多事毒論(1998年6月分)




自衛隊?
1998年6月30日(火曜日) はれ

新聞を見ると、ある新入自衛隊員の日記みたいなものが掲載されている。傍目で日記を見ている分には良いが、もし自分がやれと言われたら絶対やりたくない仕事の一つだ。反抗的で無気力なわたしなら、5分も続かないだろう。学校ですら「おもしろくないから辞めちゃおう」って人間が、自衛隊の駐屯地で続く訳がない。例え、初任給100万前払いだと、札束で頬を叩かれても断るな。いや、札束だけ貰って猫糞するかも知れない(笑)

わたしの場合、給料が安すすぎるのは嫌だが、かと言ってハードな仕事(肉体的・精神的)はしたくない。しかし、働かざるもの食うべからずというのも尤もなお話だと思うので、適当に働いて、普通に食っていけるほどの給料があればまあ満足という感じ。それ以上のことを求めようという気はあまりない。普通に暮らせて、ある程度楽しければ良いや、みたいな。

新米自衛隊員のお話..『4月10日 火力演習のビデオを見た。火器の威力に驚くと同時に、平和主義を掲げる日本が強力な武器を持つことに少し違和感を感じました。力無き正義は無力なのでしょうか。』以下は、この疑問に対するわたしの答え。

わたしは自衛隊肯定派なのだが、同時に自衛隊違憲論者でもある。つまり、自衛隊がある程度正々堂々と存在できるように憲法を改正すべきだと考えている。別に平和主義を捨てて軍隊を構成しろと言いたいのではないが、微妙な位置にある自衛隊に、はっきりとした立場を与えるべきだろう。その立場を作るために、憲法改正が必要ならば、わたしはやるべきだと思うが、もしわたしの自衛隊肯定論や憲法改正論に異論を唱える人がいたとしても、曖昧な立場を自衛隊に与えては行けない。それならそれで、自衛隊みたいなものはすっぱりと廃止すべきだろう。

そもそも、日本には中途半端な事物が多すぎる。自衛隊もそうだし、米軍もそうだし、周辺事態とやらもそうだし、その類のものは全部多かれ少なかれ中途半端だ。しかし、中途半端である理由は実に簡単なことだ。それは、本当は非平和主義なことをやりたいのだが、日本には平和主義という建前があるのでできないから。そのため、とりあえず何でも紛らわしくしてあるのだ。その平和主義という建前を捨てれば、全部はっきりとしたものになる。自衛隊は軍隊に昇格するし、米軍は(日本から見れば)不要となるし、周辺事態は(例えば)日本国周辺に起きた紛争と呼んでも良いことになる。

新米自衛隊員は平和主義である日本で火器を持つことに違和感を感じているようだが、わたしの違和感はむしろ逆だ。火器を持つ国がいつまでも平和主義という訳のわからない概念を掲げているのは矛盾している。帝国主義の反省としての平和主義なら理解できる点もあるが、反省期間が過ぎれば、そもそも平和主義が、どういう主義を言うのかもわからなくなる。日本は平和主義だと言われるが、ただ単に戦争をふっかけなければ平和主義だと言えるほど簡単なものでは無いと思う。そろそろ、それが何であるかを考え直す時ではなかろうか。

また、力無き正義は無力に等しい。平和主義と正義を同時に成立させることは不可能である。正義が存在するためには必ず悪が存在しなければならず、その悪を気持ち良く叩き潰すことを、わたしたちは主観的に「正義」と呼んでいるに過ぎない。その悪にも、絶対的に悪は存在し得ない。悪に仕立て上げられた者の立場から見れば、自分達を叩き潰そうとする日本こそが悪で、自分達が正義ということになるわけだ。第三国などを悪に仕立て上げるためには、やはり平和的でない物、例えば武力などが必然的に絡んでくる。そのため、わたしは平和主義と正義は絶対に両立し得ないと考えている。

結論。思うことを適当に書いただけなので何が言いたいか良く分からない文になってしまったが、日本は平和主義という意味不明な建前をやめて、それなりの軍事力(と呼んで差し支えがあるなら、自衛力)を自前で持つべきだとわたしは考えている。もしそれが許せないのであれば、それはそれで永世中立国みたいな、はっきりとした立場を取るべきであろう。何れにしろ、今の「平和主義」は筋が通っていないので、国民も(潜在的であれ)困惑していると思うのだ。



月曜日
1998年6月29日(月曜日) あめ/くもり

月曜日かー。テンション低い日なのだ。

テンションが低くすぎるので、飯を食ってからに簡単なCGIを書いてみた。実は、アクセスカウンタが表示されていないことに気付づいたのは昨晩のことだった。直ぐになおそうとしたのだがカウンタのデータファイルが飛んでいたので修復できず。そういう場合は適当な値を設定しておくしかないのだが、飛ぶ前がどのぐらいの数字だったかいちいち覚えてないので、「どさくさに紛れてちょっと多めに設定しておこうかな♪」という不正に走ってしまう(笑)

そこで、対策を行うことにした。何の対策もせずに放っておき、またもやカウンタデータを飛ばしてしまうのは馬鹿のすることだ。実を言うと、カウンタファイルが飛ぶことは以前にもあったので余程対策をしようかと考えていたのだが、今の会社のサーバーにホームページを移してからは飛ぶことがなくなったので、放ってあった。しかし、またこんな事が起こったものだから...仮にもプロバイダで技術屋やって飯食ってるんだし、そのぐらい出来ないとね(←実は殆ど書けなかったりして(^^;)。

しかし、ただ単にカウンタデータのバックアップを定期的に取るようなことでは面白くない。そこで、1週間分のカウンタデータをメンテフリーでバックアップするようにし、そこまでするならと欲が出てしまい、終いには1日毎の増加数も計算して同時に記録するような物が出来上がってしまった。これで、1週間にわたり、毎日のお客様の延べ人数がわかるようになった。それもCシェルで書いて、cronで実行させちゃってるてるし。普通にプロバイダのサーバーを間借りしている人から見れば、かなり変なことをやってるんだろうな。そのシェルプログラムが吐き出す物は単なるテキストファイルなので、それを表示するものも作ってみた(1999/12/01補足:廃止しました)。こちらは普通にPerlで書いてある。ただのバックアップファイルを作るつもりが、やたら贅沢すぎるものが出来てしまったが...(管理用に作ったものなので見栄えは良くないけどね)

よくCGIで使われるPerlはそれなりに便利だと思うが、個人的にあまり慣れていないので使いにくいし、ソースの見栄えが悪いのであまり好みではない。わたしの場合、ちょっとしたものならシェルプログラムとして書いているが、UNIX標準のコマンドだけでも案外色々なことが出来る。今回作ったカウンタバックアッププログラムもわずか数行の簡単なシェルプログラムだし、実をいうとここで使っているアクセスカウンタもたった一行のシェルプログラムに過ぎない。そんなものでも、テキストベースのアクセスカウンタは完成してしまう。

シェルプログラムとはDOSでいうところのバッチファイルみたいなものだが、慣れてしまえば最初はややこしくて分からなかったシェルは凄く便利だと思う。DOSコマンドで慣れていたわたしが始めて触わったUNIX系のOSはSunOSだったが、その時はなんて糞使いにくいOSだ!と思った記憶がある。しかし慣れれば慣れるだけ、便利だと思えてくる。UNIX系のOSは一見すると複雑奇怪であるが、ある意味においては、設定しても思い通りに動かないことの多いWindowsよりも単純でわかりやすい。なんか知らない間に、この世界に足をどっぷりと浸けてしまったなー。と、今更後悔してもどうしようもないわたしであった。



今日も更新
1998年6月28日(日曜日) くもり

今日もちょっとだけ更新...
昨日の続きでもあるのだが、こちらを作った。

今日は暑いからこれでおしまい。



更新
1998年6月27日(土曜日) くもり

久々に実験ネタを追加した。天ぷらの廃油処理剤に関するネタだが、油関係はあまり好きじゃない...去年の8月にマーガリン工場でバイトしてから、油脂が嫌いになった。溶油室というところに配属され、マーガリンの材料である食用油脂を、トン単位で釜に放り込んで溶かしていたのだ。真夏に、油脂を蒸気で溶かすことを考えて見られたい。真夏の糞暑い中、輪をかけてくそ暑い場所で、汗まみれ&油塗れになる仕事をするのだから、嫌いになるよ。

昨日からの頭痛、今日も治らない..今はおさまっているのだが、わたしは以前から慢性的頭痛で「頭いたー」が口癖になるほどなのだが、最近特に酷い。脳腫瘍でも出来てるのだろうかね。変な時刻まで起きているからだという意見もあるのだが、規則的な生活をしていても治らないし...



選挙カーと投票率
1998年6月26日(金曜日) はれ/強風

うう〜、今日は朝から酷い頭痛に侵されて会社を休む...

選挙カーがうるさい。誰だ、あんな糞喧しい物を許可した奴は。お騒がせしております、○山×子でございます〜だと? 騒がしいと分かってるんだったらとっとと帰れ。ちなみに、あの選挙カーの仕様は公職選挙法か何かで細かく規定されているそうだ。具体的な資料は見当たらないのだが、スピーカーは何個まで、音量はどれぐらいまでというようなことも決められているらしい。ということは、どっかの音圧馬鹿みたいに、キロワット級のアンプと巨大なスピーカを複数個設置し、10メートル先でも150dBは軽く超えてるぜ! みたいなことはできないのだろう。(それよりも全面禁止にしろ!)

