多事毒論(1999年11月分)



ケチ
1999年11月30日(火曜日) はれ

ぼろいマイコン用のソフトを書いていると、パソコンプログラマが憎らしいほど羨ましくなることがある。C言語で開発した、通信ポートからデータを受け取るコードをテストしていると、論理的なバグは無いはずなのに、誤作動しやがる。原因を探ると、どうやら処理に時間がかかりすぎていて、データの取りこぼしが発生しているらしい。やむなく、時間のかかりそうな関数を次々とアセンブラで書き直してみたりしたのだが、焼け石に水だったらしく、大して変わらんではないか。

同じコードを普通のパソコンで動かせば、処理時間など全く問題にならない程度の些細なものだろう。パソコンの通信ポートなどが「重い」部類に属し、タコなコードを書くとデータを取りこぼしてしまうような時代は過ぎた。通信関係のプログラムも、マシンパワーに任せて書いたところで、文句は言われまい。羨ましいものだ。Cを捨ててアセンブラ化した部分の8割は「高速化」が目的であり、PUSH や POP は遅いためスタックはなるべく使わないよう、レジスタの遣り繰りに翻弄された後が伺えたりする。

ケチくさいったら、ありゃしない。設計指針そのものが「ケチによる最適化」だったりするプログラムを書いていると、何だか性格や、日常生活における価値判断に至るまでケチになりそうで、恐ろしいものだ。いずれにせよ、ケチは生まれつきだから、これ以上は悪くならないことを願いたい。一応、関西人の血が流れているらしいから。



多事毒論フレーム化
1999年11月29日(月曜日) はれ

昨日書いた、多事毒論のY2K対応(ということの程でも無いけど)と、その他の整理作業も今日までにほぼ全て終えた。そう書くと簡単なことのように思えるが...涙無くしては語れない書き換え作業の連続であった。ファイル名を変えるだけならば、数十秒の時間で充分だが、画像ファイル名の書き換え、リンク切れの検査、HTML文法ミスの修正などでえらい暇がかかってしまった。なにせ、これらは全て自動でできないから、目視検査と手修正だ。

ついでにというか、12月から多事毒論のフレーム化も行うことにした。フレームを使うのは本意ではないのだが、濫用しなければ便利な機能かもしれないので、必要最小限で使用することにした。多事毒論の最新記事のURLは毎月変わるため、ここに直接ブックマークしている人から、ブックマークの修正が面倒だという意見があったのだ。実は以前、remark.html というファイルに最新の記事を書いてゆき、月末に remark_[年月].html に書き換えるという方式を採っていたのだが、ファイル名が変わるので気に入らない。そのため、かなり前に中止し現在の方式に至ったのだ。

それを敢えて復活させる気はしない。すると、変わらないURLでインデックスを保ちながら、必ず最新記事を表示させる方法としては、フレームがいいかなという結論に至った次第である。賛否両論はあろうが、記事部分と古い記事へのリンク部分を分割するのだ。副次的に古い記事の一覧性も良くなるし、わたしの管理も楽になるし、メリットは色々とあると思うのだが...初めて使うフレームだからどうも浮いて見えてしまう。



嫉妬
1999年11月28日(日曜日) はれ

最近、ワイドショーを騒がしている事件といえば、文京区の幼稚園児殺害事件だろう。お受験に失敗した子の親が、合格した子を妬んで殺しちゃったとか。端から見れば、そんな下らない幻想、つまり名門幼稚園に我が子を合格させるという実体のない価値に捕らわれて殺人にまで至ってしまう様は滑稽と言わざるを得ないが、それに近い意気込みを持った親御さん達は多く見てきた。表向きは丁寧だが、強烈な競争心がピリピリと伝わってくる微妙な言葉尻を含んだ会話を聞いていると、やや戦慄するものがある。

お受験の主役は子であるはずだが、子からしてみれば、別にどうだって良いらしい。高校受験ぐらいになれば本人の意思も関係するが、小学校に上がる前の子だから当然の事だ。従って、受験は親の戦いである。他にもやることもある気もするのだが、受験の魅力に取り憑かれた親の眼中には我が子しかない。一体、何に突き動かされると、そこまで燃えることができるのか、理解し難いものがある。あるいは論理的な説明は不可能といっても良い、恋愛みたいなものだろうか。唯一無二の眼中にある存在は、理由もなく不憫。そして真横には、幸せを掴んだ者。嫉妬、そして殺害。恋の縺れと重なるか?

動機はともあれ、三流のサスペンスドラマ的と大差のないこの事件は、文部大臣がコメントを述べるなど、どうも「お受験」に責任が転嫁されている気がしてならない。確かに、受験というシステムには問題があるかも知れないし、それに付随する問題も色々とあるのだろう。しかし、どっかの主婦が妬み故に起こした程度の安っぽい殺人事件と関連させて論じるべきことではないだろう。殺人事件が起きたからといって、お受験の存在が悪いとするのは本末転倒である。

例えば銀行は、銀行強盗という銀行が存在しなければ発生し得ない犯罪を可能とする要因であるが、それを理由に銀行の存在そのものが悪いする人はいないだろう。銀行には大金が現金であって、確かに強盗を助長する存在かも知れない。だが、強盗が悪いというならば、悪いのは強盗犯であり、銀行ではない。銀行だけでなく、特定のシステムが原因となって発生する問題も同じである。殺人が悪いというならば、動機はともあれ、悪いのは殺人をする人だ。

そこのところを忘れて、やれ「お受験」がどうのこうのと論じるメディアは、根本的な問題の取り違えをしていると言わざるを得ない。何はともあれ、最も不憫なのは、大人達の薄汚い闘争に巻き込まれている子供達だろう。我が子を思って為される数々の親の行為が、実は最大のありがた迷惑かもしれない。みんな、良かれと思ってやっているから、そんなことには気付きすらしないだろうが。



多事毒論 Y2K対応
1999年11月27日(土曜日) はれ

多事毒論のファイル名に含まれる西暦部分が2桁であるため、2000年になると見栄えが悪くなるという問題がある。重大な不具合ではないが、例えば2000年1月号が remark_0001.html というファイル名になると、管理上少々面倒くさいこともある。ファイル名でソートすると、remark_0001.html は remark_9912.html よりも上に来てしまうことになったりして、わたしとしては非常に嫌なのだ。

というわけで、1999年12月分より過去の分も含めてファイル名の西暦部分を4桁に変更することにした。しかし、ファイル名を変更すると従来のファイル名ではアクセスできなくなってしまうので、この問題を解決しなければならない。その解決策として、どちらのファイル名でもアクセスできるようにする手もあるが、それではいつまで経っても移行したことにはならないし、同じ文章に対して2つ以上のURLが存在するのも、如何せん気に入らない。結局、古いファイル名にアクセスしてきた場合は、明示的に「移動しました」お知らせを出すことにした。

事のついでに、時々記事に含めている画像ファイルも整理することにした。以前は、画像を使うとき、画像の内容より適当なファイル名を決めていた。ところが、もはやどの画像をどこで使っているのか、判別できなくなっている。最近は 1999112701.jpg という感じの日付+シリアル番号でファイル名を決めているので、そう言う問題もない。過去に使った画像も、全てこの方式に変えるのだ。まあ、画像に直リンクを張っている人は希だろうから、これは無断でやることにする。

まだまだ、問題がある。ファイル名を変えてしまうと、HTML内のリンクも全て変えなければならないのだ。HTML内の画像、リンクなどを全て調べてゆき、必要があれば手作業で書き換える作業である。面倒くさいこと、面倒くさいこと。



SPARC station 4
1999年11月26日(金曜日) はれ

SUNもう誰に何と罵られようが、構うもんかっ。

そんな心構えで我が家に持って帰ったきたのは、SPARC station 4 である。憧れのワークステーションと喜ぶべきなのだろうが、はっきり言って遅いし、メモリは少ないし、いまの水準なら適当に組んだ互換機に FreeBSD でも突っ込んで使った方が余程まともなパフォマンスが得られるというものだろう。それこそ今更って感じなのだが、しかし、腐っても Sun。相変わらず白色と藍色の甲冑を纏った紺色のお日様が、ひときわ明るい光芒を放つのである。

無線機と DirecTV チューナに続き、ワークステーションと来ると、最近の Webmaster はまるで物欲大魔王と化しているように見えてしまいかねない。だが、そう見えるだけだ。激安月給会社員が自由に使える金の額を考えれば、物欲大魔王になり得ないことは明白であり、要するに物欲大魔王ではなく、質素倹約大魔王なのである。このワークステーションも、とある方のご厚意によりロハで手に入れたものだ。多謝。

