多事毒論(2003年5月分)


戦う女の子
2003年5月31日(土曜日) 雨/くもり

なんだか濃密な一週間だった。

映画版「あずみ」を観た。映画として評価するには作りがマンガ臭いし、ストーリもイマイチだったが、そんなことは初めから予想していたことなので、まあ構わない。最大の不満は、血糊の使用量が少なすぎたことだ。刀を振るたびに派手な血飛沫が舞い、全身に返り血を浴びながらも、なお斬り続けるあずみ――というシチュエーションを期待していたのだが、あずみが返り血を浴びる場面は限られていて、殺陣シーンのほとんどは、不自然なほど血の飛ばないありがちなものばかり。あずみ役である上戸彩の演技や殺陣はなかなか良かったと思うのだが、ここで血糊をケチるようでは、画竜点睛を欠くと言わざるを得ないだろう。返り血で汚れた顔に悲壮な表情を見せつつも、その刀で逡巡なくとどめを刺す――戦う女の子は、やはりこうでなきゃ萌えられない。

新聞なんかで「高圧電流に触れ」みたいな言い方を目にすることがあるが、これは工学的にも日本語的にも誤りではないか、という意見があった。確かに色んな意味でおかしい。高圧なのは電圧であって電流ではないし、そもそも「電流」という「現象」に「触れる」と言うこと自体が無理ではないかと考えられる。実際に触れたのは電線といった導体であって、電流に触れたわけではない。敢えてこういう言葉を使うのなら、「高電圧に触れ」とでも言った方が、まだいくらか正解に近いだろう。しかし、正しさを保ちつつも簡潔に言うとなると難しい。「高い電圧が印加された導体に触れて致死的な電流が流れ」では専門的すぎるし、長ったらしくてダメだ。「高圧線に触れ」ぐらいが分かりやすく、間違いが無くていいんじゃないのかな。



環境に優しいアングラサイト
2003年5月27日(火曜日) くもり

昨日は夕方から八王子。その途中、信号待ちで止まっているのにどうして車が揺れているのだ、と思ったら地震だった。生放送のラジオを聞いていなかったら分からなかった程度だったけれど。

よく分からない植物は、ゼンマイの新芽だったらしい。教えてくれた皆様、ありがとうございました。普通の野菜はしょっちゅう見ているから分かるけれど、山菜は滅多に食べないから、よく考えたら生えているところをほとんど見たことがない。ゼンマイがあんなに綿っぽいものだとは思いもしなかった。

いわゆるアンダーグラウンドな情報を扱うサイトには、背景色を黒にする傾向があるらしい。このため、逆に背景が黒いというだけでアングラサイトに分類されてしまうこともあり、ご覧のとおり多事毒論も黒だし、少し前までは突撃実験室のインデックスページも黒だったので、ここをアングラ情報サイトと思いこむ人も希ながら本当にいたりする。事実は、単にわたしの好みでそうしているだけである。テキストが主体のときは、CUI 時代の慣れからか、やっぱり文字は黒地に灰色(白は強調で使う)で表示させるのがもっとも自然に感じられるし、CRT モニタはもともと黒いものなので、コントラストが鮮明になるこのような配色がいちばん見やすい気がするのだ。CRT における自然さ、紙に書いた文字とは少し違う。

ところで、アングラ風の配色は、節電に貢献することが分かった。実験として、職場で使っている飯山の17インチ CRT モニタに電力計を繋ぎ、ほぼ全面に、同じ文書を白地に黒い文字で表示させたときと、黒地に白い文字で表示させたときの消費電力をそれぞれ計ってみた。その結果、前者の場合は73ワット消費していたのに対し、後者の場合は65ワットとなり、背景を黒くした(言い換えれば平均輝度を低くした)だけで8ワットほどの差があった。日本中で CRT モニタが10万台動いていたとして、すべての消費電力が平均で8ワット減ったとすれば、それだけで800キロワットの省エネになるわけであるが――供給力不足が騒がれている東京電力のサイトを見てみると、あろうことか、なにやらかなり白っぽい。ゆめゆめ、節電をお願い申し上げるページが真っ白だったり・・・するところを見ると、節電に対する意気込みがまだまだ足りないと見受けられる。



湿原とか
2003年5月25日(日曜日) くもり

長野の日。諏訪でお昼を食べたあと、ちょっとだけ寄り道するつもりで白樺湖のあたりに出る県道を走っていたら、予想に反して本格的に山を登る感じの道になってしまい、気が付いたら霧ヶ峰高原に来ていた。といっても、灌木やら枯れ草やらが見渡す限り広がっている高原地帯が目に入るだけで(季節的によくなかったのかも)、具体的な何かがあるわけでもないから、目的もなしに来てしまった者としては「どないせいちゅうねん」って感じだった。取り敢えず車を止めて散歩をしてみるも、行った方向が悪かったのか、目標になるものすら見当たらないので、そのままでは遭難するまで歩いてしまいそうな雰囲気だった。そりゃまずい、ってことで途中で引き返して車に戻る。

