多事毒論(2000年7月分)



ウェットスーツの謎
2000年7月29日(土曜日) はれ

弟がスキューバダイビングの免許を取るそうだ。実家に来てみると、ダイビングのときに着るというウェットスーツが、すでに物置と化している(元)わたしの部屋においてあった。どうでも良いが、布団の上に寝かせて写真を撮ってみたり。

ウェットスーツ

想像していたよりも重く、ゴムっぽい臭気を発しており、実際のところ色鮮やかな布地の内部は発砲ゴムのようなもので出来ている。似たようなものをどこかで見た気がする。そこで記憶をたどってゆくと、そうそう、マウスパッドと同じなのだ。マウスパッドの巨大なやつで服を作った、こうなるんじゃないかという感じの代物である。これを試しに着てみると、暑くて蒸れてくるし、窮屈なスーツに身体が拘束されるので動きづらい。それは、まるで鎧でも着たかのよう。

問題ショットはこれ。

ウェットスーツ

おマタの周辺を注意深く探してみたのだけれど、社会の窓がない!
ってことはだよ、急な尿意に襲われたダイバーは、どうしているんだろう?

ま、海だし、誰も見てないし...ブルルルル...はふぅ(^^)

なんていう、誰にも言えない事情があったりするんだろうか。

あるいは、おなかが冷えて急な下痢に襲われたダイバーは・・・ え? 海洋投棄だって? それは幾らなんでも...



矛盾
2000年7月28日(金曜日) くもり/あめ

一昨日に書いた「銀行いぢめ」について、読者の方からメールを頂いた。

その方は、持っていた銀行のカードが割れてしまい、再発行を行うために銀行の窓口へ行くと、再発行は有料だと言われたそうである。しかし、預金口座を新規に作った場合は、カードも無料で貰える。そこで「金取るんだったら口座を解約して作り直す」と言うと、銀行は「今回だけはタダで」と来たそうだ。自動引落などをカマしてある口座は、解約すると余計な面倒が発生することもある。しかし、そういった心配のない口座ならば、一旦口座を解約してしまい、新たに作り直した方がおトクだ。

ちょっとした「屁理屈」みたいなもので、掌を返したように話が変わった体験は、わたしにもある。とある映画館では、会員カードを提示すると入場料が割引になる。そのときは連れがいたので「コイツの分も引いてくれ」というと「お連れ様は割引の対象ではありません」と。ほほう、そうですか。そこで「いま買ったチケットは、数秒後にうっかり無くしますから、後でもう一回買いに来ます」と言ってみたところ、窓口嬢はその真意を察したらしく、嫌な顔をしつつも連れの入場料が割引になった。

日々の生活に登場する細々とした規則には、どこかで矛盾しているものが多数ある。理に適った規則、つまり合理的な必然性から発生したしたような規則ならば、論理的な矛盾を孕まない系を作ることもあるいは可能だろう。しかし、理に基づかない恣意的な必要性から作られた規則は、どこかで論理的に破綻していたりする。そうした小さな矛盾に気付くか否か、それを疑問と捉えるか否かでは、きっと世渡りに大きな違いがあると思う。さてさて、どちらの方がお得な生き方をしていると言えるのだろうか。

これは難しい問題だ。いちいち細かい矛盾に気付き、そして納得がいかなければ、時として衆人環視の場で争乱を起こし、普通なら5分で終わることに1時間以上を費やしても、結果的に得られるものは数百円の割引だけかも知れない。損得勘定を物差しとすれば、こんなことをやっても割に合わないことは言うに及ぶまい。さすれば、明らかに不条理なことに対しては反撃しても、細かい矛盾には気付かない人、あるいは気付いても「ま、そのぐらいはいいか」と納得できる人の方が、世渡り上手と言えよう。

ならば社会は、小さな矛盾に余り気を留めない人が上手く適合するように作られていると言える。そりゃそうだろう、随所に矛盾を孕んだ社会は、その構成員が小さな矛盾を一々指摘するような者ばかり成り立ち得ないし、仮に成り立ったとすれば、その社会の安寧秩序を保つだけで相当な負担が発生するに違いない。それでもなお、小さな矛盾についつい疑問を感じてしまう人間は、論理的に整合の取れた解を見ない限り納得できないのだ。生まれた社会が悪いのか、それともそんな社会に生まれた者の不器用さが悪いのか。

知人が、学校に不満を持つ子どもの会という非営利団体の代表をやっている。この団体が行うような、具体的な方法論はここで取り扱うべき範疇ではないので、「学校に馴染めない子どもは、その何に馴染めないのか」という疑問を、メタ学校論的なアプローチで考えてみる。するとやはり、不登校といったものの原因の根底として、「小さな矛盾」を挙げたくなる。形骸化した校則や教員の恣意で行われる指導は、矛盾の集大成である。そして、一般的な学校という場所では、ある意味においてそれが絶対的な意味と価値を持つ。

