな。



小旅行
2002年7月21日(日曜日) 晴れ

やや頭の痛いことが続いていたので、気分転換がてら小旅行。秦野から県道70号線でヤビツ峠を越えて宮ヶ瀬湖へ抜けてみた。ナマイキに主要地方道の指定を受けているわりには、大部分が1〜1.5車線の間で幅員がころころと変わるしょぼい道路で、思い出したように改良区間が現れては、僅かな距離でまた狭くなるという典型的な山道である。そのわりに、ぱらぱらと対向車がやってくる。待避所はそこそこあるのだが、バックを強いられることもあり、離合が少々面倒だ。「宮ヶ瀬レイクライン」という洒落た愛称まで付けられていたりするが、道が宮ヶ瀬湖に続いているにだけのことで、湖を連想させるようなポイントはまったくないから詐欺に近い。むしろ、死体の捨て場所に困ったらここに来ればいいなと思わせるような山深いだけの景色が延々と続き、実にわたし好み。途中にある、菜の花台の展望台から見た風景は綺麗だった。

Fast & First さんから GPS受信機付きのレーダ探知機を譲り受けたので、車に付けてみた。こんなもの、あってもなくても捕まるときは捕まるし、どうしても捕まりたくなければ、単に飛ばさなければよろしい。速度違反で捕まるのはカンと観察力の足りない証左だと考える方だったのだが、道路状況に即した自然な流れというものがありながら、非合理とも思える制限速度が設定され、どうでもいいような取り締まりをしている二重基準の日本の道路ではどうだろう。めちゃくちゃ飛ばしていて捕まるのなら仕方がないが、流れで走っていて捕まるのは寝覚めが悪いものだ。そんなわけで、試してみた。レーダによるねずみ取りには遭遇していないが、試しに記念撮影ポイントのある場所を通ってみると、GPSで位置を検知してちゃんと「1キロメートル先Hシステムです」などと教えてくれる。対向車線のものには反応しない。なるほど、この辺はよくできている。

GPSは良いとしても、レーダ受信機の方には誤作動というマイナス面もある。どう考えてもやっていないようなところでピーピーと鳴ってくれたりするが、これは精神衛生上あまり良くない。探知機を信じるならば、いらぬ不安を駆り立ててくれるだけだし、うるさいと思えば狼と少年になりかねない。これを嫌って積極的に付けない人もいる。好みは別れるところかな?



ダイエット食品
2002年7月19日(金曜日) 晴れ

そうは言っても、みんな藁にもすがる思いなんだよ。むしろ痩せているお前にデブの苦労など分かるまい――と言われればそうかも知れないけれど、反対に、痩せている人間の苦労はデブの方々には分からんだろうから、お互いさま。女性の前で本当の体重を言えば、実る話も実らないどころか、激しい嫉妬ゆえに刺される可能性さえある、だから「骨太なので」とでも言い訳して 5キロほど「過大に」サバ読みした方が良いとか言われて、黙っておれますか。痩せの大食いという言葉のとおり、痩せている人間は、食べれば太るというものでもない。その点、デブは恵まれておりますな。痩せる方法なら、アプローチからして選り取り見取り。ダイエット食品も掃いて捨てるほどの品揃えがあるというのに、太るための逆ダイエット方法なんて、まず話題には上がることはない。けっ。

という話ではなかった。怪しげなダイエット食品を服用して病気になったり死んだりするとは、かなりアホくさい話ではないか。あんたちょっとは痩せる努力をしなさいよと思わず言いたくなるようなデブも確かにいるけれど、むしろそういう本格的なデブの方が、デブの何が悪いと割り切っているようで、常日頃から太っていると変に気にしている人ほど、さして肥満でもないという傾向があるように思う。本当のデブなら、巷のダイエット食品ごときで簡単に痩せられるはずがない、デブはそんなに甘くないのだということを、身をもってしっかりと認識しているからだろうか。すでに病的な細さだったりするくせに「わたし太っているから」なんて言ってる女の子とか、そもそも痩せる必要のない程度の人ほど、良く分からないダイエット食品に手を出したがるものかも。

しかし、いったいなぜ明らかに怪しげなものを服用する気になれるのか、理解に苦しむ。いや、あれは一種の神秘体験なのかな、もしかしたら怪しげであればあるほど良いのかも知れない。ダイエット食品とか、健康食品みたいなやつは、こりゃヤバそう・・・だけど効きそうだぜっていう感じでないと、やった気がしないというのも分からないではない。わたしは手を出す気にはならないけれど。



