多事毒論(2000年3月分)



有珠山
2000年3月31日(金曜日) くもり

有珠山がとうとう噴火したようだ。付近の方々には、心からお見舞い申し上げたい。

自然災害に対し、人間はただ逃げまどうしかなく、なるようになる有様を見ているしかない。だから無理にでも誰かのせいにしたいのか、遣り場のない怒りは先ず役所へと向けられるらしい。火山の噴火は比較的容易に予知できるためか、有珠山の噴火においては役所の手際が良かったようだ。そのことについて某ニュース番組では「まずまずの対応」という言い方をしていたから笑ってしまったけども、あら探ししても叩けるところが何もなくて、苦し紛れにそう表現したという印象を受けた。

いつもの事だが、災害時にはNHKが一番まともな報道をしていると思う。これがNHKのプライドってやつか、地元にとって必要なことを出来るだけ伝えようとしているのは、ここぐらいだろう。スクープじみた報道をしたがる民放はダメである。カメラを豪快に揺らしながら「噴火ました! えー煙が、黒い煙がモクモクと...」などとヒステリックに叫ぶ画面は確かに緊迫感があるけれど、はっきりいって誰の役にも立たない。事後に資料映像としてみると、あの作り物めいた緊迫感が何とも滑稽に見えてしまうものである。

火山と言えば地震、地震と言えば阪神大震災。最終的な人的被害を正確に知る人は意外と少ないようで、関係のありそうな Webpage を幾つか覗いてみると死者 5000人〜 6000人と、資料によって書いてある数字に大きな開きがある。きっとこれらは古いのだろう、残念なことに死者は増えるものなのだ。恐らく最新の消防庁発表がした正確な人的被害は、死者6,430人と行方不明者3人ということになっているはずだ。ただ、ここで未だに疑問に思うことは「行方不明者」が3人もいるという点である。

素朴な疑問として、この方々は一体どこへ消えたというのだろう? 発生した津波で海に飲まれ、遺体が上がらなかったというのなら分かるが、阪神大震災で津波は発生していない。だとすれば、倒壊した建物の瓦礫に埋もれてしまって誰にも気付かれず、そのまま産業廃棄物として捨てられてしまったのか? 土砂崩れで生き埋めになったまま忘れられたのか? はたまた、この3名は、たまたま地震直前に夜逃げをして行方をくらました結果、震災の行方不明者リストに誤って加えられてしまったのか?

それすら良く分からないから、行方不明なのだろうが。



IQテスト
2000年3月30日(木曜日) はれ

自分の頭は、良いのか悪いのか。良いにしても悪いにしても、それは他者と比べた相対的なものだから絶対的な基準があるわけではないが、極端な偏差範囲に属さない標準的な頭があれば、まあ日常生活に困ることは無いから良いだろう。少なくとも、天才には悲惨な運命が待ちかまえている、ってのが世の中の相場であるらしい。ならば、馬鹿として生きた方がまだ幸せというものか。はい、わたしは幸せです。

オンラインでIQテストが出来るサイトを見付けたので、ここは一つ、インチキなしで真面目に受けてみるのだ。題名には「EUROPEAN IQ TEST」とあるのでヨーロッパ式なのだろう。ヨーロッパ式だと何が違うのかは良く分からないが、ある規則に沿って並べてある数字や図画の羅列が一部歯抜けになっており、その抜けている部分に入れるものとして論理的に最も正しいものを選べ、という点では一般的なIQテストと同じだと思う。制限時間は20分、ゆっくりと考えている暇はないが、深く考えると余計に分からなくなる。

さてさて、問題を解いて採点させてみると、「Your IQ according to this test: 147」と出た。このテストがどれだけ正確なものなのかは分からないし、147というIQが高いのか低いのかも全く検討が付かない。聞くところによれば、IQが200以上の人間..というか仏様たちは、オナニーすると出てくる白い液体がカネになるというから、懐が寒くなったときはピストン運動で一稼ぎだろうか。「IQ 200の遺伝子売ります」と、Yahooオークションに出してみたりとか。どうやって使うんだ?

なんだかなあ。脱ぎたてホヤホヤのシミ付きパンツという触りたくもない物体でも、女子高生の生産物であというだけで有価物となるブルセラを彷彿とさせるものがあると思うのは...恐らくわたしだけだろう。



バーチャル捜査も..
2000年3月29日(水曜日) はれ

ある Web サーバを管理している知人宛てに、某県警所属を名乗る人物からメールが来たらしい。内偵であれ何であれ、警察関係者が差し出した捜査絡みのメールともなれば毅然としたものを想像したくなるが、差出人のメールアドレスは、海外ドメインの無料メールアドレスだったという。中継メールサーバを調べても、それは民間プロバイダのもの。あまつさえ、メールの文面にそこはかとなく漂う素人臭さも手伝って、最初は悪いイタズラだろうと判断したそうだ。総合的に見て、的確な判断だ。

しかし、連絡先の電話番号と内線番号、及び担当者の氏名も書いてあったので取り敢えず電話を入れてみたらしい。すると、繋がった先は確かに某県警本部。担当者も実在の人間で、曰く確かにそのメールを送ったとのこと。あることについて捜査を行うため電話で連絡を取りたかったのだが、管理者の電話番号が不明だったので取り敢えずメールで連絡したのだという。案件そのものは直ぐに片付いたのでこれといったことは無かったそうだが、イタズラと疑われて当然の方法でコンタクトを試みる警察も困ったものだ。

ネットワーク管理者の電話番号は、一々メールで聞かなくても whois で調べれば分かることぐらい、ネットワーク屋さんなら誰でも知っていることである。その知人が、whois を知らないのかと聞いたところ、whois の存在は知っていても使い方は分からないというお返事が。無料メールアドレスについても、警察のメールアドレスは使えないからやむを得なかったとの返答があったそうだ。hogehoge@police.pref.******.jp みたいなアドレスであればまだ見栄えはするが、流石に無料メールでは誰も信用しないだろう。

試しに神奈川県警のホームページを見ると、連絡先として書かれているメールアドレスは民間プロバイダのもので、県のドメインではない。他の県警ではどうなのか知らないが、そのことからして、一般に警察代表のアドレスはあったとしても各捜査員が公用メールアドレスを持っているとは考えにくいことだ。インターネットにおいては、必ずしも電話などの連絡先が分かるとは限らない。そういったケースで捜査協力を得るためには、信用のできるメールアドレスの一つぐらい、用意しておいて欲しいものだが。

後に警察の担当者からお礼のメールが届いたそうだが、それにはネットワークにおける犯罪の捜査も、門外漢がこなさなければならない辛い現実が犇々と綴られていたのだとか。インターネットという今までになく難攻不落の敵を前にして、警察と言えどもどことない世知辛さを味わっているのかも知れない。枚挙に遑のない不祥事で信頼をガタガタにし、やる気のない記者会見で火に油を濯ぐ最近の各県警だが、ダメな幹部が運営するお堅い組織であるがゆえに現場へと回ってくる皺寄せには、何となく同情したくもなるものだ。



風船爆弾
2000年3月28日(火曜日) あめ

雨やら地震やらと、なんだかややこしい日である。

難視聴対策でケーブルテレビをタダで見ており、地上波の再配信以外にもケーブルバンドで幾つかの無料チャンネルが受信できることは以前にも書いたが、無料で見られるチャンネルが増えていないか、時々チェックしていたりする。ま、いわゆるケチというやつだ。今日もそのようなことをやっていたら、あるチャンネルでこんな画面が写った。怪しげな測定器でも買ったの? って言われそうだが、これは普通のテレビの画像なのだ。スペアナ的だけど、何を計っているのかはよく分からないし、何のために加入者宅に送信しているのかも謎。電界強度の試験用?