こういった運営は、結局のところ「生徒は、細かい矛盾に一々楯突かない」という前提がなければ、成り立ち得ない。そのセオリーが正しければ、矛盾に満ちたことでも適当に受け流してゆける生徒は、そこそこ上手くやっていけるだろう。しかし、聞き分けの悪い生徒も、10人集まれば1人は混じってくるものだ。ちょっと頑固な人間なら、そんなところには居られなくなってしまう。かく言うわたしも、昔から聞き分けの悪い人間だ。なんだか、随分と不器用な生き方をしてきたように思う。現役で大学に進学し、遊びほうけている弟がちょっと羨ましい。



銀行いぢめ
2000年7月26日(水曜日) あめ

今朝は、(仕事で)通帳記入を行うため ATM だけが置いてある無人の銀行出張所へ行った。

ところが、通帳の印字が終わってからその中身を確認してみると、あろうことか通帳のページが折れてしまっている。しかも、機械の中で詰まってしまったためか、何行もの取引が同じ場所に重なって印字されており、その場所は文字が重なってしまって真っ黒。これでは、何が書いてあるのか読めるはずもない。

『ったく、このクソ忙しいときに何ちゅうことをしてくれんのや』

早速、備え付けの電話で苦情を言うのだ。

私「かくかくしかじかで、通帳が破壊されちゃったんです。
銀「申し訳ありません...すみませんが、支店まで来てもらえますか?

なぬ? 来いだとぉ? おいおい、寝言は寝てからにしてもらおうか。

実は、以前にも同じ ATM を使ったときに、通帳のページが折れたり破れたりしたことがあったのだ。そのときは印字の乱れが許容範囲内だったので「運が悪かったのかな」と納得して苦情は言わなかったのだが、立て続けにこういうことが起きるということは、明らかに ATM の整備不良が原因である。が、その事実を差し置いて、お客さま(つまり神様)にこの雨の中を支店(ちょっと遠い)までご足労願うとは、良い度胸だ。

その度胸に敬意を表して、いぢめ決行じゃ〜

私「面倒臭いからヤダ。こっちに担当者よこしてよ。
銀「ううぅ...30〜40分かかってしまいますねえ。
私「そんなに待ってられませんな。直ぐに来て欲しいんだけどねえ。

わたしもクレーム処理担当者として、どういうクレームの付け方が効果的に「申しわけありません」と相手に感じさせるか、それなりに心得ているつもりである。無理難題を押しつけるときでも、ヒステリックな会話や、筋の通らない話では解決する問題も解決しない。客観的に見て極めて穏和な雰囲気の下で、論理的な整合性を保ちつつ、「今すぐそっちから出向いてこい」と主張し、なおかつ「何があっても相手に来させる」のだ。そして、しばしのやりとりが行われた後、見るからに「不承不承」という面持ちの人が支店からやってきた。

私「ここの読めない部分が今すぐにいるんですよ。
銀「分かりました、通帳をお預かりして書き直しますので..
私「預かるんですか。で、どのぐらいで返ってくるの?
銀「早くても、2〜3日はかかります

たった1ページの印字不良を解決するのに、お前がやると2〜3日もかかるのか?
この一言で、少しボルテージが上がる。

私「あのねえ。今すぐいるんだから、そんなことぐらいとっとと(←ここ、強調)やってよ。
銀「し、しかし。通帳を作り直すとなれば手で打ち直さないといけないので、どうしても..

は? 1ページの印字不良で「全部やり直す」必要性がどこにあるというのだ?
物事は、合理的に考えて頂きたいものである。

私「誰も作り直せとは言ってないでしょう
銀「はあ、そうですか
私「上から紙を貼るなりして、乱れた部分だけ見えるようになれば良いんだから。
銀「分かりました。それなら、今日中にできますので、どうか..
私「今日のいつぐらい?
銀「午後には。

午後で良いのなら、朝から来たりしない。多忙な身分ゆえ、午後は通帳なんかに構ってられない。

私「あのねー、いま記帳した分は、午前中にいるんだけどねえ?
銀「そうですか。でしたら、そこだけFAXで先にお送りします。
私「分かりました。じゃ、通帳は後で持ってきてください。よろしく〜(^^)

