多事毒論(2000年5月分)



昭和
2000年5月31日(水曜日) はれ

家に帰ると、すぐに寝てしまう。というわけで、今日は朝の更新。まだ頭が寝てやがる。

森さん騒ぎのお陰で今国会では成立しなくなったが、「みどりの日」を「昭和の日」に改名する動きがあるようだ。その理由として、いまさら昭和天皇が云々といった宗教的な精神論を持ち込まれると鬱陶しいが、昭和生まれのわたしとしては、「昭和の日」があっても良いと思う。昭和という響きに、何だか後ろめたいものを感じる人が多いのだろうか。確かに、戦前の昭和では日本がおかしな方向に暴走していたことも事実だし、戦後の昭和も山のような負の遺産を残して、平成に及んでもその処理は終わっていない。

しかし、いまの日本があるのは、昭和における発展があってこそという見方もまた必要なことである。日本においては、歴史というと後ろめたいものばかりに目が行きがちだ。それはそれで良いのだが、逆に誇るべきことも、もっとあるのではなかろうか。



お詫び
2000年5月30日(火曜日) はれ

申し訳ありませんでした。

アホらしくて、平謝り以外に思い浮かぶ言葉がない。ここ数日間、「www.exp.org が見付かりません」なんて言われて、アクセスできなかった人もいるかも知れない。ここ暫く、何となくアクセス数が少ないと思っていた。友人からも「お前んとこ見えないんだけど、どうかしたの?」なんて問い合わせがあった。確かに不可解ではあったが、自分のところからは見えているし、更新も出来ていたから大して気にしていなかったのである。だが数日前、ネームサーバの zone ファイルを少し変更したことを思い出した。これが、全ての始まりであったのだ。

exp.org では、ネームサーバが2台稼働している。仮に1台が死んでももう1台がバックアップしてくれる仕組みになっているが、皆さんから見たときは、どちらが主でどちらが副という区別がなく、ラウンドロビン方式でローテーションを行いながら両方とも平均的に使用されている。当然、いずれのサーバも全く同じ zone 情報を持っており、片方の情報を変更した場合は、もう片方も同じように変更しなければならない。しかし、数日前に zone 情報を両サーバとも同じように書き換えたつもりが、一方のサーバのみから、www.exp.org のレコードを消してしまうという大ヘマをやってしまった。

2台のサーバが平均的に使われているとすれば、巨視的には www.exp.org を見られる理論上の蓋然性は50%である。実際は、50%以上よりも高くなるのだが、このような原因から www.exp.org が見付かったり見付からなかったり、という現象が発生していたわけだ。不幸なことは、重なるようにできている。必ずしも名前解決に失敗するわけではないから、問題に気付き難い。また、わたしはたまたま www.exp.org の正常な方のネームサーバだけを使用していたため、指摘があるまで片方のサーバから情報が欠落したことに全く気付かなかったというのが事のあらましである。

そう、事故は複数の不幸な要因が積み重なって大きくなるのだ(教訓)。



笑わない数学者
2000年5月29日(月曜日) はれ

森博嗣「笑わない数学者」(講談社文庫)を読了。

「すべてはFになる」に続いて、これで森博嗣作品を読むのは二回目となるが、相変わらずドライな理詰めによる話の進め方がわたしの性分に合っていて、気持ちがよい。文系作家が書いた作品にありがちなネチネチさがないから、わたしのような不精者でも、あの分厚い文庫を一日で読破できてしまうのだろう。話の本筋から見れば重要でも何でもないのに、やたらと文学的な情景説明とか心理描写などをクドクドと読まされるから、脳が必要以上に疲労するのである。ミステリなんて謎解きだから、さっと始まってさっと終わってくれれば良いのだ。

ネタバレは無い。オリオン像の謎は、簡単だったので直ぐに解けたが、あれを殺人事件の解決にどう結び付けるのかまでは、最後まで良く分からなかった。中盤から何だか後味の悪い部分を多く残してゆくから、一体これからどうするつもりなんだと心配してしまったが、最後には美しく帳尻を合わせてくれたからOKである。しかし、わたしが一番楽しみなのは、理系気味のサブカル少年が喜んで飛びつきそうな、論理武装主義の哲学的蘊蓄である。そこでそんな話をするか、普通? って思えるだけ、わたしがまだまだ常識人である証拠と言えよう。

森博嗣作品を読んでいると、無意識のうちに煙草を吸ってしまうのはわたしだけだろうか。犀川があれだけ美味しそうに吸ってりゃ、読んでいるこっちだってニコチンが欲しくなる。煙草を止めようと禁煙中の人は、読まない方が身のためだ。下手に押さえると、ストレスで死んでしまうかも知れない。



人間の條件
2000年5月28日(日曜日) はれ

天気予報により雨を予想するも、朝から晴れてしまう。日本ダービーは重馬場に違いないとか誰かが言っていたが、実際はどうだったのか。馬には興味が無くなって久しいので、わたしにはどうだって良いことである。

五味川純平「人間の條件」(文春文庫)を読了。全六巻の文庫本を半年がかりで読むという、大がかりなプロジェクトだったというべきか、単にチンタラと読んでいただけというべきか。思いついたように一気に読んでは、本のことなど忘れたかのような長い休憩を取り、その循環を繰り返す自分の読書パターンに相当な問題があるらしい。その気になれば、普通の文庫本ぐらい数時間で読めるのだが、なかなか集中力が続かない。

国家・戦争・徴兵・軍隊・植民地・民族といったキーワードで、個々の人間がどう生きるかを詳しく書いた作品だ。もちろん、そういう題材からして明るい話は全く無く、一部終始に及んで「非人道的」とか「不条理」の一点に還元できるようなエピソードの集大成である。左翼的な思想も少しばかり感じられるが、まあそれは仕方がないだろう。事実を坦々と記した報告書のようなノリで書かれている部分が多く、安っぽいヒューマニズムに訴える手法のものでないところがよろしい。

大正生まれの人間が書いた作品らしく、女性感覚とか言葉の言い回しなどで古くさく感じる部分は沢山あるのだが、読んでいるうちに慣れるから不思議なものだ。暫くすると、随所で出てくる嫌みたらしい表現や、根性がひん曲がってんじゃないかと思うぐらい皮肉った皮肉な比喩が、逆に愉快に感じられてくる。平和ボケしているからリアルな戦記モノを読んでおくべきだとかそういう意味ではなく、あるいは今だからこそ、色んな意味で読んでおいて損はない作品である。



