多事毒論(2001年5月分)


んー
2001年5月31日(木曜日) 雨のち晴れ

本格的にネタ切れ。電波でも聞こえて来ないかなあ。



エシュロン
2001年5月30日(水曜日) くもり/雨

朝日新聞に「エシュロンの存在「疑いない」 欧州議会が報告書案」という記事が出ていた。エシュロンという世界規模の通信傍受網は前からその存在が指摘されていたし、アメリカ辺りなら十分にやりそうなことだ。というより、技術的に出来ることであれば、誰もやっていない方がよほど不自然というべきだろう。無線通信の傍受だけなら分かるが、海底ケーブルも潜水艦を横付けして傍受してしまうと聞いたことがある。そんなことが出来るのかどうかは知らないが、本当だとすれば見学してみたい(笑)

こんな大がかりなものが一般市民がターゲットにされることは無いと思いたいところだが、どうだろう。通信業界に身を置いていると、セキュリティがどうの、通信文の暗号化がどうのといった話題にはしょっちゅう触れるが、こんなことを日頃から気にして生活するのは一部の特殊な人種だけなのかなと思う。わたしにところに届くメールも全て平文で送られてくるし、コードレス電話なんて聞こうと思えば筒抜けだ。気持ちが悪い、という声は聞くけれど、少なくとも積極的な防御が必要だと思っている人は、どれぐらいいるのか。

普通に生活をしていて、暗号技術が積極的に使われているところを見ることができるのは・・・通販サイトなどの SSLぐらいか。水面下では身近なところで使われているけれど。



マイラインとか
2001年5月29日(火曜日) くもり/集中豪雨

先月の市内電話の通話料金は、43円だった。市内電話を使わないわけではないのだけれど、携帯電話の無料通話分があるので加入電話の使用頻度は減る一方だ。マイラインの顧客獲得競争で 0.1円オーダの値下げ合戦をしているけれど、あれに心を動かされる人がそうそういるとも思えない。市内や県内に恋人がいて、毎晩のように長電話をするといったケースなら有意な差が出てくるのかも知れないけれど、わたしのような金額では数円の違いにしかならない。県内および市内は、最も妥当と思えた NTT東日本に登録した。

最近「市内電話のマイライン登録○○社にしたのだが、フレッツ・ISDNは使えるのか?」といった問い合わせが増えてきた。答えはもちろん可なのだが、フレッツ・ISDNは NTT東西が独自に提供しているサービスなので、市内電話のマイライン登録において NTT東西以外の事業者を選択した場合は NTT東西を経由させるようにダイヤルしなければならない。しかし、具体的にどうすれば良いのかが分からない人が多いようだ。価格競争も良いが、もっとも肝心であるはずのこういった仕組みの周知は、明らかに不十分だ。

一にも二にも登録件数を稼げば良いという発想しかない市内電話新規参入の事業者は、ともすれば敵に塩を送ることになるような事柄を敢えて説明したがるはずもないし、NTT東西も「他社に登録して問題が発生しても知ったことではない、だから安心の NTT東西を選択しましょう」という営業スタンスを取っていた(それで総務省から指導が入ったが)。どの事業者も嫌がることなら、マイライン事業者協議会などが率先してやるべきことだと思うのだが、どうもあそこもあまりやる気がないように見受けられるのは気のせいか。

5月1日までに登録されるはずだった、わたしの申し込みは未だに音沙汰無しなんだけど。



ある抗議について
2001年5月28日(月曜日) はれ

むかし、いわゆる心霊現象を取り扱った本は、恐ろしくて捨てられないという人がいた。あまりにも恐ろしい本なので積極的に捨てるというのならまだ理解できるが、理由を聞けば、呪詛やら怨恨やらの事例がこれでもかというほど書いてあるので、そんなものを捨てたらどんな罰が当たるか分からないというのだ。思わず吹き出しそうになったのを何とか堪えながら、たとえどんな内容が書かれていようと、本なんて紙とインクでできた印刷物に過ぎないだろう・・・ごく真っ当で無難なことを言ったつもりだったが、当人は何だか不服そうだった。

コーランが破り捨てられ、そのことに激怒したイスラム教徒らが抗議集会を開いたとのニュースを読んで、心霊本を捨てられない人のことを思い出した。こんなことを書けば、ギャグにもならない話とコーランの破り捨て事件を一緒にするなと言われそうだが、本質的には、対象が糞であろうが味噌であろうが何の違いもない。ある特定の書物が特殊であることを信じるのは自由だが、信じない者にはいくらそう主張したところで理解されないのが現実というものだし、理解されないだけなら良い方で、奇人扱いされるのがオチだろう。

広い意味では、問題の本質はある集団が正しいと信じている宗教心が冒涜されたことであって、冒涜の意思表示としてコーランが物理的に破り捨てられたことではない。イスラム教徒自身は、朽ち果てたコーランそれ自体をも十二分な冒涜と受け止めるのかも知れないが、だからといって万人が同じように感じることはない。カメラの前でいくら破られたコーランを披露されても、大方の人間には紙屑としか写らないのだ。紙屑になにか特別な意味があるのだろうと察することはできても、イスラム教徒のように心から理解することは不可能だ。