またしばらく宛てもなく走っていると、今度は八島湿原という場所に出てきた。ここは、高い木はほとんど生えていないので見晴らしがよく、カッコウが鳴いているというような落ち着いた雰囲気がとてもいい感じ。季節と天気のいいときに、また来たいと思った。景色はぱっと見た感じ、丘陵地帯みたいだけれど、実は標高2000メートル近いところの山のてっぺんだ。よくこんなところにこんな立派な道路を作ったもんだなと思いながら走っていたが、よく考えたらこれは元々、ビーナスラインという有料道路だった。そういえば、最近無料開放されたことを思い出す。湿原の周りには、見たこともないような植物(ややピンボケですみません)が生えていた。なんだろうこれ?

標高1300メートルほどの場所で石油ストーブが焚かれているさまを見たときに、かなりのカルチャーショックを感じてしまった。外気温の低さに加え、今日は風が強かったので、体感温度は横浜でいう真冬並み。もう5月も終わるころだというのに、日本にそんな場所が存在するとは、想像もつかなかった。今日は特に寒かったみたいだけれど、今後は夏でも上着を持っていくことにしよう・・・(←わたしの計画性のなさがよく現れている事例)。



お詫び
2003年5月22日(木曜日) はれ

昨日の雑記に掲載しました「バイブ」ネタについて、「いささか度が過ぎているのではないか」といった内容のご指摘をいただきました。多事毒論は、多くの皆様に楽しんでいただけるコンテンツの作成を目指しておりますが、遺憾ながら、今回このようなご指摘を受けましたことは厳粛かつ真摯に受け止めており、気分を害された皆様には、心からお詫びを申し上げます。また、一部の方からは「意味がよく分からない」という指摘も頂戴しましたしたことから、せめてものお詫びの印といたしまして、本日は「使用中の画像」を無修正で掲載させていただきます。どうぞ、心ゆくまでご堪能ください。

と、ありもしない指摘を仮定して思ってもいないお詫びをそれらしく書いてみるテスト。最近は、企業のホームページにこの手のお詫びが掲載されていることが多いので、そういうのを参考にしてみたのだけれど、読みあさっていると、本当に謝ってるのかどうかよく分からないお詫びが非常に多いものだと思った。マイクロソフト風に言えば、「お詫び文章作成ウィザード」を使ってちょちょいのちょい書けてしまいそうな、フォーマット化されたお詫びに、いったいどれだけの実感があるのかって感じだし、それに「遺憾」といった堅苦しい言葉を、神経質なまでに丁寧な文体で綴る文章では、なおさら謝っているような感じがしないものだ。

ど慇懃な文体は仕方がないとしても、特に下手だと感じたのは、接続詞「が」の多すぎる文章だ。お詫びで「が」を多用すると、非常に言い訳がましい印象になるが、これが意外と多い。たとえば、「法令遵守を最重要課題として取り組んできました『が』、深くお詫びを・・」みたいに、お詫びの手前に「が」で弁明をくっつけるのは、明らかに余計。どうせ謝る羽目になったのだから、それまで取り組んできたことはどうでもよく、先に潔く詫びた方がよほど感じが良いと思う。書くのなら、あとから書けばいいことだ。あるいは、「が」の使い方が正しくないだけも、言い訳がましい印象を与えることがある。「処分を受けました『が』、これを真摯に受け止め・・」などと書いたのでは、どこか言い訳っぽく聞こえないだろうか。

まあ、下手な文章には一般に「が」が多用されるものだけど、お詫びの文章で「が」を多用するのは禁忌だね。



プーさん
2003年5月21日(水曜日) はれ

「うわぁ、かわいい〜。これなに?」と聞く保険のオバハンに、「ありのままの事実」をさらりと回答したら、かなり引かれてしまった。保険外交員といえば、強気だけが取り柄の人間か、何を言っても刺さらないほどのパッパラパーでなければやっていけない職業と覚え聞くが、ある種のフェイント攻撃なら通用することもあるらしい。持つところが「クマのプーさん」の格好になっていたので「かわいいもの」という認識で聞いたようなのだが、このことからも分かるように、うちに来ているオバハンは、上記の分類でいくと明らかに「後者」である。だから、難しい専門用語は理解できないだろうという配慮ゆえに、敢えて具体的な使用方法を、簡潔に説明したのだ。あくまで親切である。

