多事毒論(2001年11月分)


神奈川弁?
2001年11月30日(金曜日) はれ

ロシア語は解せないので正式名称は不明だが、ロシアのオタクサイト。色んな意味で、一見の価値ありだ。ネタ元は、ちょっと古いけれどサイコドクターあばれ旅11月24日の日記、これを見たときは世の中って本当に広いなあって思った。

神奈川県に移り住んではや幾星霜、ふと「神奈川弁」ってあるんだろうかと思った。結論から言えばあるらしいのだが、大阪出身のわたしには、明らかな違いのあるものを除けば関東の方言は概ねどれも同じに聞こえてしまうから、いまいち良く分からない。さしずめ、関東の人が大阪弁と神戸弁を区別しにくいのと同じようなものだろう。大阪と神戸は電車で20〜30分ぐらいの距離しか離れていないけれど、神戸弁は大阪弁と良く似ているようで、実はちょっと違う。たとえば「寝てる」が「寝とう」に変形するという具合に、語尾に「とう」が付けるしゃべり方は、大阪弁には見られない特徴だ。

東京と横浜の地理関係も大阪と神戸の関係とよく似ており、大阪人から見れば、その距離の差なんて誤差の範囲だから、どうしても「東京弁」というステレオタイプな分類で一括りにされがちだ。で、調べてみると語尾に「じゃん」を付けまくるのが代表的な神奈川弁らしい。東京の若い人も使いまくっているように思うけれど、神奈川から広がったということなんだろうか(神奈川都民の影響?)。「り」が音便化して「っ」になる言い方、例えば「取り替える」が「取っ替える」になったり、主に否定の意味を表す「あ音+い」が「え音+ぇ」に変形する言い方、例えば「行かない」が「行かねぇ」も神奈川弁らしい。

意外だと思ったのが、ある動作を促しながら肯定するときに使われる語尾の「べ」とか「んべ」。そういわれてみれば「行こうか」という意味で「行くべ」と言ったり「やるか」の意味で「やんべ」と言う人もときどきいるが、これも神奈川弁だとは思わなかった。ちょっと極端かも知れないけれど、「電池取っ替えてくんねえか」「予備がねえから買いにいくんべ」という会話が神奈川弁なのかなあ。う〜ん、なんとなく田舎っぽい雰囲気だ。とか書いたら「そんなんじゃねえ」と、生粋の方から反論が来そうだけど。ま、神奈川県といっても広いので、比較的東京に近い川崎や横浜の辺りと山に囲まれた箱根のあたり、あるいは湘南の方でもなり違うはず。

ふと思った。ドラゴンボールの、孫悟空みたい(笑)



パスポート
2001年11月29日(木曜日) はれ

一昨日の記事で「太宰府八幡宮」なんて書いてましたが、これはわたしの思い込みによる誤りで、正しくは「太宰府天満宮」でした。お詫びしないうちに、こっそり書き換えさせて頂きました。

神奈川県民限定のちょっとトクするかも知れない、かなりローカルな話。

先日、パスポートの申請を行うべく産業貿易センタービルの中にあるパスポートセンターへ行ってきたときのこと。パスポートに使う写真は家の近くにあったインスタント写真機で事前に撮っておいたのだが、ちょっとミスって顔の寸法が規格外になってしまった(余白の寸法が規定より狭くなってしまった)。パスポートに添付する写真は、寸法について非常にうるさいことは知っていた。規格から少しでも外れていると、絶対に受理してくれない。しかし、撮り直している暇がなかったので、取り敢えず規格外の写真を持ってパスポートセンターへ行くことにした。写真屋は同じビルの中にあるから、そこで撮り直せば良いやと。

申請書を出す前に写真屋へ立ち寄ってみたら、一枚 1,800円だと言われた。こりゃボッタクリだと思い、値段を聞いてから断ると「このビル内の写真屋は全部同じ値段ですから〜」というような捨て台詞を返される。どうやら、ほかを当たっても安くならないからウチで撮っておけと言いたいらしいが、要するにビル内では価格カルテルを結んでいるということなのだろう。ああそうですかと丁寧にお断りして、取り敢えず規格外の写真をそのまま使うことにした。そのまま通れば儲けものだし、規格外だから使えないと言われたら家の近くにあるもっと安いところで写真を撮ってからまた来れば良いことである。

申請書とともに規格外の写真を窓口に提出すると、案の定すぐに難色を示される。専用の定規で寸法を測られると、余白の寸法不足を指摘されて却下。仕方がないので、写真を撮り直してからもう一度来る旨を伝えると、書類不備のため再度同じ窓口に来るときに使う札を渡され、「そこの写真屋でこの札を見せたら割り引いて貰えますから」とのアドバイスを頂いた。ほう・・・その札を持って先の写真屋へ行くと、今度は「取り直しの方は 1,000円になります」といわれる。それぐらいなら妥当な価格なので、その写真屋で撮り直して申請は通った。

そこで、これからパスポートを申請される神奈川県の皆さんにお勧めしたいのが次の方法だ。手近にある写真なら何でも良いので、わざとパスポートには使えない写真を選んで、そのまま窓口に出してしまう。酔いつぶれてスゴい格好で寝てしまったときに激写されたスナップ写真の切り抜きとか、そういう極端なものはお勧めできないが、バカだと思われても差し支えが無ければ、それでも構わない。そして、書類不備の札を貰ってから同じ階にある写真屋へ行くと、1,800円の写真が、1,000円になるという段取りだ。この写真屋は同じビルの中にあるし、できあがりも割と早いから忙しい方々には便利だと思う。

