多事毒論(2000年1月分)



テレビを買う
2000年1月31日(月曜日) はれ

新しいテレビを買った。何を突然って感じだが、横浜駅の方へ行った帰りに、ビデオテープを買うことにした。電気屋に入る。そして、ビデオテープの売場へ到達すらする前に、テレビを買うことにした。だが、配達伝票の控えだけを持って帰る関西人なんかいない。ああそうそう、おれ実はビデオテープを買いに来たんだよね。だからビデオテープ、タダで付けといてよ。はあ、分かりました、付けておきます。こうして値の張るS-VHSテープがタダになった。お得な話ではないか。

実は、テレビを買い換えることは去年から考えていた。今までは使っていたのは、14インチの小さいテレビ。どうせ狭い部屋だし、生活用品は何でも手の届く範囲に並べておく方なので、小さくても特に問題はなかった。しかし、ここのところ歳を食ったのか、布団に転がりながらだと、どうも小さい画面が見づらいのだ。しょうがない、少し大きいテレビを買うか。ってことで、Panasonic の TH-21FB2-S (21インチ)を買う。電気屋で見ている限りではそうでもなかったのだが、家に来ると想像を遙かに凌ぐ存在感である。

しかも、こいつは現在テレビの定位置となっているラックの棚に入らない(カタログの寸法から事前に分かっていたことだが)。仕方がないので、会社から帰ってきてからラックの棚位置を変える作業にかかる。置いてあるものを全部下ろして、棚板のボルトを...あ、ラチェットが無い...代用のメガネで泣く泣く外し、棚の位置を変えてボルトを締める。下ろした荷物を再度載せ、テレビの配線を終えたら良い子はとっくに寝ている時間になっていた。くそ、こんなに手間なことだとは。

いまテレビを買うべきかどうか、かなり悩んだ。デジタル地上波放送だ何だで、ちょうど過渡期なのだ。だけど、アナログ放送が無くなるまでは使えるだろうという一見正しいようで正しくない理由から、購入を決意。実は、Sony の21インチも候補に入れていた。こちらの方が少し安くて、D1端子も付いている。決まりだろうと思ったら、オンタイマーが装備されていない。わたしは世界でも5本の指に入る寝坊大魔王だから、朝は意味が無くとも適当にテレビがついてないと起きられないのだ。

例えば、寝ている人に規則性の無い振動を与えれば、その人は起きるだろう。しかし、同じ振動でも電車や高速道路のような、単調な振動は心地よくて逆に眠気を誘う。それと全く同じことなのだ。目覚まし時計の音は、単調だから目覚ましにならないばかりか、案外に心地良いことすらある。しかし、テレビの音には規則性がなく、変化があるから寝ていられないのだ。そして、音を聞いていると画面も気になる。だから目を開かざるを得ない。従って、朝にテレビが鳴っていると起きる。

しかしである。今回買ったテレビのオンタイマーは、何時間何分後にオンという設定しかできない。こりゃだめだ、毎晩設定しないいけないから、面倒くさい。設定を忘れて寝てしまったらたら寝坊である。今まで使っていた奴には、ちゃんとしたカレンダが入っていて、タイマーを動作させる曜日を指定しておけば、その曜日の朝は勝手に電源が入って便利だったのだ。こういう気の利いたタイマーを期待していたのだが、そこまで調べてはいなかったので気が付かず。

くそ。腹いせにPICか何かにリモコンコードを覚えさせて、オンタイマーを作ってやろうか。第一候補の Sony にしておけば良かった...と、訳の分からない理由で松下を呪詛するのであった。



ムーミン&ユニコーン
2000年1月30日(日曜日) はれ

Kid's Station で放送された「ムーミン谷の彗星」を見る。

ムーミン谷に彗星が衝突するかも知れない。その詳細を確認すべく、ムーミン一味は何処にあるとも知れぬ天文台を目指して旅立つ。旅の途中にムーミン達は新たな仲間と出会い、そして天文台にたどり着き、壮大な冒険の末、ようやくムーミン谷へと戻って来る。だが彗星は、もうムーミン谷のすぐそこまで迫っている。これは一大事だ! というシナリオは大いに結構なのだが...高山みなみ様は、やっぱり上手いねえ。風の大陸のラクシ以来、漲る熱い想いが爆発。あ、ちょっと脱線。

そんな非常事態が差し迫っているにもかかわらず、然るべき緊張感というものが徹底的に欠落している点が、この作品における不思議な良さだろう。概して真面目だけど、細部を見れば、一部終始「ダメだこりゃ」を思わせる展開を貫いている。しかも、最後はどうにかして「結果オーライ」で終わる。誰一人として本質的な解決に繋がるような行動には出ないけれども、一人一人が自分なりに考えて行動して、それでいて咎められることもなくどうにかなる、理想郷の一形態なのかも。

かなり違うかも知れないが、何故か連想する作品がある。わたしが純真無垢なガキだった頃のことだから...恐らく昭和50年代の後半ぐらいだと思うが、ユニコーンが出てくる謎のアニメ映画を見た。確か、落ちこぼれの魔法使いか何かである主人公がユニコーンを探しに行くという内容で、途中でゴーレムみたいなのとか色々と出てくる話だったと思う。妙に印象に残っていてまた見たいのだが、なにせ小さいときの話だから記憶があやふやで、題名も何も分からない。

そのような作品をご存じなら、ぜひ教えてください。



いろ
2000年1月29日(土曜日) はれ

急にカレーうどんを食いたくなって、コンビニへ行く。日清の「神戸ハイカラカレーうどん」が眼を引いたので買ってみたが、色んなメーカが似たような製品を出すなか、やはり日清のインスタントは美味しいと思う。特にうどん系のものでは、日清の生麺タイプに叶うものはないだろう。しかし、蓋が二枚重ねになっていたのは製造不良ってやつか。実害は無いが、湯切り穴を開けるときに、蓋がもう一層あったから戸惑った。

色って何だろう。人間がある波長を持った光を色として認識しているだけだから、その認識が無ければ色も存在し得ない。赤外線や紫外線も同じ光の仲間と言えるけれど、人間がそれらを光として認識できない限り色として表現されることはない。色が認識に過ぎないのであれば、同じ波長でもそれを認識する人間によって見え方が違うのではないか。子供の頃、そんな疑問に悩んだことがあった。

わたしが見ている「青」と、あなたが見ている「青」が、同じ色に見えているとは限らない。でも、どう見えていようがお互いがその波長を認識し、それを青という共通の名称で呼んでいる限り、困ることもないし違いに気付くこともない。こんなことを思っているのはわたしだけか、と思っていたら、そうでも無かった。ある有名な日記サイトにも同じようなことが書いてあったから、誰でも考えてしまうのかも知れない。

ところで、色の好みって何だろう。弊サイトの作りを見ても分かるとおり、わたしは黄色と緑色が好きなのだ。洋服は「アース系」の色(緑とかベージュとか)しか買わない。お陰で、いつも同じ服装だと言われてしまったりするが、それでも好みでない色を敢えて選ぶ気にはなれない。不思議なものだ、どうしてそういう色が好きなのかと問われても、何となくとしか答えられない。

食べ物の好みなら、幼児期の経験も影響するかも知れない。でも、色に関してはそうは思わない。親から特定の色を優先的に使うように躾られた経験も無いし、親が好む色も、わたしの好みとは違う。性格が色の好みに影響するというけれど、これも眉唾だ。可逆的な理論なら、わたしと同じ色の好みを持つ人間は、わたしと同じような性格になる? そんな簡単に人の性格が決まってたまるものか。



はぅ
2000年1月28日(金曜日) はれ

久々の残業。23時前まで会社にいて、疲れた。

とある組み込みソフトの同じ場所を何度か書き直している。最初は簡単だと思って高を括っていたのだが、実装に入ってから面倒臭い要求が色々と入ってきて、スパゲティを極めたコードに...時間がなかったので、取り敢えずそのまま完成させたのだが、またもや不条理な追加注文が入り、いまのコードを拡張するのは危険すぎるというか無理と判断。全面的に書き直すことにしたわけである。