宗教に対する理解の欠如を問題にするのなら、イスラム教徒は方法を完全に誤っているというべきだろう。無神論や、宗教なんてどうでもいい論も一種の宗教に含めれば、日本で最も広く信じられているそういった消極的な宗教を、イスラム教徒は全く理解していないことになる。よく分からない紙屑を示しながら激怒する、東京に乗り込む、抗議集会を開く・・・結局、なにがどう問題だったのかも明らかにしないまま、そうした行為によって彼らが達成できたことは、自らが過激で不寛容な人間の集団であることを強く印象づけたことだけだと思う。



個性的
2001年5月27日(日曜日) くもり/はれ

第三京浜で料金所にさしかかった。

はいありがとうございま〜す〜♪
ハイウエイカードから100円いただきまして〜♪

会話の全てが、
浪花節だった。

おじさんの胸元で輝いていたひときわ大きな名札には、何と書いてあったか想像されたい。



更新報告
2001年5月26日(土曜日) くもり

掃き溜め写真館にジャスミン米とタイのカレーを追加。

この上なくどうでも良い(いまさらながらの)髭ガンダムのお話。月の女王であらせられるディアナ様があと30歳ほどお年を召されると、田中真紀子衆議院議員に近くなるんじゃないかと、ふと思った。

ディアナ様 + 30歳 → 田中真紀子氏

・・・やや無理があるか。

肖像を並べてみると「やや」どころか「うんと」無理がある――強いて言えば横に広がった髪型が幾ばくか似ているかなという程度であるが――女がオバサン化するとどんな格好になるか、それはそのときになるまで分かりっこないという街談巷説が普遍的な真理であるものと見なして無理にでも可能性を与え、それを前提としてディアナ様が30年の時を経て田中真紀子氏になったと強引に仮定してみよう。

容姿だけでなく、たとえばあのオヤジ譲りの
ダミ声角栄節

我が親愛なるムーンレイスの人々よ・・・

などと、演説が始まっちゃったら...


こんな想像をして数秒ほど爆笑したあと、言いしれぬ寒気を覚えた。よしなに。



ねこがいっぱい
2001年5月25日(金曜日) はれ/くもり

不定期版・今日の猫模様。お口元×おなか×おみ足

タイトルの書き方が某狩猟家狩猟家の丸パクリじゃないか、といった部分に対するツッコミ等は無視するとして、一日一匹のペースで撮影するのはちょっと大変だ、だったら猫様を分割撮影すれば一度の撮影で一気に枚数を稼げるじゃないか、というような感じに思いついた恐ろしく単純で頭の悪い発想が招いた結果がこれなのだ。と言いつつも、一度に公開してしまったら意味がない、というのは実に的を射たご指摘だ。なに、手抜きを試みたことを懺悔することで、悔い改めている次第である。

ちなみに、おねんね中の全体像。だらしねえなあ、人が近寄っても腹出したまま寝てるノラは珍しい。



助数詞
2001年5月24日(木曜日) あめ

熊本地裁で判決のあったハンセン病訴訟の資料を読んでいて初めて知ったことなんだが、遺骨の数量を数えるときの助数詞は「柱」(はしら)が正しいみたいだ〔用例:療養所に眠る遺骨は 23,000を超える〕。遺骨という物理的な実体を伴わなくとも、死者の霊魂といった形而上学的なものも「柱」で数えるらしい。まあ、「霊魂」のような特殊なものはそれでも構わないと思うが、助数詞として通常は「体」を用いる「遺体」と、「遺骨」の線はどこに引けば良いんだろう。

いわゆる「生」の状態であれば「遺体が一体」で間違いないはずだが、完全に白骨化した状態で富士の樹海から発見された遺体となるとやや微妙だ。世の中、正式な葬儀を経て骨になる死人ばかりでもないわけで、火葬したあとの骨だけを特に「遺骨」と呼ぶわけでもないと思うしなあ...

考えてみたら、動物を数えるときの「頭」と「匹」の区別もどこら辺にあるのか良く分からない。ウシは一頭で、ネコが一匹なのは概ね了解できると思うが、同じネコ科でもちょっと大きいヒョウとなると一匹と呼ぶべきなのか迷う。霊長目を小さい順にアイアイ→ニホンザル→チンパンジ→ゴリラと並べていくと・・・感覚的に、分かれ目はニホンザルとチンパンジのあいだぐらいにあるのかな。そういえば、なぜか昔は「ウサギは一羽、二羽」だったけれど、結局あれも「匹」で良いことにしたらしい。