酸素を吸ってみる
2002年7月18日(木曜日) 晴れのち雨

そういえば先日、酸素吸入を体験する(させられる)機会があった。見たことがある人もいると思うが、呼吸器を患っていたりするヨボヨボの爺さん婆さんが、治療としてやっているのと同じヤツだ。カニューラという、ループ状になった専用の管を耳に引っかけて顔に垂らし、管の途中に設けられた突起を鼻孔に突っ込んで、突起から出てくる酸素を吸入する。わたしは、携帯用の小さな酸素ボンベから供給される酸素を吸ったが、在宅でも常に酸素を吸入しなければならないような場合には、ボンベ交換の手間を省くために、酸素濃縮器なるものから供給される純度90%程度の酸素を使うのだそうだ。すなわち、酸素は自家生産。詳しい原理は知らないが、酸素だけを吸着するフィルタのようなものが使われているらしい。液化された空気を分留する以外に、空気中の酸素と窒素をそこそこ効率よく分離する方法があるとは知らなかった。

それよりも凄いと思ったのが、カニューラの先に繋がる流量の制御器である。普通は「毎分△リットル」と処方された流量の酸素を吸うのだが、当然、呼吸には息を吐いているときもあるので、単にレギュレータで流量を一定にしただけでは酸素が無駄になってしまうし、息を吐き出しているときにも酸素が流れてくるようでは気持ちが悪い。そこで、呼吸の吸入開始でトリガし、流量が一定になるように計算された時間だけ電磁弁を開ける装置を使うのだ。なかなかよくできているのが吸入の検出方法で、鼻から吸引によってカニューラ内に発生した僅かな負圧を検出しているとのこと。ただでさえ呼吸器の怪しい年寄りの呼吸を正確に検出できるのだから、かなりの精度だ。色んな呼吸方法でいじめてみたが、誤検出はほとんどない。だめだったのが、お茶を飲んだときで、息をしたつもりはなかったが、飲んでいる最中に酸素を強制注入されしまった。喉がベンチュリになって、鼻の空気が引き込まれたからかな。

さて、最大で毎分5リットル(これはかなり多い)ほどの酸素を吸っていたが、身体的な変化はまったく自覚できなかった。気分がよくなったり、精神が高揚したり、頭の回転が速くなったり、といった麻薬的な効果は、当たり前だけれど一切ない。そういう効果をお求めなら、タバコとかコーヒーの方がまだいくらか期待できる(もちろん、酸素吸入中は禁煙)。一部には健康のために酸素を吸う趣味もあるようだが、疲れが取れたり、息が軽くなった気もしなかった。息切れするぐらいの激しい運動をしたあとなら少し違ったかも知れないが、健康な人間がただ安静に、普通よりも少しばかり酸素濃度の高い空気を吸ったところで、別によくも悪くもならないようだ。ちなみに、毎分5リットルの酸素を吸入しているときの呼気中の酸素濃度は、22〜23%ほどだった。普通の空気を呼吸した場合、呼気中の酸素濃度は16〜17%と言われるので、やや高めかな。あまり濃すぎる酸素も身体に毒なので、ご注意を――決死の人体実験なのですよ、これは(笑)


※ 某酸素屋さん、ありがとうございました。



匂いの値段
2002年7月17日(水曜日) 曇りのち雨のち晴れ

かなりローカルな話だが、JR横浜駅西口とジョイナスの商店街が連絡している通路には、いつも甘い感じの良い匂いが漂っているから困る。何が困るって、腹が減っているときにその場所を通ると、匂いの原因となっているものをついつい買いたくなってしまうので、通るたびに我慢を強いられるのだ。甘い匂いを漂わせているのは、たぶんあの付近にあるシュークリーム屋か何かだと思うが、とりわけ誰もが小腹をやや空かせている夕方のラッシュ時などに、美味しそうな匂いをわざとらしく撒き散らして販売促進を図ろうという魂胆は、明らかに反則だ。電車とバスで通勤していたときは、帰りに通る梅田駅界隈に漂う匂いにまんまと吸い寄せられ、色々と買わされたからなあ。マネケンのワッフルとか、551蓬莱とか、御座候とか(最後の二つは関西ローカル)。小さな店ばかりだが、臭気販促効果のお陰かどこも繁盛している。

ところで、飲食店などから漂ってくる匂いを「タダ嗅い」したとして、いきり立った店主に「匂いの代金を払え」なんて言われたら、あはどうする? 信じるかどうかは、あなたの自由だが、実はそんな裁判を起こしたケチな飲食店経営者がいるのだ。ある遠い外国であったそんな裁判に出された評決は、こうであった――