ところが、いざ書き直しに入ると行き詰まる。前回とほぼ同じ設計で始めたのが敗因だったらしいが、かといって他に良いやり方も思い浮かばない。悩んだ末、あんまりスマートでなく本意ではないアプローチで再々書き直しを始めた。くそったれ、いまさら訳の分からないケチ付けてきて困らせるんじゃねーとか言いたい気分だけど、言えないからねえ、そんなこと。



自分も不調
2000年1月27日(木曜日) はれ/やはり激寒

危険な雑音混じりの咳が連発。ヤバイかもしれない。ちょっと、休みたい気分である。何がいけないって、寒いからいかんのだ。そりゃ冬だから寒いのは当たり前だけど、朝になって目覚めたとき、布団から出てくる気がしない。そんな状況を少しでも改善すべく、布団の中から手探りでエアコンのリモコンを取り、エアコンに向けて運転ボタンをぽちっ! これがまた上手くいかない。電池が弱っているのか、近寄らないとダメなのだ。いま思い出した、また忘れないうちに電池を取り替えておこう。

衛星で「沈黙の艦隊」を放送しているので、見ながらこれを書いている。先週にも一度見たのだが、描写が綺麗なのでビデオに録ることにしたのだ。無茶苦茶な話だけれど、どうもタブー視されがちな日米問題なんかを圧縮したような、どこか共感できてしまう部分もあるから不思議なもんだ。まだ第一話しか見ていないが、あるいは日本にもこんな未来があっても良いのかもしれない。安保なんて糞喰らえだ! どれほど罵声を浴びようが、そう叫びながら肩で風を切って独立を宣言する日本も、まあ悪くなかろう。

はて、既に独立しているはずの日本がどこから独立する? さあね。



不調
2000年1月26日(水曜日) はれ/依然として激寒

最近、PCというPCの調子が芳しくない。

まず Windows NT 4.0 が走っている家のメインマシンは、何故か実効速度が大幅に低下しつつある。ディスクが遅いのか、常駐物が悪さをしているのか、それともOS自体が怪しくなってきたのか。おまけに、青い画面も時々喰らってしまう。原因は定かでないが、Microsoft 謹製のタコOSを1年も使っていれば、色々とおかしくなってきて当たり前だろう。きれいさっぱりフォーマットしてOSごと入れ直したいところなのだが、その作業に3日は余裕でかかりそうだ。

しかも、元通りにする自信は無い。当時どうやって動くようにしたのか、よく覚えていないデバイスが山のようにぶち込んである。ドライバが入っているフロッピディスクぐらい探せばどこかで眠っていると思うが、今更どれがどれだか思い出すのは大変だ。スキャナとかMOドライブとか、かなり強引なことをしないと NT ではマトモに動かないものもある。二度と立ち上がらなくなる恐怖を背に労力を費やすことを考えると、まあ騙し騙し使うことにしたくなるものだ。

昨日、そのマシンに 10.2GB のハードディスクを追加した。ディスクアドミニストレータからパーティションを切り、FAT でフォーマットさせると数十分かけてフォーマットしているように見える。が、「完了できませんでした」という不吉なメッセージが出てきて、フォーマットされず。何度かやったが、結果は同じでどうにもならない。聞いた話によれば、フォーマットにハードディスクを壊されることもあるらしい。おっかない。で、このディスクはどうやってフォーマットしろというのだろう。

会社のPCもかなり怪しくなってきた。こちらも Windows NT 4.0 が入っていて、1年半ぐらいは使っている。プリンタドライバがおかしくなったりするし、MS-Access なんか開いて何もせずに閉じるだけで一般保護エラーが出る。もうそろそろフォーマットして入れ直したい時期だけど、こいつもまた極めて複雑なことになっていて、あまりいじりたくないのだ。仮にやるとなれば、環境が復旧するまでに少なくとも3日はかかると思うのだが、3日も仕事にならない日が続くなんて考えられない。

ふう。



クラック
2000年1月25日(火曜日) 雪/曇/激寒

科学技術庁のサイトが荒らされたそうである。マスコミは例によって熱くなっているようだが、そこまで騒ぐことでもないだろう。サイバー犯罪は、斯くも恐ろしい新手の犯罪という論調で報道されているけれど、わたしに言わせれば、サイバーだからこそ恐くないのだ。ホームページのコンテンツが書き換えられたら「困る」ことはあるだろうが、サイバーな犯罪によって、人が死んだり犯されたり、家が燃えたりすることは、恐らくないだろう。身内が殺されたら笑い話では済まないが、自分が管理しているページがクラックされたぐらいなら笑い話で済まそうと思えば済ませる範囲のことである。

一般ピープル(あるいはマスコミ)がサイバー犯罪を「恐いもの」と見る理由は、要するに「何のことかよく分からない」からであって、被害そのものが恐いのではないと思う。2000年問題のときみたいに、「コンピュータは何が起きるか分からない」という認識でいたら預金が消えたりしそうで、そりゃわたしだって恐い。しかし、現実に身に降りかかることはなさそうな可能性に戦いて何になるというのだ。クラッカー? わたしは、日常的に起きている殺人事件や婦女暴行、放火や誘拐といった物理的な被害をもたらす犯罪の方が余程恐いのだけど。

もちろん、もちろん人命に関わることも起きる可能性は否定できない。重要な機密が漏れることもあり得るだろう。でも、そういうシステムが広域ネットワークに繋っていること自体が不思議だけど(物理的に繋がっていなければクラックしようがない)。科学技術庁は、サーバ管理は業者に委託していたそうである。その業者はどうだったのだろう。SEの中には「全く分かっていないとしか思えない連中」もいるから、下手すれば「クラッカーよりもそっちの方がタチが悪い」気がする。知ったかぶりだけで、仕事ができるものなんだろうか。



手ぶら
2000年1月24日(月曜日) くもり

あー眠い。ねむいねむい。月曜日だし。

先日、PHSのイヤホン端子に繋げられるハンドフリーマイクを買った。お値段は、980円。透明ケースに入っていたので中身を目視確認した限りでは、そうタコな製品には見えなかったが、同封されていた説明書みたいな紙切れは、印刷が汚いばかりでなく、修正液とボールペンで修正されていて、安っぽさを強調する。そのくせ、端子だけは立派に金メッキされていて、妙なミスマッチに尚更の不安を覚えたりするが、まあ980円なら失敗しても良いだろうと思って買った。

心配を余所に、これが意外と使える。自動車運転時などを想定した製品なのだろうが、わたしは家で使ってる(改正道路交通法を律儀に守っている人は希少に思えるけど...)。自宅の加入電話で使っているコードレスの子機をPHS端末に変えたのは良いが、普通のコードレス子機と比べて小さく平面的にできている分、人間工学的には余り宜しくない。持ちにくいという点もあって、長電話をしていると疲れるのだ。ハンドフリーにしたら、持つという姿勢から解放された感じでかなり楽になった。

電話中に受話器を持つのは当たり前だと思っていたが、電話中に両手が空くとかなりの解放感が得られる。すっかり気をよくしたわたしは、Neon's Room という超下らない一見の価値あるサイトの Webmaster に電話をかけてみた。今日のネタが無かったところなのでリクエストを求めるも、余りに非現実な話ばかりなので全て却下。仕方が無く、我が家の電話設備に新たな仲間が増えたことを書いている次第なのだ。いやはや、電話が楽になったお陰で無用な電話が増え、電話会社を儲けさせる結果になるとまでは思わなかったが。



404
2000年1月23日(日曜日) くもり/あめ

調べたいことがあれば、何気なく使う検索エンジン。それは、もはや天文学的な数字を用いずには表せないであろう規模にまで発展したネットワークに潜む膨大な情報を一点にかき集め、標本化された情報を元に自分が欲しいと希望する「それ」を探し当ててくれる文明の利器である。ネットに氾濫する情報の大方は、どこの誰とも知らぬ人間が何の予告も無く公開しているもの。制作者本人にすら、いつ誰のどんな役に立つかも分からぬまま、ともすればそんな考慮は一切なく、公開しているのかも知れない。