ていうか、そんなもん統一しろよ。個人的に、助数詞は対象に関係なく全部「個」とかで良いと思うんだが。



星界の戦旗
2001年5月23日(水曜日) くもり/あめ

以前に森岡浩之「星界の紋章」を読んだら意外と楽しめたので、続きも読みたくなり「星界の戦旗」を読んでみた(まずは第一巻だけだけど)。わたしはSFというジャンルが基本的に嫌いで、とりわけスペースオペラなんて論外の外(どこだそれは?)だと思っていたのだけれど、やはり星界はごく自然に楽しめる。森岡氏本人があとがきで「SF冬の時代に真っ向勝負」と述べているのは伊達ではない――食わず嫌いで正統派のSFを知らない人間が言うのも変だが――従来型ではないから、わたしでも蕁麻疹が出ないのだろう。

有り体に言ってしまえば、星界は「スペースオペラの皮を被ったコメディ」だ。登場人物は約一名を除いて一筋縄ではいかない、ひねくれた連中ばかりで、おまけにそんな愉快な奴らが飛ばすダイアローグの半分ぐらいは「イヤミの言い合い」だから、それを読んでいるだけで頬がゆがんでくる。戦闘シーンにもなれば一応の緊張感はあるし、空想科学用語もぽんぽんと出てくるのだけれど、ノリは相変わらずで、ときたまぽろっと飛び出す間抜けなセリフが変に堅苦しくなるのを防いでくれているから読み疲れしない。

そういう表現的な部分はともかく、すごく合理主義的な世界観が性に合っているんだよね。



ホログラム
2001年5月22日(火曜日) くもり/あめ

クレジットカードなどに付いているホログラムは眺めていると不思議で仕方がない。光の当たり方によって銀色のものが虹色に変化するし、見る角度によって異なった図画が浮かんできたりもする。その程度ならトレーディングカードなんかのちょっと高級なやつでも使われているけれど、どうしても原理が理解できないのは立体的に見えてしまうやつだ。物理的には平面なのに、視覚的にはあたかも奥行きがあるように見えてしまうのは、どういう原理なんだろう。

まあ、それが簡単に分かってしまえばホログラムの存在意義がなくなってしまうけれど。偽造防止のために付けられているものが簡単に偽造できてしまったら意味がない・・・と書きかけて、実はその気になれば割と簡単にできてしまうのかも知れないとも思った。たとえば、高額ハイウェイカードの偽造が多く出回ったため、ホログラムなどの偽造対策がされていない古いハイウェイカードは利用中止になった。が、すぐにホログラム付きの偽造カードも出てくるぐらいだし。



ナタデココと紅茶キノコ
2001年5月21日(月曜日) くもり

わたし、ナタデココってやつが大好きなのだが、それをどうやって作っているのかは今まで余り気にしたことがなかった。ココナツミルクを発酵させて作っている、というところまではどこかで聞いたことがあって知っていたが、酢酸菌を加えて出来た膜がそれなのだそうだ。そこで「酢酸菌」を検索してみたら、「紅茶キノコ」の話が出てきた。あれも酢酸菌の一種であったらしいが、何だかとてもレトロな響き・・・いまでも世の中に存在するのだろうか、「紅茶キノコ」などという怪しげなものが。

紅茶キノコが一過性のブームであったなら、ナタデココも似たようなものだったと思う。ナタデココはいまでもスーパで売られているけれど、何年か前に猫も杓子もナタデココという状態が発生した記憶がある。日本で流行が起きたため、その輸出元である東南アジアの生産者は生産力を増強すべく設備投資を行った・・・と思ったら、途端にブームが終焉を迎える。終わりゃ用済み、莫大な借金だけが残ったという話を聞いたような。日本の流行なんてそんなもんだ、流行からずっと続いているものが幾つあるというのか。

17日の「ニキシ管」で紹介した「謎の数値表示部品」。これの名称をご存じの方がいれば教えていただけないだろうか。「たしか『なんとかトロン』だった気がする」という情報が有力なのだけれど、誰もが明確には覚えていない。「ミニトロン」だという説もあるが、それもはっきりとしない。



ダム
2001年5月20日(日曜日) はれ

特に意味は無いが相模ダムからの眺め。ダムのある場所って好きなのよね、何となく。辺鄙きわまりない場所にあって、遠くからの眺めは良いのに近くへ寄ると中途半端に汚くて、併設されている発電所の設備や送電線が景観に溶け込まず露骨すぎて、水死体でも浮いてきそうな色の水がそこはかとなく不気味で、下を見下ろすと自分も水死体になってみようかと思ったりするも、意外と助かりそうな気もして。このどうしようもなさが、とってもいい感じ。

ぜんぜん関係ないが、神奈川県に来るまで「相模」って「相撲」だと思っていた。



意外なことに
2001年5月19日(土曜日) はれ/俄雨

「モザイク消し」

これが、この一週間で検索エンジンから突撃実験室に辿り着いたときの検索キーワード出現頻数第一位。一線を越えるアノ部分が見たくてしょうがない、そんなエロティシズムの心にこそ、何によりも人を動かす力が秘められていることを示唆する一つの証左であると解釈すべきなのだろうか。あの記事を書いたことを今更ながら後悔している、ということではないが、不器用なわたしがこういう集客力に期待して意図的にモザイク消しのネタを作れるはずがないことは、念のため断っておきたいと思う(笑)

