多事毒論(1999年12月分)



ありがとう
1999年12月31日(金曜日) はれ

泣いても笑っても、1999年という年はあと2時間余りで終わりだ。紅白歌合戦も終盤に差し掛かるころ、今年も色々なことがあったなあ、などと感傷にふけるのだが、改めて考えてみると、実は何もなかった気がする。文字通り。あっという間だった。流れ流され生きているだけというか、結局、何のために生きているんだろう。時々、オアシスもあるけれど、それ以外はただ途方もなく続くだけの砂漠。ひたすら彷徨った後には、いったい何があるというのだろうか。個人的には、そんな一年だった。

だが、同時に色んな方々にお世話になった。見ず知らずの人間であるにも関わらず、こうして多事毒論をお読みいただいている皆様もいる。そんな人達には、心からお礼を申し上げたい。やっぱり何だかんだ言って、人生って捨てたものじゃないのかもね〜。そういえば、あと何ヶ月分か書けば、このページの連載を初めて丸3年にになるのだ。何だかんだ言って、自分でも本当に今までよく続いているものだと思う。これだけは、自分で自分を誉めさせてくださいな(笑)

今年は、西暦2000年問題の年末年始である。あと2時間余りで日付が変わるわけだが、国内で大きな問題が起きて混乱になることは、どうも考えにくい。一番心配なのは、自分のPCだったりする。機嫌良く動いている Windows を壊しかねないパッチなどを、無理に当てる気にはどうしてもなれない。敢えて問題が起きてから対処しようという、消極的な対策を行うことにしているからだ。もっとも、実際にどうなるかは、その時になってみないと分からないことだが。

では皆様、よいお年をお迎え下さい。



7N4FSW
1999年12月30日(木曜日) はれ

見る人が見れば 7N4FSW が何のことなのか分かることだろうが、無線局免許状に書いてあったコールサインである。145MHz と 435MHz が、いずれも 10W の F3 で許可されている。ところで、最近は変なコールサインが発行されるものだ、J**** がダメなら 7K**** になるだろうと思っていたが、意表を突いて 7N4FSW ときた。まあ、なんちゃって開局だから、何であったってどうでも良いことだ。とはいえ、一応は新入り。ナミで出会うことは恐らく無いと思うが、宜しくお願いします。

ここのところ無線ネタが増えている多事毒論であるが、書いている本人も今更って感じが少しする。アマチュア無線が趣味の王道と言われた時代はいつのことか、今ではそんなことを言う人もめっきり減ったのではないだろうか。個人的な意見だが、アマチュア無線には趣味というよりオタク道というイメージのある。ちょっと違うオーラを放つオッサンが、無線機がどうの、アンテナがどうのなどという怪しげな会話で変調された電波を出している。もう、電波っていうだけで蕁麻疹の出る人もいそうな気がする。

なわけで、アマチュア無線に対する一般社会の理解なんてものは、一部の方面を除いては極めて低い気がする。世の中に、無線をやっているオタク臭い人間が混じっていることのメリットとして、災害救助における非常通信といったことがしばしば挙げられる。それ自体は正論だと思うが、そういったメリットを挙げている人は決して近所にいる普通の方々ではなく無線を趣味とするもの自身だったりする。あるいは非無線従事者に理解があるとしても、例えば自治体や赤十字関係者といった、常日頃から災害時における通信手段に気を配っている人が殆どであろう。

どうでも良いことだが、アメリカへ行くと日本よりはアマチュア無線に対して社会的な理解がある気がする。貴重な電波資源を割いてやる代わりに、アマチュア無線網は、有線回線不通時の通信手段として活躍すべき。だからこそ、なるべく多くのアマチュア局が社会に散らばっていた方が地域の為になる...なんていう、回りくどい感じの理解だったと思うが。ハムな人の自動車にはコールサイン入りのナンバープレートを発行してくれる。これも単なるサービスではなく、無線機を積んでいそうな車が一目で分かれば、事故などのときに役立つだろうというような理由からだ。

まあ、この辺の強引な理由付けがアメリカらしいというか。



午前様
1999年12月29日(水曜日) はれ

某サイトのオフ会に参加し、1次会と2次会に出たところまでは良い。問題は、それが終わってから「徹カラ」に、つまり徹夜でカラオケなんてことをやってしまったため、今日の更新は30日の午前になってしまった次第である。言うまでもないが、選曲は全てアニメソングだ。一般曲が混入する隙を一切与えないような、極めて濃ゆいマッドカラオケも、たまにやると楽しいものなのだ。しかし、身体は正直なものである。事が終わってそれまで持続していたハイテンションが切れると同時に、纏めて疲れがやってくる。

というわけだから、寝る。



爆弾
1999年12月28日(火曜日) はれ@横浜

今朝、名古屋から横浜に戻ってきた。上りの新幹線はガラガラで、わたしが乗った名古屋を9時18分に出るひかりの自由席も、ほぼ貸し切り状態であった。名古屋から横浜まではノンストップで誰も乗ってこないから、3人座席を占領して寝ても文句は言われないぐらいの空席ぶりだった。こんな日に、東京方面に用事のある人間は、そう多くないのだろう。もっとも、変な日程で帰省しているのは、これが狙いだからであり、期待通りで満足なのだ。

ゴミ箱 ところで最近、鉄道関係の場所で爆弾を爆発させる事件が流行しているようだ。ゴミ箱に爆弾を仕掛けられ、回収後にドカンといった東海道新幹線を管轄するJR東海のゴミ箱は、表向き普段通りであった。しかし、新横浜駅で横浜線に乗り換えるためJR東日本が管理する在来線ホームへ降りてみると、ゴミ箱というゴミ箱が徹底的に塞がれている。相次ぐ爆弾事件で敏感になっているのだろう。

新幹線などの鉄道は、信用だけで成り立っているようなものだから、事件を防ぐにはこうするしかないのだろう。荷物検査もない新幹線に爆弾を持ち込み、ゴミ箱に仕掛けておくことぐらい極めて容易なことだ。大きなテロには至らないだろうが、嫌がらせ程度にやるなら充分に効果的だと思う。そう考えると、このような体制で大したテロも起きていない日本は、危険だ危険だと言われつつも、安全なところなのだろう。

ところで、昨日の晩は名古屋のホテルから更新を試みた。ところが、どうもFTP転送がうまく行かず、1時間ぐらい粘ったのだが、それでやっとアップロードできたのが途中で切れたファイルである。下の方まで見ている方は、23日の途中で切れていたことに気付いたことであろう。もうダメだと判断したため、不本意ながら切れたままで放置させていただいた。申し訳ない、今日は自宅からの更新なので大丈夫のはずだ。



名古屋へ
1999年12月27日(月曜日) はれ@名古屋

温泉旅行...なのだか、なんなのか。目的も良く分からないまま、名古屋へ行くのである。朝に京都駅で友人と待ち合わせ、新幹線ではなく新快速に乗る。在来線で行っても、京都発10時の電車に乗れば昼頃には名古屋に着けるから、ミニ旅行気分で赴くにはちょうど良い距離だろう。とはいえ、東海道本線の京都−名古屋なんてちょくちょくと使っているためか、どうも旅行気分になれないのは意味も無く日本中をフラフラとほっつき歩いている人間の病かもしれない。

大義名分は温泉旅行ということなので、とりあえず地下鉄の一日乗車券を買って地下鉄に乗り、天白区は住宅街の中にある植田駅で降りる。比較的高級な住宅が立ち並び、普通の観光客が来るような場所ではないが、そこには公衆浴場的な温泉がある。昼から風呂に入って極楽極楽。実は昨晩、訳あって殆ど寝ていないので眠たい眠たい。でも、温泉の休憩室で熟睡モードに入るわけにも行かないから、体に鞭打って名古屋市内を観光。名古屋タワーとか名古屋城などを見にいくが、外から眺めるだけ。