そもそも、なぜそのようなものが仕事場にあったのか。これは、その経緯から説明しなければならないだろう。実は、ある日の昼休みに職場近くのゲーセンで遊んでいたときに、「マッサージャー」と書かれた棒状の物体を景品として貰ってしまったのだ。電池を入れると確かに振動するので、マッサージャーっていう呼び方が間違っているわけでもないのだけれど・・・そのあまりに小刻みな振動は、肩こりなどに使ったらかえって気持ちが悪いほどで、おまけに電池を入れるところはオーリングで防水されているほどの親切さ。プーさんは仮の姿に過ぎず、それはどう考えても通称「バイブ」と呼ばれる小道具と考えるしかない代物だったのだ。しかし、そんなものに使い道があるわけもなく、机の上に置いたまま忘れていたところへ――

「うわぁ、かわいい〜。これなに?
「まんこに突っ込んで、ぶるぶるするやつ。

「・・・・・・・・

だが、はじめはかなり引いていたオバハンも、最後は強かった。「でも、男性ばかりの職場だからこういうのもあるのかな」――そりゃそうである。女性のいる職場なら、いまごろ間違いなく被告になっている、という意味ではまったくそのとおりであるが、いずれにせよそんなもんが仕事場に置いてあっていいわけがない。わたしの感覚に異常があるだけだと思われるのだが(えー、これは個人の問題であって会社自体がこういうノリなのではありません…念のため)、それすらカバーしてしまうパッパラパーぶりに、長続きしている保険外交員の底力を見たような気がした。



滑る
2003年5月20日(火曜日) あめ/くもり

雨が降るたびにアホかと思うのが、タイル張りになっているところだ。表面の仕上げ方にもよるが、ツルツルで光沢のある小綺麗なタイルは、だいたいのものが濡れると極度に滑りやすくなる。ビルのエントランスとかで滑って転びかけたり、あるいは本当に転んでしまった経験がある方も多いはずだ。わたしは、住んでいるビルの出入り口やエレベータホールがこれなので、雨が降るごとに滑っている。慣れているので、さすがに転けることはないが、危ないことには変わりない。こんなもの、つまらん見栄えだけにこだわって、安全性をまったく無視した悪しき設計の代表例だろう。乾燥時には良くても、濡れたらどうなるかということぐらい分かりそうなものだが。

近所の歩道もタイル張りになっているが、さすがに公道では湿潤時のこともちゃんと考慮されているのか、表面がザラザラに仕上げてあるものが使われている。アスファルトやコンクリートに比べればまだ滑りやすいが、危険を感じるほどでもないから、まあ合格範囲だろう。人が歩くところもさることながら、車が通行するところでも、理解に苦しむ材質が使われているのを見かけることがある。さすがに公道では希だろうが、ゴージャス感にこだわりがちな、ホテルなんかの車寄せが要注意ポイントだ(実際、ABS を動作させながら滑走する車を見たことが・・)。床面塗装剤で仕上げたコンクリートも、やや滑りやすい感じがする(あれって水を弾くし)。スーパの屋上駐車場とかで使われていることがあるけれど、大丈夫なのかな。



ラップ治療その後
2003年5月19日(月曜日) あめ/くもり

久々の更新報告:Yamaha のルータで IPv6FreeBSD で IPv6Windows 2000 で IPv6 を公開。

16日の記事で、創傷をラップで密封する治療の人体実験をしていると書いたが、その後の経過は至って順調である。わたし自身、創傷は瘡蓋ができたあとに、乾燥した状態で治るものだといままで思い込んでいたが、これが必ずしも真実でないことは、これで明らかとなった。瘡蓋ができる前から通気性のないラップで傷口を密封し、常に湿った状態を保っていても、現に傷は治っていっているのだから、そう言うしかないのだ。もっとも、どちらの方が良いかという議論については、詳しく比較したわけではないので断言はできないところだが、ラップ治療をしている創傷の治癒が特に遅いとは感じられないし、密閉していると化膿するのではないかという懸念もあったが、いまのところ、それもない。少なくとも、害のある方法ではないと思う。

回復速度は、直感的には、同等よりもやや早いという感じがする。その根拠は、先週の日曜日に擦りむいた膝の怪我の経過だ。この怪我は、たいしたものではなかったので絆創膏も貼らずに放置していたら、いつのまにか上に分厚い瘡蓋が被さった状態になっていた。ところが、風呂に入ったときに瘡蓋がふやけて取れてしまい、再び出血。しょうがないので普通の絆創膏を貼り、そのまま忘れていたのだが、二日後に思い出したときには絆創膏のガーゼが傷に貼り付いていたたらしく、今度はこれを剥がしたときにまた瘡蓋が剥がれて出血してしまった。その際に、傷の大きさが受傷時からほとんど変わっていないような気がして、それなら実験材料にしてやると、ラップ治療に切り替えてみたのが先週の土曜日のことだ。