統計を取ってみると、こればかりでなくエロ系のキーワードがやたらと多い。どこかでたまたま使ったエロな用語が引っかかってしまうのだろうが、エロそのものを主体としたコンテンツはありませんので、悪しからず。



味噌汁
2001年5月18日(金曜日) はれ

いえどういたしまして、「うどんアタック!(仮称)」さん(昨日の続き)。

弊サイトの実験ネタを見て「食べ物で遊んでいる」と思う方もいるようなのだが、それは誤解だ。作ったものは全て食べているし、やる前から絶対に食べられないと分かり切っているようなものを敢えて作ったりはしない。あくまで、ちょっと変わった調理方法を実践しているだけである。平素の食事を作る際にも通常は作らないようなものを作ることがあるけれど、どうしても食えなくて「ごめんなさい」したのは過去に二度だけあったと記憶している。まあ、そうなれば命あっての物種だと諦めるしかない(笑)

最近、味噌汁の新しい可能性を探って様々なものを入れてみているのだけれど、このことによって発見できたことは、味噌汁はファンダメンタルかつオーソドックスなものが一番うまいということだけだった。色々と具を入れてみると、味噌汁ではなく具の味噌汁煮みたいなものができてしまう。味噌汁は飲むものであって、まかり間違っても食べるものではないから、具が多すぎる味噌汁は邪道なのだ。結局、わたしは豆腐と油揚げの大豆万能主義な味噌汁が一番好き。



ニキシ管
2001年5月17日(木曜日) はれ

不定期版・今日の猫模様。嫌われちゃった...

何となく逆リンクを辿っていて見付けた「うどんアタック!(仮称)」さんに、ニキシ管の話が出ていた。ニキシ管が何のことか分からなくても心配はいらない。昔は測定器などに使われていたので(職場にニキシ管の周波数カウンタがあったりして)、古いSF映画などで見たことはあるかも知れない。しかし、それをニキシ管と認識できない人間が世間のマジョリティであり、「ああ、74141 もレールで在庫してるよ」とか素で言っちゃうニキシ管マニアは特殊な存在であると・・・信じたい。

ニキシ管の話を読んでいて、職場の机の抽斗に謎の数値表示部品が眠っていたことを思い出した。ニキシ管の時代と7セグメントLEDの時代の過渡期に存在していたと思われ、名称すら分からないが、表示の原理は簡単なものだ。いわば「7セグメント電球」で、表示部をさらに拡大すると日の字型に糸のようなフィラメントが張ってあることが分かると思う。電圧をかけるとフィラメントが橙色に光って数字を形成するそうだが、実験しても残念ながら光らせることができなかった。

ニキシ管が欲しくなった? Google に「nixie tube」と入れてみたら、海外では扱っているところもあった。



コダワリ
2001年5月16日(水曜日) くもり一時あめ後はれ

とある掲示板に「あなたのこだわりは?」みたいなことが書いてあった。0.3秒ほど考えた結果、

この三つが頭に浮かんできた。待てよ。これだから、合理的に割り切れず、また離散的な値に収まらないようなもの、具体的に言えば恋だの女だのといった問題の扱いには滅法弱いのかも知れないと改めて感じ、とっさにこう答えてしまった自分が途端に悲しくなってしまった次第だ。で、上記のリストに一つ付け加えるとすれば「コダワリに固執するあまり、ヘンコにはならないこと」か。まあ、言うは易し。どこで譲るのか、というポイントが最も難しいところ。



じゃ信金とか信組は?
2001年5月15日(火曜日) はれ

銀行に勤務している人は銀行員なのか、それとも会社員なのか・・・なんて話を書いていたら「信用金庫」や「信用組合」に勤務している人は何になるのだろうという疑問も出てきた。信用金庫や信用組合も、表向きは銀行と似たような店舗を構えて、銀行とよく似た仕事をしているように見える。けれども、これらは営利を目的として金融事業を行う組織ではなく、あくまで地域の組合員に金融サービスを提供する「協同組織」なので、銀行とは似て非なるものなのだそうだ。

したがって、会社でもないから信用金庫や信用組合に勤務する人を「会社員」というのも変な気がする。もし、そういう人が何らかの理由でマスコミに紹介されるときは、なんという肩書きが付くのだろう。「信用金庫勤務」なんかでも良いが、そういう会社ではない組織の職員をより抽象的に呼ぶときは「団体職員」が正しいような気もする。そういえば、某親方日の丸系ノンバンクの内定が決まったと言ってた友人よ。君が不祥事を起こすと、どういう肩書きで紹介されるのだ?

