多事毒論(2000年10月分)



ひえぇ
2000年10月31日(火曜日) はれ

ひえぇ、今月ってもうこれで終わりなの?

ていうのが、ココロのサケビでありまして。「今月末」がキーワードになっているものがボコボコと重なってしまい、半殺し。しかし、このままでは来月末も同じことを書く羽目になりそうなのだ。11月末納期の仕事を一つ抱えていて、とっとと始めないと間に合わないのは明らかなのだが、それどころではなくまだ手を付けてすらいない。どういうわけか日本人はキリの良い数字に目がないらしく、納期も殆どが「月末」というキリの良いところに設定されるという悪い習慣がある。おかげで、複数の納期を抱えている人間は、納期が重なって地獄を見る羽目になるわけなのだ。

というわけで、発注側のみなさんは、必ず納期をキリの悪るすぎる日付に設定しましょう。下っ端の技術屋さんは、涙を流して喜ぶかも・・・○月11日とか、△月23日とか、素数を選ぶと良いかもね。



更新報告
2000年10月29日(日曜日) あめ

備忘録に「AWARD BIOS を解析する」が新登場。

ほとんどの方にとっては、睡眠薬のようなネタだろう。ごく一部の人にだけ意味がある、しかも文章がやたらと硬くなってしまったし・・・いかんなあ、こういうものを書いていると、つい仕様書的な理詰めの口調になってしまうクセは治さなくてはいけない。理路整然としていて正確でありながら、ユーモアのある文を書ける人は羨ましい。

最近、寒くなってきた。痩躯で冷え性という持病を抱えるわたしは、暑い日は我慢できるのだけれど、寒さだけには耐えられない。それにクリスマスなんていう不愉快な行事も近づきつつある。わたしにとっては、身にも心にも辛い季節の到来であるというわけだ。今日は朝から雨で気温もあまり上がらず、とうとうヒータの火入れ式が行われた。いままで「まだ必要ないかな」なんて思っていても、一度使い始めると何となく癖になってしまい、以後毎日使ってしまうのがヒータというもの。電気代のピークは、そのようにして毎年冬場にやってくる。

冬場では、電気代の請求が1万円の大台を越えると、さすがにちょっとビビる。日本の電気代は高いとかよく言われるけれど、電気代は本当に高いのだろうか? この時期になると、毎年にように同じことを考えている気がする。1万円で、何が買えるだろう。秋葉原散財ツアーに出向くと、1万円なんてあっというまだ。もっとも、それは物品として形に残る金なので、まあ良いとしよう。一晩ほど友人と遊び歩けば、やはり1万円ぐらい直ぐに飛んでしまう。ひとときの快楽のために、何の形としても残らず消える1万円はよくよく考えてみれば高いが、遊んでいるときにそんなことは考えない。

電気があれば、寒さに凍えることなく暖をとり、あるいは明かりを得、季節はずれだが、冷気を発生させることもできる。料理も作れるし、テレビも見られる。その結果として得られる快適性を考えれば、電気代に1万円やそこら払ったって大した値段ではない気もする。暖房器具を全開で使って冬場も薄着で過ごして、1万円。一晩飲んだり食ったりして、一万円。諸外国と比較して高い、というような議論はさておき、1万円が持つ絶対的な価値からすれば、やっぱり電気代って安いのかな?



当たり屋情報?
2000年10月27日(金曜日) はれ

意味不明なタイトルばっかりだ、最近・・・

ここのところ、車で週3回ぐらい八王子の会社へ通っているのだが、わたしが行く時間帯は必ずどこかで渋滞しているので、2時間半以上かかるのが普通である。帰る時間が夜中になれば道も空いているので上品な運転でも1時間ほどで横浜に帰ってこられるのだが、昼間はそういうわけにはいかない。くそったれ、どいつもこいつも用事がないくせに出て来やがって。ここは俺の道だ、どけどけって感じなのだが、誰もがそう思っていることだろう。ぶつけまくったボコボコの車に山口ナンバーなんかを張っておけば、みんな道を開けてくれるかなあ?

と、このネタが分かる人は、当たり屋ナンバーのリストなんてものを見たことがあると思う。当たり屋集団が特定の地域に出没しているとして注意を喚起する内容の文で、当たり屋が乗っている車のナンバーの一覧が添付されているのだが、何故かその多くが山口ナンバーなのだ。そんなものが、かなり昔からチェーンメール化してパソ通の掲示板などに掲載されていた。わたしが初めて見たのは1990年代の始めだったと記憶しているが、それ以前から流通していたようで、国産チェーンメールのパイオニアみたいなものだろう。未だに同様のものが流通しているのを見かけるので、相当に生きの長いチェーンメールである。どこかで見た方も多いと思う。

リストには、発行すらされなかったナンバー(*注) が含まれているところから考えてもガセネタであることは明らかだが、にもかからず信用できそうな団体の名前を出したり、当たり屋の危険をちらつかせて人の親切心につけ込むことによって流通を促しているところは、チェーンメールの典型的な特徴を大いに含んでいる。いまでも「ウイルス情報」とか「開いてはいけないメール」について注意を促す親切なチェーンメールが流れてくることがあるけれど、それらも扱っている危険の内容こそ違え、根本的にはまったく同じである。少し考えれば嘘だと分かるのに、どうして騙されるのだろう? 10年前から同じ馬鹿を繰り返している人間という存在は、ちっとも学ばない生物であるということだろうか。