はう〜
2000年5月27日(土曜日) くもり/あめ

久しぶりにアキバへ行った。同行者に、いまこそCPUのアップグレードをすべきだと言葉巧みに説得し、氏のアップグレードにより余った K6-2 350MHz を、これまた言葉巧みに値切って買い上げる。もちろん、騙したり脅したりといった極悪な手段は用いておらず、同行者が絶対に損をしないような価格設定にて契約は成立したと考えている。早速、遅くてイライラしていた会社のPCに入れてみた。早くなったが、何故か自腹アップグレード。素直に喜べない。

大阪の友人が家に泊まりに来ている。東京都内で学会があるから一晩泊めてくれという。関西在住者の人間は、東京で用事があると宿泊場所に苦労することが多いらしい。貧乏者の集大成であるわたしの友人達は、新幹線を使って日帰りというわけにもいかず、かといってホテルに泊まる金も工面できないそうだ。というわけで...関西を出奔して、現在横浜に住居を構えるわたしのところは、しばしば関東方面補給基地(宿泊無料、希望により朝食付き)として便利に使われている。

これからは、金でも取るべきか。



鉄道の事故史
2000年5月26日(金曜日) はれ

年齢について深く論じようと思ったが、やめた。

久々に図書館へ行ってみる。横浜市立中央図書館までは歩いて10分ほど。平日なら20時30分まで開館しているから、仕事が終わってからでも利用できるのだ。ここら辺の治安は良くないが、図書館も大型書店も、そして主要な映画館も徒歩圏内にあるという自宅の立地条件は、その蜜の味を覚えてしまうと捨てがたいものがある。一度は引っ越しを考えたこともあったが、結局やめてしまったのは、こういう理由によるところも大きい。

本当は別の目的で行ったのだが、何となく目に留まった「続・鉄道の事故史」(佐々木富泰・網谷りょういち著,日本経済評論社,ISBN4-8188-0819-9)という本を借りてきた。惨事となり史的にも有名な鉄道事故を取り上げ、独自の調査に基づく考察によって事故を再検証したものだ。やや主観的に感じる部分もあるが、過去に起きた事故の発生過程を仔細に解説した内容は、比較的最近の大事故の発生要因とも相通じるところが多い。また、現代の運輸における安全対策の根拠も、過去の事故史から垣間見ることができる。安全は、過去の苦い経験から生まれるものである。

特に気になった一文を引用してみよう。

 アメリカのNTSB(国家交通安全委員会)がまとめる事故報告書には、かならずサバイバル・アスペクツ (Survival Aspects) という項がある。「たとえ事故があっても、どう行動すれば、あるいはどのような設備があったならば、犠牲者や災害の規模を小さくし、より多くの生存者が得られるか」、という視点である。
 日本での事故の場合は、現場の扱い者や管理者の責任追及という側面からだけで論じられる場合が多く、このような「生存の視点」から事故原因を検討されることは少ない。
[p.134]

大変に的を射た話だと思う。最近の鉄道事故では、地下鉄日比谷線の脱線衝突事故が記憶に新しい。報道を見た限りでは、この事故においても警視庁が初動の現場検証の主役となり、運輸省の鉄道事故調査検討会は脇役という感じであった。だが、警察の調査は、その仕事内容からして関係者の責任追及を主眼としているはずで、極言すれば、そんなことは二の次で良いのだ。事故のあと、応急の安全対策として護輪軌条の設置基準が強化され、後の走行実験などで脱線の原因はほぼ特定されたが、これらは鉄道事故調査検討会による仕事の結果だ。事故から安全を学ぶという作業では、警察は適切な役者でない。

こういう事故が起きたときの報道を見ても、まず第一報として現場の状況がヒステリックに伝えられ、次に憶測に過ぎないような事故原因があれやこれやと紹介される。そして、「こうであれば、犠牲者は出なかったのに」といった仮定に基づき、誰が何をしたから、あるいは何をしなかったから悪いという結果論ばかりで論じられることが多い。だが、 そういった表向きの検証や、関係者の責任追及だけで満足して良いものなんだろうか。



fortune
2000年5月25日(木曜日) はれ

Unix なマシンにログインしたときに出てくる「今日の格言」みたいなもの、あれは fortune (6) の仕業である。FreeBSD では、インストールする distributions の選択で games を選択しておくと、/usr/games/fortune として入ってくるのだ。これを /etc/csh.login に書いておくと、ログインしたときに(英語だけど)今日の格言が表示されるようになる。過激オプション付きで fortune -o とかやってみると、予想以上にラジカルな「格言」が出てくるものだから、思わずオンラインでご覧頂けるよう手配いたしました(せんで良い)。リロードすると、違うのが出ます。

(2001/05/19補足:fortune は中止しました)

調子に乗りやすい性格ゆえか、早速トップページにも「負け犬の道しるべ」として仕組んでみた。もうちょっとマシなタイトルにできなかったのか、などという突っ込みは、もちろん禁忌である。元ネタの fortune ファイルは、日本語のfortuneファイルを作ってみるなんていうページになかなか面白いものがあったので、これ幸いと使わせていただくことにした。リロードする人が増えて、「見かけ上」のアクセス数だけは逓増するかもしれない、いんちきアクセス向上大作戦だ。

「絵心のある人間が側にいると、ついぶち殺したくなる」というほどでもないが、絵なんか全く描けないわたしには、昔から絵心を羨む感情があった。だからこそ、一枚の絵を描き上げるということは、天地創造をも遙かに凌ぐ大変な行為であり、それは一部の人間だけに与えられた特殊な才能なのだと思っていた。ところが、そういう羨望の眼差しの先には、暇つぶしがてらか、どうでも良いようなノートの切れ端に(わたしから見れば)それなりに真っ当な絵を描いている奴がいたりする。

神の創造物に近い位置付けにあったものが、どうでも良いような媒体において展開されている現場を目の当たりにしたときから、自分の潜在的な羨望は、ドス黒い嫉みへと倒錯を始めたような気がする。その進行に拍車をかけるように、インターネットなんてものが一般化してくると、Java Applet を使用したおえかき掲示板のようなものまでが出てくる始末。掲示板という極めて刹那的な媒体に絵を描くとは、描いている当人はどう思っていようとも、何となく勿体なく感じてしまうのだ。

最近、知人のサイトでも「眼鏡っ子限定、お絵かき掲示板」とか、「お絵かきしりとり掲示板」といったものが出現した。「面白そうやん」などと平素を装いながらも、実は楽しそうに絵を描く皆さんを遠目に眺めることしかできず、わたしの絵に対するひん曲がったコンプレックスは、更に深くなるのであった。