その後、銀行の担当者は約束通りの時間に通帳と粗品を持って会社にきた。初めは、「なんで俺がこんな鬱陶しい客を相手にしに来なきゃいけねえんだよ、クソ」という雰囲気だった人が、会社に来たときは、打って変わってやたらと低姿勢な態度で深々とお詫び申し上げている。「支店まで来てください」が交渉次第で「いまから行きます」になり、少しモメると「FAXで送りますから」「通帳も持っていきますから」「ついでに記帳もしておきました」と、どんどんとサービスが良くなるのだ。

出来ることなら、最初からやれば良いのに、言われるまでやらない。だからこそ、銀行に非があるときは徹底的にいぢめるたくなるし、また、いぢめるべきなのだ。もっとも、銀行に限らず相手がどんな業種であっても、多かれ少なかれそういう傾向はある。しかし、とりわけ銀行にあっては、文句の付け具合だけで対応に天と地ぐらいの格差が見られると思うのだ。そのような慇懃無礼で、何も言わない客は軽く見ておけば良いというナメた態度に対しては、凛としてサディスティックに臨むべきである。



陵所の儀
2000年7月25日(火曜日) くもり/あめ

恒例、八王子へ出張の日。先方の会社につくと、いきなりこんな会話が始まった。

「こんにちは〜
「あ〜どもども。今日はバスで来たの?
「そうです〜
「あれ、通行止じゃなかったんだ
「いえ大丈夫でしたけど、なんかあったんですか?

不思議に思って事情を聞いてみると、今日は八王子市内にある武蔵御陵において「陵所の儀」とかいう、いつか亡くなられた皇太后の葬儀が行われることになっていたそうだ。そのため、そこらじゅうの道路が「皇族専用道路」として一般車は通行止になっていたらしいが、わたしには特に影響がなかったのでそんな話は直ぐに忘れてしまった。だが、仕事を終えたその帰り。先方さんとメシを食ってから帰ることになったのだが、雨が降っていたので先方さんの車に乗って行ったのだ。

しかし、車窓の景色はいつもとは明らかに違う。通過する交差点という交差点に、3〜4名の警察官がニンジンを持ってスタンばっており、まさに厳戒態勢。「すごいですねー」「皇族の車、ここ通るのかな?」なんて言いながらファミレスに入り、そして約10分後。ふと窓から外の道路を見てみると、いつのまにか歩道が「見物客」でいっぱいになっていた。そしてその直後、黒塗りのトカーの通過を皮切りに、凄い数の警備車両に挟まれた大仰な自動車の行列が目の前をどんどん通過していく。パトカー・白バイ・リムジン・バス...一体、何台来るんだ?というぐらいに。

わたしは、偶然入ったファミレスの「特等席」から通過を観察することになったのだが、直前になって見物客が現れたことを見ると、いつどの場所を車が通過するかぐらいは、大方の予想が付くのだろう。見物客に紛れて、あの行列を襲おうと思えば大した苦労もなく遂行可能という感じがする。警備体制そのものは極めて物々しいものだったが、感想としては「物量作戦でそう見せている」だけのことで、実際のところは日通とかセコムの現金輸送車に乗った方が安全なんじゃないかという印象。日本なんて、まだまだ平和な国であると思った。



暑いねえ
2000年7月23日(日曜日) はれ

暑い。しかし、アキバへ行く。暑い日の秋葉原、しかもこれが日曜日ともなれば、あの異様な人口密度のため不愉快指数 10dB 増幅中って感じである。そういう状況におかれた人間は、誰もが「こんな時こそ、かき氷が食いたいな・・・」と思うのものなのだろうか。わたしも無性にかき氷が食いたくなり、ときどき入る喫茶店で清涼の一時を満喫していたら、誰かに「くぬぎざさん?」と声を掛けられた。声の主を探ると、それは良く知っているサイトの Webmaster さん。やはり、かき氷を食うために同じ喫茶店へ入ってきたらしい。みんなでかき氷が食いたくなる季節は、悪いことができないようだ。

それにしても暑い。夕方、東京駅と名乗りながらも場所的に東京駅でないという意見が根強い京葉線の連絡通路を歩いていたら、所持品などから見て、東京と名乗りながら千葉にある舞浜駅近くの某局所的人口密集地から引き上げてきたと思われる多数の家族連れとすれ違う。楽しめるのなら、それはそれで良いかもしれない。しかし、誰もが疲れた表情で無口のまま、すたすたと歩いて行かれるのだ。途中で寝てしまった子供を抱きかかえながら家の玄関をくぐったその瞬間、大きな溜息をつきながら「やっぱり、家が一番ねえ」などと言う姿が目に浮かぶ気がする。

