多事毒論(2002年2月分)


から? より?
2002年2月28日(木曜日) 雨/くもり

時間の起点や範囲を表す言葉として「から」を使う場合(例:会議は10時から)と、「より」を使う場合(例:会議は10時より)とがある。どっちの方が正しいのだろうと思って調べてみると、北海道庁のサイトにあるちょっと気になる用字用語で、公用文の規定が割と分かりやすく解説されている。起点や範囲、あるいは何かの向きをいう場合は、前者の「から」を使うことになっているらしい。「より」は「AはBより大きい」というように、比較するときにしか使わない。某ISPのお客さまに一斉配信されるお知らせメールには、概して工事の予告などが多く、時間の範囲を書くことが多いので、ちょっと気になったりした。

そんなことはどうでもいいのだが、不特定多数の人の目に触れる文章を書くときは、当たり前だけれど細かいところにもけっこう気を遣う。正直に言えば、かなり仔細にチェックしたつもりなのに、送ってから重大なミスが判明したことも何度かあった。なかでもいちばん恐いのは、曖昧な文章があったために内容が正しく伝わらず、質問や苦情で攻められるという事態かな。文章チェックはもちろん何度もやるのだが、わたしの場合、曖昧さを排除しようとすると、文章が冗長で堅苦しくなる傾向がある。「あとが恐い」という個人的な自己保身のためだけに、そんな文章を読まされるお客さまも堪ったものではないと思うのだが・・・次のお知らせメールも無意味に長くなるんだろうなあ。



チャイナ服
2002年2月27日(水曜日) くもり

パソコンの電源を入れたとき、モニタの画面上に多数の細かい血痕が付着していることに気付いた。今日の夕方に指を少し切ったので、そのときに飛び散ったものであることはまず間違いないのだが、その程度の怪我では飛び散るほどの圧力で血が出てくるとは考えられないし、実際にそんな出血はしていない。そういえば、その怪我をしたときは手が離せなかったので、取り敢えず手近にあったティッシュを捲いて、その上から輪ゴムをかけようとしたのだ。だが上手くいかずに、ティッシュが取れて輪ゴムが弾けてしまったことを思い出した。そのとき輪ゴムに付着した血が弾けてモニタの画面に飛んだ可能性は考えられるが、偶然にしては良い具合に不気味な模様を残してくれたものだ。

中国に行ってた弟が土産に服を買ってきてくれた。出奔前、男でも着られるワンピース的なものがあったら買ってきてほしいと頼んでおいたからだ。さっそく届いた小包を開けてみると――もう閉口、貝のごとく閉口。どういうセンスをどう活用すると、数限りなくある中から、自宅の中でさえ着るのを躊躇ってしまうものを選んでしまうのだろうか。去年は去年で、誰が何のためにどう使えば良いのか理解に苦しむ子供用の褞袍を買ってきやがった(その後の激しい議論の末、膝掛けとして使う線で落ち着いた)。今年こそ、ウケ狙いではなく実用本位のまともなものを買ってこいと念を押してあったのに、なぜなのだ? どうしてこうなるなのだと、本当に小一時間問いつめたい。

あ、再来週は誰かさんの結婚記念パーティーだった。この格好で颯爽と登場しようかしら?



記録
2002年2月26日(火曜日) くもり

冬期オリンピックは、ほとんど見なかった。元からあんまり興味はなかったし、ただでさえ寒い季節である。雪や氷の風景がテレビに写っただけで部屋の温度が何度か下がったような気になるというのに、ほかの番組を中止してまでそんなものを四六時中放送するような番組編成は不謹慎きわまりないと言わざるを得ない。筋金入りの寒がりであるわたしが見ているテレビにそのような縁起の悪い映像が映し出されるなど、特にあってはならないことなのだ。と言いつつも、夜のニュースで見たダイジェストの感想を述べれば、一部終始イタタタな内容だったと思う。スポーツなんて、やる方も見る方も楽しめれば良いのだが、ナショナリズム全開に変な利害対立ばかりではねぇ・・・。

時間を競う競技を見ると、いつもこんなことを思う。たとえばアイスリンクに特殊な氷を使ったりすることでタイムを短縮を図ろうとすることは、本質なのだろうかと? ハード面の改良を否定するつもりはまったくないし、公平を期すためには、競技用具や会場の技術水準を、記録を取り始めた時代と統一すべきであるなどと言うつもりはない(*)。人間という生物に潜在する能力の限界に挑戦しようというとき、表向きはスポーツ競技という形態を取っているにしても、競わせる能力を肉体面に限定することはなかろう。科学や技術を抜きに、近代の歴史を語ることはできない。これも人間の持つ能力の一つなのだから、スポーツの場が科学されることも当然だ。