風船爆弾というものをご存じだろうか? アメリカ本土を震撼させるべく、太平洋戦争中、爆弾を吊した気球を偏西風に乗せて陸軍がアメリカに向けて飛ばしたというものだ。水素ガスで満たされた気嚢は和紙製、糊は何と蒟蒻を使ったらしい。今の日本に、現代的な手段で攻撃することは不可能だ。しかし、どうしてもアメリカ本土に熱い一撃をお見舞いしてやりたい! という熱い想いが、50年を超える歳月を経てもなお痛いほど伝わってくる。っていうか、今となってみれば、はっきりいって痛々しいだけだが。

あるいは、これが余りにローテクだからといって、嘲笑っても良いものなのだろうか。誰が思いついたのかは知らないが、馬鹿げたことでも実際にやってみる人は偉いのだ。そして偏西風の存在に着目し、これを用いれば推進力を有さない風船であってもアメリカ本土に短時間で到達可能であるという事実に目をつけた人も馬鹿には出来ない。アメリカで謎の風船が発見されたとき、こんな風船が日本から飛ばせるとは信じられなかったらしい。下手な技術的先入観がない方が、面白いものを作れるという証左であろうか。

更に驚くべきことは、単に「届けば良いな」という希薄な期待に任せて飛ばしたのではなく、アメリカ本土の上空で降下して爆発するように、文字通り設計されていたらしい。先出のサイトによれば、約9000発が飛ばされ、約1割の1000発前後がアメリカ本土に落ちたのだという。1割という数を多いと見るか少ないと見るかは意見の分かれるところだろうが、飛行状況を確かめて精度の調整をすることも恐らくはできなかっただろうに、自然の風に飛ばされてゆくだけの風船としては、それなりの精度を出していると思う。

もちろん、痛々しいことには変わりないが。



オタクって
2000年3月27日(月曜日) はれ

プレゼント企画の当選者が確定したので、同ページで公開中。2000年4月2日に閉鎖します。

オタクの宿命 オタクってのは、何かと多趣味であるらしい。従って多趣味な人はオタクだ、という積もりはないけれど、確かにその傾向はあると思う。ある一つのことだけに着目して熱中するだけでは飽きたらず、なんだかんだと広範囲に手を出したがり、しかもどういう訳だかどれにも人一倍に嵌り込んでしまう人は、概ねのところオタクといって良いだろう。ちなみに、わたしは...一定の対象だけに特別なコダワリを持つことは嫌いで、根は飽きっぽいから、思いつきで色んなことを少しずつ囓っているだけの中途半端な人間だ。

こんなことを書くに至った理由は、DirecTV でオタクな電波を垂れ流している某アニメ専門チャンネルで番組の合間の空いた時間に鉄道ビデオを流しているのを見て、ふと思ったからだ。問い合わせ先の電話番号がテロップで出ているので、これはビデオを売るためのプロモーションなんだろう。しかし、どうしてアニメオタクしか見ないチャンネルで鉄道ビデオを売るのだ? それは、アニメオタクのうち、相当数は鉄ちゃんでもあるからに違いない。っていうか明らかにその通りなのだが、漠然と思っていたことと妙に一致したもので。



JAバンク
2000年3月26日(日曜日) はれ

は天下の回りもの

の切れ目は縁の切れ目

いつまでもあると思うな親と

地獄の沙汰も次第


テレビを見ていると、何だか品のない諺が山のように聞こえてくるから、こりゃ一体どこのCMだ? と思って見ていると 「JAバンク」 が新社会人向けに作ったCMであることが判明して、大爆笑。テリー伊藤が手本として諺を叫ぶと、リクルートスーツに身を包んだ大勢の新社会人がそれを復唱するというだけで大した内容ではないが、何せ相手は 「JAバンク」 だよ? 何を血迷ったか、安心と信頼がモットーの金融機関までもがウケ狙いとしか思えない 自虐系CM を打つ時代になったらしい。

しかし、こんなもんじゃ弱い弱い、全くもってヨワヨワすぎる。自虐系をやるのなら
湯川専務 の上を行くぐらいにぶっ飛んだ勢いでやらなくては、ただの お下劣なCM と言われて忘れ去られるのが運命だろう。そこで、来年の新社会人向けCMとして全ての金融機関に是非とも提案したい内容がこれだ。


預金は刹那の夢うつつ

保護の切れ目は預金の切れ目

いつまでもあると思うな親と税投入

取り付け沙汰も次第


………………
……………………
…………
………………


こんな世の中だから○○バンクへ!


そこまで自信のある銀行があれば、の話だが。



プレゼント終了
2000年3月25日(土曜日) はれ/くもり

プレゼント企画の応募を定刻通り締め切りました。多数の応募に加え、貴重なご意見ご感想を頂きありがとうございました。当選者も確定し、その旨を伝えるメールも発送済みなので関係各氏は確認して下さい。

抽選に使ったプログラムを期間限定で公開することにしたので、興味のある方はプレゼント企画のページを見られたい。突貫工事が見え見えの汚いソースだから、余り見せたくは無いんだが。コンピュータというものは、どう転んでも何らかの数値を判断基準として動作するものだ。従って、抽選といった「ランダム性」が要求される仕事は、原理的に出来ないと言える。いくら精度の良い乱数を使っても、結局は何らかの規則性が出てしまうからだ。そこで時刻や人間がランダムに押したキー入力などを元にした乱数を使うこともあるが、それでは抽選を行う度に抽選結果が変わってしまうから、プログラムとして芳しいとは言えない。

なるたけランダムでありながら、何度実行しても同じ抽選結果の出るプログラムは作れないか...と思って作ったのが、今回の抽選で使ったものだ。記入して頂いた氏名を元に message digest (md5) を生成し、さらに疑似乱数を使ってめちゃくちゃに変えてしまう。md5 や疑似乱数には乱数めいた要素はあるけれど、実は規則的なものだから結果は何度実行しても変わらない。しかし、それだけでは結果が予想可能なので、誰が何を入力するか予想できないラッキーナンバの総和を演算の結果に重畳することによって、抽選結果も予測できないものとした。

その程度ものだが、公平な抽選といって良い範囲に収まっているのではないかと思う。



十把一絡げ
2000年3月24日(金曜日) くもり時々少し晴れ

纏まったネタがないだけだ。悪いか?(←偉そうに

数日前、PNGフォーマットの画像を使ってみたことを書いたが、結局その画像の使用は中止してGIFで同じ物を作り直した。そこそこ新しいブラウザならPNGも問題なく表示できるのだが、残念ながらメジャなブラウザでも少し古いもの(Netscape Navigator 3.x 系など)は対応しておらず、見られないことが判明したからだ。Netscape Navigator 3.x 愛用者は今でも少なからずいるようで、見捨てるわけにもいかないだろう。PNGそのものは割と昔からあるものなので大丈夫かと勝手に思いこんでいたのがいけなかった。

「炎の実験」の続編に必要な資材を調達すべく、東急ハンズへ行く。金曜日の夕方ともなれば、横浜西口は人が多くてイライラしにいくようなものだ。大した用事も無いクセにブラブラと出てくるな、チンタラ歩くな、通路の真ん中でボケっと突っ立ってるんじゃない、そこのナンパ野郎、邪魔だ、死ね。という感じに、俺様のペースを乱すヤツは全員敵なのだ。ん、何か間違ったことを言ってるか? そうかいそうかい、分かれば良いんだ。やっぱり、正しいのは俺様だけだからな。正論、正論。

