多事毒論(1999年5月分)



キーボード
1999年5月31日(月曜日) はれ

自宅PCのキーボードがおかしくなってしまった。タイプマティック、もといキーリピートが、突然異様に遅くなってしまったのだ。何もいじっていない。1日ぐらい立ち上げっぱなしにしたておき、暫く使わずに放っておいて、次に触ったときは壊れていた次第。ま、Windows だから突如として設定が変わることがあっても不思議ではない。早速、コントロールパネルへ...何だ、設定は以前と変わらないようだ。念のため、「適用」ボタンを押して見るも、状況は変わらない。

仕方が無いので、取りあえずキーリピートの速度を全開にしたが、まだ以前よりも少し遅いような気がする。日頃から書いている文の量が多いため、カーソルがチンタラと移動するようではイライラして、お話にならない。それだけでなく、カーソルの移動速度は微妙に変わっても困るのだ。慣れると、マッハなキーリピート中でも「ここで止めよ」と指に指令を送れば、場所を指定してカーソルを止められる。しかし、これはどちらかというと身体的なの感覚でやっており、できなくなるから難儀するのだ。

Windows のことだから、何かの拍子で自己修復するかも知れない。すると、全開に設定されているキーリピート速度設定に従い、今度は異様な速度でカーソルが移動したりして。器用なヤツだ(笑)

そうそう、タイプマティックとは、IBM 方言でいうキーリピートのことだ。BIOSの設定画面で、Typematic というような項目を見たことがあるかもしれない。何となく意味が分かるようでわからない、数々の IBM 方言達。時には親切である気がしないでもないが、大方の場合は余計に意味不明だったりする。テクニカルタームは、無理に訳さない方が通りが良いと思うのはわたしだけではなかろう。オペアンプのことを、演算増幅器と唐突に言われたとしたら、ふと考えてしまいそう。



FAX
1999年5月30日(日曜日) はれ

昨日はドタキャンしてごめんなさい。

家で使っているFAX電話機は、普及型の感熱紙に記録されるものだが、この感熱紙というものは、はっきり言って嫌いなのだ。FAX電話機の購入を検討していたとき、個人でも買える程度に低価格な普通紙FAXも僅かながら存在していたのだが、品種の少なさや、値段の高さもあって、結局購入には至らず、感熱紙のものを買ってしまったわけだ。まあ、FAXなんて届いたらその場で読んだら終わりというものが多いので、紙の品質なんて二の次でも良いのだが、あまり気持ちのいいものではない。

今日、秋葉原の量販店で、たまたまプリンタの売場を見ていたら、普通紙のFAX+電話+カラープリンタ+カラーコピー(印字はインクジェット)の複合機が、6万円弱で売られているのが目に入った。そんな大袈裟なものは不要だと言われるかも知れないが、1年半ほど前に買って今も使っている電話機は、FAX+コードレス電話で5万円弱だった。プラス1万円で、プリンタなども付いてくるのなら、お得であるような気がするのだ。何となく損をした気分だが、値段の変動など、そんなものと諦めるしか無いだろう。

B4版の送受信ができない、コードレス電話が無い、といった若干の不具合はあるが、それは別に構わない。自宅は基本的にA4版以外の紙は存在しないし、希にB4で送ってくるヤツが居ても受信ができないわけではないだろうから、然したる問題にはならないだろう。コードレス電話も、狭い部屋ではどうしても必要というわけでもなく、実際のところ親機のコード付き電話(?) を使うことの方が多いので、無くても困るわけではない。そんなわけで少し欲しくなったが、実際問題、買い換える程の事でもないから、やめ。

普通紙に拘る理由は、専ら感熱紙が気に入らないからだ。だが、感熱紙は値段にほぼ比例して品質が良くなるので、高い感熱紙を買ってくれば、それなりに綺麗な印字が得られるようだ。今の電話機を買ったときにオマケで付いてきたメーカ純正の感熱紙は、文字も鮮明で、1年半保存した後も感熱紙特有の黄ばみは余り気にならない。比べて、どこかのディスカウントで買ってきた安い感熱紙は、印字が全体的にかすれていて不鮮明であるうえ(安い感熱紙は、高級なものと比べて感熱温度が高いらしい)、1週間も経てば豪快に黄ばんできて、気分が悪い。

どうでも良いが、異機種のFAX間にも、パソコンのモデムと同様に「相性」と呼ばれるものが存在するらしい。当然ながら、FAXのプロトコルは規格化されているので、それさえきちんと守っている機種間なら問題なく送れても良いはずだ。しかし、メーカ毎の「独自拡張仕様」なんてものがあり、時としてそれが通信を邪魔するらい。同メーカ間の通信なら問題は無いが、他メーカだと駄目な場合があるとか...色々とあるらしく、FAXメーカを困らせるとか。幸い、うちで使っているFAX(日本電気製)でそのような問題が起きたことは無い。海外もOKだった。

独自拡張仕様の例として、実家にあるシャープのFAXには、独自の圧縮が実装されているみたいだ。シャープ同士で送ると、独自の圧縮が利くためか、他社のFAXに送った時と比べて分かるほど早かったりする。勿論、パンフレットに書いてある送信所用時間も、この圧縮が利いている前提の秒数だったりして、その旨が小さな文字で書いてあったりする。しかし、送信先が必ずしもシャープ製のFAXを使っているとは限らないのに、規格外の手順で送ってみた数字を挙げて早さを競うのは、何か間違っている気がする。そもそも、規格通りに送れば、どれもほぼ同じ数字になるはずなのだし。



臨時休業
1999年5月29日(土曜日) はれ

本日の多事毒論は、誠に勝手ながら休業させていただきます。



智とは何?
1999年5月28日(金曜日) はれ

山路を登りながら、こう考えた。

智に働けば角が立つ。

情に棹させば流される。

意地を通せば窮屈だ。

兎角に人の世は住みにくい。

夏目漱石の「草枕」より、有名な言葉である。でも、これって意味が何となく分かるようで、しかし、実際に何を言わんとしているのか掴みきれないのは、わたしだけではない気がする。そこで、わたしなりに、この意味を解釈してみたい。

どんな生き方、考え方をしていても、人の世に住んでいる限り、他者との関係において何らかの紛争に巻き込まれるのは当たり前のことだ。理屈抜きの「どうしても反りの合わない人」は、必ず身近に存在し、平和な一日を崩壊させてくれ、そうでなくても、まあ日常生活においては一筋縄ではいかない人間関係が多くあるわけだ。そのようなことは、余程の図太い神経の持ち主でもなければ、日々何らかの形態で感じていることだろうから、敢えて説明する必要はないだろう。まずこれが、そもそもの前提だ。

人間関係においては、いつもいつも自分が譲歩するわけにもいかない。自分が正しいのなら、意地を通すことは、当然ながら必要なことだ。ところが、自分の意地を通すために、自分が支払わなくてはならないコストも、決して小さくない。場合に依っては捨て台詞を吐きながら家を出、あるいは上司に辞表を叩き付け、身内を敵に回す自虐的な行為さえ、必要となることがある。こんな「不器用さ」を貫けば自分の身が窮屈になる一方であり、「意地を通せば窮屈だ」とは、つまりそういうことだと思う。

とはいえ、他人を気遣う余り、自分の意志に蓋をしているようでは、今度は自分が損をするだけだ。不条理な要求を出す人間を相手に、いちいち自分が折れていたようでは、そもそも面子が立たない。「情に棹させば流される」が意味するところはそんなことでは無いかと思が、かといって、突然反旗を翻して意地を通そうとすれば、相手の立場によっては、自分が大変な目に遭うことも少なくない。「情に棹させば流される」と「意地を通せば窮屈だ」のバランスは極めて微妙なところであり、その天秤の針は永遠に中心に来ることが無い、という意味も込められていると思う。

さて、問題は「智に働けば角が立つ」が何を意味するかだ。ボトムアップ方式でのここまでの解釈は、実体験上のものもあったりするので、比較的容易だった。しかし、この文においては、そもそも「智」が、何を指しているのかが不明瞭だ。これは、飽くまでわたしなりの解釈だが、「智」とは、人間関係における紛争を解決するために用いられる、論理的な種の具体的な手段のことではなかろうか。「知識」や「理詰め」といった抽象的な概念自体よりも、「智」は、日常の紛争に対する何らかの具体的な解決手段を指しており、つまり「智に働けば角が立つ」とは「論理的な解決手段に訴えれば、角が立つ」という意味として捉えている。

