多事毒論(2000年4月分)



空想科学
2000年4月30日(日曜日) くもり

別件で検索エンジンとお友達していたら、もりおん王国というサイトを発見。「アニメを科学する!」系としてわたしが知る中では、ここが一番おもしろく合理的に書かれているんじゃないかと思う。類似のもので一時流行った「空想科学読本」を読んでみたこともあるのだが、あれは印象として面白くなかったというか、ややトンデモ気味だった記憶がある。手元に本が無いので詳しくは言えないのだけれど、あれでは重箱の隅をつついているだけでは無いのかと思うのだ。

フィクションの科学的矛盾を身も蓋もなく指摘し、にべもしゃしゃりもなく訂正していくのは良いのだが、相手はたかがフィクションだ。それを考えずに作品の中で表現された現象における科学的根拠を追求する必要があるとは思わないし、したところで面白いとも思わない。例えば「なぜ宇宙戦艦ヤマトの中には重力があるのか」という指摘が空想科学読本にあったと記憶しているが、そんなことは表現上そうでないと見栄えがしなくなるといった解釈で充分である。にもかかわらず、艦を高速で回転させて遠心力が云々といった話が出てくるから、要領を得ない。

そういうどうでも良いところはさておき、アニメにおける「似非科学」っぽいところだけをピックアップして解説しているのが先述のサイトである。分かりやすいところで「トップねらえ!」なんかを見た人なら真っ先に感じたと思うが、リアリティという面では無茶苦茶も良いところである。けれども、作中に出てくる「エーテル宇宙論」とか「ウラシマ効果」みたいな、どこかで聞いたことがある科学よた話をネタとして取り上げると、意外に奥深い。



俺様が法律
2000年4月29日(土曜日) はれ

ネットを巡回していると、個人の Webpage という存在を公共性の高いものであり、従って、そこで執り行われるコミュニケーションは、公平でかつ民主的でないといけないと認識している方もいるように思う。確かに、それも否定はできない。不特定多数の人の目に触れることを考えれば、その認識が間違っているとも別に思わないし、場合によってはそういった認識が必要なこともあるだろう。しかし、一般的に言って「俺様が法律」という独裁的な方針に何ら問題はないとわたしは思うのだ。仮に自分がそれを否定すれば、わたしは自分自身を否定することになってしまうのだから(笑)

なんて理由付けでは弱いのでちゃんと説明しておくと、個人の Webpage なんて所詮はどこの誰とも知らない馬の骨のオナニーショーである。だから、公序良俗に反しない限りはという断りは必要であるにしても、独裁制で何を書いたって、何をしたって構わない。ただ、そんなやり方で訪問者が付いてくるかどうかは知らないけれど、そんなことは全くの別問題である。俺様の言ってることが正しければ、たとえそれが暴言に過ぎなくても、人は付いてくる(かもしれない)。たとえば、小林よしのり氏は、このやり方を自分で認めながら、一定の指示を得ていたりする。

Webpage というメディアにあっては、その数にもコミュニティの多様性にも実質的な上限がないといえる。義理立てという精神さえ捨てれば、相互間の行き来を制限するものはなく、あるコミュニティが性分に合わなければ、他を当たればいいだけの話である。早い話が、それは来るもの拒まず去るもの追わずの社会だ。やり口が下手ならば、見捨てられて自然淘汰されるだろうし、人の心を掴めば方法論など何だっていい。それが Webpage と、大多数の良識を代弁することに縛られた公共メディアとの本質的な違いである。

ただし、わたしは「俺様の法律」を施行することによって他者に迷惑をかけることはあってはならないと思う。もちろん電脳世界で物理的な迷惑をかけることは、不可能だとは言えないにしても困難であるが、精神的な迷惑をかけることは幾らでも可能だ。嫌なら他へ行けば良いだけのことであるが、多様で行き来の自由なコミュニティが全体として正しく機能するためには、来るところを間違わせないための判断基準は欠かせない。従って、俺様の法律の明文化だけは必須であり、それが Webpage として唯一制限されるところではないだろうか。



知名度
2000年4月28日(金曜日) はれ

日本で最も知名度の高い人間は誰か?

年齢や職業などで一切差別せず、母集団を可能な限り無作為に選んでも、やはり「みんなが顔と名前を知っている」著名人となると、なかなか思い当たらない。以前に何かのバラエティ番組で「和田アキ子の知名度調査」みたいな企画をやっていて、なるほどと思ったことがある。東京で調べても仕方がないので、テレビから情報を得にくい難視聴地域までわざわざ出向いて調べていたが、それでもその番組が調べた限りにおいては、和田アキ子を知らない人は一人もいなかった。

確かに、少数の例外を除けば「和田アキ子を知らない人はいない」と言っても差し支えはないほど、知名度の高い人だと思う。だからどうってわけでもないが、長年に渡ってそれなりの著名度を維持し、しかも比較的万人ウケを保つことは簡単ではないことだと思う。こいつは売れる!って感じでもないけれど、嫌いにもなれない。デカイとか何だかんだと言われつつ、その辺を上手いこと武器にしてしまうところは、関西人の特技と言えようか。ちょっと不思議な魅力を感じる人である。



暫く休業
2000年4月27日(木曜日) くもり/はれ

良いことでも悪いことでもあるが、わたしが勤務している会社は休みが多い。だからこそ安い給料でも何とかやってられるわけだ、という弁も強ち皮肉ではなかったりして。「死ぬほど働いて給料は高いが仕事が忙しくて使う暇なんて無い」よりは「生活できる給料を貰ってお気楽サボリーマン」ぐらいの方がわたしの性分には合っている。無論、高給取りのお気楽サボリーマンであるに越したことはないが、こんなご時世だ、そんな魅惑的な話なんてあるはずもない。というわけで明日からは休むだけ休んでやるぞ、10連休。貯まりに貯まった有給も合わせりゃ、一ヶ月は休めちゃう<いけない誘惑。

多事毒論は、標準語とかいうヨワっちい言葉と若干の関西弁で書いているけども、たまには名古屋弁なんかを使っても面白いんじゃないかと、だもんで信長に全段落と同じ文書を食わせてみた。名古屋人じゃないので正しいのか何なのか全く分からないけれど、ネタのない日はこうやって無理にでも埋めちまう、とっても卑怯な、わ・た・し♪

えぇことだったっていかんことだったってあるが、わしが勤務しとりゃがる会社は休みがよおーけな。だでこそやっすい給料だったってどうぞこうぞやってられるわけだ、ちゅう弁も強ち皮肉ではなかったりして。「死ぬほど働いて給料は高いが仕事が忙して使う暇なんてにゃぁ」よりは「生活できる給料を貰ってお気楽サボリーマン」ぐりゃあの方がわしの性分には合っとりゃがるちゅうこったぎゃあ。無論、高給取りのお気楽サボリーマンであるに越したことはにゃあが、こーゆーよーなご時世だ、ほんなたーけた魅惑的な話なんてあるはずもにゃあ。ちゅうわけで明日からは休むだけ休んでやるぞ、10連休。貯まりに貯まった有給も合わせりゃ、一ヶ月は休わやう<いけーせん誘惑。



