多事毒論(2001年6月分)


フォーサイスとか
2001年6月30日(土曜日) くもり

芝浦埠頭から眺める、レインボーブリッジ。レインボーブリッジは、首都高速台場線と一般道の二階建て構造になっている。芝浦側には、一般道が橋から地上に降りてくるための巨大なループがあるので、見方によっては橋だけでなくループ部分を入れてみたりすると迫力がある(はず)なのだが。ワイドコンバータでもないと撮れんな、こりゃ。

今さらって感じがしないでもないのだけれど、最近、フレドリック・フォーサイスばかり読んでいる。最初に読んだ「ジャッカルの日」が予想以上に面白かったため、次に「ネゴシエイター」を読んだのだが、これには少し裏切られた気分。面白いことは面白い。けれども、リアリティを追求しすぎたためか、細かいエピソードを仔細に書きすぎ、登場人物の数が多くなりすぎたために、かえって盛り上がりと解決を弱くしてしまった印象だ。

それに、世の中がちょっと進みすぎたのかな。ソ連情勢にKGB逸話、それにCIAネタは、やや古めかしくてむしろ滑稽な感じもする。むかしの米ソ関係のように、地球規模の明確な対立構造を前提とした作品は数知れないが、残念ながらいまとなってはあまりリアリティがない。現実の世の中からそういう大きい対立が消えたわけではないのだろうが、一時と比べれば下火になっているし、ややこしい対立があるとしても内紛や小国間の衝突といった局地的なものが殆どだ。そしてこういったものの中身は概して見えにくい。

概要としては何となく分かっているけれど中身の細かい部分はあまり分からない、ということは、このあたりをネタにした小説は面白いはずで、どこまで本当でどこからが作り話なのか分からないフォーサイス的なノリで誰か書いてませんかねえ、そういうの。



料金通知
2001年6月29日(金曜日) はれ時々くもり

またやっちまった・・・前に観た映画のビデオを借りてくるっていうドジを。
監督や配役はおろか題名すら確認せずに観てたりするからかなー。。

ISDN回線には交換機が通話料金をエンドユーザに通知する機能があるのだが、NTT以外の事業者を利用した場合は通知が行われないようだ。うちの場合、市内通話では NTT東日本を使っているので通話料金が分かるのだけれど、フュージョンコミュニケーションズを経由する県外市外の通話では料金の通知が来ない(前に使っていた日本テレコムもそうだったと思う)。通話後に料金が分かったからといって特に実用的な価値があるわけでもないのだが、長電話のあとには一応いくらかかったのか知りたくなるものだ。

フュージョンコミュニケーションズの設備がタコで通話後すぐに通話料金の計算ができないのか、それとも長距離系の事業者から NTT東日本に向けて通話料金を通知する方法がないのか、その辺の事情は分からない。まあ、NTTのことだから、NCC事業者との相互接続のインタフェースが極めて特殊なものになっていて、この時代に及んでも統一性の無いインタフェースを強引に繋げているから料金の通知ができない、ということも十分に考えられる。昨年のものだが、旧郵政省のとある議事概要に書いてあることを読む限りでは、案外そんなところかも。



ねこ
2001年6月27日(水曜日) くもり後はれ

今日の猫模様。階段を活用してノビてた
分かったから、もうほっといてくれよ・・・すみません。

これはねこ好きの本能というやつなのか、街でにゃんこを発見するのは上手い方だと自負しているし、その姿を認めれば自然の摂理にただただ従うが如く、透かさず近寄っていくクセがある――ときには「ねこ〜」と叫びながら。年甲斐もなく心底嬉しそうな声を上げ、人目も憚らずに駆け寄っていく姿は、挙動不審者にしか見えないと目撃者は言うが。どう見られようと構わん、かわいいものはかわいいのだ。

しかし、ネタに困ったときは君らが頼みの綱だ、猫様たちよ。



ついてない
2001年6月25日(月曜日) くもり時々はれ一時あめ

有給休暇消化のため会社をサボる。で、出かけた帰りに交通違反で七千円也。
ったく、ついてねえ...と考えると腹立つので今日はこの辺で。



湯河原とか
2001年6月24日(日曜日) くもり

にゃんこ後ろ姿です。念のため。

友人と温泉に浸かろう、ということになったので昨日は日帰りで湯河原まで行ってみた。こごめの湯という町営浴場を利用して、入湯料は1,000円。露天風呂は竹林の中に作った感じで雰囲気はそこそこ良かった。休憩室は温泉街を見下ろす立地になっていて景色は良かったのだが、家族連れが弁当を広げていてちょっと騒々しかったのが玉に瑕かな。まあ、こんなもんだろう。