(*注) 例えば、「山口 56-5320」というナンバーがリストにあるのだが、分類番号が 56 の頃は、「山ナンバー」が発行されていた。



はふぅ
2000年10月26日(木曜日) はれ

今週は、なんかしらんが強烈に忙しい。もうやだ。

サイコドクターあばれ旅の日記が好きで毎日読んでいるのだけれど、ここの Webmaster、最近は「テーマソング」に凝っておられるようだ。9月25日10月21日10月25日あたりの記事を読んでいると、わたしの知らない広い世界には、ユニークな歌が色々とあるものだと思う。ウケ狙いでもないのに、つい笑ってしまう「天然モノ」とか、何のことなのか良く分からない「サイバー系」とか。でまあ、そんなものを見ていると、やっぱり突撃実験室としても何らかの「テーマソング」が欲しくなってくるのが自然の摂理というものである。

やるんなら「特撮ソング風」が良いかなと思ってそれっぽいものを作詞したんだが、「突撃」をモチーフに書いてみたところ、めちゃくちゃ危険な歌詞になってしまって速攻でボツとなった。中盤からの歌詞が『返り血浴びて戦う毎日つらいけれど 殺らなきゃ分からぬこの快感』と余りにも猟奇的というか訳が分からないものだから、ほかの部分も公開したら人格を疑われてしまうのは明らかである。もっとも、突撃実験室のように、これといったテーマのないものに、テーマソングを作ることは難しいのだ。

悪いヤツが蔓延っていて、正義の味方が巨大ロボットに乗っかって戦ってるような話であれば、佐々木功と杉並児童合唱団って感じの歌にも出来そうだけれど、突発的な思いつきでコンテンツを増やしていっているようなサイトに、明確なテーマが存在するはずはない。そこで何らかのテーマを強引にでっち上げて、オーバーに書いてしまえば良いのだが、全体的に特ソン風であり、適度に笑えるぐらいにギャグっていて、突撃傾向があって、ややサイエンスしているような感じのテーマというと、それはいわゆる「マッドサイエンティスト」のテーマなのだから、正義の味方に捧げるべき歌ではなくなるのである。

さて困ったぞ、我々はマッドサイエンスを推進しているわけじゃない。



カードとか
2000年10月23日(月曜日) あめ

先日、某Mカードから新しいクレジットカードが送られてきた。なんの意味があるのかは知らないけれど、IC付きのカードに変わっている。某M系の映画館へ行ったことのある人なら、中国人風の男が出てくる某Mカードの気色悪い宣伝を見たことがあるだろう。ICがカード利用者の個人情報が記録しているらしく、ホテルを予約するだけでタバコを吸わない人には禁煙室が用意されたり、レストランに入れば何も言わなくても好みのワインが出てきたりして便利だろ! といったことが強調されているのだけれども、はっきり言って余計なお世話である。わたしの意志をカードに代弁してもらいたいとは思わない。

何も言わなくても、見ず知らずの人間が自分のことを全て把握している世の中など、むしろ気持が悪いだけなのだ。間違った未来予想の典型的な例というか、どっかの勘違いした馬鹿が、いかにもそれっぽく予想する「IT革命が起きるとこうなる」みたいなものである。IT革命の結果、日常生活やビジネスにおける方法論が大々的に変わることはあったとしても、人間の考え方や倫理観が大幅に変わることはない。たとえば、Hな写真がオンラインでいつでも見られる、というのは大袈裟に言えばIT革命だけれども、それはあくまでHな写真を見る方法が過去と比べて便利になっただけであって、Hな写真の扱いに関する倫理的な問題までもが変わるわけではない。

そんなことより、セキュリティ面で駄目にもほどがある磁気ストライプをどうにかしたいというのがカード会社の本音だろう。いくらクレジットカードのセキュリティ的な技術が向上しても、いったん定まって全世界の小売店で使われている規格を変える作業は、容易なことではない。できるところから、ICカード化ってところなんだろうな。



HDDとか?
2000年10月21日(土曜日) はれ

パソコン改造の日。USB ポートが後ろにあって使いにくいので、前に持ってくる。作業中、ふと疑問に思った。どうして俺のパソコンには、ハードディスクが5台も装着されているんだ、と。そのうち2台は、今のパソコンを組んだときに買ってきた新しいハードディスクである。そこに、データを移行するために古いパソコンで使っていた3台のディスクを仮設で繋いだのだ。丸ごとコピーすると無駄が多いので、要るものと要らないものを振り分けながら移そう・・・なんて思っていたらとたんに面倒くさくなってしまい、もう仮設のまま1ヶ月ほど使っていたりする。仮設のはずが、いつのまにか常設になってしまう、ってのは良くあることだ。


知人から電話がかかってきた。

「くぬぎざさん、車かったの?