とまでは言わないにしても、ちょっと気を遣えば良いことなのだ。携帯電話が鳴ったからと言って、いきなり立ち止まれば人の流れを乱すことになる。そのまま歩きながらでも、電話の応対ぐらいできるだろう。百貨店の出入り口といったクソ混み合う場所で静止しているヤツは、一体何を考えているのだ。待ち合わせか何か知らないが、もう少し邪魔にならない場所ぐらい、いくらでもあると思うのだが。まあ、どいつもこいつも自分のことしか考えていないのだ。まるで、わたしがこうして文句を垂れているように。



昨晩のこと
2000年3月23日(木曜日) くもり/危険な雨

このまま足枷を背負って一生を過ごすぐらいなら、いっそう死んでやると思い悩みながらビルの屋上に上がって柵を乗り越えようとしたとき、見上げた夜空に広がる星々が余りに美しかったので生きているのも悪くはないかと考え直していたら、空の彼方に光るものがあったので何だろうと思ってそれを見つめていると、いきなり眼前に閃光が走ったので目を瞑り、暫くしてから恐る恐る目を開けてみたら目の前に和服を着た美しい女性が立っていたので不思議そうな顔をしていると、甘い声で「ヤマト?」と聞かれたので思わず「ナデシコ」と答えたら、社会の窓を開いて証拠を見せつけながらやはり甘い声で「はずれ」と言われて絶望してしまい、改めて死ぬ気になったので投身を決意したところ、「父上の仇! 覚悟〜」という声が背後から聞こえてきたので振り返ってみたら、アーマーを着用した人間が剣を振りかざしながら亜光速で駆けてくる様子が見えたので、人違いだと教えてやろうかとも思ったけれど、この際だから斬りやすい体勢で待ちかまえていたら、先程の仇討ち君は急に足を止め、剣を鞘に収めつつ「野郎共、やっちまえ〜!」と叫ぶので何のことかと思ったら、途端におっかないオニーサンがどこからともなくわんさかと湧いて出てきて、しかも全員が自分にロックオンしてることが分かって頭に来たから取り敢えず纏めて掃除してやり、指をポキポキと鳴らして仇討ち君を睨み付けながら近づいていくと、小便を漏らして腰を抜かし硬直ていることが判明したので、こりゃダメだと思って「なぜ仇は自らの手で打たなければならないか」ということについて説教している途中、昨日みられた花粉症の症状が収まっていることに気付き、花粉症を苦に自殺するようなことには至らなかった。

やはり、ただの風邪だったんだろう。



じゅるる
2000年3月22日(水曜日) はれ

今朝からいきなりだ。...お鼻がムズムズ...鼻水が垂れてきて...目が痒い...

季節といい、天候といい、
こ〜れって〜 ま〜さか 花粉症

なんて鼻声で歌ってる場合じゃない。マジかよマジかよ。去年までは、何処飛ぶ花粉って感じだったのに、これからは毎年この季節になると花粉症に苦しまなくてはならないというのか? 昨日までは、花粉症で苦しんでいる職場の同僚を気の毒に思うどころかティッシュペーパーの無駄遣い呼ばわりしていたというのに、今日からは自分も生き地獄のような日々を過ごさなくてはならないというのか?

という具合に、朝からそうとしか思えない症状が出ていて精神錯乱気味なのだ。そういえば、昨日の晩は寝てる間に布団を蹴っていた気がする。いや、確かに蹴っていたはずだ。この時期だから、それで風邪をひいたんだ。こんなもん、風邪に決まってる! などと朝から考えている自分は、関係のないところに原因を見付けなくなる心理機制が思いっきり働いているんだな。っていうか、本当にタダの風邪であることを願いたい。

そういう感じに一日中調子が悪く、どうも朝から仕事にならないので今日はいつもより早く家に帰る。久々に「無限のリヴァイアス」とか見てみたら、次回で終わりじゃないの。それにしても、最近のサンライズは何を思って激硬派路線を決めているのだか。いままでにも増して、重苦しくやたらとキザな内容だ。

「過去の俺があるから、今日の俺がある」

なんていう、キザというより身震いのするような言葉をさらりと言っちゃう辺りがリヴァイアスって感じなんだけど、「そんなこと当たり前やん」と受け流してしまう自分も自分か。そういうのを見ていて、最近「当たり前すぎて口に出して言うまでもないことを、さも凄い発見のように力強く言ってみると、ああなる」という法則を発見するに至った。例えば「今日があるから明日がある!」と、緑川光が言うとか(笑)

いや、それをウケ狙い無しの台詞にしてしまうのは凄いと思うんだけど。



高周波回路とか
2000年3月21日(火曜日) はれ/くもり

「無線機」というとオタッキーな感じがする人も多いのかも知れないけれど「ケータイ」という言葉からオタクなものをイメージする人は希であろう。けれども、携帯電話端末も無線で通信していることには違いないから広義に言えばあれも「無線機」だと言えるし、法律上は立派な無線局である。ほかにも無線LANとか無線インターネット接続とか、なんだかんだと言って無線万能の時代ではあるけれど、高周波回路とかいうと、どうもぱっとしない気がするのは、わたしだけなのだろうか。

「高周波回路 = 形而上学」という結びつきが常にあるのだ。基板パタンとか部品の足とか、時として全然関係のない部品そのものが、コイルになるとかならないとか、コンデンサになるとかならないとかで、回路図には出てこない謎の要素が異様に多いことは言わずもがな。試作は出来たけれど、設計上の特性が出ないとかで、あれやこれやと悩んでいる技術者さん。突然、何かを悟ったかのように修正を始めたかと思えば、どういうわけだか、そこそこ動いちゃったりする電気回路。

「森羅万象を構成する素は?」
中世の人:天地水火?
最近の人:粒子?
高周波系の人:コイルとコンデンサ
何となくこういう開発スタイルが、どうしても「宗教書の行間を正しく汲み取れば」「苦悩の窮地に追い込まれている人も」「悟りの境地に達して世の中の真理を知ることができる」という構図と重なって見えてくるのである。わたしは、俺はファームだけ書いてるからね〜 と、デジタルでドライな仕事しかしていない人間だ。こりゃ、そんなヤツが傍目で高周波系の人間を見たときの偏見というものであると...少なくとも自分の勤務先が高周波回路設計の看板を掲げている間は、右表のような答えが返ってこないことを願いたい。



PNGについて
2000年3月20日(月曜日) はれ/強風

先日書いた電気的火遊びの図で、初めてPNG (Portable Network Graphics, ピング) 形式の画像を使ってみた。これまで、写真では主にJPEGを使い、図などフルカラーである必要が無く、JPEGの不可逆圧縮で劣化しては見栄えが悪くなりるものに関してはGIFを使ってきたが、そろそろGIFのような一世代前の劣ったGIFとはお別れしようと考えたわけだ。PNGの普及率を考えると、まだ一般的とは言えないが、よほど古いブラウザでも使っていない限り、見られないということは無いだろう。

GIFではなくPNGを積極的に使うべき理由として、特許絡みの問題が挙げられる。いわゆるGIFの特許問題についてはご存じの方も多いかと思うが、GIF自体に特許が成立しているわけではなく、GIFの中で使われているLZWというデータ圧縮アルゴリズムに関して特許が成立しているのだ。その特許を保有するUnisys社は、去年ぐらいまで「商用のソフトに関しては特許使用料を徴収するが、フリーウェアに関しては多めに見るのでライセンス締結さえすれば金は取らない」という方針で特許権を行使してきた。そのため、Unisysにもフリーウェアコミュニティに対する某かの理解はあるとされてきた。