そうした混沌として未整理のものを、ある意味においては統括して一つの集合を作り上げる検索エンジンから、我らネット利用者が得る恩恵は計り知れない。てんでバラバラの中から、あるかも知れないし無いかも知れない未知の「それ」を、根気と少しばかりの運を活用して探せ、といわれても到底不可能なことだ。やってられない。キーワードを打ち込み、ぽちっと検索ボタンを押せば、数秒後にはキーワードを含む情報へのポインタが一覧となって出てくる。これこそが、母集団の然るべき活用法である。

キーワードを元に選び出された文書のサマリーを見て、内容を吟味する。眼で追っていくと、中には何ら関係の無さそうなものも混じっていることもあるが、その中に思わぬ発見があったりするから多少のノイズは満更でもない。辞書を「引く」つもりが、つい辞書を読んでしまうようなものだろう。不要なら、読み飛ばせば良いだけの話である。さてさて、あったぞ。これだ、というサマリーが。求めている答えは、きっとこの中にあるはずだ。これで全ての扉が開かれる。そんな期待を胸一杯に、そのリンクをポチっ。

接続:ホストを探しています....
接続:ホストに接続しています...
接続:ホストに接続しました。応答を待っています...

いいぞいいぞ。もうすぐだ。当然のようにそう思った。が、しかし。

404 Not Found

The requested URL was not found on this server.

次の瞬間に現れたのは、全ての期待をいともあっさりと裏切る飾り気も糞もない画面。そこに見えるものは、単に事実だけが伝わればそれで良いと言わんばかりに書き殴られた、気の利かない言葉。

もう、ない。
ぶち切られた未来。
これで何もかもが終わり。

誰がこんな結果を予想し得ただろう。これほどまでの屈辱を、何と言い表せば良いのだろうか。主よ、あんたが俺に見方すると言ったその言葉は、根も葉もない嘘だったのか。って、そこまで言わないにしても、検索エンジンが出したサマリーに期待した直後の 404 Not Found は、ショックが大きい。しかも、どういう訳か「これだ」と思ったところほど 404 の出現率が高いように思う。多分関係ないだろうと思ってクリックし、案の定、関係もなければ別の興味を引くこともなかったページほど生きていやがる。

これはどういうことだろう。比較的広く知れ渡った情報ならば、多くの人が同じような内容のページを作って公開していることだろう。だから絶対数は多いし、どこかが消えても別のところを見れば済むことだ。しかし、誰もが知らない希少な情報となれば、それに関連したページの絶対数は当然ながら少なくなる。消えた場合に、同じような情報を補完できる人間の絶対数も少ない。当然ながら「見たい情報」は、誰もが知っているようなことではないから、そういったレアなページに飢えることは多くなる。

やはり「レアモノは即ゲット」に限るようだ。URL は、ある文書を指し示すポインタに過ぎない。その先に必ず何かがあるという保証など、どこにもない。今日はあっても、明日には無くなっているかも知れない。そういう意味では、URL はとても不確実な存在と言える。ブックマークに入れただけでは、安心できない。

ネットワーク上に存在するデータの寿命は、どのぐらいなのだろう。事務所のコピー機で使われているコピー用紙の平均寿命は、印刷されてから数日という。長期保存する書類でもなければ、大抵の場合は見たら終わり。下らない回覧の多い会社なら、見ることも無くゴミ箱行きというケースも多いだろう。電子書類は、嵩張らず、捲ることなく見られるという点では長期保存向きだ。しかし、寿命は意外と短いのかも知れない。作った人間の気が変わった、プロバイダを変えた、あるいは引き際が重要な内容だった、とか。




2000年1月22日(土曜日) はれ

眠い。面倒くさい。ま、いっか。という非常に複雑な事情のため、数日間か髭を剃らずにいた。気付けば、無精髭などという甘ったれた次元を通り越して、えらい伸びてしまっている。考えてみれば、髭を毎日剃ることを宿命づけられた男とは、これまた不便な存在である。髭が生えるというだけのことで、剃ることに時間を割かねばならならず、そのため失ってきたものは極めて大きい。

男の平均寿命を75際と仮定し、髭剃りに毎日5分間かかるとする。子供は髭を剃らなくても良いので60年、毎日髭を剃るとすれば、109575分も髭を剃っていることになるのだ。これは、76日に相当する時間である。つまり、生涯で2ヶ月半も髭という宿命で無駄にしているのだ。そんな男達の虐げられてきた不条理な歴史は、いまこそ変革のときをむかえているのである。

従って、一層のこと剃らずにこのまま伸ばしてしまえば良いのだ。我ながら名案を思いつくものだ。が、鏡で自分のアホ面を見てかなり汚らしいことに気付き、ボツ。よくみると生え方に凄いムラがあって「不毛地帯」が随所にあるし、変なところに一本だけ生えていたりする「飛び地」もある。綺麗に生える人は良いのだろうが、こりゃちょっと違う気がして、髭を剃るという至極面倒な行為を続けることにしたのであった。



寒い日
2000年1月21日(金曜日) はれ

今日は本当に寒い。よりにもよって大寒の日にこんな寒くなるとは、単なる偶然なのか、あるいは統計学的に見て強烈な寒波は1月21日にやってくる確率が高いのでそうなったのか。いや、単なる偶然であろうが、カレンダの普段は見ない小さな文字にも意味があるものだ。かといって、仏滅の日に結婚式を挙げることぐらい何とも思わないが。

最近、実はすごく下らないことに対して意味もなく意地を張っているのではないかと思うことがある。意地っ張りで根に持ちやすい性格はずっと前から自覚しているので、敢えて驚くべきことでも何でもない。けれど問題は、どうでもいいようなことに対して意地を張り続け、そのため余計なエネルギを無駄に消費しているのではないかという点だ。事が解決してから考え直したとき、ある一点に固執しなければならなかった重要性が分からないようなことに、何の利益があるというのだ。

「折れたら負け」

という一言で全ての原因を説明できてしまうのであるが、逆を言えば、たったその一言に過ぎないことなのだ。それでも負けは嫌だと、負けじ魂が叫びを上げる。


「勝つことがそんなに重要なの?」

「負けるよりは勝ちたいでしょ」

「なぜ勝ちたいの?」

「そりゃ、ムカツクからさ」

「ムカツクだけの対象に労力を使う必要はあって?」

「・・・」

「大人は『負けるが勝ち』というでしょう?」

「そんなぐらいなら、子供のままで良いよ」

「死ぬまで意地を張り続けるの。凄いわねえ...」

「ああ、凄いよ」


これだから、意地っ張りは治らないのかも。



ひ、日付が..
2000年1月20日(木曜日) はれ

時計 読者のご指摘で、多事毒論の日付が1日ずれていることにやっと気付く。土曜日から狂っていたから、昨日一昨日というスケールで事足りる話ではなく、「やっと」というのも伊達ではない。全く恥ずかしい限りである。今日は何日? なんてことは一切考えないで日付をインクリメントしているだけだから、一度間違えば全てが狂ってくる。そういった下らない事故を防止するために、右図のような日付と曜日も出る時計を買ったというのに、全くケアレスミスの多い人間だ。