カレーなくなる
2000年5月24日(水曜日) はれ

夏の予感がする蒸し暑さ。もうすぐ6月だもんね。
こういう気候になれば、冷たいものが美味しくなるわけで、掃き溜めに小ネタ追加

昨日の余剰処理要員による協力も虚しく、まだまだ食いきれない気配の残る68点のカレー。いかん、このままでは衛生局のお世話になってしまうと判断したわたしは、今日の昼休みに「うちに来てカレー食え、このやろ!」と、会社の同僚を非常に丁寧に誘ってみた。で、どうしてだ、どうして空にならないんだ、くそ。でも、鍋を覗くと着実に減っていってはいるから、今晩こそが最終決戦だろう。帰宅してから、もう飽きてきたなんて次元を遙かに通り越したカレーを強引に三皿詰め込んだ結果、やっと空になった。

教訓;カレー嫌いの友達が多い人は、考え直した方が良いかと思います。



話し言葉、とか
2000年5月23日(火曜日) はれ

「今日は○○君とカレーとか食って」あるいは「あのカレーは美味しかったかも

という具合に、物事を断定せず曖昧にする言葉遣いは「けしからん」とされているらしいが、わたしは余り抵抗を感じない方で、普通の会話では自分でも使う。もちろん、TPO を考えて使用すべきであり、重要な決定をしようという場で使っては不味いだろう。しかし、普段の話し言葉においては、断定的な言い方よりも、少しぼかした言い方の方が角張ってなくて良いと思うことも多い。自分の意見を通そうとしている場合なら話は別だが、親しい人間との会話にまで、断定性が必要だという意見の方が不自然である。

わたしの解釈では、「カレーを食った」と言えば、カレーを食って直ぐに帰った感じがするけれど、「カレーとか食って」と言えば、文脈にもよるが、カレーを食ったあとにお菓子でも...という柔らかい印象を受ける。「とか」にもそれなりの使用基準があって、嫌な奴と仕方が無く食事をして逃げ帰ってきたような場合には使わない。「美味しかったかも」と語尾に付加される「かも」は、「自分は美味しいと思ったんだけど、あんたはどう思う?」という調子で、暗に問いかけるときに使うことが多いと思う。

語尾に付加される「みたいな」も同じようなものだろう(わたしは使わないけど)。ちょっと大袈裟に言えば、美味しいと言い切ってしまうと言われた相手は反論しにくいが、敢えて断定しないことで違う意見も出しやすくしておくというわけだ。適切に使えば、会話への潤滑剤になると思うから目くじらを立てるようなことではない、と言いたいところだが、あくまで親しい人との会話において言えることだ。不適切なところで使う人も少なくないから、「けしからん」と言われるのだろう。

ちなみに、多事毒論の中では、自分でも良く分からないといった場合を除き、断定的な言い方をするよう決めている。一方的にぶちまけているだけの文章だから、言葉尻に反論の可能性を残しておく必要などないわけだし、反論するのなら、当人が勝手に頑張れば良いことである。で、ここでそういう書き方をしているせいか、現実世界のわたしを知らない人には、「すご〜く堅くて気難しい人間」と思われているところがあるらしい。何をいう、実際は気さくで我が儘な良い人なのに(既に言ってることは破綻)。

ところで昨日のカレー、どう頑張っても一人で食いきれないと判断したわたしは、「カレー準備して待ってるから、これからうちに来い! このやろー!!」という旨の非常に丁寧なメールを仕事中の某氏に入れて、余剰カレーの処理を強引にお願いする。もちろん、おかわりは自由...というわけにはいかず、強制だ。余剰処理要員には、美味しいことは美味しいが、深みが足りないという理由で68点との評定を頂いた。ならば、次回は80点を目指したい所存であるが、「深み」を出す材料って何だろう。深海魚でも入れてみると良いのかな。



カレー
2000年5月22日(月曜日) くもり/はれ

昨日、何となくスーパーをうろうろとしていたら、急にカレーが作りたくなった。

カレーといえば、あのとき食べたカレーライスの味を忘れることはないだろう。あれは、粉雪ちらつく真冬の夜のことでも何でもなく、ただの休日だった。某氏宅に「これからカレー食いに行ってやるから、作って待ってろ! このやろー!!」という旨の非常に丁寧な電話を入れたあと、わたしは強引に押しかけてカレーをご馳走になった。野郎二人というこの上ない和やかな雰囲気の中で、出来立てのカレーを口に含んだ瞬間、「ま、負けました」と呟きながら、額で触れた堅い床の感触を今でも忘れることができない。

いや、競っていたわけでも何でもないのだが、とにかく美味かったのだ。「あのようなカレーをもう一度食いたい」と思ったわたしは、最高のカレーを作るべく血の滲むような特訓を重ね、今こそ悟りの境地に達したと判断したところで普通の食材を調達し、家にある鍋では少々小さいので今日は会社を早く上がって新しい鍋を買いに出かけ、失敗したら二度と包丁を握らないぞという意気込みでカレーの調理に取り組んだ。そうして出来上がったカレーのお味は如何に?

実にオーソドックスで自己評価では合格なのだが、見ただけで処理に悩んでしまうほどの凄い量。固形のルーには「12皿分」と書いてあったので、1日4皿食うとしても、3日間はカレーを食わなければならないのだ。カレーライスとかカレーうどんは良いとして、飽きてきたときはカレースパゲティとか、カレー豆腐とか、ブリのカレー煮込みとか、カレー風フルーツポンチといった新手の料理を考案しなければならないような...調子に乗って鍋一杯に作ってしまったことを悔やむしかない。



アンドリューNDR114
2000年5月21日(日曜日) くもり

映画「アンドリューNDR114」(原題は、Bicentennial Man)を観る。

言われた仕事を的確にこなすために作られた家事用ロボット、NDR114がマーティン家にやってきて、「それ」がアンドリューと名付けられるところから話は幕を開ける。アシモフ原作らしく、冒頭ではいきなり「ロボット三原則」の説明が露骨に始まって「おいおい!」と思わせてくれたりしたが、人が人であることとはどういうことなのかという硬派なテーマを、坦々とした日常におけるロボットと人間との関係を通じて、ユーモラスに描いて見せる。適度に笑えて素直に感動できる素晴らしい作品であった。

ところで、題材を取ってもテーマを取ってもこれはSFに分類される作品だが、以前にも「SFなんか屈辱だ!」と書いた通り、わたしは大のSF嫌いなのだ。なぜかと言うと、(食わず嫌いもあるので偏見も多いだろうが)滑稽な未来予想みたいな要素とか、登場人物の日常生活を度外視したような現実感の無さに気持ちの悪いものを感じてしまうからである。違う世界での出来事として割り切ったファンタジは良いのだが、人類の歴史の延長線として書かれたSFにあっては、「時がいくら進んだとしても、人類がそんな風になるわけないやろ」という突っ込みが真っ先に来てしまう。