当初、夕方になればそのまま横浜の自宅まで戻るつもりでいたのだが、なんだか眠たいし疲れたし、とてもそういう気分ではない。名古屋で一泊して、横浜へ戻るのは明日の朝にするのだ。現在、名古屋市内の某ホテルでこれを書いているのだが...既にフラフラ、正しい判断だ。



ブギーポップは笑わない(ネタバレなし)
1999年12月26日(日曜日) はれ@大阪

「ブギーポップは笑わない」(上遠野浩平、電撃文庫)を読了。題材は、オーソドックスな学園ミステリ系みたいな感じの物である。深陽学園という高校に、とある危機が迫る。そして、それが退治されるまでの経緯が本書で語られているというだけのものである。しかし、その全容を客観的に見渡すようなことは一切おこなわれない。多くの小説において使われる物語を語る第三者のな目、いわば「神の目」の不在が、本書の魅力である。

もちろん、起きた事件は一つであり、言い方を変えれば真実もたった一つしか存在しない。だが、その事件は登場人物が事件に関わり、実際に見ることの出来た面のみが順次語られる。各々に、他の人物とは厳密に独立した関わり方と視点があり、各々に違った結末がある。視点の違いという壁が断固として立ちはだかるため、その人物の主観からでは見えないことや知り得ないことは、絶対に語られることがない。

そのようにして各々の視点から読者に語られた事件の断片が、ジグソーパズルを完成させるようにして、一つの事件の全容となる。登場人物の中で、起きた事件の全てを見た者は誰一人としておらず、それゆえ少し混乱する部分もあるし、読み終えた後に寝覚めの悪さを覚えるところもある。これは何々だと断言する神の視点が不在であるから、同じことが複数の視点から(違うように)語られたりするからだ。もちろん、どの認識も嘘ではなく、見る人が変われば認識も変わると言うことである。



クリスマス
1999年12月25日(土曜日) はれ@大阪

クリスマス。だからどうしたって感じだが、まあ世間では一応そういうことになっているらしい。今日も出かけたわけだが、どうせ行き先は大阪市内のビジネス街だ。無理にロマンチックな雰囲気を作ろうとしているところがあるわけでもなく、そうかと言われれば、そうだなと思う程度。そろそろ「妬まず僻まず羨まず」の「3ナイ政策」にも限界が見え始めている。これからの基本政策は「焦らず慌てず、諦めよ」に転換した方が、より現状に促していると言えそうな気がしてならない。

そんな、ささやかでありながら重大な心配をよそに、ここ関西圏では物騒なことばかりである。京都の小学生殺害事件は、何となく神戸市須磨区の小学生連続殺傷事件を彷彿とさせる。もっとも今回の事件では、初めから小学生〜中学生程度の男という目撃情報があるし、最近のクソガキどもは意外と恐ろしいことをすることもあるという教訓があるせいか、須磨区の事件ほど騒がれてはいない。どうでも良いが、逃走用に使われた自転車は枚方市内で購入されたとか。京都から買いに来るのなら樟葉(くずは)近辺の店を選ぶだろう。実家も樟葉だが、この近くには自転車屋がやたらと多い。

摂津市では、幼女誘拐事件ときた。新聞などで手口を拝見するに、比較的多くの人間に顔を見られているといったことを除いては、非常に鮮やかな犯行である感じがする。誘拐に至るまでの計画や、緻密に計算された現金の受け取り方法などを見ていると、わたしも本格的な誘拐の計画を立てたくなってきた。ダサい刑事ドラマみたいな、古典的な誘拐では駄目だ。誰も思い付かないような独創的な計画で、いかにして相手の意表を突くか。成功すれば宝くじ、失敗すれば逮捕である。ぜひとも、やってみた...じゃなくて、シミュレートしてみたい。



新幹線の茶
1999年12月24日(金曜日) はれ@大阪

新幹線の茶 筋金入りのお茶のみであるわたしは、新幹線に乗ると大抵、写真のようなお茶を買う。値段にして130円である。ぼったくりとまでは言えないにしても、それなりの品質は期待したくなる金額だ。にもかかわらず、これがとんでもなく不味い。薄い癖に妙に甘ったるいような、いわゆる普通のお茶からも程遠い味なのだ。熱いお茶となると、これしか無いのでやむを得ず買うわけだが、もう少し改良できないものかと思ったりする。

茶葉の品質について文句を垂れる前に、お湯がぬるいという問題がある。車内を巡回しているのだから、いくら熱々の湯を用意したところで、あの保温性の欠片も考慮していないプラスチック容器に注げば冷めて当たり前だ。お湯を入れた容器は、保温性のあるバッグ(銀色のやつ)に詰めて巡回しているが、それも十分ではなく湯は冷めるのだ。ところで、コーヒーを注文すると魔法瓶からカップに注いでくれる。緑茶にも魔法瓶を使えば湯の温度も簡単に保てるはずだが、何故かそうしない。

不思議なぐらい発想の悪い新幹線のお茶の販売方法であるが、肝心の茶葉の相当に悪い感じがする。高級な茶葉を使えと言っているわけではないが、セルフサービス型の回転寿司屋においてあるアガリのティーバッグよりも不味いと感じるから、何とかしてほしいものだ。先述した妙に甘ったるい味といえば、推測ではあるがグルタミン酸ソーダではないかと思う。湯がぬるいため風味が十分に出ず、水に溶けやすいグルタミン酸ソーダだけが目立ってしまっているような。そんな味である。



かっこわる
1999年12月23日(木曜日) はれ@大阪

まずは弁明、弁明、弁明。

何を隠そう、1999年12月22日22時00分に自動更新されるはずであった昨日の記事が、21日の記事が最新であるべき日(1日遅れなので、実際は12月22日)のうちに掲載されてしまっていたという、極めて重大なミスに気づいたのは22日のお昼頃であった。会社から何気なく自分のページを見ていたら、なんだなんだ! 見えてはいけないはずの記事が、思いっきり見えているではないかっ。慌てて修正したのだが、それまでにご覧になった方も多いことだろう。恐らく、ファイル操作中のケアレスミスが原因と思うのだが、意識朦朧としているときだったので確認を怠って恥をさらす結果となってしまったらしい。

深夜の、頭脳が正しく機能していないときには、あまり複雑な作業をしない方がいいらしい。納期が迫った仕事で深夜まで作業していて、ここからがラストスパートというときに、ワイルドカードを間違って *.c が全部消えちゃった...なんていう笑い話というか笑えない話は時々耳にするが、実際ありうることだ。しかも、何秒か経つまで、たったいま自分が何をしたかすら認識しないから、半分寝ているときの作業ほど、スリリングなものはない。もっとも、ことの重大性に気付くや否や、頭の中が真っ白になりながら眠気など吹っ飛ぶものだが。

ここのところ午前様続きのため、今日も意識朦朧に近い状態であり、おまけに普段とは違う環境から更新している。またもや明日の昼頃、格好悪い間違いに気付いてしまった! ということは、無いように注意したいところである。とか書いた尻からあったりすると、もう真っ青だが。



忘年会
1999年12月22日(水曜日) うすぐもり@大阪

今日は自動更新だ。この記事が皆様のお目に触れる頃、わたしは大阪市内の某アジトにて、忘年会を楽しんでいるだろう。何事もなければ、つまり新幹線の隧道が崩落して頭蓋骨が朽ち果てたり、突如として現れたキ印なオジサンに刺されて血の海を作ったり、宇宙人に拉致られて人体実験に身体を使われ二度と復帰できなくなったり、あるいは何となく自我を崩壊させながらリッパなモノを近くの幼女に観察して貰ったりして、連行されて措置入院にならなければ、のことであるが。推測で記事を書くのも、変な気分である。