「論理的な解決手段」の例としては、現代における言論や裁判と言ったものが挙げられるだろう。とりわけ(似非であっても)民主主義国家の中ではそういった手段が重んじられるが、言論を用いて間違いを糾弾したり、(特に個人間の)裁判などで論理的正当性を主張して物事を解決することに「角が立つ」と抵抗を感じる風潮は、この国には少なからずあるように思う。話は逸れるが、このような抵抗感は、ムラ社会において人と人は、なるべく協調すべきだという風習の名残であろう。

そのためだろうか、日常において理詰めで人を丸め込む手段を用いるのは、決して印象の良いことではない。例えその理論が正しくても、「融通の利かないヤツだ」とか、理由無しの「感じの悪いヤツだ」といった印象を持たれることは免れないだろう。わたしの周りには、理系の人間が多いためだろうか、ちょっとした事でも理詰めで正当性を訴える人が少なからずいる。大概、もう少し穏やかにやれば円満に解決しそうなことでも、話が変に拗れ、全然関係の無いような問題もついでに発生して...結局、理詰めによる紛争解決は、必ずしも芳しいことではない気がする。

かくいう自分も、理詰め解決の右翼側にいる気がするけど。



MP3とか
1999年5月27日(木曜日) 強風!

今日は、風が窓を揺する音で起床したほど、異様に風が強かった...

市販CDをMP3化して配っていたサイトのWebmasterが、逮捕されちゃったらしい。まあ、そういうサイトは星の数ほどあり、それも最近になって沸いて出てきたわけでもない。何かと評判の悪いJASRACは煩いことを言うが、警察が動くことはまず無いというのが、今までの見解だったようだ(何かあるとすれば民事)。従って、どちらかというと「今更の見せしめ」という感は否めないが、著作権法には懲役や罰金も規定されており、あり得ない話ではない。

しかし、見せしめの効果はそれなりにあるかも知れない。摘発を恐れ、閉鎖するMP3サイトは少なくないだろう。ヘビーダウンローダにとっては、冬の時代を迎えることになるのだろうが、この種のサイトは、多少のことではへこたれないと思う。今後も、あの手この手で頑張るだろうから、MP3サイトが完全に消滅するときは、MP3自体が時代遅れになるときだろう。それに、その気になれば身元を特定できるような証拠を一切残さず、その手のサイトを開設することもできると思う。そうなれば警察だって動けまい。

となると、やり場のない責任を押しつけられるのは、結局サーバなどを提供するプロバイダとくる(辛いねえ)。職業柄、わたしはそういうサイトを摘発する立場にあったりするのだが、広大なディスクスペースに保存された膨大なファイルの中から、それらしいファイルを見つけだすのは簡単なことではない。拡張子が全部 *.mp3 だったりすれば機械的に探せるのだが、偽装拡張子を使うことなど、アップローダに対しては釈迦に説法であろう。

そこのところをどうやるかは、もちろん勘と経験(えっ、経験って何ですか?)がモノを言う。極秘の傾向と対策...もちろん極秘なので誰にも内容を明かすわけには行かないが...それをもってすれば、違法MP3ファイルに使われる偽装技術のうち8割程度は暴ける自信はある。その残りの2割は、アングラサイト運営者や、アングラツール開発者の知恵と技術の結晶であり、敬意を払う必要があるだろう。ここで内容を言ってしまえば、その方達に対しては失礼だ(笑)



自転車盗まれた
1999年5月26日(水曜日) くもり/小雨

不運なことにも、自転車を盗まれてしまった。自転車はビルの裏側にある自転車置き場のようなところに置いてあり、しかも鍵を掛けてあったのだが、持って行かれてしまった。盗むなら、わざわざビルの敷地内の、それも鍵のかかった自転車よりも、もっと合理的に盗めるものがあるだろうに(実際、その辺に盗みやすそうなのが転がっている)。っていうか、盗むのなら、わたしのような貧乏人ではなく、金持ちから盗めという気分だ。金持ちからなら、多少の盗みを働いても罪は軽かろう。

自転車が無いことに気づいたのは、わたしではなく親父だった。親父が家に来たときに、「淳介、お前の自転車どこやった?」なんて言うので、調べてみたら、親父が言う通り、自転車が消えていた次第。情けない、わたしはいつも自転車置き場の前を通っているというのに気づかず、滅多に現れない親父が気づくとは...最近は歩きが多く、1ヶ月ほど自転車に乗っていなかったという事実を差し引いても、鈍感であることは否めないだろう。親父の、そういう変なことだけに異様に鋭い動物的感覚は、昔からなのだ。

そんなわけで、交番へ被害届を出しに行く。交番は近所にあるのだが、そこに人が駐在していることは希で、今日も例外になく、殺風景な長方形の部屋からは人の気配すら感じられない。ヘビースモーカーの残り香であろう煙草の臭い、そして天井から煌々と落ちる薄白い蛍光灯の光だけが、その建物が廃屋ではなく、交番であることを裏付ける証左となっていた。いや、交番の細かい描写はどうでも良い。中に入り、警察署直通の電話で用事があるので人を寄こせと伝えると、直ぐに行きますからお待ち下さいと早口に言われ、電話を切られた。

窓にも「パトロール中」などという札がかかっており、わたしはその言葉を聞いて外から人間がやってくるものだと解釈した。待つことに余り耐えられない性分なので、窓越しに街を行き交う人々を眺めながら、来るべき人間を待ちわびる...ところが数分後、奥の部屋に通じる鉄の扉がいきなり開いたかと思うと、如何にも寝起きであることを物語る相貌で警官が登場。パトロール中と札を下げながら、実のところは仮眠中だったらしい。それならそれで、怒らないから正直に「仮眠中、お静かに」とでも書いときな(笑)

仕事とは言え、自分がもしその立場なら、どれほど不機嫌な態度で出てくるかは計り知れない。中途半端なところで起こされたのだろう、何となく呂律が回っていないことを除けばこの方は愛想が良く、やや気の毒に思う。過去の経験から言えば、接客態度のいい警官なんて寡聞にして知らず、例えば時間を割いて落とし物を届けてやってるのに、そのでかい態度と要領の悪さは何様のつもりだ! と、思わず怒鳴りたくなる者が殆ど。しかし、少しでも感じが良ければ、次回はせめてレム睡眠中を狙って行ってやろうかとか、気を利かせたくもなるものだ。

でまあ、後は普通に書類を書いて終わり。警察官という仕事の何が大変って、ことある毎に付随してくる書類書きという名のオマケらしい。それも、役所の書類は殆どA4版で統一されているというのに、司法の場だけはA4革命から取り残され、B4版2つ折りが主な提出方式。プリンタを買うにもB4が刷れなくてはならず、それもデジタル提出不可とは時代遅れも甚だしい! とは、知り合いの警察官から出た嘆き...未だにA版よりもB版を多様しているのは、司法と学校ぐらいのものだろう。



NLX買ったぜ!
1999年5月25日(火曜日) はれ

知り合いの方から、NLX パソコンを買い受けた。いつもの事ながら値切り倒したものの、断固として値引きしてくれない。というわけで、わたしなりの「気前の良い」価格で買ってしまった(笑) NLX だが、実家用のPCとして一台組んだ話は、先日書いた通りだ。その他、会社でも一台組んだりしているうちに、自分も欲しくなってきたという次第。欲には勝てず、また家に余計なものが増えてしまった。

早速だが、いまご覧のサーバを NLX に取り替えた。直ぐに移行できそうだったので、お客様が見ていない隙にさっと移し替えてしまえ! 予め、新しい機械に合わせてカーネルを再コンパイルし、サーバを止める..が、ディスクなどを移し替えてみると、これがまた動かない。二枚挿しになっている NIC の両方が、動いているようで何か変なのだ。はぁ、なんで一筋縄ではいかないのでしょうね?

インターネット側へ出ていくルータの方に繋がっている1枚目の NIC は、BIOS の設定に不備があることが分かり、それを修正すると解決(ISA な NIC が使っている IRQ を、事前に Legacy to ISA にしたはずなのに、BIOS が覚えてくれてなかった)。が、内側の LAN に繋がっている NIC は、認識はするものの、どうしても中継すべきパケットを中継してくれない。ドライバのソースを調べてみると、どうもこれが古くていけないようで、新しいソースコードを入れてやっと直った。気が付けば、もう良い子の寝る時間..