例えば、何十年もの月日が過ぎたという設定を演出するために人間の生活に多大な変革を起こしてしまう作品があるけれど、こんなものはクソ喰らえだ。下手くそな演出に突っ込みを入れることで手一杯となり、本題に集中できないではないか。そういうSFの「エスエフエスエフしているところ」があまりない「アンドリューNDR114」は、わたしのようなSF嫌いでも素直に楽しめるし、だからこそ誉められる。もちろん、多少の未来予測的な演出はあるが、長い年月が経過しても、この作品に登場する人々の日常生活は、いまと比べて殆ど変わらない。

地味ではあるが、ロボットの生涯にスポットライトを当てて坦々と話を進めてゆく。それで然るべきだ。



すいか
2000年5月20日(土曜日) あめ

実験ネタに使うため、すいかを買ってきた。余ったすいかは普通に食べる。

久々に食うと結構おいしくて、根本までむさぼるように食べてしまった。しかし、小さいころは、すいかの構造を随分と恨んだものだ。皮を底辺として二等辺三角形に切ったすいかは、最初に食べる頂点の部分が丸いすいかの中心部分に当たり、底辺に向かって食べ進むほど皮に近づく。ご存じのとおり、すいかは皮の近辺よりも真ん中の方が甘いので、こういう切り方をしたすいかは、「不味いところを先に食べ、美味しい部分は最後のために残しておく」という当然の食事法とは相反する構造になっているのだ。

従って、けしからんにも程がある! すいかの季節が訪れるたびに何か許せないものを感じていたが、そんなことで文句を言うわけにもいかない。すいかの構造上、それはやむを得ないことなんだと、無理に納得しながら過ごした真夏の日々が懐かしい。



あう
2000年5月19日(金曜日) くもり

朝から八王子に出張る。たまに内勤じゃない仕事をすると、途端に参ってしまう鈍った身体だ。

念入りに研いだ包丁が5分もしないうちに刃こぼれしたことが全ての発端となり、本当に碌でもないことばかりが起きた一週間だった。色々とあったが、極めつけは昨晩のこと。会社で発生したトラブルの対処を終えて午前様の帰宅を遂げ、ようやく眠れると思ったら小さな闖入者に安眠を妨害される。耳元で嫌らしい羽音を立てる一匹の蚊、叩き殺してやりたいと思ったが、そんな元気もなく、いつの間にか寝てしまった。耳朶が痒くて目が覚めたのは、午前3時頃だったか。よりにもよって、特に痒い場所を刺しやがって。それでも日は昇り、朝になれば目覚まし時計は容赦なく鳴り響く。

そんなこんなで続く睡眠不足のお陰で、口内炎発生。今日は例え宇宙が崩壊しようとも早く寝てやる。



液体窒素
2000年5月18日(木曜日) あめ/はれ

「実験ネタにでも」と、液体窒素の贈り物。ははははは、祝え祝え皆の衆。我が生涯を投じて開発に挑んだ人類最終兵器、N2爆弾が完成する日がついにやってきたのだ。これさえ手にすれば、天下とて余の手玉に過ぎん!! 極秘に入手したローソンのポリ袋に液体窒素を流し込み、急いで口を括る。ふーーーーーっと膨らんで、ぽんっ。情けない破裂音を立てて破れるポリ袋。わーい、凄い凄い(ばか)。というわけで、液体窒素ネタを計画中。早く使わないと消えて無くなってしまうから、急がねば。

# CO2爆弾などと銘打った類似品には、くれぐれもご注意ください。

最近、どういうわけか突撃実験室もアングラ的なサイトからリンクされるようになった。ときどき逆リンクを辿ってみるのも面白く、リンク先の説明として「バカ」とか「アホ」とか書きたい放題に書いてあるけれど、光栄の至りである。必ずしもそうではないが、実験室ネタの大半は、「真面目っぽく書いてあるけれど、実はバカみたいな話」と見て貰えれば本意である。書いている側の意識と読んでいる人の捉え方は、もちろん違うと思うけれど。



右?左?
2000年5月17日(水曜日) くもり/あめ

「日本は天皇を中心とした神の国」って、いつの時代やねん(笑)

思想や政策が全て右翼的か左翼的かの二つに一つへ二値化できるとは思わないけれど、傾向として言うのであれば、いまの日本はどらち側に傾いているのだろう。入り乱れすぎていて良く分からない世の中になってきたなというのが、友人とそんな話をしていて出てきた結論だ。森総理の「神の国」発言は、政策ではなく単なる精神論だから議論に値しないが(なんか頭ヨワそうだし)、小渕内閣が右寄りな法案をバリバリと通してきていたかと思えば、他方で政府は、以前よりもどこか左寄りに傾きつつある気がする。

国民においても元来より右と左を隔てていた壁みたいなものが崩れてしまっているというか、明確に分かるような左右の対立というものが見られない。上がすっげー右なことを言ったり、やったりしても暴動は起きないし、大した議論にはならない。これがいわゆる「無関心」というやつだと思うんだが、無関心って何だ? 無関心の原因として絶対的な価値観の欠如が叫ばれて久しいけれど、実用的なら何でも良いんじゃないのという、物事を相対的に見てゆく一種の主義無き主義なのか。



DirecTV 移行
2000年5月16日(火曜日) はれ

DirecTV がサービスを止めて、視聴者を SkyPerfecTV に移行させようとしていることはご存じと思うが、わたしは双方に加入しているから、言われたまま移行すると SkyPerfecTV を2契約することになってしまう。同じような悩みを持つ人が多いことは、SATELLITE INFO-BS&CS衛星放送ホームページに掲載されているアンケート・スカパーとディレクTVの統合で気になることを見ても伺い知ることができる。本日時点で、「スカパーにも加入している人への対応は?」が一位の座を占めていることから、双方に加入している人は曖昧な対応に苛立っているものと見受けられる。

DirecTV の移行に関する Q&A (Q19) には、移行プランを提供する以外の補償はしないと明確に書いてあるが、それでは納得いかない。そこで、DirecTV に電話をかけて文句を言うことにした。対応して頂いたオペレータの口調は至って丁寧だが、丁寧なだけでマニュアル通りのことしか言わない。ちょっと強めに出てみるとと、申し訳有りませんの一点張りになる。要約すると、

Q「DirecTV と SkyPerfecTV の双方に加入しているが、その場合の補償は?
A「SkyPerfecTV のチューナを提供するので、2契約するか既存のものと差し替えて使って頂きたい。
Q「2契約するつもりはない。いま使っているチューナも買ったばかりなので、差し替えたくない。
A「その場合の補償はできない。
Q「では、DirecTV のチューナも新しいが、その購入代金は諦めろということか?
A「そういうことになる。
Q「仮に差し替えるとした場合、既存機器の都合上、ソニー製でないと困る。メーカ指定はできるのか?
A「原則としてできない。ソニーか松下になるが、いまはソニーが大半。

というようなことであった。そこで、以下のような対策を検討中。

1.チューナの提供を受け、差し替えて使う。

アンテナは既に設置済みなので、チューナだけを差し替えるだけなら大した手間ではない。しかも、DirecTV から送られてきたチューナのアンテナを自分で設置した場合は、設置の謝礼として5000円相当の商品券を貰えることになっている。チューナだけを差し替えた場合でも、アンテナを自分で設置したことにすれば良いわけだから、5000円で我慢するという手である。しかし、現在上がっているアンテナはソニー製のチューナに付いてきたアンテナだから、新しいチューナを貰うとすればソニー製が欲しい。ここは、交渉の余地ありか?