さてさて、こいつに Solaris 7 を突っ込むのだ。Free Solaris を手に入れたことは、こちらで簡単に触れたが、せっかくの Solaris なのだから、x86 版よりも SPARC 版を使ってみたいところなのだ。というわけで、現在インストール中なのだが...えらい時間がかかっているのでまだ終わらない。朝までかかりそうなペースで進行中。これで立ち上がらなかったら、怒るぞ。



DirecTV
1999年11月25日(木曜日) はれ

アンテナ8月16日にSkyPerfectTVなんて話を書いたが、今度はDirecTVである。格安15,000円でチューナーが買えるという。しかも、15,000円のキャッシュバックがあるそうだ。てことは、タダじゃねえか。タダより安いものはないということで、早速申し込み、そして今日ブツが送られてきた。会社から帰ってアンテナ工事を行う。工事自体は難しくないが、問題は取り付ける場所だ。結局、強引にベランダの手すりに取り付けて、ご覧の通り。

SkyPerfecTVと比べ、アンテナの方位調整が非常に簡単だった。少しでも狂うと受信不可能に陥るシビアなSkyPerfectTVとは違い、適当にそれらしい方面に向けて仮止めし、調整のために受信機を接続しただけで写ってしまう。しかも、調整すればするほど受信レベルが悪化する。ということは、仮止め一発目で最適な位置を当ててしまったということか。作業が終わって改めて眺めると、衛星通信基地になりつつあることに気付く。ベランダもさることながら、ラックの空き部屋もチューナーで売り切れだ。

さてさて、無料視聴が見られるようになったのでチャンネルを漁ってみる。画質は、圧縮ノイズが少ない分、SkyPerfecTVよりも良いようだ。さてさて、放送内容は皆様の想像にお任せするが、お約束として取り敢えず270チャンネルを拝むことにした。しかし、初っ端からEVAの25話と26話が空から降ってくるという極めて濃ゆい歓迎を受けることになるとは、思いもしなかったことである。あの訳の分からないEVAブームが到来したのは、いつのことか。いまさら見ると何だか懐かしい感じがする。

地上波で放送された日から、このぐらいの時間を空けて25話と26話だけを見てみると、何だか妙な感じがする。地上波で見たときは「なんちゅうーエンディングやねん」とツッコミを入れた多数の一人であったが、いまこういう形で見ると見るとそういう感じはせず、「なるほど」と素直に納得できる不思議なものがある。最終話からのみでも、シンジの「心の叫び」から彼の心境はある程度察することができ、従って「それでも僕はここにいても良いんだ」という結論にも不自然さは感じない。

しかし。だとすれば尚更、1話〜24話は、使徒は、それこそEVAは、結局何だったのだろうという疑問が深くなる。「自分は嫌い、世の中も嫌い、きっとみんなも僕のことを嫌ってる」だからといって「逃げちゃ駄目」それより「逃げないで少し前向きになってみろ」そうすれば「僕はここにいても良いんだ」ということになるんじゃないの。というような結論を導くため*だけ*の舞台として見るならば、「あれは要するに、謎と戯言で装飾された罠だった」とも思う。いまさら論じるべきことでは無いが。



意味不明
1999年11月24日(水曜日) あめ

「絶対、運命、黙〜示録っ」と聞いて、心当たりのある人にだけ分かるネタ。何を言っているのか分からない曲は多数存在するが、「言語不明瞭意味明瞭」が大半だ。例えば、宇多田ヒカルの曲などは、初めて聞いた時は外国語だと思った。しかし、じっくり聞いてみると日本語の歌詞だったりするのは、言葉として余りに不明瞭だからと言えるだろう。でも、はっきりと分かりやすい発音であるにも関わらず、歌詞の意味が全く分からない「言語明瞭意味不明」な歌はどうだろう。

まあ、言うまでもなくマトモに聞き取れないという事態に陥る。ウテナ様の絶対運命黙示録で、何と歌っているか解読できる人がいたら尊敬に値する。余りたくさん引用すると不味いので、どことは言わない一部だけだが...わたしの耳には「闇の砂漠にサンダル履き 金のブレーキの双眼鏡」とも聞こえる歌詞。実は、「闇の砂漠に爍場宇葉 金のメッキの桃源郷」だったりする。知っている言葉で穴埋めをしようと試みるから、こうなるのだろう。ボキャ貧な人ほど、面白い解読をしそうである。

それはそうと、壊れた不明用語辞典のような歌詞を書く頭脳には、やや戦慄するものがある。人間の思考というものが原則として連想の繰り返しであるとすれば、いきなり突拍子も無い言葉が浮かぶことは、ある意味(良くも悪くも)異常な思考なのかも知れない。それに類似するものがある歌詞を書く、J. A. シーザーさんって何者なんだろう。結局、大方の人にとっては、今日のネタこそが意味不明の最たるものだったかも知れない。



開局か?
1999年11月23日(火曜日) くもり

VX-1「後悔先に立たず」というが、その通りかもしれない。いつもなら制止係であるはずの同行者も、今日は裏切者となって買えと煽るわ、煽るわ。その結果、手にしたのが八重洲無線の VX-1 である。リグなんか買って、一体何をするつもりなのか良く分からないが、休眠中の従事者免許(写真が若い)もたまには使ってやらないと寂しがっていることだろう。そう言えば、職場では何故か開局が密かなブームなのだ。わたしが開局すれば、恐ろしいことに社員が全員...

八重洲のVX-1は、コンパクトで良い。本体だけなら、タバコの箱よりも一回り小さい程度の筐体だが、電圧オーバー気味の外部電源を繋げば、144/430MHzのデュアルバンドで1ワットほど出ることになっている。受信は、J付きでは聞けないヤバイところも含めて、カバーしちゃってるようだ。こんな調子だから、そもそもJマークに何の意味があるのかも分からない。申し訳程度にAM/FMラジオも聞けるが、使うことがあるとすれば、そろそろ来ると言われている関東大震災に見回れたときだろう。

まだ局免を貰っていないので電波は出していないが、受信機として使ってみた限り、どうも感度が悪い感じがする。オマケのバンドはともかく、付属のホイップアンテナを使っての144MHzバンドを聞いてみたところ、手持ちの広帯域受信機(ユピテル MVT-7100 にロッドアンテナ装着)より弱い気がするのだ。そんな筈はないと思って、例にアンテナをロッドに交換してみたら改善した。ちゃんと調べた訳ではないので断言は出来ないが、付属のホイップは、あんまり宜しくないのかも知れない。

まあ何であれ、取り敢えずコールサインを貰わなければ。



神奈川県警
1999年11月22日(月曜日) はれ

ヒマなようでそうでも無いような、あるいはその実ヒマかも知れないマスコミにしてみれば、あれやこれやと微笑ましい話題を尽きることなく提供してくれる某K県警は、良いカモ...いや、むしろ神奈川県警様々というところかも知れない。わたし自身、神奈川県民なので関係がありそうだが、直接世話に世話になったことも無いから、殆ど関係ないか。おっと、24時間体制を敷いて我ら県民の財産を命がけで守ってくれている(と想像される)のだから、関係ないと断言するわけにも行くまい。

建前上は「潔白」「実直」「健全」の三拍子が揃っていることになっていて、実のところ誰もが暗にそれを否定しているような、お堅い権力組織。確たる証拠が無ければ口には出さないが、ひとたびボロが出れば堕落の一途。糾弾され、醜態を晒す組織に対する「やっぱりね」と「ざまご覧下さい」を足して二で割った感じの納得は、我々下賤な庶民にとっては、早い話が蜜の味なのかも知れない。しかも相手が、「お堅いところ」の金字塔と言える警察ともなれば、尚更のことだ。

であればこそ、警察内部におけるリンチに覚醒剤使用、加えて事件揉み消しに有印虚偽公文書作成といった隠蔽された魅惑の事件が表沙汰となれば、いつでも新聞紙面上を賑わして良いはずである。取り締まる立場であるからこそ可能となる事件の隠蔽は、恐らくだが、全国各地の警察組織で行われていることであり、むしろ行われいて然るべきだと思う。従って、神奈川県警だけが特殊で、ここだけが悪い子ちゃんをやっているわけでないと考えるのが妥当ではないだろうか。

なのに、何故か出てくるのは、決まって神奈川県警で、他の警察の話は耳にしない。その理由を考えると...ここの内部には、何かドロドロとした暗いものがあるとは言えないだろうか。取り締まりと揉み消しを同時に行える組織から、各種「不正」の情報が漏洩しうる穴があるとすれば、内部告発が可能性として高そうだ。組織に所属し、そして組織に忠実な者ばかりなら、そんなことは起きないだろう。だが、謀叛分子がいるとすればどうか。その推測が正しいとすれば、謀叛の原因は、果たして何であろう。