ところが、Unisysは1999年にLZWライセンスの方針を大幅に変更し、このような声明を発表するに至った。おまけに「GIF画像を使用しているWebsiteの管理者は、(ライセンスを受けていないソフトで作成したGIF画像を使うなどして)ライセンス絡みの問題が起きてはいけないので『念のため』5000ドルの特許使用料を払え」というような眠たいことを言いだしたものだから、Webコミュニティからの非難が爆発。この際、「Unisys税」のかかるGIFとはすっぱり縁を切り、是非ともPNGを使おうというPNG推進運動に火をつけることとなった。

わたしは、こうしたUnisys非難が必ずしも正しいことだとは思わない。特許を保有する企業が特許の使用料を徴収するのは至って正当な企業活動であり、誉められはしなくても、非難されるべきことではない。LZWライセンス問題は、Webコミュニティが正しくて、企業の横暴な態度が悪であるというような善悪関係が明らかな問題ではい。「ヒッピー」対「企業」という終わりなき戦いの縮図であり、最後に悪いのは特許庁と社会なのだ。その戦いの中でヒッピーを軽視して裏切ることを決めたUnisysは、格好のスケープゴート企業となったわけだ。

そうしてUnisysは企業活動を貫いた結果、Webコミュニティにおける評価を大幅に下げることになった。そればかりか、オープンソース系の催しでUnisysの社名が入った名刺を出せばタコ殴りもやむを得ないだろう。そんな評価は断固として無視するのも一つの方針としてあって良いと思うが、これからの時代、それはどうなのだろう。インターネットのように極めて広域な通信においては、規格やアルゴリズムが誰でも自由に使えるオープンなものでなくては、使い物にならない。特定の企業に依存しなければ使えないようなものは、誰も望んではいないのだから。



プレゼント
2000年3月19日(日曜日) くもり/雨

準備に手間取ったため少々遅くなってしまったが、突撃実験室30万ヒットのご愛顧感謝プレゼントの応募受け付けを本日より開始することにした。何が貰えるかって? それは以前にここで示唆したこともある品物だ。まさか? やっぱり? 覚えてない? リアクションは様々であろうが、応募フォームへ行けば、全ての謎が解けるぞよ。

今回は、リロードしまくって30万ヒットを狙わなくても抽選で5名様に当たるから、プレゼントを貰えるかどうかは運次第...だけでは面白くない。そこで、ここは少し捻りを利かせてあなたが記入した「ラッキーナンバ」が抽選結果に反映されるという仕組みを用意した。抽選ソフト(というほど大袈裟なものではないが)はまだ作っていないけれど、たった一つの整数が全員の抽選結果を左右するというマジカルなものにする積もりなのだ。

というわけで、みなさま奮ってご応募ください。



更新報告
2000年3月18日(土曜日) はれ

本日の新着は、久々の実験ネタだ。加筆修正が思いのほか多く、予想以上の難工事で疲れた。気付けば、時計は日曜日の午前3時半を指している。そろそろ寝るとする。



実験ネタ
2000年3月17日(金曜日) はれ

思えば、ここのところ実験ネタが途絶え気味だ。ネタが無いわけではなく、企画はできているから後は実行あるのみ...と言いたいところなのだが、色々とあって未だ完成していない。文献収集とか部材の調達とか実験装置の制作とか、今やろうとしているものは以前よりも大がかりになってしまったわけで。わたしは、突撃実験室はエンターテイメントだと考えているから、パっと見て面白いと思える必要がある。実際どう見られるかはともあれ、少なくとも学校のレポートと同じにならないようには書きたい。

幸いなことに、今週末は三連休だ。ちょっと頑張ろう。




2000年3月16日(木曜日) あめ

久々の雨だ。お陰で調子が狂う。ネタがないのも雨天のせいに違いない。

ラジオのニュースによれば、今日の横浜地方は2ヶ月ぶりの纏まった降水らしい。2ヶ月間も大した雨が降らないで、よく水源が枯渇しないなと思うけれど、地下水などが適当に湧いて出てくるから大丈夫なのか。それでも夏場に2ヶ月間の日照りが続けば、水不足とかで給水制限が行われたりする。使う量も蒸発して消えてしまう量も夏と冬では違うのだけれど、人間如きの力で自然に適う筈もない。紋切り型の締めくくりだ、ほんとうにネタが無いらしい。

人間の営みでありながら、人間の力ではなかなか変えられないものと言えば..経済か。ただいまの日本経済は凄い不況に苦しんでいるらしいけれど、別に誰かが意図して不況になったわけではないだろう。今日の朝刊を見ると、1999年度の経済成長率が0.6%に満たなかった場合は、内閣に対する不信任を要求と民主党の鳩山氏が述べたとある。なるほど、成長なくして経済など成り立ち得ない。その後押しができない政治など、ダメな政治だというわけか。

ところが、経済の成長とは一見矛盾したことも新聞には書いてある。長持ちする製品や、再利用しやすい製品の製造をメーカに義務づけるとか何とか。大量に消費して大量に廃棄し、その結果また大量に消費するという循環構造が経済の成長を支えてきたのだとすれば、成長とは真っ向から対立する傾向である。あるいは、それでも経済の成長は可能なのだろう。経済学者さん達は判で押したように「成長」の二文字を叫ぶけれど、その必要性を分かりやすく説明してくれる学者さん、いるのかな?



続・キーボード
2000年3月15日(水曜日) はれ/くもり

今まで使っていたキーボードが少々傷んできたため、新しいキーボードを買った。そのキーボード(FILCO製)は、昨年11月21日の多事毒論でも書いた通り、キーのチャタリングが起きたり、押しても押したことにならないキーが出てきたりして、ストレスの原因となっていたのだ。だが買い換えるにしても、3000円ぐらいの粗悪品は買うべきでない。毎日それなりに多く使っているから、少し高くてもメカニカルキーを使った良いものでないと、安物買いの銭失いとして馬鹿を見ることになる。

先日、秋葉原へ行ったときに、今まで使っていたFILCOのキーボードと同じ全く格好をした製品をクレバリーで見付けた。運の良いことに、この日はキーボード全品が表示価格より500円引きと貼ってある。ただ、よく見るとブランド名はFILCOじゃなく、atessaと書いてある。店員を捕まえて違いについて聞くと、ブランドは違うが中身はFILCOのOEMだから、モノは同じだという。それならばと、買ってきた。8800円の500円引きに消費税、ちょっと高い買い物だったかも知れないが、まあいい。

家に持って帰って使ってみると、古いキーボードと比べてキータッチが柔らかい。以前よりも品質が少し低下したようにも思うが、キーボードとしては悪いものではないから許すことにしよう。でも、柔らかさに慣れない間は凄く打ちにくい。今までは堅かったから、指が隣のキーに接触して押し気味になってもセーフだった場合でも、キーが柔らかくなればセーフで無くなる。いまでは少し慣れてきて、柔らかいのは柔らかいので良いかなと、思い始めたころ。



二輪駆動の二輪車
2000年3月14日(火曜日) はれ/あめ

二輪駆動の二輪車って、どうして見掛けないのだろう。自転車もバイクも、普通は後の車輪しか駆動しない。前後の車輪が回れば、きっとアクロバティックなライディングが見られることだろうけども、具体的にどういうことになるのか、どうも想像が付かない。そこで二輪駆動は諦めるとしても、後輪駆動ではなく前輪駆動ならあっても面白そうだ。段差のあるような場所で、普通ならややウイリー気味で行かないと頸骨損傷が保障されているような場合でも、意外とスムーズに越えられるか?