 一切れのパンしか持っていない貧乏人が、レストランの前をふと通りかかったとき、レストランには大きなスープ鍋が置かれていることに気付いた。これでパンに味付けができる・・・。貧乏人は、持っていたパンをスープ鍋の上にかざし、パンにスープから沸き立つ湯気を浸透させた。そして、スープの香りで味付けされたパンを、美味しくいただいたのだ。

 この行為に酷く腹を立てたレストランの店主は、スープの「香り」の代金を払うこと貧乏人に要求した。ところが、貧乏人は、金は一銭も持っていないという。それならばと、店主は貧乏人を審判官の前に突き出した。この事案はどう解決したらよいものか――話を聞いた審判官は、少し考えた末、おもむろにポケットに手を突っ込んで小銭を何枚か取り出た。そして、小銭を握った手を店主の耳元で振り、ジャラジャラという音を立ててみせた。

 「なんですか、それは?」

わけが分からない店主に、審判官はこう述べた。

 「これが代金だよ」

 「どういうことですか? それは、ただの小銭の音だけでしょう」

店主はそう抗議するも――

 「小銭の音が、スープの香りの対価だよ。分かったら、とっとと店に戻りな!」


元ネタは、詳しくは知らないのだが、Nasreddin Hodja(ナスレッディン・ホジャ)物語というトルコ民話。上記は Webで探して見つかった Nasreddin and the Smell of Soup という英語で書かれたものを参考に、日本語でほとんど書き直したものである。要するにパクリなんだが、世界中で古くから語り継がれてきた寓話の常として、同じネタにもすでに様々なバリエーションが存在するようなので、いまさらマイバージョンを捏造してみたところで問題になることはないかな。これがオリジナルだというものも、たぶん存在しないのだろう。



田中康夫
2002年7月16日(火曜日) 台風のち晴れ

田中康夫元長野県知事が掲げていた、いくつかの意味不明な政策スローガンのなかでも、ことさらに何のことか良く分からないのが「脱ダム宣言」である。「しなやかな長野県政」みたいなやつよりはいくらか具体性があって分かりやすいだろうと思う人もいるかも知れないが、なまじ具体性があり、改革の対象となっているものが明らかであるぶん、その功罪は脱ダムの方が遙かに大きい――「しなやか」ならば、一応「旧態依然としたスタイルに凝り固まった行政は改めよう」ぐらいに解釈することができ、おおむね誰もがそりゃ確かにそうだなと了解できるところなのだけど、ダムは要らないという宣言が世に与えた衝撃のスケールは、桁違いに大きい。環境保護に熱心な知事だ、みたいな低レベルな話だけで片付けられることでは当然ながらあり得ない。

治水や利水のためには、どうしてもダムを造らなければならないのかという話になると、必ずしもそうとは言えない気もするけれど、田中康夫の真意がどうであったのかはともかく、ダムが本当にいるのか、いらないとすれば代替の方法はあるのか、という肝心な部分に、脱ダム宣言の焦点がほとんど当たらなかったのは明らかである。不毛な議論の裏側では、ダムの代替となる手段の実務的な検討も行われていたのかも知れないが、少なくとも世論やマスコミが脱ダム宣言を好意的に受け止めたのは、そういう合理的観点からではなく、「巨大公共事業=悪」という、短絡的で根拠のない一般論によくマッチしていたからにほかならない。目の敵にされたのがダムという悪しき巨大工業事業の象徴なものであったから、「公共事業=悪」としか考えられない馬鹿には、よくウケたに違いない。

巨大公共事業再検討論の引き金を引いたのは、1997年に潮受け堤防の締め切りが取りざたされた諫早湾干拓事業だろう。あのころの議論は、それなりに的を射ていたように思う。無駄、時代錯誤、いたずらな環境破壊と三拍子揃っていて、ああいうのはやめましょうというツッコミがあって当然だった。が、公共事業の是非を問う際に「無駄な」といった枕詞がいつのまにか外れてしまい、あたかも公共事業、あるいは社会資本の整備一般が不必要であるかのような議論がまかり通るようになったのが、最近の傾向ではないか。ダムはいるかいらないか、道路整備は推進すべきか凍結すべきか、道路公団は民営化すべきか否か――社会資本の整備をどのような形で進めていくべきかという話で、このごろ必ず出てくるのがこういう極論的の二項対立というか、勧善懲悪論みたいなものなのだ。