嫌な予感。この台詞に続く事柄は、いつもろくでもないことばかりである。

「アキバ、連れてって

うわ、早速来たよ、これ。人をタクシー代わりに使いやがって。しかも、野郎の分際で。

今後のためにも、
助手席は女性限定(コギャル不可)と、でっかく書いておこう。

と言いつつ、結局行くことになった(根は優しいんだ、わたしは)。先週発生した「都内で半ば迷子になって、とっても困ったことになちゃったなこりゃ事件」という大惨事を繰り返してはならない。というか、同じ過ちを繰り返すのは、アホのすることだ。前日の夜から、穴があくほど地図を見て首都高の構造を頭に叩き込む・・・ほどマメな勉強家になれれば今頃は医者か弁護士ってところなのだろうが、残念ながらそうではないはないので、やっぱり適当に湾岸線に乗った。けれども、本町出口で降りて間違うことなく秋葉原に到着したのであった。



自分史
2000年10月19日(木曜日) はれ

夕飯を食いながらテレビを見ていたら、自分史を書くことが(一部の年寄りの間では)流行っているみたいな話をしていた。還暦を迎えるころ、ようやく人生の慌ただしさからも解放された人間には、涙なしには語れないエピソードの一つや二つはあるのだろう。そんなことを、ふと文章化したくなる気持ちは何となくだが分かる気がする。自分のことでも「なんでああだったんだろう」と特に心で引っかかっていることを、他者でも理解しうる文章として書くとなれば、その因果を弁証することになる。変な蟠りを解消するという意味では、ある出来事を深く咀嚼し、取り敢えず「分かっちゃったかもしれない」気分になることも、正しいかどうかは別として人間には必要なことだと思う。

けれども、単なる日記としてこっそりと書くのではなく、赤字が出ても本にして出版するくらいだから少しでも他者に自分の人生を知ってもらいたいのだろう。もう先は長くないのだから、それまでに消えない足跡を何らかの形で残しておきたいというところなのだと思うのだが、わたしには、そこのところが良く分からない。自分の人生なんて、生きている間はともかく、死ねば無かったことにして欲しいと切に願っている。死んだあとも、自分という存在が墓石の上に残っていたり、誰かの心の中で生きていることになっていたり、ましてや書物という形で残っていたりするなんて嫌なことだ。死ぬまでの辛抱だと割り切れるからこそ、人生ってのは恥をさらせるもの。

てことは、自分のホームページが残るのも還暦まで・・・それまでには、是非とも忘れられて欲しい。



はふ
2000年10月18日(水曜日) くもり

朝起きたら、身体がとてもとてもダルくて会社を休む。風邪がどうもこじれ気味らしく、それが原因かどうかは分からないけれど昨日は腹を壊すし、今日も食欲がない。

こじれついでに、仕事も思いっきりこじれていたりして気が重い。別の人が担当しているソフトが9月末納期なのに何故か「これから始めます」という状態になっていて、その人だけが苦労するのならまだしも、ちゃんと納期通りに進めているわたしにも余計なしわ寄せが回ってくるから良い迷惑なのだ。わたしはクライアント側のソフトを作っているのだが、「これから始める」らしいサーバ側が上がってこないとデバッグが進まない。一発で繋がるわけがないんだよ、新たに作ったプロトコルなんてものは。

なもんで、昨日は「日程再打ち合わせ」と称する会合のため八王子へ行く羽目になった。車で行ったのだけれど、保土ヶ谷バイパスが事故のため強烈な渋滞に見舞われていて、電車で行くべきだったと後悔するが、もう遅い。現場では、数名の毛唐が困り果てたような顔で前が潰れたジープを眺めている。なんだか珍しいナンバープレートがついていると思ったら、米軍の車輌だった。あんなのと事故ると後が面倒臭そうだ。で、八王子の会社に着くと

「くぬぎざさん、くるま買ったんだ
「ええ
「ちょうど、これから忙しくなるから

・・・なるから?

「電車の時間を気にせず仕事できるねえ〜

・・・したくありません。

「その時間になれば16号も空いてるし

・・・混んでても結構です。



人間って馬鹿?
2000年10月16日(月曜日) くもり時々はれ

人間って馬鹿? いやいや、まあ意見の分かれるところですな、それは。

この間、放熱器の熱抵抗の計算をしていたら、掛け算の九九がスパっと出てこなくて老いを感じてしまう。咄嗟のときに「6かける8って、えーと42? いや48だったか?」などと戸惑ってしまうのだが、ここで変に自信を持って、後から「お前はどういう設計をしているんだ」と怒られては目も当てられないので、ここで電卓のお出ましとなるわけだ。電卓は良き相棒だ、おかげで細かい計算が苦手なわたしでも、ヤツのおかげでクビにならずに済んでいるのだ。

こんなことを書くと、実は俺って頭のヨワい種類に生まれたのではないかと心配になるのだけれど、そもそも人間に計算能力なんてありゃしないのだから何ら問題はないと勝手に言い訳している。小学校で掛け算九九の表を頭に叩き込まされただろう。何故かというと、人間には計算能力が全く無いから答えを暗記するしかないのだ。九九の範囲をはみ出る乗算も、桁をずらしながら九九の表を頭の中で引いているだけのことである。そればかりか、足し算や引き算をするときも頭の中の表を参照しているのだ。10進数の加減算を行うには、それぞれに対し、要素数10のテーブルを暗記しておく必要がある。

我々は無意識のうちにこういった頭の中のテーブルを活用して、なんだか数を計算した「つもり」になっているけれど、その過程においては四則計算の「演算」は一度たりとも行っていないのだから、思い上がりも良いところである。人間の計算能力は、コンピュータと比べて劣るとか遅いとか言われるけれど、問題はそういうことではなくて、人間には計算ができないのである[*1]。だから、齢を重ねてしまって脳のネットワークが繋がりにくくなり、どうもテーブルルックアップが上手くいかないことがあっても「お前は計算ができない」などと責めてはいけない。ちょっとした「ど忘れ」なのだ。

なにぃ? 詭弁だ? 論理のすり替えだ? お前は計算ができない自分を正当化するために、僻んだ目で見ているだけだとぉ?