ペースメーカ
2000年4月26日(水曜日) あめ

最近、電車の車内などでは「携帯電話の使用はご遠慮下さい」ってことになっているが、その理由の一つとして「携帯電話の電波が心臓のペースメーカに悪影響を及ぼす」という話が出てきてから久しい。しかし、「携帯電話の電波がペースメーカ使用の人を殺した」という話は寡聞にして知らないし、あるいは「ペースメーカを使っている人は恐くて電車に乗れず困っている」という話も聞いたことがない。電磁波が電子機器に影響を与えることは事実なので否定はしないが、必要以上に神経質になっている風潮は否めない。

「どこまで本当なのか」と思った人間はわたしだけでないらしく、実際の医用電気機器に電波を照射して結論を出した「医用電気機器への電波の影響を防止するための携帯電話端末等の使用に関する指針」を郵政省が公開している。結論から見ると大方のところ「電波は医用電気機器に悪影響を及ぼす可能性がある」とした上で、「少数の可能性でもある限り使用は慎むべき」みたいな方針で書かれているように見える。人命に関わる問題なので安全側に偏ることは、致し方なのないことだけど。

だが、その可能性がどの程度のものなのかに興味がある。携帯電話などの無線局が町中にまで現れることが分からなかった時代に設計された機器だけじゃないのか? とか、電磁波による影響を考慮していないプアな設計の機器だけじゃないのか? とか、ますます疑問は深まる。携帯電話などの利用をご遠慮願うのも良いが、遠慮のない人間も必ずいる。従って、特にミッションクリティカルな装置にあっては、機器側で対策を行うのが筋である。もっとも、新しい心臓ペースメーカなどでは対策されているそうだけど。

個人的な印象だけども、外部から飛び込んで誤作動を引き起こすノイズなどの対策について、電気屋には「外から飛び込んでくる電波のような予想できない誤作動要因まで面倒を見るのは不可能だ」という感じ考えが少なからずあるように思う。一理はある言い分ではあるけれど、現実世界には悪いことをする魑魅魍魎が存在するのも事実である。対策できるところは、対策すべきであろう。



逆探知?
2000年4月25日(火曜日) はれ

先日、横浜で身代金目的の誘拐があったそうで、出勤前に見ていた今朝のワイドショーは多忙そうであった。夕刊に詳しい経緯が載っていたので読んでみたけれど、連絡手段にはプリペイド携帯電話が使用されたそうだ。プリペイド携帯電話は身分証明書が無くても(地域によってはコンビニでも)購入できるから、犯罪の連絡に使われることも多いという。従って、警察としては購入前に身元確認をさせたくて仕方がないらしく、去年の年末だったか、大阪の茨木界隈で誘拐事件があったときも、警察は同じようなことを言っていた。

電話の「逆探知」、もとい発呼元の地理的な位置の探索は、どの程度まで成功するものなのだろう。発信者番号通知が普通に使われ、電話交換機が電子化されている時代だから、古めかしい刑事ドラマみたく「奥さん、逆探知には時間がかかるので出来るだけ引き延ばして」なんてことは流石に無いと思う。しかし、電話といえば即ち電電公社の加入電話だった昔とは違って、電話網はかつて無いほど複雑になっている。複数の通信事業者を跨るような通話においても、発呼元の地理的な位置を特定できるものなのだろうか。

携帯電話の場合、端末が位置登録を行うので「基地局からの電波が届く範囲(セル)」単位までの地理的な位置は特定できる。また、フェージング対策でアンテナの指向性を制御してみたり、TDMAといった多元接続のときに問題となる遠近対策で送受信のタイミングを制御しているだろうから、電話会社が協力的であれば、かなり狭い範囲まで特定できるのではないかと思う。特にPHSでは、「いまどこサービス」が実現できるようにかなり狭い範囲まで絞り込める。従って、身代金要求にPHSは適さないと言えよう。

あまつさえ、いまどき電話の通話が電話網を経由している保障などどこにもない。インターネットに音声を流してしまうVoIPを使えば、電話網を辿って電話網とIPネットワークのゲートウェイまでは見付かられるかも知れないが、その先は電話の世界ではない。VoIPで外国へ電話をかけ、そこの電話網から日本へ国際電話をかけることも実際にできる。IPだから、クラッキングの常套手段である「踏み台プロキシ」も用意できる。こうなれば、ますます逆探知なんか現実的でなくなるだろう。

ま、こんなことをしても、他のことで足が付きそうだけど...



更新報告/ETC
2000年4月24日(月曜日) はれ/雨

実験ネタに電気的火遊びその2を追加。

東京周辺の有料道路で、ETC (Electronic Toll Collection) の試験運用が始まったそうだ。料金所に設置された端末(路側機)と車に積んだ端末(車載機)が、5.8GHz帯の電波でお話して車両を特定するというもので、料金はツケ払いにすれば、高速道路などの料金所でいちいち止まって通行券を貰ったり金を払ったりする必要がなくなる。料金所はそのまま通過するだけでよくなるので、面パトを撒くのはしょっちゅうなんだけど、料金を払わないでぶっちぎるのはちょっと...という向きには朗報だ。

ところで、これは恐ろしい信頼性が要求されるシステムと想像される。料金所にはゲートがあるみたいから、これを確実に開けなければ事故になる。現代の技術を持ってすれば、高速で通過する車両を事前に検知し、即座に端末のIDや料金といった情報の読み書きを行うぐらい、普通にできてしまうことだと思う。しかし、通信をミスったりしても「車は急に止まれない」ので「ごめん、ちょっと待って」は通用しない。フェイルセーフとか言って、取り敢えずゲートを開けちゃったら未払いが続出しそうだし、その辺はどうなっているんだろう。取り敢えずゲートは開けるけど、記念写真ってところかな?



デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!
2000年4月23日(日曜日) はれ

デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」と、(セット販売の)「ONE PIECE」を観る。伊勢佐木町の東映へ行くとミニシアター級の狭い部屋に詰め込まれ、それでも今更だからか客は疎ら。わたし以外はみんな親子連れで、一人だけ浮いていた。ふと天井を見上げると、レンズが3つ装備され、SONYと書いてあるプロジェクタが張り付いている。おい待て、これじゃあ飛行機の機内上映と変わらんじゃないか。その気になればホームシアタでも実現可能な品質の上映で、1600円は高いぞ。

プロバイダ家業でメシを食っている人間としては言いたいことが山のようにあるのだが(笑)、設定の無理を突っ込んでも仕方がないので、それは敢えて言わないことにしよう。アニメの要素としてパソコンとインターネットを最大限に取り込んだハイブリッドアニメで、なるほど、その点では一見の価値ありだ。現実世界とネットワーク内の電脳世界を行き来するというもので、その切り替わりというか、両世界の描き方が凄く巧妙である。現実世界は、普通の二次元アニメに Windows 98 の画面が合成された絵が使われており、程良いリアリティを達成している。

電脳世界の表現も良い出来映えだった。デジモンのバトルは、「インターネットの中」で行われる。つまり、「小人さんたちが奔走する計算機の中身」という目に見えない世界を可視的空間として表現するわけだから、クリエイターのセンス次第で「すげー」ってことにも「おのれナメとんのかー」ってことにもなってしまう。本作品における戦場は、色鮮やかな空間として描かれる。そして、宙に浮きながらというべきなのか、なんかそういう感じの状態でデジモン同士が壮絶なバトル繰り広げ、特にラストはなかなかの迫力であった。

あるいは、パソコンが普及してきて、適当に描くことができなくなった言うべきか。かつてアニメの中に出てくるコンピュータと言えば、到底あり得ないような代物が多かった。だが、時は流れてコンピュータがブラックボックスで無くなってくれば、リアルに描かないと、どうしてもインチキ臭く見えてしまう。例えば、バグると電弧を撒き散らしながら爆発するパソコンなんてあってはいけない。ちゃんとコアダンプを吐きながら、青い画面を出さないと、それっぽく見えないご時世である。でも、ミッションクリティカルな戦闘にゲイツ製品を使うからしくじるんだよ、君たち。

p.s. これにまで核爆弾かよ、いい加減にしろよって感じ(苦笑)



アイアン・ジャイアント
2000年4月22日(土曜日) はれ

映画「アイアン・ジャイアント」を観る。ところで、これはどういう客層をターゲットにした映画なのだろう。親子連れとかアベックいった、いわゆる「一般客」が多いのではないかと予想していたが、実際のところそういう客は全くいなかった。吹き替えではなく字幕版を観たことも一因であろうが、一般客の代わりに来ていたのは、一見してそれと分かる大勢のオタク達。アニメオタク半分、キネマオタク半分ってところだろう。ちなみに、わたしは前者として見に行った。

うーん、映像のクオリティは非常に高く、オタクが群がるのも良く分かる出来映えだ。全てCGで描かれたというロボットは、そうとは思えないほどアナログ的な画調に仕上げてあるし、景色など背景の絵も非常に美しい。しかし、一部の景色などではCG特有のデジタル臭さがいかんせん残っているように感じてしまうところが玉に瑕。長らく二次元の絵で流れてきたところへ、突然三次元な動きが入ってくると、どうしてもそこだけが浮いて見えてしまう。アナログの自然な美しさとデジタルで描かれる迫力の調和がもう少し上手ければ、五つ星の映像クオリティである。

特筆すべきはロボットだ。身体は全て無塗装の金属で構成され、いかにも機械じみた造りの巨大ロボットは、一見、非常に無機質で冷たい感じがする。その顔と言っても、あるものは光る大きな目とフラップのような口だけ。そのくせ、このロボットのすることは巨体に似合わず芸が細かく、おまけに感情を持って申し訳程度の顔に様々な表情を作る。本来ならば「恐ろしい」と形容されるべき無機質な巨体が、容姿に似合わず人間的で妙に剽軽な行動をとるものだから、拍子抜けしてしまい、笑いを誘う。

しかし、シナリオはありがちな展開に止まり、少し残念であった。少年とロボットの偶発的な出会いを描いた前半は良かったが、後半はかなりダメ。ネタバレになってしまうが、まさかこれにまで、アメリカ作品の「アホの一つ覚え」である「最終手段としての核爆弾」が出てくるとは思わなかった。もっとも、この作品は核を肯定するようなものではなく、むしろ反核や反戦の意味が色濃いように思える。作品の舞台である1957年といえば、冷戦の真っ直中。冷戦、そして核の恐怖に怯えきっているアメリカが、そこに描かれている。

排除できない、実体のない恐怖の記号としてのロボット。だがそれは、人々の思い込みに過ぎず、実際のところは取り立てて怯えなければならない対象ではなかった。にもかかわらず、何故みんな悪い方へ悪い方へと考えを巡らせてしまうんだろうか。そんなところで執拗に意地を張るから、敵対してしまうんじゃないか。どうして、お互いに分かり合おうとしないんだ、ほら、こんなに良いヤツなのに...というメッセージが、そういった時代背景と良くマッチしている。



お祭り?
2000年4月21日(金曜日) あめ

家に帰ってテレビをつけると、NHK で何だか見覚えのある景色が中継で写っている。それもそのはず、よく見ると家から歩いて一分程度の場所だった。明日は、近所で野毛大道芸か何かのお祭りがあるのでその関係の中継らしいのだが、余計な宣伝をするんじゃないよ。遊びに来る人間には分からないだろうが、道路を占領して安物の楽器を使いまくる大道芸なんかを家の裏でやられては近所迷惑でしかない。去年までは実行委員会みたいなところから騒音に関するお詫びのビラが入っていたが、今年はそれも見てないし。

今日は、ややこしいことが多いのでこの辺で。



FAX
2000年4月20日(木曜日) あめ

朝から雨だ、なんだかテンションの出ない一日。

昨日の夕方、寝ていたら電話が鳴った。良くあることだが、わたしは、寝ているときに電話が鳴ってもあまり気にならない方だ。気付かずそのまま寝ていることもあれば、起きることもある。起きたとしても、布団から出るのが面倒なときは取らないし、気が向けば受けてやる。まあ、そんなわけで寝ているところに電話がかかってきた。何コール目かで目は覚めたが、面倒だから取り敢えずそのまま鳴らしておく。暫くすると、留守電が応対してくれた。

と思ったら、留守電の応対が途切れてFAXが動き始めた。受信した内容を拝見すると、どこかの旅行代理店が作った旅行日程表。頼んだ覚えは無いから、間違ってウチに送ってきたらしい。途中でエラーを起こしたのか、半分そこそこで途切れてしまっているが、幸い電話番号は読めたので、そこに電話をして文句を言った。相手の対応は謙虚で、間違いは誰にでもあるから別に怒りもしない。だが、番号が違うからと文句を言い終わった途端、またFAXらしき着信が電話の方にかかってくる。

どうやら、相手は自動送信になっているらしい。しかも、先の受信では途中でエラーになったから機械なりに再送を試みているのだろう。こうなれば、最後まで正常に受けるか、相手の機械が再送を諦めるまで何度でもかかってくるから、凄く迷惑だ。職場にも、電話の番号にFAXを送ってくる馬鹿がいる。自宅の場合は電話の番号でもFAXを受けられるようになっているから良いものの、職場の場合は電話とFAXは完全に分離されているから、そんな器用なことはできず、相手が諦めるのを待つしかない。