推測で書いているのだから、ヘッダに「うすぐもり@大阪」とあるのも、もちろん推測である。明日の大阪の天気など、知るはずもない。だから「うすぐもり」。例え青空が広がっていても、隅っこに少しでも雲があれば「うすぐもり」。例えかなり曇っていても、雲の薄い部分が少しでもあれば「うすぐもり」。例え多少の雨が降っても、それは「うすぐもり」による俄雨と解釈することも可能である。だから、大雨とか雪とか雹とかが降ったりする希な天候以外、適用可能なのである。うすぐもり、万歳。

しかし、手抜きを極めたコラムである。cron 様に更新させるなんて...はぁ。



ねんがじょ
1999年12月21日(火曜日) はれ

現在時刻午前2時、深夜まで何をしていたかって。それはもちろん、年賀状を書いていたのである。なにせ、宛名も本文も全て手書きだから手がちぎれそうなのだ。今時、タッチオジサンですらパソコンで作って印刷してるぞと突っ込まれそうだが、うちにはマトモに稼働するプリンタが無いのだ。そんな悲しい原因により今年も手書きとなったのである。カラープリンタでも欲しくなるところだが、そんなもの年に一度、年賀状用に使うか使わないかだから、それだけの為に買う気は起きない。買うならレーザが欲しいな。

というわけで、「手が痛いから少な目に」が本音なのだが、建前上は「虚礼廃止」ということにしておいて、今年はかなり枚数をケチったりする。本意としては出しておきたい人もいるのだが、冷たくさっぱり諦める。オンライン上の付き合いがある人には、多分殆ど届かないだろうから、予め年末年始の欠礼を詫びておく<申し訳ない。もう一つ、時間に追われているというのもある。今まで放ってあったわたしもわたしなのだが、明日から何日間か、大阪に行くのだ。そんなわけで、何もかも今日がラスト。ああ、冷蔵庫に残っている生モノも処理しなきゃ...



ねんまつ
1999年12月20日(月曜日) はれ/くもり

12月に入ってからでも、大晦日までまだ一ヶ月もあるから余裕余裕っ...なんて思っていたが、気付いたもう20日である。かなりの確率で当たらないはずの年末ジャンボ宝くじとやら、早い話がタダの紙切れは10枚も買ったが、それにしてもまだ年賀状は書いていないのである。とっとと書いてしまわねば間に合わなくなるのは確実だが、そう言えばついこの間も大慌てで年賀状に蚯蚓を這わせていた気がする。でも良く良く考えれば、それは去年のこと。気が付けば結婚を諦める歳になっているのだろう。

うむむ・・・そうと決まれば(誰も決まったとは言ってないけど)、独身貴族を貫かねばならぬ。そも、金のない独り身など貴族とは呼ばない。そんな連中と貴族を一緒にして貰っては困るのだ。そこで、これをスマートに解決するのが、俗に宝くじと呼ばれる紙切れである。当然ながら今年の3億円は、自動的に俺様の懐に漏れなく入ることになって...れば良いなあ。3億もあれば、世田谷に百坪ってところだが固定資産税だけで死ぬだろう。やはり現金で持ち、毎晩のように万札を数えたりする方が娯楽になりそうだ。

うう、こんな馬鹿な文を書いている場合じゃなくて年賀状っ。



どもり
1999年12月19日(日曜日) はれ

「どもり」のことを専門用語では吃音とか言うらしいが、ご存じの通り、発声がスムーズに出せない人のことである。日本語を喋る上での固有な問題かと思っていたが、どもった英語を話すアメリカ人と喋った経験もあるので、人間そのもの問題なのかも知れない。でも、どもっているのは男性ばかりで、女性のどもりには未だお目にかかったことがない。単に女性との接触が少ないからだという意見もあろうが、そのことを指摘してしまい、消される運命となった人は少なくない。

もう二週間も前のことだと思うが、スキャットマン・ジョン氏が亡くなられたそうだ。あの独特としか言えない不思議な歌唱法でヒットチャートを駆け上った、スキャットマン"Wョン氏。実は、強烈などもりだったそうだ。氏の歌は、わざとあのような歌い方をしていたのではなく、どもりをそのまま歌に応用していたのだ。なるほど、わたしがいくら真似をしようと思っても、あの凄まじい連射音は出てこないわけである。それを知って、目から鱗が落ちた気分だった。きっと前向きな人だったんだろう、ご冥福をお祈りしたい。

今日は昼頃から起きだして、一足早い年末の大掃除...というよりは、その前夜祭のようなことをする。見なかったことにして放ってあった埃の堆積物など、年末に慌てて考えたくないようなものを予め処理しておいたのだ。わたしに言わせれば、タダでさえクソややこしいときに、クソ邪魔くさい掃除などを一括処理しようなんていう風習の方が間違っている。邪魔くさいことは適当に分散処理しておいて、本当に忙しいときには被らないようしておかないと、やってられん。



アンテナ
1999年12月18日(土曜日) はれ/くもり

ディスコーンアンテナ最近、どうもアンテナマニアとなっている気がしてならない。SkyPerfecTV に始まり、先日は DirecTV のアンテナも立てたので現在はパラボラが2発、お空を向いている。BSのノンスクランブル放送で見たい番組があったりするのでBSのアンテナも立てようかと思ったのだが、これ以上お皿が増えると日当たりが悪くなりそうだ。代わりに、今日は今日はディスコーンアンテナを立ててしまう。うちのベランダも、こうしてハリネズミになってゆくのだろうか。

ダイアモンドアンテナのディスコーンが良いのではないかと考え、午後からアキバの店に行ってみる。最初は、D130 が良いと思い、それを買うつもりでいたのだが、円錐部分を広げた時の直径は 84cm になるという。大きい方が嬉しいが、そんなものをベランダに立てるわけにはいかない気がしてくる。D130 に少々の未練があっても迷うも、潔く諦めて小型バージョンの D190 を買ってきた。これなら、半径 36cm と、マンションのベランダに取り付けるアンテナとしては現実的な大きさである。

というわけで、取り付けだ。ここのベランダからは、東を除く全ての方角に見通しが利く。その中で、最も条件の良い場所は南西側の角なのだ。南側は2個のパラボラによって既に占領されているが、南西を向いたベランダの角に少しだけ隙間がある。その隙間から、南へ向けてブームを伸ばし、パラボラを避けるようにしてディスコーンを設置。辛うじて、エレメントがパラボラに当たらないよう設置することができた。諸条件の悪いなか、そこそこ上手くできた方だろう。

後は、同軸を部屋まで通さなくてはいけない。ベランダから電線を通すには、ビルの外壁沿いに這わせて出窓のサッシの隙間から引き込むとスマートなのだが、なにせ強引にサッシの隙間に電線を通すわけだ。現在、衛星放送用の 4C2V が既に2本通っており、ディスコーンから来る RG58U(アンテナに付属)が通るかどうか心配だったが、何とか通すことができた。それは良いとして、アンテナ付属のケーブルにはMコネが付いている。ダサイから、Mを切り取って BNC に付け替えた。

というわけで、今までの室内の窓際に設置していたロッドアンテナとは比べ物にならないぐらいに色んな信号が入ってくる。電波ってこんな混んでいたの? と、改めて思うぐらいである。禁断の 380MHz 付近も、そりゃまあ良く聞こえるわ、聞こえるわ。ご近所のホットな話題が手に取るように分かる(というのは大袈裟だけど)。実家にもアナログコードレスは使うなと言ってるのに、つい最近、またもアナログコードレスな電話機に買い換えたらしい。パンピーの無線に対する意識など、この程度のものだな。



印鑑
1999年12月17日(金曜日) はれ

昼休み、ATM だけが置いてある無人の銀行出張所で通帳記入をしたら、ページが最後まで埋まってまった。しょうがないから、少し離れたところにある支店まで行って新しい通帳に繰り越しをしてもらう。新しい通帳には、「最近、盗難通帳と精巧な偽造印鑑による被害が発生しております」というような趣旨のことが書かれた紙がはさまれていた。盗難通帳の印影から印鑑を偽造し、預金を引き出してしまう犯罪が多発しているそうである。これは、そのことに対する警告だった。