それにしても、窓口の人は県の職員だと思う。特定の写真屋の割引を案内しても良いんだろうか。



太宰府と福岡
2001年11月27日(火曜日) はれ

福岡へ行ったついでに、太宰府を訪れてみた。

西鉄の太宰府駅前は土産物屋の呼び込みがうるさいぐらいに観光地化しているし、連休の日曜日とあってか人は多いけれど、太宰府天満宮の方へ歩いてゆくとなかなか風情があって良い感じだ。七五三か何かで来ていた子連れの人も多く、和服姿の子ども達も目の保養として素晴らしく機能してくれたのであった。う〜ん、かわいいなあ(←病気)。

天満宮というと勉強の神様。合格祈願とかそんな文字が踊っていたけれど、もう道を踏み外しまくっているわたしには何ら関係のないことだ。いまさら何を勉強するんだって感じなので、さらに奥へと行ってみる。そこはちょっとしたハイキングコースのようになっていて、紅葉がちょうど見頃を向かえていた。朱色や黄色に色づいた木の葉の隙間を縫うようにして、朗らかな秋晴の空から午後の日差しが降り注ぐ紅葉の道を通って、幾重にも並ぶ鳥居の坂を登る。完徹明けの身体(26日の記事参照)にはちょっと厳しいけれど、森林の中をブラブラと歩いて過ごす一日も悪くはない。

夕刻になってから福岡市内へ。京都の鴨川と、大阪の中之島と、新宿の歌舞伎町を足して3で割ったようなところだ。景観は良いが、この写真を撮っている間にも「マッサージはいかがですか」と風俗店の呼び込み。お世辞にも治安の良さそうな場所とは言えない。福岡空港が市街地から近いためか、街の真上をジェット機が低空で通過してゆくさまも、初めて見るとなかなかの迫力だ。何やら騒音が聞こえてきたかと思うと、建物の陰から突如としてジャンボ機が出現して頭上を通過する。わたしは物珍しくてカメラまで構えていたけれど、地元の方々は慣れている様子。そこで空を見上げるかどうかで、よそ者判定ができるかも知れない。

よそ者としてビビったのは、運転の荒さ。空港を出たときからクラクションが多いなと思ったけれど、タクシーに乗ったらこれまた凄い神風系に当たってしまう。たまたま乗ったタクシーだけが特殊なのかと思ったらそうではないようで、路地を歩いてたらミラーを当てていった車もあったぐらい(ひき逃げだよ、これ)。気性が粗いのだろうか、概してマナーが悪いと思った。中州の屋台街へも行ってみたけれど、残念ながら諸般の事情によりラーメンを食うことは出来ず。次に福岡へ行ったときは、ここらでコテコテのラーメンを食べてみたいね。ぼったくりの店もあるそうで、よそ者はあまり行かない方が良いとも聞いたが。

宿泊先のホテルの窓からは、夜景が美しい。写真手前の道路は都市高速、青紫色に輝いているのは福岡タワーだ。クリスマスツリーみたいな形の照明が灯っていた。翌朝は、玄界灘の風景を見ながら目を覚ます。そろそろ、強引な文章で下らない写真を付けすぎだっていう意見が出てきそうなので、最後におのぼりさん状態で近くのビルから撮影した福岡タワーの天辺玄界灘および福岡市街。あ・・・福岡の方には、写真から場所がばれてしまいそうだ。たかが出張でどんなホテルに泊まっているのだと言われてしまいそうだけれど、わたしには決定権がなかったもので。

ってことで、福岡の話はこれで終わり。出張って良いネタ埋めになるなあ(笑)



ドリームストーリー号
2001年11月26日(月曜日) 曇り一時にわか雨のち晴れ@福岡

福岡から帰ってきた。

日曜日は福岡で遊ぶべく朝の飛行機に乗ることにしたのだが、前日の夜は気付くと明け方になっていたので、一眠りでもしたら、それは寝過しコースへの直行便になってしまうような気がした。そんなわけで、登ってくる朝日を見ながら完徹のまま羽田へ。出発の時刻よりもかなり早いが、朝飯を食ったりしながら時間を潰す。時間はまだまだあったので、展望デッキへと上がってみた。すると、見るからに高そうな望遠レンズを装着した一眼レフを三脚に固定して構えている、簡潔に言い換えればオタクオーラをぷんぷんと漂わせている方々がやたらとたくさん集結していた。

何がそう珍しいのだと思ってカメラが向けられていたある一点に目をやると、最近よく見かけるデコレーションチューン系の派手なジャンボ機が、滑走路から搭乗口へと向かってゆっくりと移動している様子が遙か遠くに見えた。どうやらここの皆さんは、このデコレーション機がお目当てで写真を撮りに来ていたらしい。後から調べて知ったのだが、これは機体にディズニーのキャラクタなどが描かれた JAL DREAM EXPRESS 21の新作で、「ドリームストーリー号」という機体だったらしい。

そんなこんなで時間を潰してから搭乗口に向かうと、さきほど展望デッキで見たディズニー飛行機が目の前にあるではないか。あれは自分が乗ろうとしていた飛行機だったのだ。ディズニーに特別な興味があるわけではないし、乗ってる分には外観なんてどうでも良いので、たとえ「墜落時は当社にお任せ下さい」なんて書いてある葬儀屋とタイアップした機体でも気にはならないけれど、何となく「当たった」ような感じがするから面白いもの(ちなみに機内サービスは通常と同じだった)。おかげで、ドリームストーリー号で運航される便に乗らない限り撮影できないような写真も撮ってきた。興味のある人もいるかな?