例えば、上層部が凄い嫌われているとか、労働環境が耐え難いほど悪いとか、本部長の足が臭くて空気汚染の原因になっているとか。こうも立て続けに次々と、普通の監査や告発などでは顕わにならなかったであろう事件が明るみに出る背後には、何かがあると考えたくもなるものだが。それとも、単なる邪推か。



キーボード
1999年11月21日(日曜日) はれ

キーボードのオーバーホールを行う。埃だけでなく、その他もろもろの正体不明の汚れが堆積し、余りに汚かったので以前からやろうと思っていたことではある。しかし、キートップを全て外し、分解して掃除するのは、かなり面倒くさい。バラすだけなら良いが、キーとキーの隙間を丁寧に清掃することを考えただえけで、気分が沈む。でも、そろそろ放っておけないと醜態を正すべく、重い腰を上げて実行に。

そんなことは良いとして、このキーボードもそろそろ寿命かも知れない。一部のキーは死にかけていて、普通に押しても文字が出ない。それではと、少し強めに押すとチャタリングが激しいのか3つぐらい同じ文字が現れたりして、思った通りに使えないキーボードはフラストレーションの根元である。わたしは、かなり酷使する方なので、キーボードは消耗品みたいなもの。それにしては、いま使っているものは、長持ちしている方か。

新しいキーボードを買おうにも、最近は造りの悪いキーボードが氾濫していて困る。メカニカルキーが好きになってしまったので、次買うとすればメカニカルキーでなければ嫌なのだが、余り売っているのを見掛けない。あったたとしても、やたらと高価で手が出ないのだ。かといって、安っぽい消しゴム接点のキーボードだと、キーがベコベコで打ち心地が良いとは言い難い。キーボードは、パソコンの普及とともに品質が悪くなっていると思うのはわたしだけだろうか。



やっぱり引っ越し?
1999年11月20日(土曜日) はれ

昨日は、何となく引っ越す話を書いたりしたが、少し真面目に考えてみても良いかも知れない。なにせ、いまの住居は横浜のど真ん中。それゆえ家賃も高めだし、夜もあまり静かではない。それなら、郊外のもう少し閑静なところに引っ越してみるのも悪くはないのだが、それにかかる金(家賃半年分ぐらい)を考えると厳しいものがあるし、会社から遠くなるのも嬉しくない。ここより会社から近い住居など、あり得ないぐらい近いから、いまさら通勤に時間を掛ける気はしない。

従って、いくら職場から離れるとしても電車で駅3つ程度が我慢の限度である。ここから駅3つといえば、根岸線の山手駅。その辺に住んでいたことがあるという会社の同僚によれば、山手駅周辺は比較的閑静な住宅街になっていて、環境は悪くないという。まだ野望に過ぎないが、ついでに手の届く値段で車庫が確保できれば、なお嬉しい。というわけで、午後から現地を下見に行く。普通の住宅街で、コンクリートマンションよりも、2階建てぐらいの、木造の安アパートが豊富にある。

周辺をブラブラと散歩した(といっても、アップダウンの激しいところを何キロも歩いたわけだが)あと、不動産屋に寄って少し話を聞いてみる。それなりに良い物件が一つあったので見に行ってみるのだ。木造アパートと聞いていたので、6畳+4畳半程度の和室があるのだろうと想像していたら、そうではなかった。割と新しいところで、中は全てフロアリングの洋室。いわゆる、ワンルームマンションを、鉄階段のあるような2階建ての木造アパートにはめ込んだような感じであった。

そういうところなら問題は無いのだが...難点は、狭いこと。物が多いため、6畳では間に合わないかも知れない。PCやら何やらを全て突っ込んで、まだ寝る場所を確保するとなると、それなりに広さが無ければ無理だろう。まあ、急ぎの話ではないから、どうするかゆっくり決めることにする。



駐車場
1999年11月19日(金曜日) はれ

実を言うと、多事毒論は必ずしも日々のネタを当日に書いている訳ではなかったりする。ネタが比較的豊富にあるときは書き貯めておき、小出ししてゆくのだが...とうとう、そのストックも底を突いてしまった本日。本格的にネタが無かったりするからといって、会社でアイスクリームが密かなブームとなっていることを書いても、誰の役にも立たないし。ついでだから書くが、何故か寒くなってから会社でアイスクリームが大流行している。夏場に流行るのならともかく、不思議なことだ。

折角、運転免許を取得したのだから自動車を買おうかと考えてみたりする。財布の中で眠らせておくだけの身分証明書としては、高価すぎる代物だ。しかし、この国(とりわけ都市部)で車を維持するには莫大なカネがかかる。車自体は、中古車なら買える金額だが、保険やら税金といった維持費は馬鹿にならない。でも、やりくりを考えれば、貧乏なわたしでも何とかなるかも知れない。取り敢えず、保管場所からということで、近所の月極駐車場で値段を聞いてみるのだ。

「月極いくらですか」「4万」 よ、よんまん? どう考えても、月4万なんて金は出てこない。一発目でこれだから、お先は真っ暗だ。しかも、この駐車場が特に高い訳ではなく、相場的にそんなものらしい。残された道は、怪しげな商売を始めるか、もっと安い郊外へ引っ越すことぐらいしか思い当たらないが、いずれにしても現実的ではない。やるとすれば後者だろうが、敷金やら礼金やら引っ越し代やら考えただけで破産だ。少しでも、馬鹿な陰謀を膨らませたわたしがいけなかったらしい。



遺伝子組み替え作物
1999年11月18日(木曜日) はれ

昨日は、「買ってはいけない」について書いたが、食品の安全性とは何だろう。添加物の類は以前から問題となっているが、最近では遺伝子組み替え作物も槍玉に挙がっている。そういった批判の多くは、現実的なデータがどうのこうのというよりは、根拠の無い嫌悪感から、ヒステリックなアプローチで述べられているものだから、見ていて余り気持ちが良くない。無根拠さを覆い隠すためであれ、何らかの「見栄え上の科学的根拠」が与えられていれば、まだ美しいが...もはや宗教の世界かも知れない。

納豆や豆腐に使う大豆が主な問題だと思っていたら、飼料や薬品の材料として使うトウモロコシなども、遺伝子組み替え品を使っているとクレームの対象となるそうだ。遺伝子組み替えトウモロコシを食わせて育てた鶏の卵は、何やら危険らしい。また、味の素は、トウモロコシから得た澱粉を発酵させて製造されているが、この原料となるトウモロコシが遺伝子組み替え品であると、良く分からないが危険らしい。最終的に得られるものは、ほぼ純粋なグルタミン酸ナトリウムであるにも関わらず、だ。

しかし、いままで明確に「悪い」とする根拠を耳にしたことがないのは、わたしの寡聞が原因なのだろうか。何が悪いのかある程度はっきりとして貰えれば、まだ納得も得られるだろうが、「○○を食わせたラットがどうなったという研究報告もある」とか「長期摂取した場合、不安がある」という感じの曖昧な話が多く、曖昧さ故に感じる不安の延長線上に根拠の薄い「悪い」があり、それがまた不安感を煽っているという悪循環構図があるように思う。

また、「遺伝子組み替え」という言葉自体にも、嫌悪感があると思う。遺伝子組み替えと言わず、「品種改良」と言えば聞こえが良い。農作物の品種改良は古くから行われていることだが、遺伝子組み替えもアプローチの違いこそあれ、本質的には同じ事である。遺伝子組み替えの危険性を論じるなら、伝統的な品種改良で変な作物を作った場合の危険性も論じるべきであると思うが、そのような話は聞かない。どうも、「遺伝子をいぢる」という部分に「変な生物を大量生産とは、怪しからんにも程がある」という印象があるのかも知れない。

デメリットの無いものは存在しないが、一方で、百害合って一利無しというものも、なかなか無い。遺伝子組み替えの結果、多少の問題があったとしても、同時にどういうメリットがあり得るのかも考慮しなければならないと、わたしは思う(もちろん、その問題が許容限度内に収まっている場合の話だが)。生産効率が上がるというのは商業主義的すぎるが、免疫力が向上した結果、農薬使用量が軽減され、むしろ健康的な生産方法が現実となる可能性も大いにある。農薬べっとりか、無農薬の遺伝子組み替えのどちらかを選べと言われれば、わたしなら後者にするだろう。



買ってはいけない、らしい
1999年11月17日(水曜日) はれ

最近、書店の棚で「買ってはいけない」vs「『買ってはいけない』は買ってはいけない」のデスマッチが繰り広げられているようである。最初は何の議論なのかも分からなかったので、興味本位で立ち読みしてみるのだ。ページを捲ってみると...ほうほう、食品添加物の話だったらしい。わたしが見た限りにおいては、極めて下らない様子だったので詳しくは見ていないが、いつの時代になっても、この手の宗教的なほどに食品の危険性を主張する本は無くならないものだ。懲りないというか、何というか。