こうなってしまうのは、ダムや道路といった社会資本を「どう」発展させるかというヴィジョンを、誰も持っていないからだと思う。「どう造るか」あるいは「どう造らないか」でなければならないのに、「どう」のところが決まらないから、造るか造らないの二項対立に終止せざるを得ない。そして、やっぱり現状のままではダメだということだけは誰もが思っているから、イエスかノーの選択において「どちらかといえばノー」になってしまい、イエス(=現状)とノー(=現状以外の何か)の勧善懲悪構造になるというわけである。こんな状況の中に、その是非はともかく、ダムはいらないとか言い出す者が現れれば、これまで通りの方法でこれまで通りにやると言い続ける者よりも目立ち、どちらかを選べと言われれば、必然的に前者が選ばれるのは当然のことである。

だから田中康夫がダメだというのではない。脱ダムが現実的かどうかはともかく、そうした可能性すら、いままでは一つの政策として提示されることがなかったのだから、その点では評価されるべきだ。なんだかんだと言って、今後はダムなんて絶対に不要だと考えている長野県民がそう多くいるとは思えない。洪水は困るから対策してくれ、山間部の道路は豪雨があると通れなくなるから改良してくれ――端的に言えば、そうした問題に対して無駄のない現実的な対応が求められているだけの話である。その方策として、これといった検討を経ることなく「ダムはいらない、別な方法でやる」という結論がいきなり出てくるのは極めて変だというべきなのだが、逆に言えば、疑問が投げかけられつつも「治水にはダムを用いる」という既成の結論が動じることなく存在していたことも同じぐらい変だったのかも知れない。

脱ダム宣言を打ち出した当時の田中康夫の喧嘩腰な態度は、あくまで自分に限って妥協はあり得ないというスタンスと、ダムに対する仮定的な結論の表明であって、いずれ「どう造るか」「どう造らないか」の建設的な議論になるだろうと、多くの人が期待していたのではないだろうか。ダムはいらないという、これといった根拠もないスタンスと、それでもダムは造るとする県土木部のスタンスを敢えて戦わせたことで、むしろダムを造ることの根拠の乏しさも浮き彫りにしたのは間違いない。光家さんだったか、あの土木部長を弄んでいるころは、そんな面もあった気がする。それが一年以上を経て、「あの男のやってることは理解できん」と、県議会が不信任案を決議した背景には、もはや話がそんな建設的な方向に向かうことはあり得ないという常識的な判断があったと見るべきか。

そういう意味では、ちょっと期待はずれだったか。



使えない店
2002年7月15日(月曜日) はれ

空港に中に大手コンビニチェーンの店は存在しないのか? と思って調べてみたら、成田空港には第一ターミナルに一店関西国際空港にも地下一階に一店、ローソンがあるようだ。羽田空港については不明。でも、成田の場合は第二ターミナルからわざわざ行こうとは思わないし、しかも場所は展望ロビー。関空は利用したことがないが、こちらはさらに変なところにあるようだ(知る人には有名らしいが)。飛行機に乗る前に、コンビニで買い出しをしておきたいという需要は多いと思うし、チェーン店だと、あまり法外な値段を取るとも考えられないのがいい。テナント料が高いとか、色々な事情があるのは分かるが、空港の中に入っただけでジュースが300円になったりと、足下を見まくったような価格がまかり通っていたりするからなあ。ムカつきながらも我慢して法外な価格で中途半端な食事をするぐらいなら、コンビニ弁当でも食っていた方がいくらかマシだ。

公共交通機関の利用場所にある店がなぜ使えないのかを考えると、日用品が売られているとしても、観光地の土産物屋感覚の店が扱っているからだろう。土産物屋感覚の商売スタイル自体が悪いとは言わないけれど、たとえば事務的な用事でちょっと出かけた帰りに、新幹線などの中で夕食を済ませようかと考えて弁当を買うような場合、求めているのは明らかに地域の名産品だとかいう材料を使った類の弁当ではない。普通の値段で当たり障りのない食事ができれば何でも良いのだ。個人的には、そういう駅弁の類が嫌いというわけでは決してないのだが、東海道・山陽新幹線沿いの移動で特殊なものを食いたいとは思わない(かといって、駅のうどん屋とかそば屋では物足りない)。同じ方面への出張などが繰り返しある方なら、なおさらそう感じることがあるのでは。