似たようなもので、街頭演説というのもあるが、同じく迷惑この上ない。「お勤めご苦労さまです」だと? 俺は貴様らのために働いてるんじゃない。そう言えば、夕方からのシフトで働いていたときには、これから仕事なのに「お勤めご苦労さまでした〜」なんて言われたりするとすごく気分が悪い。他の人とは明らかに逆方向に歩いていることを、彼等は気付かないんだろうか。貴様ら全員叩き殺すぞ! と、誰しも思っているはずなのだが(偏見)、誰も本当に殺さないという点から、投票率の低さについて考えてみたい。(我ながら強引な持って行き方)

誰も政治家を殺してくれないのは、わざわざ手間をかけて殺すに値するほどの政治家などがいないということを象徴しているのではないだろうか。善悪に係わらず、影響力に比例して敵の数は増える。政治的な理由により暗殺された人間は、ある組織や団体を消滅させる力を持っていたとか、殺されなければ誰かの都合が著しく悪くなる人間であったのだと思う。そうしょっちゅう暗殺事件もないことから、大した政治家は日本にはいないとわたしは考えている。

殺されはしなかったが、御嵩町の町長が襲撃された事件が起きたことはご存知だろう。わたしの記憶が正しければ、産業廃棄物処理施設建設の是非を問う住民投票が原因だったはずだが、この町長やその支持者は、処理施設に関係者にとって大変都合の悪い存在だったのだろう。新聞はこれを「民主主義への挑戦だ」などと書いていたと思うが、挑戦すべき民主主義体制が存在したからこそ起こった事件なのだ。町長の民主的支持者が多く、都合が悪くなった者がどうしようもなくなって暴力に訴えるというのは、むしろ民主主義が正常に機能している証拠であると思う。では、橋本龍太郎は殺されかけたりしていないが、日本全体の民主主義は如何なのだろう。

最近は投票率が低すぎることがしばしば問題になっている。投票時間延長とか色々と姑息な手段で投票率を押し上げようと努力しているようだが、わたしに言わせれば、そんなものは全て無駄な悪足掻きだ。投票時間が短くても、投票所が多少不便でも、あるいは天気が悪くても、投票に行く人は行くはずである。考えるべきことは、どうでも良いようなシステム上の問題ではなく、投票しない人間の意識であろう。巷では「あなたの一票が政治を変える」と、しつこいほど言われているが、もしこれが本当であれば、いちいち言われなくたって多くの人が投票しているはずなのだから。

民主主義や三権分立など、社会科の教科書を捲れば捲るほど、日本がいかにも理想的な国のように見えてくる。だが、ありていに言えば、民主主義や国民主権などは虚構に過ぎない。政治献金を掻っ攫う国会議員先生や、権力の走狗と言える官僚や裁判官様など、偉人である筈の者たちを、そのように醜悪に形容しても違和感はない。戦後の民主主義夢幻劇の開幕から、もう暫くの時が経過した。そして、未だ欺瞞的な民主主義を、絶対的で無謬なものと信じて疑わない人間は、一票とやらに固執し続けるのかも知れないが、この夢幻劇が虚構に過ぎなかったことに気付き始めた者は、もはや一票の価値を信じることは不可能であろう。

そうなってしまえば、民主主義夢幻劇は閉幕を迎えるしかないだろう。それでは政治が機能しなくなると心配する声もあろうが、わたしは何も民主主義にいつまでもこだわりつづける必要はないと思う。今の日本では、他の○○主義よりも、民主主義の優位性が信じられているようだが、そうでなければならない合理的な根拠はどこにもない。わたしが生きているうちに現実となるかどうかは分からないが、そう遠くないうちに、民主主義の正当性が信じられなくなり、日本からはなくなるのではないかと考えている。(別の機会に詳しく書きたいね)



あう〜
1998年6月25日(木曜日) くもり

独り暮らしを始めてから、ちゃんと飯食ってるか? みたいなお便りがやたらと来るようになった。わたしがまともな飯を拵えて食うような人間にはとても見えなかったらしく、アイツは今ごろ飢え死にしてるんじゃないか、というような噂も立っていたらしい...まあ毎食とも作るのは確かに面倒だが、料理もやってれば楽しいもんだ。どうせ、一生結婚できない万年童貞野郎だし(おいおい)。飯ぐらいは作れないと困るというのもある。

どうでも良いけど、今日は「赤魚」というお魚を買ってきた。こいつは赤くてやたらと大きく、スーパーの鮮魚売り場へ行くといつも目立っている。身の量が多い割には安いのだ。いつか買おうと思っていたのだが、こんなものを買ってきてもどう料理したらいいものか、さっぱりわからん。でも、どうしても気になるので勇気を振り絞って買ってみた。取り敢えず適当に鱗を剥いで、取り敢えず煮付けてみるのだ。おっと行けない、テレビを見ていたら水分が殆ど蒸発して醤油が焦げ付いてる...煮付けというより、照焼きに見える。本当に食えるのか? でもこれ、食ってみるとすごくおいしい。適当に作っただけなのに。冷蔵庫の温度が下がりすぎていてシャーベット状態になった小松菜の炊いた奴も食う。凍っているが、それはそれで旨い...

前から気になっていた、廃油を固める魔法の粉を買ってきた。「固めるテンプル」という商品名で売られているこれ、油塗れにして捨てるだけのものなのに400円もする。高いと思わないかい? 廃油処理剤なんか、ケツを拭いて捨てるだけのトイレットペーパーと同じようなものだ。400円も出せば12本入りのトイレットペーパーが買えるのとは大違いだもん。その程度のものなら買っても良いのだが。近々詳しく実験してみるつもりだが、箱には、脂肪酸で出来ていると書いてある。なるほどね・・・



教科書検定
1998年6月24日(水曜日) くもり/にわか雨

新聞を見ると、教科書検定について書かれてある。家永裁判なんかもあったっけ、何らかの形で問題にならない教科書検定はないと思うが、何故問題になるのか、わたしなりに考えてみた。もっとも、わたしは学校教科書で勉強してきた人間ではなく、殆ど新品のままごみ箱に投げ入れられた教科書の数は少なくない。そう言えば、何を参考に勉強してきたんだろう...これと言って思い当たる節がないことから、勉強なんか殆どしたことないのだろう。それではまたオブジェクト指向で。

  • 歴史認識について
    前にも似たようなことを書いたが、遅かれ早かれ、歴史は風化する運命にある。過去のことについて詳しく知る年寄り達がいくら頑張って過去の出来事を明文化させようとしても、年寄りたちは近いうちに死滅する運命にある。「あの人達の戦後はまだ終わらないようだ」と臭い言葉を並べたところで、例え当人達が望まなくても、戦後は近いうちに終わるようになっている。いま熱く揉めている従軍慰安婦の問題なんかも、いずれは、教科書を書く人も、検定する人も、使う人も、どうでも良くなってしまう気がする。何十年前に、何処で、誰が、誰に命じられて、誰を、何のために、どのように女を犯したか、なんてことを気にし続ける暇な人間もそう多くはないだろう。

  • 政治解釈について
    極端な話、政治的な事象の解釈に正しいも間違っているもない。わたしにはわたしなりの解釈が、文部省には文部省なりの解釈があるのは当然のことだと思う。こういうことは、皆それぞれ勝手に都合の良いように考えるものだから、文部省の検定意見が不適切で、教科書を書いた人が正しい、あるいはその逆である、という根拠はどこにもない(もっとも、立場的に文部省の方が強いので、ケチを付けられた者としては不愉快だろうが)。

    わたしの考えでは、別に教科書が絶対的に正しい(あるいはそうあるべき)ものと位置づける必然性はなく、文部省が恣意的に作った意見書とでも考えれば、内容の正当性を求める必要も無いと思う。そういうと、そんなものを学校教育に使うのはけしからんという反論を頂くかも知れない。しかし、これも学校が絶対的に正しい(あるいはそうあるべき)という立場に立っているからこそ発生し得る意見であり、そうと捉えなければ特に問題もないと思う。文部省の意見を称賛することも否定しないが、それが気に入らない奴は、手前細工の教科書を作れば良いだけの話ではないだろうか。

    どうせそんな解釈なんて人それぞれで、絶対的に正しくて誰が読んでも100%賛成できる書籍など作り得ないのだから、その程度のもので良いと思う。わたしは教科書検定不要論者だが、その理由はこの辺にある。政府の意見が気に入らないというよりは、教科書を絶対的なものとして美化しようという点がナンセンスに見えるのだ。

  • 家族の愛情について
    家庭科の教科書には、家族の愛情などを重視するような意見が多かったという。伝統的家族観を優先させる意見が相次いだと新聞には書いてあるが、そもそも伝統的家族観とは何なのか? 最近、伝統的な家族観を重んじよと議論する人がいるが、家族観など時代と共に変わるものだ。変革についていけない者は伝統を固守しようとするのだろうが、その種の人間が死滅するころには、そんな意見も多くは残らないとわたしは思う。

    このままでは家族が崩壊すると危険視する声もあるが、問題はそんな深刻なものではないだろう。例え家族が崩壊することがあったとしても、それは家族の必要性がなくなったからと考えれば良いと思う。いま、家族崩壊が危険に感じられるのは、時代や情勢を今のままに差し置いて崩壊した家族の像を描くからだと考えている。伝統的な家族制度がなくても社会がうまく機能するようになれば、家族制度がなくなったところで、何の問題も無いと思うのだが。そして、現にそうなりつつあると思う。


聞くところによると、文部省で教科書を検定しているところは、省内でも特に保守的でお堅い連中が揃っているらしい。




1998年6月23日(火曜日) あめ

鶏のから揚げを作った。鶏を買ってきて市販のから揚げの粉に塗し、油で揚げただけのものだが、おいしいものだ。今日と明日に食う量の鶏を揚げただけの油を捨てるのは勿体無いのでまだ捨てるつもりはないが、廃油の処分は少々面倒だ。最近では廃油をゲル状にしてしまう魔法の粉もあるらしい。わたしはその不思議な粉を手にしたことがないので、それの正体が何であるのかは知らないが、家庭用だからそんなに危険なものではないと思われる。油脂を固まらせる反応の一つに鹸化が考えられるが、そんなものなんだろうか?