ついでに、いらなくなった SkyPerfecTV の古いチューナを未使用新品のアンテナ付きで誰かに売ってしまえば少しぐらいの利益は出そうだが、ICカードの問題がある。ICカードは SkyPerfecTV の所有なので勝手に譲渡できないのだ。シカトで、携帯電話で言うところの「灰ロム」状態で売ってしまっても、そのICカードでは再加入ができないはず。これは、ちょっと面倒かも知れない。

2.建物の都合上、SkyPerfecTV は受信できないことにして、補償を求める。

解約希望者も含めて、同じことを主張して補償を求める人は、全国に1万人ぐらいいそうである。DirecTV も馬鹿じゃないだろうから、こう言うかもしれない。「そうですか、それは残念です。何とか設置できないか、調査の者を伺わせます」いやいや、うちは極めて良好に受信できているので、来られては困るんだよ(笑)



京都市バスでGo!
2000年5月15日(月曜日) はれ/くもり/あめ

東京都営バスの運転シミュレーションゲームが出ているらしいけど、なんだか電車でGoの二番煎じみたいだし、都バスという「カタギ」なバスを題材にしている時点でインパクトに欠ける代物である。ダメだダメだ、そんなものでは。確実に売れるバス運転シミュレーションゲームを作るなら「京都市バスでGo!」以外に考えられるものはない。もちろん、こんなルールだ。


京都の交通事情を知らない人には分からないネタだが、半分ぐらいは事実だから恐い、京都市交通局とか京都バスって。



更新報告
2000年5月14日(日曜日) くもり/はれ

鉄ネタに、鳥取倉吉温泉巡りを追加。写真が少なくて申し訳ない。ノートパソコンを持っていかなかったため、写真の枚数がフラッシュの容量に制限されてしまった。銀塩を持っていってでももっと写真を撮っておくべきだったと本人も後悔していたりするが、写真が少ない分、相対的に文章を多くして誤魔化し...書くのが大変だった(笑)

そういえば小渕さん、元気になったのかな? と思っていたその矢先、小渕元総理が亡くなられたとテレビのニュースで見た。氏が入院されたとき、官房長官の曖昧な、ともすれば虚偽の可能性もある発表が先ず問題となり、次に「危機管理がなってない」とか「権力の不在が何日も続いて良いのか」などと批判された。どちらかと言えば、国内メディアよりも、海外メディアの方が厳しく批判していたように感じたが、日本には日本なりの事情があることも知らないで、よくそんな的外れなことを書けるものである。

誤解を恐れずに言えば、この国において総理が数日ほど不在になっても大した問題ではない。総理大臣が一人で軍の統制を握っているわけでもなければ、核の発射ボタンが手元にあるわけでもない。物事が合議制で決められていくシステムで、総理が入院したからといって急に慌てなければならないこともないだろう。



スペシャリスト−自覚なき殺戮者−
2000年5月13日(土曜日) 雨

映画「スペシャリスト−自覚なき殺戮者−」を観た。

ナチスドイツ時代に、数百万人のユダヤ人抹殺に加わったとされるSS幹部、アドルフ・アイヒマンの裁判記録を元にしたドキュメンタリ映画である。実際に法廷で撮られた映像を修復し、2時間に編集された裁判記録のモノクロ映像が坦々と続く。それだけだ。だから、面白くも何ともない、むしろ眠たくなるような映画である。けれど、現代の大犯罪にも通じる何かが、このフィルムの中は隠されている。

ユダヤ人大量抹殺の責任の一端を負う実際のアドルフ・アイヒマンという人物に、大犯罪者を思わせるような言動は見られない。言われた仕事は、正確で迅速に遂行しなければ寝覚めが悪くていてもたってもいられないような、勤勉で真面目そうな、どこにでもいそうなワーカホリックのオジサンという人物像が伺える。直属の上司がこんな人でも良いかもしれない。仕事に関しては厳しそうだけど、筋の通らないことは言わないだろう。仕事の出来ない上司にガタガタと言われるより、よほど気持ちよく働けそうだと...そうまでも思わせるような人物である。

そのアイヒマンは、ユダヤ人の抹殺について「わたしは上の命令に従って、職務を遂行したまでだ」と法廷で主張する。だから自分の責任は免責されるべきだ、というのだ。軍のような組織にあっては、それが模範的な振る舞いであり、至って正論である。例え上の命令が「大虐殺」という人道上は許されない行為であったとしても、忠実に命令を遂行するのがプロ、そして常人にはない正確性でこなすのが「スペシャリスト」なのだ。しかし、「良心」の判断までをも上に委ね、一直線に職務の遂行に当たるアイヒマンに、それが非道な行為であるという「自覚」がない。

同様の構図は、現代の組織的な犯罪でも見られる。その最たる例は、オウムが起こした「地下鉄サリン事件」だろう。実際に現場でサリンを撒いた信者達は、組織の良心が即ち信者の良心であるファッショな宗教団体の一員として、猟犬の如く忠実に、上から下された命令に従ってそうした行為に及んだに過ぎない。その結果、多くの罪なき人々が死傷したわけだから、彼らがやった直接の行為は人の道に背くものである。しかし、自らの手でサリンを撒いたその瞬間、全体主義思想にどっぷりと染まった彼らに、何らかの個人的な良心の呵責があったと言えるだろうか。

上意下達という構図の中で、現場で命令を遂行したに過ぎない人間の個人的責任を、問うことはできるのか。地下鉄サリン事件のように、当事者を限定できる場合なら、良心の欠落それ自体について、あるいは責任を問うこともできるかも知れない。だが、当事者が限定できないようなもの、例えば、バブルの発生と崩壊は誰の責任と言えるのか。考え方によっては、金融機関に従事するもの全てが、責任の一端を担っていると言える。だが、その枠は余りに不明確で、広すぎる。銀行のおエライさんは、大蔵省の責任だと主張し、大蔵省は別のことを言う。結局、誰が悪いのか、分からない。