[*1] コンピュータも極限まで還元すれば、二値のテーブルルックアップ装置を組み合わせたものに過ぎないと言われれば、反論できないけどね。



シュリ
2000年10月15日(日曜日) くもり/あめ

PPV で、韓国映画の「シュリ」を観る。劇場で観ようと思っていて逃したのだ。

韓国映画を見るのはこれが初めてなのだけれど、良い意味でも悪い意味でも取っつきやすくて驚いた。初めてみる韓国映画なのだから、それなりに異質なものを期待していたのに、ノリはハリウッドのアクション映画そのものなのだ。無論、真似っこで本場ハリウッドのクオリティに及ぶはずもなく、爆破なんかの撮影はどこか玩具っぽいし、下手なアクションをカメラワークで誤魔化したようなシーンも目立つ。伏線なんか全く伏線として機能していないし、話の展開も上手いとは言えない。悪く言えば、ハリウッド的エンターテイメントの二番煎じに特別な存在価値はないと言えよう。

けれども、ハリウッド的という取っつきやすさがなければ、日本では公開できなかったかも知れない。エンターテイメントというものに対して非常に堅苦しい文化的制約があると思っていた韓国でこんな映画が作れるんだ、という意味では目から鱗だったのだ。しかも、南北分断という民族的にも政治的にも難しいテーマを題材に選び、それをほぼ純粋なエンターテイメントに仕上げてしまうところには、やはり驚いてしまう。もっとも、エンターテイメントというのは観る人の関心に忠実に応えるものなので、ややプロパガンダ的な面もあるのだけれど。



UPS
2000年10月14日(土曜日) はれ

突撃実験室のサーバなどを停電から守ってくれている UPS のバッテリが死亡したらしい。アラームが鳴ったので見たら、バッテリ不良の警告灯が点灯しているではないか。バッテリにも寿命があるのは分かるが、買ってからまだ2年弱、メーカの仕様によれば3〜6年は持つはずなのでちょっと早すぎる気もする。電源を入れ直すと警告灯は消えるのだけれど、また暫くするとアラームが鳴りだして警告灯が点灯するのだ。このまま騙し騙し使っていても良いと言えば良いのだが、面倒だし、時間を選ばず夜中でもアラームが鳴り出すので鬱陶しすぎる。

APC の UPS は職場でも使っているのだが、故障が時々発生するのだ。バッテリ不良の警告灯が点灯するのだけれど、バッテリが悪いのではなくて本体が故障しているという。文句を言うと取り替えてはくれるのだが、電源トラブルから機器を保護するはずの UPS それ自体がトラブって電源断が発生するようでは、まったく意味がない。American Power Conversion というだけあって、品質もアメ製レベルというのでは困るのだが、その割に APC はよく使われている気がする。デンセイ・ラムダなど国産の UPS も見かけるけれど、特に小型のものでは APC が多いような。

まあしょうがない、取り敢えず新しいバッテリを買うことにした。純正品を買うと、16,900円もするので高すぎる。しかし、使っているバッテリは標準品だから 12V 7.2AHh で同じ大きさの密閉鉛蓄電池が2個あれば何でも良いのだ。秋月電子のカタログを見ると、日本電池製の同等品が1個 3,500円で売っているから、2個で 7,000円。何が違うのかは分からないけれど、メーカ純正品とでは、なぜか価格に半分以上の開きがあったりするから、メーカの値段設定も極悪なもんだ。そんなわけで、バッテリを買いにアキバまで行くことにした。鉛の固まりを電車で持って帰るには酷なので、車で行く。

車でアキバまで行くのは初めてなのだ。湾岸までは良いとして、都内の首都高は全く分からないので、適当なところで湾岸を降りてあとは一般道で行く方が安全だろうと考えた。いま思えば、この判断がそもそもの間違いであった気がするが、それは結果論だから考えないようにしよう。「この辺で良いや!」という極めて適当なノリで湾岸を降りてから、1時間ぐらい都内を彷徨っていたと思う。別に方角音痴ではないのだが、土地勘が殆どないので道標に何か地名が書いてあっても、そこを目指せば秋葉原に近づくのか遠ざかるのかが良く分からない。

まあ良い、道はどこかへ繋がっている。有明なんて地名を見ながら勝鬨橋を渡った時点でかなり間違えているのだが、そこから銀座を通り、桜田門、半蔵門と、なんかアキバとは一切関係のない地名ばかり見てきた気がする。たぶん皇居を半周ぐらいしながら秋葉原に到着したのだろうけれど、それでも着くのだから、わたしの勘も捨てたもんじゃない?(晴海通りをひたすら真っ直ぐ走っただけだ、ばか)。問題は帰りだ、友人に渡すものがあったので南青山を目指したのだが、何故か後楽園遊園地の前を3回通ってる。そこから青山通りに入ったのだから、どこをどう通ったのかは神のみぞが知るところ。