だが、暑いときこそ京葉線の連絡通路はその威力を発揮する。比較的広くて人は少なく、陽は当たらず冷房完備。山手線のホームと京葉線のホームを往復すれば1キロ程度と適度な距離があり、この時期にはお勧めの散歩コースなのだ。家族サービスに勤しむお父さんたちを後目に、「ディズニーランドへ連れて行ってよ」とせがむ煩いガキや、それを制止するどころか「連れて行ってやりなさいよ」と煽ったりする鬱陶しい嫁がいなくて本当に良かったと思う、のんべんだらりと過ごしたある夏の日のことであった。文字通り硬直した笑顔を作り、馴れ馴れしくする以外に大して能のないネズミに用はない。



続・2000円札
2000年7月21日(金曜日) くもり

Web 日記やテレビのインタビュを見ていると、二千円札について一言述べている人が多いが、歓迎的な意見は少ない気がする。しかし、慣れない金額だから使いにくいとか、金額が中途半端だから嫌だといった妙な精神論が殆どで、これこれこういう理由があるから嫌だと合理的に説明している人はあまりいない。中には、自販機で使えないからダメだという人もいるが、それを言えば五千円札ですら使えない自販機が殆どなのだし、発行されて直ぐに機械でも使えるようにしろというのは、無茶な話である。まあ、おいおい浸透していくのだろうが、日本人って、新紙幣に対しては意外と保守的な気がする。

以前にも書いたが、わたしは、1000円を超え2000円を超えない金額の買い物をすることが比較的多いので、二千円札支持派である。こういうのを待っていた、というほどのことでもないが、あればあったで使うだろう。

会社は昨日より夏休みに入ったが、わたしだけは仕事の関係上、少し遅れて夏休みを取ることにした。従って、今日と来週の一週間は、一人だけで勤務という悲しいのやら嬉しいのやら分からない事態となってしまった。集中力が続かないというか、仕事の「合間」がやたらと長いわたしは、なるべく忙しく見えるようにしないと、首が飛んでしまう可能性がある。その点、一人だと暇そうな態度でもいいので気楽ではあるが、どういうわけか一人のときに限って電話が何回線も同時に鳴ったりするので、それだけは勘弁して欲しいと思った一日であった(おかげで自分の仕事が進まない...)。



2000円札
2000年7月20日(木曜日) はれ

用事があって桜木町の駅へ行くと、やたらと人が多い。ただでさえ暑いのに、チンタラと歩いているボケどもが多く、おかげで二次曲線状に上昇する入力を容赦なくぶちこまれたイライラ抑制回路なんて常に飽和していた今日は、忘れていたが、花火大会の日だった。例年、花火はクーラの利いた室内で破裂音のみを観賞しているだけだが、浴衣を着たお嬢さんたちがわんさかと集まってきてくれることは喜ばしいことだ。ロリ+浴衣という素晴らしい組み合わせを発見して悦に入ってたら、次にガングロ+浴衣+くわえ煙草という地球外生物を見てしまい、反射的に目を背けてしまった。

駅の切符売り場には「2000円札は使えません」という張り紙がしてあった。そうそう、議論を呼んだあの2000円札が発行されたのだ。銀行へ行って積極的に入手しようなんて気は毛頭ないから実物は見たことないのだが、始めて写真で見たときには、変な紙幣だと思った。建築物(守礼門だっけ?)が図案化された紙幣は、珍しいからだ。どんな通貨にも共通して言えることだが、紙幣には人物の顔が描かれることが多い。これは、単にその国の有名人を誇示しようといった精神論に基づくものではなく、偽造防止にためという、ちゃんとした実務的な理由があるらしい。

人間は、他者の顔を識別する能力には凄く長けているそうで、普段から見ている顔が少しでも変わると、直感的に「ん?」と気付く。誰にでも経験があるだろう。顔はそうそう変わるものではないのに、久々に会った人から「少しやせたね」などと言われることもあれば、昨日会ったばかりの人に「今日はやつれてるね」と言われることもあったりする。人間のこうした能力を味方にしたのが、紙幣の肖像だ。子供から老人まで、教養があろうがなかろうが関係なく、少しでも顔が変わると違和感を感じる人間の目が、そのまま偽造紙幣判別システムになるわけだ。

しかし、今時の偽造紙幣は、機械を騙せなければ失格だ。顔の違いが人間の識別感度以下である代わりに自販機で使えない偽札よりも、誰が見ても偽札と分かる代わりに自販機を騙せる偽札の方が点数が高い時代である。むしろ、紙幣識別機で真偽識別しやすい紙幣が望まれているのかも知れない。潜像や特殊なインク、マイクロ文字といった技術で偽造に対抗するこのご時世、紙幣に顔があってもなくても関係がない、つまり人に頼った偽造紙幣判別機能の意義は薄れてきているということを、2000円札は示唆しているようにも思う。