ラップ治療開始時の写真から分かるとおり、軽い擦り傷が一週間経ってもこのような状態では、順調に治っているとは言い難いだろう。ところが、ラップ装着後は「見ていても分かる」ほどの早さで傷の大きさが小さくなっていっている。ラップ治療の開始時点から25時間後と、50時間後の写真を見比べていただければ、そのことは納得していただけると思う。ラップを使わない従来の治療方法でも、このぐらいのペースで治癒することがまったくないとは言い切れないので、「ラップ最強論」を言うつもりはないが、このようなことから、それなりの成果はあるという確信は持てた。悪い点もある。気にするかどうかの問題だけれど、傷から出てくる汁みたなのが少し臭うのと、創傷周辺の皮膚もラップで長時間密封されることになるので、肌がふやけてきてしまうなど。

今回の主人公である指の怪我の経過については、また後日。



IPv6
2003年5月17日(土曜日) あめ/くもり

少し前からトップページで案内しているとおり、突撃実験室の Webサーバを、IPv6 でもアクセスできるようにしてみた。今後、IPv6 に対する関心が高くなってゆくことは明白であり、いまから IPv6 の実験やっておく必要がある――などともっともらしい理由を付けて、勤務先の某ISPで、IPv6 ネットワークに接続する稟議を押し通すことに成功したからだ。いかにも建前臭い理由付けも、ウソではないのだけれど、本音は、とりあえず個人的に IPv6 で遊んでみたかったからだったりして。実験の名を借りたネットワーク資源の趣味的横領と言えなくもないが、現用に使う前に、突撃実験室のサーバを検証用環境に使っていることも多いから、多少の道楽には目を瞑ってもらうことにする(←モロ本音)。

いまは http://www.v6.exp.org/ が暫定の IPv6 専用サイトとして動いている(IPv4 環境からは繋がりません)。そのうち、www.exp.org と統合するつもりだが、試験用なので敢えて分けてあるのだ。で、いまのところ IPv6 でやってきた方は、自分以外ではたった一名のみ。最近は、一般客向けに IPv6 のトンネリングをやっているISPも増えてきているので、もうちょっといるだろうと予想していたが、寂しい限りだ。無理からぬことだとは思う。普及度の点で IPv6 を日常に使うのは困難だし、具体的なメリットが即あるわけでもないから、技術的な興味ぐらいしか動機になりえない。IPv6 の普及促進の面ではいいのだが、ISPやルータ業界あたりがいくら空回りしてみたところで、いまはエンドユーザがトンネルを掘っても、ping6 が通って亀が踊る「調査坑」にしかならないのも事実だし。

そんなわけで、なにそれ? だからなんなの? っていう感じの方がほとんどだと思うけれど、取り敢えず IPv6 が使えるようになりましたので。



創傷治療
2003年5月16日(金曜日) あめ/くもり

昨日、サーバ置き場に冷風を送っている自家製送風機のメンテナンスを行う際に、大型の角ファンのブレードで指を負傷してしまった。もちろん電源は切ってあったのだが、慣性というものの存在を忘れていたため、不注意で止まりきってなかったファンに接触してしまったのだ。その瞬間、あまりの激痛に悲鳴を上げながら、意味もなく部屋の中を走り回ってしまった。まともに物事を考えることができないほど痛かったからだ。パソコンの空冷なんかによく使っている角ファンも、大きいものになると、ブレードは樹脂製ではなく金属製である。慣性で回り続けていただけなのだが、ナメてはいけないことが良く分かった。

痛みがやや退いて、出血が止まったあと受傷箇所を確認したところ、幸いなことに、あの痛さから想像されたほどの傷にはなっていなかった。ファンブレードが皮膚をかすったためだろう、爪の付け根の付近の表皮が抉られてしまって肉が露出していたが、創傷の深さや面積は、思ったほどではなかった(それは想像したものとの比較であって、決して小さい傷ではなかったが)。だったら、あの深刻なまでの痛さは何だったのかって感じだが、よくみたら爪の内側で内出血が起きていたので、あれは爪にファンブレードが直撃したことが原因だったようだ。最悪である。爪直撃系の怪我は、普通の創傷と違って、ダラダラと痛みが続く。実際、24時間経ったいまでは創傷部分など叩いても平気だが、爪の方は痛いままだ。

爪は放っておくしかないが、以前に包丁で指を削ぎ落としたときの経験から、創傷の治療には改善の余地があると思った。一般的には、消毒をし、絆創膏やガーゼを当てるといったことが行われるが、オキシドールは苦痛と言うほかないし、肉が露出しているような創傷にガーゼなどを当てると、それが傷口に貼り付いてしまい、剥がすときにいっそ殺してくれと思うほど痛い思いをしなければならない。だが、ガマンの足りないわたしにとって、そんな野蛮な治療は二度とゴメンである。受傷直後の傷が痛いのは仕方がないとしても、たとえばガーゼを剥がすときの痛みは、そもそもガーゼを使わなければ発生しないのだから、これは対策できる問題だ。ここで治療は痛くて当然、などという精神論を持ち出すしても始まらない。旧来の方法が痛いのなら、痛くない方法を考えるのが現代的な態度であろう。