考えてみたら、金融絡みの組織には一体どういう形態の組織なのか良く分からないところが多いと感じるのは、わたしだけではないだろう。そういえば、ガキの頃によく見かけた「相互銀行」ってどういう銀行なのだと思っていたら、いつのまにか無くなっていた。それもそのはず、相互銀行は第二地方銀行に変わったからだが、文字通り消え去ったところも多い。徳陽シティ銀行や京都共栄銀行、東京相和銀行といった、聞き覚えのある銀行は、相互銀行が前身だ。

この時代で最も分かりやすく健全な経営をしている金融事業は、大手サラ金かも知れない。



銀行員は会社員?
2001年5月14日(月曜日) はれ

不定期版・今日の猫模様。夕暮れどきの手持ち撮影は難しい・・・1/2秒だけじっとしててね。

ある殺人事件のニュースで、被害者の職業が「銀行員」となっていたのを見てふと思った。銀行に勤めている人ならそれはそれで間違っているわけではないが、何らかの会社に勤務している人ならば、職業は「会社員」とするのが普通だ。銀行に勤めている人だけを、マスコミが特に「銀行員」とするのはどうしてなんだろう。ひょっとして、銀行は商法とかに基づいて設立される会社ではない、といった理由で、そこに勤務する人を「会社員」と呼ぶのは正しくないとされているのだろうか。

とても不思議に思えてきて、取り敢えず手元にある預金通帳にはどう書いてあるのか調べてみた(通帳には正式名称が書いてある)。すると、三和銀行の通帳には「株式会社三和銀行」と書いてあるし、第一勧業銀行の通帳にも「株式会社第一勧業銀行」と書いてある。東京三菱銀行も横浜銀行も、やっぱり株式会社だ。どうやら銀行はどれもが株式会社のようだが、普段は銀行を呼ぶときにいちいち「株式会社」と頭に付けたりしないし、銀行の Websiteにすら「株式会社○○銀行」とは書いてない。

銀行には、「株式会社」をあまり明示したくない変なコダワリでもあるのだろうか。それに、マスコミが特に「銀行員」だけを「会社員」から区別する理由はやっぱり分からない。ほかに会社勤務者であっても、マスコミが「会社員」に含めない職業といえば現場作業系に多い(土木作業員とか)と思うが、ホワイトカラーで区別されるのは金融系ぐらいか。「会社員」も曖昧な言葉なので、仕事内容をより詳しく説明するという意味では正しい気もするが、そこまで明らかにする必要があるとも思えない。



雑木林
2001年5月13日(日曜日) はれ

今週末は、何もやる気がしなくて思いっきりのんびりと過ごしてみた。晴天に魅せられて多摩の方まで出かけてゆき、散歩してみたり、沈みかけた夕日を眺めてみたり。誰にも邪魔されず、写真を撮ることもなく、何も考えないで景色を眺めるのは、すごく久しぶりのことのような気がする。とても気持ちが良かった。もっと暑くなったら、もう少し明るい気持ちで同じことをやってみよう。わたしは思いっきり暑い方が好きだ。

これでもかというほど日差しが照りつける日に、アスファルトの照り返しに嫌気がさして何となく雑木林の中に入ったりすると、ガキのころを思い出す。そこだけ変に涼しくて、薄暗くてじめっとしているところが妙に不気味に感じられて。色あせて読めない謎の立て札とか、樹木に撒いてある意味不明の縄なんかを見付けるたびに、自分なりの理由付けをして一人で怖がったり。そのうち日が暮れだして、脳裏に一抹の不安が過ぎるころ、どう通ってきたのか分からない経路でまたアスファルトの道路に戻るのだ。

蚊に刺されまくって、二度とこんなところに来るものかと思いながら、暑い日には何故かまた来てしまう。



拷問に適切な電流は
2001年5月11日(金曜日) くもり/はれ

極めて個人的ながら、トレンドの風が吹きまくっている髭ガンダムの続きを借りに行ったつもりが、気が付くと佐々木功「男の詩」なんていうCDも一緒に借りていた。収録曲を見て何か微妙に間違っているような気もしたが、いまさら何を失うものがあるのかと誹られ、あるいは同じ言葉で宥められながら過ごしてきた人生には最適の選曲ではないか。「白骨はくらやみの中で/きのうの歌を/明日も歌うよ」と括られる、枯木霊歌なんて最高というほかない。

むかつく事があって、「椅子に縛ってスライダック繋いでやろか」と言ってから思った。人体に電気を流すことで苦痛を与えて拷問するときは、どのぐらいの電流が最適なのだろう。電気椅子による死刑ではないから感電死させてしまってはいけないが、叫び、呻き、身を捩って暴れる程度には苦痛を感じてもらわないといけない。検索エンジンで調べてみると、

といったことが書いてあった。直流よりも交流の方が危険なのは感覚的に分かる感じがするが、商用電力の周波数付近が人体に悪いというのはちょっと意外だ。心室細動の起きやすさと関係があるのかも知れない。そういえば、エジソンとテスラはそれでモメていた。。高周波で死なないのは、たぶん表皮効果のため神経とか心臓には流れないためだろう。ちなみに、13MHz 300Vp-p に接触した皮膚は火傷になった経験がある。