通帳には、どこの支店でも取引ができるようにと印鑑が押してある場合もあるが、これは極めて危険な話である。問題となっている今ではどうか知らないが、少し前までは口座を作るとデフォルトで通帳に印鑑が押されていた。最近になってやっと問題になっているようだが、こんなことは問題にならなくても予想可能なことだろう。わたしが初めて銀行口座を作ったときでさえ、印鑑が通帳に押されているのを見て「なんとセキュリティ意識の低い」と思ったものだが、銀行はそれに気付かなかったというのか。

他支店の窓口で取引を可能とするには、確かに何らかの印鑑照合システムが必要だ。しかし、通帳に印鑑を押しておいて「これが届け印ですよ」と宣伝するようなシステムを採用しなくても良かろうに。何しろ、通帳の印影から本物そっくりの印鑑を作れてしまう時代なのだから、例えば銀行の本支店間での印鑑照合をオンラインで行ったりするぐらい、そう難しいことだとも思えない。物理的に紙に押印したものを目視で照合する方法も、小規模であれば良いだろうが、全国規模のネットワークでやるには前時代的すぎる。

しかし、よりマトモな印鑑照合システムは、実は存在しているのかもしれない。たまたまキャッシュカードを持っていなかったので、通帳と印鑑だけを使い、口座を作ったところではない支店の窓口から、100万円ほど引き出したことがあった。小さい金額なら大した時間はかからないが、このときは窓口が閉鎖された。奥に通帳と印鑑を渡し、何やら確認のような作業をして暫く経ってから、現金が手渡される。あくまで推測だが、通帳に押された印鑑は信用せず、印鑑台帳のある支店に問い合わせていたのかも。



続・らいでいん!
1999年12月16日(木曜日) はれ

変な方向へ流れてしまった昨日の話だが、人間は強烈に感電するとどうなるのだろう。骨が透けて見えたり、黒こげになるのは漫画の世界に限定されたことだと思うが、人体にも電気抵抗があることを考えると電流を流せばジュール熱が発生し、そのままヒータになるはずだ。発熱するから熱くなる、だから黒こげという構図は分からないでもないが、普通の感電なら焦げることはなく、火傷程度で済むのではなかろうか。尤も、皮膚だけが発熱するわけではなく内蔵なども火傷をしそうだから、侮れない。

まるで、ジュール熱でケーキと同じ状態だ。オーブンなどで外部からケーキに熱を加えれば、表面が焦げたりするが、生地そのものに電気を流すとまんべんなく熱が発生するので、むらなく焼ける。これを火傷に例えると、非常に恐ろしいものがある。皮膚だけの火傷なら、まだ回復の余地がありそうなものだが、内臓までむらなく火傷すると考えると生きた心地がしない。そうなる以前に心臓が止まるなど、ほかの原因で死ねると思うからさほど心配することではないかも知れない。

周波数の高い交流で感電した場合、表皮効果で感電が身体の内部にまで及ばず、意外と助かったりするのだろうか。以前に、周波数は 27MHz、電圧は 300V 程度の高周波を指先に触れて感電したことがあったか、普通の AC100V 電源で感電した感覚とは明らかに違った。AC100V を指先で触ると、直接に触れた指先だけでなく手の全部で文字通り「ビリビリっ」と感じるのだが、高周波では触れたところに「ばちっ」という強い痛みを感じただけだ。比較を意識して感電したわけではないので(ていうか、したくない)何とも言えないが、感覚的に高周波の方が安全そうだ。

ちなみに、その高周波で触れた指には、小さな水ぶくれが出来る程度の軽い火傷を負った。



らいでいん!
1999年12月15日(水曜日) はれ

ライデインの上位互換品としてギガデイン、さらにその最高グレード品ともなれば伝説のミナデインがラインアップに存在するわけだが、えらい懐かしすぎる話だから誰も覚えていないかも知れない。ともあれ、正義を強く願う勇者が魔法を詠唱すると、どことは明かされない天の遙か彼方から雷雲が呼び寄せられ、聖なる稲妻が敵を目掛けて直撃! そして敵は、予想もせぬ攻撃の断末魔に悶え苦しみながら、体液を沸騰させ、黒こげになるまで焼かれて死に絶えるという、聞いただけで身も竦む恐ろしい魔法が、ライデインシリーズなのである。

しかし、相手は稲妻である。放電の矛先に多少の狂いが生じ、魔法詠唱も一段落し、これから始まるであろう残虐極まりない処刑の儀式を傍らで観察する勇者一味に直撃したり、あるいは近くに立っていた駐車禁止の看板が丁度良い避雷針となり、正義を凝縮した大呪文ですら虚しくアースへ直行するというような展開もあれば面白いはずである。ところが、どういう仕組みなのかは更なる研究を要するところだが、聖なるの鉄槌は勇者に敵と指名された者のみに下されるから詰まらない。そんな思いにふけながら、偏頭痛という名の悪に立ち向かった一日であった。

で、何の話だっけ...そうそう、感電感電、ジュール熱。という展開になるはずだったのだが、まだ偏頭痛が解消しないから辛い。続きは明日にしよう...



いろいろ
1999年12月14日(火曜日) はれ

師走だからだろうか、なんだか知らないがゴチャゴチャとしたことで仕事が忙しい。人間少しはサボらないとやってられないから、暇になって欲しいところだ。ついでに、風邪が流行っているようで、うつされた気がする。会社の人が風邪をひき、一人で苦しい思いをするのが納得いかないのか、「うつしてやる」と呪詛に満ちた言葉を吐きながら、汚染された息を吸わされる。彼が原因に違いない。風邪をうつされて損害賠償請求という裁判があったような気がするが、認められないだろう。

師走だからだろうか、なんだか知らないが今日は寒い。いつぞやに貰ったホットカーペットの稼働を開始するも、やはり寒い。去年の12月、一人で10,017円もの電気代を請求されたという苦い想い出があるため、今年は光熱費節約モードなのだ。極寒で使われる半導体は、自ら発する熱を放さないことで動作に必要な温度を保ったりするそうだ。これだ、これしかない。考えてみれば人間も発熱体であるゆえ、体温を逃がさなければ良いはずだ。薄着好きを改め、とにかく着る。毛布を被る。布団に入る。寝てしまう。って、なんか違う方向へ行く傾向もあるようだが、今年の防寒方針は決まった。

雅子さま懐妊? 宮内庁は「今後は、プライバシーなど両殿下の人権を十分尊重し、節度ある報道がなされることを強く求めます」なんてコメントを発表したようだが、報道機関に対する意見が新聞にそのまま掲載されている様は、少々滑稽な感じがする。敢えてこう言う宮内庁は、内心は加熱しすぎる報道に迷惑しているのかも知れない。皇室報道が悪いとは言わないが、第一面にデカデカと「懐妊の可能性認める」(朝日新聞朝刊)と書くほどのことでは無かろう。何かあれば、どこのワイドショーも足並み揃えて馬鹿騒ぎだが、需要があるからするのかねえ?