ドリームストーリー号全体図。747って、でかいよねえ。こんなのが空を飛ぶのか。
ドリームストーリー号鼻先。機体の鼻をフル活用。これって何のキャラクタ?
ドリームストーリー号鼻先、真正面から。口が微妙に恐い。一歩間違えたら子どもが泣くぞ。
ドリームストーリー号横顔。搭乗橋の小窓から強引に撮影。
ドリームストーリー号@福岡空港。残念ながら反対側の写真は撮れず。

ところで、この類のデコレーションは広告としてやっているのだろうか。それとも、単に見栄え向上のためだけかな。空港でこうやって見られる以外は、主に 1万メートルの高度で飛んでいるのだから、こんなところで宣伝しても誰も見てくれない(ていうか、見えない)。市街地を走る路線バスなら分かるけれど。



ペーパーナプキン
2001年11月25日(日曜日) 不明

今日は自動更新なので天候は不明。ノートPCを持っていくほどでもないし。

よく、B級な飲食店のテーブルに備え付けてあるペーパーナプキン。昔から、これの正しい使い方について疑問に思うことがある。ペーパーナプキンで手や口を拭こうとするたびに、なんか上手いこと汚れを吸ってくれないな、どうも使いにくいな、などと思っていた。それもそのはず、ナプキンの表面はツルツルにコーティングされているから、これでは汚れを上手く吸着してくれるわけはない。紙なんてごまんと種類があるのだから、もうちょっとよく水を吸う紙を使ってくれても良いはずなのに、どうしてわざわざこんな種類の紙を使うのだと怒りにも似たものを感じていたのだ。

あるとき、何気なく折り畳んであるナプキンを完全に開いてみたら、紙の裏側は何の加工もされておらず、ザラザラとした紙のままになっていることに気付いた。そして、この面で汚れを拭くと良く取れる。なるほど、実はコーティングされている側で汚れを拭こうとするのは間違いで、ペーパーナプキンはちゃんと開いてから裏側で汚れを拭くのが正しい使い方なのかも知れない。表側をコーティングしておけば、拭いた液体が染み込んで手が汚れることもないし、表側は人が触ったりしてばっちい可能性があるので、開いて裏側を使えという考え方は確かに理に叶っている。

ペーパーナプキンはそういうものだという結論を帰納的に導いて以来、その結論を覆すような反証を得ることもなかったので、わたしは勝手にそう信じ込んで必ず裏返して使ってきたのだが、先日ふと疑問を持ってしまった。本当にそうなんだろうか。あるいは、こんなことは常識なのに、自分が今まで知らないだけだったのだろうか。飲食店でほかの人がペーパーナプキンを使う様子を観察した限りでは、裏返して使っているような人は見かけない。殆どの人は、目の前にあるナプキン立てからナプキンを取り出すと、そのまま、使いにくそうに使っている。これは、わたしだけが先進的と見て良いものなんだろうか。

えー、今までそのまま使っていた皆さんも、次回は裏返して使ってみてください。



陰陽師
2001年11月24日(土曜日) はれ

前泊出張のため、明日は福岡へ。仕事なんて二の次、中州天神でよろしくやってくる予定です。

陰陽師」を観てきた。一言でいえば、めちゃくちゃ力を入れてマンガを実写化したような作品といえよう。主人公はほとんど無敵の強者ときて、悪いヤツは明らかに悪そうな顔をしているという、とても分かりやすい登場人物の設定に加え、シナリオもお化けが出てきたらそれを退治するとか、百年単位の恋愛があるといった具合で、実にアニメ的である。まるで少女マンガのようだとまでは言い切れないが、恋愛そのもの以外の要素にかなりの重点を置いた少女マンガのような、敢えて具体例を挙げれば、渡瀬悠宇の作品なんかを実写化したらこんな風になるかなという作りだ。

なもんで、シナリオ的にはありがちというか、伏線がヘボかったりして先が読めてしまうところも多いのだけれど、やたらとゴージャスなアニメと思えば十分に観られる(一般の人はそれで満足するかどうかは分からないが、わたしは大丈夫)。視覚効果にはCGがふんだんに使われており、今までこうした視覚優先の作法はハリウッドの一人勝ちだと思っていたから、日本映画でもこういうものができるんだという意外性もそれなりに感じた。しかしノウハウと年季の差はやはり埋めきれないのか、ハリウッドと比べてしまうと、CGの安っぽさどうしても目立ってしまう。

実写とCGの合成が何となくわざとらしいと感じたところもあったし、実写とCGの切り替えも、もうちょっとシームレスにやってほしいもの。また、特殊メイクの出来もいまいちチープで、迫力に欠けている。細かい指摘かも知れないけれど、こういうところをきちんと意識するかどうかでで臨場感には相当の差が現れるものだから、こんな下らないことで評価は落として欲しくないもの。個人的な問題だけど、臨場感という面では木津川の流れ橋なんかでロケやるなって感じ。時代劇の定番ロケ地だけれど、実家からそう離れていない場所なので、つい「またあそこか」なんて思ってしまう。

ロケ地の話が出たついでに、竹藪のシーンはどこで撮っているのだろう。関西限定だが、何の商売をしているのかよく分からないところのCM(京都嵯峨野に吹く風は〜って歌の続きが出てこない・・・え〜と・・・そうだ、あぜくらだ!)にも見事な竹藪が出てくるので、前から気になっていた。わたしの知る限りでは、嵯峨野の付近と、八幡の男山にそれらしいと思える場所がある。後者はマイナーだけど、エジソン電球のフィラメントに使われた竹の供給地として一応は由緒正しいことになっている。実家の近くなので良く行ったが、昼間でも薄暗く、日が暮れると本当に不気味。

いまさらながらの映画批評。興行が終わる間際に見ることが多いので。



わ〜い
2001年11月23日(金曜日) はれ

きたきたきたきたっ。当たり前だけど買ってりゃ当たるもんだ。下段はクイックピック、侮り難し。

深夜に公園でうろうろしてたら職務質問されちゃった(笑)

しかも同じ警察官に二度も会う。一回目は、時間が時間だったから未成年かどうか口頭で聞かれて終わりだったが、何となくうざかったので場所を変えた。すると、偶然にも警官さんも同じように移動してきたらしく「あれ?さっきの人?」とまた声をかけられ、今度は自転車防犯登録の照会もやられる。ま、野郎が一人で深夜の公園をぶらぶらしていたら誰が見ても怪しく思うだろうし、自分でも怪しいという認識はそれなりにあったので、もしわたしが警官だったら間違いなく同じことをしていたはず。夜中の方が、人もいないし気軽に走れるから好きなんだけど。

