最近、本当に長文が辛いです。ほとんど箇条書きかメモ、短歌しか書きません。誰かが書き直してくれたら差し替えますが、誰もそんなことはしたくないでしょう。なので、変な文章は見逃してやって下さい。
で、今回は文法についてです。とはいっても文法の説明じゃなくて。文法の必要性というか、何でこんなにうるさく言うねん、このおっさん、みたいな疑問を解決するというか、まあ、そんなところです。言葉の大切さがわかっている人は読んでもあまり役にたちませんが、初心者向け企画と言うことで、書きます。こんないい加減な文章で文法の必要性を説かれても、と思いますが・・・。ま、それはおいといて。
たまーに文法無視(ないし軽視)でもいいねんと言う人がいて悲しい気持ちになるんですが、短歌は言うまでもなく文学です。57577で31という、俳句に続いて世界に類を見ない(多分)短い定型叙情詩です。とにかく日本が誇る文学の仲間です。
シティボーイズではないけれど、世界には2種類の人間がいる!
文章を書いて人に見せる人間と見せない人間だ!(わかる人しかわからないでしょうが)
というわけで、文章を書いても人に見せない人はどうぞお好きにして下さい。個人的な日記やメモをどうこういうつもりはありません。が、見せる人間は文法を気にする必要があると思います。
何故か!?
人に見せるというのは、理解や共感を得るためであるとも言えるからです。ということは、読み手が理解できない文章は、読み手から言えばゴミです。どんなに作り手ががんばろうが、理解してもらえないものはゴミです(作り手の主観は置いといて)。ここで言う理解とは、文法通りだが読み手の理解能力の欠如で理解できないものは含まずに(これを含めるとレベルの低い方へと下がらざるをえない)、文法の理解能力がある人でも、文法を無視している為に理解できないものを指します。ここで例外が1つ。
前衛過ぎて理解者が非常に少ない。これはけっこうあると思いますが、こういう道を行きたい人はそうするしかありません。きっといつかピカソのように認められるでしょう。が、俺は知りません。修羅の道だと思いますががんばって下さい。
話を戻して。怖いですねー。自作の短歌がゴミなんて状態になったら、人間を否定されたような気すらします。で、文法を無視(ないし軽視)しているとせっかく良いものを作っても伝えられません。文章は書き手を離れた瞬間から一人歩きする、というそうですが、極力作ったとおりに読んで欲しいのが人情というもので。そういう切ない希望を叶えるためにもやはり文法や言葉はきちんと使う必要があると。ちなみにこのサイトでは文語文法しかやっていませんが、口語や現代語に関しても同じです。ら抜き言葉等をどうするか、という問題はあるにしてもやはり文法に従わないと理解不能な文章になります。とにかく、ひたすら辞書を引きましょう。わかっていても確認にもなるし、勉強にもなります。
で、さんざん出ている「文法」とは何かってことですが、これは国語の授業で勉強したような暗記のことばかりではなくて、実は結構身近です。意識していなくても、普通の会話で当たり前に使っています。
試しに、適当な例文を出してみましょう。ネタは個人的なので勘弁して欲しいですが。
「今日、俺は理事会へ行く」これが正しい文章です。おかしくしてみると「今日、俺と理事会が行った」はぁ?でしょう。どこに行ったんじゃ、って感じです。他にも、日本語を覚えたての外人さんでよくあるのが「私、なになに、する(した)」です。正確に言えば「私は何々をする(つもりだ、なになにをしたい)」もしくは「私は何々をした」です。敬語などは難しいのであまり使えてないのはおいといて、こういうたどたどしい言葉は英語のできない日本人(俺も)でも使います。「I,English,very
bad.sorry」など。他にも(わざと作っているので、過激な間違い方ですが)「私の携帯電話(所有)」というのに、「私も携帯電話」とは言いませんよね。
こういう変な文章にならないように、言葉を正しく使う。文法なんてそんなところから始まります。主語だ述語だと考えるよりも、もっと身近です。どんな馬鹿話であろうと、日頃の会話から文法に基づいているわけです。別にことさら難しいことをやれといっているわけではないんです。
また、文法を「型どおりだ」とか「没個性」だとか言う人もいますが、これはおかしいんじゃないでしょうか。あなたが新しい言語を作っているなら別ですが、そうではないですよね。ここに来ているってことは短歌を作ろうとしているはずです。外国語での短歌はおいといて、基本的には日本語で作りますよね。日本語というものを使う以上、日本語の決まりに沿って短歌を作るべきでしょう。それは型どおりかも知れないけど、言葉を使うからにはその言葉の型どおりになるのは当たり前です(そうでなくては言葉としての機能を果たせません)。それを没個性でイヤだと言ってしまってたら、言葉が使えなくなります。長い時間をかけて作られた言葉を没個性と言えますか? 日本人が日本語を使うからと言って没個性とは言いませんよね。むしろ没個性というならボキャブラリー(語彙)だとか、短歌の作り方だとか、話し方の癖だとか、そういうものの問題です。決して日本語を正しく使うことが没個性だとは言わないはずです。
だから、そうやって拒否せずに、面倒くさがらずに、文法を学びましょう。いちいち確認しましょう。そうやって苦労して、初めて意味が通じるはずです。意味が通じると言うことは、読者は把握できるということです。把握できれば、読み手の体験と重なって、気持ちをくみ取ってもらうことができるかも知れません。短歌などの詩は意思伝達のためではなくて(それなら散文でいい)、感動の追体験をさせるものと言えますから、自分の作ったものを共感してもらえるというのは作者冥利に尽きますよね。これが一番の目的ですよね(自分の気持ちを吐露したい、というのも、吐くだけではなくて相づちを打ってもらう、理解をしてもらうためだと思うし)。
今まで見てきた「文法」の必要性ですが、文法をきちんとさせた上で、短歌を掘り下げるなり、技巧を考えてみるなり、サイトの構図を考えればいいと思います。(わかっていながらあえてやる誤用はまた別問題)
おまけですが、市川染五郎だったか野村萬斎だったか忘れたけど、「伝統芸能は型を見よう見まねで覚えることから始まるが、別に没個性じゃなくて覚えきった先に個性がある」というようなことを言っていました。決まり、型どおり、という言葉にアレルギーのある人は多いと思うけど、そういうのを治してくれそうな言葉ですね。型を学んでその型に溺れるのではなく、それを破れる人が本当の個性だと思います。
偽りの個性なんて捨てちまえ! とりあえず文法を確かめろ!
というわけで、強引だけど今日はおしまい。