ちなみに、脂肪酸には飽和脂肪酸、不飽和脂肪酸などと変な名前のものが色々とあるが、すごーく簡単に言うと、飽和脂肪酸は固まり易い油、不飽和脂肪酸は固まりにくい油と考えれば良いのではないだろうか。食用油脂には両種ともに多かれ少なかれ含まれているが、ラードなどの固形の油は飽和脂肪酸が多い。それに比べて、サラダ油のようなサラサラとした油には不飽和脂肪酸が多く含まれている。また、魚の油も不飽和脂肪酸が多い。脂肪というと何となくイメージは悪いのかも知れないが、最近、馬鹿が治るとして注目されているなDHAも不飽和脂肪酸の仲間だが、魚を多く食べているにも関わらずわたしの馬鹿は一向に治る気配がない。世間の見解は間違っているようだ。

ジジ臭くて恥ずかしいのだが、わたしはトンカツが食えず、何切れが食うと嘔吐しかける。ビジネス街のお昼定食にはトンカツ定食やカツカレー定食など、トンカツ系のものが多く、外食していたときは制限が多くて困った。そこで医者にかかったところ、わたしの身体は油の分解が正しく機能していないと診断され、油の多いものは控えるようにと言われた。その医者には毎週来診するように言われ、始めのうちは毎週通っていたのだが、血液検査をして消化剤を処方するだけであったので、馬鹿らしくなって1ヶ月ぐらいで行くのを止めた。

その医者の言うことが信用できない根拠はある。トンカツは食えないのだが、不思議なことに、同じ揚げ物であっても、天ぷらはいくら油がギトギトしていても大丈夫なのだ。同じ豚肉でも、カツ以外の調理方法の場合は何の問題もないので、豚肉自体が悪さをしているとも考えにくい。油の染み込んだカツの衣が悪いのかも知れないが、牛肉を使ったビフカツは大丈夫だ。結局、トンカツが食えない理由は良く分からないのだが、トンカツ以外のものは問題なく食えるので、医者の勧告は無視して油の多いものも食っている。



平和って?
1998年6月22日(月曜日) あめ

平和ってなんだろう? と思えるわたしは平和な人間なんだろうか。

そもそも平和が何であるかという疑問もあるが、絶対的な平和は有り得ないと思う。平和では無い何か(国や情勢など)が存在するからこそ、それを基準とした相対的な平和があるのだろう。例えばどこかの国が紛争を起こしているとする。それを見て「やっぱり平和が良い」と言えるのは、その様を横目で見て、俺んとこの国はそういう揉め事が無いからそんなややこしい国よりも良いよねと思ってるに過ぎないと思うのはわたしだけなのだろうか。

日本という国は平和だとか言われるが、他の国が日本よりも平和になってしまったら、日本はたちまち平和ではない国として有名になってしまうのだろう。建前では、平和こそが良いもの、それも絶対的なものとして信じられている気がするが、もし本当に絶対的な平和が全世界に均一に訪れることがあるとすれば(有り得ないが)、平和という概念は必要でなくなる、というか、存在し得なくなると思う。仮にあったとしても、まったく無意味な概念としてしか存在しないだろう。

その程度のチャチなものを希望にするのは馬鹿らしいから、平和を取り乱せ、などと乱暴なことを言いたいのではない。しかし、あんまり深く考えないで、平和だ平和だと騒いでるのは、一体何のためなのだろう。日本が平和な国で良かったね、と自慢することにどれほどの意味があるのだろう。帝国主義を改め、民主的で平和的な主義になったということが完全な嘘だとは思わないが、いつかまた、日本人の価値観が大きく変わることがあれば、いま平和を信じていた者がとんでもなく愚かに見えてしまう気もする。

W杯で騒いでいたが、わたしはテレビで見ていなかった数少ない人間の一人だ。直接的な理由は用事があってテレビを見てられないかったのだが、どうせ日本が勝てるとは思っていなかったから、何れにしろどうでも良い。入場券も持たずにフランスへ行ってみたものの、やっぱり入場券が手に入らずに場外にて騒音だけの観戦になったアホどもがいたらしい。机上の計算だけでは何の前進もないから取り敢えず現地へ行って行動しようという行動力?は悪くはないのだろうが、傍目で見れば、やっぱり単なるアホだ。

例え運良く入場券が手に入り、旅費や宿泊費、滞在費に土産代に加え、ダフ屋から法外な値段で買った入場券代を合算すれば、わたしの月給を超えてしまう気がする。まあ安いから、直ぐに超えてしまうが。かく言うわたしも、ボーナス出たらノートPCでも買おうと騒いでいるのだから、人のことは言えないだろう。現在家にはPCが3台、実家に置いてある古い分を含めればもっとあるのに、まだ買うのかといわれそう...傍目で見ればみんな馬鹿ばっか...(るりちゃん風



電気料金
1998年6月20日(土曜日) はれ

電気料金は、なんか分かり難い。東京電力のサイトを見ると電気料金の案内はあるが、ざっと一覧しただけでは理解できないだろう。それも、使えば使うほど高くなり、電力会社が率先して省エネを呼びかけているのは、資本主義的に言えば正反対の姿勢だ。不思議である。

わたしは、毎月4千円〜5千円を東京電力に支払っている。独り暮らしで、それも昼間は会社に行ってるため、主に電気を使うのは朝と晩だけだ。それだけで、この値段は高いと思う。電気料金が高くなる原因として、24時間稼動のPCが2台あること、調理器具が全て電気に頼っていること、冷暖房とも電気にるものであることが挙げられるので仕方がないと言えば仕方がないのだが、やはり高い気がする。そんなわけで、何とか電気が安くならないか、色々と考えてみた。

無駄を減らす、なんてオーソドックスなことは今更言うまでもないと思うが、貧乏なわたしは既に実行しているので、これ以上どうしようもない。そこで、深夜電力というものを検討してみた。とは言っても、「時間帯別電灯」や「深夜電力」や「第二深夜電力」など、色々とあってややこしい。わたしもよくわからないのだが、以前勤務先の会社で試験的に導入したのが、「時間帯別電灯」という契約種別だ。プロバイダをやっている関係上、サーバー類は24時間通電している。時間帯別電灯にすれば電気代が安くならないかと検討したのだが、結果的に駄目であった。

さて、普通の電灯契約と、時間帯別電灯契約では、以下ように料金が異なる。

普通の電灯契約  16.85円 120KWh迄
         22.40円 120KWh超 280KWh迄
         24.65円 280KWh超

時間帯別電灯契約 22.05円 90KWh迄
         29.30円 90KWh超 210KWh迄
         32.25円 210KWh超
          6.15円 夜間 (23時〜翌朝7時まで)

このように、時間帯別電灯料金では昼間の料金が高くなる分、夜間は6円15銭と大変お得だ。さて、わたしは暖房を使わない時と使うときではかなり使用電力量が異なるのだが、仮に月180KWh程度使うとしよう。まずは、普通の電灯契約の場合を考えて見る。

(120KWh * 16.85円 = 2022円) + (60KWh * 22.40円 = 1344円) = 3366円

これに基本料やら消費税などが加わるので、4千円程度になるわけだ。

更に、時間帯別契約の場合を考えてみたい。この計算は少々複雑だ。当然だが、電気は平均的に同じだけ使うものではなく、単純に時間で割れば良いというものではない。そこで、恒常的に使う電力量と、一時的に多く使う電力量とに分けてみた。1ヶ月で180KWh使うとすると、1日で使う電力量はその30分の1の、6KWhということになる。そのうち、待機電力などの24時間平均的に消費される電力の総量は、冷蔵庫や、常時稼動の計算機などもあるため、平均すると100W程度と考えている。そう言うと多いようには聞こえないかも知れないが、24時間で2.4KWhであるから、1日で使っている総電力量の実に40%が、知らない間に計算機などで消費されていると言える。

取り敢えず、恒常消費分については簡単に計算できる。夜間時間帯が23時から翌朝7時までということは、昼間が16時間と夜間が8時間なので、2/3が昼間、1/3が夜間だ。

昼間 (90KWh * 40% * 22.05円 = 794円) + (90KWh * 40% * 29.30円 = 1055円) = 1849円
夜間 (90KWh * 40% * 6.15円 = 221円)
合計は、1849円 * 2/3 + 221円 * 1/3 = 1306円

そして、料理や電灯、テレビなど生活によって時々刻々と変化する電力消費量についても計算してみる。総消費電力量の残りの60%がそれに当たるわけだが、わたしの生活パターンから検証しなければならない。まず、朝は8時に起き、寝るのは0時ごろだ。深夜料金は23時以降だが、23時移行は寝る準備をしているので使う電力量は1日の8分の1程度と考えるのが妥当だと思う。

昼間 (90KWh * 60% * 22.05円 = 1191円) + (90KWh * 60% * 29.30円 = 1582円) = 2773円
夜間 (90KWh * 60% * 6.15円 = 332円)
合計は、2773円 * 7/8 + 332円 * 1/8 = 2468円

総合計は、1306円 + 2468円 = 3774円

また、夜間に消費される電力量割合は、16.4%程度だ。

このように計算すると、通常の電灯契約では3366円なのに対し、時間帯別電灯契約では3774円と、逆に割高になってしまう。これは、今まで通りの使い方ではだめで、夜間時間帯に積極的に電気を使うようにしないと行けないということだ。もっと具体的にいうと、夜間の電力使用量が昼間の3割を超えなければお得にならない。

夜間に買った安い電気を蓄電池に蓄積し、昼間に使うというのはどうか、というアイデアが会社で出てきた。電気コンロやクーラーなどの多く電気を食う物は買電が妥当だろうか、パソコンやテレビなど、比較的消費電力の小さい機器は、寝てる間に充電したバッテリから電力を供給できれば面白い。蓄電池は自動車用の鉛バッテリーが手軽なところだが、深い放電サイクルでも問題なく使えるものでなければならない。わたしの計算によると、バッテリは50A/h程度のものが5個もあれば十分で、あとは1KW程度のインバーターが必要だ。これらのコストを考えると、そう安いとは言えないが...