職場で年越しソバ?
1999年12月13日(月曜日) はれ

今年は2000年問題とやらで、コンピュータ系の技術屋さんの中には多忙を極める日々を送っておられる方もいらっしゃるかも知れない。新聞の全面広告を見ると、日本電気は年末年始にかけて、2000年問題に関する特別窓口を設置するとか。それ以外にも、意味すら不明なまま、年末年始はあるいは会社に詰めておくことになった大手企業が多いと聞く。どこでどんな問題が起きるか予想がつかないから備えあれば憂いなし、ということなのだろうが、やや神経質になりすぎているだけなのではないかという気もする。

ここをお読みの方の中にも、年越しは会社でやりますという、余り嬉しくない年末年始を迎えることになった気の毒な方もいらっしゃることだろう。御苦労なことだ。わたしはと言うと、規定では23日から来年の3日まで冬休みである。というと石が飛んできそうだが、少し心配なところもあるので、年末年始は自宅で待機するつもりだ。もっとも、なるべく早めに実家方面での用事は済ませ、年が明ける前には横浜に戻るスケジュールは、例年通りのことである。敢えて帰省ラッシュに揉まれるような日程を選ぶような馬鹿はしたくない。

日曜日の朝日新聞。天声人語を読むと、パンピーの2000年問題に関する感心は、すこぶる低いとある。当たり前だろう、そっち方面の仕事をしていれば、例えば日付でソートしたら順番がラリってしまうとか、printf("19%d", tm->year); なんていう具合に1900年がハードコードされているというな具体例も思い浮かぼうものだが、そも計算機たるものがどんな風に動いているかを理解していない者にとっては謎深きことだ。原因が明らかな問題は、何らかの対処があるからさして不安を感じないが、原因が不明で対処方法が良く分からない問題で騒がれると、漠然とした不安を覚えるものである。

そんなところに、ライフラインが止まるとか、飛行機が墜落するとか、エスカレートしたところでは核爆弾が発射されるとか。噂話の尾鰭ならともかく、政府すら、深刻な影響はまず無いと言いつつ、念のため備蓄すべきとまで発表している。漠然とした不安に対し、終末論とも取れるような恐ろしい具体例が列挙されれば、そりゃまあ少しはビビるかも知れない。と思いきや、近所のスーパーでは「2000年対策は大丈夫?」なんていう調子のビラを貼りだして、非常用品の特需を狙った便乗商法も実施中だ。

一欠片の緊張感も感じられない。ややこしいことは取り敢えず商売に結びつけてしまえという具合で、2000年問題も商売人の手に掛かれば、クリスマスを理由に冬物を売るのと同じような感覚なのだろう。緊張感なんて大それた言葉は無駄だったか。むしろ、2000年問題と称した「小さな終末の到来」に、内心は楽しんでいるようにさえ感じられる。例えるなら、台風が直撃するかも知れない夜、強風に揺れ始める雨戸の音に胸を躍らせ、停電に備えると大義名分を掲げながらも、実は停電を心待ちにして蝋燭を用意する小学生のように。2000年問題とやら、真実と嘘の線引きは、ますます難しい。



またまた書店
1999年12月12日(日曜日) はれ

今日も暇だから書店をぶらついてみる。家の在庫がそろそろ枯渇してきたので、補給するのだが、さーて何を買うか。新規開拓もしたいところだが、これといった目星もないから手に取ってみては棚に戻すという作業を繰り返す。暫くして、司馬遼太郎著「坂の上の雲」が目に留まった。司馬遼太郎も押さえておきたいところだから読んでみようかと手に取るも、普通より分厚くて文字密度の高い文庫本が全八巻ということで考えてしまう。長すぎて、途中で飽きてしまう可能性が極めて高い。概して長い司馬遼太郎作品を読むには、相当の覚悟が必要だ。

結局、覚悟を決められずに星新一を買う。ショートショートなら飽きるよりも先に最後がやってくるはずだという打算的な判断をするあたり、ダメ人間じゃん。ダメついでに? 上遠野浩平著「ブギーホップは笑わない」(電撃文庫)も買ってみた。カバーに描かれた、妙な帽子を被って肩の凝りそうな外套を身に纏う、限りなく怪しげな少女のイラストは以前から少々気になっていた。もしわたしが警察官として警邏中、街でこんな格好をした人間を見たら間違いなく職質したくなる怪しさだ。そんなことは良いとして、巷の噂によれば、上遠野浩平はかなりのやり手らしい。



宮台真司とか
1999年12月11日(土曜日) はれ

久々に書店へ行くと、宮台真司の著書が目に留まる。数年前、知人の勧めもあって何冊か読んだが、知らない間に増えているわ、増えているわ。今という時代を説明するを斬新な切り口で説明する宮台真司の思想的なものには、なるほどと頷けることも多い。しかし、氏の、ある意味では自分が神だと言わんばかりの雰囲気は余り好きになれない。ふと氏の著書を手に取ってみたら、100もの氏が得意とする質問に答えるという形式で構成されていて、要するに答えを知るのは俺だけだという風に感じるところがある。

それでも、反論の隙をなかなか見せない宮台真司の論理立てた切り口は面白いと思う。反論らしき本も出てはいるようだが、「そこまで割り切って良いのか」とか「人間には、もっと大事なものがあるんとちゃうか」というアナログ的な反論が多く、このようなものは理詰めに対しては非常に脆い。そんな生ぬるいアプローチでは説明、解明、説得できない現象を扱っているからこそ、宮台は面白いと思うのだが。性善説を唱え、人間性を重んじる人から見れば、宮台など虫酸が走る存在なのかも知れない。

それはそうと、最近は「流行追従系」の本が多い気がする。「買ってはいけない」が話題になると、「○○はいけない」シリーズが雨後の筍のように出たりといった具合のものだ。悪いとは言わないが、あの手は一発博打で売れれば良いという傾向が強いのか、内容は散々なモノが多い気がする。最も顕著に見られたのは、一時のエヴァ本ブームのときだろうか。同じエヴァというテーマについて、ありとあらゆる方面からトンデモ本が出版するパワーもなかなかのもの。本は毎日のように増えてゆくが、時間を割いて読むに値するものを見付けるのは、意外と少ないようだ。



みょよぉ〜〜〜
1999年12月10日(金曜日) はれ

ターンAガンダムで西条秀樹が歌っている「ターンAターン」で、精一杯の擬態語で表せば「みょよぉ〜〜〜」という音に聞こえなくもない、変な楽器は何だ? ふと疑問に思ったのだが、良く分からない。『時が未来に進むと、誰が決めたんだ』と言っているが、少なくともわたしではない。光速を超えて移動すると、理論上は時間の流れが逆になるらしい。確かに万事が光速より速くならないとすると、それを超えた移動をすれば周囲が遠ざかる、つまりは時間の流れが逆になってしまわない気がしないでもない。うーん、だからそっち系の物理は嫌いだ、パラドックスに苦しみ夜も眠れなくなる。

曲の冒頭に変な音といえば...編曲に凝りすぎて変な効果音を使うと放送禁止を喰らうこともある。ピンクレディの「SOS」という曲が、放送禁止になってしまったそうだ。冒頭にモールス符号で「SOS」と入れてしまったため、これを電波に乗せて放送すると電波法上、問題がある。放送局も無線局だから、遭難時でも何でもないのに遭難信号と聞き違える可能性のある電波は出してはならないという判断である。だとすると、ラジオやテレビで「非常・非常・非常」と叫んだりするのも駄目なのだろうか。恐らく、問題があるだろう。

無線の話で思い出したが、いつぞやに申請した無線局免許は、まだ来ない。やっと、電気通信監理局へ申請書を送ったという旨の「通知書」が、日本アマチュア無線振興協会から届いた程度の進行具合だ。たかがアマチュア局なのだから、何にそんな時間がかかるのか少し不思議なぐらいだが、されど無線局が一個立ち上がるのだから、それはそれで大袈裟なことなのだろうか。別に急ぎ出も何でもないから、コールサインが届くのを気長に待つことにする。



なんか書こう
1999年12月9日(木曜日) はれ

年中無休更新を心がけているこの頃である。暫く休んでいないからこのまま休まないで続けたいところなのだが、ネタが途切れるとサボっちゃおうかなという、いけない誘惑に駆られてしまう。ネタが豊富にあるときは、1週間ぐらい先まで書き貯めてあることもあるのだが、全く無いときは、頭が真っ白の状態でエディタを眺めていたりする。つい先日までネタの豊富な期間だったことは、ここを毎日ご覧の方ならお察しのことだろう。そして、今日のように全く無いときは、こういう書き出しで何でも良いから捏造するのである。