その帰りはどうしたかって? 興味はないと思うが、書いておこう。横羽で帰るつもりで、やはり適当に走っていた。ところが、邪魔なところに突っ立っている東京タワーに行く手を阻まれる。邪魔だどけ、とも言えないのでやはり適当に走るのだが、高速の入口らしきものは一向に現れない。「↑横浜」なんて標識が出ているので正しい方向へ行っていることは確かなのだが、やがて国道1号で多摩川を渡ると横羽なんてどうでも良くなってきた(高速代節約モード)。真っ直ぐ行ったら家に着いた、やはり道はどこかで繋がっているらしい。



車かったり
2000年10月13日(金曜日) はれ/くもり/雨

車が欲しくなったので、中古車を買う。むっちゃくちゃボロいアベニールだ。

どのぐらいボロいかというと、ついでに後ろ左のフェンダに擦った後があったり、ホイールカバー2個欠品していたりするので見た目はかなり格好悪い。ガンメタ、平成2年式、オートマ、車検が来年の12月まで。まあ、タイヤが4個ついていて走れば取り敢えず自動車と呼べるし、運転が下手なわたしが初めて買う車だから、車検が切れたら気兼ねなく捨てられる車として良いと言えば良いのだ。しかし、次を買うにしてもここ1ヶ月で猛烈に金が無くなった。どこかを切りつめなければ、維持費だけで破産しするかもしれない・・・アキバ散財をやめれば良いことなんだが。

一年近く、ほとんどペーパードライバだったので久々に乗るとちょっとおっかない。実家の周辺では少し乗っていたのだけれど、大阪の外れのイナカ道と横浜の道とでは随分と事情が違うから神経を使うのだ。実家の近所にある教習所で免許を取った弟いわく「真っ直ぐ走っていれば良かった」そうなのだが、ここらの道で真っ直ぐ走ろうたってそれは無理な相談だ。みんなで路駐してるし、タクシーはいきなり止まるし、初心者が嫌がる要素が揃いも揃っている。慣れては来たけれど。

というわけで、横浜ナンバーのむちゃくちゃボロいアベニールを見かけてもアオったりしないで下さい。



スーパーカミオカンデ
2000年10月12日(木曜日) はれ

NHK のクローズアップ現代で、ニュートリノに質量があったことが分かって云々という話を放送していた。当然ながら、そういう話題なのでニュートリノ検出装置であるところのスーパーカミオカンデ(岐阜県の神岡鉱山にある)が出てくるのだけれど、光電子増倍管が壁一面にズラリと並んだ映像が何だか気持ち悪くみえるのは、わたしだけであろうか。電波暗室とか、同じ形の物体で囲まれている場所はどうも落ち着かない。どうでもいいが、個人的に高山本線沿線は何かと思い出深い場所なのだ。こんなことを書いていたら、また岐阜から富山まで制覇したくなってきた。

で、何年か前に建造ドキュメンタリで初めて見たときは感動した記憶がある。あの中には、やたらとでかい光電子増倍管(早い話が巨大な真空管)が1万3千本も並んでいるそうだが、わたしの記憶が正しければ、ガラス職人が一本ずつ手作りしたものであるらしい(そんなものを作るのは浜松ホトニクスぐらいだろうと思って調べてみたら、やっぱり浜松だった)。良くやるよって思うのだが、いくら凄い設計図が上がってきても、最終的にモノを作るのは職人の手だ。世界に誇れる最高の観察施設というのも素晴らしいが、モノ作りという面でも、もっと誇って良い部分がたくさんあるのではないかな。

誇るというのは何もあからさまに自慢しろってことではない。しかし、国民的なコンセンサスの取れた静かなプライドみたいなものは、いまの日本に欠けている部分だと思う。何かというと日本のネガティブな面は幾らでも出てくるけれど、だったら日本のポジティブな面は? という問いに対して、これだけは挙げておかないといけないでしょう、という多くの人が共通して納得する答えがあるだろうか(特にネガティブな面には目が行きやすいというのは分かるんだけども)。まあ、誇れることも決して少なくはないのだけど、ニュートリノとか伝導プラスチックとか、分野がマニアックすぎるからダメなんではないかも知れない。

誇るということで、かなり勘違いしているのは宇宙飛行士である。最近はトップニュースになっていたりするけれども、カネにモノを言わせてスペースシャトル乗ることが、そんなに凄いことなんだろうか。先立つものさえあれば、わたしでも宇宙ぐらい行ってやる。人類初で宇宙に行ったというなら(カモメの人?)色んな意味で凄いと思うが、安全第一で今までに500人以上の人間を宇宙に送ってきたシャトルに乗る宇宙飛行士が特別な称賛に値するほどの功績を個人的に残しているとはとても思えない。若田氏に個人的恨みはない(し、もしかしたら当人も迷惑している気もする)けれど、マスコミがちょっと派手にやりすぎって感じだから。



選挙運動
2000年10月11日(水曜日) はれ

「みなさま大変長らくお待たせいたしましたっ。さぁ、実験・検証サイトの王者を決定する今世紀最後の直接対決! 大接戦を戦い抜き、見事玉座に着くのは一体どちらなのかっ?」