独り言
2000年7月18日(火曜日) くもり/はれ

職場では「ヤツが机を掃除すると、天変地異が起きる」などと言われて、非常に悲しい思いをするこの頃。

もっとも、机の半分ぐらいは常に様々なもので埋まってるし、開発仕事が入ると資料やメモ書きなどが無秩序に広がっているように見えることは否定しない。しかし、それはあくまで傍目にはそう見えるだけのことであって、本当は全ての資料をいつでも効率的に参照できるよう、創意工夫を凝らして非常に使いやすく整理しつつ広げているのだ。確かに、「○○が無い!」と騒ぎながら探索作業を始めることがあるのも事実だが、そもそも人間の記憶が本質的に曖昧なものであることは広く認められていることだ。すなわち、時として何をどこにしまったのか本人が分からなくなることは致し方のないことであり、その結果のみをもって「ヤツの机はブラックホールだ」などと結論することは、言語道断と言う以外にない。

茶の飲み残しに、綿状のカビが生す湯飲みの存在を知りながらも一ヶ月ほど放置した結果、手の付けられなくなったその湯飲みをゴミ箱に送った事件を指摘されることもあるが、それはカビの成長を研究するためにカビを培養していたのであり、断じて無精で放ってあったのではない。このようにして地道に行われる、あるいはスポットライトの当たらない地味な研究こそが我が国の最先端科学を支えていると言っても過言ではなく、そういった研究を頭ごなし否定することは、我々人類の更なる発展を否定するに等しい愚行と言わざるを得ない。多くの人命を救ったペニシリンが青カビの一種から発見されたという事実を鑑みれば、カビの培養も大いに評価されるべき行為だ。

明日は自宅に来客があるので、散らかるだけ散らかった部屋を片付け、掃除をする。足の踏み場ができた、というよりは部屋の面積が二倍ぐらいに広がった感じもするが、きっと気のせいであろう。キーボードの音が以前よりもよく部屋に響くようになったのは、音を吸収する物が激減したことが原因だと考えることもできるが、それも恐らく気のせいだ。少なくとも誰かが家に来る前に部屋を掃除しておくわたしは、やはりマメできれい好きな人間だ。おっとそこ、何か言ったかね? ここは突っ込むべき場所ではない。他人からマメと評価されているる人間は、平常時の無精を人に見せないようにしているだけなんだから

そう、わたしはマメな人間だ。多分。



携帯電話メモリ編集
2000年7月17日(月曜日) はれ

暑い。溶けそう。

携帯電話のメモリ編集ソフトが欲しくなったので「携快電話3」というのを買うことにした。ソフトには MQ-138 のケーブルが付属されており(ケーブル無し版もある)、その中にも RS-232C版、USB版、端末充電機能付きUSB版と三種類のバリエーションがあって、値段はこの順番の通りだ。どれを買おうか迷ったのだが、RS-232C はレガシーな感じがするから、USB版が良いけれど、ノートパソコンから充電できると意外と便利かな? という具合に、結局一番高いのを買ってしまう(9000円近かった...)。でも、よくよく考えると充電機能なんて使わないかなあ?

で、家に連れて返ると、これがまたインストールすらできない。ノートパソコンに入れようとしたのだが、「Windows95 だからヤダ」だと? 箱の裏に「対応システム Windows 2000/98/95/NT4.0」って思いっきり書いてあるじゃないか。確かに、Windows95 は、USB をサポートしていない。しかし、うちのは OSR 2.5 なので例外的に USB も使えるから、動くこともあり得るのだ。まあ、「NT4.0」も入っているので、かなり怪しい(NT4.0 では USB はサポートされていない)記述だ。実は、よくよく見れば気付かないようなところに USB は Windows ME/98/2000 でしか使えないようなことも書いてあったりするのだが、普通の人は、「対応システム」を見て買うだろう。

SOURCENEXT さん、それは不当表示です。

もっとも、こういうことは予想の範囲内だったので別に構わない。動かなかったらノートパソコンを Windows98 にアップグレードするつもりだったからだ。無償アップグレードの CD-ROM も貰ってあるし、そろそろやっても良いかなという時期なんだが...問題は、ノートに繋がる CD-ROM ドライブが無いということだったりして。



COOLPIX 990
2000年7月15日(土曜日) くもり

新しいデジカメが欲しくなった。と思ったら COOLPIX 990 買っちゃったぁ(^^)。

デジカメに10万も使ってしまうなんて、キチガイじみていると自分でも思うが、欲しいものは仕方がない。購入を検討していたときには、334 万画素も必要ないと考えたりしたが、最近発売されたハイエンドのデジカメには、画素数の多少だけでは論じられない魅力がある。フルオート撮影だけでは撮れない写真もあるから、絞りやシャッタ速度は、やはりマニュアルで変えられた方が良い。接写に強いというのも、突撃実験室で使うためには重要な要素だ。簡易動画録画機能も面白そうだし...とか考えていくと、結局 COOLPIX 990 に行き着いた。