行きは東名と小田原厚木道路で真っ直ぐ行ったのだが、帰りも同じでは詰まらないかなと思って芦ノ湖スカイラインで御殿場へ抜けてみた。晴れていれば富士山などの景色が美しいはずだったのに、凄い濃霧で何も見えず。さながら雲の中を走っているような感じで、景色どころか道がどこにあるのかすら分からないほどだった。それはそれで幻想的な雰囲気だったのだけど、あそこは大部分がけっこう高い有料道路だ。濃霧の見物料としてはちょっと高かった。天候と標高を考えれば十分に予想できたことで大失敗(爆)

スカイライン系は良いとしても、神奈川県東部〜伊豆のあたりって、どうでも良いような細かい有料道路が多すぎると思う。断続的にでてきて数百円単位で課金されていくから、そのうち良い金額になるんだよね。



にゃんこ
2001年6月21日(木曜日) あめ

鈴 鈴と言えば、そう、にゃんこである。
「お中元」と書かれた熨斗紙を付けて、こいつはやってきた。
しかも、なんというか、全身全霊全開でおめでたい

密やかに打ち出の小槌なんかもっちゃったりして、
そんな文句無しにおめでたい、今日の猫模様。


めでたさを表す象徴物を片っ端から挙げたついでに、「デブ=めでたい」という安直な論法で堂々と攻めてくるところもまたよろしい。ちなみに、実際にこういう体型をしている職場の同僚に意見を伺ったところ、次のようなコメントをいただいた。

「あてつけとしか思えん」

いまは職場の机に陣取っているのだが、この独特の雰囲気と大きさゆえ、存在感はありすぎるぐらいある。



ネット銀行
2001年6月20日(水曜日) あめ後くもり後はれ

最近、天候の変わり方が激しすぎ。毎日記録してる身にもなってみろ、くそ。

ジャパンネット銀行に口座を開設したので使ってみた。割と合理的なシステムになっていて、なかなか便利に使えそうな感じだ。

ちょっと疑問に思うのが、利用者認証の方式だ。ATM 用の暗証番号と、ネットバンキング用のログインパスワードが設定されているほか、まず暗記不可能なIDコードというものがある。IDコードとは、口座開設時に送られてくる乱数表みたいなものだ。金が動く取引を行おうとする度に異なる部分をその表から選んで入力することが要求されるため、IDコードが書いてあるカードを常に携帯していなければ(あるいは気合いと根性でで覚えでもしない限り)利用できない仕組みになっているわけだ。しかし、どうしてこんな回りくどい認証方式を選んだのかはいまいちよく分からない。

安全を考えれば、取引時にはログイン用のパスワードよりもさらに高度な認証をすべきであることは理解できるが、この類の秘密鍵を紙に書いておくことが保安上よくないことは常識だ。銀行の説明では、IDコード表を所持していなければIDコードを知り得ないので、これを問い合わせることで本人であることが確認できる、ということになっているのだが、表を所持させるという時点でちょっと間違っている。拷問にでもかけない限り人の記憶は盗めないが、文字になっていればいくらでも盗めわけだから、暗記できる程度で比較的複雑なコードを設定した方がよほど安全だ思うのだが。

そういう意味では、印鑑なんてすごく不安全だよなー。



記念病院の謎(後編)
2001年6月19日(火曜日) はれ時々くもり一時あめ

○○記念病院って何を記念しているのだ、ということ書いていたら、米国にもやたらと多くの「記念病院」があったことを思い出した。当たり前ながら英語で "○○ Memorial Hospital" と表記されているわけだが、これを直訳すれば「記念病院」だ。Google で検索してみると、いっぱい出てくる。これを見ていて気付くことは、「地名+Memorial Hospital」というパタンもそこそこあるが、日本ではまず見かけない「人名+Memorial Hospital」も相当数あることだ。

人名系記念病院のサイトの一部にはその由来(創設者の功労に関するものが多い)が書いてあり、やっと記念病院が記念しているのであろう事柄に辿り着いて、妙に新鮮さを感じてしまった。で、この続きを書こうと思いながら昨日は力尽きてしまったのだが、今日になってみると何を書こうと思っていたのか全く思い出せない。やや長くなりそうだったからわざわざ分割したはずなのになー。どう繋げるつもりだったのかも忘れたが、絞めだけは先に書いてあった。まあ良いや、そのまま書いちゃえ。