NLX だが、やはり省スペースで良い。この写真の中央にあるのが www.exp.org だが、隣のミニタワーケースと比べれば一目瞭然だろう。横に置いてある 8 port の switching HUB よりも、一回り大きいぐらいなのだ。



誤字脱字
1999年5月24日(月曜日) あめ

昨日書いたUPSの記事において、「(写真)」とだけ書いて、それにリンクを張るのを忘れてしまった。今朝、職場から読み直して気づいた次第...今更だが、正しいリンクを張って置いたので、今更で良ければどうぞ。

実は昨日の夕方にも、「ここの Webmaster は誤字脱字が多すぎる」とか「ちゃんと見直しているの?」などと指摘されたばかりなのだ。ううっ。図星を指され、言葉の白刃に肺腑を剔られたわたしは、咄嗟にこう反論。流し読みでの自己校正は行っているのだが、ゆっくりと読み直すことは、時間的に難しい時も多いと。出任せではなく本当のことなのだが、その当日にリンクの張り忘れなんてやってしまった手前、面目次第もない。

PCで文章を書いていれば、根本的な書き間違いは殆ど発生しないと思う。言い回しが不適切であったりすればATOK様が指摘してくれ、送り仮名が抜けていたり、多かったりすれば、そもそも変換が正しく行われないか、ATOKが指摘してくれるので普通は気づく。だから、まず入力段階で間違いが起きるのは、誤変換なのだ。どう考えても変な時は大体気づくのだが、例えば「保証」と「保障」と「補償」のような、意味が似ている漢字の誤変換には気づかない時もある。

脱字は、ネタが上手くまとまらない時などによく発生する傾向にある。一段落全てが一発OKの場合もあるが、色々と練っているうちに表現が不明瞭だったり、あるいは同じ事を重複して書いていることに気づくと、文を最適化する作業に入る。その際、没になった文を消したり、文の順序を前後させたり、接続詞を加減しながら再構成する際に、繋ぎ間違えが起きると脱字となり、あるいは逆に変な文字が混じってしまったりするのだ。内容が明瞭で、かつ言っていることが首尾一貫していることを確認しながら再構築する段階が、個人的には一番頭の痛い作業だ。

それが終わると、テレビでニュースを見ながら殆ど斜め読みするという、やる気のないスタイルで、某かの校正はしている。例えば、昨日の記事ではタグと制御コードを除くと1558バイトある。バイト数にすれば大したことは無い感覚だろうが、人間(特にわたしは)が文字を認識する速度は決して早くなく、それだけでも真面目に読めば2〜3分程度はかかる気がする。それも自分が書いたものを自分で校正するのだから、先入観があり、なかなか正確にするのは難しい気もする。

さて、言い訳ばかりを書き連ねた、本日の記事に誤字脱字はあるか?



ジャンクUPS
1999年5月23日(日曜日) くもり

昨日、アキバの某ジャンク屋でジャンクの UPS (無停電電源装置) を見付けたので買ってしまった。メーカー不明の薄型のやつで、500VAのものが3500円、殆ど興味本位の衝動買いだ。ここには落ちては困る計算機が複数あるため、まともな UPS は以前から用意されており、ジャンクの UPS を実用にする必要は無い。動けば運が良いかなという程度の軽い動機で買ったのだが、持って帰って電源につないでみると、きちんと動作した。

しかし、バッテリは消耗品なので、過去の使用状況によってはバッテリとして機能しないかもしれない。余り新しくないらしく、外観もボロくてタバコっぽくヤニヤニしているので少々心配だが、それは後でフル充電してから負荷をかけ、実際の持続時間を調べることにする。使えるようなら、会社のPCにでも繋いでやって、自分のところだけ無停電化しよう。UPS なんて、おねだりしてもなかなか買って貰えないだろうから(笑)

お約束だが、一応バラしてみた。電池は、12V 2.2AH の密閉鉛蓄電池が4個直列の、合計で 48V だ。そして、インバータの基板で目立つものと言えば、でかいモールドの FET が3パラ、その周辺に 470uF 200V といった具合の高耐圧なケミコン、それから強烈なチョークコイルというところで、トランスは入っていなかった(写真)。基板を外すのが面倒だったので詳しくは見ていないが、何となく DC 48V をチャージポンプ的なもので AC 100V まで持っていっているような構成。

DC 5V -> DC 12V 程度のチャージポンプならいくらでも見たことがあるが、その規模になると、なかなかエグイねえ。男は何にしてもデカイものに憧れるらしいが、パワーエレクトロニクスの魅力はそこにあるのかもしれない。5V 100mA みたいなチンケな世界よりも、10KV 1KA というふうに、単位に「キロ」が入ると、断然魅力的になるでしょ?(弱電やってる人間が言うなって)



NLX 組み立て
1999年5月22日(土曜日) はれ/くもり

実家が新しいPCを組み立てて欲しいというので、秋葉原まで部品買い出しに行ってきた。最初はミニタワーな互換機を組み立てるつもりでいたのだが、小型に越したことはないだろうと NLX を組み立てることにする。プラットホームで Socket 370 の NLX ベアボーンが \34,800 で売られており、オンボードでビデオ (SiS) とサウンド (SB64)、100BaseTX な NIC (Intel Ether Express)、細かいところでは IrDA とか USB もついていて、お買い得といえばお買い得だ。

今回は、それ + Celeron 333MHz + 4.2GB HDD + 64M SDRAM という構成で組み上げ、サイズも小さく、コストパフォマンス的にも普通ぐらいなので、まあ実家の人間が遊ぶ分には丁度いいところだろう。小型で静かで感じが良いので、組み立てていたら自分用に一台欲しくなってきた。いまご覧のサーバはミニタワーだが、これを NLX 化すれば省スペースで言うこと無しなのだ。金が無いので今は諦めているが、欲しいぃ。

買い物が一通り終わり、ジャンク屋で宝物を拝めていたら、表が騒がしくなってきた。無線の音、赤色灯、こりゃ事件である。何が起きたのかは分からない。しかし、近くにあった公園で何か非日常な事が起きたのは明らかで、見に行くと近くの交番から来たのであろう制服のオマワリが何人か集まって目撃者探しを行っていた。程なくして、刑事と思われる私服の人間が、俄の赤色灯を屋根に乗っけた車で、一方通行道路を全開で逆送しながら颯爽と現着。更には鑑識と思われる人間なんかも現れて、かなり大袈裟な事になっていた。

連中が引き上げてからその場所に立ち寄ってみると、その公園の一角にある電話ボックスの中に血の後を発見。大した量では無かったが、なぜ電話ボックスの中で? 誰かが電話をかけている最中に、後ろからボコられた、ぐらいしか想像できない。ところで、事件だとは言え、オマワリは、もう少し迷惑を考えて車を止められないものなのか? 乗ってきたパトカーは道路のど真ん中に止めて、現場とは関係の無い道路はそのためだけに封鎖状態。少し気を利かせて端に寄せておけば通れるのにね。



通信傍受法案
1999年5月21日(金曜日) はれ

通信傍受法案なんてものが国会で議論されているようだ。その存在の是非はもとより、

日本国憲法 第21条 集会・結社・表現の自由と通信の秘密

 (1)集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
 (2)検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない

という非常に分かりやすい文章を、素直な心をもって率直に解釈すれば
明らかに違憲 であるような気がするのだが、それはわたしが法律の素人であるからだろうか。どうも、法律の世界においては文章を文字通りに解釈してはならないらしく、ともすれば木下是雄氏が「理科系の作文技術」(中央公論社)に書かれたことは全て否定しなければならないのかも知れない。まあ、その気になれば何でも通ってしまうのであろう。

情報にこそ価値があり、それがモノをいう社会において権力という立場に立って考えてみれば、こういう権限の必要性が叫ばれるのも理解不能なことではない。情報と名の付く存在のうち、ざっと見積もって9割8分5厘は多かれ少なかれ怪しげな要素を含んでおり、中には治安を著しく乱しうる情報が混ざっていても不思議ではなかろう。ただの情報も、そのコンテクストによって巨大なパワーを持ち得る可能性のあるものならば、公権力がその流通過程にある通信を制御したがるのは、至極当然のことであると思う。