しかし、そのような構造では前輪によるステアリングがちょっと難しい。そこで、ここは意表を突いて後輪ステアリングにしてしまう。ワイヤか何かで後輪を引っ張る、舵取り構造だ。フォークリフトのノリで「くいっ」と回れそうだけれど、想像しただけで気持ち悪い。ていうか、そんなものは恐ろしくて乗れそうにない。ま、後輪ステアリングは冗談だとしても、前輪駆動の自転車ぐらいなら昔は実際にあったし、乗ってみたい気がしないでもない。

温厚なわたしは滅多にキレたりしないけれど、軽くプチっと来ることは時々ある。今日はそんな日だ。これを押せば第三次世界大戦の勃発は間違いないと誰もが認める核ミサイル発射用の赤いボタンに指を載せながら、極上のフェラチオをやられるかのような緊張にも限界を感じたそのときだ。大脳辺縁系の辺りから、巨大な張力に耐えきれなかった糸が弾き切れるような音が聞こえた気がした。核ミサイルの照準装置に極秘の解除コードを入力するような手つきで電話をかけ、文句を垂れてやった。



スリーピー・ホロウ
2000年3月13日(月曜日) はれ

映画「スリーピー・ホロウ」を見る。映画の内容としては興味を引くものではなかったが、主演のジョニー・デップが気になって見ておくことにしたのだ。「シザーハンズ」で病的とも気色悪いとも優しそうとも付かない独特の味を醸し出しているのを見て、要注意人物リストに。これは後から気付いたのだが、「シザーハンズ」と「スリーピー・ホロウ」の監督は、どちらも同じ人物(ティム・バートン)だったらしい。

レンズに取り付ける怪しげなフィルタをどれだけ駆使したのか、薄気味悪い色調の映像が最初から最後まで続く。どことなく不吉な空気に包まれた村や森が、見ている者の不安を煽るのだ。そんな場所で、連続殺人事件が起きる。全ての被害者の首は切り取られて持ち去られ、しかも村人曰く犯人にも首が無いという。しかし、そんな話は下らない伝説に過ぎない。そう確信してこの謎に満ちた事件を解決すべく事件現場に赴いたのは、科学捜査オタクの若い捜査官だ。伝説の存在を真っ向から否定し、科学的な観点からのみ事件の全容解明を試みるも、さて真実は如何に?

というお話で、ホラー気味の謎解きである。ミステリーなどが好きな人には、きっと面白い映画なのだろう。しかし残念ながら、わたしは謎解きが嫌いなのだ。解かれるべき謎は随所に仕組まれており、それを示唆する要素も多分にある。ところが、鈍いわたしに謎を解くことなど出来るはずもなく、それどころか謎に気付かないことも多い。最後に答えが明かされるとき、やっと「そういうことだったのか」と気付くのだ。そんな調子だから、「謎解き」とは「謎が解かれる過程を見てるだけ」であり、面白くないのだ。

かといって、簡単に解けてしまうような謎ばかりでは余計に面白くない。ミステリなんて、結局は出題者以外には解くことのできないイケズな問題なのだ。なんて書いたら、ミステリファンから石が飛んできそうだけど。



ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ
2000年3月12日(日曜日) あめ/はれ

映画「ほんとうのジャクリーヌ・デュ・プレ」を見る。これは、実在した英国人の天才チェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレの生涯を、彼女の姉ヒラリー・デュ・プレとの関係を通じて描いたものである。ベースになった原作がいわゆる「暴露本」であるらしく、それゆえ音楽家などには映画の内容を批判する人も多いらしい。けれども、本稿では敢えて実在のジャクリーヌ・デュ・プレとの乖離については考えない。

新聞の宣伝には「姉と妹 この愛が日本を感動につつんでいます!」なんて大袈裟な宣伝文句が書かれていたから、愛に溢れた姉妹の美化された物語なのかと想像していたが、実際の印象はかなり違う。レズビアン気味の音楽家姉妹が、人生といううねりに潜む歪みによって如何にして崩壊してゆくか? ということを坦々と描いたドキュメンタリであり、決して何らかの結果を狙ったものではない。数々の重々しいプロットを、単にヒューマニスティックな感動の話として受け取る人は少ないだろう。

当人の望みとは関係なく、チェリストとしての才能を開花させてしまったジャクリーヌの苦悩。天才であるがゆえに、彼女は「天才チェリスト」として生きなければならかった。次第に彼女は、自分は天才チェリストという「肩書き」でしか、愛されていないと考えるようになる。そして天才チェリストという肩書きは、彼女にとってみれば烙印でしかなくなり、彼女にとってチェロは苦痛以外の何者でもなくなった。そんなジャクリーヌの苦悩を理解できた唯一の人間は、姉のヒラリーだった。というのが粗筋だ。

天才としての苦悩以外に、何かと不器用な姉のヒラリーが天才となった妹に覚えた嫉妬などが、数々の心理描写やチェロの演奏を通じて巧妙に描かれている。それだけなら「良いお話」として語られることだろうが、ヒラリーが壊れゆくジャクリーヌを心配し、助けたい一心で「したこと」がちょっと普通ではない。その部分については「問題作」と評されることにも納得できる。やや冗長で途中は眠たい部分も多いが、見るなら途中で寝たり退場したりせずに是非最後まで見て頂きたい作品である。

今日は「スリーピー・ホロウ」も見た。感想は明日。



アキバへ
2000年3月11日(土曜日) くもり

久しぶり?に、アキバへ行く。

ここのところパソコン方面は興味を強烈に引くものがなく、あったとしても値段が高すぎて手が届かず、散財自粛モードとなっていた。しかし Windows 2000 が出たりして、これを機に新しいマシンでも組もうかと画策中。うろうろしていると、Athlon 850MHz が出たことでぼちぼちと現実的な値段に下がりつつある Athlon 700MHz が目に入る。SLOT A なマザーもいる。買うとすれば ASUS K7M ってところか。

ほしい〜〜

でも5万円オーバーの出費だ...なんだよ、男らしくない。たかが5万円ぐらいの買い物だ、ぐずぐずしてないで買っちまえよ...されど5万円。お前、いつからそんな良い給料もらうようになったんだ。悪いことは言わないから、止めとけよ...激しく動揺する心を余所に、Adaptec の Ultra 160 SCSI アダプタが目に入る。ま、そんなものは買えないし。という高嶺の花なら、まだしも。160MB/sec は、思ったより安い。

ほしい〜〜

金に糸目を付けずに強烈なディスクを買ってきて、爆速ゴージャス仕様なマシンを組んでやる! そう夕日に誓いながら、特にこれといって買わず帰りの電車に乗るのだ。優柔不断。根性無し。来週こそは、清水の舞台から飛び降りてやる(普通は死ぬよ、そんなことしたら)。



安全神話の深層心理?
2000年3月10日(金曜日) はれ

昨日は地下鉄日比谷線の事故について書いたが、人間というものは安全性をどこまで求めれば気の済む生物なのだろう。営団地下鉄だけでも延べ何人の人間を一日に運んでいるのか知らないが、相当な人数であることは確かである。にもかかわらず、死人の出た事故は開業以来これが初めてというから、その運行の舞台裏には敬意を払うべき安全管理があると、わたしは思う。なにしろ、あれほどひっきりなしに電車が走っているのに滅多なことでは事故らないのだから、そう帰納しても差し支えはあるまい。それとも「まぐれ」の可能性も残すべきか。

ニュースでは「またもや安全神話が崩れた」という言い方をされているけれど、あれはどういう意味で使われているのだろうか。わたしは、「安全神話」という言葉は、日頃の慣性的な生活において事故を意識していないことの遠回しな表現に過ぎないと認識している。「災害は忘れた頃にやってくる」において「忘れていた」ことを意識したくないから、敢えて「安全神話」という表現を使う。そして「忘れていたこと」を思い出さされたとき、そうと意識したくないから「崩れた」と他責的な言い方をする。