でもロト6も当たったことだし、なんか良いことあるかも。



ウイルス騒ぎ
2001年11月22日(木曜日) はれ

わたしが管理しているH8メーリングリストにウイルスの添付されたメールが流れるという事件があった。ただでさえ本業がやたらと忙しく、趣味的なものにあまり時間を割いていられないときに限ってこういうことが起きるから、マーフィーの法則ってやつは確かなものだと言わざるを得ない。各々のモラルと良識で成り立っているメーリングリストは、極論すればセキュリティホールの固まりだと言っても良い。悪用しようと思えばいくらでも悪用できるし、参加者の誰かが、自己のコピーを添付したメールを知らぬ間に送信するような種類のウイルスに感染していれば、悪意はなくてもこうした事故は起きてしまう。

それをしょうがないで片付けるつもりはない。この事件をきっかけに、ファイルの添付されたメールが投稿されたときは、内容を問わず破棄するように改良したから、今後はこういうことが起きることもないだろう。MLでファイルの添付が出来ない程度ならまだ良いけれど、しかしながら、セキュリティを強化すれば何かが不便になる場合も多いから、セキュリティは高ければ高いほど良いという安直な発想も嫌いである。利用者に不便を感じさせることなくセキュリティを強化する手段ならいくらやっても構わないが、中にはそうもいかないものがある。

その気になれば、ネットワークの世界は実社会よりも安全で確実なものにできる。本人を確認する手段ひとつとっても、電子的な手段の方が印鑑とかサインのようなものよりはよほど確実だろう。でも、たとえば友人にメールを送ったり、どこかの掲示板に書くたびにやたらと厳しい認証をしないといけないようになったら、どうだろうか。そんな堅苦しいコミュニティではみんなやってられないと感じるに違いないから、人はまず集まらない。ときどき変な事件が起きるかも知れないけれど、モラルと良識でそれなりに動いているのならまあいいか、という視点も重要なのだ。

ウイルスなんかが世の中から完全に消えることはあり得ないとしても目障りになる程度の被害規模で収束すれば良いのだが、規模が大きくなると対策や後処理の手間も半端ではない。大方のエンドユーザは「目障り」で済まされるかも知れないけれど、それがエンドユーザまで配達されるまでの過程で発生する様々な不幸やお怒りは、最終的にはネットワーク管理者にルーティングされるようになっていたりする。娼婦とかけて、その心はたまったものを抜くのがシゴト。ネットワークの管理をしている方なら、ウイルスの所行による被害そのものよりも、どっかのバカが起こした人為災害のおかげで余計な仕事が増えてしまうということが何よりも腹立たしいと思われていることだろう。

Code Red や Sircam の騒ぎは大きなものであったが、その結果、これまでそうした危険があることをあまり認識していなかったパソコン利用者が、改めて危険性を意識するようになったのなら結果的にあれは良い教訓になったはずだ。こういうこととはあまり関係のないところもこぞって注意を喚起する文書を配信したことなどをきっかけに脆弱性のあるソフトウェアを更新したユーザもかなりいるし、感染の可能性が高かったおかげで、自分だけは大丈夫だと高を括っていたり、知らぬ存ぜぬを通して対策を施さなかった人が見事に感染して高い授業料を払う羽目になったケースもあるだろう。ショック療法としては些か強烈すぎたけれど、一度は通らなければならない道だったかなと思う。



自営PHS
2001年11月21日(水曜日) はれ

自宅で使っている自営 PHSのアンテナを出窓に置いたら、電波が建物の外までよく届くようになった。ここはビルの 5階で、その窓の側には高い建物が全くないからだろう。試しに電話しながら外に出てみると、見通しのきくところなら 100メートルほど離れた場所でも通話できてしまう。なら、電話をしながらその付近にある自販機へ買い物に行けないかと思って試してみたが、ギリギリでダメ。強敵は、距離ではなく遮蔽物だった。階段が窓とは反対側にあるので、ここで厳しくなってしまう。降りるときはブチブチなりつつも切れなかったので成功かと思いきや、買い物をした帰り階段を上るときに切れてしまった。当然、エレベータを使うと一発アウトだ。

長電話をしていたら喉が乾いてきたというようなシチュエーションはよくあるので、電話を切らずに自販機まで行けたらとても便利なのだけれど、自販機のところでは問題なく使えても、そこまで行く途中に切れてしまうようではなあ。そもそも、移動機は公衆モードと自営モードの両方が使えるようなっているのだから、自営CSの電波がやばくなったら勝手に公衆CSへハンドオーバしてくれたり、家に帰るとまた自営CSに戻ったりしてほしいもの。そうでないと、家でも外でも使える電話という PHSの理念が完全に実現されているとは言い難い。現実的には難しいと思うけれど・・・技術的には可能であったとしても、無駄な投資をさらに増やす結果にしかならないような(笑)

防水ハウジングでも作って、アンテナごと外に出してやれば効果はあるかな。



ねこだけ
2001年11月20日(火曜日) はれ

今日の猫模様/なあに?