しかし、自分の知らないところで知らない間に秘密が漏れている気持ち悪さには、計り知れないものがあるだろう。通信傍受法案に対する反対論を聞いていると、概ね傍受という行為自体を否定しているように感じられるが、当然のことだと思う。しかし、通信傍受など今に始まったことではなく、昔からあったことだが、今頃になって市民が法案に反対するのも不自然なことだ。今まで大方の人間が、そういう事に対して無頓着なだけだった気がする(日本という文化が、無頓着さの要因だろうか)。そこに、こんな法案がでてきて、少しは意識するようになった...そんな構図が見え隠れしている気がする。

だが、わたしに言わせれば、法律が保証しているからと言って、秘密の情報を堂々と流す方がバカだ。そういった行為を合法化する法律が無く、例え違法な手段であっても、原理的に可能な以上、自分の秘密は自分で守らなければならない。法案に反対したからといって盗聴が無くなるわけでもなく、通信の秘密が確実に守られることもない。警察は無論のこと、NTT やプロバイダなど、通信事業者すら信用することは出来ない。だからこそ、広域な情報通信網では自己防衛手段として暗号化が有用なのであり、そして有用さ故に権力組織は暗号化に脅威を感じ、それに関連する技術を嫌うのだ。

電子メールなど、メールサーバのスプールさえ覗き見できれば意図も簡単に読めてしまう。でも、例えばPGPのようなもので暗号化されていれば、でたらめな文字列を拝むことはできても、内容を読むことは能わないだろう。例えそのメールが、警察にしてみれば喉から手が出るほど欲しい麻薬取引に関する情報であっても、「見ちゃだめよん」なんだから強力な手段だと思う。電話も信用出来ないと言う人は...例え簡易的なものであっても、通話を暗号化する電話機なんてものがあれば安心だろう。法案が実際に法律となれば、暗号化受話器なんか作ってみたら売れるかしら?



渡る世間は鬼ばかり
1999年5月20日(木曜日) はれ

21時頃に帰宅し、取りあえずテレビを付けたら「渡る世間は鬼ばかり」が放送されていたので、そのまま見てしまった。ああいうドラマは余り好きではないので、敢えて見ようという気にはならないが、何となく見てしまったところの感想は、モロに「お笑い」。普通なら自然と解決するであろう諸問題を無理にでも拗らし、一種のお笑いコントに仕上げてしまう橋田壽賀子は、やはり素晴らしいとさえ思ったぐらいに。そういう意図で作っているのでは無と思うが、笑いながら見てしまった。

身近な人間関係の中で、各人物に恩義・打算・嫉妬といったネチネチした感情を余すことなく発揮させ、それも問題が最も泥沼化しそうな状態に歯車を最適化させているところはなかなかのものだと思う。よく考えれば、自分の親戚の間にもそれに類似した対立はあったりする。何故そんなに揉める必要があるのか、当事者ですら明確な理由は知らなかったりするから不思議なことである。相手についてのイメージを勝手に悪い方向へ膨らませ、それで嫌悪感を抱いて、根拠もなく睨み合ってるようなものだろうか。

まあ、そんなことは当人同士で勝手に揉めていれば良いことだし、自分はアホらしくて関わろうとも思わない。他人の家の仕組みについて、批判したところで一利もないことだろう。個人的に、ベトベトと互いに入り込むことよりも、一線を画したドライな人間関係を好む方だ。そのため無意識のうちにそういった関係が発生しそうな状況からは身を引いてきたためか、わたしの周辺にはドライな人が多い。しかし、

自由になりたくて 孤独になりたくない
放っておいてほしい 見捨てないで欲しい

風にならないか(中島みゆき)

こんな歌詞を見たりすると...実のところ、自分は凄く寂しいのかも知れないと考えてみたりする。思えば、人間関係の鬱陶しさに磨り減った反動として、今のようなドライな関係に切り替えたような気もする。結局、その辺の微妙なトレードオフが一番大事なんじゃないかと。やっぱり、割り切れない難しさがあるところなのかもね。



テレビPHS?
1999年5月19日(水曜日) あめ

京セラが、テレビ電話付きPHSなんてものを出したらしい。店頭価格は4万円程度のこと。

発想としては面白いと思うのだが、実用上の意味あるのかな、これ。出先でテレビ電話が欲しいという場面を想定すると...どうしてもその場の映像を転送したい場合...強いて例を挙げれば、現場の状況を事務所に伝えるとか? それ以外にはあまり思いつかないし、需要があるとすれば、業務向きであろう。個人用途では、普通に電話でお話が出来れば、それ以上を求める人は少ない気がする。

わたしが初めてテレビ電話を見たのは、確か小学校2年か3年の時だった。山口県の方にKDDの衛星通信所があり、そこに技術館みたいなものがあって、デモ用のテレビ電話が置いてあったというわけだ。とはいえ、あくまで見本なので、電話ボックスが二つ背中合わせに置いてあっただけ。手の届くところにいる人間の顔を見るだけで、何でそんな大袈裟な装置が必要なのだと子供心に思い、印象は良くなかった。

その思いは、今でも余り変わっていない。仕事上必要だからテレビ会議っていうのなら分かる。声だけ伝われば取りあえず会議は出来そうだが、画像が見えることで会議の臨場感が増すっていうのはあると思うから、テレビ会議だと遠方でも何となくのめり込めるという傾向はあろうかと思う。でも自宅に欲しいかぁ? 電話で顔が見えないのは、むしろ良いところであると思う。寝転がりながら鼻毛を抜いていても、困ったような声だして実は笑っていても、相手には分からない。結局、PRの指向も、遠方に住む祖父母が孫の顔を見るためといったように、限定されているようだし。

余談だが、以前に、とあるアルバイト先でテレビ会議室なんてものを見せて貰ったことがある。要するに小綺麗な会議室にカメラと大きめのスクリーンが置いてあり、机にマイクが置いてあるというだけのもの。それは一瞥するとかっこいいが、個人的には会議室なんてどうでも良くて、別室に置いてあった伝送装置などの方が興味があった。INS1500 などでデータを流しているようだった。

どうでも良いが、これを書いている途中に壁を我が物顔で這うでっかいゴキブリを発見。ここでゴキブリを見るのは初めてだし、掃除などもちゃんとしているので、自分が発生原因で無いことは明らかだ。隣に住んでいる変なヤツがゴミをため込んでいるのを目撃しているので、ヤツが発生させているような気もする。わたし、昆虫類は苦手なのだがそんなことも言ってられず、ぶっ殺してやらぁ! と思ったら、テレビ台の後ろの方に逃げてしまい、誅殺は失敗に終わる。

ううー、気持ち悪くて、さっきから気になって仕方がない。産卵する前に殺らないと...



あにめおたく
1999年5月18日(火曜日) くもり時々はれ

実世界、時として仮想社会においても、わたしを知る人の中には、わたしの事をアニメオタクだと思っている人がいる模様だ。それを否定しようという気は無いが、一つの事実として、それは間違った認識であることを申し上げておこう。アニメは嫌いではないが、かといってハマりこんでいるわけでもなく、徹底的に評論することも(今は)無い。言いたいことは、単なる「アニメ好き」と、「アニメオタク」の切り分けをすれば、わたしは前者に属するであろう(と、自分では思う)。

では、どういう人間をオタクと呼んで差し支えがないのか? この問いに決着を付けようと、人々は血を血で洗うゲリラ戦を繰り返してきた。大体、オタクを意識する人間は、普通と呼ばれることを嫌がるらしい。そんなわけで、自らオタクと名乗る似非オタクはごまんと居るし、人からオタクと言われれば調子に乗って天狗になる普通人+αも星の数ほどいたりする。中でも、ただひたすら有形無形のコレクションを列挙し、その量からオタクと名乗る人間もいたりするが、それは単なる収集家であり、オタクの条件では無かろう。そういう人がいたら「凄いね」と一言、言ってあげよう。

とまあ、こういう風に「オタク」という条件は厳しいと、個人的には思っている。逆に言えば、そこまでヤバイ人間をオタクと呼ぶのならば、「オタクは世界を救う」と言っても差し支えはないだろう。色んな功績で「有名」になってしまった人間は多くいるが、その中でもどことなくヤバイ香りのする人間 − 要はある方面におけるオタク − の著書を読んだりすると面白い発見が色々とあったりする。単に壊れているだけでなく、世界の見方や価値観に、ある種の特殊性があるからではないだろうか。某林檎計算機の宣伝ではないが、世界を変えてきた人間って皆そうだったのだろうと思う。

散々、生意気な事を書いてからリンクを張るのは気が引けるのだが...