あと、200円以内でコーヒーを飲ませる店があるとハッピーかな。



高層ビル
2002年7月11日(木曜日) はれ

午後から池袋のサンシャイン60へ。駅を降りたのは16時過ぎだったが、傾きつつある太陽の最後の足掻きとばかりに西から降り注ぐ、焼き付くような日差しも侮ることはできない。サンシャイン60を直訳すると、日差し60・・・こんな暑い日には、微妙に恨めしく感じるビル名ですな。実は、サンシャイン60に来るのは初めてで、下から見上げるとけっこう迫力があるように思ったのだが、高さランキングでは日本で第6位なので、意外と大したことがない(竣工当時は日本一だったようだが)。東京都庁を見上げたときも「ほぇぇぇ」って感じたが、これも高さではサンシャイン60とあまり変わらない。そのくせ、日本一高いはずのランドマークタワーを改めて見上げても、特にすごいとは思わないのは毎日見ているせいだろうか。まあ、凄いと思うかどうかは慣れの問題かな。

地価の高い東京あたりならもっと高いビルが建ってもいい気もするけれど(特にバブルのころなら)、世界的な高さランキングでは、ランドマークタワーですら第28位程度だというから、日本の摩天楼なんて知れている。その気になれば、地震大国にさらに高いビルを建てることも不可能ではないのだろうが、耐震やら使い勝手やら経済性やらを考えると、300メートル弱ぐらいが最大効率点なんだろう(高ければ良いというものでもないし、誇示するかのように競うべき類のものでもない、できるとしてもやるだけ無駄なものはいっぱいある)。ビルを変に高くしたときに問題となるのは、エレベータが占有するスペースらしい。ビルが高くなれば高くなるほど、中に入る人間の数は増える。すると、エレベータも数多く必要となるため、エレベータが場所を食ってあまり面積の有効活用にはならないのだとか。

言われてみれば、高層ビルの中心部分ってエレベータでかなり占有されてるよな・・・。




2002年7月10日(水曜日) あめ

夜の雨は、意外と写真に写らない。特に露出時間が長くなってくると雨粒が雨粒の状態では写らないためか、かなり激しい雨の景色ですら、何となく霞んでいるだけのように写ってしまうことがある。そんなわけで、大雨の夜の歩道橋を、フラれた男が傘もささずにトボトボと歩くというような、トレンディドラマにありがちなシーンを美しく撮るには工夫がいるらしい。雨(あるいは散水)に白っぽいライトを強烈に当て、意図的に雨粒を目立たせることで、土砂降りの感じを演出しているのだという。それを街灯で再現するとこんな感じだろうか。で、なぜこんな写真があるのかというと、借りてたビデオの返却期限が今日だったことに気づき、愛用のコンビニビニール傘がほとんど意味をなさないほどの土砂降りの雨が降るなか、泣く泣くビデオ屋へ行く羽目になったから。昨日のうちにやっておくべきだった。

www.exp.org に Apache 2.0.39 を入れてみたのだけれど、設定ファイルの解釈では 1.3.x 系との後方互換性が必ずしも保たれているわけではないようだ。設計がかなり整理されたようだが、それをやる際に、どうでもいいような互換性をある程度は切り捨てざるを得なかったのだろう。初めてサーバを立ち上げる場合や、さほど凝ったことをしておらず、不具合が起きても手動で対処できるぐらいの規模のサイトならこれでも良いと思うが、それなりに規模が大きく複雑で、どのユーザがどこの .htaccess に何が書いているのやら把握しきれないようなサイトでは、2.0.x 系へのアップグレードはやめておいた方が安全だと思う。www.exp.org が人柱になるのはいつもの流れで、業務用のサーバで余計なことをしてトラブルを起こす前に、ここで評価するという・・・現用であり、ほどよく複雑になっており、ほぼ全てのことを把握できている点で、非常に良い検体なのだ。

毎年恒例、夏休みの温泉旅行は台湾に決定。問題は金策だな・・・。



ピンボール
2002年7月9日(火曜日) はれ

MOS-FET燃やしちゃった。ばふって音が出た。臭かった。それにしても暑いなあ...

ゲーセンって場所は、どうも性に合わない。職業柄、ただでさえいつも座って画面を眺める仕事をしているというのに、カネを払ってまで座って画面を眺める種類のゲームをやりたいとは思わないし、だいたいそんなものは何度かやっているとパタンが分かってきてつまらない。対戦モノなら無数の展開があるとしても、よく出入りしている感じの上手いヤツと戦ったら、わたしなど一溜まりもないから対人間型のゲームは論外。クレーン系などに手を出しても、テクの足りないわたしには頭に来る結果が待っているだけだから、これもだめ。最近は踊り系やら音楽系なんていうのもあるけれど、人前でタコ踊りを披露したいとは思わないし、太古を叩いたりするやつは面白いと言えば面白いのだが、そんなものかと分かれば飽きてしまうので、リピートでやりたいとまでは思わない。