最近は、原稿をメモリに取り込んでからFAXを自動送信する方法が標準的である。わたしの場合は、紙の原稿すら作らずパソコンから電子的に送信することの方が多い。もちろんこれは便利で良いわけなのだが、もし関係のない電話番号を間違えてダイアルしてしまったら、気付かないうちに関係のない人に多大な迷惑をかけることになる。人間が注意すれば良いわけだが、ヒューマンエラーをゼロにすることはできない。だから、やはり機械にもミスを防止する機能が欲しい。

FAXメーカにもそういう要望は多いと聞いたことがある。例えば、FAXに人間の声を識別するような機能は付けられないものなんだろうか。「ここはFAXじゃないよ〜」と叫べば、音声認識で送信を取りやめてくれるようなものぐらい、やってできないものではなさそうだ。「いい加減にしろ! ガチャッ」と、怒りに満ちた「ガチャッ」を検出するようなものでも面白い。でも、「これは電話」「これはFAX」「これは兼用」という具合に、相手の回線に何が繋がっているのか事前に識別できるものが最良な解決だろう。



おまけ
2000年4月19日(水曜日) くもり

ちょっと前に誕生日があったかと思ったら、また誕生日だ。彼女イナイ暦も記録更新中である。そして、暫くすればまた次の誕生日がやってくるのだろう。ふと気が付いたときには、すっかり猫背のジジィになっているに違いない。有り余る時間をどうにか潰すべく、夕日を背に公園のベンチを陣取って街ゆくアベックを眺めるだけの年老いた自分。結局、俺の人生なんかオマケみたいなものだったんだなあと嘆きながら、ケッと鼻で笑うのだ。ロマンチシストだろ。な、そうだろ?

前々から気になっていることなのだが、髪の毛が伸びてきた。括れるぐらいっていうか、括った方が良いぐらいかも知れない。放っておけば勝手に伸びてくるもんだから、積極的に伸ばしているわけじゃない。むしろ伸ばさない方こそ「散髪」という作業を伴うから、積極的に伸ばさないようにしている、と言えるのだ。床屋はどうもいけ好かないし、自分で切るのも面倒だし、どうせ内勤だし、取り立てて困ることでもないから、いいんだいいんだ。



いろいろ
2000年4月18日(火曜日) はれ

スカパーで「メリーに首ったけ」を観る。噂には聞いていたが、お下劣、放送禁止、その他ブラックなネタ満載で、これがまた予想以上に強烈。中途半端は一切認めんぞと言わんばかりに、やりたい放題の展開だ。それ以上は何も言うまい。

某所で専用線接続のお手伝いをしてきた。サーバやルータの主要な設定はその場でやったが、細かいところまでは手が回らなかったので、続きは家に帰ってからリモートで...と思って家に帰ると、どういうわけか設定してきたサーバが telnet を受け付けない。設定が少々ラリっていても telnet さえ使えればどうにでも修復できるが、これが出来ないのだからどうしようもない。色々と攻撃をかけながら反応を調べてみると、どうやらルータから先へパケットが流れていないように見える。

おかしい、ルータの設定は確かにしてきたはずだ。そう思ってルータのマニュアルを取り敢えず見直してみると、デフォルトでフィルタが設定されるというようなことが書いてある。しくじった、これは最悪だ。新品のルータにデフォルトで余計なフィルタが設定されているなんて思ってもいなかったから、その場で気付かなかった。最近の普及価格帯のルータは、シロートさんが扱うことを想定した設計になっているのか、デフォルトがかなり安全な設定になっているらしい。むむー。

いずれにせよ、ちゃんと確認していなかったのは、わたしの落ち度であった。



ドコモでモバイル・初心者講座
2000年4月17日(月曜日) はれ

ドコモショップの対応の悪さについては先日書いたが、今朝はドコモPHSに関する問い合わせ先のフリーダイアルに電話をして、たらい回しを喰らった。しかも、窓口によって全く違う回答が帰ってくる。ドコモには、マニュアルなんか一冊も存在しないんじゃないかと疑ってしまうような仕事ぶりである。午後からNTTドコモの神奈川支店に出向く用事があったので、そのときに蓄積していた/不満/苦情/文句/その他/を存分にぶちまけて来てやった。

そんなわけで、ドコモの受付は、郵便ポストが赤色で統一されている事実と同じぐらいに頭の弱い人間で統一しているらしい。流石に、支店だけは例外だろうと思った。が、期待したわたしがアホだった。支店の受付嬢も、ドコモショップに勝るとも劣らない。PCカードがそのままPHS端末になっているP-inを契約してきたのだが、これはデータ専用端末だから、音声通話用の料金プランでは契約できないと言う。P-inは、PCカード型なので電話機には見えないが、イヤホンを繋げば音声通話もできることを知らないらしい。

// あのさ、僕は普通の人よりも電話の事情に詳しいから、おたくらに騙されずに
// 済んでるんだけどね。窓口の人間より客の方が詳しくて、どうすんのよ?

と、P-inの機能を説明しながら言ってあげたが、これが情けない事実である。ドコモのPHS料金プランには、主に音声通話でお得になる、あるいは主にデータ通信でお得になるプランは存在するが、例えP-inのような端末であっても、データ通信限定された料金プランは存在しない。従って、端末には関係なく、どんな料金プランにするかは、無論のこと客の勝手である。窓口の案内がこれだから、知らずに騙される人もいるだろう。皆さんも、ドコモに騙されない賢い消費者になろう。

ドコモでモバイル・初心者講座は、まずここから押さえなければならない(笑)




2000年4月16日(日曜日) はれ/くもり

ちょっと暗いけど、うし 昨日は、所用で愛知県まで行って来た。偶然にも、お邪魔した方の家が牛乳を作っている農家で、牛舎には Gateway 2000 色の牛さんがいっぱいいた。第一印象、牛って想像していたよりもデカイ。デカイから凄い存在感はあるんだが、意外とおっとり構えながら草を食っているだけであった。目の前で睨めっこしてみると、結構かわいい。

お土産に、目の前で搾った牛乳を頂いた。そのまま飲むと腹を壊すので、加熱殺菌してから飲めとのこと。早速、家に帰ってから鍋で沸かして飲んでみると、確かに売っている牛乳とは一味違って美味しい。まったりとして少し濃い感じはする(暫くおいておくと脂肪?の層みたいなのが出来てくる)が、牛乳に特有な嫌らしさがないので、むしろ飲みやすい感じだ。