以下、分かる人にだけ分かるネタ。gcc と ld の話である。

ケアレスミスと言えるのかどうかは分からないが、仕事で開発しているソフトのバグがどうしても取れなくて、残業。悩みに悩んだ末、問題箇所を特定することは出来た(その関数を呼ばないようにすると動く)のだが、何度見ても間違い箇所を発見できない。そのうちコンパイラがバグってるんじゃないかとまで思うに至り(そんなことはまずないんだけど)、コンパイラが吐くアセンブラコードを見てみると、そこには意図していることとは微妙に違うコードが確かにある。

extern 宣言した void 型のポインタ変数 stack は、リンカスクリプトの中で定義されており、それ自体は実体も値を持たない変数である。実体は無いくせに、リンク時にだけ stack のアドレスが存在することになる、ちょっと特殊な存在なのだ。そのアドレスは、固定番地で振られたスタックポインタの初期値 (void *) 0x13fffc となる。これを ptr に代入して、ptr をスタックポインタの初期値 (void *) 0x13fffc に初期化したいだけだった。

void func(void) {
  extern void *stack;           /* Stack pointer defined in ldscript */
  void *ptr;

  ptr = stack;

        ・
        ・
        ・

だが、こいつが吐くアセンブラコード見ると、0x13fffc という番地に実体を持った void 型ポインタ変数 stack の中に格納されている値を ptr に代入しようとしているではないか。意味が違う。stack は、あくまでリンク時にだけアドレスが存在する変数だから、実体や値があることになってはいけないのだ。コードとしては間違ってないから実行されるが、 0x13fffc というスタックの端っこには何が格納されているか分からないから、それを代入された ptr も不定な値を取ってしまう。

実はこれ、数日前まで調子よく動いていたから、疑うのが遅れてしまった。こういうのは、一番タチが悪い。「不定な値」であっても、運良く「都合の良い」値になればトラブルもなく動いてしまったりするからだ。ようやく分かった。それ自体は実体も値も持たないけど、それのアドレスは発生することもある変数。そうかそうか、代入すべきはそれのアドレスである &stack だったのね(涙)

void func(void) {
  extern void *stack;           /* Stack pointer defined in ldscript */
  void *ptr;

  ptr = &stack;

        ・
        ・
        ・

& 一個でかなり悩んだらしい...落ち着いて考えれば分かることでも、現場の混乱?の中では気付きにくいことも多い。特に、取り敢えず適当に書いてバグを山のように作っては、見付け次第潰していって仕上げていく、わたしのような人間は(笑)



デブ・チビ・短足
2000年1月19日(水曜日) あめ/くもり

新旧いろんなアニメを見ていて気付いたことだが、いつのまにか「デブ・チビ・短足」の三要素を備えたガキが登場しなくなった。古いアニメを見ていると、必ずとは言えないけれど、デブでチビで短足で、ロンゲというよりは3年ぐらい散髪していないと推測される不潔っぽいガキがいた。別に悪いわけではないが、ありゃ何だったんだろう。

復権を望んでいるわけではないが、そんな感じのダメダメなガキがいても悪くはないと思うのだ。なんか最近は、どうしようもないぐらい格好いいお兄さんとお姉さんばかりが登場していて、飽き飽きしているところだから。どうしてそう思うかって。魂胆を言えば、登場人物に個性がない...キャラの性格といった論理的なことではなくて、物理的な見栄えが画一化しているからだろう。ちょっと格好悪いぐらいが、逆に新鮮に見えたりするのかも知れない。

まあ、どうでも良いことである。



歌謡曲すきですか?
2000年1月18日(火曜日) はれ、ほか3気象

液体ヘリウムさえ裸足で逃げ去る、凍えた身と心。
あなた、お願い。嘘でも良いからわたしを抱いてっ

嗚呼 こんな日は、酒と歌謡曲が身に沁みるわねえ...

というシチュエーションにはなれそうもない歌をお求めなら
インターネット歌謡曲(要MIDI)。

わたしはウケましたねえ。


# 本格的にネタが無いのね、今日は。



白刃おたく
2000年1月17日(月曜日) あめ/くもり

昨日、ミリタリ系オタクな友人に刃物専門店へ連れて行かれた。そこは、何とも言えない妖気がプンプンと漂う雑居ビルの一室。なるほど、ここまではセオリー通りである。この手の店といえば、何故か異様に薄暗く、どう考えても狭すぎる陳列空間にやたらと凄い数の刃物が強引に詰め込んであって、しかも店員ときたら余り関わりたくないサイコ風のアンちゃんがブスッと構えている、というイメージしかない。実際のところ、ホビー系の店には多かれ少なかれ、その一般客を寄せ付けない雰囲気が漂っているものだ。

しかし、いざ中に入ってみると広々として明るい店内に意表を突かれる。店長さんも、話好きで明るい普通のオジサンだ。刃物オタクといった雰囲気は殆どない。実は、今まで少し近寄り難かった刃物屋に入るのは初めてなのだ。そんな訳で、興味津々でガラスのショーケースの中に並んだ刃物を眺める。実用本位なものから、下品としか思えないデザインのものまで、お値段も決して安くはない。一体これを買って何に使うのだろうって感じだが、わたしには収集趣味が全く無いから価値が理解できないのだろう。

どこかで見たような形状のナイフもあると思ったら、ランボーが持っていたやつだったりして、映画のレプリカなんかもある。こういうものは、実用にはならないそうだ。売る場所が適切でない気もするが、よく見ると台所の包丁も混入している。レイピアもあった。ナイフというよりは短剣と説明した方が適当と思われる刃渡りの長いものも多数あったが、これでいて銃刀法に触れないというから良く分からない。店のオヤジ曰く、銃刀法ほど存在を知られている割に、正しく理解されていない法律は無いのだとか。

とは言いつつ、わたしも刃物は好きなのだ。こうやって見ていると物欲なるものが湧いてきて欲しくなってくる。しかし刃物は所詮、道具に過ぎないと思う。だから、余計な装飾がゴチャゴチャとついているものは却下である。でもシンプルさに秘められる美しさこそが重要なのだ。探せば、わたしの我が儘な要求を満たすものもあるのだが。欲しいなと思ってプラスタグに目を遣ると...こんなものにまで手を出したら、今以上に生活が危うくなると、自動的に制止が効くようになっているこの頃である。



アキバで見付けた変なもの
2000年1月16日(日曜日) くもり

今日は朝から忙しい。昼過ぎまで渋谷を散策。それから所用で新宿に寄り、夕方になってから秋葉原に乗り込む。残念なことに、行こうとしていた店のうち2軒はシャッタが降りていた。なんで、こうも上手く行かないのだか。しかし、取り敢えず収穫目標の8割は達成できたから、まあ良しとしよう。それにしても、高周波系の部品を手に入れるには苦労する。あっても隅っこの辺で埃を被っていたりしてね...無線機を作ったりする人も減ってしまったのだろうか。

鈴商の前を歩いていたときのことだ。

「日米軍事同盟に反対〜っ」
「国旗国歌を強制するな〜っ」

メガホンで増幅された、威勢の良いシュプレヒコールが耳に飛び込んでくる。

一体なんのつもりなのだ。内容の是非はともかくとして、労力に見合う効果を鑑みない左翼団体もいたものだ。日曜日のアキバといえば、歯止めのない散財を繰り返し、趣味を全うするためだけに人々が集う場所。いくら派手なデモ行進を展開したところで、見向きもされないことだろう。

が、こいつらはただ者ではなかった。

シュプレヒコールの発信元が特定されるや否や、周囲の歩行者からどっと笑いが上がる。その異様な光景に、仕事を中断して振り返った商店のオヤジも凍った笑いを浮かべた。おい、一体なにが起きているのだ。シュプレヒコールを叫ぶピエロでもやってきたのか? それとも全員がアニメキャラのコスプレでもしているのか?

思わず振り返ったわたしも、即座に凍り付いた。

パトカー先導でやってきたデモ隊の構成員は、70にもなろうかという風貌の爺さん婆さん合わせて約10名。持っていたプラカードも最高だった。普通の画用紙か何かにマジックで書いてあるだけで、これがまた救いようのない汚らしい蚯蚓の這ったような文字。何と書いてあるか読めすらしない。

なんだこりゃ! なんのつもりなんだ!?