嬉しがりのわたしは、性能評価と撮影練習を兼ねて、早速みなとみらいまで夜景を撮りに出かけた。夜景をフルオートで綺麗に撮るのは流石に難しいようで、マニュアルモードで撮影した。FINE モードの XGA サイズで記録し、全くレタッチしていないサンプル写真ご覧頂きたい(下手なんだけど)。

XGA サイズ (1024x768) [299,844 bytes](オリジナル)
VGA サイズ (640x480) [54,141 bytes](縮小版)

夜間だから CCD のノイズが目立つのではないかと思ったが、案外にそうでもない。観覧車の骨組みも潰れたりしていないし、これぐらい撮れれば紙に出して印刷しても充分実用になりそうな感じがする。使用感については、後日もう少し詳しいページを作るつもりだ。「ちゃんとした写真は銀塩で撮ればいい」という理由から、そもそもわたしはメガピクセルデジカメ不要論者だったが、デジカメでも銀塩並の写真が撮れるようになれば、そうも言っていられないだろう。現像しなくてもデキが分かるというのは、下手くそなわたしにとっては非常に有り難いのだ。



過剰仕入れ
2000年7月13日(木曜日) くもり

夕方、スーパー(ダイエー系列)へ買い物に行くと雪印の製品が見事に無くなっていた。普段は商品でぎっしりと埋まっているのに、多くの商品が撤去され、がらんとした様相を呈す冷蔵陳列棚からは、そこはかとなく哀愁が漂ってくる。奥に置いてあるものは前に出し、在庫はとにかく並べる。そうして、なるべく何もない空間は作るまいとする涙ぐましい努力が商品の配置から漂ってくるが、ものの密度が少し変わっただけでこれだけの違いがあるのかと、すこしばかり感心を覚えてしまった。ちなみに、わたしは牛乳を買いたかったのだが、普段から買っている明治乳業製は、全て売り切れ。

「棚に空きがあると見栄えがしない」とは、雪印ショックに対する販売店の意見として新聞に掲載されていた、商品補給担当者の弁。空きぐらい別に良いじゃない、それなりの理由があるのだから、代わりに「雪印の云々」のビラでも貼っておけば? と、そのときは思ったが、現場を実際に目撃すると、そう言いたくなるのも分かる。例えば、その日に売れる数だけしか陳列していないスーパーを想像してみると、なぜか凄く寂しい感じがする。売れる売れないは別として、商品は過剰に積み上がっている方が景気も良いし、購買意欲が湧くものかも知れない。

物質至上主義の「悪いクセ」を垣間見た気もするが、果たしてこれは無駄なことだろうか。乳製品といった生ものは、賞味期限が命だ。賞味期限がやや近くなったものは、ご存じの通り「取りやすい位置」に並べてあり、新しいものは奥に「隠してある」。オバハンなんかは、わざわざ全商品をひっくり返してでも後ろから新しいものを取っていくが、賞味期限の表示なんて見るのも億劫と感じる人種(主に独身男性?)が「まんまと」古いものを買っていくから、それはそれで問題にならないのかも知れない。しかし、同じ金を払っているのに古いものを掴まされるのは、やや不公平か。

だが、やや古くなりすぎた商品は、むしろ有り難い。閉店間際の常連客、かごの中には、値引きシールが三重ぐらいに貼ってある見切り品がごっそりと...わたしは常習犯だが、これは食費の節約(もしくは、値段の割にリッチな食生活)に大変に大きく貢献してくれているのである。物質至上主義の過剰な仕入れも、こう考えると悪いものではなかったりして?



メロメロ
2000年7月11日(火曜日) はれ

最近のマイブームといえば、NHKの連続テレビ小説「わたしの青空」。

ドラマの内容なんかどうでも良いので、話の内容は全く理解しておりません。しかし、ここのところ、「わたしの青空」に出てくる田畑智子にメロメロだったりするのです。それだけが理由で、毎朝見ております。どういうわけか、毎朝この笑顔を見ると機嫌良く出勤できるのであります。

田畑智子

(NHKからの直リンク)

でまあ、その理由として

というところだったりします。いやはや、女の趣味がバレましたな...