オタク自身というサイトがある。

まだできたばかりのサイトだが、氏は色んな意味で凄い方だ。僭越ながら、今後、より濃ゆいサイトへと遷移することに期待したいと思う。



専用線
1999年5月17日(月曜日) はれ

希薄な週末の後は、ブルーな月曜日か。もう、どうにでもなれって塩梅。

ある方のお宅にお邪魔して、専用線IP接続 (DIONスタンダード) のお手伝いをしてきた。OCN や、DION のように OCN のアクセスラインを使った常時接続サービスに手頃な価格で加入でき、それも 128Kbps までのメタル加入者線を用いた専用線に使う、DSU 内蔵のルータは安価に手に入る。ダイアルアップ接続が怠ければ、財布に少しの余裕さえあれば、個人でも自宅に専用線を引けないことはない。

一昔前まで、専用線接続なんて夢のまた夢だった。64Kbps の HSD をひいたとすれば、初期には少なくとも30万円程度、ランニングコストとして月15万以上の出費は覚悟しなければならなかった。それに、機器も無愛想なものしかなかった。DSU と言えば、NTT の巨大な筐体に入ったヤツしかなく、これが邪魔。ルータときたら、コマンドラインでカタカタと設定せねばならず、それなりの知識がないと扱えない代物ばかり。それでも、ヤマハの rt102i とか買っちゃったしね、わたしは。

今はどうだろう。その方が買ったルータは、ブラウザからフォームに必要事項を記入するだけで設定完了。IPアドレスとネットマスクさえ紙に書いてある通りに入力できれば、それこそ誰でも出来てしまいそうなもの。便利なことは良いことだねえと思いつつ、逆にこんなことで良いのだろうかと疑問に思うこともある。それはセキュリティについてだ。「初心者」という言葉など、クラッカーに対しては何の免罪符にもならない。ルータの管理用パスワードを設定せずに、アタックされて騒いでた人がいたけれど..そりゃダメよね。

ルータの設定ができただけでは、まだ100もある作業のうち8つか9つ終わっただけだ。DNS や Mail サーバを設定し、立ち上げなければならない。その程度なら普段からやってることなので要領は理解しているが、クラスC未満のアドレス割り当てにおける DNS の逆引きファイルの設定は、一筋縄には行かずに少し苦労。そんなもんどうやって逆引きするんだ?と小首を傾げながらやっているうちに、何となく構造が見えてきた。いきなりやる羽目になった、慣れていない普通の人はどうやってるのだろう?



ふう
1999年5月16日(日曜日) くもり/雨

今週末は極めて希薄なものであった。日曜日の晩、つまり多くの方が月曜日に読まれる記事には比較的読み応えのあるネタを提供しようと心得ているが、日々の希薄さ故に本日はそうも行かない。そんなときは他力本願モードで一発リンクでも?

http://www.npac.syr.edu/projects/vishuman/VisibleHuman.html

人体の輪切り写真。それも、見たいところを見たい切り方で見られるというサイトは如何だろう。恐らく医学目的で公開されているものだろうが、いつぞやに人体輪切りの実物が展示されたときに、長い列に並んでまでご覧になった経験のある方なら、是非とも覚えておきたいサイトであろう。

かく言うわたしも、以前に大阪梅田の変なビルで輪切り死体が展示されたときに見に行った口だ。人体の大部分は水であるが、その水分を樹脂で置き換えると、人体は腐敗もせず原型のまま固体化するらしい。そして、その固体化した人体を切断すると、人間の輪切りがどういうものであるのか、観察できるというわけだ。また、特定の臓器だけを保存したものなどもあった。

個人的な感想だが、気持ち悪さを覚えることはなかった。これが血塗れのグロテスクな礫死体ならばまだしも、こうなってしまえばモノにしか見えない。むしろ、生きていたものを、よくこんなに上手く保存できるものだという、凄い!という感覚で見ていた。もっとも、こんな事をしなくても人体の輪切り写真は、磁気共鳴撮影装置にかければ、生きている人間の大部分を、色んな角度から撮影できるらしいが。

磁気共鳴撮影の原理って面白い(核磁気共鳴)。奇数の元素番号を持つ原子を強力な静磁場の中に置き、そこにある周波数の電磁波を当てると、対象となる元素が電磁波に共鳴するらしい。電気屋的に言うと、バイアスをかけながら信号を送ってやるということか。水の多い人間には水素がたっぷりと詰まっているので、水素の共鳴を利用するそうだ。で、その共鳴をどうにかして拾って画像化すると輪切り写真になる...凄げーー!



ふう
1999年5月15日(土曜日) くもり/にわか雨

東京出張で近くに来た親父が一緒にメシでも食おうと言うので、取りあえず高そうなレストランに連れていってやった(当然、親父の奢り)。ただでさえ外食が嫌いなわたしが入る店ときたら、吉野家とかその辺のラーメン屋といったB級グルメばかりなので、店員の態度がやたらと良い店に居ると場違いさを覚えたりするのだが、たまにはそういう食事もよかろう。値段にしては比較的豪華な料理を食わせてくれ、味もそれなりに良く、思いつきで決めた割には正解だったようだ。

客席を見回すと、客の大半は40代ぐらいの女性グループが占めており、その中にはグルメ愛好会みたいな団体客の姿もあった。デート中と思われるアベックも居たが、土曜日の昼間からオッサンとニィチャンという組み合わせで来た客は皆無であった。美食を求めて、噂に上がる小綺麗なレストランを軒並み制覇したがるのは、中年女性の趣味なんだろうなと思ったりする。わたしは味が良くても料理の量が少ないと食った気がしない。「小綺麗な店=盛り方がケチ臭い」という固定観念があり、敬遠しがちなのだが、今日行った所は量も多く、固定観念は少し解消された気がする。

ふう、今日はなんかそれだけで疲れてしまった...




1999年5月14日(金曜日) はれ/くもり/にわか雨

電話でどうでも良い話をしていたら、突如として窓の外に網膜を焼くような閃光が走り、そして鼓膜を引き裂かんばかりの雷鳴が轟いた。冗長な形容句を取り除くと、要するに「電話してたら窓の外が光って雷が鳴った」というだけのことだが、レポート用紙nページ以上などと、質よりも量にこだわるレポートを書かされた時にはしばしば用いる手段だ。わざと回りくどい言葉を使い、如何にも多く書いたように見せるのだ。プロが書いた小説でも、文学的形容句辞典になってしまっている作品ってあるよね。

たまにやってくる雷には、事前の予告すら無くでっかいのが一発だけ来て、後は静かになるものもある。今回のもその種であったが、自宅よりも電話の相手が住む場所の方が発生場所に近かったらしく、電話で教えて貰った。雷なんて普通は突然やってくるものだから、事前に雷鳴が鳴ることを知ったというのは、やや変な気分である。稲妻を見るのは、見える場所にさえいればほぼ同時に目に飛び込むが、音が聞こえるのに数秒の差があるのは、説明するまでもないことだろう。

これから雷の多い時期だが、恐いのは雷による災害である。とある事情により LAN のケーブルがビルの外に出ている箇所があり、なーんとなくそこがヤバそうな気がする。というのも、以前にそのケーブルに繋がっていた HUB とトランシーバが、それぞれ1個ずつ壊れたという苦い経験があるのだ。調査するも、原因はよく分からないのだが、どこかで変な電位差が出来て変な電流が流れたか?