「おおっと、鏘々たるコンテンツを引っ提げて、赤コーナーに登場したのは『できるかな?』であります。スモークが濛々と立ちこめる花道を、ゆっくりと、そして威風堂々と全身して参ります。知識という鋭い包丁を手に、分析の俎板の上で鮮やかに捌かれるものはとどまるところを知らない! 画像や音声の分析が主だが、時として人の意識、果ては恋の力学まで。だが、理工学の大海原を飛ぶ青い鳥か!? どこか心温まる Scraps も見逃すことはできないっ」

「そ、そして、青コーナーに颯爽と現れたのは『突撃実験室』だっ! スポットライトが照らす女の子の絵が、このサイトのタイトル。コンテンツとのミスマッチを指摘する声は後を絶えないということですが、『何と罵られようが止めるつもりはない』と当然のように宣言しております。おおっと、あのポーズは・・なんと、いきなり勝利宣言か? 恐れ多くも『できるかな?』を相手に勝利宣言を掲げる Webmaster。失礼だ、失礼としか言いいようがないっ」

うむー、古館伊知郎節を真似てみたつもりだが難しい・・・

というわけで、気が付けば Gaburi というサイトのホームページバトルにて、「突撃実験室」は、恐れ多くも「できるかな?」の対決相手になってしまったのだ。いつしか掲載許可のメールが来ていて、いつもの如く二つ返事でOKしたらこんな事態に相成った次第である。バトルといっても花道やスモークが用意されているはずもなく、古館伊知郎が解説してくれるわけでないことは言わずもがな、リングすらない代わりにあるのはリンクのみである。

Hirax さん、勝手なことばかり書いて申し訳ないです。勝利宣言は、古館伊知郎の勘違いです、はい。



んー
2000年10月10日(火曜日) はれ

一日中、ついてない。ただでさえ忙しくてキャパオーバー気味なのに、ストレスが溜まる一方だ。
というか、ここんところ毎日ついていない気がするんだが、なんか悪いことでもしたのかなぁ?

職場であるところの某ISPでフレッツ・ISDNによる接続サービスに対応した(ようやく、って感じだけれども)。最悪な対応しかできない NTT とモメにモメ、とうとうこの温厚なわたしですらキレる事態にまで至り、一応お詫びに来てくれるのだが、役所的なお詫びを聞くために時間を割くことすら馬鹿馬鹿しくなってくる。お詫びに来なけりゃならなくなる原因をそもそも作らなければ良いわけなんだが。ISP側の対応が悪ければ、エンドユーザ側でも積滞が激しくてなかなか加入できないといった問題があるそうだ。利用者も事業者も、NTTに振り回されながらNTTを儲けさせる運命にあるらしい。

あんまり裏側を暴露するのもよろしくないことだが、フレッツ・ISDNを歓迎しているプロバイダがどのぐらいあるのかということには、すごく興味がある。時間課金なしの常時接続に近いものが手頃な値段で得られるということは歓迎すべきことではあるが、エンドユーザの電話代が安くなったらなったで、その穴埋めはプロバイダに回ってくる。プロバイダに言わせれば、採算性やら設備面やら色んな面から考えると本音としては「対応したくない」のだけれど、よそもやっているし、ユーザの要望もあるので「やらざるを得ず」しぶしぶ対応したところも多いのではないかと思う。大手は分からないけれど、零細は概ねそんなところではないかと思う。



更新報告
2000年10月9日(月曜日) あめ/くもり

実験ネタに酵母エキスを追加。

以前に書いた VEGEMITE の話をもうちょっと真面目にしたようなものだが、ちょっと真面目に書きすぎて面白くなくなったかも。以前にもどこかで書いた気がするけれど、食べ物の感想ほど書きにくいものはない。単に「おいしいですねえ」なんて言うだけでは、三流芸人が出てくる下らない温泉紹介番組と変わらないのだ。音声や動画がファイルとして保存できるように、味や臭いもファイルとして保存でき、http で転送してクライアント側でそれが再生できるようになれば、どんなに楽なことかと思う。

臭いの原因は、解明が難しいらしい。ある分子がある臭いとして感じられることは分かっても、どうしてそういう臭いになるのかは分からないとか。臭いが量子化できて、パソコンで編集できるようになれば面白いだろう。Photoshop ならぬ Odorshop とかでオリジナルな臭いを作るのだ。すると、臭いの編集技術を競い合うコンテストが開かれるかも知れない。香料メーカ主催の真っ当なコンテストなら「良い臭い」を追及するだろうけれど、やはり「いかに不快な臭いを作るか」なんて企画もでてきそうだ。審査員は、三日ぐらい飯を食えなくなるかも。



魚の目を食う変人
2000年10月6日(金曜日) はれ/くもり

魚の目
魚の煮付け、一番うまいところはどこ? と問われれば、わたしは目がもっとも美味いと答える。魚を一匹煮付けたら、言うまでないが目は二つしかなく、希少価値すらある部位なのだ。目は最後まで大事に大事にとっておき、身の部分を食べ終わってからツルりと飲み込むのが私流の煮魚の食べ方である。魚の目は、白色の硬い球体が透明なゲル状の物体に埋まっており、白い球体の部分は流石に食べられないが、ゲル状の部分は仄かな塩味が利いていて美味なのである。