ここで、いろいろな素材が極めて豊富にあるこの時代に、なぜガーゼや絆創膏などという重大な欠陥のあるものがいまだに使われ続けているのか、という当然の疑問が沸いてくる。傷口に貼り付いたガーゼなどを剥がすときの苦痛など多くの人が経験していることで、なぜ解決されないのか不思議なぐらいだ。色々と調べていると、新しい創傷治療というサイトでも、医学的な見地から同じような議論が行われている。傷は消毒するな、乾燥させるな、洗って密閉せよ(閉鎖療法)、などと常識を覆すようなことばかりが書いてあるが、傷が治癒する原理から説明されており、かなり正しい印象を受けた。で、ここによると「創傷被覆材」というものが使われているしいが、そこらで市販されているものではない。

そこで、家庭でできる閉鎖療法で紹介されている方法に従って、「ラップ」を使った治療実験をしてみている。きちんと二つ同じような傷を作って比べているわけではないので(ていうか、そんなことしたくもないが)、普通のやり方との際を具体的に説明することはできないが、受傷から24時間でかなり痛みが消えたのと、比較的早いペースで治りかけている(傷の写真―多少グロいです)ところから見て、それなりの効果はあるように思う。少なくとも、市販の絆創膏以下の結果になってしまった、ということは今のところない。



ハナウエール研究会
2003年5月15日(木曜日) あめ

どっかの二番煎じみたいだが、「ハナウエール研究会」を結成してみようと考えてみた。活動内容は、街に花を植えながら、植物の持つ、電磁波の中和作用を研究することだ。なぜ花なのか――それは、ちょっと変わった研究会を運営するためには、地域住民との融和が必須だからであり、ここで致命的な失敗をしている団体は少なくない。そこで、花を植えて地域の方々に楽しんでもらうのだ。間違っても、ラフレシアみたいなものは植えちゃいけない。花には違いないが、街がラフレシアだらけになってはさすがに気色が悪い。また、日本海と太平洋が繋ってしまうような植え方も論外だ。そんなことをしたら、肝心の研究内容とは違った形で有名になるという、不本意な結末が予想される。ありがちで無難な花を、そこらの花壇に植える程度にする。

言うまでもないが、花を植える作業の最中は白装束を着用し、現場は必ず白い布で囲う。なに、怪しむことはない。白装束は、UVカット効果を最大限に高めたオリジナルの日焼け防止ウェアである。UVも電磁波の一種。電磁波の研究会が屋外作業をするときは、UVカットで決めなければ示しが付かない。それに、市販の日焼け防止グッズを使ったのでは、ハイキング中のオバハンみたいにで、格好がいまいちだ。また、白い布の囲いは、お見苦しい作業現場を隠すための目隠しである。デパートの売り場で品替えをやるときも、たいてい白い布なんか囲ってあるし、建設工事の現場も何らかの囲いがされている。当然の配慮であろう。乗り物は、資材や道具を運ぶのに便利な白のワゴン車を使う。やや変わったマークがベタベタと張ってあるのは、ステッカーチューンってことにとしておく。

入会者が集まると考えられないのが玉に瑕だが・・・。



国道2号完走
2003年5月5日(月曜日) はれ

夕方まで山口県光市でウロウロとしたあと、国道188号線を下松方面へ走り出した。帰る方向とは逆なのだが、何となくその方向を向いていたから、そのまま走ることにした。虹ヶ浜付近の風景が、わたしが住んでいた当時から見違えるほどに変わっていたことに驚いてしまった。親の車でここをよく走っていたころは、海岸線にへばりつくように取り付けられたしょぼい2車線道路だったのだが、4車線の立派な道に改良され、まったく見慣れない道路になっていたからだ。調べると、1995年に拡幅されていまのような道になったとのことだが、そういえば、あの当時から何らかの工事をやっていた覚えがあるので、それかもしれない。子どものころ記憶だから、なんだか有史以前からやっていた一大土木工事が完了したような感覚である。

ところで、ここまで来れば、国道2号線の終点までそう遠くないのではないか? 下松でR188がR2に合流したら適当にUターンして帰路に就こうと思っていたのに、魔が差したとは、たぶんこういうことだ。下関なんて同じ県内なのだから遠いはずがない――調べもせずにそんなことを考えはじめてしまった。徳山あたりまできて、実際には100km以上あると分かったのだが、長距離ドライブで距離感覚が狂ってくると恐ろしいもので、あるところまで来ると100kmやそこらの往復は、大した距離ではないという感じになってくる。心のどこかではアホかと思っていたような気もするが、どこかの待避所で仮眠を取ってから、今度は門司を目指して走り始めてしまった。