そういえば、変造500ウォンの話とか、タバコ値上げの話とか...ほらほら、適当に書くうちに何か思いついたと思ったら、これらは全てタバコ屋のオバハンが涙ながらに語っていた話だったっけ。最近はタバコ屋も儲からない商売らしく、相次ぐ変造硬貨を使った自販機荒らしなどで、頭が痛いそうである。おまけに税収不足をカバーするためだかの、またまたタバコ値上げというダブルパンチ。タバコの値上げで禁煙&節煙がどの程度増えるかは不明だが、一箱300円ぐらいになったら考えてしまうかも。



Excel
1999年12月8日(水曜日) はれ

Microsoft Excel なんてものを使って金の計算をさせてみる。しかし、わたしはパソコン初心者だから使い方を熟知しているというレベルからは程遠い。便利な使い方を一つ知る度に、おおーこりゃ便利〜! と、感動を一々声にして叫ぶような程度だから、慣れた人から見れば極めて非効率的な表を作っている気もするが、まあ良いだろう。表計算を使うと、電卓でやるには面倒臭すぎる計算がいとも簡単にできて大変便利である。仕事では、素人ながら時々使っていて、例えばルックアップテーブルを作るときに計算をさせ、その結果を配列に変換したりとか。

まあ、そんな訳で金計算なのだ。横着なわたしは、毎月いくら金が入ってきて、いくら使っているのか自分でも把握していない。給料日がいつで、公共料金などの引き落としがいつなのかも、特に気にした事がない。口座残高が赤字にならないように注意している程度なのだ。そんなことではいけない、取り敢えず大まかな金の流れだけでも知っておこうということで、古い通帳などを引っ張り出して、表を作ることにした。数字を入れていくだけで嫌になり、入れ終えても残高は合わないし、修正してもやっぱり合わない。ま、近くなったから許すことにしよう。

そうして、現実を数字として見つめると「何だこりゃ!」と叫びたくなるものがある。毎月の給料日を区切りとした「当月収支」という項目を作ったのだが、これの計算が正しければ、赤字の月と黒字の月と半々ぐらいある。しかもその額がまた極端で、凄い赤字か凄い黒字のどちらかしかなく、バランスの良い金額はどこを探しても見当たらない。金を使わない時は殆ど使っていないのに、使う時は一気に無駄遣い大魔王になるという悪い癖があるようだ。ケチであると同時に金遣いが荒いと言われる所以が、なるほど、この辺にあるような気がする。

どうでも良いような無駄遣い、たぶん減らないと気がするけど、もう少し減らさなくては...



機械に読ませる
1999年12月7日(火曜日) はれ

今は昔、まだまだDOSが現役で活躍していた時代のことだ。リコーかどこかの会社が、実験目的でテキストファイルを日本語で読み上げてくれるソフトをフリーソフトとして配布していた。サウンドデバイスは不要で、殆どのパソコンに備わっているブザーから出る音だけで喋ったから驚きだった。AT互換機のブザーは、発振器としてタイマが使われており、分周比さえ変えれば周波数は可変だ。しかし、音色は矩形波でしか出ないためだろう。ブザーにパルス幅変調をかけて喋らせるという代物だった。

漢字交じりのテキストファイルをプリプロセッサに通すと、辞書を参照しながらカタカナと発音を指示する記号だけで書かれた中間ファイルに変換される。誤変換された辞書に無い単語や、発音が不自然すぎる部分は手動で修正する。その生成物を読み上げソフトに渡すと、声になるのだ。その発音はぎこちなく、古いSF映画に出てくるロボットのような感じだったが、何を言っているかは十分に理解できるレベルだった。それはそれで非常に良い味を醸し出していて、留守録の応答として使ったこともあったと思う。

いまではもう少し良くできた読み上げソフトもあると思うが、敢えて買うほどの必要性は無いので使ったことがない。日本語の文章には、読みを表さない漢字が交じっているから、辞書によって読み取りの精度は大きく左右されるだろう。特に、専門用語の多い文章を読ませると苦しいかも知れない。微妙なアクセントの違いなどは「所詮は機械だから」と諦めもつくが、知らない言葉でも常識的に読めそうな単語を間違うようでは、まだまだだろう。特に略語、例えばSCSIを「すかじー」と読めないようでは駄目だ。

が、いくら正しく読めたからといって、それだけでは困る部分もある。

「橋の端に箸を落とした」(注:端=はし、≠はじ)

という文は、全ての「はし」を同じ発音で読まれたら、理解に苦しみそうだ。

「この汚職事件の証拠として、お食事券が押収された」

という文も、普通に読まれたら恐らく何のことか分かるまい。

そんな冗談はさておき、本当に困るこまるところは、文章のレイアウトをどう読ませるかである。読み上げソフトは、盲人が文字情報を得る際には非常に有用だと思うが、いくら文字を完璧に読めたからといって、文章がどういう構成になっているかまでは伝わらない。音声化された際に失われるレイアウト情報は、極めて重要な場合もある。その代表例として、表というものがある。表を、左から右へ、上から下へと普通に読んでいったところで、その内容や意図は正しく伝わらないだろう。

最近では、HTMLがそれを解決する手段として注目されている。タグというものを使ってレイアウトを明示的に指定する性質上、副次的にその文章の構成がどのような意図に基づいてそう作られ、あるいはそれを人間にどう伝えれば適切なのかを、機械が自動的に判断することは容易である。普通のテキストで空白文字を駆使して作った表や、HTMLでも <PRE> タグを使った手抜きな表を機械に表らしく読ませることは、無理とは言えなくても極めて困難であろう。だが、適切なHTMLタグさえあれば話は簡単である。

氏名国語数学英語平均
A治68417461
B子55836367
C太98887587

例えば、上のような表があったとする。<TABLE> と </TABLE> の間に存在するテキストは、表の一部だと一発でわかる。表の1行目は、<TH> と </TH> に囲まれているから、表の要素の意味を表していると解釈できるだろう。ならば、「氏名A治、国語68、数学41、英語74、平均61、、氏名B子、国語55、数学83...」という按配に機械が読んでくれれば、ただ上から棒読みするよりも1万倍は表らしく聞こえることだろう。

レイアウトそのものだけではなく、なぜ「そういう構成にしたのか」という意図も同時に伝われば、より分かりやすい読み上げになる。例えば、<TITLE> と </TITLE> に挟まれた文字は、表題だから表題らしい気持ちを込めて読もうかな(できるか?)とか、<STRONG> と </STRONG> の間に書かれた文章は、強調部分だから音量を少し大きめにして読もうかな、という判断もできるだろう。

従って最近、そういった考慮からHTMLはレイアウトだけを伝えるのではなく、その意図を明示的に伝えるように書こうという考え方が強くなってきた。ただ見えればよいというのではなく、なぜそういうレイアウトでなければならないのか、ということも分かるようにしようというのだ。これは良いことだ。「機械に読ませる」という目的のためだけに、新たな記述言語を策定しても広く普及はしないだろう。しかし、既存の標準であるHTMLの副作用部分を利用するだけなら、ちょっとした考慮で解決できるのだ。



ドラゴンボール
1999年12月6日(月曜日) くもり/はれ

最近、衛星で初代ドラゴンボールのアニメが流れてくるので、懐かしくて見ている。これが初めて放送されたのは、確か昭和61年のこと。わたしが純真無垢な小学生だった頃の話だ。十数年ぶり見て、あんなに直接的な「シモネタ」が多かったのかと驚いてしまった。シモネタはさておき、初代ドラゴンボールの非常にユニークな組み立て方は、いま見ても新鮮に写る。特に初期の頃、悟空が故郷を出て仲間と出会い、ドラゴンボールを7個集めるに至るまでの経過は、勿体ぶらずトントン拍子そのもので進んでゆく。しかし、それは一向に構わないのだ。