見てるかな?>ありがとうございました。



ドコモショップ
2000年4月15日(土曜日) あめ

いつも思うのだが、どうして首都圏のドコモショップは、揃いも揃って店員にコギャルばかりを採用しているのだろう。別に業務さえきちんとやってくれればコギャルでもゴリラでも良いのだが、やる気なし/接客態度は最低/品が無い/頭はヨワい/ブス、と五重苦の使えない人間ばかりである。ドコモショップの多くはフランチャイズで奴等はドコモの社員では無いらしいが、フランチャイズ管理の人間に、倒錯しきったコギャルフェチがいるとしか思えない。

先日は、ドコモショップ桜木町店へ行ってきた。受け付け時の態度もかなり頭に来たが、これぐらいはいつものことと覚悟していたから何とも思わなかった。ところが、担当の店員がわたしにあることを説明している間中、その店員はわたしの端末のアンテナを無意識のうちに伸ばしたり縮めたりして、手遊びを辞めようとしない。この辺が我慢の限界で「薄汚い手で俺の端末をおもちゃにするな、クソアマ」と叫びかけたが、何とか我慢して「それ、返せよ」とドスを利かせて終わらせた。

まあ、態度がなってないというか、緊張感が無いというか、落ち着きのない店員はどこの店にもいるが、それでもボールペンで遊ぶかそこらだろう。それぐらいであれば、「こいつは脳味噌が足りないから仕方がない」で済ませられるのだけども、ドコモショップだけは格別だ。だいたい、お客様からお預かりしている端末でそういうことをやるかな、ふつうー?

くそ、書いていたら改めてイライラしてきた。暴れてくるべきだったかも知れない。



石原発言を考える (3)
2000年4月14日(金曜日) はれ/くもり

陸自式典で「三国人」という言葉を用いた石原都知事は、未だにそのことで叩かれている。マスコミに叩かれるだけならマスコミが馬鹿騒ぎしているだけということで話は済んでしまうが、在日朝鮮人人権協会といった外国人系の人権保護団体なんかが国連に提訴するとかで、大事になっている。何の意味があって必要以上に事を荒立てているのか理解に苦しむところであるが、ありがちな言葉狩りってなのか。取り敢えず、石原の発言における問題部分を引用しながら考えてみたいと思う。

・・・今日の東京を見ますと、
不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪をですね、繰り返している。もはや東京における犯罪の形は過去と違ってきた。こういう状況を見まして、もし大きな災害が起こった時には大きな大きな騒擾事件すらですね想定される・・・

文脈から判断した限りでは、「三国人」が直後で言い換えられている「外国人」という意味で使われており、その中でも特に不法入国者を指していることは明らかであり、石原の「弁明」とも一致する。しかし、ここで「三国人」という余り耳慣れない言葉を敢えて用いた理由は確かに疑問の残るところであり、狭義の意味での「三国人」として区別される人種に対する差別的な意識を石原がそれとなく刷り込んだと解釈することも、あるいは可能であろう。文脈的に見ればそれは邪推に過ぎないが、言葉そのものの意味を調べると興味深い。

大辞林第二版で「三国人」調べたところ「第三国人」を見よとのことであった。

石原は、「三国人」を「第三国人」の(1)の意味で使ったと後の記者会見で主張している。大辞林の解説を見た限りでは、単に「三国人」と言った場合は(2)の意味を指すことが一般的なように見える。気になるのは(2)の意味として「俗称」とは書いてあるが「蔑称」とは書いていないところで、石原も同じことを言っている。わたしも実際はどうなのか知らないが、社会通念上「三国人」が蔑称として使われる場合の方が多い可能性もある。だとすれば「三国人」に含まれる方々から反発が出ることにも根拠はある。

しかしである。言葉はそれ単体で意味を持つものではなく、常に文脈も鑑みて語意を解釈しなければ、木を見て森を見ずである。先述したように、文脈から見れば「三国人」が蔑称として使われていないことは明らかである。先述したように、文脈から見れば「三国人」が蔑称として使われていないことは明らかであり、巷で起きている抗議やらは偏に過剰反応と言わざるを得ない。単なる言葉狩りだとも思うし、「変な劣等感があるから騒ぐんだ」という弁も、あながち詭弁とは思えなくなってくるものがある。

だが、石原を弁護したいわけではない。最も重要な問題である本題とは無関係な論議ばかりを招き起こす言葉を使ったことについては、石原は言葉をもっと咀嚼して使うべきであった。そのことについて「三国人」という言葉は以後使わないと石原は述べたが、いまさら気付いたようでは遅いのだ。「言葉狩り」はマスコミの得意分野だし、記者たちは、その意味を深く考えないまま「辞任」だ「謝罪」だとか良いながら突進してくること意外に出来ない頭の弱い集団なのだから。

石原が式典で述べた「不法入国者による騒擾」についての発言は、内容そのものとしては立派だと評価したい。特に不法入国の外国人が日本の治安上における大問題であることは警察庁も認めていることであり、こういった集団が災害時にどういう行動を取るかを想定することは、危機管理として当然に必要なことである。日本人に危機管理能力がないと言われる原因として、こういう現実を直視したがらず、また厄介は想定したくないという性質が挙げられると思う。そのことを問う意味でも、石原の発言は真面目に受け止めるべきである。



石原発言を考える (2)
2000年4月13日(木曜日) はれ

石原都知事の陸自式典での発言を少し引用してみよう(出典;朝日新聞2000年4月12日朝刊)

・・・今日の日本を眺めますと、残念ながらどうも国の外側も内側もたがが緩んできたなという感じを否めません。(中略)国家の国民に対する責任の最大のものは、国民の生命と財産を守るというのは明白なことであります。そしてまた、国民もそれを期待するがゆえに国家というものに対する責任、あるいは忠誠というものをですね、抱いているに違いないが(中略)国民一人ひとりの責任というものが結束していない・・・

日本の現状について言えば、ここで石原が指摘していることは確かに的を射ている。今の国民が結束して何かの責務を果たそうとしているとは思えないし、また国民と国家がどういう関係にあり、互いに何を期待しているのかが非常に曖昧であるのも事実だ。石原は、これを不適切だとし、互いの責任などを明確にすべきだと考えているようである。幾分右翼的な思想を含んでいることも気になるが、それ以前の問題として、この考え方は余りにも古めかしい。

石原は「国民が国家に対し忠誠を抱く」ことを、敢えて説明するまでもない当然の摂理のように挙げているが、長い目でこれからの日本を考えたとき、現実問題としてそういうことがあり得るとはどうしても思えない。第二次世界大戦前に国家が存在を賭けて動き、国民もそれに協力しなければ明日は国が無くなるかも知れないという時代ならいざ知らず、現代においては「国家への忠誠」と言われても「いつの時代の話?」というリアクションしか帰ってこないだろう。一部を除き、いまの国民に「忠誠」なんかを求めることはできない。