地震、雷、火事、親父...この中で、人知の及ばないものは「親父」だけであろう。かなり凄い耐震/耐雷/耐火な建物などは造れそうである。でも、金銭的に、人間工学的に、あるいは社会的に、それらは現実的ではないだろう。雷が恐ければ、電気も電話も使えない。火事が嫌なら、近未来SFアニメにしょっちゅう登場する、あのオール金属製と推測される暖かみの欠片もない建物[*1] にでも住まなければならないだろう。ネットワーク機器には、アレスタやバリスタなどが入っていて、一応のサージ対策は出来ているように見えるが、それでも全ての落雷に対して効果があるわけではない。

[*1] でも一度、オール金属なSF的建物に住んでみたいと思うのはわたしだけ?
   自動ドアの開閉速度が異様に速かったりして、下手すりゃ指飛ぶぞ、あれ。



久々に
1999年5月13日(木曜日) はれ

久々に、同年代の女性と話をする。同年代の異性の前では貝になりがちな恥ずかしがり屋さんなので、普通に話せる女はそう多くない。そんなため、今日は長電話の日となってしまった。変な話だが、わたしはババァウケするらしく、萎びた女性と話した回数の方が多い気がする。それも悪いとは思わないが、この歳でオバハンの大司教、みのもんた先生にはなりたくないものだ。

わたしがひねくれ者であるがための必然なのか、よく考えてみると周りに普通の女って居ない。じゃあどんなのが普通って問われると困るが、標準偏差に近いところにいる女。いや、それではますます意味不明だな。具体的に言えば、いわゆるミーハーなタイプとは男女問わず、絶対にお友達になれない方だ。その辺は弟の友人と話をしてみると、よく分かる。弟がミーハーだからだと思うが、彼の友人にはミーハーな系の人物が多い。わたしは、彼らのミーハー談義についていけないのだねえ。

まあ、気の合うヤツってそんなもんだろう。わたしは長男、そして選んだ訳でもないのに自分の友人も長男ばかりに集中している。長男同士で「長男って損だね、結局」とか思ってたりするからね(笑) でも、弟も知らないところで「次男って損だね、結局」とか、次男同士で言ってるのかも? 美味しいところばっかりずる賢く持って行くのは次男、その影で貧乏籤を引くのは決まって長男なんだよ。絶対っ。

今日は掃き溜め写真館に展示品追加



あう...
1999年5月12日(水曜日) はれ


全略


...とか一言書いて終わったら、やっぱり怒られるかな。まだ水曜日だが、今週は何だかお疲れモード。なわけで、とっとと寝たい。連休明けの反動(=5月病)もあのだが、何よりもとっとと上げなければならない仕事が貯まっていたりして、やっぱり貯めて嬉しいのは金だけである。世の中ゼニじゃろ、なっ。とはいえ、今月末までの現金支出は3万円以内と覚悟を決めていたりするので、かなり貧乏なのだ。本日、2枚目の福沢諭吉が崩された。良い線かな?

なお、この倹約生活は明らかに連休の反動だ。休み中に派手にやりすぎた。



立ち退き
1999年5月11日(火曜日) くもり/あめ

成田空港で計画されている新滑走路建設用地の買収に絡み、反対派地主との立ち退き交渉でえらく揉めているそうだ。わたしだったら、頭上をジャンボ機が飛び交うような場所に居座るよりも、じらしまくってから貰うモン貰ってとっとと退き、その金で一儲けしちゃおうぜ! なんて勝手なシナリオを立ててしまったりするのだが、そういう訳にも行かない事情は色々と有るのだろう。意味不明な「公共工事」と違い、推進派反対派いずれの側も悪者だと思えないのが、この手の話の難しさではないだろうか。

滑走路と立ち退きと言えば、大阪の御堂筋が有名なのだ。あそこは空港ではなく道路であるが、御堂筋の計画が浮上したのは大正10年のこと。そんな時代に、梅田から難波まで全長4キロ、幅44メートルの道路を造り、更にその下には地下鉄を走らせようなんて壮大過ぎる計画が出てきたのだから、人々が度肝を抜いたのも無理はないだろう。滑走路級道路を作るという計画は、当時あった道路の感覚から言えば馬鹿げており、「大阪の真ん中に飛行場でっか?」と皮肉られたらしい。

そんな滑走路がどうやって出来たのかという話は、大阪都市協会のこのページが大変詳しい。

上記リンク先にある最初の2枚の写真を見比べると、やったことのエグさがよく分かる。御堂筋より前からあった淀屋橋筋沿いの民家が一斉に立ち退きを喰らっており、そして幅6メートル程度だった道路をいきなり44メートルまで拡張しているわけだ。その強引さもさることながら、それを数年でやってのけてしまう当時の大阪市も凄いと思うし、こういう大袈裟な道路もいずれは必要になるだろうと計画を実行に移した、先見の目も凄いと思う。時代が違うとは言え、今となってはどう頑張っても不可能なことだろう。

以前に成田空港問題の反対派地主がテレビに写っているのを見ながら、親父が曰く「当時の大阪やったら、文句を言わす余地も与えんかったで」。実は、大阪市内にある親父の実家も別の道路拡張工事で立ち退いたそうだ。車で走ってるときに「この辺に前の家があった」と交差点のど真ん中を指さしていた親父は、大阪市内の立ち退きについては詳しいらしく、時代背景も違うだろうから同じ感覚で語るのはフェアではないだろうが、滑走路の拡張如きで文句をたれるのは、考えられないことだとか。

市街地の道路拡張となれば、道路沿いの民家が一斉に立ち退きとなるのは想像に難しくない。例に挙げた御堂筋もそうだが、大阪船場の中央大通り(幅100メートルはあるよね)ぐらいの規模になってくれば、道路沿いだけでは足りず、3ブロックぐらい立ち退いてるんじゃないかと思う規模である。道路の歴史が語られるとき、由緒について話されることは良くあることだが、「立ち退きの歴史」なんてものはあまり聞かれない。そういう観点から見れば...恐ろしいものがあるのかも。



えんぴつ
1999年5月10日(月曜日) はれ

どうでも良いが、わたしは普通の鉛筆が好きなのだ。普通の人は大方シャーペンを使うようで、敢えて鉛筆を使う人と言えば小学生と、絵描きさんなど職業上不可欠な方ぐらいだろうか? もしかすると、今やシャーペンを許している小学校もあるのかも知れない(わたしの時は「指定」の鉛筆を買わされた)。あるいは、絵描きさんでさえシャーペンを使っているのかも...色んな濃さや太さの芯が売られているしね。

それでも鉛筆を使う理由は、わたしは筆圧が強すぎてシャーペンの芯が直ぐに折れ、使い物にならないからである。また、普段からPCばかり使っているので、手書きする場合は自分でも後から読み返せないような走り書きが殆どだ。走り書きには、滑りの良い鉛筆が調子良いのである。わたしだけかと思っていたら、お仲間がいた。その人も字が汚くて何を書いても走り書きになるため、「シャーペンは、いけ好かない」のだそうだ。

鉛筆は削らなければ使えない。ところが、うちには鉛筆削りのような文明の利器が無いから、カッターナイフで削っている。前に何かのテレビでやっていたが、最近はカッターの使い方すら分からない小学生なんかもいるらしい。まあそれは論外だとしても、ナイフで鉛筆を削るぐらいは出来ても良いと思うのだが..鉛筆削りという便利なものがあるから、そんなことは出来なくても良いと言う人もいるかも知れない。

確かに、ナイフで鉛筆削れなくても実生活で困ることはないだろう。でも、そういうのって器用さや、知識の問題だと思うのだけどねえ。わたしも決して器用な方とは言えない気もするが、工具一通りの使い方と半田付けぐらいは小学生の時に覚えるべきことだろう(乱暴かな?)