電流を流す時間にもよっても違うだろうが、電流と人体への影響の関係は概ねこんなところらしい(どうやって調べたんだ?)。これがどの程度かというと、LED には 20mA 程度の電流を流すのが普通だ。LED たった三個分の電流で死ねる人間は、わりとヤワなものだ。関係ないけれど、もっと強烈な電流を流せば、筋肉がフルパワーで収縮して骨が折れることもあるそうだ。そう考えると、人間の潜在的筋力はなかなかのモノだと思う。

結論として、電極を繋ぐ身体の部位によっても効果は違うだろうが、拷問に適切な電流は 20〜30mA というところか。皮膚の電気抵抗は常に変化しているから、スライダックとかを使って印可電圧だけに注目するのは危険かも知れない。電気を使って拷問を行うときは、定電流回路を用いて安定した直流を流すのが安全だろう。そもそも拷問において安全性が考慮されるべきなのか、という疑問は依然として残るけれど。



タイ米とか
2001年5月10日(木曜日) くもり

いつぞやに米騒動があったときに、ブレンド米は不味いとか、タイ米は日本人の食生活に適さないといった話があったのを覚えているだろうか。ところで、タイ米は本当にそんな不味いものなのかと思い、長粒種100%のタイ米を食べてみることにした。どうやって調理するのが正しいのか良く分からなかったので、取り敢えず炊飯器で普通に炊いてみた。炊飯器から出てくる蒸気の独特な香りを楽しみながら炊きあがるのを待っているあいだ、色々と写真を撮ったので、結果は掃き溜め写真館ネタにでもする予定。

本当は今日書こうと思っていたのだけれど、気苦労の多い一日に疲れ果てたのでやめた。リキの入った苦情電話はこれまでに何度も処理しているが、過去の記録を押しのけて一躍首位の座に躍り出た苦情電話の対応をする羽目になったりと。わたしも人の子だ。ミシミシと音がするほどの力で電話の受話器を握りしめ、わなわなと震えていたのはキレる寸前であったからだろう。にも関わらず、最後まで穏当な言葉を使い続けられたのが信じられないぐらいだ。受話器を置いたあとは、もう笑うしかなかった。



ひげ
2001年5月9日(水曜日) あめ/くもり

不定期版・今日の猫模様。折れてんのか、こいつ?

味噌汁の出汁を取りつつ、髭ガンダムを見ながらネギを刻んでいたら、指を刻みかけた。いつぞやに包丁でバッサリやっちゃったときの教訓が全く生かされていない。そのときもアニメを見ながらネギを刻んでいたと記憶してる。色んなことを同時にやるすぎるからいけないんだけどね、そもそもは。

髭ガンダムがテレビで放送されていたときは忙しくてちゃんと見られなかったので、ビデオを借りてきて見直していたりする。話の本筋とは何ら関係がなく、敢えてやる必要のないと思われる全裸シーンとかキンタマ直撃系のネタが無用に多いと思うのは気のせいか。それはともかく、真剣に見ると何となく泣けてくるね、これ。今までアニメで目頭が熱くなるようなことはあり得なかったのになあ。以前よりも少しばかり素直になったというか、角が丸まってきた証拠か?

泣けるのも良いが、「ジャングルはいつもハレのちグゥ」がツボを直撃。火曜日の18時が楽しみでしょうがない。



心の垣根はどこにある?
2001年5月7日(月曜日) はれ

とある駅のスカレータを下っていたときのことだ。ふと下の方に目をやったら、車椅子に座ったままエスカレータに乗っている男性がいた。随分と器用なことが出来るものだと関心していたら、車椅子の付近からやたらと威勢のいい怒鳴り声が聞こえてくる。誰かが喧嘩でもしているのかと思って声のする方に目をやると、どうやら車椅子に乗っている男性と、エスカレータで近くに立っていた通行人とが、何らかの原因でモメているようだ。というか、車椅子の男性が一方的に怒鳴り散らしている。

「オマエみたいなヤツの薄汚い手で触んな、クソ野郎っ」

要約ではない。本当にそう怒鳴り散らしているのだ。車椅子の男性の罵声を聞いていると、エスカレータに乗ろうとしている車椅子を発見した通行人が気を利かせ、乗降を手伝おうとしたことが逆鱗に触れたらしい。確かに車椅子の男性は、神業のようにエスカレータに乗っていたから手伝いが不要だったことは良く分かる。あくまで想像だけれど、俺はこういう身体でも街ぐらい一人で歩けるんだという自意識が人一倍過剰で、そんなプライドが、通行人のありがた迷惑を許せなかったというところなのだろう。