メールアドレスを新たに作ろうとしたとき、自分の名前が既に使われていたためにやむを得ず後ろに数字などを付けて重複を回避するというようなことをする人も多いが、あれと似たようなことかも知れない。ある地域に「その場所の地名+病院」という名称の病院が既にあり、さてこれからオープンする新しい病院はどんな名前にしようか、ということを決める段階で「その場所の地名+記念+病院」とできあがってくるのだろう。「記念」のほかには「市民」とか「中央」とかもありがちだが、余り意味はないようだ。



記念病院の謎(前編)
2001年6月18日(月曜日) 晴れ/くもり

「○○記念病院」という名称の病院は数多いが、あれは一体何をどう記念しているのか、昔から不思議で仕方がなかった。

もしかしたら、病院の Website にはその由来が書いてあるかもしれないと思い、Google で「記念病院」と検索をかけてみたところ、福岡記念病院という病院が目に留まった。この病院の Website は、なんといっても kinen.or.jp という、まさにそのものズバリのドメイン名を使っているぐらいだから、そんじょそこらの記念病院とは「記念」に対する思い入れが一味も二味も違うはずだ、と思ったのだ(ま、それは冗談半分だけど)。

が、そんな期待とは裏腹に、同院の「沿革」には1965年の出来事として

福岡記念病院に名称を改め、病床数156床、外科および内科、胃腸科、小児科の医療業務を開始。

と、至って事務的に「そういう名称になった」と書いてあるだけで、どこがどう「記念」なのかということについては、まったく言及されていない。特別に記念すべき理由があって改称したのなら普通は書きたくなるものだが、そうでないところをみると、さしたる理由はないのかも知れない。ここばかりでなく、ほかの「○○記念病院」の Website を見ても似たようなもので、わたしが調査した限りでは「記念すべき事項」について明記してあった病院は、一件も発見できなかった。

同じような疑問を持っている方はほかにもいて、こちら名前探偵局というサイトにも記念病院に関する疑問が掲載されていた。このサイトによれば、「創設者の功徳、功績をたたえて」そういう名前にすることが多いとされているが、最終的な結論としては「深い意味は特にない」ということで落ち着いてしまっている。というか、最も多く見かける「その場所の地名+記念+病院」というパタンの名称では、地名は讃えらているとしても創設者自身はまったく讃えられていないように思えるのだが。

ちなみに、ここ横浜なら「開港記念病院」という病院が港の近辺にあっても良さそうな感じはするが、そんな病院は実在しない(この名称なら別に不自然だとも感じないんだけど)。実在するところでは「東戸塚記念病院」という病院が戸塚区にある。近くに住む人にこの疑問を投げかけたら「東戸塚という地名を記念して作ったと思っていた」と言っていた。やっぱり、この名称を見ればそう解釈するのが一般的だろう。

(つづく)




2001年6月17日(日曜日) 晴れ

オーディオの光ケーブルが短くて届かず、もう一本あるけれど困ったことにコネクタが違って繋がらない。そんなものをわざわざ買いに行くのも面倒くさいので、文具入れにあった目玉クリップで強引に繋いでみた。ちょっとズレただけで音が途切れるという、十分に予想しえた問題は予想の通りにあったりするが、一応音は出る。ま、触らなければ大丈夫ということで、取り敢えずはこれで使うことに・・・。

こいつは割といい加減な繋げ方をしても大丈夫みたいで、接合面が密着していなくても、3mm ぐらいの隙間なら何とか通ってくれる。通信用の光ファイバだと、そうはいかないもんなー。

Final Fantasy X とかバーチャルアイドルなんかに見られるようになった中途半端にリアルなCG人形は、そのうち慣れるかと思っていたが、いまだに好きになれない。セル画調のアニメなんかでは、描写が大胆に記号化されているから実物との乖離を考えずに済むわけだが、リアルさが一定限度を超えてくると、無意識的にその乖離を意識している気がする。リアルさも、実写の人物と見分けが着かないぐらいのレベルになれば良いのだが、チープな絵に、チープでない表情などの細部を無理やり加えてしまうから、ああいう気持ちの悪いものになるんだろうねえ。