そんなわけで下関まで行き、関門トンネルを潜ったのが午前1時40分ごろ(写真は門司側の坑口)。R2は、関門トンネルで門司まで続いているので、終点を見るためには関門海峡を越えないといけないのだ。それだけが目的で九州まで来て、ああバカだな、と思えたときが至福の瞬間。まあ、それが味わえればいいのだ。深夜の暗闇に包まれた国道2号のおにぎりに「これまで」の補助標識が付いた標識を確認するや否や、とんぼ返りである。よほどどこかで泊まりたかったのだが、翌日からは仕事なので、何としても当日中に帰らないと困ったことになる。どうでもいいと思うが、何の記念なのかはよく分からないながら、記念に取っておいた関門トンネルの領収証をスキャナで取ってみた。

帰りもまた、R2を延々と走ることにした。高速代がもったいないという理由もあるのだが、岩国から下松まではR188を通っているので、ここまで来てR2に未走破区間が残っているようでは座りが悪い。R2の下松−岩国間も、よく親の車で通った記憶がある。道沿いに「山賊」っていう異様に目立つレストランみたいなものが、当時と変わらぬままあった。岩国に到着して、R2を完走(神戸付近は走ってないけど)。そのままR2を走って、相生に到着したのが午前10時過ぎ。深夜から早朝を走れば、8時間ほどで相生まで行けるのだから、やっぱりハイペースな国道である。相生から先は、さすがに日没までに帰れなくなる可能性が濃厚になってきたので高速を使った(しかも意外と空いてた)。今回の総走行距離は、4日間で 2,500kmほど・・・こんなに走る予定ではなかったのだが。

昨日の補足。建て直される前の幼稚園の写真(1995年撮影)が出てきたので、一応掲載。あのころはまだ銀塩カメラを使ってもんなあ。それも懐かしい話だ。



山口へ
2003年5月4日(日曜日) はれ

広島市内の友人宅で遅い朝飯を頂いてから、帰り道とは逆に、国道2号線をさらに西へと進むことにする。広島西バイパスと宮島街道が合流するところ(あそこは道路構造に欠陥があるとしか思えん)から宮島口まで、激しく渋滞していたために1時間ほどノロノロと走る羽目になったが、あとは快適そのもの。しばらく瀬戸内らしい景色を眺めながらR2を走ったあと、お昼ごろに県境を越えて山口県へ。さらに、岩国でR2から外れて、海沿いを通るR188に入り、柳井方面へ向かう。山側を通るR2が岩徳線だとすれば、R188は山陽本線にあたるルートである。これでどこへ行くのかというと、山口県光市へ。小学校のころを過ごした街なので、ここは第二の故郷みたいなところなのだ。

やはり海を見ながらR188を1時間ほど走ったところで、念願の光市境界の看板を見ることができた。実は、8年ほど前にも、山陽本線の乗り潰しをやったついでに寄ったことがあるのだけれど、そのときは車という移動手段がなかったので、思うように動くことができなかった。だから車を買ったら、いつか自分で運転して来てやろうと思っていたのだけれど、横浜からではおいそれと行ける距離ではないないので、念願だったのだ。わりと気楽にどこへでも行っているようだけど、さすがに下道だけでメガメートルオーダの距離を走るとなると、それなりの覚悟がいるからね。

というわけで、通っていた小学校から見ておくことにする。わたしの通っていた小学校は、象鼻ヶ岬という、象の鼻みたいな形をした半島の先っぽにある猫の額ほどの土地に建っていた。正面から見ると、どこにでもある田舎の小学校にしか見えないけれど、そんな立地条件から、真裏は小高い山、反対側は砂浜と漁港という、すごい環境にあった。いま思うと安全管理上大いに問題がある気もするのでもう許されていないかも知れないが、休み時間には 山の遊歩道とか海辺とかで勝手に遊んだりしていたのだ。山といっても遭難するほどではないし、海といっても浅いから大したことはないのだが、それでも、ずぶ濡れになったり、砂浜に打ち上げられたクラゲを投げつけられて、シャツにクラゲ型の色素を付けたりしているヤツはいたような気がする。

学校には、国鉄バスで通っていた(いまはJRバス中国)。写真のバスは「山」ナンバーだから相当古いはずで、ひょっとしたら、通学時に乗ったことのあるバスかもしれない。バス停までのアプローチは、緑に囲まれた県道146号室積公園線。そういえば、学校自体が公園の中にあるんだったっけ。学校のすぐ近くにあった雑貨屋さんは、もう看板を下ろしていて、年月を感じる。学校とはぜんぜん関係ないけれど、室積公園口まで来ないバスは、少し手前の「室積駅」っていうバス停で止まる。鉄道の駅でもないのに「駅」と名が付き、駅舎のようなものもちゃんとあって、わたしが通っていたころは有人の発券窓口もあった。旧国鉄バス路線ではたまにあるのだが、比較的珍しい存在なので、写真をとりわすれたのが痛い・・・。詳しくは、バス駅のページで。