目に見えないファシズム社会の中で、アイヒマンはいつでも、そしてどこにでも発生しうるのではないか。



PRINCESS MONONOKE
2000年5月12日(金曜日) くもり/雨

もののけ姫」の英語吹替版である「PRINCESS MONONOKE」に日本語字幕を付けたものが逆輸入され、劇場公開さたので観に行く。「もののけ姫」という日本特有の要素のみで構成された作品が、英語に翻訳されるとどうなるのか。「もののけ」みたいに翻訳不可能な言葉は登場するし、翻訳はできても文化的に意味不明となる部分は少なくない。例えば「神獣シシ神を殺す」という考え方は、森羅万象に神が宿ると考える日本人には感覚的に理解できるだろう。しかし、キリスト教など神それ自体が固有名詞となっている文化には、理解し難いものがあるかもしれない。

そういった部分をアメリカ感覚に補正したような気持ち悪さがあるのではないかと予想していたが、実際に観ると、翻訳の違和感は殆ど感じなかった。訳せないところは無理に訳さず日本語のままにしてあり、台詞をねじ曲げてまで文化的に分かりやすいストーリに仕上げようとはしていない。日本語版は何度か観ているので、「そなたは美しい」みたいな有名なシーンでは、つい期待してしまった台詞が英語で(you are beautiful だったかな)出てきて「ありゃ」と思ったりもしたけれど、これなら許せる翻訳だ。でも、キャストがいまいち。アシタカやエボシ御前は板に付いていたが、サンやモロの声は気持ちが悪かった。

また、日本語→英語→日本語という翻訳の過程で難解な言葉は無くなっていて、オリジナルよりも理解しやすく、「噛み砕き版もののけ姫」として観ても悪くはない。日本語版を初めて観たときは、例えば「踏鞴(たたら)」が何であるのかすぐに理解できなかったけれど、英語版では確か「Iron Town」という訳になっていて、この方が飲み込みやすい。「もののけ姫」は、勧善懲悪にはなり得ない構図の中で、結局は答えなどない複雑なテーマを扱い、しかもラストはハッピーエンドじゃない。英語版も、オリジナルと同じく後味の悪ぅい作品となっていた。

それにしても、クオリティの高い作品だ。苔の生す原生林や動きのない透明な水の絵は、いつ見ても感動する。



BSアンテナ
2000年5月11日(木曜日) くもり/雨

声優の塩沢兼人氏が亡くなられたそうだ。ご冥福を心からお祈りしたい。

実家でBS用のパラボラが不要になったというので、同軸ケーブルとセットで貰ってきた。NHK の BS1 と BS2 は、ケーブルテレビの再配信で見られるのだが、画質がやや悪く、WOWOW の無料放送も見られない(アニメオタクとしては、ここが痛かったりして?)。いまさら金を出してBSアンテナをわざわざ買ってくる気にもならないが、余っているのなら...ということで、自前のアンテナを上げることに。同軸にコネクタが付いていなかったので、耐水型のFコネクタだけ買ってきた(520円)。

BSアンテナ が、南向きのベランダは既にCSのパラボラ2枚とディスコーンで埋まってる(笑)
西側のベランダに「ベランダ取り付け金具」を迫り出すように設置すれば良いわけだが、あの金具は意外と高くて、1万円近くする。アンテナそのものよりも高価な金具を買ってくる気にもならず、どこかに良い取り付け場所は無いかと悩んだ末...物干し竿を吊す金具に無理矢理付けてしまうことにした。

BSは、CSと違ってアンテナ調整が楽で良い。手で持ったまま、それっぽい方位に向けたら写ってしまう。さすがは、ハイパワーなアナログ放送だ。多少向きが外れても、ノイズ混じりながら粘って受信してくれる。ちょっと外れると「信号無し」になってしまったり、大雨が降るとバグった映像になって暫く途切れてしまうデジタル放送は、ちょっとシビアでドライすぎるんじゃないのと思うほど。

で、これが空中線フェチの図でしゅ。道路から見える、またNHKの集金屋が煩くなりそうである...



科学批判
2000年5月10日(水曜日) はれ

科学は、人を幸せにしたのか、それとも不幸にしたのか。科学が人類に幸福をもたらしたことは、疑う余地のないことだ。各家庭に明かりが灯り、わたしがこうして下らない文章を毎日のように撒き散らすことができるのも、広い意味では科学のお陰である。もちろん、負の方向へ働いた科学の力によって人類が痛い目を見た歴史は忘れることができないし、これからも同じような過ちが気付かないうちに繰り返される可能性は大いにある。しかし、そういった事実を鑑みてもなお、科学は人類の生活を良くしたと言えるし、我々はそのことをもっと誇っても良いと思う。

にもかかわらず、カルトなどの似非宗教団体は、科学批判を得意とするところが多い。昨日のネタとなった法の華も例に漏れず、駅前でよくばらまかれていた福永法源のオナニー本などで科学批判を展開していたと思う。真っ当な思考の持ち主ならば、こういった類のものを読んでも「馬鹿じゃねぇの?」で終わるわけだが、どういうわけだか、こんな科学批判とか科学の新解釈みたいなものに同調してしまう人がいるから、カルトが流行したりする。科学が人をむしろ不幸にした悪者だと感じるから、科学批判を読んでつい頷いてしまうんだろうか。

もちろん、科学をどう捉えるかは個人の自由である。だが、おおよそ完全に間違っているとしか言えない無根拠な批判を、疑いもなく、あるいは疑いを捨てて受け入れてしまえる頭のヨワい人間が、特殊な人間というわけでもなく存在していて良いんだろうか。論理的に作られた尤もらしい話について、正否の判断を誤ることは仕方の無いことだと思う。しかし、論理が完全に破綻している話や、理屈なんて初めから存在しないような精神論を拒否できないようで良いのだろうか。「定説です」とか「天声です」とか、こういったもので納得しちゃうかな。



法の華
2000年5月9日(火曜日) はれ

「法の華」の福永法源が逮捕されたそうだ。あのオッサン、写真を見ただけで「いかにも」って感じの危険なオーラが伝わってくるから、やはり特殊なパワーを持った人間なんだと納得させられるものがある。ぴしっと固めたオールバックの白髪。死んだ魚の目のように虚ろでありながら、それでいて妙に据わった双眸。190cm の長身にはぴっちりと合ったダークスーツを纏い、胸元は赤を基調とした太めのネクタイで決めてある。意味不明でありながら、自信に満ちた言動には、そこはかとない説得力に満ちている。