リアルに作りすぎたキャラを想像すると、かなり嫌なものがある。毛穴の汚れが見えたり体臭が臭ってきたりしそうな美形男子が、少女マンガに出てくるとか...。



大食いさんに言いたいこと
2001年6月16日(土曜日) くもり

焼き肉ごちそうさまでした。でも食い過ぎ・・・ううぅ。

思うに、世の中には「普通の腹」と「特殊な腹」の二種類があって、わたしは前者しか持ち合わせていないから「特殊な腹」の人のペースで食事に行くと大変なことになる。店員さんも唖然とするほど食い、店を出たあとに、さらりと「んじゃ、第二段いこか」と言ってさらに食べようとる人。ラーメン屋をハシゴして一晩で何杯も食べ、もう食い過ぎで味も何も分からないのではないか、と思いきや、それなりに的を射た蘊蓄を述べてしまう人など・・・。

そのように、わたしの基準では何の躊躇いもなく「武勇伝」に分類されるエピソードを作り続ける人は何名かいる。武勇伝自体は結構なことなのだが、大きな問題は、当人らに自分の腹が特殊であるという自覚がまったくないことで、彼らの前では、わたしが極めて小食なヤツということになってしまうのだ。待て待て、それは断じて違う。生活の一環として三度の食事を摂るのではなく、もっぱら趣味として食べ、美味しそうなものを嗅ぎ分ければ腹に空きスペースが自動的に作られるあんたらの腹が特殊なだけやって。



サポートとか
2001年6月15日(金曜日) あめ

ふと、いままで自分がやってきた仕事を世の人はどう思っているのだろうと思って、勤務先である某プロバイダに関する感想や口コミ情報を Google で検索してみた。雑記で少し触れられている程度の話が多いけれど、数の上ではポジティブと解釈できる評価が圧倒的だった。とてもありがたいことだ。料金絡みの案件を除くと、お客さまの対応の大部分はわたしがやっているので、大勢の個人顧客がいる零細企業の現場担当者の宿命というべきか(*1)、会社の話題が悪いということは、わたしの印象が悪いということになるわけだから(*2)、そりゃもう心からお礼しなければならない。

しかし、その数だけを見て安心すべきではないだろう。あるものを自分が使ってみた結果、良かったと感じて人にも勧めることはままあることだが、いつぞやの東芝事件みたいに「開いた口がふさがらん」というレベルの問題があればともかく、細かい不満をいちいち書き立てる人はそれに較べて少ないはずだ。仮にあったとしても、その手は物事を針小棒大に解釈して無用に荒立てようとするネット告発系の趣味に走りがちだろうから、痛いだけで参考にはならない。極左でも極右でもない潜在的な評価は概して表に出てこず、実際のところは不満も少なくないと思う。

もっとも、この辺は言うは易しってやつで、この商売をやっていれば「最大多数の最大幸福」な対応はあり得ないとすぐに分かる。これは妥協でも諦観でもなく現実だ、なぜなら有形無形の外的な不可抗力的不条理要因がその実現を阻もうとするからからだ(真意は分かるよね、真意は?)。だから「概ね多数の概ね幸福」を目指すわけだが、どのレベルを「概ね」と言えば良いのか・・・。メールに返事すらよこさない企業もあるぐらいだから、来たメールには返事を書くというごく当たり前の行為をやっているだけで、取り敢えず「概ね」は達成できるような気もする、その内容が要領を得ているかどうかを問題とする以前に(苦笑)


(*1) その反面、独裁者よろしく仕事ができるから気楽で良いんだけどね。
(*2) ゆえに個人的なイデオロギーが仕事に出過ぎてることは自覚してます。




2001年6月14日(木曜日) あめ

一年ほど前から朝日新聞で連載されている、中坊公平氏のコラム「金ではなく鉄として」がけっこう面白くて欠かさず読んでいる。どこまでが真実で、どこからが謙遜なのか、はたまたどの部分に尾鰭が付け足されているのかは分からないけれど、昔からワシはダメなヤツやってんけどな・・・というようなことが、関西弁混じりで面白可笑しく書いてある。

中坊さんと言えば、誰も扱いたがらない案件に首を突っ込んでは、おおよそ勝てそうもない相手にケンカを売って最終的には勝ってしまう、どちらかといえば天性的な超人弁護士活動家だと思っていた。「道理は通すもんや」ぐらいの強気な発言をテレビで聞いたこともあって、ミナミの帝王に出てくる萬田銀次郎が弁護士として動いたらこういう人になるのかなと思っていたが、始めの方で語られることは、運動音痴で、病気がちで、要領が悪く、というヒーロ像にはあるまじき三重苦に関することばかりだ。

それをテコにして、と話が続けば「金」なのだろうがそうともならず、「金メッキ」することもなしに「鉄」のままで来てしまったのが、この人の魅力なんだろうね。



むむー
2001年6月13日(水曜日) くもり

昨日公開した卵実験の投稿、なかなか反響があるようで。リベンジマッチを画策中(笑)