性教育?
1998年6月19日(金曜日) あめ

昨日は某ニュース番組で性教育について特集をやっていた。世の中には性教育に対して賛否両論があるのだろうが、そもそも性教育の定義すら曖昧なのに、如何にして議論ができるのだろうか。「性教育を詳しく説明せよ」と問われて、その答えの正確性はともかく、ある程度のことがすらすらと答えられる人が何人いるのだろうか。それでも賛否がどうのこうのと言われるのだから、わたしは不思議でならない。

そもそも、性教育の "性" とは何を指しているのだろうか。もし仮にわたしが性教育の教師をやってて(それは極めて恐ろしいことだが)、じゃ先生、性を教えてあげてくださいと言われても、何を教えて良い物なのかおおいに困る。そこで、オブジェクト指向な性教育という、実に謎めいた物を考えてみた(なんじゃそりゃ。

  • 生物学
    これはその名の通り、男女の性器がどういう仕組みで動くのかというテーマが主だ。男女身体の構造の相違点、あるいは生殖とはどういうことか、性交とは、勃起、射精、排卵、着床、妊娠、出産までの過程など。そういう生物学的なことは、当人がヒトである以上、嫌でも起こり得ることだ。人間という生物は、どう言う訳だか、他者に教育されない限り、生殖について何も知ることが出来ないようだ。ある日突然、チンチンからションベン以外の物が出てきて悩む人もいるそうだが、本人がいくら悩んでもそれがどういう現象なのか知り得ない以上、必要な時期に教育されるべきだろう。

    なお、生物学的性教育は、極めて事務的に教育されるべきだと思う。例えば妊娠から出産までの過程を教えるのに、生命の素晴らしさやら人権やらを絡めて教育する場合があると聞く。だがそれは間違いというもので、性交する、妊娠する、子を産むなどの現象は、純潔(というのも変だが)なセックスでも、或いは強姦でも、現象そのものに何の違いもない。ということで、生物学的性教育においては「こういうことをすれば、こうなるのですよ」という範囲を越える必要はない。

  • 社会学
    しかし、それでは世の中はうまく成り立たない。やはり、いつ、どういう場合に、だれが、どこで、なんのために、そういうセックスの生物学的位置づけだけではなく、意味を教える必要もある。ところが、そういうことを学校で教えるのは、どういう理由に基づいているのかは知らないが、不適切だということで性教育を否定する向きもあるらしい。それなりの理由があるのであればそれらの意見も否定はしないが、「そういう恥ずかしいことはやっぱり何となく教えちゃいけないんじゃないの」程度の否定論には意味が無いだろう。もっとも、その類のご意見は、団塊の世代が死に絶える頃には消えると思う。

    アヤシゲなメディアが世の中に溢れる中、その類が教科書になればどうなるかということも考えて見られたい。女なんか、それこそ公衆便所の如く見えてしまうと思うのは、わたしだけだろうか? 何が正しいセックスかという議論もあるだろうが、それは割愛させて頂くとして、こんな時代だからこそ、意味の教育も必要だと思う。やっちゃあいけないけどやってみたいこと(エロ雑誌)と、現実的なものとの区別ぐらいは必要だろう。

  • 倫理学
    先程も少し書いたが、何故か性教育のお話になってくると、人権とか、生きることの素晴らしさとか、あるいは生命誕生の奇跡だとか、そういう倫理的とも言える概念がこちゃごちゃと出てくる。教育者が多用したがるのだろうが、性教育がどうしてそういう概念につながるのだろうか。前の社会学からの繋がりもあるが、乱交・乱産があってはいけないからなのだろうか。犯すな、やりまくるな、作りまくるな、おろすな、こういう意味合いをひっくるめて「女の人権」とやらを言っているとわたしは思う。

というわけで、オブジェクト指向化された性教育はこんなものだろう。わたしは、生物学的性教育と、社会学的性教育は必要だと思う。しかし、倫理学的性教育は、具体化し、むしろ社会学に含めてしまうべきだろう。人権とか、奇跡とか、いつまでも訳の分からない概念を語っていても意味がない。良いことは良い、悪いことは悪い、この辺をはっきりとさせなければならない。「犯すな」といえば分かりやすいが、「女の人権が、、、」では、結局何が言いたいのかわからない。もっとも、犯すことを知らない人間も多いだろうから、わたしのようにストレート過ぎても宜しくないが。



つかれた日
1998年6月18日(木曜日) はれ

昨日はここに書いたように、10時過ぎに床に就いた。が、まだ意識がある頃に。

カチッ...カチッ...ぴろぴろぴろぴろぴろ...

滅多に鳴らない電話が、こんな日に限って鳴る。うちの電話機は着信直後にダイアルイン番号識別用のPB信号を受信するため、実際に鳴る前にリレーが何度か動作する。そのため、耳を澄ませていればベルが鳴る前に着信がわかるのだ。畜生、心でそう叫びながら、ここでFAXに切り替わることを期待する。だが、わたしの期待を裏腹に、音声通話を示すベルは鳴る。10時過ぎならまだ常識的に電話をかけても迷惑にならない時間だが、起こされた方としては気分が悪い。

誰かと思えば親父であった。今度の月曜日に、出張のため東京へ出てくるのだと言う。その序でに、前日の日曜日に会えないか? というような内容のお話。そういうどうでも良いような連絡はメールにしろと言いたいのだが、古い頭の人間はそうも行かないのだろうか。メールの使い方を知らない人間にまでそういうことは言わないが、机の近くまで光ファイバでLANが来ていて、そこからHUBでどうだのこうだの、というような社内LAN構築記の自慢話は散々聞かされ、それもメールゲートウェイが完備していてCCメールが社外にも送れるから凄いゼ!というような話も聞かされたが、それなら尚更メールにして頂きたい物だ。

まだどうでも良い話は続く。ここら辺に良いビジネスホテルはないかという相談だ。知るかっ。○○ホテルってどう? なんて名前を挙げられてもねえ。

ちなみに、わたしは通信費節約のため、連絡はメールかFAXで済ませることが殆どだ。音声通話用にはPHSもあるし、はっきり言って加入電話なんか無駄なので要らない。だが、FAXやモデムをPHSに繋いでも安定動作には無理があり、それから自宅に加入電話が無いというのも些か社会的信用?に欠ける気もするので、不本意ながらも用意してあるところ。滅多に使わないそんな電話が待機状態の深い眠りから目を覚ましたのは1週間ぶりのことだろうか。


話はガラリと変わり、所用で相模原まで行っていた。桜木町からだと、横浜線のオンボロ電車に乗って1時間強、相模原の駅からタクシーに乗って20分ほど。結構遠い。昼下がりから出ていって、時計を忘れたので用事が済んだのは何時か忘れたが、18時ぐらいだっただろうか。この辺はバスなんか走ってないので、帰りも駅までタクシーだ。この辺、タクシー走ってますかと、一緒に仕事をしていた人に聞いたら、直ぐつかまりますよと。その言葉を信じ、タクシーを探しながらブラブラと歩き始めた。そしていくら歩いただろうか。

辺りを見渡すと、排ガスで空気の色が変わってる国道があって、空き地に錆びた重機が置いてあって、産業廃棄物処理場みたいなのがあったりする。どう考えてもタクシーを流すような場所では無い。それでも駅まで2/3というところまで歩くと、こんどは意地でも最後まで歩いてやると言う気になってくる。ふと目に入った道標を見ると、相模原駅まであと5キロとある。けっ、5キロなんて何でもないぜっ、という距離の問題はともかく、ここで重大な問題に気付いた。落ち着いて考えると駅までの道が分からないのだ。

そんな所に、運良く1台のタクシーが止まってくれた。行先を伝えると、運転手さんはわたしにこう話した。「お客さん、こんな所で手挙げてタクシーに乗るなんて、珍しいね」と。ええ、わたしもそう思う。「こんな所で流してても誰も乗らないよ」と。まったくその通りだろう。「この辺のタクシーはみんな駅待ちしてるからね、走ってないよこんなとこ」と。身を持って分かりましたよ。運転手さん、素直なお言葉ありがとう...