ところが、「煮魚の目って美味しいよ」といって人に勧めてみると、あからさまに拒否反応を示す人が意外と多いのである。それは好みに合うとか合わないといった次元ではなく、そんな気持ちの悪いものは間違っても口に出来ない、というような反応なのだ。わたしは、小さい頃から当たり前のように魚の目を食べていたので、今まで魚の目を食べることに対しては、何ら疑問を感じなかった。けれども、そう言われれば、ひょっとして魚の目なんて普通は食べないものなんだろうか、そんなものを食う俺だけなのかと、自信がなくなってきてしまう。

今でもだけれど、わたしは昔から「おまえは変だ」と言われる。それはそれで構わないことなのだが、ちょっとまて、自分にはどこまでが普通で、どの線を踏み越えると変なのかという区別が良く分からないのである。だから、むしろ普通と称される行動規範に深い興味が湧くことがあるのだ。変人であることも、これ以上はないというところまで突っ走り、あるいは変であるということを自分に気付かせないくらいの自我を構築すれば楽なのかも知れないけれど、生憎というべきか、わたしはそこまで解脱した変人にはなれなかったので随分と中途半端な変人として憂鬱に育った気がする。

変であることは認めるけれど、解脱が不完全なので、そこはかとない後ろめたさも同時に残るのだ。だから、実態は掴めないけれど普通と思われる世界にも少しだけ浮気して・・・しかし、根が不器用なので、そのことで何度となく失敗している。本意としてはAなのだけれど、それはやはり変かな? 普通はBかな? などと試算しているうちに考えがまとまらなくなり、結局、打算的で妥協的なところに落ち着いてしまう。その結果は往々にして不本意なものだから、残るわだかまりを解消すべく、自分で適当な理由をこじ付けて合理化してみるのであるが。

しかし、頭はそれが正しくないことをちゃんと理解しているので、理不尽さをどこかに封じ込めようと釣られた魚のように足掻く自分から、もう一人の自分が遊離するのである。そして、馬鹿みたいに足掻く自分を遠いところ見つめながら「思った通りにやればいいじゃないか」とあからさまに嘲笑うもう一人の自分は、とにかくムカつく存在なのだが、いま自分がムカついている相手は、自分自身に他ならないではないか。しかも、もう一人の自分から嘲笑に紛れて浴びせられる非難は、正論すぎて反駁すらできない。

一体、どうして自分は自分自身の正論に対してムカつかなければならないんだろう。普通って何だ? 変って何だ? こんなことで悩む馬鹿は自分だけで、人々は自分なりに各々の判断基準を持っているものではないのか。普通とか変とか、どこにもありはしない普遍的な基準を模索していることにして、実はダメな自分の免罪符にしているだけではないのか。そうであるならば、堂々と自分の基準を保てば良いことではないか。変ならば変を極めれば良いはずなのに、それでもどこかなりきれないところがあって、またいつか、このような悪循環に嵌ってしまうのだろう。



いまさらだけど、エヴァ本
2000年10月5日(木曜日) くもり

なんか、ここのところついていない気がする。信号は赤だし、コーヒー豆はぶち撒くし。信号はともかく、コーヒー豆は単なる不注意なのだが、きっと忙しくて疲れているのだろう。休みが欲しい、と思ったところにタイムリーな三連休・・・まだ一日あるんだけど。

「これがエヴァ本の決定版か!?」と(ごく一部で)話題を呼んだ「エヴァンゲリオンの夢 - 使徒進化論の幻影 - 」(大瀧啓裕著、東京創元社)が、遅れに遅れて今年の夏に出版された。読みたいと思ったのだが、値段が 3,400円と如何せん高くて、興味本位で買うには手がでない。そこで、中央図書館の蔵書検索でひっかけてみると、ちゃんと出てきますな。良いことなのだ。純文学とか郷土資料とかも良いが、マニアックなラインアップも忘れずに取り揃えてくれる横浜の図書館には、好感が持てるのだ(受付の対応もいいし)。

ところが、調べてみたら貸し出し中とのこと。仕方が無いので、予約をぶっこんでおくことにした。「予約したいんですが」と、黄色いエプロン姿で出てきた受付のオバサンに、書いておいた予約カードを渡す。図書館の職員がエプロンをしているのは、恐らく服が汚れるためだろう。しかし、揃って台所のママさんエプロンを着用している理由は良く分からない。作業用のエプロンなら、もっとマシなものもあるだろうに。と、そんなことを考えていたら、「既に5件も予約が入ってますね。2ヶ月ぐらい先になりますが、どうしますか?」という回答があった。仕方が無いから「お願いします」。

どうやら、みんな同じことを考えているようである。

ちなみに、エヴァ本が何のことか分からない方は、オタク自身を見よう。「エヴァ謎本読書録」で、その恐ろしげな内容を垣間見ることができる。



悪い文章とか
2000年10月4日(水曜日) くもり

「文章をダメにする三つの条件」(宮部修著、丸善ライブラリー327)という本を読んでみた。作文が苦手な学生向けに書かれた本だが、いわゆる作文のハウツー本ではない。多数のどうしようもない作文を添削した経験を持つ著者は、特に悪い例を挙げながら文章を悪くしているありがちな傾向を見いだし、作文における御法度を解説したものだ。本当にどうしようも無い文章を書いている人を対象にした本なのだが、初心に返って読んでみると「なるほどな」と頷ける部分もある。