やっている者は誰もが真剣、当人らは自らの滑稽さに気付く気配すらない。このデモ行進を一目でも見れば、笑いを堪えることは到底不可能なことだ。デモ隊に付き添って歩いている警察官でさえ、その表情には引きつった苦笑いが現れている。わたしは凍り付いたまま、思わずあの警察官に同情してしまった。



人権専門家の一日
2000年1月15日(土曜日) はれ

手錠にモザイクをかけて人権擁護」したつもりになっているご時世。「人権」という言葉を耳にするだけで反吐が出そうになったりする。多分、わたしが定義するところの「人権」と、人権の専門家たちが定義する「人権」に、極めて大きな隔たりがあるからだろう。考えてみれば恐ろしいことだ。人間が生まれながらにして持っている剥奪不能な権利という、ある意味では絶対的なものに複数の定義が存在するのだから。

きっと、世の中には人権侵害が氾濫しているに違いないのだ。そして、鈍感なわたしは、それらに気付いていないのだろう。そうだ、そうに違いない。だからこそ、人権の専門家たちは、日々人権侵害の排除に身を削っておられるのだ。何てことは無い出版物を絶版に追い込んだり、何てことはないCMやテレビ番組の放送を中止させたり、何てことはないその他の森羅万象を相手に、神に代わって聖なる鉄槌を下すのだ。

あーいつもお世話になります。堺市の○×ですが。
件の抗議文ですが、人権尊重の企業イメージも大切な時代ですからね。
ま、こちらとしても事を荒立てたくないんで、ぜひ前向きなお返事をね。

じゃ、そんなところで宜しくお願いしますわ。

間違いない。これこそが、現人神たちの宣戦布告なのだ。
そして対峙するどころか、面倒臭いスキャンダルを恐れて簡単に屈する企業たち。

ふっ、ざまあ見ろ。不撓不屈の精神で人権を貫く我らの正義に、向かうところ敵なしだ。
勝利の笑みを浮かべ、次なる敵を崩すため、今日も内容証明に判を押す。



手錠にモザイク?
2000年1月14日(金曜日) くもり/はれ

テレビのニュースなどで、逮捕された容疑者が連行されるときの映像はどこか不自然だ。お気づきの方も多いだろうが、手錠や腰縄が写ったときは必ずモザイクで隠してある。だいたい、そんなものを隠して何になるというのだ。隠蔽された部分に手錠や腰縄があることぐらい、誰の目にも明らかなのだ。(エロビデオのモザイクの下に性器が存在していることも明らかだが、あれは許せないけど今日に限って許すことにしよう)

その理由を少し調べてみると、なんだか知らないが「人権」という余り見たくない言葉にやたらとブチ当たる。曰く、まだ犯人と決まらない容疑者を拘束する器具の映像は、人権上問題があるとか。

まちやがれ。

顔を写しながら「○○容疑者」というご丁寧な称号付きの実名を出しといて、映像から手錠と腰縄を消して何が人権擁護やねん、ボケ!

呆れて反論したくなくなる説明だが、手錠は拘束しているから放送の人権上、芳しくないらしい。

モザイクは映像を隠蔽する一手段であり、そもそも「隠蔽」とは、まだ一般的に知られていない事象が、今後も知られては困るときに行うことだ。「逮捕されれば手錠を喰らう」といった誰でも知っているようなことや、別に知られても構わないことを隠したところで意味はない。秘密でなければ人権が危なくなる性犯罪被害者の顔を「プライバシ保護」のためにモザイクで隠すのならば筋は通るが、明らかに存在していると誰もが知っている手錠を隠蔽して、どう人権が守られるのだろう。

筋を通して手錠にモザイクが必要な理由を説明できる人、出ておいで。



お食事中の方はご遠慮下さい
2000年1月13日(木曜日) くもり/あめ

多事毒論の記事からは、デリカシーというものが完全に欠落していると、かねがね評判だ。今日も、デリカシーのへったくれもない内容であるから、お好み焼きを食っている最中に、平気で自分から馬糞の話を始められるタイプ以外は、お食事中に見ない方が安全だろう。せめてものデリカシーである。


それは突然の事だった。

山の中にあるような公衆便所へ入ると、必ずといって良いほどクソが炸裂しているけど、どうしてだろう?

職場の静寂をぶち壊すように、同僚は大体そんなようなことを叫び始めた。

そう言われてみれば、確かに不思議なことだ。寂れたところにある公衆便所の大便用個室へ入ると、ウンコが凄い勢いで散らばっていることが多い。しかも、勢いが良すぎて便器の縁に少しこぼしてしまったとか、何か間違って変なところに塗りつけてしまったというような次元で収束していることは滅多にない。まさに「クソが炸裂している」と修飾するほかないような散らかり方を見せている場合が殆どである。


仮説1:出しながら、わざと撒き散らしているのではないか?

便所をそこまで無惨な状態に汚すためには熟練した排便テクニックが必要だ。闇雲にクソを噴射しただけでは、自分もとばっちりを喰らうことになるため、ミスは絶対に許されない。丁寧かつ確実に、しかし広く大胆にぶちまけなければならない。だが、そんな器用なことができる特A級の排便テクニックを持った人間が世界に何人もいるとは考えられないし、そもそも故意にクソを撒き散らす理由がない。


仮説2:一旦は普通に排便し、後から拾ってばらまいているのではないか?

公衆便所だから汚しても良い、いたずらしても良い、という心ない人間は少なからずいることだろう。しかし、だからといって敢えて自分の排泄物を拾って砕き、便器の周囲にばらまいたりする人間がいるだろうか。しかも、人為的に散布しただけでは、自然に「炸裂」したように見せることは極めて困難だ。


仮説3:下痢を我慢できず、狙いを定める間もなく噴射したのではないか?

充分考えられることである。終電間際、繁華街に程近い駅の便所では、ラーメンの残骸と思しきゲロが炸裂していることも少なくない。これは、明らかに我慢の限界を超える寸前のところで便所に駆け込み、照準を便器に合わせる間も無く嘔吐しはじめた結果である。また、ゲロは大便と比較して便器から離れた位置から吹き出すこともあり、狙いが非常に定めにくいという要因も同時に考えられる。

噴射寸前の下痢でも全く同じことが言える。歯を食いしばって我慢の限界まで下痢の噴射を押さえていた人の便意圧(下記参照)は、平常時と比べて極めて高圧になる。散々我慢をした者が、便所に駆け込んだと想定しよう。ズボンを下ろすや否や、照準はおろかケツを下げる間もなく下痢を噴射させはじめると考えられる。その結果、極めて自然にクソが炸裂するである。

グラフ1

グラフ1:便意圧[単位は Morr(モーレル)]

グラフ1は、とある秘密結社が極秘で行った人体実験の結果を示したものだ。極度の下痢を起こした成人男女23名について、便意を感じてから1分程度の便意圧と、極限まで我慢して肛門がヒクヒクと震えているときの便意圧を調査し、それらの平均値を算出した。その結果はグラフを見れば一目瞭然である。



寒い
2000年1月12日(水曜日) はれ

今日は恐ろしく寒い。僅かな時間でも外へ出ることが躊躇われるほど寒い。うちのPCも寒さに耐えきれず凍えていたのか、今日は立ち上げるや否や青い画面である。まったく、寒いとロクなことがない。光熱費は増えるし、持病の冷え性が身に沁みるし、風呂に入るのもゾクゾクして気が乗らないし、布団も最初は冷たい。寝ることすら嫌になる。早く夏にならないかな、暑い季節が待ち遠しくて仕方がない。裸で過ごすことを好む痩せた人間というもの、動作温度範囲は上の方に伸びている。

五味川純平著「人間の條件」などを読んでいたりする。ある人物の薦めで読み始めたものだが、戦争物ということで最初は余り気が進まなかった。戦争物にありがちな、ドンパチ系や、涙無しには読めない左翼的ヒューマニズム系は肌に合わない。しかし、「人間として生を受けた者の義務」ぐらいことを言われ、年始休暇の暇つぶしも兼ねて読むことにしたわけだ。しかし、先はまだ長い。文庫本で全六巻、読み終えたのは第一巻だけだ。読了する頃には、きっと持病の冷え性も気にならなくなっていることだろう。