駅に着いたら時計は18時40分過ぎだった。昨日は閉まっていたスーパーも今日は開いているはずだが、閉店時間に間に合わない。相模原の駅でパンを買い込み、とりあえずこれを明日の朝食とする。しかし、晩飯は...また備蓄してあったものを食うのだ。非常食用の(手抜き食用と読み替えて)ラーメンに、冷凍のほうれん草を乗っけて食う。明日こそは、マトモなものを食いたいと切に願う。



ついてない日
1998年6月17日(水曜日) くもり

今日は何かとついてない日..

朝、会社に遅刻しかける..当然、朝飯は食っていない。

昼、賞味期限の切れた卵とうふを2つ食っただけ。

夕、晩飯こそはマトモなものを食おうとスーパーへ行くが、定休日。仕方がないので、別のスーパーへ行ってみたが、店先に見えたものはシャッターだけであった。結局、非常食(別名・手抜き食)として買ってあった冷凍うどんとメシ、それから冷蔵庫にあった朝食用の納豆だけで晩飯を済ませる。

晩、本日の栄養失調のせいか、それとも最近の寝不足のせいか、とにかくダルイ。まだ10時だが、寝るとしよう..洗い物は明日の朝で良いだろう。



静か
1998年6月16日(火曜日) くもり時々はれ

静かであることはいいことだ。

特にわたしのように飲み屋街に済んでいると、深夜まで都会の喧燥が止むことはない。隣の飲み屋はカラオケパーティーで盛り上がり、あるいは疲れたが酔っ払いが騒いでいたりする。お酒もまわり、その皆さんがお家に帰る深夜には別の音が聞こえてくる。ゴミ収集車は飲食店の塵芥を集めに、近くの根岸線を通る貨物列車は鉄の高架橋を轟かせ、荒っぽいタクシーが走ってたり(LPG車の加速って特に煩くないか?)、深夜型の走り屋がスロットル全開だったり..そんで事故った奴を収容する救急病院も近くにあるし。とにかく、静かにはならない。

騒音は、何も外からくるだけではない。自宅は常に二台の計算機に火が入っている。電源ファンの音、ハードディスクの回転音、シークのガリガリ音など。また、風呂場の換気扇や、空調の音が加わる時もある。職場だって凄い。空調のクーラーや換気扇に加え、社内のPCやファイルサーバーを始め、プロバイダの各種サービス用のサーバー、アクセスサーバーやルータの冷却ファンなど、騒音の発生源は山ほどある。

というわけで、わたしの周りはとにかく煩い! 静かになることがないのだ。慣れてしまえば特に気にもならないのだが、やはり静かであることは気持が良い。特に耳に障るような場所においてあるPCの電源を落とすと、ホっとする。普段から煩い場所に居ると耳がこんなものと思い込んでしまっているので、ここまで静かになり得るものなのかと我に返る?気分なのだ。わたしは田舎や比較的静かな住宅街に長らく住んでいたので、こんな煩いところに引っ越してきたときはかなり嫌であった。山口県に居た時は、聞こえてくるものは虫と蛙の鳴き声ぐらいのもの。そういう生活にもちょっと憧れる。

しかし、音は不思議なのだ。電車の車内も騒音の嵐だ。電動機の音、レールの継ぎ目、女子高生、警笛など。騒音と言ってみれば全部騒音なのだろうが、後者二つはともかくとして、前者は妙に快適感を与えてくれるときもある。ゴトンゴトンという音が眠りを誘うこともしばしば、しかし、同じ音が煩いだけのときもある。または、電車のVVVF音が心地よくてどうにもならない動力音オタクも居たりする。一般人にしてみれば、駆動音は静かであることに越したことはないのだろうが、わざわざ交通費を払い、テープレコーダー、いや、そんなことでは動力音オタクとは言えない。最高音質を求め、DATを携帯して録音する人がいるのだから恐れ入る。

年々、このような機械騒音は小さくなっていく傾向にあるが、初期のVVVF制御みたいな、サイリスタの唸り声が減りつつあるのは、いかにも残念であるとする意見も一部にはある。あるいは、電車よりも気動車の方が音が良いという変人もいる。一般人からすればディーゼルエンジンを積んだ列車なんてやかましくて仕方がないからとっとと電化しろ、となるのだろうが、フルノッチのキハ58が喘ぎながら加太峠(関西本線)を越えていくあの音こそが素晴らしい...そんな、極少数の人種の内の極限定された民族にしか理解し得ない会話も広い世界には存在する。一般人に言わせれば騒音でしかないのだが。

先ほど、PCのファンが煩いと書いたが、寝る時は消音目的でファンがないと寝付けないという人がいた。その人は、旅先にもファンを持って行くのだ。煩かったり、逆にそれが消音に役立ったり。音って不思議だねえ。



空が青い..
1998年6月15日(月曜日) はれ

久々に青空を見た。ここ1週間ほど天気が悪く、青い空は全然見ていなかった。そんなところに、今日のような美しい青空を見ると気持が良いのだ。実は昨日から夜を徹してCRTの前で仕事をしていたので、目が疲れる。そんな時は表に出て、ランドマークタワーを見るとすっきりとするのだが、このような天気だと、なお気持が宜しい。というわけで、今日は疲れている。

そういえば、空はなぜ青いのだろうか? これは青空を見ると誰もが持つ共通の疑問なのかもしれない。その答えは、青い光は波長が短いためく、大気を構成する分子にぶつかり、拡散するので大気が青くみえるらしい。こんな問いにも実に合理的な答えを出してくれるのが科学というものなのだろうが、何か溜飲が下らない気もする。青い光が..波長が..分子が..だからどうした、と思うのはわたしだけだろうか? そんなことを言われても、なぜ空が青いかという疑問に、直感的な問を得たという気がしないのだ。

言うまでもないが、短い波長が分子にぶつかって拡散する姿をこの目で見たことはない。そもそも、そんな現象が実在するのかどうかも疑問である。目に見えない世界では、こんな感じなのだろうと想像はできるが、それが正しいという保証、或いはそれが間違っているという保証もない。科学とは、ともすれば人間の想像とは全く異なる現象に、人間が恣意的な命名を行ったに過ぎないのかも知れない。そう考えると、空がなぜ青いのかと疑問に思った時に、「それはかくかくだから」と科学的に教えられても、頭の悪いわたしは「そういうものなのかな」という中途半端な納得しか得られない。

逆に、身体で感じられる現象は何であっても面白い。電気は見えないので自由電子がどうのこうのと説明されても面白いとは思わないが、LEDが光る、音が鳴る、モーターが回る、そういうものは見てるだけでたのしいのだ。半導体もわたしに言わせれば原理のわからないブラックボックスだ。しかし、トランジスタを使ったらモーターの速度が可変になった、などという結果があるから、そんなブラックボックスであるところの半導体もいじっていて楽しいと思うのだ。

それは化学においても、同じことが言える。電子の動きがどうのこうのと説明されても詰まらないだけだが、AとBを混ぜたら色が変わったという現象は、例え原理が分からなくても見ていて面白い。そこで原理をどこまでも追求するのが科学だ、という人もいるだろう。だが、そういう追求は、やりたい奴だけが勝手にやってれば良いことだ。例えば素粒子の研究成果など、わたしに言わせれば、日常生活には微塵の影響もないことだ(将来的はどうなるか知らないが)。わたしは、やりたい者が好きでやっている研究を否定するつもりはない。しかし、そういう難しい研究をする彼らに言わせれば、「色が変わった〜」と喜んでいるだけのわたしは、低レベルで非科学的な人間になるのだろうか?

誤解はして欲しくない。そうだからと言って、わたしな何の探求心もない人間であると言いたいのではない。わたしにはわたしなりの興味分野がある。だが、それが科学的でない場合(何をもって科学的とするのかは当人の主観だろうが)、否定する人がいらっしゃるので「それは間違いですよ」と丁寧に教えてあげたいだけだ。



そろそろ新しいデジカメが欲しい..
1998年6月14日(日曜日) あめ/くもり

そろそろ新しいデジカメが欲しくなってきた。当実験室の写真は、全てカシオのQV−30というマイナーな機種で撮影しているが、その性能は今としてはあまり良くない。これを買った当時はデジカメについては良く分からなかったのだが、とにかく何か欲しくなったので、あまり深い吟味もせずに買ってきたもの。そこそこ気に入って使っているのだが、そろそろ物理的なガタが来てるし、より美しい写真を撮れる新機種も多く登場しているので、買い替えを検討しているところだ。(でも金が無い(;_;))

さて、わたしがデジカメに求めることを挙げてみたい。
まず安いこと。5万円程度が妥当なところだろう。それより上を見ると、今度は一眼レフが買えてしまうような価格になってしまうので、わたしには買えない。最近は民生用でもやたら画素数の多いデジカメが売られているようだが、値段は10万以上する。その値段でデジカメを買って美しい写真を撮るぐらいなら、ちゃんとした銀塩で撮りたいものだ。デジカメはあくまでデジカメ、その閾を超える必要はないと思う。

そのため、高解像度は求めていない。1024*768ドットといえば聞こえは良いが、果たしてそのようなサイズの写真を何に使うのか冷静に考えれば、わたしは不必要だと思う。ホームページにそんな巨大な写真を貼っていれば顰蹙を買うだけだろうし、その他の用途でも、そう大きな写真を使うことは滅多にないと思う。解像度はVGA程度で十分であろう。