お湯を沸かすとき、加熱中にもどんどん放熱することを考えれば、可能な限りの短時間で一気に加熱する方が効率が良くなるはずで、そのためにはヒータが消費する電力を最大にすれば良いわけだが、電池の厄介なところは、ヒータの消費電力を最大にすると回路全体の電力効率は絶対に 50%以上にはならないということだ。なぜかというと、ヒータの抵抗と電池の内部抵抗が釣り合っているときに電力が最大になるから、電池自体もヒータと同じだけ発熱するからである。

電池自体の発熱も利用すれば良いのだが、電池をヒータにするのはちょっと乱暴すぎるか・・



ハンセン病と精神障害者
2001年6月12日(火曜日) 低いくもり

実験室に投稿記事を掲載。乾電池でゆで卵(追試1)乾電池でゆで卵(追試2)の二つ。
茂泉さん、野口さん、ありがとうございました。オチにやられました(笑)

※ 久々に真面目に書いたらどえらく長くなったので、以下は興味のある人だけどうぞ。

司法がハンセン病患者の隔離政策は重大な人権侵害であったと認めた判決について、国が控訴を断念するという異例の対応をし、その結果として首相の株がさらに上がったことを鑑みれば、あれが単に司法上あるいは政策上の合理的な判断としてそうなったのではなく、背景には世論のコンセンサスと後押しがあったことは明白である(もっとも、国はあくまで控訴を断念したというだけで、熊本地裁判決で同時に指摘された立法の不作為の責任をも潔く認めたわけでないことは忘れてはならない)。

そのことを踏まえて非常に奇妙に感じられることは、隔離されるべき対象がハンセン病患者から精神障害者に変わった瞬間、世論も政治も掌を返したかの如く、まったく正反対の考えに転じようとしていることだ。ハンセン病患者の隔離政策が間違っていたことは大方の人が是認したところなのに、精神障害者なら何らかの理由を付けて隔離、もしくはそれに類することをしても構わないのか、といったことを言いたいのではない。あるいは隔離も必要かもしれないし、そんなことをしたところで何の効果もないのかも知れないが、そのことはここでは議論しない。

ハンセン病患者の問題が一段落してからたった数週間しか経過していないにも関わらず、児童刺殺事件の発生をきっかけに、慎重論よりも感情論が勝るかたちで「危険な精神障害者は隔離もやむを得ず」とも取れるような意見が噴出したことは、ハンセン病患者らが長年に渡り無用に隔離されていたことを世の中が真剣に受け止めていないことの証左である。司法は果断な判例を作った、国会にも責任があるのなら議員を選んだ国民にも無作為の責任があるのではないかとまで言っておきながら、根本的な問題として「なぜ隔離が是とされ、実行されたのか」ということには、あまり触れられようとしない。

精神障害者は、完治するハンセン病とは異なり、医者が治ったと判断して退院したあとも凶悪な犯罪を起こしうる可能性が高いから危険因子なのだという考え方もできるかも知れないし、実際になのそうかも知れない。しかし、有無を言わさぬ癩狩りと療養所収容が徹底して行われるに至った原因を探れば、当時の乏しい医学的知識(もちろん、当時の医学水準を現代のものと比較して責めるのはフェアではないが)だけに答えを求められるはずはない。最大の要因として「癩」というものに対する非合理な強迫的観念が、その原動力となったのではないのか。

たとえば、「癩は極めて感染力の強い恐ろしい伝染病であり遺伝する」といった知識は、根拠のない俗説を「医学っぽさ」で裏付けたことで確乎たるものとなり、似非医学的見地という極めてタチの悪い形で長年流布してきたに違いない。指が曲がったりする一見して気持ちの悪いハンセン病患者の身体的な症状も、偏見などを助長する原因となったことだろう。これまで、笑いのネタに過ぎなかった「キチガイは〜」で切り出される多くの話が、凶悪犯罪という裏付けを得て本格的に危険視されるようになったのだとすれば、精神障害者に対する見方にも同様の構図がそのまま当てはめられるはずだ。

いまなら、大方の人間がハンセン病に関係する当時の誤謬を指摘できることであろうが、デマに基づく村八分を実行していた時代から人間が進歩したのかというと残念ながらそうではなく、この類の話が形を変えながら一向になくなろうとしていないことは、次から次へと出てくる新興宗教の怪しげな理論や、民間療法とか健康食品の良く分からない効能といった例を挙げるまでもなく明らかなことだ。少し脱線したが、一時的な感情論から精神障害者に対する対策を叫ぶことは、ハンセン病の隔離政策という格好の反省材料をまったく無視することと同義と言えるのではないだろうか。