結び目
2000年7月10日(月曜日) はれ

結び目というものは縁起がいいらしいが、余計な場所にできると迷惑なだけだ。

最近、頭髪の随所に結び目が出来ていたりする。あの細い毛のことだ、積極的に結ぼうとしても困難なのに、どういうわけか自然と結び目が出来てしまうのだ。おかしいな、不思議だな、と頭を疑問符で一杯にしながら考えてみたら、思い当たる節が一つあった。わたしは髪が長いため、頭を洗ったあとはドライヤを使っても乾かすのに暇がかかるのだ。それでは時間が勿体ないということで、ドライヤを使う前にはバスタオルで出来るだけ水分を吸い取っておくために、かなり強烈に拭いている。

どのぐらい強烈かというと、頭の上に被せたバスタオルの両端を手に持ち、バスタオルを引っ張って頭に押しつけつつ、バスタオルを左右に往復させる。そうすると、大変よく水分を吸い取ってくれるのでこれは非常に合理的な拭き方なのだが、結果的に毛がめちゃめちゃになってしまう。どうも、そのときに結び目が発生しているような気がするのだが、はっきりとしたことは良く分からない。毛って、めちゃめちゃにいじりたおすと、結ばれたりするものなのか? だとすれば、どういうメカニズムで?



人狼
2000年7月9日(日曜日) はれ

昨晩から今朝にかけて、「人狼」ほか押井守な作品を三本観てきた。テアトル新宿にて、23時過ぎからオールナイトで「人狼」「機動警察パトレイバー」「AKIRA」の三本立てという健康上(というより精神衛生上)あまり芳しくない上映があったのだ。諸般の事情から行動開始時刻が遅くなってしまい、夕方チケットを買いに行ったら「お立ち見です」と言われたが、立ち見客には座布団の貸し出しが行われて、通路に座れるというのはなかなか良心的。徹夜の上に朝まで立ってるのは、ちと辛い。

というわけで「人狼」。セクトと機動隊が衝突する昭和30年代の東京をややSF気味に改造したような舞台において、終始「こうなりゃ世も末じゃ」と思わせてくれる重々しい話が展開される。とってもネガティブな演出は、凄くわたし好みであった。ビジュアル面で分類すれば、戦闘アクションということになるのだろう。銃撃戦・・・と言えば語弊がありそうな一方的に殺戮しまくっているだけのように見えなくもない銃撃シーンが多数。容赦がないというより、容赦は許されないという感じだ。わたしは余り関心がないけれど、バトル好きのツレは喜んでいたから、きっと良かったのだろう。

ストーリは、どちらかと言えばミステリみたいな感じで、余り好きにはなれない。多分、作品が悪いのではなく、わたしの脳味噌が足りないため結末で話についていけなくなってしまっているためだろう。もう何度か観ないと、人物の関係が掴みきれない。けれども、「人狼」のハードボイルドな心理描写などは、なかなかのもの。こういう作品だから賛否両論はあると思うけど、個人的には凄くお勧め。ツレが(原作の?)マンガ「犬狼伝説」を持っていると口を滑らしたので、帰りにそれを徴発してから帰宅。土曜の午後に拉致られて翌朝まで監禁された挙げ句、可愛そうな奴だ。

「AKIRA」も久々に観ると、かなり新鮮というか強烈だ。なんだか宗教的で。。



折り紙
2000年7月5日(水曜日) くもり/はれ

小さい頃は、折り紙ってやつをよくやった。手先を使う作業は、基本的に何でも好きなのだ。

で、今日の夕刊を読んでいたら「ミウラ折り」の折り方が掲載されていた。地図などで時々使われている、引っ張ると「さーーと」開いて、畳むと「ふわっと」閉じられるあの折り方を「ミウラ折り」と呼ぶらしい。こういうものを見るとついやってみたくなる方で、実験台となる大判の紙を探して部屋を見回すこと約2秒、すごく良い按配の用紙を発見。やや無精なわたしの部屋に吊してあるカレンダは、いまだに6月を提示していたのだ。

新聞の説明通りにカレンダを折ってみると、確かに「さーーと」開いて「ふわっと」閉じる地図のようになった。すごい〜 感動〜 一々感動するほどのことでもないが、しょうもないことでもちょっとした発見があるとちょっと嬉しいのだ。Web で取り上げているところはないかなと思って調べてみると、「折り紙」のあれこれというサイトがあった。ここの『宇宙?』ってところをクリックすると、「ミウラ折り」の手順を見ることができる。

打ち上げ時は小さく畳んである人工衛星の太陽電池を、宇宙で簡単に広げるために「ミウラ折り」が考案されたらしい。人工衛星のような一見すごくハイテクそうなところで(もっとも、いまどき人工衛星なんてあまりハイテクじゃないと思うけど)、こうしたローテクなものが応用されているということは、わたしにとって非常に興味深いことなのだ。「ハイテクだからすごい、ローテクだからヘボい」という分け方は、必ずしも正しいことではない。もちろん、技術力にモノを言わせ、世の中から脚光を浴びている分野には、確かに目覚ましいものがある。