実在する食品の商品名や製造者名を忌憚無く挙げ、あれやこれやとその危険性を主張した挙げ句、身も蓋も無く「買ってはいけない」と断言する手法は、プレゼンテーション力で評価するならば、新鮮に見える。それでいて真っ当な事が書いてあれば名著なのだが、かなりの割合で食品添加物ネタは迷著となっているから、名著は名著のままでいられるのであろう。悪として紹介されている食品は、普通の人が普通に食って、それでいて人間は普通に生きているのである。にも関わらず、「買ってはいけない」と断言できるあたり、様々なことを本格的に見誤っているに違いない。

あらゆる食品添加物が危険と主張している一般向けの書籍における傾向は、大概決まっていると思う。実験結果やデータを過大評価したり、ある物質の危険と考えられる一面的な特徴のみを取り上げ、それが全てであるかのような書き方をすることは、もはや常套手段である。一見、科学的に正しい感じはするのだが、それに何の意味も無い。意味があるならば、「人間の細胞に食塩を与えたところ、食塩の毒性により死滅→ゆえに、食塩を含む食品は買ってはいけない」という話も、また正論である。こんな調子の情報操作は、昔から存在しているのだろうが、いつまでも無くならない。

少なくとも、この手は技術屋の発想ではない。誤解を招きかねない表現だが、いわゆる主婦の発想とでも言うべきか。つまり、みのもんたを信仰して、アレが良いだのコレが良いと馬鹿騒ぎしているのと同じような、ある事柄の一面のみを誇大に鑑み判断しているという点では、極めて近いものがあると思う。猫の爪を拡大した写真を見て、猫は鋭い爪を持った獰猛で危険な動物であるから、ペットに向かないというようなもの。確かに猫は引っ掻くこともあるので間違いではないが、その事実を差し引いても、猫が愛らしいと言うに足る愛嬌は、依然としてある。



運転免許証を貰いに
1999年11月16日(火曜日) くもり/あめ

自動車教習所の課程を全て修了したことは13日の多毒に書いた通りだが、最後に試験所で執り行われる学科試験に合格しなければ、免許証を貰うことはできない。下らない文章の文意について正誤を決め、何故か白色ではなく淡い駱駝色の用紙に印刷されたマスを鉛筆で汚してゆく単調な作業は、試験とは名ばかりで免許証交付前の通過儀礼とでも呼ぶべきだろうか。受験というよりも、免許証を受け取りに行くという気構えで、いざ二俣川の運転免許試験場へと重たい足を運ぶ。

試験場は平日のみ営業であるため、今日は有給休暇だ。真夜中6時に目を覚まし、家を出たのは夜明けすらまだ遠い午前7時。夢の続きを引きずりながら二俣川の駅で電車を降りるや否や、裏講習屋の熱烈な歓迎を受ける。早朝から御苦労なことだが、彼らを儲けさせる必要などない。同じ目的地を目指していると思しき人の流れを頼りに二俣川銀座とかいう余りプライドを感じさせない名称の商店街を抜け、坂道を上ると視野に飛び込む光景は、だだっ広い試験コースと、行き届いた手入れを感じさせる分離帯を兼ねた庭。

だが技能試験は免除だから、美しいコースとも無縁である。現着は午前7時40分、もう印紙売場には長蛇の列ができている。これを見越して印紙は事前に準備しておいたので、まだ比較的空いている整理券発給窓口へ直行。別の窓口で試験を申し込むと同時に視力検査を行い、そしてホールで待機すること1時間。手続きをスムーズに進めすぎたことが裏目に出たのか、待ち時間がやたらと長くなってしまった。尤も、人混みの中でチンタラと列に並んでいるよりは、百億万倍幸せなので良しとしよう。

その後、如何にもやる気の無さそうなオバハンに試験室まで誘導されて試験を開始したのが午前9時。意地の悪い引っかけにさえ注意すれば、何て事はない問題ばかりだ。試験所での一発合格を目指す者ならともかく、教習所で真面目に学科教習を聞きて、一般常識を活用すれば、概ねは大丈夫であろう。結果発表は、電光表示板に受験番号が表示されれば合格である。時刻は10時半、自分の番号が表示されたことを確認し、次の集合場所へと移動する。何だか、人数がかなり減っている。

ここで、そこそこまともな交通安全に関する話を聞かされる。だが、その次に出てくる品性の無いオバハンの演説こそが、本日最も時間を無駄にされたところであった。言うまでもなく交通安全協会の人間だが、協会の活動内容やら特典やら、実もない話を延々と聴かされ、無意識から本能的に沸き上がってくる殺意を少しでも抑圧すべく、窓の外を眺めていた次第。しかし半強制加入的な調子ではなく、任意の加入にご協力をと明言していたのは、まだ親切な方か。わたしも含め、半数以上の人は加入していなかった。

その後、デジカメのトノサマみたいな機械で写真を撮影したのが、11時20分。免許証の交付は、13時半過ぎであった。もう少し遅くなると予想していたのだが、事務が意外と迅速だったお陰で、ほっとする。夕方まで時間を潰せとか言われたら、途方に暮れるしかない。ところで、「免許証には振り仮名がないので読み間違えたら失礼」と、予め断りつつ、氏名を読み上げていた免許証交付窓口での出来事。わたしのフルネームを、疑問文になりながらも正しく読んでくれたのは少し嬉しかった。滅多に無い経験だ。



コンソール切り替え器
1999年11月15日(月曜日) くもり/あめ

自宅では、Windows NT が動いているマシンと、FreeBSD が動いているマシンを使い分けているため、モニタとキーボード、それにマウスが、それぞれ1つずつ机の上に並んでいる。しかし、これでは邪魔な上に身体を移動しないと行けないので面倒臭い、というわけでコンソール切り替え器が欲しくなった。モニタは勿論のこと、キーボードもマウスもホット切り替えできるのが魅力であるのだが...値段が、如何せん高いというのが問題である。モニタをもう一台買うことを考えれば安いのだが。

というわけで、アキバの数ある店でも特にこういうものの品揃えが良さそうな、ツクモへ行ってみる。何種類かあり、しかも値段の幅も広くて少し悩む。余り高いのは買えないが、かといって安物買いの銭失いになるのも嫌だ。なにせ、下手に切り替え器を途中に噛ますと動作に問題が出かねない。キーボードやマウスは、本来は活線挿抜できないものだから、切り替え器がダミーとして、PC側から見れば何事もなかったかのように振る舞わなければならない。また、モニタの切り替えに関しても、高解像度では画質に影響がありそうだ。

店員を捕まえて聞いてみると、性能的には、どれも大して余り変わらないとのこと。モニタの画質は、必ず悪くなるという。変化が目立たないのは1024x768程度まで、それ以上は滲みが激しくなるようだが、それぐらいなら許すことにする。キーボードとかマウスに関しては、これといった不具合はないらしいが、家で使っているロジテックのホイールマウスが動くかどうかは、未確認とのこと。仕方がない、取り敢えず箱にロジテックのマウスが動くと歌われているものがあったので、これを買うことにする。

ATENというメーカーの、2 Port MASTER VIEW (CS-12c) とかいう輸入品が、15,800円。2万円+ケーブル代ぐらいの出費を予想していたので、ケーブル付きでこの値段なら、予算内である。こいつは、2台のPCで1セットのコンソールを共用するための、2ポート版の製品だ。1万円アップぐらいで4ポート版も目に入ったため少し欲しくなったが、高かったので我慢、がまん。こいつはPS/2用の製品。他のメーカーでは、USB用も見かけたが、値段が倍ぐらい高い。

家に帰って使ってみると、概ね問題はない。少し気になるのは、モニタの滲みである。使用に耐えないわけではないが、ツクモの店員が言うとおり、1024x768ドットでやや滲むようになる。切り替え器のスイッチ帯域が足りないためなのか、ケーブルの品質が悪いためなのかは分からないが、取り敢えず目を瞑ることにする。もう一つの懸念材料だった、ロジテックのホイールマウスは、問題なく使えた。PS/2なマウスだから、普通のマウスと大きく違わないと思うのだが、内部でプロトコルをやっていそうだから、心配だった次第。

大きさは、タバコの箱を横に2つ並べた程度だ。小さいことは良いことなのだが、太いケーブルをブスブスと挿してあるので、安定して置くことは不可能。不本意ながら、その辺にぶら下げてある。



メシメシ
1999年11月14日(日曜日) はれ

友人に、渋谷の駅から少し離れたところ(神南)にある T.G.I. Friday's というレストランへ連れられた。リンク先のサイトからも分かるとおり、主にアメリカで大きく展開しているチェーン店であるが、日本にも出店していたのだ。ほう、流石は東京..と、今更ながら田舎から出てきて間もない人間のような垢抜けのしないセンスで入っていったのだが、暫く米国に住んでいたことがあるので、懐かしさもあった気がする。よく考えてみれば、久しくこういう感じの店には入っていない。