情報弱者?
2000年1月11日(火曜日) はれ

猫も杓子もインターネットな世の中であるが、それだけに「何のことだかさっぱり」という人にとっては、いかにも世知辛い世の中なのかも知れない。朝日新聞の投書欄あたりを見てると、70を前後の爺さん婆さんが「情報弱者が増えるだけ」とか何とか文句を垂れていたりするが、心配せんでもよい。それは「さっぱり系」人間の寿命を無限大と設定し、世の中の情報化とやらが加速的に進むと仮定した場合の話だ。決して先は長くない面々が、情報難民として不自由を感じることはないだろう。

落ち着いて考えてみると、インターネットみたいなものが流行しだして以来、「何が変わるか」という視点で見た議論は掃いて捨てるほど出てきているけれど「実際に何が変わったか」という議論はそれほど見ない。さて、何が変わったのだろう。「仕事・・メールが使えない職場なんて想像できません」という人も多いだろうけど、だからといって、さっぱり系の人の日常生活に困る要素が増えることになるとは思えない。電話やFAXが衰退しているわけではないのだから、例えばメールが使えなくても何ら支障は無い。

もちろんだが「仕事上使えないといけないのだけれど、分からないから困っている」人の心配は、普通のさっぱり系な人々とは全く別の問題だ。はっきりいって、分かろうとする努力が足りないだけであると思う。そういう人に限って、初心者という名の免罪符を良いことに、能動的な挑戦を試みる姿勢が見られない。五十も過ぎたうちのクソオヤジからもメールが来るぐらいだが、やるとなれば滑稽ながらも色々と遊ぶのが好きだから比較的早く理解するのだろう。その辺の違いは、大きいと思う。

話は飛んだが、だいたいインターネットを流れているデータの半分以上は、日常生活上あってもなくても困らない内容に違いない(チャットの雑談とか、多事毒論の記事とか?)。必要と認められたデータのうち、また半分は電脳屋じゃないカタギな人には無関係なデータだと思う(メモリがどうとか、構造体と共用体がどうとか)。カタギな人にも関係のありそうな残り僅かなデータの9割は、恐らくインターネット以外のところにも流通してそうな気がする(新聞系のサイトとか、役所の統計とか)。

そう考えると、インターネットなんてまだまだ補助的なメディアだと思う。チャットばっかりやってる人は、そのうち飽きてくるかもしれない。電脳系な人も、その趣味がなくなればサイバーな情報を検索しても意味がない。「明日から経費のかかる新聞配達はやめますので、弊社ホームページでご愛読下さい」という新聞社は当面現れないだろう。使うと使わないのとでは大違いだけども、やはりサブはサブ。情報弱者になってしまうことを真面目に心配するほどのことではないのが...ネットの良いところ。



初夢2
2000年1月10日(月曜日) あめ/はれ

わたしは、中学ぐらいの時までしょっちゅう変な夢を見る方だった。眠りが浅いとか、精神状態が荒んでたとか当時は色々とあったのだろうが、最近はそれも改善したのか、殆ど夢を見なくなった。見ることがあるとすれば、電気とテレビ付けっぱなしでうたた寝するときなど、明らかに浅い眠りのときだけなのだ。ところで、わたしが今年初めて見た夢はロクでもない内容だった。

それはというと...家の近所に爆弾を仕掛けて人を殺し、逃亡生活をするお話だ。これがまたディテールまで妙にリアルで、爆弾を置いた場所も実在する場所。わたし自身は、現場近くの安全な場所で爆弾がぶっ飛ぶところを観察しているのだ。犠牲になった奴が誰なのかまでは分からなかったが、野次馬に混ざって何食わぬ顔で焦げた死体も確認した。逃亡先として選んだ先も実在する場所で、そこまで物語が進んだときに、汗びっしょで目が覚める。

まったく、これほどまでに清く正しく美しい心を持つわたしが、どうしてそんな夢を見なくてはならないのだろう。普段から凶悪な犯罪計画など...立てていないこともないもないが...それは「犯罪は完全に」という持論の標語を裏付けるための趣味みたいなものだ。実行に移そうと考えた事は、断じて無いぞ。



初夢
2000年1月9日(日曜日) くもり

初夢というものは、本来は元旦かその翌日に見なければならないらしいが、実際のところそんなに都合良く夢を見られるわけがない。あまつさえ、「一富士・二鷹・三茄子」といった難しい条件付きの夢を見ることなど、本当にあるのかどうかすら疑わしいのだ。富士と鷹までは良いとしても、だいたい「茄子」に何の縁起があるというのだろう。色んな説があるようだが、「徳川家康の縁起かつぎでそうなった」という説が有力らしい。勝手な趣味で決めるなよ、そんなこと。

運良く初夢を見るべき時に見られない人は、きっと多いに違いない。そんなわけで、初夢を「新年になって初めて見た夢」と再定義すれば、365 日間ずっと夢を見ない人を除けばみんなが平等に初夢を体験できるはずである。ついでに、根拠の良く分からない縁起話も改定すべきだ。例えば「初夢を見たときに夢精したら子沢山」といった按配に、夢精は生殖器が元気な証拠だというもっともらしい根拠のあるもので、かつ現実的に起こりうる現象でなければいけない。子孫繁盛とは、これいかにも正月らしいではないか。

そのためには、枕の下にHな本を入れておくと吉? 有害図書撲滅委員会的なところから、苦情殺到だろう。



新世紀[電脳社会編]
2000年1月8日(土曜日) くもり

遠い未来だから世の中は変わっているはずだというバイアスを利かせて21世紀という時代を想像した未来予想を見ると、高度に電脳化された世の中が描かれていたりする。複雑なことや細かいことはコンピュータが最適な判断をしてくれる世界が登場したり、あるいは人間同士が相容れぬ主義や意見を対立させることを避け、コンピュータが世界の安寧秩序を維持するようなSF的な世界もある。だが、いずれにせよコンピュータが自ら思惟を働かせ、適切な判断を行う時代が来るだろうという予想はあったようだ。

サザエさんの四コマにさえ、そんな予測が登場していた。一家の正月、雑煮に入れるべき餅の数を判断してくれる家庭用コンピュータが1980年には登場するだろうというものだ。これがいつ描かれたものなのかは分からないが、サザエさんにも登場するぐらいだから、相当にまで電脳化された世の中を思い描いた人は、意外に多かったのかも知れない。だが、現実的な1980年の正月には「おとーさん、餅いくつ入れるねん?」と叫びながら、一旦寝転がれば微動だにしない生ゴミを叩き起こしていたことだろう。

結局、一般に言えばコンピュータなど全く進化しないまま21世紀を迎えることになる。早くなったとか、大容量になったとか、表示が美しくなったというのは、表面的な変化に過ぎないのだ。ノイマン型コンピュータが臍の緒を切って以来、基本的な構造は変わっておらず、所詮はゴージャス仕様の電子計算機である。自分で物事を考えたり、創造したり、与えられた命令を反駁することはない。似たものはあったとしても、それは特定の状況を設計者が意図した通りに判断する、汎用性のない仮初の思考に過ぎない。

ところで、多くの電脳化社会の予想には「凄い!」と言いつつ「けれど...」という、一種の問題意識も暗に込められていたと思う。電脳万能な社会が、人間にとって本当に正しいのかという問いだ。これは、コンピュータは自ら物事を考え、人間がコンピュータに使われることになるという誤解に基づいて出てきたものだと思う。確かに、あらゆる業務がコンピュータなしでは回らない社会は、電脳万能を達成しつつあるのかも知れない。しかし、コンピュータは面倒な仕事を合理的に片づけるための道具に過ぎない。