3年半ほど多事毒論を書きつづけた結果、始めたころと比べれば「自分の文章もだいぶん上手くなったかな」とは思っている(もっとも、誰も主観的に誉めたり貶したりしてくれないので、単なる自惚れかも知れない)のだけれど、最近やや物足りないものを感じてこういう本を敢えて読んでみたりしているのだ。プロのエッセイストが書くような文を読むと、なんと言うか文章を読み終えてからの「広がり」みたいなものが明らかに違う。もっとも、そんな文章をスラスラと書けたならば今ごろはエッセイを書いて食えてるかも知れないので、エッセイストに遠く及ばないことは当然のことなのだけれど、「目標は必要以上に高く」ってやつである。

しかし、わたしはそこで「ならば練習あるのみ」というような精神論を持ち出せる種類の人間ではない。なにか違うものがあれば、差を抽出し、その結果に基づいて行動を決めるのが理系の悪い癖なのだ。それを実践したのが、できるかな?というサイトのWEBページの文体を調べてみよう - 「ノリノリ文体」の秘密!? -である。色々な面白いWEBページを読むたびに、「この面白さ・ノリの良さの秘密はどこにあるのだ?」と思っていたのであるという筆者は、句読点の数に注目し、WEBの「ノリノリ文体」は一段落中の句点( 。)と読点( 、)の数が少ない程良いと結論している。

このことをより抽象的に捉えれば「間の取り方が違う」と言える。それはつまり、句読点の使い方だけではなく、改段落や改行の取り方、あるいは読点としてすら現れない言葉と言葉の微妙な切れ目を含めて「間の取り方」が違うのではないか、ということである。しかし、前出の記事が「句読点の数が少ない程良い」と言い切ったことは、わたしにとって意外なことであった。なぜならば、理屈の上では句読点が減ればそれだけ「間」が文章に入り込む余地も減少すると考えられ、それこそ読者が想像力を働かせて「広がり」が発生するような文章にはなり得ないと思ったからだ。

句読点の多少だけで「間」が議論できないのだとすれば、ほかに何があるのだろうか。わたしは、「接続詞」に注目してみるのも面白いと思った。「ノリノリ」な文章には、「つまり」とか「したがって」のように説明の前後関係を表す言葉とか、「しかし」や「けれども」など対立関係を表す言葉、また「そこで」や「〜したので」など、時系列的関係を示す言葉が殆ど使われていないことが分かる。こういう言葉を多用しているわたしは、これらを抜きにして本当に文章が書けるものなのかとすら思うのだが。文と文の関係を無用に決定せず、非論理を残すこともまた「間」の一形態なのであろうか。



スポーツ選手とか
2000年10月2日(月曜日) あめ

ふと思ったのだが、メダルを取ったオリンピック出場選手の写真を新聞で見ていると、女の子もかわいい娘が多いし、男の子もかっこいいのが多いのだ。オリンピックに出るくらいのスポーツ選手というと、やたらと図体がでかい割に寡黙で、刈上げ頭に顔はニキビだらけで「わたしからスポーツを取ったら人生なにも残りません」って感じの見るからに体育会系な人間を想像するのだが、そういうタイプは案外に少ないらしい。五輪に行けるやつは、顔も審査対象なんじゃないかと思うぐらいなのだが、まあ流石にそんなことはないだろう。影響があるとすれば、事後に人気が出るかどうかの問題か。

でまあ、わたくしのようにジジむさくて容姿も決して良いとは言えず、しかもオタク系で「あんなやつ、女の敵よ!」と後ろ指をさされる種類の人間は、生物史上類を見ない速度で淘汰されつつあることを、そういう事実が立証しているように思えて仕方が無いのだ。だが、こんな世の中も捨てたものじゃない。悩んでいると、みんな優しい言葉でフォロを入れてくれるのだ。「心配ないよ、余りものには余りものという市場があるのだから需要と供給の均衡を常に保たれている」とか「高価なクリスマスケーキほど、売れ残れば一番値引きが利くのだから」とか。そうか、なるほど・・・とは言えない。

秋が深まり、寒くなってきた。そろそろ、持病の冷え性がつらくなる季節である。



DirecTV 放送終了とか
2000年10月1日(日曜日) はれ

土日とも、なんか忙しくてあっというまに終わってしまったり。

DirecTV の放送が終わったので、早々にアンテナを撤去した。ベランダにはパラボラが3枚も上がっていたので2枚に減ったのは嬉しいが、減ったら減ったで空いた場所に何か別のアンテナを上げたくなってくる・・・まあ、「あそこの家は何かの秘密基地なんじゃないか」と近所に思われるぐらいに、ベランダはハデな方が好きなのだ。昨日の夕方の時点では、DirecTV は、まだ停波しておらず「放送終了のご案内」みたいなのが全チャンネルで流れていた。しばらくは、このままにしておくのかな。

使えなくなったアンテナと松下製のチューナは、解体して研究用になった。チューナの中身は、よく整った設計の基板が入っているだけで、スカスカであった。それからするとケースは大きすぎる、もっと小さく作ろうと思えば幾らでも小型化できそうなものだ。捨てる前に部品取りに使うにしても、巨大なQFPのICが何枚か張り付いているだけなので、特に使えそうな部品もなく、おもしろくない。マイコンと、カスタムの良く分からないチップと、あとビデオのデコーダチップセットが乗っている程度のごく常識的な作りである。唯一使えそうなものといえば、チューナの中に入っていたスイッチング電源ぐらいかな。



突撃実験室