だからこそ普通の人なら即座に第一種警戒体勢に入るわけだが、だからこそ痼疾といった悩みを抱える人間には、何となく信頼できそうな人間に見えてしまうのかも知れない。あれやこれやと検査をさせられたた挙げ句、何だか小難しいことをガタガタと言われ、結局なんの解決にもならない医者の言葉より、即断で「あんたガンになる」でも「必ずよくなる」だから「わしに付いてこい」と言われた方がスッキリとする人もいるだろう。ついでに「足裏診断」など、それっぽい手続きを織り込んで信憑性を狙ったのか。

福永法源の略歴を見ると、興味深い。電気メーカで働いたあと、独立して基板屋を設立したという。福永法源さん、元電気屋だったとは知らなかった。そうして会社がそこそこ大きくなったところで、会社が手形詐欺に遭って倒産。表向きは、失意の中で法の華を設立したということになっているが、どうせ「ははーん、詐欺...良いじゃん良いじゃん、使えるじゃん、俺も始めちゃおう」ってところだろう。まったく、何があっても負けない図太い神経の持ち主だ。電気屋には、珍しいタイプかも知れない。

真面目な「足裏診断」をやっている人の名誉のために付け加えておこう。すっかりと怪しいイメージが定着してしまった「足裏診断」だが、真面目にやればデタラメなものではない。慣れた人なら、むくみなどの状態から見ただけで身体の不具合をある程度診断できるし、そこまで出来ないとしても、足裏を触って不良個所を探するぐらいなら、そう難しいことではない。流派みたいなものがあったりして、体系的な医療とまで言えないとしても、まったく無根拠なものではないだろう。



鑑定
2000年5月8日(月曜日) はれ

ネットをウロウロとしていると、鑑定の百貨店みたいなサイトを発見。余命だの金銭的価値だのをはじき出すばかりでなく、勝手なご意見までズラズラと並べてくれて、これまた早い話が失礼極まりない存在である。だから現実社会にあっては変な鑑定をしてくれる人なんていないのだが、実のところ、多くの人が内心は鑑定されてみて自分の相対的な位置を知ってみたいと思っているから、ネットでこういうものが出来ると流行っちゃうという仕組みだろうか。ネットだからこそ許されるものの典型だと思う。

でで、醍醐味はここだろう。どこか懐かしかったり、特定の人間にしか通じないような、見る人が見れば思わず笑みが浮かんでしまうようなネタを含んだ設問にぶつかると、なんだかお仲間を発見したような気分になれるから不思議なものだ。悲しいかな、マニアックになればなるほど、古いことを知っていれば知っているほど、お友達を見付ける探すのが困難となるものだ。どうせ機械的に出てくる予定調和型の鑑定結果に大した興味は無い、一人でニタッとなれる質問にそそられるのだ。

でも、あんまりやってると虚しくなってくるので、程々に。



人を殺した少年へ
2000年5月7日(日曜日) くもり

「人を殺す体験をしてみたかった」という理由で人を殺した、愛知の少年へ。わたしも常々同じことを思っているから、その弁は、マスコミが言っているほど不自然なことだとは思わない。やったことはやったことだ、言い訳を代弁するつもりも行為を罵るつもりもない。だが、ヒューマニズムだけが先走って殺人行為の残虐性だけで事件が論じられたり、教育や社会の歪みにその原因が転嫁されたようでは、同じことを思っている全ての人間にとって、大変に不本意なことであろうと思うから言っておこう。

「人を殺すときには、どんな気持ちになれるのだろうか」とか「人が死ぬ過程とは、どういったものなのか」という疑問を持つことは、いけないことだろうか? 少年マンガでしばしば描かれるような、格好良く美化された死の描写だけで満足できないことは、いけないことだろうか? あるいは、いつかは必ず訪れることであるにも関わらず、生命の終焉というものが可能な限り日常から排除され、死という事象が完全にリアリティを失ってしまった現在の死生観そのものに疑問を持つことは、いけないことなのだろうか?

何らかの目標を達成するために、殺人が必要不可欠なことであると認められるのならば、やるが良い。ただ、その要否を切り分ける基準は何であるか? そもそもそんな基準は存在するのか? いやいや、こういうことは論理的に考えてはいけない。殺人行為一般を不当とする理由を見付けようとして、理詰めで考えれば考えるほど、殺人行為そのものは悪くないという結論に辿り着いてしまうものだと思う。だから、納得できないという考えは分からなくもない、やったことを肯定するわけじゃないが。

で、泣いても笑っても、今日で連休はお開きである。連休初日から大阪や鳥取にいたわたしは、今日になって横浜の自宅に戻ってきた。とにかく混雑が嫌いな性分だ。いつもならUターンラッシュが予想される連休最終日の移動は避けているのだが、今回は昨日まで予定がみっちりと詰まっていたので、東海道新幹線の乗車率上昇に協力する羽目となった。指定席なんて勿論取れず、京都駅から自由席に乗り込む。多少は混んでいたが、まあこのぐらいなら耐えられる程度。今年のUターンラッシュは、比較的軽かったらしい。



スタッフロール
2000年5月6日(土曜日) はれ

映画の最後には、必ずと言っていいほどスタッフロールが流れるけれど、映画館でこれを最後まで見る人はどの程度いるのだろうか。わたしは最後まで見る方で、何故かと言えば、映画を一本作成するためにどういう人間が関わったのか、興味があるからである。もっとも、監督といったメジャな役割を除けば、各々の氏名なんてそれこそどうでも良い。例えばカメラのクレーンを操作していた人が誰さんであれ、知ったこっちゃない。しかし、そういう人が必要だったということは、知っておきたいわけである。

結局、これも「原理の分からないものが世の中に存在している」こと自体を脅威と感じる、わたしの基本的な性格に基づいているのかも知れない。対象の有形無形に関わらず、それがどのようにして風にして作られているのか、あるいはどうしてそれが動くのか、因数分解できるものは取り敢えず因数に還元しておかないと、なんとなく気持ちが悪いのだ。もちろん、それはわたしの個人的な問題である。スタッフロールなんか見るのも自由、見ないのも自由、一部の映画オタクみたいに「見ろ」と言いたいわけじゃない。

しかし、わたしがゆっくりとスタッフロールを最後まで見ていると、最後まで見ずに帰る一部の人に邪魔者扱いされることがあって、これは非常に気分が悪い。「いつまでのんべんだらりとそんなところに座ってるんだ、帰る人間の邪魔になるだろ」と言わんばかりの視線を感じることも多い。前には、あまりに無遠慮に人の足を蹴っていく奴がいたので、モメかけたこともあった。最後まで見る人間の前を途中退場する人間が通過する場合、どちらの側に遠慮が必要なのかは、言うまでもなく明らかだと思うんだが。