それと同じように、マスコミはしばしば「予想外の事故」という言葉を使う。これも不思議な言い方である。予想できなかったことだから「事故」になるわけで、予想可能だったことは、(極論すれば)事故というより職務怠慢として報道されるのが通常だ。早い話が「予想外の事故」という言い方は、「年老いた老人」と同じぐらい変なのだ。しかし、「我々にとっては予想外の事故」としてみると如何だろう。「安全神話」というぬるま湯の中で、事故の可能性を意識から退けていたからこそ、「予想外」だとは言えないだろうか。

ところで、交通の難所と言えば、人里離れた山奥の険しい地形的要因に阻まれた場所を想像しがちだが、鉄路にとって難所と言えそうな場所は、都市部にこそ多い。土地の取得が現実的でない都心に電車を通すとなれば、必然的に地下を使うことになり、普通は道路の下に建設する。そのため、道路が曲がれば地下鉄も曲がり、地上を走る路線では見られないような線路の90度コーナも、地下には多くある。そして地下鉄が何かの都合で地上へと出ていけば、すぐに高架線が待っている。急屈曲やら急勾配は、ごくごく普通なのだ。事故のあった現場は、トンネルの出口でカーブになっていて、しかもやや急な勾配のある「凄く危険な場所」というような言い方もされている。けれど、危険度番付では幕下ぐらいが妥当ではないかと思う。



脱線事故と報道
2000年3月9日(木曜日) はれ

生命保険の話は結論が出ないので、取り敢えずお預け。

説明しなくても何のことか分かっていると思うけれど、営団地下鉄の日比谷線で脱線事故が起きた。どこかの遠い国で飛行機が落っこちたりしても自分には関係ないから「大変だねー」ぐらいで済むけれど、日比谷線はわたしもたまに利用する路線だから、対岸の火事とも思えない。自宅から日比谷線で都内へ入っていくときは、中目黒駅で東急東横線を降りて、事故現場を通っていくのだ。事故そのものについてはわたしが言及できるようなことではないから、報道について少し書いてみる。

あれやこれやと「事故原因」探っているマスコミにあっても、事故について言及できない点では、わたしと大して変わらないと思う。というと失礼かもしれないが、調査が始まるか始まらないかという時期に「専門家」を向かえて議論される「事故原因」など憶測に過ぎず、結論を急ぎすぎていると思う。もちろん、その時点で考えられる技術的要因を挙げてみるのも良い。しかし、現場に「やってきたばかり」の運輸省か何かの調査員に「考えられる原因は?」とマイクを向けて答えを求める辺りは、技術屋の発想じゃない。

そういうような憶測は、何も今回に限ったことではない。古い話だけど、神戸の須磨区で殺害事件があったときも「専門家」を交えて憶測だらけの報道が先行した。ちょっとした大事件があって、その犯人とか原因が分からないときは、必ずその道筋を辿るしかし、憶測と事実は必ずしも一致するものではない。須磨区の事件で、少年の容疑者が逮捕されたと発表されたとき、憶測との齟齬に意表を突かれて唖然とした人も多かっただろう。マスコミも専門家も唖然としたに違いない。

これが悪いことだとは思わないし、むしろそれこそがマスコミの使命と言える気もする。原因の良く分からないものを分からないまま放っておくよりは、取り敢えず適当な理由で説明しておいた方が不安の解消になることも多い。それが人々の臆病さ故の、そして都市の脆弱さ故の欺瞞であり、薄々はそんなもんだと分かっていても。需要があるから出てくる憶測を止めることは出来ないだろう。しかし、最終的な結論が確定してから、間違いだらけの憶測を詫びるどころか開き直るマスコミの姿勢は、みっともないものだと思うが。



生命保険(2:自画自賛提案書編)
2000年3月8日(水曜日) はれ

そんな冗談めいた話はさておき、生命保険も真面目に考えてみたい。

国内財閥系の大手生命保険会社こと某S社は、掛け捨て3種類と貯蓄型1種類のプランを持ってきた。早速、保険内容を検討しよう...と思うも、「椚座淳介様へのご提案」と称された提案書は非常に分かりにくく、ぱっと見ただけでは何が言いたいのか全く分からない。月々の保険料が幾らで、どういうときにどういう保障があり、それがどういう形で支払われるのか。色々と数字は書いてあるのだが、それらの数字が何を意味するのか非常に分かりにくく、全体的に要領を得ない。

わたしが生保に慣れていないことは確かだが、理解力まで足りないのか? そうとも思わない。某S社の提案書には、レイアウトに問題があるのだ。提案書なんてものは保険の内容が事務的に書いてあり、保障については給付内容と金額が一覧表として並んでいれば良い。例外などといった細かいことは、欄外にでも箇条書きしておいてくれた方がむしろ全体として分かりやすくなる。ところが、某S社の提案書にあっては見栄えのするところだけが妙に強調されていたりして、結果的に全体を分かりにくくしている。

こういうのを自画自賛という。向こうも商売だからそれが一概に悪いと言いたいのではないし、某S社は外交員による営業を基本としているから、説明する際はメリハリの利いた提案書があった方が話を進めやすいのだろう。しかし、そんなもので納得しろと言われても、わたしは首を縦に振らない。やたら饒舌な外交員の説明を聞きながら、その場ですぐに印鑑を押すようなことはしないから、一見殺風景でも後からゆっくりと見られる分かりやすい案内がなければ、わたしを説得できない。「説明不足だ」という保険会社批判があるのも、何となく分かる気がした。

そんなものには頼ってられない。けれども今は良い時代になったもので、各社の Website を調べるという手もある。某S社のサイトを見ると、商品の概要的な紹介はあるが、具体性のある説明はなく、ほとんど役に立たない。従って、外交員の言うことを頼りにしていない人間としては先が思いやられる。外交員を余り使っていないと思われる外資系はどうだろうか。アメリカの某AF社のサイトにも詳しい案内は無く、ここは印刷された資料を請求せよ、という方針を採っているらしい。ちょっと面倒だ。

わたしが調べた生命保険会社のサイトの中で、最も親切な案内をしているのがスイスの某Z社である。他者よりも具体的な保険内容の案内があり、レイアウトは概して事務的だが、そのお陰で逆に見やすい。オンラインで保険料の計算ができるのも、良いことだ。こちらは、ゴテゴテとした自画自賛方式で売ろうというより、決めるヤツは勝手に決めて勝手に契約しろという感じの方針を採っているように思える。饒舌な外交員と喋りながら、不明瞭なまま契約することを嫌うわたしの性分にも合っている。



生命保険(1:外交員いぢめ編)
2000年3月7日(火曜日) はれ

何となく生命保険に入っても良いかなと思った。取り敢えず手近なところで、会社に出入りしている国内財閥系の某S社にプランを持ってこさせる。何種類か提示してきたプランを見ながら、ごちゃごちゃと。

「これは死んだら3千万ですか
「ええ、あと余命6ヶ月と診断された場合も3千万お支払いします
「3千万ぐらいじゃ、1週間もしたら消えてしまうでしょ(笑)
「ははは...
「死にかけの人間がそんな金を手にしても困るでしょうけど

死亡・重度障害・成人病...といった重々しい課題であるにも関わらず、話がシリアスにならないのは、偏にわたしが独身であるためだ。食わしてやってる妻子がいたならば、とっくに生命保険にも入っているだろう。しかし、今のところはそういう兆しすら見えてこないし、わたしにとってはそれ以前の問題である恋人探しの方が余程切羽詰まった課題なのだ。