罵詈雑言に満ちあふれたエスカレータが下の階に下りきるまでには、もしわたしが同じ状況で怒鳴られた立場なら、ヤツの車椅子を横倒しにし、「文句があったら、お前が理想とするように自分の力で立って殴りに来い」と言い残して立ち去るのが面白いかな、といった後処理の段取りが、既に頭の中で熟しつつあった。だが、そう通行人は違った。理不尽な罵声を一方的に浴びせられていたにも関わらず、無言で振り向きもせず立ち去った通行人の背中に、大人というものを学んだ今日この頃である。

といった結論で終わるわけがないことは言うまでもない。こういう車椅子野郎を見れば、親切のあり方について考えを変えざるを得ない。健常者と障害者との共生できる社会など、所詮は偽善者のみが夢見るユートピア幻想でしかないのではないか。さらに極論を言えば、身体障害者なんて連中は、被害者意識と被保護者意識と、それらに加えて極度に倒錯した強烈なプライドで何とか自己を保っている程度の、極めてタチの悪い連中じゃないのかと思うのだ。全ての身体障害者がそうだというわけではないけれど。

それは障害者差別主義か、と問われればまったくその通りである。現在では、残念ながら彼らには差別されなければならない理由がある。良くも悪くも、特殊な啓発をせずとも健常者が街で見かける身体障害者に対して非常に気を遣っていることは確かだと思うが、むしろそれは腫れ物にでも触るように扱っているというべきだろう。どうしてそこまで変に気を遣うのかといえば、どういうことをしたときにどういう結末になるのかが、まったく予想できないから下手に関わりたくない、という意識が厳然とあるからだ。

通行人の手伝いを罵詈雑言で拒絶する輩は極端すぎる例だとしても、常識では理解できない反応を示す身体障害者を街頭で見たという方も少なくないのではないかと思う。そうした前提が、わたしだけの偏見でないとすればだが、一般に身体障害者が腫れ物として扱われても仕方のないことである。もちろん、それを肯定しているわけではない。けれども、だからこそ学校で差別の不当性を教え込んだり、「指一本で出来る親切があります」といったテレビCMをプロパガンダ的に流すことで何かが解決するとは思えないのだ。

存在すべきでない心の垣根が親切の手をさしのべる側にあることも確かだ。だが、そこにあるのは垣根の半分でしかない。残りの半分は、より堅牢でタチの悪いものとして、親切を受ける側に、存在しているではないだろうか。



二種免許って
2001年5月6日(日曜日) はれ

日本の二種運転免許制度というものに疑問を感じずにはいられない、という人も多いのではなかろうか。特に都市部のバスやタクシは、多くが神風系の運転技術を披露してくれる。四輪ならまだしも、バイク乗りなら猫のような動きをするタクシに殺されかけた経験を持つ人は少なくないのでは...

京阪バスの右折方法 京阪バスとか京阪宇治交通とか、京阪系列のバスといえば運転が荒っぽいことで定評があるが、これは思い出すたびにムカっとくる一件。先日、実家の近くで信号のある交差点の横断歩道を渡っていたときに、右図のように突っ込んできた京阪バスに轢かれかけた。

京阪バスがやたらと小回りに曲がってきたのを見ていたので注意はしていたのだけれど、横断歩道半ばに人がいるのだから止まるものだろうと思っていた。ところが、京阪バスは止まる気配を見せない。危ないだろと運転手を鋭く睨み付けてやったら逆に睨み返され、路側とわたしの間の隙間をそのまま通過していくではないか。バスのように車体の長い車が小回りすると後輪の旋回半径は前輪よりも小さいわけで、半身引いたあとに後輪付近が目の前を際どく通過していったときは怖かった。

この京阪バス、わざとやったとしか思えない。おまけにディーゼル排ガスを思いっきり浴びせられたものだから、もうわたしはキレ気味だ。追いつけるものなら追いかけてその場で京阪バスに文句をつけてやるところだが、徒歩では京阪バスに勝てるはずもなく、京阪バスにはそのまま走り去られてしまった。思い出すたびに頭に来るので名指しは無論のこと、「京阪バス」を検索するとこのページが引っかかることを願って「京阪バス」にはたっぷりと重み付けをしておいたことで、ささやかな復讐を果たしたつもりである(笑)

深夜に流しのタクシを拾った。その場所をテリトリとする運転手なら誰でも知っている場所を行き先として告げると、珍しく物腰の弱い運転手曰く「お客さん、すみません、この辺の道はまったく分からないので道を教えて頂けますか」と。話を聞いていると「今日が初めての乗務なんですよ」という。手を挙げて止まったときから、ぎこちない止まり方をするなと思っていたが、希にみる丁寧な運転だ。この運転手さんもいずれは無愛想な運ちゃんになり、神風系の運転をするようになるんだろうか・・・