従って、石原はもう少し合理的かつ現代的に話を進めるべきであったと思う半面、石原の弁そのものは、あながち的を外したものではなく、重要な指摘である。有事の際に誰が国民の命や財産を守るのかということを日本人は余り考えたがらないようで、「国の安全なんか何処吹く風」という風潮が罷り通ってしまうようだが、感心できることではない。国の安全保障は国の責任であり、ならば国民も無視してはならない問題なのだ。自衛隊はその責任の一端を担っているので必要な存在だと思う。その自衛隊について石原は、

・・・ある意味で社会の中で孤絶された形で、場合によっては白眼視されながら日々精励され、この国家をいったん緩急の時には守る、国民の生命を守る財産を守るために精励していらっしゃる。これは当たり前のことであると同時に、実は日本の社会の中にとってはけうなることであると、残念ながら思わざるを得ない。(中略)そこでやはり、国家の軍隊、国家にとっての軍隊の意義というものを、価値というものを、皆さんが何といっても中核の第一師団として、国民に都民にしっかりと示して頂きたいということを、ここで改めてお願いし・・・

このように述べている。自衛隊の存在については色々と意見があるけれど、これほど端的に自衛隊の役割を言い表したものは、寡聞にして知らない。自衛隊についての議論そのものが忌み憚られ、仮にその話が出れば妙に慎重になる。今までは奥歯に物が詰まった聞くに堪えない議論ばかり続いてきたわけだから、この鮮やかな切り口は評価すべきである。無論、石原の自衛隊に対する考え方が全て正しいと言いたいのではないが、例えば自衛隊という極めて中途半端な存在を、軍隊と割り切ってしまう見方も一つの捉え方としてあっても良いと思うのだ。



石原発言を考える (1)
2000年4月12日(水曜日) はれ

石原都知事の陸自式典での発言で各方面から叩かれているようである。今日の朝日新聞朝刊に陸自式典での石原発言の全文が掲載されていたので読んでみたのだが、言っていること自体は考えるべき点も多く、さすがは石原だ、面白いと思った。議論は大いにすべきだといいながら、日本人が今まで忌諱し続けてきた問題を、石原は強烈に提議してくれる。この人は、次から次へと大問題ばかり起こしてくれるが、わたしはそれが愉快で仕方がないのだ。都庁の苦情受け付けは、気が気でないのだろうけども。

そのためには、「言葉の綾」の問題ぐらい許そうではないか。石原節は批判されがちだが、石原の「暴言」は、確信犯ではないのかとすら思うことがある。誰も議論しようとしない議題を提議するためには、あのぐらいの「必要悪」はやむを得ないと見えるのだ。その必要悪を行使する石原と、議論すべきことを議論しないで放ったらかしにしてある者と、どちらが悪いか? それは意見が分かれるところなのかも知れないが、本質から目を逸らしているという意味では、後者の方が悪いに決まっている。

にも関わらず、石原発言の全文を掲載した朝日新聞の「時々刻々」は、石原の発言内容を冷静に吟味することもなく、半ばヒステリーを起こしたように差別用語非難に走っていて「さすが朝日」という感じである。次回は、多事毒論にネタを提供して頂いた石原に感謝の意を込め、「ん?」と感じた部分を引用しながら多事毒論的にその発言内容を考えてみたいと思う。



電話帳
2000年4月11日(火曜日) くもり/はれ

久々に電話を買い換えた話は数日前に書いたが、問題は電話帳の移行である。やらなければと思いつつ、考えただけでも億劫で手付かずとなっていたのだが、もう勢いで決行した。PHS に登録されている電話帳データは、NTT ドコモのサイトからダウンロードできるパルディオ電話帳エディタを使うと、簡単にパソコンへ吸い出すことができるし、CSV データとして保存できる。問題は、このデータをどうやって新しい端末に移すかなのだ。

まず思いついた手段が、端末をパソコンに繋いで電話帳の編集させてくれるソフトを用い、一気に書き込んでしまう方法。データ形式が違えば、それは Perl か何かでスクリプトを使って変換すれば良いことである。が、そういったソフトの使用経験者に話を聞いてみると、電話帳がぶっ飛んだとかで難色を示された。まだ何も登録していないから恐れることは特にないが、そんな調子では新規のデータも正しく書き込めないかも知れない。これは却下、そして結局、手動でやることに...

僕、負けないもん! と叫びながら、永遠とかかりそうな手動登録作業に入る。交際範囲は狭い方だと思うが、それでも百件を超えてやがる。取り敢えず吸い出した電話帳データを Access で開いて、要らない分を省くことにした。何かの待ち合わせで一回だけ会った人の番号とか、消息不明で付き合いの無くなった人の番号などを消していくと、半分ぐらいまで減る。凄い無駄だ。わたしだけでなく、世の中に存在する「電話帳データ」のうち、半分以上は贅肉なのかも知れない。

というわけで、60件程度を打ち込むのにかかった時間は3時間ほど。しかしまあ、たった12個そこそこのキーで漢字を打つなんて、馬鹿げてるというか、良くやるなというか。電話帳の登録だけでも腱鞘炎になるかと思ったのに、これでメールを送ってくる友人も少なくないし、頭が下がる。先日「iMode チャット」なんてものを見掛けて更に驚いたのだが、これで本当にチャットなんかやるのかね?



グリーンマイル
2000年4月10日(月曜日) くもり/あめ

映画「グリーンマイル」を観る。

悪い映画ではなかったが、いまいち何が言いたかったのか分からない内容でもあった。宣伝で歌われているような誰にでも理解できる感動ストーリではなく(どうしてこういう安直な宣伝文句しか思いつかないのかね?)、一部終始キリスト教的な思想を多分に含んでいる。従って、話の展開だけなら作品を最後まで見なくても粗筋ぐらいは正しく語れてしまう安直さなのに、それによって一体どういう哲学を示したかったのか? という問題になると、わたしのような異教徒にはいまいち理解できない。

そんなわけだから、制作者の意図とは恐らく全く関係のない「意味」を考えながら、わたしは見ていた。取り敢えず思いついたところが「組織に縛られるなどして自分の意志とは関係なく行動しなければならない人間の良心について」ときて、次に「死刑の不当性について」もあったと思うし、「全ての真実を知る者の辛さ」も語られていた気がしたし、「奇跡の代償とは」でもあった...こんな具合にどういう見方でも出来てしまうから、何が言いたいのか良く分からない。結局これは作ったヤツのオナニーなんだ、という結論に落ち着いてしまった。

キャストは良い。トム・ハンクスを筆頭に、素敵な面々ばかりだから。



iモード
2000年4月9日(日曜日) はれ

最近のiモードブームに触発されて、わたしも一つ欲しくなった。そんなわけで、P502i を手に入れる。秋葉原で値切り倒して(事務手数料込)1万円+税、どこの店で聞いみても1万円が限界のようである。電話端末なんて今まで金を出してまで買ったことがなかったから何となくアホらしい気もしたが、どうやらこの手の端末となるとタダは無いらしい。購入を検討している最中、cdmaOne の端末にも惹かれてしまったが、あれやこれやと迷った末にドコモにした。