次に、接写撮影ができること。実験室の写真撮影に使う以上、接写撮影が出来なくては話にならない。望遠付きとか、無限遠が綺麗なものなどは多く見るのだが、10センチ程度の距離でもマトモに映るものはなかなか無いようだ。基板上の部品を撮影したいということもあるのだが、なかなかそれができるデジカメがない。

最後に、ピントがはっきりとしていること。CCDの性能が良いためか発色は綺麗なのに、肝心のピントが甘く、台無しの機種が多いように思われる。価格的・性能的に良いなと思ったものも、この条件にひっかかって却下されている。輪郭がはっきりとしない写真は気に入らないのだ。

そら

というわけで、なかなかこれという機種が見付からず、まだ購入には至っていない。ちなみに、今日は朝から変な天気であった。雨が降ったり、止んだり、大降り小降り。夕方には晴れて、西側の窓からは美しい夕日が見えていた。わたしは何も考えずに空を眺めるのが好きで、変な感じ空は写真に取ることもある。QV−30で撮った都会の空はこんな感じだ。コントラストを強め、色の補正も行っているのだが、あまり美しくない。



広末涼子はかわいいか?
1998年6月13日(土曜日) あめ

今日も納期後れ気味ソフトのため、会社でプログラマモード(しくしく...
会社に入る前まではハード屋さんと思っていたのに、何がどう狂ってソフトを書いていたり、プロバイダの管理をするようになったのだろう? いま思えばちょっと不思議なのだ。もっとも、営業などをやってる知人によると、営業はストレスが溜りまくるそうで「技術屋は良いねえ」などと言われるのだが、一日CRTの前にいると目は疲れるし、楽して稼げる仕事は無いものかねえ(笑) 不労所得..何とも良い響きじゃ。

ところで、広末涼子はかわいいのだろうか? 面白いのは、「かわいい」という人と、「別に何とも思わない」という人ととに、意見が二分するところだ。わたしは何とも思わない方だが、決してブスだとは思ってない。可愛いと思って見れば、まあまあ可愛いとも言える。しかし、彼女には何の魅惑的な特徴もないというか、魅力の焦点が定まっておらず、この女性が好きだと思わせる決定点が欠落しているのだ。それでも、CMでは多用されているし、上手くもない歌は売れてるみたいだし、何か秘密があるはずだ。

そういえば、ある人種(例えば日本人なら日本人)全ての女性の顔写真を平均化し(モーフィングと言うのか?)、それを元に顔写真を作ると、案外綺麗な女性の顔が出来るのだという。確かに、顔のパーツが変な配置になっている女性をブスと呼ぶのであれば、平均化した顔が美しく見えるのも不思議ではないことだ。しかし、いくら綺麗な顔だとは言っても、それはただの平均であるから、何の特徴もない顔になってしまうと思われる。アイドルなどの、ただ「可愛いだけ」の女性には雛形のようなものがあると思うのだが、いわゆる「魅力的」な女性の顔が定まらないのは、平均値から少々外れているからだろう。

そこで、平均顔な人間が実在したらどうなるかと考えてみた。可愛いことは可愛いが、魅力はなく、当たり障りのない顔の女性...それがちょうど広末にあたるのではないかという結論に達した。そういう意味では、CMなどにはもってこいだろう。そこそこ万人受けし、当たり障りがなく、若さも感じられるのでイメージも悪くはない。歌が何で売れるのかは知らないが、そういう女性だから、可愛いと思う男性がそれなりに多くいても不思議ではないだろう。

ということで、以下のような数式が考えられる。

可愛い女性の顔=(女性の顔1+女性の顔2+女性の顔n...)÷女性の数


相性係数=1÷|男性の好み−女性の好み|

ついでにこんなのは如何だろうか? 男性の好みと女性の好みの差の絶対値の逆数が、男女の相性係数というわけだ。ちなみに、両者の好みが完全に一致するとこの式は成り立たない。そういうことは有り得ないという理屈も含んでいるというわけだ。また、こういうどうでもいいような式を作っている限り、わたしのようにいつまで経っても恋愛できないということも...



ピザ
1998年6月12日(金曜日) くもり

昨日は納期後れ気味のお仕事を進めるべく残業していた。と書けば聞こえは「お仕事ご苦労さま」なのだろうが、実際の所は放ったらかしにしてあったものを、あわてて仕上げていただけという..ありていに言えばただの怠け者なのだ。そんな訳で、夕食は店屋物を注文するつもりでいた。ふと机の上を見ると、何故かピザ屋のビラが置いてある。電話をかけて注文をするのだ。普段からどうでも良いビラが郵便受けに掃いて捨てる程入れられているが、やはり宣伝はするものだ。ビラ配りの有功率はどのぐらいなんだろう? 1%は超えるのだろうか...

そういえばピザを食うのは久しぶりだ。食事はご飯系のものを好むので、どうしてもピザは選択肢から外れてしまうことが多い。例えばシチューと飯や、お好み焼と飯、ラーメンと飯などの組み合わせは何ら問題はないのだが、ピザと飯は..どう考えても合わないと思うのだ。というわけで、一人でソフトを書きながらピザをかじった。うまい(^^) たまに食うと旨いのだ。



羹に懲りて鱠を吹く
1998年6月10日(水曜日) あめ

最近は鬱陶しい天気が続いているが、皆様は如何お過ごしだろうか? 気温も上がり、湿度も上がり、食中毒の季節というわけだ。そう言えば、去年の夏だったか、それとも一昨年の夏だったか、頭が悪いのでもう忘れてしまったが、食中毒が流行した。堺市の学校給食による集団食中毒、カイワレダイコンのせいにされてしまったが、本当の原因は何だったのだろう? その後、菅直人がカイワレダイコンの安全性をアピールする為か、生でバリバリと食っていたことを思い出すが、結局、何だったのだろう? にしても、生のカイワレダイコンは辛そうであるが...

他地区の反応はどうだったのかは知らないが、大阪周辺では結構な騒ぎになっていた。周りに堺市民が何名かいたが、堺市に住んでいるというだけで、何となくいぢめられていた気もする(笑) 当事者でない者としては、今となっては本当に何を騒いでいたのだという感じだが、月日が経てば何事もその程度のことなのだろう。食中毒が恐いという感情も多少はあったのだろうが、それよりも、テレビとかが騒いでいるからついでに騒いでおこうという程度のものだったのだろうかと思ってしまう。

それ以前にも在ったと思うが、その頃から良く売れるようになったのは、抗菌製品やら殺菌除菌スプレーなどだろうか。ボールペンから、大袈裟なところでは自動車まで抗菌になってしまい、今や抗菌処理のされていないボールペンを買う方が難しいようにも思うが、それがどうしたと言うのだろう? わたしは非抗菌仕様のボールペンで長らく字を書いてきたが、特に死にそうになったこともない。小学校の頃、捨ててある食い物を拾って食う奴がいたが、そいつも意外と元気だった。結局、関係ないんだから抗菌なんかやめれば良いのに..

と言えれば良いのだが、やはり需要はあるから供給も絶つことができないのだろう。うちのオカンは抗菌製品や除菌剤の極推進派なのだ。例の堺市の食中毒事件直後、家中の水の出る場所には殺菌効果のある薬用石鹸が設置され、台所にはアルコールスプレーが。今でも懲りずにやっているのかどうかは知らないが、まな板やら流し台やらにアルコールスプレーを吹きかけて、嬉しそうに除菌タイムを楽しんでいた。水洗便所のタンク上の手洗いにまで除菌石鹸が設置されたときは、さすがに呆れて強制撤去に踏み切ったが、直ぐに元に戻される。隣の洗面所で手を洗えば済むことと考えるわたしが間違っているとは思わない。

まあ、悪いとまでは言わないが、今までやってもいなかったことを、どっかで食中毒事件があったからって、突然気が狂ったように始める様を端で見ていると、呆れを超えて、何となく痛々しい。本人曰く、より清潔にして何が悪いの!なのだが、そういうのを羹に懲りて鱠を吹く、とでも言えば良いのか。もっとも、当人は何に懲りた訳でもなさそうだが。



PHS機種交換
1998年6月9日(火曜日) あめのち曇り

PHSの機種交換がしたくなった。何ということはない、NTTパーソナルのものなので、パーソナルショップへ持って行けば良いだけだ。ところが、近所のパーソナルショップへ行ってみると「お客様、これは関西契約ですのでここでは出来ません。横浜駅の方にある営業所へ行けばできますが..」と。なるほど、横浜だとNTTパーソナル中央の管轄だが、このPHSは大阪にいた頃に買ったものなので、NTTパーソナル関西の契約になっているのだ。それを解約して中央で新たに契約すれば良いことなのだが、番号が変わってしまうので敢えてそのままにしてあった。つまり、ずーとローミング状態のまま使っているのだ。

まあ関西契約だけに、そこら辺のパーソナルショップでは扱えず、営業所へ行けと言われることにも一理はある。仕方が無いので、取り敢えずパーソナルショップで言われた通り、横浜西口にある営業所へ行くことにした。ドアを潜って直ぐに、他会社の機種交換ができるかどうか確認をする。答えはOK、さっそく手続きをと思ったら..「一番安い端末で2万2千円です」だ? あまりの金額に、呆然とする。倒産しかけの会社の端末に、そんな金額を払えだと、犯すぞクソアマーふざけるな!! と言いたいのを押さえて丁寧にお断りした。いや、金やるって言われても犯そうとは思わないようなネーチャンだ。なんでパーソナル関係のネーチャンはあれほど下品なのだ? それも何故かウジャウジャいる。