その友人は、胃袋が四次元構造になっているのではないかと思わせる程の大食い。わたしも、まあ華奢と言われる体格にしては結構食う方なので、ウエイトレスのお姉さんが戦慄しそうな量の注文をする。暫くして、並べられた料理のボリュームを認識するや否や、自分も戦慄しかけていることに気付く。本家が米国にあることが原因なのか、日本の感覚からすれば、概して量は多め。尤も、本国で同じ注文をすればもっと恐ろしいことになると予想されるので、それでもまだ少な目であると見る感覚も、世の中には存在しているのだろうが。

だが、ビビっていても事の解決には至らない。ハイエナの如く制覇を開始し、なんだかんだと言いながら、見れば概ね全ての料理が平らげられているから、我ながら大したものだと感心する。日本人がアメリカに行って初めて入るレストランで、食いきれない注文をしてしまうという話は昔から後を絶えないが、頭では分かっていても感覚の違いに戸惑うことは、無理も無かろう。アペタイザーだから大丈夫と、つい白木屋なんかでアテを注文する勢いで頼んでしまっては、それだけでお腹一杯。メインディッシュは、一体どこへ入れるのだろう。



卒業検定
1999年11月13日(土曜日) はれ

教習所の課程を全て修了したので、卒業検定を受けに行く。時間厳守で午前8時20分集合ということは、7時半に家を出なければならないことであるから、草木も眠る午前6時に起床するという、斯くも素晴らしいイベントから始まる長い一日となった。6時という時刻は、遅寝遅起を確実に実践しているわたしの基準からすれば、真夜中と大差が無いのである。まあそんなことはどうでも良いとして、いつまでも眠気が残留する脳味噌を抱えて、いざ教習所へ。早起きした日はロクなことがないのであるが...

...その予想は、しなくても良いのに的中する。4人ほどいた検定員の中から当たったのが、最も感じ悪そうな、いや実際に、人間が持つ能力の限界から考えれば、これ以上は実現不可能であると断言して差し支えのない完全無欠の感じ悪ぅぅい検定員。根は悪い人ではないと頭では分かっていても、天上天下唯我独尊を主張せんばかりの罵詈雑言を電光石火の勢いで真横から吐かれれば、温厚なわたしの忍耐もどこまで保てるか分からない。検定というよりは、我慢大会である。

運転中は他の事に意識が向いているから上の空で交わせるとしても、同乗していたもう一人の方が運転している時まで、罵声が止むことは無かったから、もう大変だ。まともなツラで車を降りられなくして差し上げたい衝動を抑えながら「そ、そうですね..はっはははっははぁ」と苦笑で対応。結局、我慢大会は勝ち抜いてモメ事には至らなかったが。もう一言ぐらい多かったら、本当に「黙って聞いてりゃ、好き放題ぬかしやがって」って、なっていた気がする。

結果は、当然ながら合格(検定中止事項をやらない限り、まず落ちない)の、75点。不思議なのは、点数だ。偶然なのか意図されたものなのか、その検定員で合格した人間は、全員75点。真面目に採点していれば、3人の運転が全て同じ点数になるとは考えにくいのだが、しかし、完全一致の75点。そこそこ普通に運転できているから、検定中は嫌味爆裂のお時間にして、キリの良いところで25点引いて、はいお疲れさん、というやる気の無さが、じわーと染み出ている点数である。

だが、まだ終ったわけではない。二俣川の試験場が、悪魔の微笑みを浮かべて、学科試験の受験を待っている。



カリスマ (2)
1999年11月12日(金曜日) あめ/くもり

そうした過程で、本人の意図や意識とはほぼ無関係に、他者より「カリスマ性」を見いだされた人間は確かに存在する。意図や意識、それは例えば、自分の仕事は一定の評価を得ているのだから、人間としての自分も特別な扱いを受けて然るべきだという考える場合もあれば、そういったことに対し無関心である場合もあるだろうし、むしろ拒絶する態度を取る場合もあり得るだろう。しかし、どういう反応を示すかは、その人次第である。こればかりは、当人に確認してみなければ真意は分からない。

それを間接以上直接以下の程度に確認する手段として、Web ページが挙げられる。最近は、そこそこ名の知れた人間が自ら Web ページを作っていることもあるし、ファンが公認サイトとして開設し、その掲示板に本人が登場していると形態もある。事務所などが営利目的で作ったような、美化されきったサイトには見ることのない「素顔」に比較的近いものも、個人ベースで運営しているサイトからは垣間見えてくる。そして、カリスマに対する本人の応答もまた、そのようなサイトに隠されているではないだろうか。

やや根暗な趣味であり、本来の利用方法からは逸脱しているのだろうが、そんなところを観察する傍観者の立場も面白い。厳格、傲慢、威圧的、謙虚、あるいは何とも思っていない、などといった、一定の傾向が見えてくるものだ。個人的な見解だが、その中で大多数を占めるのは、むしろ突慳貪で、威圧感のある対応だ。それが正しいかどうかは、わたしには判断しかねるところであるが、理解できないことではない。謙虚で好意的な態度をとり続けていれば、どうなることだろうか。

そのようなサイトに敢えて足を運ぶ人間には、一方的な好意を持っている場合も少なくない。特に、「馴れ馴れしい」「言葉遣いを知らない」「お友達感覚」などの、礼儀が欠落した者は必ず居る。当人から見れば、そういう輩は鬱陶しいだけであろう。そんな人間を毎日相手にするほど、お人好しになる必要は当然ない。だからこそ、本意なのか不本意なのかはともかく、威厳が伴わなければならないという説明は、充分納得の行くものだ。(わたし自身、何度も体験していることだから)

そして神は、敢えて息づかいを感じさせない場所にいるからこそ、神でいられるというのもある。カリスマの一条件である「不鮮明な人物像」を保つためには、あまり実像を顕わにしてはならないのかも知れない。近影も、容姿に相当の自信があるのならともかく、どうしようもない醜男(女)の写真が堂々と掲載されているようでは駄目だ。理想を追求して練り上げた、折角の理想像は朽ち果て、神秘性もカリスマも薄れてしまうかも知れない(容姿だけが全てではないが、例え話として)。

逆に、大して好意を持っていない、若しくはこれからファンになろうとしている人間がそんな場面を見てしまった場合、下らないと思われるだけなら良い方で、逆に株価を下げる要因にもなりうる。もちろん、状況から見て非礼に対する糾弾などであろうことが明らかな場合は良い。だが、「Web ページを作っているそうだけど、どんな人だろう?」という程度の意識で見たとき、思わず「何を偉そうに」「何様のつもりだ」という言葉が舌先まで出てくる発言が続いていれば、恐らくその場で嫌いになるだろう。しかも、それを信念やプロ意識と、勘違いしているのか。哀れにも見える。



カリスマ (1)
1999年11月11日(木曜日) はれ

クリエイタを自称し、その道のプロである人々。彼らが持つ才能は、限定された特定の世界のみで通用する場合もあれば、幅広く通用する場合もあろう。だが、その適用範囲はどうであれ、なぜプロのクリエイタは、それを自称できる存在となり得た原因とは何であるか。それは、彼らには他者を超越する何らかの資質があると一定の集団が認め、しかもその資質が生み出す製品に対して金を払っても良いと判断したからこそであると、わたしは考える。

そして確かな評価が続く限り、生み出される製品に対して恣意的な対価を遠慮なく要求することは、必ずしも傲慢だとは思わない。こればかりは他の誰でもなく俺でなければ完成できない唯一無二の傑作であるという自負を、そのまま付加価値に転換することも正当な経済の営みであって、それが単なる傲慢か否かは、消費者の評価次第である。無論、その判断は、評価者によって分かれるところだが、例え一握りでも価値相応と判断する者がいる限り、重んじられるべきである。オタク産業は、だからこそ成り立つのだから。

同時に、そういった物質的な価値と一体に発生する観念的な価値も、多かれ少なかれ存在する。ある人間の創作物を購入するために金を出したとき、単純に品質が優れているから買ったと割り切れる場合ばかりではない。この人が出すものは取り敢えず全て揃えるというような、現品の価値とは無関係な購買理由、あるいは価値評価も一方で実在するのだ。そして言うまでもなく、このような観念的な価値は製品そのものではなく、製品の創造主に見いだされたものであり、評価の矛先をモノからヒトに向け直した結果に発生するものと言える。

作品が優れているから、恐らくこれを作っている人間も優れているだろうという、恍惚とした思惟。だが、人物の存在自体は明らかであるにも関わらず、極めて限定された範囲でしか接触の機会しか無く、背伸びをしても輪郭すら明確には見えない本来の人物像。このような条件下で、欠損した像を補うべくして勝手気儘に作り上げられた理想的な人物の虚像と、それに対する評価を合わせたものを「カリスマ」と定義したところで、力つきてしまった。続きは(多分)明日。