ドコモにした理由の一つとして、PHS をファミリー契約にすると基本料がちょっと安くなることが挙げられる。実は、PDC 端末を手にするのはこれが初めてで、PHS 大好き君なわたしは、いままで PHS しか持っていなかった。しかし、折角 PDC を買ったのだから通話はこっちを使い、PHS は通信用として持っておくことにしたのだ。ファミリー割引や長期契約割引などで PHS を合わせて持っていても大した金銭的負担にはならないし、この時代に、9600bps でチンタラ通信する気もならない。

そういう使い方をするとなると、次に欲しくなるのが P-in という、PCカードがそのまま PHS 端末になってるやつだ。オマケ機能として、PDC に繋ぐこともできるので、まさにわたしのような人間の物欲を刺激するためにあるような製品である。しかし、やたらと人気があるらしく、値段も高いし品薄状態が続いているようだ。

肝心のiモードは、まだ使ってない。明日の9時にならないと、開通しないのだ...



Netmeeting
2000年4月8日(土曜日) はれ

連続更新記録は、ついに崩れ果て..とはいっても、かれこれ半年以上は続いていたはずだから、一日のお休みぐらい許して貰いたい。昨日は、18時前に帰宅したと同時に疲れ果てて、布団の中に潜り込んでしまった。そんな時間に寝たところで、夜中には嫌でも起きてしまうだろう。毒論の更新はそのときにすれば良いのだ。そう思って目を閉じ、そして次に気が付いたのは今日の昼前であった。自分で考えても恐ろしいことに、17時間ほど文字通り泥のように眠っていたらしい。

前々から(1年以上も)、ある方と Netmeeting でIP電話網を築く計画を立てていたのだ。ちなみに、Netmeeting とは、早い話がインターネット電話ができるという Windows のオマケソフトのことである。類似のものも含めて、パソコン上のインターネット電話を実用的に使っている人間がどれぐらいいるのかは疑問だが、使い物になれば、特殊な電話機といった新たな投資の必要もなく電話代節約に繋がるかもしれない。相手は京都で、わたしは横浜だから、その間の長距離通話料金を考えると十分に効果はある。

ってことで、ここが何となく滑稽だが普通の電話で事前に打ち合わせしながら、ソフトを立ち上げる。Peer to Peer で接続するのでこちらのIPアドレスを相手に教え、打ち込んで貰ったら意外とあっさり繋がった。なるほど、仕組みを少し理解していないと難しいと思うが、思ったより手軽である。音質は回線のスループットやパソコンの処理速度に大きく依存するようだが、今日の実験ではNFMの無線機に近い感じの音質で、PDCよりもアナログ的。しかし、通話の遅延は 500ms 程度と大きく、喋りにくいと思う。

〜と思うのは、機器上の都合から半二重通話になってしまい、同時通話は体験できず遅延は無視できたためだ。音質は無線機のようだし、音の途切れも少なからずあって、雰囲気的にはちょうど高速で移動している移動局から来る電波がフェージングを起こしているような感じ。したがって、電話というよりどう考えても無線機で喋っている感覚なのだ。そんなわけで、

「もしもし、こちらの声は聞こえておりますでしょうか? どうぞ

「はい、えーやや揺れてますが聞こえてます どうぞ

という会話が延々と続き、思わずRSレポート下さい、って言ってしまいそうな電話であった。もうちょっと工夫しなければ、マトモに使えそうではなさそうだ。



ふぅ
2000年4月6日(木曜日) はれ

今日は職場で大規模なネットワーク工事を行ったため、疲れた。www.exp.org も職場のルータに繋がっているので多少の影響はあったはずだが、工事の主な部分は別のネットワークセグメントで行われたため、ここをご覧の方には多くの迷惑をかけるということにはならなかったと思う。しかし、実際に全ての作業が終わったのは終了予定時刻としてアナウンスした午後6時を大幅に超えてしまい、お客さんには迷惑をかけてしまった。

こんな日はゆっくりと寝たいわけだが、ところがどっこい。明日は打ち合わせがあって、いつもより朝が早い。まあ、人生なんてややこしいことは集中して起こるようにできているものだ。素直に現実を受け入れることにしよう。というわけで、今日はいつものネタはお休みします。



毛棟?
2000年4月5日(水曜日) あめ

いてもうたろうか、毛唐が!

という文を打ったら、どういうわけなのか、うちのATOK13では「けとう」が「毛棟」なんていう変換になってしまう。「けとう」と打っても出てこないから、「毛」と「唐辛子」を出してから二文字消し、無理矢理「毛唐」を作らなければならないのだ。それはおかしい。「毛唐」は差別用語ではあるけれど、そう極端に特殊な言葉でも無いと思う。ん? もしかすると、「差別用語に類する言葉は打たせてやらないよ」という、一種の言葉狩り精神がFEPにも組み込まれてあったりするのだろうか?

そんなわけは無いと思いながらも、白黒はっきりさせなければ寝覚めが悪くて実際に調べてみるのが突撃実験室の悪い癖である。http://www.ops.dti.ne.jp/~stsuno/kindex.html (*1) を参考に、比較的一般的に知られていると思われる用語を拾って、わたしのPCにインストールされている3種類のFEPに平仮名で打ち込んでみた。熟語として変換できたものが○。漢字は無理だが、辞書にあると見られるものは△、明らかに辞書に存在しないものは×とした。

読みATOK13ATOK12MS-IME97
毛唐けとう×××
支那しな×××
非人ひにん×××
人非人にんぴにん×××
不可触民ふかしょくみん×××
部落ぶらく
気違いきちがい×××
ちんば×××
盲瞽めくら×××
つんぼ×
ライ病らいびょう×××

と、このように殆どが全滅である。しかし、こういう言葉は現実にあるのだし、場合によって(例えばそういう現実を扱った論文とか小説とかを書くようなとき)は、使わなくてはならないこともある。言うまでもなく一般の文章において積極的に使うべき言葉ではないにしても、それがFEPの辞書から外す理由になっているのだとすれば、やはりFEPにおける言葉狩りと言わざるを得ないだろう。

もっと不思議なのは、ATOKにおける「つんぼ」の扱いである。「聾」という漢字は難しすぎるのか出ないのだけれど、これは平仮名として確定するのだ。わたしの感覚では、「つんぼ」には「めくら」と同じぐらい差別的なニュアンスがあるように感じるのだ。なのに、どういうわけか「つんぼ」は良いけれど「めくら」は平仮名としてすら確定しない。この辺の違いは、どうも理解できないところである。