「3千万ねえ。嫁さん子供を食わしてたら、そんな金では足りないしね
「そうですね。でも最近は3千万程度の少な目の方が多いですよ
「かといって、独り身に3千万の保障があってもしょうがないしね
「うーん...
「大体、わたしが死んだら3千万貰えないでしょ。貰ってくれる人もいないし
「独身の方は、を受取人にされてますね

親より先に死ぬことこそ最大の親不孝である。あまつさえ、3千万の置き土産に嫌みったらしい熨斗でも付けて残していってやれば、倅の親不孝にキャッシュバックサービスという皮肉に余計な涙を流して...くれると期待する方が間違いだ。逆に感謝の涙を流しながら、退職金と合わせて芦屋か帝塚山辺りに家でも建ててしまいそうである。それは断じて許すわけにはいかない。親不孝は、徹底的にやるもんだ。

「親ですか。それは凄くもったいないですね
「育ててくれた親への感謝として...
「自分らで勝手に作った子供なんだから育てて当然でしょ
「は..ははは..(苦笑
「望んで生まれてきたんじゃないから、感謝する義理なんかないし

売りにくい、と思っているに違いない。いや、わたしは真面目なんですけど。



メールアドレス屋
2000年3月6日(月曜日) はれ

いつものように、いつものような下らないメールが送られて来る。

突然のメール失礼します。
 不必要であればお手数ですが削除願います。
 お知らせいただければ,送信を控えさせていただきます。

 インターネットメールは、これからのビジネスを推進していくのに、
 必要不可欠なものです。
 ビジネスに有効かつ効率よく利用するには、大量の「メールアドレス
」
 が必要となります。
 インターネットDMの場合は、郵送のDMに比べて比較にならないほ
ど費用
 がかかりません。
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   その時に,お名前,住所,希望商品の価格をお知らせ下さい.
    受け渡し方法,入金方法などをお知らせいたします


分かったから、テメェの目でも噛んで死ね! って感じだ。

しかし、こういうものを見ていると、偏見に満ちあふれたプロットが頭を過ぎる。「インターネットは儲かる」なんていう言葉を耳にしたオッサンが将来をかけて脱サラしてきたまでは良いが、実は全く儲からない現実に絶望。それでも何とか食いつなごうと、メールアドレス販売やら人の迷惑を顧みない怪しげな商売に手を出してしまう。囂々たる非難を浴びせられるも、それを生活の糧とする連中に「迷惑である」という意識は、歩道を自分の店と同じように思っている八百屋の如く、育ちようがない。

そしてどんな苦情にも馬耳東風を貫くうちに、僅かながら残っていた良心や倫理といったものが全て麻痺してしまう。最後には一線を越えてしまい、通販詐欺事件を起こして逮捕される。取り調べで、あの時の俺はどうかしてたんだ! そう弁明しても時既に遅し。インターネットとやらに見た目映いばかりの夢は斯くも儚く崩れ去り、残されたものは前科一犯の自分だけ。ま、夢なんて所詮はそんなもんだ。初めから見るもんじゃない。



オヤジ学
2000年3月5日(日曜日) くもり

中島みゆきの「世情」をバックに「団塊の世代」と「機動隊」。何の脈絡も無い話だが、今日のGTOは終始大笑いさせてくれる内容であった。凝り固まった価値観が常に若者と相対立し、それでもなお突き進む自分が気持ち悪がられていることに気付くこともなく、中間管理職として様々な問題に板挟みにされながら「時には下げたくない頭も下げなければならない」教頭先生。アニメGTOにおいて最後に貧乏籤を引くのは、いつも教頭先生の役目である。

わたしのような1970年代生まれの人間から見た「団塊の世代」とは、数々の記号から形成された「オヤジ」というステレオタイプに他ならない。1940年代後半のベビーブームに生まれた人間は、取り敢えず「学生時代は機動隊と対峙し」いまは「どっかの雇われで」しかも「夢のない真面目腐った仕事に一筋」であり、そろそろ現場を離れて「バーコード頭と金縁眼鏡の気持ち悪い中間管理職」として上からも下からも揉まれていなければいけないのだ。

そういった「オヤジ」の要素を全て凝縮し、記号を人格として実体化させたものが、GTOの教頭先生である。そして、オヤジを形成する要素は、どれもダメダメな価値観ばかりで、「ああはなりたくないなあ」という想いが詰まった「出来れば辿りたくない人生」の模型とも言える。しかし、新しい価値観と真っ向から対立する形でオヤジという記号が存在しているのではなく、笑い飛ばすための「昭和の遺産」という位置付けが、平成の感覚なんだろうと思う。




Double Jeopardy
2000年3月4日(土曜日) 雨

秋葉原へ巡礼に行くつもりだったが、雨天のため中止。雨の秋葉原ほど、鬱陶しいものはない。

代わりに、映画 Double Jeopardy(ダブル・ジョパディ)を見に行った。アメリカに行っていた弟と電話で喋っていたら、帰りの飛行機で上映されたダブル何とかという映画を見たという。えーと、二重処罰か何かの、あれのこと? そうそう、あれあれ。あれがまた非常に面白くて、自分は二度か三度も見たし、兄貴も是非見るべきだと薦めらる。弟の映画評論ほどアテにならないものはなく、ヤツが面白いという映画に限って下らないのだが、まあ騙されたと思って見ても良いだろう。

これは、アメリカ合衆国憲法修正第5条をネタにしたお話だ。ちょっと長いので抜粋すると、

 No person shall(中略)be subject for the same offence to be twice put in jeopardy of life or limb;

とある。これは、日本国憲法第39条(遡及処罰・二重処罰の禁止)

 何人も、(中略)同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。

に相当するものだ。当たり前のことだが、大変重要なことである。ところが、冤罪の殺人において有罪判決を受け、殺害されたとされた人間が実はまだ生きていた場合にはどうなるか。その人を「再び」殺しても、その行為は「罪にならない殺人」だ、という逆説的な理屈も成り立つ。

夫を殺害したという無実の罪で有罪判決を受けた女が、刑務所で服役中に夫がまだ生きていることを知る。同時に、自分は夫の陰謀により人生を狂わされたことも知った。そのとき、元弁護士だという服役囚から「二重処罰の禁止」について入れ知恵される。例えそれが冤罪であっても、自分が夫を殺したと認定された以上、今度は大手を振って同じ人物を殺害しても罪には問われない。のちに仮釈放を許された彼女は、保護観察中に復讐を企てる。そして、行方不明の夫を探すべく全米を駆け抜け...というお話だ。

以下、若干のネタバレあり。

コンセプトは面白いと思うが、多くのエピソードにかなりの無理を感じる。行方不明となっている夫の居場所を突き止める過程や、保護観察官からの逃亡は、どれも上手く行き過ぎで、偶然が偶然を呼んでまた偶然の結果を導くご都合主義的な印象。なんでそうなるの? と疑問を感じさせるところも少なくない。最終的に夫は元妻の手によって殺されるが、頭に血が上って銃をぶっ放す人間を撃ったところで「正当防衛」で片付けられる話である。「二重処罰の禁止」をネタにしているぐらいだから堂々と殺すのかと思いきや、最後はありがちな勧善懲悪で幕を閉じ、期待を裏切るようで後味は余り良くなかった。

安っぽい内容でも面白ければそれで良いのだが、中途半端な安っぽさに落ち着いて全体をダメにした映画だ。「アメリカ合衆国憲法修正第5条」とか大袈裟なものを持ち出しているぐらいだから、もうちょっと真面目な話を期待していた。けれど、真面目さと安っぽさの間を中途半端に彷徨い、全体をダメにした、というところだろう。やはり、弟の映画評論だけはアテにならない。