ものぐさ
1999年11月10日(水曜日) はれ/くもり

11月は始まったばかりだと思っていたのに、気付けば既に三分の一が過ぎ去ったことに気付くと、自然と焦燥感に駆られてしまう。やらなければならない事が山ほどあるのに、どれも予定の通りに進まない。「あー面倒くせー」などと言っているから、追いつめられてしまうことは明らかなのだが、面倒くさいものは面倒くさい。だいたい、面倒くさいの何が悪い! と逆ギレしながら開き直りつつ、小心者のわたしは、期限直前片づけることの繰り返し。ならば最初から素直にやれば良いのにね。

というわけで、邪魔くさくて部屋の掃除をサボりまくっているこの頃。普段は毎週日曜日に片づけ&掃除を行うことにしているのだが、ここのところは週末も出かけていることが多く、やっていない。几帳面で綺麗好きと言われるA型のわたしは、1週間もあれば特に意図せずとも足の踏み場を無くす自信があり、まあどちらかというと現在はそういう状況なのだが...これが意外と便利で宜しい。手の届くところに、茶葉も醤油もリモコンも電話もお菓子も文具も揃っているから、身体を動かす必要もない。

だから、まあ良いか..と、物臭な性格に拍車を掛ける悪循環に陥るのだな。



意思疎通
1999年11月9日(火曜日) はれ/くもり/あめ

SUN くっ、いつの間に刺されたかっ 俺としたことが...無念...

にしては、妙に色が薄いと思ったら、胸ポケットに挿してあった蛍光ペンのキャップが外れていたのであった。最悪。幸い、家に帰ってからお湯で洗ったみたら、すぐに落ちたので助かったが。これがボールペンとかマジックだったら、そうも行かなかっただろう。ところで、最近は消しゴムや消去ペンで消せる蛍光ペンも存在するらしい。マークしても後から消せるから豪快に使うぜ! と張り切ったは良いが、完全に消えず、青くなっていた人を知っている。何事も、過信は禁物だ。

サポートセンタへの問い合わせなど、電話を介した意思の疎通に難がある人は、少なからずいる。仕事柄、様々な方々と色んなお話をする機会があるのだが、いつも思うことは、何故そうなるのかということである。例えば「どういうタイプの人がサポータに頭痛を奢る傾向を持っているのか簡潔に述べよ」と問われると、答えに困るのだ。初心者、年寄り、どもり、と単純に割り切れるものでもなく、「年輩の初心者で言葉はどもっているが、話は凄く分かる人」も現実にいたりする。

かなり前のことだが、片言の日本語しか喋れない外国人からの問い合わせを受けたことがあった。これは長引きそうだ...と予感するも、直ぐに言語は大した問題でないことに気付かされる。片言ながら順序立てて不具合の状況を説明して頂き、わたしの指示も素直に実行してくれたから、起きていた問題は間もなく解決。意思疎通と、言語能力は別問題ということを示唆しているのだろう。それに加えて、スキルの違いも本質的な要因でないとすれば、その先にあるものは何なのか。未だに良く分からない。

一つだけはっきりとしていることは、思い込みの激しい人は概して伝えるべきことを伝えず、伝えたいことが伝わらないという傾向があるように思う。仮免許練習中な自動車を運転している最中、「そこ左ね」「え、どこですか?」「だから、そこだよ、そこ」「そこ?」なんて会話を、右端のレーンを走行中に余儀なくさせる指導員の方。「そこ」で理解できるはずだという前提は、あんた思い込みに過ぎないのだよ。と指摘しても、どうせ「『そこ』といったら『そこ』に決まってるだろ」と反論されそうで、恐ろしい。



日記
1999年11月8日(月曜日) はれ/あめ

な、なんとたった二日も続いた感想シリーズ。今朝、会社から読み直してみると素晴らしいほど感想文になっていない現実を改めて目にし、落ち込む。小中学校の頃から気付いていたことなのだが、わたしは本の感想文や日記などを書くと、毎度ロクなものにならないという傾向があるらしい。かといって、日常生活で困ることが特にあるわけでもないのだが。あっそう、そういうことがあったんだ...で、だからどうしたの? というものの見方は、変わらないらしい。

記憶を手繰り寄せると、小学校のときに夏休みの宿題として課せられた絵日記が今でも印象にある。たかが絵日記の挿し絵であるにも関わらず、極めて抽象化された宗教画を見事に描くわたしの才能は、誰もが激しい情動を覚えずにはいられないものであった。絵の才能もさることながら、文才も尋常なものではなかった。日付の記入すら見当たらない空白ページの連続が標準であったなか、数日前に書いた文を複製する際、多少の複製エラーを混入させるという新手の手法が多くの感動を呼び、弱冠7歳の若さでマンネリズム文学賞の最有力受賞候補者としてノミネートされる。

さて、その例をお見せしよう(これはマジ)。

8月○日
きょうは、しんせきのおじさんと海にいきました。とても楽しかったです。

8月△日
きょうは、おとうととゆうえんちにいきました。とても楽しかったです。

8月×日
きょうは、ちかくのレストランでごはんを食べました。とてもおいしかったです。


日記帳を検閲した親が、「もう少しほかに書くことはないのか」と叫びながら激昂の余り発狂したことは言うまでもない。それ以外に思ったこととか感じたことって、本当に無かったんだもん...感情を捏造してまで、書けるわけがない。



星界の紋章(ネタバレ多少あり)
1999年11月7日(日曜日) 小雨/くもり

近所にある大型書店の店内を、何気なく彷徨っていたときのことだ。普通の文庫本が並んでいる棚の付近に掲示するものとしては、如何せん過剰にアニメアニメしている一枚のポスターが目に留まった。光沢感の強い厚手の用紙に印刷された小柄な少女は、小生意気だが同時に気品を感じさせる表情を呈し、尖った長身の耳と巨大な眼球、そして青の直毛というベタベタの完全装備。何っ!? いま本能的にググッと感じたものは、産声を上げて以来、我が血潮に潜在するオタクという名の悲しき性ゆえか?

そのとき、わたしは心に誓った。例え如何なる障害があろうとも、邪魔は跡形無く蹴散らして彼女とボクとで熱烈な恋愛がしたい...そう、そして燃えさかる恋の炎は、その僅かな光芒ですら幾億光年彼方の銀河をも明るく照らすのだっぁ。壊れきった白昼夢から我を取り戻したときは、森岡浩之著「星界の紋章」(ハヤカワ文庫)をレジのカウンタに置いていた(注:本当は、そんな人じゃありません。え? いや、だから信じてってば...)。しかし、話の感じとしてはこの説明でも全な間違いではないかな。

遺伝子改造によって、宇宙空間で生きることを選んだアーヴという人類の派生生物。彼らは、強大な軍事力を持つ無敵のアーヴ帝国を作り上げ、有人惑星を次々と侵略し、その領土として治めていく(という説明で良いと思う)。そのアーヴにとってみれば、その長い歴史の、ほんの一ページにすらならない事務作業の如く少年ジントの住む惑星マーティンも侵略され...それから色々と複雑な経緯があって、地上を主たる住処とする者でありながら、彼はアーヴの貴族となってしまうのだ。

地上人であるジントには、宇宙空間での生活様式も、ましてや貴族としての振る舞いも、分からないことだらけ。無理も無かろう、彼にしてみれば全てが常識外れの異文化である。あらゆる事象に疑問の嵐が吹き荒れ、やることなすこと、全てがぎこちない。しかし、そんな彼の前に現れた「世話役」とでも言うべきアーヴの少女は(冒頭でわたしが恋愛をすることになった少女だが)その全てをさも当然のようにこなしてゆく。しかも、その少女は強くて格好良くて、ジントの目には全知全能の神と写ったことであろう。

突然異文化で生活することになり、価値相対主義的な考え方をするジントとは正反対に、アーヴの考え方は自文化優位主義であり、それは絶対的。そのアーヴの中でも取り分けプライド満々かつ非常に扱いにい、この少女の目から見れば「いったい何だ、この常識知らずは?」と見えたに違いない。しかし、両者の分かりやすい関係は、長く続くことは無かった。突如、ある事情により、ジントと少女の立場がほぼ完全に逆転することになる。今度は、ジントが少女の「世話役」とも言える存在になってしまう。

さてさて、運命の悪戯か不可抗力的な互助的関係を迫られた、少年と少女。次から次へに展開する事件から得られた体験から、それぞれが独自の異質性を持ち合わせた、一見相容れぬ二人は何を学ぶのか? 徐々にだが不思議な関係を作り上げる過程には、多くの緊張と、そして目を見張る面白さがある。分類としてはスペースオペラで、実は余り深く気にして読んだ訳ではないので何とも言えないのだが、設定や物理学的な理論もしっかりとしていると思う。だが、こう言っては失礼だが、全ては二人の摩訶不思議な人間関係を描くために作られた装置として割り切っても構わないと思った作品であった。