役所
2001年11月19日(月曜日) 晴れ

今日のオッパイ模様。暗くなると光る、とっても不思議なオッパイ。

自治体によって、あるいは担当者によっても程度の差はあるだろうけれど、役所の窓口は以前と比べて親切になったのかな。戸籍抄本が必要になったので、電話で本籍地の市役所に郵送での請求方法を問い合わせたらやたらと対応が良かったから驚いてしまった。それで当たり前なのだが、実家の近くにあるこの市役所の出張所では、態度の悪さに何度も唖然としたものだから、某市役所といえばそのイメージが強いのだ。窓口職員がジャージにジャンパーを羽織ってサンダル履きというようなスタイルで仕事をしていることからして凄いなと思ったし、親切なら服装なんてどうでも良いけれど、それで偉ぶっているくせしてやる気がないから目も当てられない。

ここまで酷ければ、おのれら誰の税金で食ってると思っとんじゃボケ? と、さながらタチの悪い酔っぱらいかチンピラが警察官に食ってかかるときに決まり文句として出てきそうなセリフを本気で言いたくなってしまうわけで、実際にそういう苦情も少なくなかったんじゃないかと思う。それではいけないってことで窓口職員の応対を改善したのだろうか。住民票の写しを取りに行ったいま住んでいるところの区役所の市民課も、昔とは比べものにならないほど良くなっている。以前は住民票の写しを請求する窓口が半ば相談窓口兼用になっていたので、申請書を出すという数秒の作業のために長蛇の列に並ぶ必要があったのだが、やっと専用の請求窓口を作ってくれたから。

それだけで大幅に効率が良くなるってことに気付くのが遅すぎるというか、役所ってところはなかなかやらないだけで、その気になってやれば出来るところだんだけどな。



寓話のテロリスト
2001年11月18日(日曜日) 晴れ

近所を歩いていたら、歯がほとんど抜け落ち、薄汚い服装をしたオッサンがいきなり声をかけてきた。「あれ、ぜぇ〜〜んぶホームレスの家なんですよ」と、大仰な口調で言いながら持っていた杖で高架橋の下を指す。確かにそこにはホームレスの家らしき段ボールが積み重ねられているが、敢えて口に出して通行中の人に案内しなければならないほどのものじゃない。ここらでは良く見られる光景である。取り敢えず「はいはい、そうねえ」と返答して通り過ぎると、これまた大仰に「ふははははっ」と大笑い。このオッサン、近くの人に手当たり次第同じことを言っては大笑い・・・ホームレスの家にどんなコダワリがあるのだろうか。


テロについて――

権力を欲しいままにした王は、希にみる圧政を長年に渡って敷き、領民を苦しめ続けていました。その国で幸せに生きられたのは、権力者と、一部の貴族でしかなかったのです。あるとき、日々の辛い生活に絶えかねた領民たちが、そんな悪政は倒すべきだと蹶起しました。そして、領民たちは王宮を襲撃したのです・・・

とまあ、市民革命を寓話風に書くとこんなものだろうか。

この話がいま世の中で起きていることのたとえ話だと考えてみよう。ある人によれば、現代のテロリズムは、王と領民というローカルな関係が大国と途上国というグローバルな関係に拡大されただけで、本質的には市民革命の相似形に過ぎないという。革命を目的として領民が力づくで権力者に立ち向かうといった行為を、現代の言葉では「テロリズム」と呼んでいるが、なるほど、極論すれば確かにこの二つの言葉の違いは「どっちの側に立つか」でしかない。その行為を受ける側に立てば「テロリズム」だが、その行為を行う側に立てば、それは立派な「革命」であるというわけだ。

通常、この手の寓話においては悪者は決まって王であり、領民が正義だ。ほとんどステレオタイプのような勧善懲悪的視点だけれど、歴史的にみて革命の勝者が領民であるから、それは当然のことである。勝者によって語られるストーリでは、必ず勝った側が善となることは言うまでもない。逆に、勝者が王であったならばどうなるだろう。そもそも王は悪政を敷いたことにはならないし、言いがかりを付けてテロを起こした薄汚い領民を、王の率いる勇敢な軍隊が迎撃して安寧秩序を取り戻した、というような内容の話になるに違いない。そして、これはまさしくいま米国がやっていることではないか。

あり得ないことだが、タリバンが勝てば革命物語だ。テロと革命の違いは、結果的に誰が潰されたかだけの問題というわけか。



幸せます。
2001年11月17日(土曜日) 晴れ

コーヒー+豆乳は割と良くあう。

わたしは親の転勤で山口県に住んでいたことがあった。だから、いまとなってはもうほとんど忘れてしまったけれど、山口弁には印象に残っている言葉が色々とある。なかでも「〜幸せます」という言い方はよく覚えている。ちょっと改まった文書で、よく「〜幸いに存じます」という言い方をするけれど、山口県の人はこれを「〜幸せます」というのだ。ほかの地方で「〜幸せます」という言葉は聞いたことがないので、これは明らかに山口弁だと思うのだが、通常、改まった文書には標準語を使うから「〜幸せます」を方言だとは気付かずに使っているのだろう。

たとえば、山口大学内のあるページ。「大意をくみ取っていただければ幸せます」と書いてあるけれど、こんな感じで使う。



ねこだけ
2001年11月16日(金曜日) 晴れ

今日の猫模様/覗いてた。ていうか、これって猫なの?



掲示板
2001年11月15日(木曜日) 晴れ/くもり

どうも存在感の薄い掲示板を少しいじってみた。みんな書いてね。

突撃実験室にリンクをかましているリンク集なんかを見ていると、どういうわけか「アンダーグランド」の分類に入れられていることが多い。どないな風にリンクしようがそれは各人の自由だから、その人がそう判断したことについて文句があるわけではないけれど、突撃を作っている当人は特にアンダーグランドと分類しなければならない要素を含むコンテンツがあるとも思っていないので、いったい何を見てそう思ったのかは知りたいところである。「背景が黒色だから」というシンプルな理由に還元する説もあるにはあるが、おいおい、そんな理由もアリなのか?