けれども、地味ながらちょっとした仕組みを巧みに応用したテクニックは、別の意味で素晴らしい。新しい技術はいずれ開発されることだろうし、開発費ぐらいどこかが出してくれるだろう。しかし、発想だけは他力本願では生まれない。だから面白いのかも知れない。わたしのようなパンピーではとても理解できないような小難しい先端技術の結晶の中に、「あーなるほど!」と理解できるようなローテクが混ざっているともなれば、それはなおさらのことだ。



どうなんだ?
2000年7月4日(火曜日) はれ

世の中には、「どうなんだ?」と思うことがたくさんある。


でもまあ、最近は仕事が忙しくなってきて、アホなことを考えている場合では断じてない。普段から『道楽』で会社にいる不良サラリーマン(もといサボリーマン)だったりすると、道楽からやや外れた分野の仕事が入ってきた場合には、処理する手が遅くなってしまうのだ(って自慢にもならんが)。とっととやらないと〜なんて言ってる間に納期が迫ってきてしまい、ようやくケツに火が着いたころには首が回らなくなる(可能性もある)。やはり、救われるためには常日頃から「納期よ伸びろ伸びろ」と敬虔に祈りを捧げることが重要なのだろう。

今日は夕方から凄い雷雨。ひっきりなしに轟くおっかない雷鳴に惹かれて非常階段へ出てみると、みなとみらいに聳える高層ビル群の隙間を駆け抜ける稲妻が美しい。でも落雷は恐いねえ、色々と壊れるし・・



暑い日に限って
2000年7月2日(日曜日) はれ

暑い。暑くて外に出る気が起きない。けど、エスカフローネでも見ておくか・・・

ということで、クソ暑い中、みなとみらいのマイカルまでとぼとぼと歩いてゆく。普通に歩いて徒歩10分程度のところだが、現着したころには、シャツの下を汗が流れている。来なきゃ良かったと思いつつも、建物の中は冷房が良く利いていて気持ちが良い。早めに行って先に食事をするつもりだったので、上映開始時刻30分前にチケット売場に着くと

『完売』

という無慈悲な二文字。マジっすか?

このクソ暑い中、わざわざお客様にご足労頂いておいて「完売」は無いだろ。
お客様は神様だ、俺はお客様だ、従って俺は神様だぞ! 俺の特別席を作れ、コノヤローぅ

といった三段論法を展開することは流石に出来ないし、次回の上映まで待っていられるほど気長な性分ではないので、メシだけ食ってとっとと帰りましたよ...

原因を探ると、折しもこの日は坂本真綾の舞台挨拶が入っていたために、完売という事態が起きてしまったらしい。そう言われてみれば、外見からして「そっち系の趣味がある」と推定可能な「暑苦しい」人物を多数目撃したような気もするので、あの人たちが完売の原因かも知れない。あの下手くそなOP歌のどこがええんじゃ? とか思わず問いたくなってしまうが、相手が声優ともなれば歌の品質を問わないのがオタクパワーである。ナメちゃあいけない。



更新報告
2000年7月1日(土曜日) はれ

実験室ネタに韓国海苔もどきを追加。

こうも暑いと外へ出る気が起きないのだが、仕事となればそういうわけにもいかない。昨日も暑かったが、打ち合わせがあって八王子へ出向いた。打ち合わせというよりは、何だかプレッシャをかけられに行ったようなもの。統括者曰く「今回プロジェクトに加わった椚座さんは Linux のプロフェッショナルなので・・・」違います。突然、Linux で動くアプリの開発をやれと言われ、つい先日インストールしてみたばかりで右も左も分からないド初心者だ。BSD 系のシステムは長い付き合いなのである程度いじれるが、Linux は、似て非なるものである。

まず、どの Distribution を選ぶべきなのかで迷う。折しもそんなとき、Dos/V マガジンの付録に RedHat Linux 6.2 の CD-ROM が付いていると教えて貰ったので「これでいいや」とインストールしてみた。良く出来たインストーラがあって楽々。用途に応じたセットメニューでインストールできてしまい、これなら初めての人でも迷うところなんて殆どなさそうである。なのだが、簡単すぎる。何をどうインストールされたのかさっぱり分からないままインストールが終わってしまうところは、なんだか Windows のブラックボックス主義的で好きになれない。

そんなわけで「FreeBSD じゃあダメでしょうか?」と直訴しておいたんだが、どうなることか。



突撃実験室