毒電波
2000年3月3日(金曜日) はれ

今日は、ミフキエ星人さんと交信しました。

0000010111101100000011100011010000010010010111000011011011100100
0101101100101100111011010111010100110111100111110101100010100001
1110100111100010001110100010011001001110011010101101001010111111
0111011111000001100110000100001010101000110001111111100101001000
0000101111011000000111000110100000100100101110000110110111001000
1011011001011001110110101110101001101111001111101011000101000011
1101001111000100011101000100110010011100110101011010010101111110
11101111100000110011000010000101010100011000111111110010100100

ありがとう、ミフキエ星人さん。

毎日こんな調子でこのページを埋めたら、「とうとう、ここの Webmaster にも毒電波が聞こえ始めたか。お気の毒に...」と言われながら、白い目で見られてしまうのだろうか。日毎に精神状態は悪化の一途を辿り、鬱積した被害妄想からご近所と派手にモメ、手錠を掛けてモデルガンをぶっ放す。その数日後には、奴隷として少女を拉致って監禁。まだ発展途上の小さな身体に、あ〜なことやこ〜なことやらやっている最中、「警察だ。開けろ」と招かざるお客様。全裸のまま、高層マンションより身を投げて一躍有名になるという人生も、まあ悪くはない..わけないか。

実は、突然こういうものを作りたくなったのだ。疑似雑音発生器である。

PN9

疑似雑音 (pseudo noise) とは、長い目で見れば規則的なビット列になっているけれど、短い区間だけに注目すれば、ランダムなビット列になっているというもの。この回路図に間違いがなければ、511ビット毎に循環する疑似雑音が得られるはず...というが、シフトレジスタの適当なところにタップを取って、xor(排他的論理和)しながらフィードバックさせれば疑似雑音になるというのも摩訶不思議な話である。でもハードで作るのは面倒だから、同じ事をC言語で再現してみた。

int pn9(void)
{
  static int ff[9] = { 0, 0, 1, 0, 0, 0, 0, 0, 0 };
  int i;

  ff[0]  = ff[8] ^ ff[5];
  ff[0] ^= ff[3];
  ff[0] ^= ff[2];

  for (i = 8; i > 0; i--) {
    ff[i] = ff[i-1];
  }

  return ff[8];
}

9段のシフトレジスタで pseudo noise を発生させるから pn9 だ。シフトレジスタの初期値は、xor の出力が1になるように、1ビットだけ1にセットした。これを間違えると、オールゼロ発生器になってしまう。で、この関数をガンガン呼ぶと、その度に0とか1が適当に現れ、511ビット毎に繰り返す...はずだった。でも、何故か510ビット毎に繰り返し、その中で0が254回と1が256回出現している。ゼロが1個足りない気がする。しかも、雑音と呼ぶには0と1が連続しすぎているように感じられる区間が多すぎるようにも思う。

きっと、なんか間違ってるんだろうな。



書けない日
2000年3月2日(木曜日) はれ

こんなものを毎日書いていると、どうも文章が上手く出てこない日が時々ある。ネタが無いわけでもなく、書きたいことが無いわけでもなく、疲れているわけでもない。そんな日は、メールの返事も掲示板も、おおよそ文章というものは何を書いてもダメで、時には自分でも何を書いているのか分からなくなってくる。調子のいいときは、繭を紡ぐように...といったら大袈裟か? ま、そんなに苦労はしないけれど、生憎と今日は朝から文章の出てこない日である。

お陰様で、恐らく来週か再来週には突撃実験室のアクセスカウンタが30万を超えるだろう。全然更新していないのに、有り難いことだ。これを機に、プレゼントでもやろうかなと思っているのだが、賞品の選定が悩みの種である。前回は考えるのも面倒くさくなって、商品券を賞品にした。しかし、ちょっと味気ない気もする。今回は...家に転がってる古代のパソコン部品...冷蔵庫の奥で眠ってる得体の知れない腐敗物...黄ばんだ古新聞...いや、どれもこれも嫌がらせにしかならない。

30万ヒットを踏んだ人にしか当たらないようでは面白くない。同じやるならやはり景気良く、30万名様にプレゼント! と言いたいところだが、それでは賞品の方が余ってしっまうだろうから、抽選で3名様ぐらいの方が妥当だ。その3名様に何を差し上げるか...無難なところで洗剤などは如何だろう。「冷たい水でも汚れを芯から分解」が宣伝文句のLIONの「スーパートップ」(600グラム入り)が使い切れないほど余っている。これで約40回分の洗濯ができるのだ。所帯染みたプレゼントだぜ、まったく。



大辞林と広辞苑
2000年3月1日(水曜日) はれ

CD-ROM版の大辞林第二版を買った。やはり辞書はパソコンで検索できなければ、駄目な時代である。文書を書くときは間違いなくパソコンを使っているから、パソコンの中に辞書が入っている方が合理的だし、検索が早いから時間短縮にもなる。印刷された辞書も持っているが、パソコンで使える辞書を買ってから滅多に使わなくなってしまった。検索といったことは計算機の得意分野であり、辞書とパソコンは非常に相性がよい。

いままではメインの辞書としてCD-ROM版の広辞苑を使っていたのだが、広辞苑は「意味を説明せずに言い換えで済ませる」ことが比較的多くあり、それだけでは理解できず言い換えに使われた語を引いてみると、今度は元の語で言い換えられていたりすることもある。広辞苑の全てがそんな調子で悪いと言いたいのではないが、そのような解説の仕方では、辞書として破綻していると言う以外にない。

例えば「袖覆輪」(そでふくりん)という語を引いてみる。

広辞苑第四版には、

そで‐ふくりん【袖覆輪】
袖■(ソデブキ)に同じ。永代蔵一「竜門の―かたかたにても物の自由に売渡しぬ」

とある。「そでぶき」という言葉は初めて聞くし、普通は使わないし、あまつさえ「ぶき」という漢字が標準では存在しないためか、外字になっていた。衣偏に「比」という字である。さらに「そでぶき」を引いてみると、

そで‐ぶき【袖■】
着物の袖口の所で、袖口布が表に折り返り、細く現れている部分。袖包(ソデグルミ)。

と解説されている。しかし「袖包」という新たな語が出てきて、言い換えで御茶を濁そうとする姿勢は変わらない。さらに「袖包」を引いてみると、

そで‐ぐるみ【袖包み】
「そでぶき(袖■)」に同じ。

という具合に、振り出しに戻るのだ。これでは、結局どういう意味なのか分からないことも多い。

対して、大辞林第二版ではどうか。

そでふくりん 【袖覆輪】
袖口を別布でくるみ縫いにしたもの。黒繻子(くろじゆす)などを用いた。袖口の切れるのを防ぎ、装飾をもかねた。

とある。こちらの方が、まだ幾らか分かりやすく、単なる言い換えで済まそうとはせずに説明しようという意気込みが感じられて好感が持てるのだ。こういう具合に、書いてあることは広辞苑よりも大辞林の方が概して分かりやすい。

それとは関係ないが、辞書の例文に使われる引用に古典的なものが多く、見ても分からず困ることが殆どである。文学の専門家ならそれで良いのかも知れないが、現代文しか扱わないわたしのような素人には使えないし、現代文が大部分を占めるこの時代に、敢えて古典的な引用を使わなければならない理由は理解できない。広辞苑では、その傾向が特に顕著だと思うし、大辞林についても同じ事が言える部分が多い。それとも、こんなことを感じるのは、わたしの浅学さ故のことなのだろうか。



突撃実験室