背景が黒色なのは、単に個人的な好みがそうであるからで、ちなみにいまこれを書いているエディタも多事毒論と全く同じ配色になっていたりする(色が貴重だった DOS時代の悪い癖という意見も)。しかし、配色が場の雰囲気を支配することはよくあることだから、そうやって指摘されるとそれはそれで確かに重要なことなのかなあとも思う。言われてみれば、掲示板の背景もいままでは黒色だったから、黒色説が正しいとするならば、あれはアングラ掲示板だったことになるのだ。だから一般客が寄りつかないのかも、というわけで、もうちょっと見栄えのする配色を考えたつもりだが・・・

何を作ってもセンスがないことを改めて自認しただけかも。



中華
2001年11月14日(水曜日) 晴れ

今日の猫模様/黒猫。まっくろ。

八王子へ行った帰りに、かなりハイレベルな中華料理を食う。チャーハンが美味かった。中華街の知名度が高いせいか、横浜というと中華というイメージが広まっているように思うのだが、うちの近所にある中華料理屋は概して不味い。ちょっと昼飯を食べる程度なら必ずしも感動的な味である必要はないのだが、ここらにあるのは並のレベルすら達成できていない店ばかりだ。ちょっと前に新しい店ができたので試しに行ってみたら、三日もあれば余裕で潰れるんじゃないかと思うような味だったし。わたしの近くにある中華料理店のレベルに限って言えば、横浜イコール中華といった話は幻想だとしか思えない。

それにしても昼飯を食うのに困るところだ。ありそうで、意外と何もない場所だから。



クレーン
2001年11月12日(月曜日) 雨のち晴れ

今日の夕日模様。朝は雨だったけれど、午後からは快晴。ちょうど良い角度で休んでいたクレーンが夕日に照らされ、金色に輝ていた。多摩の付近では、山を切り開いたような辺鄙な場所にマンションを建てたりしてニュータウンの開発をしているけれど、こんなところに家を買おうという人でも、都心に通勤する人は少なくないのだろう。家を買った結果、毎朝の通勤に片道1時間以上もかかるようになったら、たぶん絶えられないと思う。職場から近いところに住むためにちょっと高めの家賃を払ってでも、朝はゆっくり寝るのがわたしの幸せだ。

町田市(の外れ)から、クレーンのある風景でした。クレーンは良いね、心が和む。



夜景
2001年11月11日(日曜日) はれ

本牧埠頭のクレーン。埠頭って好きだなあ。悪いヤツが女を人質に取って「一人で来い」と呼び出すときの指定場所は決まって埠頭だし、余計なことを喋りかねない人間をコンクリート詰めにして海に沈めるのも埠頭だ。潮の香りと油っぽい異臭が混じり、あらゆるところに赤錆が浮いている、そんなどことなくアウトローな雰囲気の漂う埠頭が好きなわたしって変ですか?

これは製紙工場かな。先日、沼津へ行った帰りに富士市内で取った写真。工場が犇めき、白い湯気をモクモクと吹き上げる煙突が林立する街並みも悪いものじゃない。日暮れ後の製造プラントには明るい照明が耿々と照らされているし、煙突には赤い航空障害灯が輝く。こういう風景を人間味に欠けるとか、退廃的だとか、あるいは不気味だとか評する向きもあるかも知れないが、ありがちな市街地のものとはちょっと趣の違う、いかにも工業的な夜景も良いものだ。



燃料電池自転車
2001年11月10日(土曜日) あめ

今日の未知の遭遇。ていうか、お前ホイミスライムやろ。

水素で動く燃料電池自転車。うわ〜これ欲っしい〜! と一目惚れ。原付として登録すれば日本の公道も走れるだろうけれど、よくよく考えると水素で動くという違いがあるだけで、発想としてはそこらのオバハンが乗っている電動アシスト自転車と変わらないような気もする(デザイン的にそういう年寄り臭さは感じられないが)。バイクメーカの Apriliaが作った試作品のようで、お値段は不明・・・そもそも売り物なのかどうかも良く分からないけど。

むしろ、欲しいのは自転車ではないのだ。自転車に乗るぐらいの大きさの燃料電池の方に興味がある。あると色々と便利じゃないかなあ、これ。



ぼくらは虚空に空を視る
2001年11月9日(金曜日) あめ

今日の鳥模様/並んでた

天気予報で――

「今日の首都圏は冷たい雨模様となりました」

見りゃ分かるよ、そんなこと。


上遠野浩平「ぼくらは虚空に空を視る」(徳間デュアル文庫)を読んでみた。人間なんてものをやっていれば時々感じたりするモヤモヤっとした良く分からないもの(何じゃそりゃ?)の書き方はいつも上手いと思うのだけれど、この人の、もっと大きな概念としての人間の書き方はいまいち好きじゃない。我々が住んでいる世界とは全く異なった世界における出来事が綴られていたとしても、自分と概ね同じような人間が登場してくる限りは理解の範囲なのだけれど、逆に世界はまったく同じであったとしても、人間の概念すら違っているような話は、わたしにとっては電波系でしかないのだ。

世界観が違うだけなら、そういう世界におかれた人間はどう感じるのかを綴った話として楽しめるのだけれど、そもそもその世界というやつは、自分が人間の感覚でそれを世界と認識しているから存在しているのだから、それを認識する人間が異なったものであったとしたら、これはもう普通の人間である自分には何ら関係のない話だということになってしまう。ましてや、超人的なヤツとか神みたいな存在に人間の本質みたいなものを語らせるやり方は好きじゃない。それを書いているのも結局のところは人間なんだからさあ、同じやるなら普通の人間に語らせようぜ、なんていう見方をついしてしまうからだ。

読書感想文というよりは、SF嫌いの説明文みたいになってしまったけれど、わたしがSFを嫌いだと思う理由はこれじゃないかなあ。いくら非日常なことでもそれなりに受け入れる余地はあるのだけれど、人間がラリっていると、自分はラリっていないからそれはちょっと違いますな、みたいな。そこから相対的に何かを感じ取れというスタンスでやっていることは頭では理解できても、フィーリング的にダメだ。

関係ないが、この人の作品を読むたびに、本編よりも後書きの方が面白いんじゃないかと思ったりする。微妙に砕けた文体が良い感じなので、あの調子で一冊ほど書き散らしてくれたら読むんだけどなあ。