せっかく来たので、軽く文句を言ってみる。

わし「そんなにするんですか?」
店員「ええ、営業所ですから。量販店じゃありませんから」
わし「しかし、おたくのパーソナルショップでももっと安いですよね?」
店員「ここは営業所ですので」
わし「だったら関西への取り次ぎはできませんか?」
店員「営業所ですのでやってません」

なんだか知らないが「営業所ですので」の一点張り。だいたい近所のカメラ屋で1000円程度で売っているものをそんな値段で売るのはかなりナンセンスだと思うのだが、それを平気でやってるところが凄い。分かりやすく例えると、キャベツ1個1万円です、の世界だ。ちなみに、どうでもいいが、営業所で使っていたHUBはわたしの家で使っているそれと同じ物だった。アライドテレシスを使うとはナマイキな。

実は、大阪を出る前に、パーソナルに電話をかけ、関東へ引っ越すが、関西契約のままで特に問題はないかと、聞いてみたのだ。そのとき、センターのネーチャンは「特に支障ありません。こちらからお送りするご案内などが関西のものになってしまいますが、それぐらいですね..」みたいなことを言っていた。ご案内と言っても、近畿のエリアマップが送られてくるぐらいなので、そのぐらいのことならば別に構わないと思っていたが、そうでもなかったようだ。

NTT地域分割とか言われているが、こうなると不便。もっとも、加入電話の場合は番号そのままで引っ越すということは無いから、地域でサービスの多少の格差が出ても、移転の事務などをちゃんとやってくれればそれで良いと思う。だが、移動電話の場合は、番号そのままで引っ越し先に持って行くということもあり得るわけで、いったん営業圏外へ持ち出すと機種交換が正常に出来ないようじゃ困るねえ。



ギロチン
1998年6月8日(月曜日) 晴れのち曇り

最近、気温の上下が激しくて寝冷えをしてしまったようだ。今日は風邪気味..

飯を食いながら某テレビ番組を見ていたら、処刑機具である「ギロチン」の話をしていたが、何もわたしが練ったネギトロを食っている最中に放送しなくても良いだろう。処刑の話をしてると、醤油を混ぜて若干どす黒くなったマグロが、人肉に見えなくも無い。人間の想像力は変に豊かだと思う。尤も、わたしは全然気にしない方で、自分から食事中に変な物の話題を持ち出して、周りの人間を気持ち悪がらせる方だったりする。

わたしは予てから、ギロチンによって切り落とされた首の方には、切断後暫く意識が残っているのではないかと思っていた。胴体が切り落とされているのでとても生きているようには見えないだろうが、もし仮に、そのまま脳に新鮮な血液を供給できる完全なる疑似循環器、つまり無停電電源装置ならぬ無停血液循環装置を用意することができ、頭部切断後に瞬時に切り替えることができれば、そのまま生きてられるのではないかと考えていたのだ。残念なことにわたしは医学者ではないから本当のところはわからないが、頭部には目、耳、口などのコミュニケーション用具が揃っており、うまくすれば意識のある人間として生きていけるのではないか? 脳だけが怪しげな水槽に浸かっていて意識がある状態は三流のSFであったが、本当にあれば..恐いかも..

ちなみに、そのテレビ番組によると、意識は切断後十数秒は残っているらしい。たった数秒間だが、死に行く自分を眺めたときの気分は如何なものなのだろう?



無駄遣い!
1998年6月7日(日曜日) 曇り所により雨

さて、今日は久しぶりに秋葉原まで遠征。無駄遣いをしてきた。

別に今までのシステムに不満があった訳ではなかった。ありがちなASUSのマザーにPentium 166MHz、それから64MBのEDOなSIMM。わたしはCPUパワーを食いまくるゲームはしない方なので、これでもストレスはあまり無く、当分は大々的なアップグレードをするつもりはなかった。ところが、メモリーを増設したくなったのだ。いま刺さっているSIMMは、16MBのものが4枚。これ以上は増やせないので、より大きなメモリーを買ってくるしかない。また、FreeBSDマシンも使っているのだが、それがあまり速くなく、負荷のかかる用途ではややパワー不足のようだったので、見直す必要があった。

そこで買ってきたのが、新しいマザーボード、K6-233、それからメモリーだ。マザーは GigaByte の GA586-TX2。型は少々古い方に属すると思うが、まあこれで良い。K6-233はそのマザーに載せるためのものだ。最近登場したK6-300に興味が無い訳でも無いが、まあこれで良い。それからメモリーはSDRAM 128MBを、メモリーは多いに越したことはないので、大き目のやつにしたというわけだ。そして、これらをメインマシンに積み、余ったパーツをFreeBSDに回してやった。これで、メインマシンがK6-233とSDRAM 128MBとなり、お下がりを頂いたFreeBSDの方がPentium 166MHzとEDO 64MBになり、大幅パワーアップ。夕方に帰宅してから全ての作業を終えたが、疲れた。

この買い物リストからも分かるように、わたしは最速を求める方ではない。PCに関しては極めて実用主義者で、遅いのは許せないが、ある程度のものが体感的にスラスラと動けばそれで文句はない。それが悪いといいたい訳ではないが、ベンチマークの数字がちょっと良くなったからといって、喜ぶタイプでは無いのだ。はっきり言って、Pentium-166とK6-233とでは、雑記を書いたりなどの日常の作業をする分には、体感的な差は殆どない。それ故、パワーアップのつもりはあまり無かったのだが、FreeBSDの遅さのこともあり、今回は少し金をかけてみた。ぶっちゃけた話、CPUなんかどうでも良い。むしろ、何かにつけて遅いと感じるのはディスクアクセスで、これさえ速くなれば、わたしの不満はなくなるのだが...

しかし、わたしが始めて購入したPCは、486-33MHzに4MBのメモリーが載ったGateway 2000、お値段は20万円を超えていたと思う。当時はこれでもかなり速い方だったのだが、いまじゃ使い道もあまり無い。この業界の進み方は恐ろしい..



不規則な生活?
1998年6月6日(土曜日) あめ

今日は目が覚めれば夕方。昨晩は2時頃に寝たのだから、15時間ほど寝ていたことになるが、無職の頃のわたしは平気でこんな生活をしていたものだ。無職で暇だったわたしは、起きたい時に起き、寝たい時に寝、睡眠時間も目覚まし時計に攻撃されることもなく、寝ていたいだけ寝ていたのだ。しかし、そんな生活を見ていた親は、朝は決まった時刻に起き、夜になったら寝るような規則正しい生活をしろと煩く言われていた。親はそれこそが健康的だというのである。もっとも、それは一概には間違っていないと思う。殆ど寝ずに何かしていて、ついに絶えられずに寝てしまうこともあり、これは流石にわたしも不健康だと思った。

しかし、親がいう“規則正しい生活”が本当に健康的なのかどうかは、ちょっと疑問なのだ。マジメに働くようになってからは夜は0時〜1時には寝て、朝は8時頃に起きる生活に転換した。ところが、それではどうも調子が悪い時がある。良く寝た日なら朝8時に起きるのも辛くはないが、すごーーく疲れているのに眠りが浅かった日は、そんな時刻に起きるのは辛い。本当はもっと寝ていたいが、目覚まし時計は容赦なく攻撃してくる。攻撃を振り切って寝ていたいが、それでは会社をクビになってしまうから無理に起きているのに過ぎないのだ。逆に夜ももっと早く寝たいが、することがあるので寝られないということもある。

多くの人は天文学的時刻に縛られ、寝たり起きたりしていることだろう。そして、決まった時刻に睡眠と覚醒を切り替えることこそが、健康的だと信じている人も多いかも知れない。しかし、朝にもっと寝ていたいと感じることは、生理的に睡眠を欲求しているのだと思うのだ。それでも会社があるから嫌でも起きる。昼食後に眠たいと感じるが、仕事があるから昼寝は出来ない。夜は今直ぐ寝たいが、用事があるからそうも行かない。結局このような社会的な制約などから、自由な睡眠から疎外されているのだ。寝たいのに寝られないのに、それでも健康的だと言うのか? 不自由な睡眠しか許されない実体を合理化し、人々を納得させるための理由付けに過ぎない気がする。



Gコード
1998年6月5日(金曜日) あめ

新聞を見ながらビデオの予約をすると、気になって仕方の無いことがある。そう、あのGコードという代物なのだ。あの、一見何の意味も成さないような数字の並びが、チャンネルや日時などに化けるから不思議だ。当然だが、あの数字はデタラメでは無い。決まった数列が決まった結果に化けるのだから、その因果関係には何らかの規則があるはずだ。そんなものが新聞に印刷されてくるのだが、人間として、解析したくて堪らなくなるのは当然のことだ。数学科の学生さんの格好の餌食となったのでは無いだろうか?

解析の第一歩は、番組表と睨めっこしながら規則性を見出すことだと思うが、一見しただけでは、Gコードとチャンネルや日時などには相関関係は一切無いように見える。不思議なことに、Gコードは1桁から8桁までの可変長のコードで、たった一桁の数でも何らかの結果を表す。試しに、家のビデオに「1」を入力してみたら、ちゃんとマトモな結果を生じた。番組表を見る限りでは、桁数の多い数は早朝や深夜帯に集中し、4桁ぐらいの桁数の少ない数は健康的な時刻に多い。番組を録画する者の便を考え、視聴率が比較的高そうな時刻に短めのコードを生成するように工夫されているのだろうか?