児童刺殺事件については、やるせないとしか言えないし、その被害者や遺族には言葉もない。しかし、いま仮に世論を納得させる方向で、一定の条件を満たす精神障害者は措置入院よりもさらに強制的な形で社会から隔離することになったとしよう。そのことによって 10年後あるいは100年後に、多くの精神障害者らがハンセン病患者と同様の数奇な運命を辿ることになり、訴訟を起こして国が敗訴することようなことはあり得ない、と言える保証はあるのだろうか。



車載火炎放射器
2001年6月11日(月曜日) くもり/俄雨

「死にたくなければ車から降りろ」
赤信号で停車していたら、突然ドスの利いた声がふりかかる。
恐る恐る視線だけを移動させると、そこには自分を鋭く睨み付ける銃口が!

というような事態を想定して開発されたのが、Blaster、防犯用の車載火炎放射器だ。カージャックに襲われたときは、スイッチ一つで車から強烈な火炎が噴射(←動画あり)され、カージャック犯を火だるまにしてしまうという極めて分かりやすいコンセプトは面白い。が、良いのか?これ。同サイトには、最判まで引用して、南アフリカでは正当防衛に使われる限り法的な問題はないと明記されているが、日本の感覚では悪質な私的制裁としか思えない。さすが、凶悪犯罪のメッカは、その辺の割り切りの良さが違う・・・。

(実は、かなり昔に Wired の記事になってたんだけど・・・「致死的でない」と言い切る辺りが凄い)

でも、見てると色々な妄想が沸いてきて欲しくなる。休日ともなればチンタラと進む歩行者のおかげで極めて通りにくい秋葉原の路地も、火炎をぶっ放しながら行けばストレス無く通れそうだ。むかつく車と並んだときにも一発お見舞いしてやれば素直になってくれるだろうし、パトカーに追尾されたときも楽勝で巻けるに違いない。捕まったときは、取り敢えず「俺の車はアフタファイヤが特に激しいんだ」とでも言っておけば許してくれるはず・・・ないか。



ロケとか隔離とか
2001年6月10日(日曜日) くもり/俄雨

場所柄、近所ではドラマの撮影が時々行われていたりするのだけれど、有り体に言ってしまえば良い迷惑だ。ドラマを作るに際してロケが必要なのも分かるし、大袈裟に言えば一種の公共コストとして受け入れなければならないのかも知れないが、生活道路が何の予告もなく封鎖されるのはやはり頂けない。交通整理要員も慣れたもので、当然の権利を行使するかの如く、かなり高圧的な態度で通行者を排除している。撮影スタッフは、自分らを何かの特権階級と勘違いしているのかと思うほどだ。

特に短いシーンの細かな撮影では、いちいち道路使用許可を取らないでやってしまうことも多いらしく、その上で態度がでかいとなれば、たとえロケ現場を強行突破しても問題はなかろう。個人的には、ゲリラ撮影が必ずしも悪いことだとは思わないが、心情的な問題として許可の有無に関係なく付近にそれなりの迷惑をかけているのは事実なのだから、堂々としてないでもうちょっと申し訳なさそうな雰囲気でやった方が良いと思うんだけど・・・倒錯気味の職人気質がそれを許さないのか。

児童刺殺事件で、首相が刑法見直しを指示。リンクした朝日新聞の記事では刑法第39条の規定を問題としているようにしか読めないが、わたしの解釈では、首相の発言の真意は、精神障害者の犯罪をどう裁くかという問題よりも、どうやって精神障害者の犯罪を事前に防ぐかに重点が置かれているように思えるのだが。極言すれば、ああいう連中を社会にのさばらせておくことは危険なので、やばそうな連中を幽閉できるようにする策を考えろ、ということで、感情論とまで言えなくても、えらく世論に迎合しただけの意見だ、こりゃ。

そんなことを言ったら、挙動不審と言われることの多いわたしも犯罪者予備軍だ(苦笑)



小学生刺殺事件など
2001年6月8日(金曜日) 晴れ/くもり

池田市の小学校に男が乱入し、小学生を次々と刺殺するとは想像しただけで痛ましい。

ところで、この手の事件が起きるとすぐに「学校の安全管理は不十分」といった一般論的指摘が急に出てきて、何ら関係のない全国一円の小学校で「学校周辺の警備を強化する」とか「集団登下校を行う」といった策を事後的に施すのはどうしてだろう。必要不可欠なことを今までやっていなかったのなら怠慢でしかないし、全国の小学校を無作為に選んで次を攻撃する、といった犯行声明でも出ているのならともかく、今さら慌ててやったところでパフォーマンスにしか見えない。模倣犯を防ぐ効果はあるのかも知れないけれど、同じ事をされたらいずれにせよ一溜まりもないだろう。