どうでも良いが、mbuf
1999年5月9日(日曜日) はれ

日曜日の朝7時頃に寝て、昼頃に電話で起こされて起床。まったく、休みになると不健康な生活しか出来ないわたしである。朝の7時まで何をやってたかというと、FreeBSD のカーネルソースコードを読んでいたのだ。特に mbuf の実装に興味があって、そこら辺を重点的にお勉強していたというわけだ。実装の美しさに何となく関心しながら夜を明かしてしまった。

mbuf とは、一言で言えばネットワークのデータバッファのことである。ネットワークからパケットを受け取った場合、Ethernet などの低い層のプロトコルから IP や TCP といった高い層の処理に到達するまでに、ヘッダの取り外しや断片化されたパケットの再構築、パケット順序の入れ換えなどの作業が要求される。逆にパケットを送信する場合は、下の層に位置するプロトコルへ渡されるまでに幾度かヘッダの取り付けやデータの分割が行われ、その辺の処理が効率的に行えるバッファが必要となる。

普通のやり方で、リニアに並んだメモリ上でこういった作業を行うのは効率が非常に悪い。何度もバッファを確保したり、データをコピーしたり、確保したバッファを解放しなければならないからだ。でも、mbuf だとバッファの再確保や、データのコピーを行うことなく、データの前後にヘッダや断片化されたパケットの続きを付加できたりする。まあ、この辺の仕組みが良くできていて、FreeBSD(注:Linux は mbuf じゃない)のネットワークの実装に興味の有る方は、以下のコードを読んでみられると面白いと思う。

/usr/src/sys/kern/uipc_mbuf.c
/usr/include/sys/mbuf.h
/usr/include/machine/param.h

そのほか、/usr/src/sys/net 以下とか、/usr/src/sys/netinet 以下など。FreeBSD-2.2.8 ぐらいから、この辺りのコードが色々と改造されて、かなり見にくくなった(#ifdef の嵐)。実装を勉強するのが目的なら、もう少し古い FreeBSD のソースを見た方が良いと思う。

あまり為にはならないと思うが、今日から新コーナー発足。
第一段は、蛍光灯のお話。実に為にならない。



生物って
1999年5月8日(土曜日) はれ

生物って何だろう? 遺伝子というソフトウェアで構成された自律プログラムのような物なのだろうか。そこまで割り切って考えられれば良い物だが、わたしは、生物に関しては、そうして割り切れない感がある。親父は、テレビで遺伝子操作技術などの紹介をやっていたりすると、それを見ながら凄いと言うが、わたしは気持ち悪いと思うだけ。むしろ、やっちゃあいけない領域に手を出している気がするのだ。

ソフト屋的に言うと、アセンブルされた遺伝子をリバースエンジニアリングして、パッチを当ててみたりマージしてみたり...という風になるのかもしれないが、そういうことを生物に対して行う事って、やる価値はあるのかね? いや、それ自体に意味はなくとも、その研究が医療の高度化などに繋がるという意見もあろうが、一言で言い表すなら不謹慎と言う言葉が最も適切かもしれない。

もう一度ソフト屋的に言えば、プログラマが手を加えずとも、自らが自らのバグを退治し、自らが自らのバージョンアップをする、そんな邪道な暴走を始めたソフトウェアであるように思える。表面的には、それはそれで良いように見えるのかも知れない。でも、実際はプログラマの設計方針に反した事をしているのではないかな、とか思ったり。そのコードいじると、今は気づかないかもしれないけど、他のところに不具合が生じるよ、なんてね。

そう思う理由は別にない。ただ何となくそんな気がするだけで、宗教的な言葉を借りれば − 創造主の意志に背くようなことは、しちゃあならん − そんなレベルの話だろうと思う。理詰めではなく感情的、生理的なフィーリング。繰り返すけど、直感的な気持ちであって理由はないよ。



お散歩
1999年5月7日(金曜日) はれ

メシを食ってから、何となく散歩に出かけた。少しだけ歩くつもりが、夜の9時前に家を出て、帰ったら11時頃。2時間もほっつき歩いていた事になる。寒かったり暑かったりすると表に出る気がしないのだが、久々に夜の徘徊に出たものだからハマってしまったらしい。この時期は夜風が心地よく、シャツ一枚でじっとしていれば少し肌寒いが、歩いていてはやや暑いというところ。一番気持ちのいい季節だと思う。

まあしかし、どこへ行ってもアベックの多いこと。そんな時刻に山下公園へ立ち寄ったのがそもそもの間違いだったのだろうが、港湾の向こうに見える夜景の灯火よりも、アベックの方が数で上回るのではないかと思うぐらいだ。ま、そっとしておいてやろう。そんな情景に一々嫉妬して冷たい視線で睨むような拗ね者ではない。これだけ独り者を貫いていると、どうでもいいやと諦めがつくものだ。

人通りの少ない場所にある交番の前を通りかかると、やることが無くて暇そうな警官がこちらを睨んでいる(ように見えた)。まだ深夜とは言えない時刻だったが、散歩する人間が多く出没するような場所柄ではなく、なーんと無くイヤな空気。職務質問でもされるんじゃ無いかと考えながら俯きながら通り過ぎてみたが、何も言われなかった。別に悪いことをしているわけではないのだが、警官に睨まれると「俺は善人だから貴様らに用は無い」と心の中で叫びたくなるのはわたしだけではないだろう。

深夜に警官と目があった事は過去に何度もあるが、よく考えると職質ってされたことがない。そのため、「通行人を職質したくなる怪訝度閾値」というのも知っておくべきだと考え、帰りしな、後ろめたさと不審さを躍動的かつ自然に体中から漂わせてながら交番の前を通ってみた。しかし、睨まれるだけで終わり。うーん。次は、ロングコートを着てポケットに手を突っ込み、視線を敢えて定めず...

いや、やっぱりやめときます。



えー
1999年5月6日(木曜日) くもり/にわか雨

気が付けばカウンタが12万を超えている。感謝。

昨日、寝る前に今日のネタを思いついたのだが、朝起きたら何だったか忘れていた。そんなわけで、今日はこれといって書くことが無かったりする。寝る前の妄想というか夢想というか、望みもしないのに勝手に頭が色々と考える過程でネタは多くは生まれていたりするのだが、忘れてしまえばそれまでのこと。そんなわけで紙に書き留めておくこともあるのだが、翌朝タイトルだけが蚯蚓の這ったような文字で書かれた紙を見て、どんな内容を考えていたのか思い出せなかったりするから、どうしようもない(笑)

それ以前に慢性的なネタ不足はいつもの事だ。それを察知したのか、先日ここを定期的に読んでくれている友人に、生活がマンネリ化していないかと尋問された。確かに、深いマンネリズムの泥沼に足を捕らわれている事は否定できないことかも知れない。朝になれば眠たい目を擦りながら萎えたシャツに袖を通し、決まった時刻なればタイムカードを押して一日PCの前で仕事する人生にどんな未来があるというのだ。敢えて悲観的に表現してみればの話だが、日常なんて、まあ強烈に詰まらないものである。

今は、詰まらないながらも一応それなりの楽しみを見付けて生きているのかもしれないが、かつて余りに退屈な日々に悶絶したことがあったと、以前に書いた記憶がある。そこから、いつどうやって抜け出したのか、いや本当に抜け出せたのかすら、わたし自信にもよく分からない。だが、それを成長と呼ぶにせよ、諦めと呼ぶにせよ、それは生活がマンネリ化する原因の一つなのだろうと思う。かといって、退屈の中から一歩前進しようと、もがき苦しみながら、虚空の夢を掴むもうとすることは、もうしたくない。

だから結局、何がしたいの? 取りあえず当面は現状維持か(=マンネリ^^;)



人は殺しちゃいけないの?
1999年5月5日(水曜日) はれ

特定の用事があるわけでも無く書店に立ち寄ったら、「なぜ人を殺してはいけないのか」というようなタイトルの本が置いてあった。アホらしいので中身までは見なかったが、なぜ人を殺してはいけないのか、その理由を中学生に説明できるレベルまで解き明かそうというのが目的のようだ。では、もしわたしが、中学生に「なぜ人を殺してはいけないの?」と唐突に尋ねられたら、わたしは誰しもが納得のできるような答えを示せるか?