そばばば〜ん
2001年11月7日(水曜日) はれ

「そばばば〜ん」でお馴染みの? そばめしふりかけ永谷園)。確かに美味しそうだが、メシにかけることが目的のふりかけにメシが含まれていても良いんだろうか。「ソバふりかけ」ぐらいなら許されると思うけれど。

Googleイメージ検索はなかなか便利である。しかし、ときどき爆笑ネタを提供してくれることもある。たとえば唐突に「ハイヒールリンゴ」と入れてみたとしよう(関西限定ネタだけれど)。すると、一見あまり関係のなさそうな画像も出てきたりするのだけれど、問題の画像が含まれているBMブラックアラクニアというページを見てみよう。「頭部アップ」という写真を見ながら本物のハイヒールリンゴと比べてみられたい。

それよりも微妙に似てないか?と思ったんだけど、似てないね。



たんたん
2001年11月6日(火曜日) 雨/くもり

今日の空模様/申し訳程度の夕焼け。チラリズム。

お風呂のことを「たんたん」と言うのは、うちのオヤジだけなんだろうか。家庭というものは比較対照に乏しく、ある意味でとても閉鎖的な環境なので、自分とこでは日常的に行われているからこれは常識に違いないと思っていても、それは実は思い込みに過ぎない場合もある。学校とか会社のようなところなら、あそこはああいう風になっているのに、どうしてうちはこうなんだとか色々と言えるけれど、家庭だけは、そういえばよそはどうなっているんだろうと思っても、なかなか垣間見るということができないというか、本当に垣の間から見たりしら単なるノゾキだけど。

まあ、シミーズのことを静岡の清水とかけて「次郎長」などと呼ぶ親戚もいたけれど、これはさすがに違うと思った・・・。



喪中欠礼
2001年11月5日(月曜日) くもり/雨

年賀葉書が売り出されはじめた。

今年は、2月と9月にそれぞれ母方と父方の祖父が亡くなっているので、しきたり的には喪中葉書を差し出すのが普通なのだろうが、考えてみればこの風習も妙なもので、いつからいつまで喪に服しているのかが極めて曖昧だ。本来の意味の喪中では考え方が異なると思うが、年賀状における、いわゆる「喪中」に限っていえば、基本的にその年の末までが喪に服す期間と定義されているようだから、ある年の1月に誰かが亡くなったとするとほぼ丸一年間は喪中ってことになるのに、12月に亡くなったのならその期間は1ヶ月に満たない。それでは死亡時期によって喪中の期間に1ヶ月から12ヶ月の開きができてしまうのだから、これはやっぱり変だ。

下らんことかも知れないが、こういう非定量的な考え方はどうしても納得がいかないのだ。あることをきっかけとして何かの期間を決めるのなら、たとえば「その日(ただし、午後10時以降であれば翌日)を起算点とし、その日から××日後の午後3時まで」といった具合に分かりやすく定義されていなければいけない。また、そのように定義されていたとしても、微妙な日数の違いでその年の年賀状がOKになったりNGになったりするのは変な話である。例として、9月15日に誰かが死亡した場合は年賀状は差し出すものだけれど、9月16日なら喪中葉書を出すものといったような考え方をするのはおかしいでしょ、やっぱり。

問題の本質は、いつ起きるか分からない身内の不幸と、決まったときに行われる年始のご挨拶が無理に結び付けられてしまっていることだ。救急車が定期便になったら急病人が大いに困るように、偶発的なものと定期的なものを強引に関連づければ話がややこしくなるのは当然のことである。身内が死亡したのに「おめでとう」はないだろうという人もいるかも知れないが、挨拶は挨拶として別に考えれば良いものだと思う。友人が結婚しときは、個人的な事情がどうであれ「おめでとう」と言ってあげたいし、虚礼的な年賀状はいらないとしても、普段はあまり会えない遠方の友人には、年に一度の年賀状ぐらい送りたいものだ。

しきたり通りに素っ気ない喪中葉書なんぞ送りつけたところで、何も始まらないと思うのだが。



学校IV
2001年11月4日(日曜日) はれ

今日の雲模様/雨上がり。明け方、重く分厚い雲を押しのけるように彼方から青空が現れた。

「学校IV」を観たことで、山田洋二の学校シリーズをすべて観た。学校シリーズは、表向き、学校問題を舞台とした下らん感動物語のようにも見えるけれど、実際は必ずしもそうではない。学校内における話はどちらかといえば二の次で、むしろ人間の心情をディープに描く様がとても巧妙なので「上手いなあ」と思うのだ。「学校IV」に至っては学校のシーンなんて殆ど出てこないから、「学校」なんてものは、話を作るきっかけに過ぎないのだろう。不登校生が家出する話だから、学校のシーンが出てこないのは当たり前なんだけども、学校の話を作るのなら、敢えて学校に行かない人間の事情も扱わなけりゃならんわな。

わたし自身、不登校のときが長かったし、それが原因で家出気味に家から抜け出してきた人間なので、学校IVで描かれているような心情は良く分かる。建前は学校へ行くことが当たり前になっているので、敢えてその当たり前に背くことになると、周囲の風当たりは厳しくなるし、何よりも本人が、このままで良いんだろうかと心配してしまう。そういうものをごまかすためには何らかの大義名分が必要になってくるため、ちょっと格好の良いことを言ったりして、ときどき実行することもあるかもしれないが、そんなものは結局のところ建前でしかないので、何となくそう思っただけど、やっぱりどうでもいいや、みたいなものが色々とできてしまうのだ。