何故なら、どのようにしてドラゴンボールを手に入れるかということに敢えて重点を置かず、その過程に付随する「妙な出来事」が面白いからだ。現実と幻想が区別無く入り交じる、夢一杯の何でもありな世界で物語は描かれているが、しかし、不自然さを余り感じさせないところは凄いと思う。一般的に、安物のファンタジ世界には why や how といった疑問が付きまとうが、それらを変な論理武装や納得のいかないご都合主義でねじ伏せる程度では、吹っ切れ方の生ぬるい、騙し騙しの構成だと言える。

ところが、端から疑問を持つ間を与えさせないほど、さも当然のように「妙な出来事」を現実に織り交ぜてあれば、話はまた違う。初代のドラゴンボールでは描かれている世界は、我々の住んでいる世の中と比較すれば相違点がごまんとあると分かっているにも関わらず、いざそれを抽出しろと言われても不可能な世界なのだ。「かめはめは」という魔法を詠唱すれば気の奔流が発生するというような、どうしても人工的な意図を感じざるを得ない世界とは根本的に違う。いわば、オカルト的な味わいのある世界なのだ。

しかし、そのドラゴンボールも後ろにZが付く頃には、戦闘そのものが主題となった普通の戦闘アニメに堕落してしまう。結果、醍醐味だった「でっかい宝島」を探索するという夢いっぱいの時代は終わり、友情や正義といった虚空にも近い価値観と、敵味方、勝敗、生死といった二極化された結果だけが重んじられるようになる。展開もつまらなくなった。敵を倒す。すると、もっと強い敵が現れる。倒す。また、もっと強い敵が現れる。強引な理由を作ってはその繰り返しを辿る、少年漫画の典型に落ちぶれてしまう。

その変化には、数々の「技」にも見られる。例えば、物語中で初めて亀仙人が「かめはめは」を打ったシーンは、極めて豪華な描写だった。その時の「かめはめは」は、結果ではなく「かめはめは」という凄い大技自体が重要だったのだ。そして、重心は変わった後はどうか。後のベジータとの戦いで使われた元気玉も、凄い大技だった。確かに凄いのだが、しかし、それ自体の重みよりも、元気玉をいかにしてベージタに命中させるか、その結果の行方はどうかということが、その時の最重要課題であった。

少年漫画の構図は堂々巡りでしかなく、いつかは破綻する宿命にある。その破綻をドラゴンボールに見たのは、ベジータやフリーザといった宇宙の悪者に手を出してしまったときだ。堂々巡りに絶えず必要な「敵」という資源が地球から枯渇し、宇宙に進出せざるを得なくなったのだ。再び戦いの場所を地球に戻してからも、「永久エネルギーを持った人造人間」とか「未来から来た生物」など、強引にも程があるような敵を登場させてしまう。いよいよ地球にも宇宙にも悟空より強い敵がいなくなった、輪廻の結論だ。ドラゴンボールはまだ続いたと思ったが、こんな調子に陥ったため、実は結末まで知らない。

ドラゴンボールZの勿体ぶった展開は、初代ドラゴンボールのような、歯切れの良い展開とは全く違う。その原因は、人気漫画は弥が上にも続けさせるという商業主義の意地悪さもあったのかも知れない。あるいは、鳥山明の才能の枯渇だったのか。後者は、恐らく違うだろう。いまでもあるのかどうか知らないが、ドラゴンボール連載終了後、少年ジャンプに掲載されたいくつかの「読み切り」を読む限り、氏の才能は健在だ。何とも言えない不思議な魅力を醸し出す鳥山明の世界は、ドラゴンボールの墜落はさておき大好きだ。



液体○素
1999年12月5日(日曜日) はれ

エクステンダと呼ばれるギョーカイのとりわけてクレ○ジーな面々のうち、速くなるなら手段を選ばず如何なる苦難でさえ厭わない一部の方が、液体窒素なんぞでセレロンを冷却していたりする。いや、それを苦難と呼ぶべきでは無いのかも知れない。草木も眠る丑三つ時、部屋に一人籠城し、奸策の微笑を浮かべながらオーバークロックに勤しむ方々の原動力は、実は常に最速を欲求して永遠に満たされることのない官能を刺激するための、ほんのささやかな快楽ではないかとさえ思えてくる。

そんな按配で、液体窒素を脳味噌冷却に使うことが一般化してきた(のか?)お陰で、ちょっとガス屋さんへ行く用事ができた。そのうえ、どういう成り行きでそうなったのかは良く分からないが、そのガス屋さんには昼休みに多事毒論をバリバリ読んでいますという従業員の方が多いらしく、是非一度 Webmaster に遊びに来て欲しいというご愛顧もあったことからお邪魔させて頂いた。ついでに、デートごっこ、もとい不倫ごっこをするという...何とも意味深な一日。(ご馳走様でした>関係者)

液体窒素と砕ける花 というわけで、ガス屋さんをデートコースに選んだ限りは、やはり液体窒素で花を凍らせ叩き割るという、お約束の手順は避けて通れまい。実際にこれをやるのは初めてなのだが、ガラス細工の如く見事に砕ける。ひとえにロマンチックだ。面白いぐらいに破片が飛び散る。脆く、儚いモノに対する破壊衝動。それを満足させた後の何とも言えない爽快感は、はっきり言って病み付きになる。例えば、日曜日の秋葉原。狭い道路にうじゃうじゃと散らばる暑苦しい人間どもを粉々に消滅させることが出来れば、どれほど気持ちがよいことか(危険思想)。

液体酸素 液体酸素も拝む。青いとは聞いていたが、(写真では分かりづらいが)確かに青い。綺麗な青色だ。どちらかと言えばウインドウォッシャ液の青に近い感じもするが、少しノスタルジックな感じがするのは、「地球色」だからだと言う。ちなみに、この青くて冷たい液体は危険だから、余り変なことは考えないように。命が惜しい人は、例えばグリルの着火が悪いので、液体酸素で改善を図ってみようかななどと考えてはいけない。



フーバーダム
1999年12月4日(土曜日) はれ

アメリカはネバダ州とアリゾナ州の州境上に、フーバーダムという巨大なダムが存在する。カロダド川の渓流を堰き止るべく建設されたアーチ型のコンクリート壁は、剥き出しの岩盤が両側に迫る渓谷に据え付けられ、そしてその背後にはミード湖という広大な面積を誇る人工湖ができている。実は子供の頃、フーバーダムを見に行ったことがある。尋常ではない規模は言わずもがな、人里離れた場所に突如としてダムと湖が現れるという特異な景色が妙に印象的だったので、良く覚えている。

確かあの時はアリゾナ側から山道(多分、93号線)を抜けてゆき、フーバーダムへと接近したはずだ。景色が開けたかと思うと右手には翡翠色の湖があり、何故か水面から煙突のような筒が顔を出していたので、妙だと思った。先ほど調べたら、これは水力発電用の取水口だったようだ。フーバーダムの上は一般道路になっており、そのまま山道を進むと堰堤の真上を通過することになる。橋を兼ねたフーバーダムでカロダド川を渡り、ネバダ側に車を止めてダムを見学した気もするのだが、定かな記憶はもうない。

今でも良く覚えているぐらい印象深かったフーバーダムの建設物語が、Discovery Channel の「舞台裏への潜入」という番組で放送されていたので、つい見入ってしまった。現場で見たときは、どうやって作ったんだろうと考える歳ではなかったが、いま思えば、あそこまで巨大なダムを、あそこまで辺鄙で何もない場所によくぞ作ったものだと感心する。しかも1930年代に、とも一瞬思ったが、あるいは1930年代という時代だったからこそ、多少の無茶な計画も実現可能だったのかも知れない。

場所的に極めて行きにくく辺鄙なところ故、ダムそのものの建設よりも、下準備の方が大変だったという。まずは作業員のための街を興し、資材を運ぶための道路や鉄道を建設しなければならない。ダムが設置される前に川底や周囲の岩肌を整形しなければならないが、その際には河流を迂回させ、建設現場に水を進入させなくする必要がある。しかし川の周囲は岩の崖だから、迂回用の隧道を掘り、そしてコンクリート工場を稼働させて、やっとダムの建設に取りかかれる。ある意味、ダム自体は大した作業ではなかったのかも知れない。

ダム周辺に集う観光客の目から見れば、でっかいコンクリートの壁そのものが壮大に見えるのだろうが、それは結果に過ぎず、本当に壮大な部分は目に見えない過程にある場合が多い。ソフトに例えれば、開発環境を整え、プリプロセッサを作り、デバッグ用のテストコードを書き、さらには地味な下請け関数をせっせと作り、やっと本題に取りかかる準備が終わった頃には納期間際だったりする。大方の場合、それは完成に近いことを意味するが、表向き何も出来てないように見えるので、チンタラしているように見えてしまうのは、ボトムアップ作業の宿命か...