そんなわけで、ここのところ唯一楽しめているのが機械式のピンボールだ。やるごとに違ったことが起きるから、ワンパタンな展開に飽き飽きしてしまうことがない。しかも、そこそこ身体も使い、CRT画面はなく、対戦型ではないという点が実にわたし向きだ。今どきピンボールなんてほとんど化石みたいな存在だが、新しい機械を入れる予算がないだけなのか何なのか、こんなものをいつまでも置き続けてくれている近所のゲーセンには感謝の気持ちで一杯。少なくともこの近辺では、ピンボールが置いてあるのはここだけで、貴重な存在である。が、困ったことにやたらと故障が多いのだ。フリッパが動作しないとか、話にならない故障もけっこうあるし、平時でも、重大な支障はない程度で必ずどこかが壊れている。

文句を言うと、いちいち修理屋を呼んでいるようで、忘れたころに治るのだが、こんな状態ではいつまで持つことだろう。ネジ回しとハンダゴテを持ってきてその場で修理するような、かつていたガッツのある店員のオジサンはもちろんいるはずもなく、俺が見てやるから鍵だけ持ってこいとでも言いたくなるな。



うう・・
2002年7月8日(月曜日) はれ

ぼやっとしてたら左で曲がるはずの道を通り過ぎちゃったよー
ん〜と、じゃ次の交差点で左に曲がって、もう一回左に曲がって・・・
そして右に曲がれば行くはずの道に・・・って、なんでここが右折禁止やねん!!

う〜ん、困った。右折以外のことをすると、えらい遠回りになる。
そもそも大きな通りから逸れたところにある路地だから、車の往来も少ない。
仮に右へ曲がったとしても、特段の危険のあるような交差点じゃない。
取り締まりをやってるような場所でもないし、現にやってる気配もない。

・・・・・
・・・・・・・
・・・ええいっ、今日だけだ、行っちゃえ〜

と、まさに右折を始めたそのとき、近くの路地から原付に乗ったお巡り登場!
断っておくが、こんな運転は滅多にしない。ごくごく希な偶然なのである。
どう見てもたまたま通りかかったという感じで、めちゃくちゃついてない。
バックミラーには、明らかに捕まえる気マンマンという視線が写っている。
普段は呼んでも来ないくせに、何でこんなときに限って出てくるんだよぅ・・・

周辺の道を思い浮かべてみたが、逃げられそうな脇道はない。それこそ逮捕覚悟で相当荒っぽいことをすれば別かも知れないが、こんな市街地では、普通に逃げたとしても小回りの利く原付には勝てるわけがない。でも待てよ、相手は原付――ってことは、素知らぬふりをして首都高速に入ってしまえば、逃げられる勝算は十分にあるのではないか。ここから首都高速の入口は遠くない。逃げたのではなく、気付かなかっただけなのだ。自分にそう言い聞かせて、目指すは首都高速の入口! それまでに信号がいくつかあるが、頼むから青でいてくれよ・・・

という願いはまったく通じず、一発目の信号が思いっきり赤。原付から降りてきたお巡りに声をかけられ逃走意欲をなくし、敢えなく御用になりましたとさ・・・交通ルールは守りましょう(爆)。



続・弐千円紙幣
2002年7月7日(日曜日) はれ/やや曇り

二千円札の反応は、なかなかのものだ。遊びに来た友人に、何の脈絡もなく「二千円札いる?」と言って両替を強要したらわりとウケてくれたし、実際に店で使ったときのレジ担当者の反応も、まださほど多く使ったわけではないが、ある意味で面白い。当たり前のように受け取る人がほとんどだが、物珍しそうな顔をされることもある。二人で食事をしたら、6千円ほどになったので、割り勘にして3千円ずつ、それぞれ二千円札と千円札を一枚ずつ出すと、店員さんは一瞬だけ「いったいいくらなんだ?」というような表情を見せてくれ、変な組み合わせで二千円札を使うと、合計金額の認識でちょっと戸惑われることもあるようだ。とにかく、こうして他人の迷惑顧みず、こつこつと二千円札の普及に努めているところである。

ねこ注目



弐千円紙幣
2002年7月5日(金曜日) くもり/はれ

そういえば、二千円札ってどうなったんだろう?