通っていた幼稚園にも行ってみた。こちらは、最近になって建て直されたようで、当時の面影はまったく無くなっていた。これは8年前の訪問の時点ですでにそうだったが、名称も「光第二幼稚園」から「光天使幼稚園」という名前に変わっている。敷地は同じままなので運動場を見ると少しは思い出すが、あのころは広かった気がした園庭も、いま見ると妙に狭く感じる。道路を挟んで向かい側にあった、芋畑はそのままだ。スイカの種を食ったら、腹の中で育ってああなっちゃったんだって言われていた、肥満体型の園長先生はまだ健在なんだろうか。どこの国の人かは知らないけれど、ちょっと怪しい日本語でしゃべる外国人の神父さんで、子どもながらに、どことなく神々しい雰囲気を感じていたような記憶がある。当時のわたしは悪ガキで、研修でやってきた保母さんを、スカートめくりの洗礼で迎えてあげてたっけなあ。

住んでいた家を見に行ったら売家になっていた。植物が必要以上に茂っているところから見て、かなり昔から空き家になっているような感じである。それより、この家のすぐ近くにあった「まきだ」という駄菓子屋さんがまだ存在していたことに感動。なにせ、当時から明日にも廃業しそうな感じだったから、もうさすがにないだろうと思っていたのだ。近所の公園も、当時と変わらぬまま。公園は光駅近くの高台にあって、そこからは山陽本線と海が見渡せる。こうやってみると、中国地方の街って平坦なところは本当に貴重だって感じがするなあ。このほか、何かとお世話になった郵便局も当時のままであった。実は、この前に別の家に住んでいたこともあるのだけれど、そちらには人が住んでいたので、公開は控える。この家の真裏にあった公園公園その2)も、昔のままだった。

最後に、茶臼山っていう山のてっぺんにある、NTT浅江無線中継所まで車で上れることがわかったので、林道みたいな道を登ってみた。ここからは、光市街地の全景が見られる。住んでいた住宅地と公園(運動場みたいなところ)とか、学校のある象鼻ヶ岬とか。思えば、小学校のころ茶臼山の頂上に至る山道を歩いて登ろうと試みたことがあるのだ。当然、途中でそれが無謀な試みであることが分かってわりと早い段階で引き返したのだけれど、いまになってそれが実現できるとは思わなかった。帰る前に、近所の虹ヶ浜海水浴場を散歩して、光市を後にする。どうでもいいが、山口県のガードレールは黄色い。みかんの色なのだそうだ。

で、このあともさらに西へ・・・



大阪→広島
2003年5月3日(土曜日) はれ

実家で寝たあと、またまた深夜から、今度は広島に向けて動き出す。

その前に、少し前に部分開通した第二京阪道路を走っておくことにした。京滋バイパスの宇治西ICから入り、久御山JCTを通って開通区間終点の枚方東ICまで走った。午前2時ごろとあってか交通量は皆無に等しく、気持ちよく真新しい舗道を堪能する。専用部は6車線の高架構造で立派の一言。特に、遮音壁などの環境対策に相当な費用がかかっている感じで、このあたりの設計は極めて今風である。さらに、今回は確認できなかったが、道路の両脇には環境帯も設けてあるそうだ。そういえば、今年の初めに R302(名古屋環状2号線)を走ってみたときは、ほとんど遮音壁の筒の中を通っているみたいだったし。道路自体の建設費よりも、環境対策費の方が大きいのではないかと思えるほどだ。

そのあとは、R1→阪神高速→第二神明と有料道路で都市部はすっ飛ばし、続いてR2のバイパスである加古川バイパス、姫路バイパス、太子竜野バイパスと走って、R2でひたすら西へ西へと向かう。R2は、バイパスがよく整備されているため、思っていた以上に使えるというのが全体的な印象だ(しかも第二神明以外は、もともと無料だったか、すでに償還が終わっている)。R1みたいにトラック街道になっているわけでもなく、信号は少なめで、全体的に流れがいい。バイパスのない区間(相生−岡山間、三原−西条間など)は普通の 2車線国道で、ときには山岳道路の趣すら見られるが、交通量は少なめだったため、ここでも言うほどのストレスは感じなかった。建設中の三原バイパスなどが開通すれば、もっと良くなりそうである。大阪から広島まで、5時間ほどで行けた。

知らない街に入っていくと、いつもはなんだか場違いな感じがするのだが、久しぶりに中国地方を訪れて、むしろ懐かしさを覚えたのは、山口県で育った経験があるからかも知れない。瀬戸内海に沿って国道と山陽本線が併走(背景が真っ白なのは朝日のせい)し、街の背後には高くも低くもないような山が迫っていて、褐色の屋根瓦の家が傾斜地にへばりつく風景は、小さいころによく見ていた記憶がある。写真は、三原市内で撮影したものだが、昇りだした朝日に照らされたこんな街並みを見て、これが自分とはまったく縁のない風景だとは思えなかった。この日は広島市内の友人宅に泊めてもらい・・・そして、そのまま帰るつもりが、何を思ったかさらに西へと行ってしまった話はまた明日。