はちみつ
1999年12月3日(金曜日) はれ

乳児に与えないでください どの蜂蜜のラベルにも、大いに気になる記述がある。隅っこに小さな文字で書いてあるこれ、何故だろう。蜂蜜が「生モノ」であることは、全くその通りだと思う。しかし生モノであることが、一才未満の乳児に蜂蜜を与えるべきでない理由だとはとても思えない。蜂蜜以外の食品にこんな注意書きは見たことがないし、仮に生モノ全般が乳児とって禁忌ならば、蜂蜜だけに注意書きをするのも筋が通らない。この曖昧さは「あまり明らかにしたくない」理由が他にあるはずだ。

と思うに至ったわたしは、検索エンジンとお友達してみる。結果、紅茶にはちみつを入れたら黒く変色したという一見あまり関係のなさそうなページを発見した。ここの「<参考>」というところに、「幼児ボツリヌス症」についての記述がある。その原因は、言わなくても分かるだろうがボツリヌス菌だ。最近では、オウム真理教が散布を計画していたとかで有名になった、そのボツリヌス菌の芽胞が蜂蜜に混入していることがあるそうだ。大人は強いので多少食べても問題にならないが、脆弱な乳児は発病する虞があるということか。

蜂蜜に隠された「明らかにしたくない」謎とは、そういうことだったらしい。確かに、蜂蜜屋さんとしては、進んで単刀直入に表示したくなることではないだろう。だってだって、塩素系漂白剤の如く

食わすな危険 ハチミツにはボツリヌス菌の芽胞が混入しています
から、一才未満の幼児に与えないでください。

なんて書いあったら、どう見てもおっかない。売り上げ3割減は堅いだろう。



改革派、保守派
1999年12月2日(木曜日) あめ

デザインセンスの良さそうな方が作成した Web ページを見ると、HTMLの新しく派手な機能がたくさん使われていたりする。つまるところ電子化されたドキュメントを合理的に伝えることが目的であった元祖のHTMLには、美しく表示させることまでは念頭に無い。従って表現力に不足があり、デザインを重視する人が新しい機能を好んで使用するのは、当たり前だろう。しかし、新しいHTMLを表示させるには、新しいブラウザが必要だ。誰もが新しいブラウザを使っていれば良いのだが、ところが実状は違う。

必ずしも大半の人が、常に最新のブラウザを使用しているとは限らない。敢えて古いブラウザを使っているや、使わざるを得ない人は少なからずおり、ここに葛藤が生ずる。どうすれば良いか。作る側が、古いブラウザを使っている人間を潔く切り捨てるのも一つであろう。見る側も、見栄えばかりを重視したページに書いてある内容は知れていると割り切っても良い。だが、特定の環境に依存しないことを前提に作られたコミュニケーションの進化の結果が、コミュニケーションの積極的な分断では喜べない。

規模の大きな相互通信において、大半の人が満たせる基準以上の要求があったり、エゴ的な寸法があっては正しく機能しない。形而上学的な設計精神の話ではない。人によって使えたり使えなかったりする通信網が、容易に普及すると言えるだろうか。だからといって、新しい機能を使う者を頭ごなしに攻めるのも良くない。世の中には、最新機能排除主義者とでも呼ぼうか。未対応の環境が多い中で新しい規格を使ったりすると、とにかく使用禁止論を展開したがる人がいる。そういったご忠告には合理的なものよりも信仰に近いものの方が多いと感じることがある。

HTMLの話からは逸れるが、つい最近まで(いまでも?)インターネットで流通する電子メールの Subject、いわゆる主題の部分には日本語文字を使うべきではないとする論調が根強くあった。1982年にRFC822で纏められた電子メールの仕様では、英文字の利用しか前提になかった。いまでもこの仕様を引きずっている以上、好き勝手に日本語を使うべきではないが、後に様々な拡張が行われている。RFC1341とRFC1342で電子メールにおける非英文字の取り扱い方法が決まったのは、1992年。RFC1468で日本語の使い方が決まったのは、1993年のことであった(現在では全て obsolete)。

インターネットの仕様は、殆どが後方互換性を良く考慮して作られている。電子メールにおける非英文字拡張仕様も例外に非ず、RFC822で定義された仕様との互換性をよく考えて作られたものだ。従って、英文しか扱えないソフトが日本語 Subject を含んだメールを扱うことがあっても、その部分が日本語として見えないだけで問題は無い。日本語を扱えないソフトを使っている人に日本語のメールを送るのは、デリカシの問題だ。各々が使用の正否を判断すれば良いことであって、禁忌と歌って回ることではない。にもかかわらずだから、馬鹿げた話だと思った。

仕様が古から新へと移る過程で、保守派が改革派を糾弾する構図はしばしば見られる。その行動にも一理はある。何事にも過渡期というものがあるものだ。過去との絡みを切り去ってまで新しいものを使おうとする者に、「古い環境への考慮」という正論をぶつけて制止をかける役は必要である。しかし、いつまでも底辺に合わせて基準を決めて不便を我慢する必要はないのだ。新しい仕様はニーズがあるからこそ作られ、今までもそうされてきた。そしてこれを否定することは、進化を捨てることと等しいのだ。



Y2K対応&その他
1999年12月1日(水曜日) はれ/くもり/あめ

というわけで、多事毒論のY2K対策もこれで完了したわけである。Y2K問題で、インターネットはどのぐらい変なことになるのだろう。FreeBSD + Apache 1.3.9 で動作している www.exp.org が稼働しているサーバは、問題ないということになっている。バックボーンのルータなども大丈夫のようだ。あとは、DNS のようなシステムが健在ならば、少なくとも突撃実験室側で何らかの障害が発生することはないと...思いたい(自信なし)。

インターネットの基幹系は、ほぼ問題はなかろうと見ている。ネットワークレベルで日付が関わる部分は無いため、例えばルータの時計が狂うことはあっても、それが直接の障害に繋がることは無い(と信じたい)。アプリケーションレベルでは、重大ではないにせよ、細かいところでは確実に色々な問題が起きるに違いない。ネットワークを用いたアプリで、日付を扱うものは非常に多い。代表的なところで、電子メールのヘッダには必ず日付が添付されている。

全てのメールで、この日付の西暦部分が4桁で記されていれば良いのだが、歴史的な事情から、さに非ず。最も初期の電子メールでは、西暦は下2桁を使う取り決めになっていた。その名残だろうか、最近でも希だが2桁の西暦で流れてくるメールは見掛けることがある。MTA や MUA 側でも対策していて、例えば00という数字は1900年と認識せず2000年と見るようにしているソフトが殆どであるが、やはり全てではない。

そうそう、肝心なところが Y2K 対応されていない。家や会社で使っている Windows NT Workstation だ。本格的に対応させるには、Service Pack 4 以降を入れろと Microsoft のサイトにはあるが、SP4 などを入れたことが原因で立ち上がらなくなることを覚悟するか、Y2K 関連の問題で立ち上がらなくなることを覚悟するか、運命を決めかねているわけである。どのみち絶望なら、どちらでも良いというものかもしれない。



突撃実験室