二千円札がわたしの手元に回ってきたのは、これまででたった一度しかない。発行されてから間もないころのことだ。ファミレスで友人と食事をした会計を済ませたときに、お釣りとしてもらったのが最初で最後の二千円札だった。それからしばらくして、ガソリンスタンドで使って以来、まったく見ていないのだから忘れるはずもない。いまだに具体的な状況が記憶に残ってしまっているのだ。記念紙幣としてほんの少しだけ発行されたものならともかく、ここまで激しく流通していない二千円札のなんて哀れなことか――というか、こんなどうでもいい記憶がいつまでも頭の片隅に残っているようではいけない。微力ながら、そんな二千円札を少しでも多く流通させるために、わたしは人生で初めて日本銀行に乗り込むことにした。期間限定だが、日本銀行で二千円札の両替を行っているというのだ。

しかし、お金にはあまり縁のないわたしにとって、日本銀行ほど縁のない場所はない。普通の銀行ですら使うのは ATMばかりで、人間のいる窓口のお世話になることなど年に一度あるかないかだから、日本銀行といったら、仰々しいを通り越して、神々しいとさえ感じてしまう。そんなところに、小汚い格好で入っていって「二千円札ください」なんて言ってる自分の姿を想像しただけで何となく座りが悪いが――ほとんど野次馬根性で、日本銀行の横浜支店へ行ってみた。想像していたとおり、入りにくさにかけては天下一品である。建物自体は地味なコンクリートのビルで、テレビで見る日本銀行本店のようなビンテージ感はないが、そのゆえ、かえって要塞のような趣を呈している。看板らしい看板は一切なく、何の飾り気もない出入り口もこれまた目立たないところにあったので、どこから入るのか少し悩んでしまった。

店内の間取りは普通の銀行とさほど変わらないが、内装は極めて事務的で地味。むしろ、防犯第一という感じだ。防弾仕様なのかどうかは分からないが、すべての窓口にはアクリル製と思われる無色透明のパネルが立てられているうえ、現金を扱うところだけは、アクリルのドームみたいなもので完全に隔離されている。だが、その雰囲気に反して、職員はみんなやたらとフレンドリーなのだ。防弾チョッキ装着というやや物々しい格好で玄関に立っている警備員も親切だったし、案内された先の窓口のオバサンの対応も感じが良い。もっと役所的なところだと思っていたが、よそ行きを極めたような慇懃無礼な態度で接してくる都市銀行の窓口よりも、よほど好感が持てた。さらに意外だったのは、普通の一般客と思しき客もちらほらと来ていたこと。みんな、日本銀行にどんな用事があって来ているのだろう?

わたしは、5万円分の福沢諭吉を二千円札25枚に交換してもらっただけだが、勤め先の同僚にこの話をしたら、日本銀行の帯封が見てみたいという話になった。帯封には、銀行の名前が書いてあることが多い。だから、日本銀行から出てきた札束の帯封なら、「日本銀行」と書いてあるのではないか――日本銀行の帯封が付いた日本銀行券、なんて格好いいんだっ! と、非常に下らないことを思ったわけである。「おもしろそうだから俺も行ってくる」と言って出ていったのは、恐らく彼も野次馬根性で日本銀行に行ってみたくなったのもあるのだろうが、しばらくして、二千円札100枚の束(しめて20万円分)とともに帰ってきた。確かに帯封は付いているが、残念ながら「日本銀行」とはどこにも書かれておらず、タダの紙切れ。唯一の特徴として、検数者の印が押してあるだけであった。味気ない・・・

というわけで、今日からわたしの生活圏では二千円札が多発することに・・・。



看板
2002年7月4日(木曜日) くもり/はれ

光の筋。伊勢佐木町にて。

少し離れたところから、夜空を切り裂く青白い光芒が見えたときは綺麗だと思ったんだけどな。残念ながら日本では、夜空をサーチライトで照らしたりしてみても、どこか雅やかでない感じがするのだ。パチンコ屋の屋上からやってみても、Twentieth Century Fox の映画のオープニングみたいなゴージャスな雰囲気にはまずならない。思えば、夜間には明るく照らし出される繁華街の看板も気品に満ちているとは言えない。看板の存在自体が悪いという人もいるが、わたしはそうは思わない。中華街へ行けば、道路の頭上にまで迫り出すド派手な看板が入り乱れていても、それが都市景観の一部になっているではないか。この違いは何だろうか。うーん、たとえば「一泊12,000円〜サウナ付き」みたいに、余計な具体性を挙げると安っぽくなるのかも知れない。

あのー、PETってポリエチレンテレフタレートの略なんですけど・・・。「PETボトル」という名称は「ペットが嫌がるボトル」だからそういう名前になったんだと思っている人がいて、ちょっと驚き。