「人間が道具に使われる時代」を予想し、心配することなど本当に必要なことなのだろうか。コンピュータが政治を担ったりと、本来は人間が処理すべき問題に口出しすることなど、あり得るだろうか。わたしには、人間がそこまでプライドを捨てられるとは思えない。コンピュータを作るのも、また人間。どうせなら、百パーセント支配できる奴隷を作るだろう。コンピュータは、人間を超越しないと思う。



新世紀[都市生活編]
2000年1月7日(金曜日) あめ/くもり

世紀末と来たら新世紀..ってのも、月並みだが。

もう1年もすれば21世紀になるわけだが、ガキの頃に読んだ絵本に載ってるような「未来予想」などと比べると、文明はあまり進んでいないように思う。1980年代に想像した21世紀は夢の未来のように感じたけれど、実際にその1年前になってみると「大して変わらんじゃないか」という感じがする。2040年あたりになれば違うことも色々とあるのだろうが、いまの時代、20年程度では文明に飛躍的な進歩が起きないほど、進歩しきっているのかも知れない。これからは進歩ではなく熟成の時代ということか。

流石に、20年そこそこで人が月とか火星に住むようになるという予想を本気で立てた人は少ないだろうが、20年もあれば世界は大きく変わるだろうと思った人は以外と多かったのかも知れない。未来の都市像と称して、浮きながら音も立てずに走行する自動車がアクリル管みたいな都市高速道路を通り、天まで届かんばかりの摩天楼に巨大や地下施設という絵が印象に残っている。それが21世紀を描いたものなのか、それともより遠い未来を想定した設定なのかは知らないが、現実はどうなのだろう。

摩天楼と地下施設は、新宿を歩いていると実現している感じがする。とはいえ、これらは都市の一部にだけ存在する特殊なもので、果たして未来予想がバブルの産物とも言うべき皮肉なオフィス街を想定していたのかどうかは疑問である。未来予想には、あまりネガティブな思想は持ち込まれないし、どちらかというと生活に密着した部分を描いている場合が多い。だとすると、都市生活者の日常生活空間は摩天楼に囲まれたものになると予想し、それはむしろ合理的な形態と見たのかも知れない。

しかし、いまや都市の空洞化が問題になり、都心の小学校は廃校の危機に立たされるようなご時世だ。一時は職住接近なんてことが叫ばれたこともあったが、摩天楼に囲まれギスギスしたところに敢えて住んで、このような都市生活を望む者はそう多くないのだろう。独り者ならまだしも、妻子持ちなら静かなベッドタウンに住みたい人の方が圧倒的だと思う。都市の近代化は、都市のキャパオーバーに対する苦肉の解決策という気もする。これを都市の美と見ることもできるが、こぢんまりとした環境も美しい。

都市における道路や自動車の存在も案外に進歩していない。自動車の動力源だけを取ってみても、内燃機関の使用は昔から変わっていない。電気や水素といった新手の動力源が実用化されているとも言い難いし、ましてや浮きながら走るような自動車など暫くは出てこないだろう。道路のような都市のインフラも、現実的に見れば直ぐに変えられるものでもない。都市高速道路も、当面は強引に拡張するなりして使われ続けることだろう。高架や地下を走る道路も、近代化というよりはキャパオーバーな都市における苦肉の交通対策ではないだろうか。



世紀末[ニュートラル編]
2000年1月6日(木曜日) はれ

「ネガティブ偏」があるぐらいだから「ポジティブ偏」もあるだろうと思ったあなた、さに非ず。昨日より、ネガでもポジでもない「ニュートラル偏」を書くつもりでいたのだが、よく見ると「へん」の字が違う。「偏」よりも「編」の方が正しいという気がするので、昨日の題名も訂正。今日は正しく「ニュートラル編」だ。そんなことは良いとして、本文に何を書くつもりだったのか忘れてしまった。練っていたネタも、一日経てば雲散霧消、だめだこりゃ。老いを実感しながら、紫煙を燻らし思い出す。

実際、世紀末とは「ある世紀の終わり」のことであるから、それ自体はどうでも良かったりする。別に世紀が変わったからといって世の中が激変するわけでもないし、それを祝う理由も無いと思うのだ。「年」のように程良く忘れた頃に増加するカウンタがインクリメントされるとなると、これは一つの区切りと言えるから「新年おめでとうございます」にも意味があると思う。だが、世紀という、人生で一度でも増えれば運が良いようなカウンタとなると、桁が大きすぎて個人で意識できるようなものではないと思うのだ。

「19世紀から20世紀へ、20世紀から21世紀へ」という形で時間の流れを見るとき、少なくとも200年のタイムスパンを扱わなければならない。19世紀はこんな時代で、20世紀はあんな時代だったと歴史を眺めるように振り返ることはできるし、20世紀はこんな時代だったから、21世紀はこうしようと抱負を述べることも出来るかも知れない。しかし、それは恣意的に区切られたある100年と、別の100年の趨勢を比較が出来て初めて言えることである。偶然、世紀の変わり目に居合わせた個人に比較できる単位ではない。

そんなわけで「21世紀も間近」なんて言われても「だからぁ?」っていうのが、わたしの正直な感想なのだ。20世紀はこんな時代だったと纏められるほど20世紀を生きている訳でもないし、21世紀を予想する超能力も持ってない。100年を振り返ってあれやこれやと騒ぐのは歴史家に任せておけば問題ない。なんやかんや言って、比較的短いスパンで物事を考える人間にとっては、今年と来年ぐらいの単位がちょうど良く、世紀なんて数え方は大袈裟すぎると思ったりする。



世紀末[ネガティブ編]
2000年1月5日(水曜日) はれ

あまり実感は無いが、よく考えれば今年は本当の意味で世紀末だ。実はわたし、中学生ぐらいまで21世紀の始まりは西暦2000年だと信じていた。しかも、1900年代が19世紀なら分かりやすいのに、1900年代を20世紀とした人間は相当ひねくれた奴だと思っていた。しかし、そうではない理由に気付いて妙に納得した記憶がある。1世紀の最初の年が西暦1年であるならば、新世紀の始まりが2001年で、1900年代が20世紀になるキリの悪いさに説明が付く。欲を言えば「ゼロ」からカウントして欲しかったけど。

それで、世紀末だ。今となっては世紀の終わりを指す語に過ぎないと思うのだが、言葉自体が持つ印象は得てして悪い。どうも世紀末とくると「当たるはずのない予言」などにしばしば見られる終末的なものを連想してしまうというか、具体的には

世界的規模の核戦争勃発

度重なる戦闘で人口激減

折しも混乱の最中、巨大隕石が地球を直撃

隕石衝突による気象異常のため世界的な飢餓が発生

人口は更に逓減

人類ついに絶滅

なんていうという按配に、地球と運命を一蓮托生する結末を連想してしまうのだ。19世紀末ヨーロッパに出てきた社会的頽廃傾向がこんな今の時代に復元しつつあるとも思えないし、あるとすれば、80年代に流行したネガティブな思考が(少なくともわたしの中では)未だ尾を引きずっている気がする。80年代半ばから数えて約15年後という、見えそうで見えない程度の距離にある近未来で何かが狂い始めるとすると、世紀末という明確な時代の変わり目とも重なって「仮説」をでっち上げるには具合が良いのかも知れない。

わたしは終末論を信じていたわけでもないし、いまも信じていない。しかし、人類は愚かだという前提に立ち、最下限まで頽廃して自らの運命を狂わせるような仮定は大好きである。誰も文明というものを思い出せない近未来も、空想の中で展開する限りは面白いものではないか。おっと、世紀末とは何ら関係のないことだが。



原子力と報道
2000年1月4日(火曜日) はれ

暫く前の話になるが、東海村の臨界事故で被爆された JCO の作業員、大内久氏が亡くなられたそうだ。気の毒なことである。裏マニュアルだか何だか知らないが、それに従った作業がこのような結果を招くとは、当人も想像すらできなかったことであろう。初期の報道では、手抜き作業を行ったため周辺住民の被爆させた加害者のように言われていたこともあった。しかし、後に会社の杜撰な体制が明らかとなったため、そのような論調は姿を消し、大内氏はむしろ被害者として扱われるようになる。