そんなことを思いながら、好感の持てたのでお釣りは断った。日本のタクシも、チップで商売すれば上品な運転手が増えると思うんだが。



ジャッカルの日
2001年5月5日(土曜日) はれ

古い作品だけれど、フレドリック・フォーサイス作「ジャッカルの日」を読了。寝る前に少しだけ読むつもりがいつのまにか耽読モードに入ってしまい、最後の一文を読み終えて本を閉じてから、窓の外では陽が昇りつつあることに気付いて我に返ったときの気分、というのか。徹夜で読みふけってしまったことに対する後悔の念と一種の感動とが複雑に絡み合い、そのまま寝る気にもなれずに取り敢えず紫煙を深く吸い込んで落ち着いてみたりする、あの言いしれぬ感覚を久々に味わわせてくれた作品だった。

フランス大統領ドゴールの暗殺を請け負った殺し屋ジャッカルの画策と、その企てを何としてでも阻止すべく正体不明の暗殺者を全力で捜査する官憲の闘いを極めて仔細に追い、ディテールを端折らず、かつ余計な脚色も付け足さないことで作られるリアリティは見事なものだ。どこまでが現実でどこからが虚構なのかが区別できないため、大部分はフィクションだろうと頭では分かっていても、潜入取材で得た「あなたの知らない世界」のドキュメンタリに限りなく近いフィクションという趣がある。

個人的に最も楽しめたのは、ドゴール暗殺の段取りを用意周到に整えてゆくジャッカルの足取りだ。これぞまさしくプロの名に相応しいと思わせる数々の合理的な判断と沈着冷静な行動には、架空の人物だとはいえ尊敬さえしてしまう。お金を頂いて仕事をしているという広義の意味では、わたしも紛れなくプロの技術屋である。しかし、何か特定の分野で、また別の意味で「やつはプロ」と言われるようになってみたいなー、なんてね。



横浜に
2001年5月4日(金曜日) はれ

昨日は某サイトのオフ会に参加して大阪市内で遊んだあと、いったん実家に戻って支度をしてから横浜に向かった。弟を乗せ、京都南より名神高速に乗ったのは 3日の22時37分。連休の渋滞を避けるため敢えて深夜に走ることにした次第、この時間になると京都南までの一般道も高速道路もガラガラで極めて快調だ。ところが、愛知県内に入ると情報掲示板に「御殿場〜大井松田 事故通行止」などという不吉な情報が出始めた。御殿場はまだ先なので、それまでに通行止が解除されないかと期待してみるも・・・

願いは叶わず通行止は続き、御殿場で強制排出されたのは午前3時過ぎ。迂回路となった国道246号線は、東名から溢れ出た車で渋滞しているに違いない。箱根の山中を突き抜け小田原厚木道路へ迂回するという手も考えたが、それではかなりの遠回りになる。やっぱり東名とほぼ平行して246号を走ることにした。案の定、ジワジワと動いてはいるが246号はトラックやら夜行バスやらで渋滞している。一時間以上かかって、大井松田から再び東名に乗ったころには、暁の空は青白く輝きつつあった。

横浜町田で東名を降り、自宅に到着したのは午前5時過ぎ。夜明け前には到着するつもりだったのになー。



裁判所
2001年5月2日(水曜日) あめ

不定期版・今日の猫模様

多事毒論も連休モードで、暫く更新をサボっていて申し訳ない。連日、家に帰ると午前様だったり、親が旅行に行ってしまって家事が回ってきたりと、なんだか妙に忙しかったり(笑)

弟が、「裁判を傍聴しに行く」と言い出したので、大阪地裁と大阪高裁(同じ建物の中にある)へ行ってきた。大学の課題として公判を傍聴してこいと言われたらしく、わたしも付いていったのだ。法廷の重々しい扉を初めて開けるときは少し緊張するが「法廷ガイド」という傍聴パンフレットが置いてあるし、ほかにも法学部の学生と思われる人間が多くいて、想像していたよりも「お友達もお誘い合わせのうえお越しください」という感じの和やかな雰囲気だ。関係者と思しきヤクザのおっさんとかもいるにはいるが。

民事訴訟関係の課題らしいので、取り敢えず民事(立替金とか不当利得とか)の公判を何件か傍聴したのだけれど、残念ながら勉強になるというか聞いていて面白い公判はない。書類の確認をやって数分で終わり、あとは次回公判の日程打ち合わせという程度のものだ。で、やっぱり聞き応えがあるのは刑事。覚醒剤取締法違反、窃盗、連続強姦、などなど。思わず同情したくなる半泣きの被告人もいれば、執行猶予に期待できるはずもなく、「いかにも俺はワルや」という感じで開き直っている常習者とか。

中でも目を引いたのは、覚醒剤取締法違反の裁判だ。被告人は病気がちで収入も乏しく、女房がほかに男を作って家出した挙げ句に女房の父親から暴行を受け、精神的な苦しさの余り覚醒剤に手を出してしまったことについて、やたらと大仰な口調で被告人に対して質問する弁護人。あいつ友達いないんじゃないのかと思ってしまうほどに威圧的な態度で、覚醒剤使用の事実を激しく非難する若い検察官。その弁護士の巧みなトークを聞いていると、検察官の主張は綺麗事としか思えなくなってくる。うーん、お見事だ。



突撃実験室