前にも書いた通り、わたしは頭が悪いのでこれ以上は数学的に解析することができない。しかし、気になることは気になる。サーチエンジンで検索すると、海外のサイトにはGコードを解析したところが何軒か見付かり、アメリカ版のCのソースも得た。しかし、US版のコード (VCR Plus+) が日本のそれとは違うらしく、国内のコードでは正しく動作しなかった。国内のサイトに限定してみると、福岡工業大学の生徒さんのページと思われるところに凄く詳しそうなところが見付かったのだが、リンクが切れていて見ることが出来ない。このサイトについて、或いはGコードについて、誰か情報をお持ちではないだろうか?



ICE事故
1998年6月4日(木曜日) はれ

ドイツの高速鉄道、ICEが派手な事故を起こしたらしい。最近、やや忙しくてちゃんと新聞を読んでいないのだが、大きな事故のようだ。日本でも、新幹線を良く利用する人は多いし、毎日列車で通勤通学をしている人も多いだろうから、鉄道事故は他人事ではないのだろう。NHKのニュースを見ていたら、JR東日本の運輸担当者を呼んで、事故の感想を聞いていた。列車事故や地震など、海外で大きな災害が起きれば、必ず日本で類似した事故が起きないかどうかを、専門家らしき人物を呼んで意見を聞いている。カリフォルニアで地震があり、高速道路の高架橋が崩壊したときにも、日本のそれらは大丈夫なのかとか聞いていたが、それと同じように、今回のICEの事故でも、日本の新幹線と比較し、似たような事故が起きないのかどうかを確認ようとしている。まあそんな場合、日本は安全ですよと、自国の安全性を誇示したがるのは敢えて言及するまでもないことなのだが。

しかし、ICEと新幹線を比較することに、どれだけの意味があるのか? だいたい、人間が時速200Km超で移動することに、そもそもの無理がある。その無理を現実化しているのが技術であると考えているが、やはり無理なことを無理に現実化しているのだから、事故が起きない方が不思議だと言える。普通に歩いている人間が壁に激突しても大事には至らず、せいぜい頭を打ってタンコブが出来るぐらいで済むだろうが、時速200Kmで移動している人間は、石ころ一つを踏んだだけで、死に至る可能性は十分にあることは、言うまでもない。

そんなわけで、わたしはこのような事故が起きても、海外の方が安全か、或いは日本の方が安全かという議論は聞きたくも無い。事故は起きるものであり、もしも自分がその事故に遭遇して死んでしまっても、運が悪かったと考えるしかないと思う。だから大袈裟な話かもしれないが、わたしは新幹線には、1時間後に脱線事故が起きて死んでも良いという覚悟で思って乗り込んでいる。例えば大阪から東京まで行くことになったとしよう。そこで、歩いて行くのと新幹線で行くのと、どちらの方がリスクが低いかと考えるのだ。徒歩で行けば疲れるし、途中で事故に遭う可能性はある。同じように、新幹線も事故を起こす可能性は否定できない。しかし、速度のメリットの方が大きいので新幹線にしようと考えるわけだ。

以下はわたしの個人的な見解だが、ICEと新幹線では、設計のコンセプトからして全く違う。ICEは動力機関を持たない客車に乗客を乗せ、それら客車の前と後に取り付けた大型の機関車で動かす仕組みだ。前の機関車で客車を引っ張ると同時に、後ろの機関車で客車を押すので、プッシュプル方式とも言われている。それに対して日本の新幹線では、各車両に比較的小型の動力機関を設け、機関車は使っていない。どちらの方が安全かと言われれば難しいが、機関車が事故れば客車も全部道連れされてしまわれそうなICEと違い、こまめな動力制御が行えそうな新幹線の方が安全かも知れない。まあ、どっちもどっちというところだろうか?

高速道路の高架橋は? これは、日本の高架道路はかなり安全だと思う。そう言うと、阪神大震災の時に「やっぱり崩れたじゃないか」と言われるかも知れなが、それは筋違いというもので、矛先は「絶対に崩れません」と訳の分からない言っていた馬鹿な自称専門家に向けるべきであろう。先程も述べた通り、事故は起こるという前提に立たなければならない。高架道路を使う前には、運悪く直下型の大地震が起きて、道路もろとも朽ち果てる覚悟でなければならないのだ。しかし、アメリカの高架道路の橋脚を見ていると本当に大丈夫かと心配になるぐらい細いものも多くある。アメリカと言っても広いので、地震が起きにくい地域と、多発する地域とではかなり差がある。しかし、客観的に見て、日本の橋脚が太いことに間違い無い。



もうお前は輝かない
1998年6月3日(水曜日) あめ(梅雨入りらしい)

ある友人からお便りが来た。また、つまり再び、ニュージーランドへ留学するのだという。元々留学などには興味が無かったわたしだが、身近な人が留学をするのであれば、応援したいと思う。単身で海外へと赴き、生活しようと言うのだから凄いと思う。わたしに出来ないことをする人、自分に無いものがある人、そんな人は妙に輝かしく見え、憧れるものだ。

わたしはと言うと、自分でも何がしたいのか良く分からない時がある。何でも、それが叶わなければ出来るだけ多くのことを、生きている内にやってみたいと思う。だが、それ故に、或いはわたしはより多くのことをするには要領が悪すぎるのか、何をから手を付けていって良いのかわからない。そして満足といえる結果は、いつも得られない。やはり平凡な毎日、何か輝かしい人生が待っているのかも知れないのに、そこに達せない不満足感を、人々は閉塞感と呼んでいるのかも知れない。

閉塞感を身に覚えるのは、わたしだけではないと思う。きっと多くの人がそのように感じているのかも知れない。しかし平凡な日々を、自己欺瞞でも何でも良いから、何らかの手段で何とかやりきる人は..一体どうやっているのだろう? 最近では、わたしは妥協や諦めを積極的に選んでいる気がする。だが、わたしが言う輝かしい人は、平凡な社会生活を普通に送りつつも、趣味や自己目的などを達成し、輝いているように見える(あくまでもわたしの主観だが)。わたしには諦めぐらいしか手段が無いのだが..

ところが、なぜか、逆にこんなわたしを輝いていると言う人がいる。なぜだろう、要するに「隣の家の花は赤く見える」ものなのだろうか? ひょっとすれば、わたしの主観において輝いているように見える人も、閉塞感を身を持って感じているのかも知れない。多くの人があると信じて疑わない輝かしい未来も、実の所は実体の無い、虚構でしかないのかも知れない。ならば何故、人はそんなものを期待するのだろう?



過去は遅かれ早かれ風化せり
1998年6月1日(月曜日) 晴れ

今朝の朝刊には天皇訪英の記事と共に写真が多く載っているが、わたしにとっては特に感心のないことだ。もっとも、以前にわたしは緩やかな左翼主義であると書いたことがあったが、天皇や君が代や日の丸などが、貴重な時間を使ってまで廃止に向けて議論するに値するほどののとは考えていない。それよりも、俺様が払っている血税で飯を食っているのが気に入らないという金銭的な不満点、代が変わる度に年号が変わって日付がややこしくなるという事務上の不便さ、細石が長じても巌にはならないという地学上の誤解が解消されればそれでと思う。

さて、そんなことはさて置き、なぜ人間は過去に拘るのだろう。わたしも訳アリの過去に拘束され、多分それによって性格が歪曲しながら育ってしまった人間だと自分では思うのだが、今になって考えて見れば、過去に拘っていた自分がアホらしく思えてくる。言うまでもないが、泣いても笑っても、過去は文字どおりに過ぎ去ったことであり、終わったことを訂正したり取りやめたりすることはできない。ならば過去に拘っていても何ら進歩的なことは起こらないと考えるのが妥当だとおもうのだが、例えば「反省」など、敢えて過去を振り返り、その過去とやらを考え直してみようとする人は数少なくないと思う。

それは、ダイエット中なのに食べ過ぎてしまったから明日は控えようという、日常的なレベルの反省から、歴史を振り返って考え直そうというレベルの反省まで。規模こそは違うが、それらはすべて「反省」という一つの概念に包括されるものだ。それらは明日という日を昨日よりも良くするために、過去を考え直そうとしているのだろうから、否定はしない。しかし、度の過ぎた反省とは、過去に拘束されているだけだと思う。

新聞記事によると天皇にケツを向けて、過去の強制労働に謝罪しないことなどに抗議したイギリス元捕虜がいたそうだが、言っては悪い気もするが、わたしの目から見ると誠にみじめに見える。捕虜になった経験のないわたしには、彼等の気持ちは理解し得ないが、それだけに、過去に拘束されている人間の惨めさというものが見えてしまう気がする。ならば、彼等はどうするべきか? いや、どうすることもできないだろう。しかし、時間が次第に解決してくれると思う。彼等の気持ちが理解できないわたしは、わざわざ時間を割いてまで、天皇にケツを向けに出かけようとは思いもしない。

1997年9月27日の「在日朝鮮人」にも似たようなことを書いたが、今の歴史認識問題なども、その過去に拘束されている年寄たちの足掻きなのではないかと思う。そして、その種の年寄が死に絶えるころには、無くなるとは言えなくても、ほぼ忘れられるのではないかと思う。悲惨な過去を風化させないようにと、幾ら歴史教育などで気張っても、若い人間はあまり関心を持たないのではないか? また、時々刻々と発生するであろう新たな問題で、それどころでは無くなるかも知れない。そんな空回りも時間が経てば、他の多くの歴史事実と同じように、教科書のとあるページの、とある一行にしか過ぎなくなるはずだ。