小娘オーバードライブ(ネタバレ多少あり)
1999年11月6日(土曜日) はれ/くもり

掲示板で、ある方に勧められて笹本祐一の「小娘オーバードライブ」(角川スニーカー文庫)という小説を読んだ。わたしの感想を聞きたいというから、是非ともと読んでから既に一ヶ月以上も経過しているも関わらず、感想を書くのだ。もっと早い時期に書きたかったのだが、本の感想となると普段の暴言ほど適当に書くわけにもいかず、如何せん時間がかかる。やっと、纏まった空き時間を取れたので、一気に書くのだ(言い訳、言い訳)。

場所は、その「スジ」の人物が多数生息している事で知られる、東京練馬区。その平和な町内の掲示板に「正義の味方募集、時給500円 小石川研究所」という、見るからに怪しげな求人広告が貼られていた。それを目にした、ごく普通の少女こと美帆は、なりゆきでその職の一次選考に応募してしまい...しかも、というよりは、ほぼ予想通りの流れとして結果は合格。次々と執り行われるハチャメチャな選考にも次々とクリアし、要するに美帆が正義の味方とやらになってしまう、というところから話は始まる。

そして、美帆は訳の分からない敵と戦っていくという、分類的には「美少女戦士系」とでも言うべきありがちな話である。しかし、ありがちだからこそ、話の本筋とは直接的に関係のないディテール部分の膨らましによる差別化が極めて重要になってくるとも言えよう。小娘オーバードライブでは、その一手段として、着るだけで身体の運動能力が強化するという「パワード・プロテクタ」なるものが登場する。正義の味方さんにはこれを着させるという寸法で、意外とパワード・プロテクタの仕様が詳しく書かれている点は面白い。

魔力とか、そういう何か分からないけど確実に作用する力で動いていたり、あり得ないような科学技術で動いていると読む方としても困り果てるのだが、分散された素子がハニカム構造になっていて、コンデンサで、アクチュエータで、という説明になってくると、なるほどね...と思える。尤も、どこまで分かっているのか「中途半端に専門用語を並べたみただけの解説」では白けてしまうもの。中には、ラジオライフの二番煎じではないか? と感じるところもあるのだが、概ねの説明は巧くまとめてある。

一つ、どうしても納得行かないのはパワード・プロテクタのデザインだ。パワード・プロテクタを着ていれば、大木でも軽く持ち上がる..というところまでは良いのだが、こいつはキャンガルが来ている水着みたいなスタイルなので、胴体部分と足が繋がっていない。巨大な丸太を担ぎ上げ、『美帆の足元で参道の石畳がひと区画分、丸太の重みでぐっと沈みこんだ (p.113)』とあるのだが、その前に両膝粉砕骨折が妥当だろう。機構の合理性を追求するのなら、同時にスーツの形状も合理的にすべきと思うのだが。



イラっ
1999年11月5日(金曜日) くもり/はれ

少し理性が不足していたら、かなり良い勢いでキレて機動隊の餌食になっていたに違いない。仕事の帰りに教習所へ行くときは、横浜駅で電車を降り、西口交番脇にある郵便ポストに郵便物を投函し、それから送迎バスに乗るというのがいつもの行動だ。ところが、今日は普段にも増して凄い人だかり。何が起きているのだと思ったら、共産党が街頭演説をしていたため、その観衆で周辺の歩道がほぼ封鎖されていたのであった。金曜日の午後6時半という時刻が更に混雑を悪化させ、目の前には大渋滞。ポストに到達するのは、至難の業と見た。

だが、わたしは5分以内に郵便物をポストに突っ込まないとバスに遅刻する。こういうときは、多少の迷惑には目を瞑り、強引に人を掻き分けてゆかなければならないが、人の隙間をよく見ると、観衆を整理するために張られたと思われるロープが幾筋も伸びている。くそっ、街頭演説で多少の混乱が起きること自体はやむを得ないと考えるが、流石にロープを張ってまで、ポストまでへの進路を妨害されているようでは頭に来るし、平和に演説を聞いている大衆の顰蹙を買ってまで強引に越えてゆくのも気が向かない。

観衆整理要員のオヤジを捕まえて、そこにあるポストを使いたいから何とかしろと言ってみる。仮にも、彼らの役目は演説とは無関係な通行人に迷惑が及ばないよう混雑を整理することなのだから、ましてや公共物であるポストを塞ぐような状態は言語道断...という理論のもと、多少の無理難題を聞いていただくことにした。帰ってきた答えを要約すると、自分で行けだと? どう見ても無理だろうと言うと、ならばわたしが投函しますだと? 当たり前だが、素性も知らぬ人間に重要な郵便物を託すほど馬鹿ではない。

確かに、この混雑ならば妥当な判断であるという気もしたが、それ以前にこいつの態度が気に入らない。お前一人が下らない郵便物を投函するために、文句など聞いてられるか。どうしてもやりたいのなら勝手にやるか、嫌なら諦めろ、という雰囲気が如実に現れている。結果的に、急いでいる人間に少なからずの迷惑を掛けているのは事実なのだから、多少なりとも申し訳なさそうにするといった振る舞いが適切だと思うのは、わたしの感覚がずれているからだろうか。誰も、土下座して詫びろとは言っていない。

しかし、やばい。タダでさえ異様な混雑でイライラとしているときに、こんな奴をいつまでも相手にしていたら本当にキレかねない。ここで余計な騒ぎを起こしたら、どうなるか想像もつかないと判断した理性は、その場を即座に退去せよと命令する。なにせ、党支持者同士の強固な連帯感みたいなものも伝わってくるし、あまつさえ周辺道路には派手派手しい赤色灯を回転させた機動隊車両が止まっており、東海道線に敷かれた枕木の数とでも良い勝負になりそうな数の警察官がスタンバっている。自殺行為だ。

結局、その場は諦めて、郵便物は帰りに投函した...別に、演説をした共産党に恨みはないし、たまたま捕まえた整理要員にも(不適切な態度は認められたものの)個人的な恨みはない。しかし、あのポストを遠慮なく塞ぐような形でロープを張り、観衆を前に立たせるようでは、甚だしく非常識と言わざるを得ない。横浜にお住まいの方ならご存じかと思うが、西口の交番脇にあるポストは、市内に点在する郵便ポストの中でも投函件数ランキングの上位を争うようなところなのだから。



朦朧
1999年11月4日(木曜日) くもり/あめ

昨日書いたとおり、昨日の最低睡眠パターンから得られた結果は、他ならぬ今日の意識朦朧。ええ、もちろん今も変な感じですとも。寝不足解消のつもりが、またもや変な慢性寝不足症が身体に宿ってしまったらしい。これから、後遺症として関係しそうなツボが痛くなったり、口内炎が芽を出したり、目の縁に腫れ物が成長したりするのだろう。今月半ばには、目を背けたくなる仕事の納期が差し迫り、それから暫くすると運転免許の技能検定に、試験場での学科試験。なぜゆえ、頭痛の種はこうも集中したがるのだ。

それは何とかやってのけるとして(しかない)、昔から読めるが書けない漢字が多くて困っている。何とか書ける数少ない字に関しても、やる気が一気に失せるような素晴らしい文字ばかり。それにしては、年寄り臭い字を書くなどと同年代の友人に指摘されたりして、そんな自分は「漢字を覚えないまま人生に疲れた、字の汚い若者」に違いないと、パラドックスな結論に達さざるを得ないこの頃である。文章は徒然と書いているけれども、その達成手段としてパソコンに頼りすぎているせいだろう。

多事毒論における仮名に対する漢字の出現比率は、下らないことを書き連ねた散文である割には比較的高い方だと思っている。しかし、例えば昨日の記事を見てみると...正直に告白すると、実は書けない漢字のオンパレードだったりするから、文明の利器に頼って並べた文字集合というものは恐ろしい。上から書け無そうな字を上げていくと、「妄念」も「鎮魂鬼神」も「満喫」も「帰還」も「蠱惑」も、ましてや本日の表題である「朦朧」も、突然そんな字を書けと言われたら、恐らく悩みもせず諦めるだろう。書けてこそ一人前というのなら、ここは知ったかぶりの館だね。



不老不死
1999年11月3日(水曜日) はれ/くもり

一切の妄念と訣別し、いつまで続くとも知れぬ鎮魂帰神の時を満喫す...現実に帰還するときが、あっても、あるいは無くたって良い。そんな思いで、蠱惑の布団に身を埋め爆睡、というよりも、夕方に何となく寝てしまって真夜中に目が覚めたという最悪のパターン。これをやってしまうと、また朝方に眠たくなってしまい、そこで寝るべきか、それともそのまま起きておくべきなのか、判断に迷ってしまう。でも、寝不足が続いていたので、やっと些細な夢が叶ったという感じ。