(*1) 無断リンクするなとか書いてあるので、参考文献としてURLだけ挙げておく。



総理大臣
2000年4月4日(火曜日) はれ/くもり

小渕首相が再起不能となって、小渕内閣は総辞職だとか。総辞職はどうでも良いが、小渕さんはお気の毒なことだと思う。普通の人間の神経が針のようなものだとすると、政治家は神経が棒ぐらいに図太くなければ勤まらないのだろうが、総理大臣ともなればそれでも磨り減る仕事なのだろう。立て続けに糞ややこしい問題があれやこれやと降りかかって、とうとう限界が来たというところか。カネの問題ではないとしても、立場から考えると総理大臣の俸給(月額2,304,000円)は、安い気がする。

化学メーカーのクラレが「将来就きたい職業、就いて欲しい職業」という調査をしている。詳しくは同ページを見られたいが、1999年の新小学生とその親に対する調査だという。女の考えることは、女っ気の無いわたしには検討も付かないので男子の表だけを見ると、新小学生の希望トップ3が「スポーツ選手」「運転士」「警察官」という順番になっていて、この辺の定番は、わたしが小学生だった頃から大して変わっていないようだ。でも、絶対にランクインしていると思った「総理大臣」が、どういうわけか見当たらない。

総理大臣ってそんなに人気のない職業だったのか? 小学校時代の薄れた記憶を手繰り寄せると、わたしが通ってた小学校には「総理大臣になっちゃる!」といってたヤツが少なからずいたように思うのだが、皆さんの場合は如何だったろう。現実はともあれ、男子なら日本一偉い人として君臨したい願望が多かれ少なかれあったし、それならば「総理大臣」と来ると思っていた。かくいうわたしも、偉い人として生きるのなら、総理大臣しかないと思っていた。データが無いので個人的な思い込みかも知れないが、知らない間に総理大臣はガキにも見下される仕事になってしまったのだろうか。

ところで、なぜ化学屋のクラレがこんな調査をやっているんだ? という疑問は、当然ながら浮かんでくる。少し調べてみると // クラレ → 人工皮革を製造 → ランドセルの原料 → 新小学生 // という繋がりがあると分かって、なるほど納得。なお、ここでリンクさせて頂いた「将来就きたい職業、就いて欲しい職業」は、同社ホームページに掲載されているクラレ調査隊の一部である。わたしはクラレの回し者では無いけれど、ほかにも人工皮革に関するネタとか、何の関係があるのか良く分からないネタが色々とあって面白い。



デジタル通信は22世紀の夢を見るか?
2000年4月3日(月曜日) 曇り

SFアニメとかに出てくるテレビ通信システムって、「ぶちっ」と切れたり「ざざー」とノイズが入ったり「べろべろ」っと同期が外れたりして、どう見ても古代のアナログ通信って感じがするのは気のせいか? ん〜、21世紀前半はデジタル通信が当たり前の時代となるんだろうが、そこから先はまたアナログ全盛期になるんだろうか。まあ、無線を使っているという雰囲気を演出するには、クリアで美しい高品位な通信はいけないんだろうね。時代の趨勢だけは、予想できないものである。

今日はなんか眠い。寝る。



行間
2000年4月2日(日曜日) 曇り/はれ

お気付きの方も多いと思うが、読みやすさを考慮して今月から行間を以前よりも広く取ることにした。密度の高い字面は読みにくいだけでなく、文章量が多いときは読む気を無くさせることもあるだろう。文庫本などをご覧になれば分かる通り、日本語を書く際に取るべき行の幅は活字の幅の1.5倍程度が常識である。にもかかわらず、主要なブラウザは馬鹿だからべっとりと表示するのだ。これは、欧文を読みやすく表示するときの行間を日本語にもそのまま適用しているからそうなるらしく、多言語対応の不十分さが伺える。

しかし、最近のブラウザはスタイルシートで行間が可変になった。

<HEAD> と </HEAD> の間に、

<META http-equiv="Content-Style-Type" content="text/css">

という行を入れ、スタイルシートとして css を使うことを宣言する。そして、

<DIV STYLE="line-height:130%">

// ここに文章を書く //

</DIV>

という具合に DIV タグで括ると、その部分は、一行が line-height で指定された幅になって表示される。line-height には、一行の高さを文字の高さに対する割合で指定する。この例では 130% だから、文字の高さの 30% 幅の空白が、行間として各行の間に取られるわけだ。

本来ならば、行間といった読みやすさの配慮もブラウザがすべき仕事なんだが..



破線のマリス
2000年4月1日(土曜日) はれ

「炎の実験」の続編を書いていたのだが、どうもキーが進まないので映画「破線のマリス」を見に行く。

「報道の恐ろしさ」を真っ正面から風刺した作品として話題になった問題作であるが、単に報道というものだけにスポットライトを当ててそのあり方を批判した社会風刺ではなく、あらゆる種類の映像が有しうる性質そのものによって、人がどのように踊らされるのかを描いたものと見た。報道が凶器にもなりうることぐらい、極言すれば誰にでも語れることであり、今更そんなことをガタガタと説明される必要は無いのである。しかし、この作品にあっては、そんなことは話を始めるための前置きに過ぎない。

映像にひっそりと刷り込まれる人間の恣意的な意図だけでなく、映像を目にした人間の恣意的な解釈もまた、誰かを襲う危険性を常に孕んでいるものだ。事実を抜き取ったかのように見える映像が、実のところはある人間の意図を多分に含んだ暗喩的な語りかけでもあり得ることは、多くの人が知るところであろう。しかし、例えその映像にどんな意図が刷り込まれていようとも、映像は映像でしかない。逆説的に言えば、映像から見えないメッセージをデコードし、その意図を解釈するのは、やはり人間でしかないのである。

つまり、映像に秘められた意図が人間を動かすきっかけになることはあっても、映像そのものが直接的に人間を動かすわけではない。解釈という思い込みに過ぎないものが、人間を動かすものの本質なのである。間違った解釈に基づいてあらぬ方向へと人間が動いたとき、意図された映像に責任を求める映像悪玉論を我々は展開しがちである。しかし、果たしてそれは正しいのだろうか? その人間が見たという映像の中に、何らかの意図が隠されていたとは限らない。何でもない映像にその人間がとんでもない解釈を付け加え、勝手に踊っているだけなのかも知れないのだから。

伏線に伏線を張り、あたかも映像が人間を騙すかの如く、観客を騙し通す。そうして映像というメディアの落とし穴を強烈に見せつける「破線のマリス」は、良くできた作品だ。横浜では、関内アカデミーで上映中 (4/14迄) である。客席数100以下のミニシアターだが、大型の劇場にはない独特のこぢんまりとした雰囲気も良いものである。最近はハリウッド作ばかり見ているから、疎遠気味だけども。



突撃実験室