エリザベスカラー
2002年7月3日(水曜日) くもり

動物が外科治療を受けたあと、完治するまで傷口を舐めたりしないようにと首に巻いておく「襟」みたいなやつのことを「エリザベスカラー」というらしい。これを装着した姿がまた、たまらなくかわいいのだ。エリザベスカラーを巻いたねこさんなんて、パラボラアンテナの真ん中からにょきっと顔が出てきたかのようで、あの滑稽な姿を見ていると、つい口元がほころんでしまう。「エリザベスカラー」と検索すると、にゃんこも、いぬさんも、うさぎさんも、とりさんも、それにカポックだって、エリザベスカラーのお世話になっている。って、どう見てもヤラセ・・・。

別に見ていたわけでもなかったのだが、つけっぱなしになっていたテレビには、たまたま「学校へ行こう」っていう番組が写っていた。その番組の中で、カナヅチばかりを集めてサーファーに鍛え上げるとかいう企画をやっていて、どっかで聞いたような名前が出てきたなと思ったら――驚いた。あんたそんなところで何やってんの、F津っさん? あれは、間違いなく高校のときに一緒だったヤツだ。ちょっと感じが違っている気もするので同姓同名のよく似た人間である可能性も考えられなくはないが、その名前で、大阪出身で、あのデブな体型で、あの番組のオーディションを通ってしまうほどの壊れたキャラの持ち主といえば、やはり彼一人しか考えられない。卒業後、東京へ行ったきり行方不明になっていると聞いたが、何をやってんだか。

要するに、あのような企画にすらっと登場してしまうような濃い人達に囲まれながら、幸せに育ってきたというわけです、わたしは(しくしく・・



2002
2002年7月2日(火曜日) 曇り/はれ

「立木トラスト」の「立木」は、「りゅうぼく」と読むのが正しいらしい。

運転の上手いヤツも下手なヤツも、なかには無免許やら飲酒やらも入り乱れながら狭い道路を走る自動車が衝突事故を起こすのなら分かるのだが、空はあんなに広いじゃないかと思うと、飛行機の空中衝突事故が起きてしまうのは何となく不思議な感じがする。空路は決められているとはいえ、はっきりと車線のようなものが引かれているのは見たことがないし、平面で交差する道路と違って、空には上下もある。同じ高度で飛んでいるとはいっても、それなりの誤差はあるんじゃないかと思う。わざとやろうとすればぶつかるかも知れないけれど、偶然起きてしまうとすれば、せいぜいニアミスになる程度? たまたまぶつかるっていうのは、よほど不運な神のいたずらのような事例かも知れない。

親戚が車を買ったというので見せて貰ったら、「2002」なんていうベタも過ぎる希望ナンバを付けていた。ディーラに希望ナンバはどうですかと進められたので、安直に「2002」にしたらしい。当人がどういう理由でこの数字を選んだのかはともかく、他人の目から見れば由来があまりにも明らかすぎて、2003年の元旦を迎えた瞬間から、年が変わるごとにダサさ20dB増ってところだろう。わたしも希望ナンバにしようと思ったのだけれど、一部の業界ではキリが良いとされる「256」や「1024」などの2の乗数ではありがちだし、「8086」では今どき古くさいし、「386」なアーキテクチャなんて仕方がなく使われているようなもの。「384」とか「768」も悪くないけどなんか地味だな、とか何とか考えた結果、そんなもん付いてりゃなんでも良いんだよってことで普通の一連払い出し。

「あのー、ぼくの車は2002なんですけどー」って方、率直な感想だから、お許しを。



コーヒー
2002年7月1日(月曜日) あめ/曇り

コーヒーを飲むと胃がおかしくなると主張する人も多いが、わたしはいままでコーヒーが胃に影響したことがない。コーヒーを飲まないと目が覚めず、集中ができない人間なので毎日それなりに飲んでおり、ときには空っぽの胃にコーヒーを入ることもあるが、何の問題もなし。むしろ、変に腹が減って胸焼けしているようなときは、コーヒーを飲んだ方が調子がよくなるぐらいだ。それはともかく、コーヒー豆の原価ってどのぐらいなんだろう。極端に不味くなければ特にこだわらないので、スーパーの特売で真空パックのやつを買いだめしているおくのだが、平常価格の7割引ぐらいになっているからけっこう大きい。喫茶店なんかが仕入れてる業務用の豆はもっと安いらしく、コーヒーの原価は数十円程度だとか。ボロい商売やな。

近所にある美容院で、小野伸二の写真とともに「小野伸二カット○○○円」なんていう張り紙を見かける。こんな便乗商売もアリなのかとちょっと笑ったところで、冷静になって「小野伸二カット」と「丸刈り」はどう違うんだろうか? とか考えたら、便乗にも程があらぁっとツッコミを入れたくなるね。値段的に見ても特殊な工程を要するカットのものではなく、丸刈り程度のものだったと思う。



突撃実験室