大阪へ
2003年5月2日(金曜日) はれ

1日の23時ごろ、大阪へ向けて横浜を出た。今年の連休では、広島に飛ばされてしまった友人を訪ねるのが目的なのだが、貧乏人に相応しいとはいえ、一般道で広島まで一気に行くのはさすがにちょっときついので、大阪の実家を中継地点にすることにしたわけだ。ルートは概ねいつもの通りだが、今回は R246に出る経路として、いつもの保土ヶ谷バイパスではなく、県道22号(長後街道)を使ってみた。伊勢原まで直線で出られるのは良いのだが、幅員が中途半端であったり信号が多かったりして、いまいち速度が上がらないから、時間短縮にはあまり貢献していない気もする。拡幅工事の用地取得はそれなりに進捗しているように見えるが、粘っている建物が少し残っているところを見ると、使える道路になるまでには、まだしばらくかかりそうだ。

伊勢原→R246→沼津→R1→豊明→R23/R1→亀山までは、いつも走っているところなので、前回との差分のみメモっておくことにする。R246においては、山北町付近の改良工事(山北バイパス)のごく一部が終わったようで、2車線で暫定供用されていた。完了するまでにはまだかかりそうな感じだが、幅員狭小で線形が悪いわりに大型車が多く、離合時には緊張を強いられる区間なので、ありがたいことである。R1では、富士由比バイパスの4車線化工事が終わっていた。これも嬉しいことだ。深夜になるとほとんどトラック専用道になるところで、2車線交互通行で遅いトラックに先導されるとかなりフラストレーションがたまる。この日は休みが絡んでいたためか、交通量は比較的少なめだった感じがするが、それにしてもトラックが多いよなあ。

問題は亀山から先である。実家が枚方から吹田に引っ越したため、名神高速利用の場合は極めて便利になった反面、一般道では行きにくくなった。しかも、深夜に横浜を出ても、近畿圏内に至るころには有効時間帯に入っているので、ルート選定には慎重さが求められる。枚方へ行くのなら、R307という良好な道があるのだが、R1に出たところで吹田へは行きにくい。地図を見ながら考えると、淀川右岸へ渡る橋が不足気味なのが諸悪の根元だと思えてきた。枚方大橋は、まあ論外だろう。となると、京都市内を横切ってから久世橋あたりを渡るか、寝屋川から摂津に渡るかぐらいしかないが、前者では大津や京都の渋滞ポイント通らざるを得ず、後者もぱっとしない。この区間ばかりは、四の五の言ってないで名神を使うのがベストかも知れない。

結局、最後まで良いルートが思い浮かばなかったため、亀山から名阪国道で伊賀上野まで行き、今回はチンタラを覚悟で、R163のみで大阪まで行ってみることにした。道路事情はともかくとして、これは山脈地帯を迂回したりしない亀山から大阪までの最短ルートなのだ。実際には上野から木津まではチンタラ道路だし、木津から生駒までの区間は、きつめの上り勾配のためか、輪をかけて流れない。清滝峠を越えたあとも四条畷〜門真の渋滞が激しく、やってられなくなった。ここで、地図にはなかったが、R170(外環)から有料の鳥飼仁和寺大橋へ至る府道が最近開通したのを思い出し(というか、寝屋川かどっかの共産党議員が騒いでたのを思い出し)、行ってみたら実際に通れたので、ここは素直に100円払って橋を渡り、大阪中央環状線へ。

が、これが大失敗だった。大阪中央環状線は立派なのでもっと流れるイメージがあったのだが、万博公園の付近まではオーバーパスが整備されているとは思えないほど流れない。もう悪あがきする気力が残っていなかったので、結局そのまま吹田まで走ったのだけれど、中環を使うのはやめた方がいい、というのが今回の教訓。ここらは地元の人にしか分からないと思うが、経験上、吹田へ行くときは千里丘駅の下を通る片側交互通行のガード(しかしどうにかならんのですかね、あの不細工なガード)を通るのがいちばん早いような気がする。淀川をどこで渡るかでも迷うが、吹田市内に入ると、JR東海道本線を渡る(くぐる)ところが少なくて迷う。吹田の人はどうしてるんだろと、いつも疑問に思うのだが。

そういえば、千里中央公園の前を通る府道で、ネズミ取りにやられるところだった。レーダ探知機が反応したので、どうしてこんな妙な場所で鳴っているんだと思いつつも、念のため法定速度で走っていたために、難を逃れることができた。どうせ誤検知だろうなどと思って無視していたら、捕まっていたところだ。千里ニュータウンのあたりは道が良く、道路幅員が広いために速度感があまり感じられないために、気が付くと70〜80キロぐらい容易に出てしまう。敵さんもそれが狙いなのだろうけれど、汚いところでやりやがって・・・。



突撃実験室