殺したり
2000年5月5日(金曜日) はれ

やっと一段落して実家で過ごしたので、親と寿司を食いに行ったこと以外、特に記すことなし。外食は嫌いなので、本当ならば食事は家で済ませたいのだが、顔を合わす度に親がどこかへ食いに行こうと言うので、今日だけは付き合ってやったという次第。それは良いとして、食うものまで指定するのはいい加減に止めて欲しいものだ。トロは? 次はエビでも? まったく、過干渉にも程がある。わたしが親との食事を煙たがる原因を、未だに正しく理解していないらしい。馬鹿は死ななきゃ治らない、というけれど。

で、いっぺん殺してみたろか、と思う気持ちも分からないでもないが、本当にやっちゃう奴もいたりするから物騒な世の中である。家にいない間に、殺人体験のための殺人事件とか、バスのハイジャックとか、色々とセンセーショナルな事件が起きていて、まあ賑やかなこと。ところで、バスジャックという言い方は正しいのだろうか。ハイジャックというと、日本では航空機を乗っ取る事件のみを指すらしく、バスを乗っ取った場合はバスジャックという和製英語を使ってしまうのだろうけど、何となく気持ち悪い。

hijack という単語そのものは、別に航空機に限定したものではないと思うけど。



鳥取から帰還
2000年5月4日(木曜日) はれ

鳥取から大阪の実家に戻ってきて一段落。鳥取でもいろいろとあったが、それから大阪市内で友人と会ったり、そのまま泊まったり、また友人とあったりで家に帰る暇が全くなかった。鳥取へは...目的がジジィ臭いので余り書きたくは無いんだが、恒例の温泉慰労旅行で、山陰各地の温泉に入りまくって、そのついでに鳥取砂丘へ行ってみるという内容であった。一部に重大な問題があった点を除いては、非常に良かった。

失礼な言い方ながら、いまいち日の当たりが悪いイメージのある山陰地方。どうせ田舎だと侮っていたが、実際に行ってみると意外な穴場が多いという印象だ。大阪ぐらいからなら近いし、ちょっと息抜きに温泉...なんてときには良いだろう。今回は、鉄臭い要素も多かったので、詳しいことは久々に鉄道ネタとして書くつもりである。でも、スマートメディアの容量が制限となって写真が少なく、そこだけがやや残念。



キックボード
2000年5月3日(水曜日) 不明

流行に疎いわたしは、ここのところ街でよく見掛けるハンドル付きの滑走装置がそれなりに一般化するまで、あれを何と呼ぶのか知らなかった。友人に「ありゃキックボードだよ」と教えられて、やっと名称を知る。歩くよりも楽で自転車よりも手軽なためか、流行するのも分かる気はするが、歩道で乗られるとちょろちょろと鬱陶しいのだ。いかにも、新しいものは何でもいけ好かない年寄りの戯言みたいな話だが...

実は先日、都内の歩道を歩いたところ、キックボードで歩道を我が物顔で滑走するガキに突っ込まれそうになり、迷惑だから歩道で使うのはやめてもらいたいと思うようになった。安全に乗っている人間ばかりなら良いのだが、見てると大抵は荒っぽくて安全に注意しているとは言い難いのだ。歩行者も疎らな場所なら荒っぽくやってくれるても良いが、特に使用者の多い都内の繁華街に限って、キックボードの使用には明らかな無理があるほどの歩行者がいる。

まあ法律を言っても奴等には通用しないと思うが、道路交通法 第76条(禁止行為)には

交通のひんぱんな道路において、球戯をし、ローラー・スケートをし、又はこれらに類する行為をすること

とあり、キックボードもこれに該当するだろうから、使う場所を間違えると法に触れると思う。



A・LI・CE
2000年5月2日(火曜日) 不明

「A・LI・CE」という映画を見に行くべく、心斎橋へ。

フルCGアニメに加えてデジタル上映と、新しい表現手法が気になって見たくなった。CGについては説明不要かと思うが、デジタル上映って? 詳しくは知らないが、フィルムを使用した映写機で投影するのではなく、デジタルデータとして記録した映像をそのまま銀幕に投影するというものらしい。すべてCGで作られた映画なのだから、そういった映写方法も面白そうである。劇場へと出向くと、銀幕には映写機でなくプロジェクタが向いていた。なんだかそれっぽい機械類もある。ほうほう。

が、前評判を伺うと「あんまり期待しない方が良いよ」というご意見が大半。なるほど、確かに期待しない方が良い。早い話が、プレステCGで一本の映画を作ったという感じのクオリティ。なんだかキューピー人形が踊っているようで、登場人物は概して表情に乏しい。人物の動きはモーションキャプチャで取り込んだものと思われるが、それから行われるべき表情づくりが下手なんだろう。絵としては上手いなと思うところもあったが、シーンごとに品質がバラバラだから全体をダメにしてる。

シナリオは、痛々しいほどダメ。ありがちな紋切り型ストーリ、5分先が読めてしまうような伏線、予定調和型のエンディングと、三拍子そろったヨワさであった。一つだけ良かったのは、音響だ。映画そのものよりも劇場が良かったようにも思うが、立体的に動く効果音や、劇場自体が震えるような重低音の響きは誉められるものがあった。あとはどれも中途半端。予算などの問題もあったのだろうが、あと少し頑張っていればマトモに楽しめるCGアニメになったに違いない。



鳥取へ
2000年5月1日(月曜日) 不明

お天気が「不明」とは、これ如何に?

この文が自動更新で皆さんの目に触れるころ、わたしは鳥取にいることだろう。ノートパソコンを持っていれば宿泊先からでも書いてしまうわけだが、今回は邪魔くさいので持っていかないことにした。数日先のことなら、自動更新がバレないように天気など週間予報が当たることを期待して適当に書いてしまうわけだが(笑)、何せ実際にこの文を書いたのはまだ4月のことだったから(過去形)、今回はそうもいかなかったわけである。

そういえば今日から5月だ。自動更新スクリプトは出発間際まで完成せず、ほとんどデバッグできなかったので、月が変わったときも正しく処理ができるか如何せん心配である。もっとも、仮にしくじっていたとしても、今となってはどうしようもない。仕事であれ何であれ、分かっていながらもギリギリまで手を付けないのはいつものことだからと...開き直ってしまえばそれまでだ。笑って許しておくれ。って、しくじっていたら、これすら見えないか。

鳥取といえば、最近まで「取鳥」とか書いていたのは、わたしだけだろうか。



突撃実験室