ちょっとネタバレになるけれど、屋久島へ行くためにわざわざ家出したのに、屋久島へ向かうフェリーに乗る直前に「もう屋久島へ行くことなんてどうでも良くなっていた」というようなセリフが出てくる。中途半端で投げやりな態度にしか見えないかも知れないけれど、自分でもマズイと分かっている状態になれば、これからどうしようかと自問するものだし、自問に対しては、誰かに詰問されたときよりも急いで答えを求めてしまうものだ。そういうプロセスで出てきた結論は、ほとんどの場合はちゃんと考えられたものではないから、すぐにどうでも良くなったりするのだけれど、それでも何かやらなければという不登校に特有な焦燥感が、この一言に凝縮されているのではないだろうか。

逆に、わくわくしながら屋久島へ行って素直に感動でもしていたら、学校IVなんてクソと評価していたところだが。



削る
2001年11月3日(土曜日) 雨

今日の赤灯模様/交番の屋根。要するにネタ切れ。

セムスネジって、どうやって作っているんだろう。座金を通してからネジを切っているのかな? 初めから付いている座金では都合が悪かったので抜きたかったのだけれど、回しても強引に引っ張っても抜けてこないので、ちょっと困った。ネジ頭の直径ぎりぎりの溝にネジを入れる必要があったので、しょうがないからグラインダで邪魔な部分を削って解決。写真で見ると、品質の悪いネジだなあ。まあ、アメリカンな製品に付いてくるネジは、加工精度が悪かったり、デコボコしていたり、メッキが美しくなかったりするものだけど。

削ってどうにかしなければならないものといえば・・・何年か前までは、パソコンの組み立て作業にもドリルとかグラインダは必需品だった。ATX規格ができる前の比較的安いパソコンケースの中には加工が最悪なものもあったので、何でも良いから安いものをと思ってそんなものを買ってしまうと、穴の位置が悪くてマザーボードが固定できないとか、ディスクのネジが止められないとか、拡張スロットの穴が微妙にずれていて挿せない、といった問題で悩むことになる。いまでこそそこまで酷いものは滅多にないけれど、何かと何かがぶつかって入るはずものが入らないといったことはたまに起きるので、ちょっと困った経験をお持ちの方もいるんじゃないだろうか。

わたしは削ったりして強引に使っていたけれど、普通の人はどうしていたんだろう?


10月31日の誰か買ってくれ!→売れたわけじゃないけど、処分完了。




2001年11月2日(金曜日) はれ/くもり

今日の猫模様/牛さん模様。だけどパソコンは撤退しちゃった。
今日の月模様/概ねまんまる。お月さんは、チーズケーキでできてるんだよ。
ちなみに8秒露出。周囲が虹みたいに見えるけれど、本物の「月虹」は見たことがないなあ。

ラジオで広瀬香美の歌が何気なく流れはじめたり、オネーチャン達がマフラーを巻きはじめたり、街角でクリスマスツリーを見かけるようになったりする冬は、なんとなく恋愛の季節だというイメージがあるのだけれど、これはどうしてなのだろう。寒くなると男と女が並んで歩くときの物理的距離が必然的に近くなるので恋愛条件がさらに良くなるとか、外気温が下がるので恋の温度が相対的に上がったように感じられるとか、人間の発情期は本来は冬に設定されているために冬が近づくと本能的に異性を求めてしまうとか、理由は色々と思いつくのだが、はっきりとしたことはよく良く分からない。

しかし、たとえばここ神奈川県ならば、夏こそ湘南の海でよろしくやれる季節でしょうという考え方があったとしても不思議ではないし、そもそも冬が特に魅力的に感じられるのは、比較的温暖な都市部だけかも知れない。建物や街路樹が鮮やかなイルミネーションで飾られたりする大都市の冬には都市特有な美も多くあると思うけれど、豪雪地帯で冬が待ち遠しいと感じる人がどのぐらいいるのだろうか。そういうところに住んだことがないので何とも言えないけれど、地域事情とか趣味とかで、ここら辺の考え方はまちまちなのかな。いずれにせよ、わたしにとってはイヤ〜な季節だ。

なぜかって、そりゃ冷え性の季節だから。



千と千尋の神隠し
2001年11月1日(木曜日) はれ/くもり

映画千円の日。つうわけで「千と千尋の神隠し」を観てきた。
前から行こう行こうと思ってたのだが、Mag+Mell さんも大絶賛だしね(^^)

一言でいえば、不思議ワールド大爆発ですなー。非日常なことが矢継ぎ早に繰り出され、早すぎる展開速度に咀嚼が追いつかなかった感じなので、もう何度か観ないとまともな感想は書けないような気はするが、まあ取り敢えず書いてみよう。なんでそうなったのか良く分からない部分はけっこうあるし、ご都合主義満載ゆえ突っ込もうと思えばいくらでも突っ込める点はあるけれど、ファンタジックなストーリはとても素晴らしいので、細かい点にいちいち目くじらを立てるべき内容じゃない。独特な色彩感覚の絵も美しくて、ヴィジャル面も併せてとても素直に楽しめる内容だった(もののけ姫の絵が良すぎたせいか、あれと比べると絵のクオリティが落ちていることは否めないんだけど)。

しかし、とってつけたように出てくる現代社会に対するメッセージが、あまりに直接的すぎると思う。監督が監督だけに、そうしたイデオロギッシュな部分を抜きに作品を作ることができないことは分かるし、観る方もどことなくそれに期待しているところがあるので、暗喩的なものは大いに結構なのだが、現実との接点がまったくないファンタジ小説のページをめくったら、いきなりノンフィクションコラムが現れたような不自然さはやはり頂けない。話の展開はとても素敵なので、むしろ現実とは完全に隔離された純粋なファンタジーと割り切って作ってくれればより良かったと思うのだが、なぜかそうしなかったことは玉に瑕だと思う。

気が付いたらネガティブなことばかり書いているけれど、決して悪い作品じゃないので、楽しめます。

ぜんぜん関係ないけど、誰か買ってくれ!(まだ売れない)



突撃実験室