案外、早いところでは来週あたりから「通常通り」になるのかも知れない。忘れるのも、早いもの。

報道によれば、逮捕された男は「何もかも嫌になった。死刑にしてほしい」と供述しているという。自殺しても死にきれなかったなどの理由で、積極的に死刑を望んで大量殺人を行った人間は過去にもいる。米国では、死刑を心から望んだ黒人男性が、判事や陪審員に最大限の悪印象を与えられるよう、万全を期して白人だけを選別して次々と殺害するという事件もあった。根深い人種差別問題を裁判で活用するところがいかにも米国流って感じだが、ここまで工夫を凝らして被告自らが極刑を望む場合もあるわけだ。

もしもあなたが、自分を死刑にして欲しいとの理由で多数の罪なき人々を殺害した人間の量刑を決めるとすれば、どう判断するだろうか。責任能力はあるし、法律上も死刑を選択しうる。誰が言ったか死刑廃止論など、この人間が行った悪逆無道な行為を鑑みれば寝言にしか聞こえない。どう軽く見積もっても、極刑に処す以外にない。そこまでは良い、しかしそうすれば判決文を読み上げた瞬間、この人間は感謝のあまり笑顔で頭を下げるだろう。そして十三段の階段を、喜悦に満たされながら昇ってゆくのかも知れない。

刑は刑、しかし敢えて望みを叶える刑も、刑なのか。



あうー
2001年6月7日(木曜日) 晴れのち雨

なんか暇がなくて更新できず・・。

4日の記事についてメールいただいた方、ありがとうございます。返事書きますのでお待ちを。



雲形定規
2001年6月5日(火曜日) くもり/雨

雲形定規なるものを使ったのは何年ぶりのことか。いつのことだったか―― Made in West Germany であることからかなり昔のことだと思うが――曲線も描ける不思議な定規があるらしいと聞いて買い求めた。ところが、あまりにもクネクネと曲がりすぎていて、希望する曲線を描こうにもどの部分をどう使えば良いのかが分からず随分と悩み、いまだに良く分からないが、きっと適当に使うものなのだろう。しかし、よく使うものはすぐに行方不明になるのに、こんなものだけはすぐに出てきやがる・・・本当にブラックホールだ。

某大手喫茶店チェーンで、わたしは以下のように注文した。

「ブレンドコーヒの


すると、店員さんは「エルサイズ(←強調気味に)でよろしいですね?」と聞き返してきた、しかも微妙にクスクスと笑いながら。確かに、お品書きには「L」というアルファベット文字が書いてあるのだけれど、「大」ではいけないものか。飲食店で普通のやつと普通よりも大きなやつがあれば、大きい方は「」あるいは「大盛り」で統一しておけば良いようなものだ。場所によって細かいローカルルールが色々とあるのは好きでない。ローカルなルールを作っておいて「うちの方針を知らない方が悪い」ぐらいの調子のところあるから困ったものだ、「じゃ分かるように書いとけ!」と言ったりしたことも。。

ま、うちの親父みたいにマクドナルドで「イモの小」と頼んで店員さんを凍り付かせるよりは良いか。



扇風機とか
2001年6月4日(月曜日) はれ

昨日から肩がだるい・・・寝違えた感じでもないので、おととい身長を超える高さの塀を強引によじ登ったときの筋肉痛かも知れない。何をやっとるんだと自分で自分に言ってみたくなるけれど、時には無意味と分かっていながらやらなければならないことがあるのだ、男には。それも、まったく理由になってないが。

昨日書いた、茶畑の扇風機について多くのメールを頂きありがとうございました。あの扇風機は霜害を防止するためにあるそうで、上空の暖かい空気を送ることで地表付近の温度が氷点下にならないように保つそうだ(霜が降りると茶の新芽がダメになるらしい)。新幹線で静岡県内を通ると窓から見える茶畑の扇風機は、一度も回っているところを見たことがないだけに変だと思っていた。常に全開で回っていれば、「お茶って風が好きなのかなー」ぐらいで勝手に納得していたと思うけれど。