大内氏が死亡して、また報道における氏の位置付け変わった。作業に従事していたときに特殊な事故が起き、それが原因で死亡した労災の一被害者ではなくなる。むしろ原子力という存在に対する不信感や恐怖感の象徴となってはいないだろうか。現実に事故が起きる原子力は危険であって排除されるべきものであり、現に死人が出ているではないかと主張するための記号のようなものだ。結論の出しにくい問題であるゆえ忌憚なく嫌だとは言えなくても、何となく恐ろしいものと思わせるにはもってこいの実例だが、このような考え方の遷移をみると、報道なんて本当にご都合主義だと思う。

原子力ネタには、都合の良すぎる報道が腐るほどある。原子力は絶対安全という姿勢を取っていた国も国だが、原子力を使う限りは絶対安全でなければならないとか言っていた報道も同じぐらい罪深い。そもそも絶対安全などあり得ないわけで、何も起きるはずは無いという前提は成り立たない。事故はいつか必ず起きる前提で物事を考えなければならず、その際に適切な対応ができるよう予め考えておくのが正しい姿勢であることは言うまでもないし、多事毒論でも過去に同じ事を何度か書いてきた。

ところが、日本においては「事故が起きる可能性あり」という前提を忌み嫌う傾向があるように思う。そもそも事故の起き得るものは容認できず、事故らない設計をして然るべきであって、事故の想定など不吉極まりない、という感じの考え方だ。だから国も「原子力は絶対安全」などという訳の分からない姿勢を取ってきていたし、報道もそれに同調していた。だから、ひとたび何かあると、なぜ絶対安全とされていたものが突然でっかい事故を起こすのかと慌てることになるのだ。

そして報道は、前提が間違っていることは棚に上げ、事故対策の不足を糾弾に走る。なぜ事故が起きたときに速やかに対応できないのかと。いままで事故が起きてはならないと散々主張してきた者の指摘としては、この上なく矛盾したことだ。事故が起きないのなら、それに対する備えは必要ないのだから、速やかな対応ができなくて当たり前である。速やかな対応が重要というのなら、事故を想定に入れておかなくてはならないが、そんなことを声を高くして言っていた報道機関があっただろうか。何とも見苦しいものだ。

結局、国も原子力は絶対安全という姿勢を崩した。そんな当たり前のことに、今頃気付いたのだろうか。



まあ今年も...
2000年1月3日(月曜日) はれ

年末に勧銀の営業から宝くじを連番で10枚買っていたことを思い出して、既に古新聞置き場に突っ込んであった元旦の朝刊を引っ張り出してみる。前後賞合わせて3億円は、天の定めの如く俺様の手元に渡るはずだったのに。なのに、なぜゆえ人生って、こうまでも思い描いた筋書きにはならない、キビシイ内容となっているのだろう。連番で買えば1枚だけは必ず当たる仕組みになっている300円が、残念賞を通り越して当て付けとさえ思えてきたりする。

所ジョージのクソ野郎め、ナメた格好でCMに出て、不用意に人の欲情を煽るんじゃねえ、畜生。こんなことなら馬券でも買ってた方が格段に率が良いよな、キムタクは嫌いだけど。などと、不条理この上ない外罰的な文句を垂れたくなる、例年に通りの夢のない格好で終える正月三が日となってしまった。こんな日に限って「がいばつてき」を「外×的」という、人を食ってかかっているとしか思えないような変換をするATOK13の動作さえ、癪に障るものがあったりする。

しかし、それもこれも明日になればすっかり忘れていることだろう(単純)。くじの日に行われる再抽選に期待をかけ、いつも外れくじを取っておくところまでは良いのだが、9月2日の当日に、その日がくじの日であることすら未だかつて思い出したことがないし、もちろん、外れくじが抽斗のどこかで眠っていることも覚えていない。外れくじの束が再び日の目を見るのは、年に一度ほど行われる大整理のときである。最後に一度、金をドブに捨てたことを悔やむためにだけ、外れくじは安置されるのだ。

要するに、外れくじにも外れ馬券にも明日は無い。明日は御用始めだ、真面目に働こう。



寝正月
2000年1月2日(日曜日) くもり

寝正月と呼べるほど寝ている気もしないが、実は思いっきり寝ている気もする。いつ、何時間ほど寝ているのか自分でも把握できないような生活をしているから、そういう事態に陥るのだろう。適当にテレビ見て、適当にメシ食って、適当に本でも読んで、適当に空いた時間を利用して寝る。何の規則性もない、この上なく清く正しい正月の過ごし方ではないか。今日は日が沈んでから起床したが、太陽を見た記憶もある。いやまてよ、あれは何日の太陽だったのだろう。もしかするとデジャビュかも知れない。そろそろ、日付感覚までおかしくなってきたらしい。

ところで、元旦の朝日新聞は大いに笑わせてくれた。エリツィン大統領辞任の話は良いとしても、傍らにある2000年問題の欄には、朝日新聞を購読している者にしか分からない面白さがある。「...三十一日夜から全国で警戒態勢に入った。コンピューターによる便利さは半面、何が起きるか分からないという不安を包み込んでいる。『ミレニアム』は、こうしたコンピューター社会を象徴する形でスタートした」(原文ママ)とある。朝日新聞の記事によれば「コンピューターは何が起きるか分からない」そうなのだ。

我々の社会は、銀行預金の処理や、自動車のエンジン制御や、新聞のレイアウトや、飯の炊きあがり具合を、我々は何が起きるか分からないものに委ねているのだ。そして最近は、何が起きるか分からないものが、各家庭にまで普及し始めているのだ。非常に恐ろしいことである。わたしの家にも、マイコンの入っていそうな機械が20〜30はあるだろう。何が起きるか分からないのであれば、それらが一斉に雄叫びを上げながら暴走を始め、形あるものを全て破壊するという事態さえも想定しなくてはならない。

しかし、
エヴァに乗ってるんじゃねぇんだからいくらなんでも何が起きるか分からないということはないだろうが。一体、この文は何が言いたいのだろう。ここのところ、コンピューターとやらが蔓延るようになって、まったく鬱陶しいことこの上ない。それも時代の趨勢と諦めておったが、しかぁし!! 聞けば、年を越しただけで誤作動するというではないか。そんな役立たずどもに仕事を任せる連中ときたら、いったい何を考えておるのだ。だいたい、けしからんにも程がある。そんなややこしいものは、即刻廃止したまえ!

と言いたいように、わたしには見えるんだが。頑固ジジィが感染するぞ(笑)



明けましておめでとうございます
2000年1月1日(土曜日) はれ

新年明けましておめでとうございます。
今年も突撃実験室/多事毒論を宜しくお願いいたします。

さて、予想通り西暦2000年問題では、これといってセンセーショナルなことは起きなかった。電話も水道も電気もテレビも、全て異常なし。会社の方でも、特に何も無かったようだ。最も心配されたわたしのPCも終夜運転を行ったが、システムが止まることなくカレンダも無事に年を越してくれ、一安心である。Y2K 関係のパッチは当てていないから恐らく細かいところでは問題が潜んでいるのだろうが、重大な不都合があれば、おいおい修正することにする。

わたしは、何のライフライン対策もしていなかったので、仮に何か問題が起きていたら多少の不便があったかも知れない。しかし、常識的に考えて普通の生活が出来ない日が何週間も続くとは考えにくいし、まあ一人モンだから何とかなる。世間は適度に騒いでいたが、年を越すと同時に地球がひっくり返るぐらいのことをY2K関係の本に書いていた人もいたっけ。今頃、彼らはどうしているのだろう。結局はノストラダムス本と同じザマなのだろうか。「常識に勝る対策はない」とは、某氏の弁。まったくその通りだ。備えあれば憂いなしも大切だが、それも常識の域を超えない限りにおいて、有効なのだから。

久々の更新になるが、掃き溜め写真館にプルタブと車いすを追加。



突撃実験室