我々にとって、時間とは何者か? 起きている間は、当たり前だが時間というものを感じる。待ち合わせの相手が現れなくて待っているときは、時間を永遠のように感じることもあるし、次から次へと余計な仕事が舞い込んで猫の手も借りたいようなときは、時間などあっという間に過ぎてゆく。寝ている場合に至っては、時間感覚が無茶苦茶である。時計を見て時間の計算をしなければ、おおよそ何時間寝ていたのか分からないし、夢の中では都合に合わせて時間がワープすることさえある。

しかし、いずれの場合でも実際に経過した時間は変わらない。すると、例え100年でも200年でも、寝ていれば刹那とも感じないのであろうか。人間が死んだ後、死体をほぼそのままの形で冷凍保存しておくことは可能らしい。将来、蘇生が可能となれば生き返らせてやろうという...当人の主観上は、タイムスリップだ。寝て(死んで)、起きたら(生き返ったら)1世紀が経過していたときの、お目覚め気分はどういう感じなのだろう。体験してみたい気もするが、自分の死体がいつまでも液体窒素の中で眠るというのも、何となく気味が悪い。

しかしまあ、金も地位も何もないわたしに言わせれば、死んだ後も生き返って第二の人生を送ってみたいという思いなど、未練たらしいことこの上ない。あまつさえ、不老不死などという野望は、言い換えれば死ねなくなるのだ。最高の地位を掴んでいれば、あるいはそれが永遠に続いて欲しいと考えてしまうのかも知れないが、命がいくら堅牢でも地位など他ならぬ砂上の楼閣。いつか維持できなくなって足下から崩れ始めたときには、首を吊るという非常口ぐらい残しておかないと、気が気でない。



デフラグ
1999年11月2日(火曜日) はれ/寒い

Windows NT が動いている家のPCだが、まだ使用期間が1年に満たないことにも関わらず、小規模なシステム崩壊が多方面に及んでいる。いろいろとややこしいものを突っ込んでいるせいもあるが、危険なことをしているつもりもない。にもかかわらず、日常的な使用だけで、自然と破滅の道を辿るOSが、ここに一つ。Windows NT って、高信頼性をうたい文句にしていたと思うが、管理者の知らないところで勝手に壊れるOSのどこが高信頼性なのか、まったく不思議なことだ。

先日、ディスクにデフラグ(非断片化)をかけた。多少だが、ディスクアクセスがキビキビと行われるようになり、気持ちがよい。しかし、Windows 95 などには標準で装備されているデフラグツールが、NTに無いという点は納得がいかない。ひょっとすると、高信頼性を歌うOSにデフラグツールは存在してはならないのかも知れない。ディスクアクセスとCPU時間が、長時間に渡り全開になるものを、定期的に動かさなければパフォーマンスが低下するようでは、サーバとしては不適当ということもできる。

コンピュータというものは、必ず過去の柵を引きずって進化するものゆえ、断片化の避けられないFATファイルシステムを採用せざるを得なかった、というのならまだ分かる。だが、互換性を捨てて登場したNTFSすら、やはりデフラグしないと徐々に断片化が激しくなるから、どうしようもない。管理上やむを得ないことと称し、ディスクのお掃除をするからサーバの反応が著しく低下します...では困る。しかも、NTFSには割と最近までバグがあったらしい。ファイルシステムのバグって、恐いよぉ。

ファイルの断片化はやむを得ないのか? ディスク上では、大まかに言ってファイルが固定長のブロックに分割され、配置されてゆく。一つのファイルの長さ全て同じで、ランダムな消去や書き換えが無いのなら、断片化も起きないだろうが、実状は大小のファイルが同一のディスク上に存在し、ランダムに書き変わってゆく。だから断片化は仕方がないというのが結論だが、それを低減することは現に可能だ。例えば、FreeBSD などで使われている FFS では、断片化は殆ど起きないような仕組みになっていて、これは非常に有り難いわけだ。

でないと、プロバイダで動いているサーバ...ニュースサーバなんか、想像しただけで恐ろしい。



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1999年11月1日(月曜日) どしゃ降り後はれ

カレンダを見りゃ分かると思うが、今日より11月だ。だからという訳でもないが、11月から多事毒論の記述形式を少々変更することにした。来る日も来る日も、手動で日付などを埋め込んでから本文を書くのが面倒くさくなり、そろそろ、そういった更新事務の自動化でもと思い立った次第。そのために、ヘッダ部分を若干変更したというわけだ。でも、実を言うとまだ自動化されていない。適切な日付などを自動的に挿入するスクリプトを作ろうとしているのだが、時間が無くて未だに手つかず。

折しも、ある(自称)我が儘な方から、もう誰がどう考えても「我が儘すぎる!」と呆れ返るしか...というほどのことでも無いのだが、記事の始点と終点が拾いにくいから、何らかのタグを入れてくれというご要望があった。なわけで、今月から記事の始まりと終わりに、それぞれ <!--Start--> と <!--End--> というタグを入れることにした。自動的に記事を拾い出したいという向きは、ご利用あれ。こんなものを毎日読まれている有り難い方も、自動化手段を考えなければ苦労が多いのかも。

ところで、多事毒論に目次は存在しない。目次は必要なのだろうか? 一月毎にファイルを分けているので、本ページ上部には、分割されたファイルに対するリンクという形で目次らしき物は存在しているものの、特定の記事に対するポインタは存在しない。考えてみると、世の中に溢れる殆どの出版物、あるいは家電の説明書にさえ目次は存在する。仕事で仕様書を書くときも、形式的に目次は作っている。だから、何らかの目的はあるのだろうが、実際、わたし自身は一般の書籍では目次というものを使ったことがなく、その存在価値も良く分からない。

一定の形式に纏められた情報を利用する目的は、概して二通りに分けられると思う。それらは「何々について知りたい」というように、目標がはっきりとしている場合と、「何となく見ている」という、特に目標を定めていない場合だ。前者のような場合、目次は大した役に立たないが、情報を利用する目的が後者なら、目次もまた有用かも知れない。だが、わたしが書店に立ち寄った場合、探している本は大抵の場合、決まっている。だから、選書の際に、まず参考とする部分は「何をテーマにかかれた本であるか」を示す題名であり、その次に目次は飛ばして本文を読む。

なぜ、目次を飛ばすか? 目次は、著者が「これは重要だ」とか「これを書けば売れる」と判断し、それを要約した恣意的な情報であり、その恣意性が必ずしも自分の目的と合致するとは限らない。目次から本文の内容を想像し、ある程度の絞り込みを行うことも、あるいは可能かもしれないが、もしかすると、本文では「余談だが...」と書かれた部分が、実は自分が最も期待している情報かも知れないのだ。そのように、非常に部分的で危険な目次を元に実際の内容を想像するよりは、本文を流し読みした方が確実であることは明らかだ。本を買うか買わないかは、目次でなく、本文の質が重要なのだ。

それより便利なものは、「索引」だ。キーワードを元に、それに関連する話を扱った部分に対するポインタを直接的に提供する索引は、非常に重宝する。紙のメディアにおいては、電子的なメディアでは、もはや常識とも言える検索は不可能であるが、だからこそ、索引は重要なのだ。にも関わらず、索引は本の一番後ろに、申し訳程度に作ってある場合が多く、本の先頭何ページも割いて作られた目次よりも軽視されている感じがする。わたしとしては、「索引」が最先頭に位置しており、紙面を惜しみなく使ってある方が、より美しい構成であると思う。

従って、普通の Web サイトでも目次は重要ではない。むしろ、本で言うところの索引を電子化した、「検索」の方が使い勝手が良いはずである...と考えていたのだが、実際はどうなのだろう。何らかの目的を持って突撃実験室に辿り着いた人もいるだろうが、本サイトは、どちらかというとランダムに提供されるエンターテイメント指向だと自分では思っている。だとすると、何気なくここに辿り着いた人の方が多く、特にこれが知りたいというものは無いが、興味を引けば読んでみようかな、という人にも考慮しなければならない...かも知れない。

ご存じの通り、突撃実験室のインデックスは、目次形式である。それはそれで良いと思っているのだが、ひょっとすると多事毒論は余り適切な形式で並べられた記事ではないという気もする。書き捨ての記事だから、どうでも良いと言えばそれまでだが「選り抜き多事毒論」のような目次を作ると、それもまた良いかも? 書いた本人ですら、何を書いたか覚えていない手前、実際にやれと言われたら、面倒臭すぎるのだが..



突撃実験室