こういう言い方をすると怒られそうだが、多事毒論は死人に向けて書いているのかと思うほど、無反応なときは無反応だ。「これはさすがに一言ぐらいあるはずだ」と思いながら書いた話に限って何の反応もないのに、ネタが無くて思いつきで書いた話に多数のメールが来たりするのだ。断じて、世の中は思い通りにならないものだと言いたいのではない。思った通りの反応が来たら詰まらない、期待は概して当てにならず、顔色は隠蔽され、裏切られるときは極めて無慈悲に裏切られるからこそ、文字媒体は面白いのだ。

ちなみに、昔はたまに来ていた「忌憚なくお前の考えを引き裂いてやるぜ」系のメールがほとんど来なくなったのはちょっと寂しい。ヒステリックなのは勘弁だが、冷静沈着かつ論理的に攻めてくる(個人的見解では嫌らしくも素晴らしいと思うが、一般的に鬱陶しい議論の嚆矢として忌諱されがちな)メールを読むと、正直、色々と考えさせられることも多いのだ。返事を書く過程で自分の考えを変えざるを得なくなって反省することもあれば、完璧にやられてちょっとヘコむこともあるし(笑)

つうわけで、感想、反論、疑問、お気軽に



うー
2001年6月3日(日曜日) はれ

やりたいことや、やらなければならないことが山ほどある割に、どれ一つとしてまともに片付いていない気がする。やることがいっぱいある〜という感覚は十分にあるのだが、行動する気になったとき、具体的に何があって、何から手を付けるべきなのかが良く分からない、というのは実によろしくない傾向だ。もうちょっと物事の優先順位を明確にしておいた方が良いのかも・・・日常的な雑務だけならまだしも、もっと人生的なスパンで考えていくべきことに関しても同様に。

新茶がうまい。静岡工場直送と書いてある袋は思いっきり斜めにヒートシールされていて、いかにも手作りっぽいところがいい味を出してる。普段はスーパで買ってくるのだが、あのお茶は年中いつ買っても同じ味だ。お茶みたいに味が微妙な農産物を、いつでも同じ味に作るのは簡単なことではなさそうに思えるが、どうやっているんだろう。野菜だって時期や年によって味や出来が変わるぐらいだし。関係ないけれど、茶畑に必ず装備されている扇風機みたいなものはいつ見ても気になる・・・なんだろ、あれ。



火事
2001年6月1日(金曜日) くもり時々はれ

夕方。仕事も一段落し帰り支度を始めようとしていた頃、一台の消防車がけたたましいサイレンを響かせながら職場に面した通りを疾走していった。周囲の様子を確認すべく窓を開けると、部屋の中へ吹き込んできた風とともに、何かが焦げた臭いも舞い込んできた。田舎の秋を彷彿とさせるような、そこらの焚き火の煙とは臭いがまるで違う。集塵装置のない小型の焼却炉で、プラスチック類を豊富に含む雑多なゴミを燃やしたときに発生する排煙とよく似た、鼻を鋭く刺すとても嫌な臭いだった。

これは近くで火災が起きているに違いない。夕飯のおかずの買い出しも兼ね、流れてくる煙を頼りに火災現場と思しき場所へ赴くことにした(早い話が野次馬)。しかし、いくら歩いても漂う煙が徐々に濃くなってゆくばかりで、消防車なんてどこにも見当たらない。向かう方向は合っているのだろうが、一体どこで火事があったというのだ? ようやく現場に辿り着いたときには、職場から一キロあまりも離れていた。出火元と思われる、川と鉄道の高架橋に挟まれた僅かな土地にあった建物は、もう鎮火した後だった。

だが、周囲には依然として濃厚な煙がたちこめていた。十メートル先が煙で霞んで見え、双眸には煙が自然と涙が浮んでくるし、喉もいがらっぽくなってくる。風向きがぴったりだったのかも知れないが、一キロ以上離れた場所からでも不快なほど臭う煙である。火災で発生する煙がここまで激しいものだと実感したのは初めてだ――火事で最も怖いのは煙だと言われることにも頷ける。あんな煙が充満していれば避難も困難であろうし、少し吸っただけでも中毒を起こしてぶっ倒れそうだ。

物々しい車輌群。消防車や救急車をはじめ、交通整理のパトカーなど十数台が集結。
現場検証か。消火栓以外にも、川にホースを入れて取水していた。後ろのラーメン橋は京急本線。
指揮車。電話機とかで中は通信機器だらけだった。屋根の上には釣り竿のような構造をした伸縮式マストで3エレの八木アンテナが立ててあり、中消防署に向けてあったものと思われる。



突撃実験室