否。そんな問いに対する答えなど、出せるわけがない。もしかすると宗教的な観点から何らかの理由を示せるかも知れないが、そんなものは、誰しもが納得できる普遍的なものではない。しかし、無理も無かろう。そもそもの問題は、「人を殺してはいけない」という前提が間違っていることである。世の中には、宗教という奥の手を使う以外には答えを出し得ない問いが多く存在するが、大方の場合、それらの問いの前提自体が間違っているから、答えが出ないのである。このケースも、その事例の一だとわたしは思う。

誰かが明示的に殺人を禁止したわけではない。禁止こそはされていなくとも、誰かが明示的に殺人を不当なものと位置づけたわけでもない。社会の情勢に依っては、殺人は正当化され、一定の目標を持って集団的に行われ、殺人は殺人として止まることを知らず殺戮へと変貌することさえある。そして、その時の社会が認めさえすれば、それを行った者は英雄として称えられ、その後に社会の意識が変わりさえすれば、例えば戦犯のように、彼らは一気に犯罪者へと降格する。

要するに、殺人の正当性あるいは不当性は、自分が属する集団(=社会)がそれをどう捉えるかでしかない。現在の日本では、大方の人間が殺人は不当なことと捉えていることは多くの人が認めるところであろうが、とはいえ、それを誰かが明示的に決めたというものでもない。刑法第百九十九条の「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは三年以上の懲役に処する。」では、処罰を定めてはいるが、「悪いことだから殺人はいけない」とは、書かれていない。あくまで事後処理の話であって、ここから殺人の不当性を間接的に見いだすことができたとしても、それは特定の個人や集団の勝手な解釈に過ぎない。

わたしは人を殺したことはないが、それは、今まで殺すに値する人間と遭遇したことが無いからである。もし、殺人の結果に背負いうるであろう罪と罰を天秤に掛けてもまだ、殺す必要のある人間がいれば殺すかもしれないし、あるいは完全犯罪を遂行するために必要な犠牲を払ってもなお、殺さなければならない人間がいれば、殺すかも知れない。無論、わたしが人の命など何とも思っていない残酷な人間だというわけではない。殺す必要の無い人間まで、むやみやたらと殺す必然性など無いだろう。

じゃあ、お前は利益と不利益だけを秤にかけて物事を考えるだけの、罪の意識すら無い人間なのか、と言われそうだ。それは状況次第で変わるだろう。ある犯罪行為に対して罪の意識を持つこととは、社会などの集団的な傾向(例えば殺人は悪いというような考え)に、自分も従順している証拠だと思う。例えば特定の人間をどうしても殺らなければならない、他に脱しようの無い切羽詰まった状況に自分が置かれたことを想定してみた場合、「こうする以外に自分が助かる道は無かった」という結論に達すると思う(他人から見れば、やったことに対する自己正当化だが)。

その時点で、自分は社会に従順しない犯罪者となるわけだが、そのような状況下で社会のルールなど気にしていたようでは、命取りになっていたと考えるだろう。当人としては、やむを得ない事情により犯罪を犯したときに、社会への従順が邪魔なものという確乎たる位置づけができれば罪の意識は薄くなると思うし、やはり社会のルールに反した事実は悪いことだと思えば罪の意識は重くなる...結局、罪の意識を持つかどうかは当人の状況によるものであり、誰が何をどういう基準で秤に掛けるかによって、その都度恣意的に決まるものでしかないと思うのだが。



更新報告
1999年5月4日(火曜日) 嵐

実験室に、小ネタを追加した。

それはそうと、せっかくの休みだというのに午後から天気が崩れ、ただいま天候は嵐。
こういう日は、どうも調子が出ない。というわけで、以下省略。



ホームページ
1999年5月3日(月曜日) はれ

某所からホームページ製作のアルバイトを請け負った。タグを書くのは苦でも何でも無いが、一番の問題はデザインを考えること。何故なら、わたしが作ると何となく事務的になってしまうからなのだ。一応、企業の広告となるものなので、それなりに見栄えの良いものを作るべきなのだろうが、どうしても実用性重視なものになってしまう。

しかし、その方が良いというのも、これまたご尤もな意見。プロのデザイナが作ったと思われる企業のサイトというのは、見栄えばかりで肝心な情報が抜けているものも少なくない。いや、存在するのかもしれないが、Flash などで塗り固められて重たいだけのオープニングをくぐり抜け、やっとそれっぽいメニューが出てきたかと思ったら、またサブメニューのオープニングが出てきたりして...その辺で見るのがイヤになる。

最近は、検索エンジンがついたり、コンボメニューから主項目が選べるようになって改善されたところも多いが、前述したようなサイトは、美しさを重視する余りに大方の人間が欲しいと思う情報を簡潔にまとめることを怠っているように思う。余計なオープニングやメニューは増やさず、サブメニューの階層を深くしすぎず、見やすいフォントで各項目へのリンクを張る...というのが、実用性という観点からは理想的だと思うが、やはりそうなると事務的という分類になるのだろう。

ダラダラとしていたら連休も残り僅か...明日ぐらいに集中作業して仕上げようと思う。



ふぅ
1999年5月2日(日曜日) はれ

今日は一日家に居たのだが,あれだこれだと蓄積しつつあった用事を片づけていたので疲れた.

その1.サーバのディスク入れ換え;

いまご覧のサーバは,今まで FreeBSD 2.2.6-RELASE を動かしていたのだが,それも少々古くなり,それにディスクも少々手狭になってきていたことから,一気にOSのバージョンアップと,ディスク入れ換えを行うことにした.朝から新ディスクに FreeBSD 3.1-RELASE を突っ込み,更に諸々の設定を行い,終わったら昼過ぎ.3.0系は初めてということもあったが,勝手が違って困るようなことは殆どなかった.

ちょっと困ったのが,bridge の設定かも...FreeBSD 2.2.8 から二枚のNIC間を bridge させ,更に ipfw でフィルタリングするという,凄く気の利いた機能が追加された.Firewall を入れるのも良いかと思い,こいつを組み込もうとしたのだが,どうも上手くいかない.bridge だけなら至って簡単にできるものの,ipfw を組むとカーネルのコンパイルに失敗するぞ! ソースを調べてみると,どうも必要なヘッダが include されていない感じがして,勘で書き換えたらコンパイルできたが..ちと不安.

取りあえず,そういった作業が終わると,旧ディスクのファイルを tar でまとめて新ディスクに転送し,ぶちまける./home だけで済めば良いのだが,こいつは色んなからくりが動いていたりするので,必要なものだけを抽出して tar で纏めるのには気を遣う.メールスプールとか,crontab まで移さないといけないからね...そうこうしているうちに,新しいサーバが完成.取りあえず,現在は bridge なども動いている模様である.

その2.電灯取り替え;

部屋の電灯を,白熱電球から蛍光灯に取り替えた.以前にそう言う話をちらっと書いたが,36W のU字型蛍光灯が2本,インバータとセットで手に入ったので,取り替えたというわけだ.とはいえ,元から付いていた白熱電球のユニットを取り外しても邪魔なので,それを付けたまま,空いた所に蛍光灯とインバータを取り付けて,配線だけを入れ換えるという形になった.

インバータのモジュールは,屋根裏にぶち込んだので外観上は分からないが,電球の横に針金でつり下げてある裸の蛍光灯は,お世辞にも美しい取り付けとは言えないが,まあ良いだろう.天井に穴を開けることなく取り付ける事を前提にしたので,もう少し不細工になると思っていたのだが,予想よりは上手くいったし.

この蛍光灯は電球色なのだが,白熱電球よりもかなり明るく感じられて,気持ちがよい.もっとも,裸であることも大きいだろう.洒落たカバーを付けると,部屋がぐっと暗くなるので何だか損をする気分なのだ.加えてステンレス板か何かでリフレクタを作ってやれば,もっと明るくなる.同じワット数でも,見栄えさえ気にしなければ,部屋は明るくなるのだ.

後は,いい加減な取り付けが燃えないことを祈るだけ(笑)



句読点
1999年5月1日(土曜日) はれ

夕方の新幹線で横浜に帰ってきたが,わたしが乗っていた自由席は意外と空いていたので良かった.わたしは混雑が嫌いなので,移動するときは,意識的に混雑する日を避けているからかも知れないが.今日も,下り新幹線は混んでいたのだろうが,上りはそうでもなかった.特に連休中の帰省ラッシュなどに巻き込まれては堪った物ではない.やむを得ず混む日に乗るときは,非常識的な時間帯を選ぶのも一つのやり方だ.

今日から5月なので多事毒論は新しいファイルでスタートしたわけだが,変わったところにお気づきであろうか? そう,句読点を「まる/てん」ではなく,「ピリオド/カンマ」に変えてみたのだ.何故かって,特に意味は無いのだが,一年で「今日の一言」が「多事毒論」に変わったように,また一年経ったのだから何か変えろというご意見があった.かといって,変えたいところも無いので,ささやかな抵抗として,句読点を変えてみた.

横書きの書籍などで,とりわけ技術系のものは,何故か句読点に「ピリオド/カンマ」を使っているところが多い.しかし,日本語に於いては,本来「まる/てん」を使うのが正式だと思うのだが,敢えてそれらを使わない理由は如何に? 何か秘密でもあるのではないかと少し気になるだけで,文の区切れさえ分かれば,それこそ何だって良いことだから,悪いとは思わないけどね.



突撃実験室