しかし、ミリ秒単位で更新される最近の世界新記録とやらは、肉体能力の向上ではなく、むしろこういう科学面から出てきているのではないかと思うと、大騒ぎして選手だけをよいしょするのは正しいことなんだろうか。では、100年前の水準で作った装備を使って100年前の水準で準備した競技場でその選手のタイムを測った場合、どういう違いが現れるのだろう。意外と変わらなかったら、それはタイム向上技術なんて知れたものだということになるし、前時代的なハードを使う限りどう頑張っても現代のタイムは超えられない、あるいはその当時の世界記録さえ超えられないという結果が出たならば、それはそれで興味深い結果だ。人間の肉体能力は、年々下がっていることになる。


(*) もっとも、時間を記録として測定するのなら、もっと統一された条件でやるべきだだろう。パソコンの CPUを冷却したら常温のときよりも速く動いた、電圧を上げたらさらに速くなった、なんていう種類の「向上」は当たり前の結果で、測定条件をいじくってはじき出した結果を「記録」として残することに、どれだけの意味があるというのだろうか。ある意味で、最近の世界新記録なんて、こういうオーバークロックの記録と変わらんのではないかと感じるのも事実。データシートに書ける条件で安定して速くならなければ、誰も「CPUは高速化した」とは認めんぞ?



ネギ
2002年2月25日(月曜日) 晴れ

電子基板を発注している下請けさんは曰く、本当に仕事がなくて死にかけているという。不況の影響もあるのだろうが、値段での勝負になれば、日本で造っている限りはどう頑張ったところで台湾あたりには勝てないという事情も大いに影響しているような気がする。製造に特殊な技術を必要とする付加価値が高いものなら国産に軍配が上がる場合もあるだろうが、最近ちょっと事情を勉強して良く分かったことは、誰にでも造れるような下らないものを、コストの高い日本で作って割に合う時代ではないということだ。仮に歩止まりが少し悪くなっても、不良分のコストを良品に上乗せしてもまだ安いようなら、国内で作ろうという気はなくなってしまう。

そんなことは、かなり昔から当たり前なのかも知れないが、本業では、金に糸目を付けずゴージャスな部品を大量に使った装置ばかり扱っていたから、あまりそういうことを考えたことはなかった。ところが最近、小ロットの量産品をやたらと厳しい原価で設計するという仕事を引き受けてしまい、確かに国内では難しいと感じた。小ロットには小ロットなりの難しさがあり、少量単位で買うと、大量に買ったときと比べて単価が倍になるような部品も少なからずあったりするから、ただでさえ全体的に割高になる。冗長と思われる設計を見直し、限界まで部品を減らしたりと努力はするのだが、それでも小ロット生産をぽんと引き受ける海外の業者なら、設計に無駄があっても割と安い値段を言ってくるから侮れない。

そんなわけで、ネギなのだ。いつぞやにひと騒動あった中国産のネギと、良く似た程度の国産ネギが並んでいたとしよう。もちろん値段は中国産の方が安いのだが、どの程度の価格差なら、たとえ割高であったとしても敢えて国産のネギを選ぶだろうか? わたしは、直感的に 1.5倍程度ならば国産を選んでもいいと考えたが、世間の平均もだいたいそんなものらしい。たとえば一束100円の中国産に対し、国産のネギが一束150円ぐらいなら、国産を買っても良い。国産というブランドに50円ほどの価値を認めても良いし、個人的には、博多のネギが一番うまいと思っている。しかし、国産が一束200円になると、品質が同じなら中国産を選ぶだろう。ブランドに対する価値など、限度を超えれば値段の付け間違えと変わらない。

中国産のネギの価格と比較して、1.5倍を上回らない値段で国産のネギを作ることは可能らしい。いまは手作業でのんべんだらりとやっている作業を機械化し、より効率的に生産すれば、なるほど、それも無理な話ではないかも知れない。ところで、例えばその機械は補助金、要するに税金で購入することが前提であるとなると、どう思われるだろうか。確かに作業が効率化されることで、国産のネギの出荷価格は下がるだろう。中国産と張り合えるぐらいの値段になるかも知れない。しかし、スーパーなどでネギを販売する際、「国産ネギ大特価! この値段を実現するために投入された税金は何十億円、気合い入ってます!!」なんて堂々と書いて売れるだろうか。

何となくどこかか、ちょっとだけ違うような気がするのだが。



デザート中毒
2002年2月24日(日曜日) 曇り/晴れ

ふとした話で、「これをやめたら、毎月何千円の節約になるのかな」と言ったら相手に驚かれてしまった。なにも具体的な金額が話の論点であったのではない。それほど酷い中毒であるという意味合いの暗喩的なニュアンスで、あまり深く考えずにそう言っただけなのだが――そう言われてみれば、実際のところはどうなのだろう? 改めて計算してみると、これがまんざらでもなかったのだ。低めに見積もって毎日100円ずつ胃に飲み込まれていくとしても、それだけで月3,000円になる計算である。たとえば本日のネタは、見切り品として50円引きになっていたチョコレートケーキだった。カップの底に飴状の層ができるほど甘く調合した紅茶で食道を潤滑しながら、都合200円+税が胃酸の藻くずと消える。

考えてみれば、本当に病気かも知れない。やめようと思ったことも何度かはあるのだが、食後に何らかのデザートを食べる「締めの儀式」が欠けると、どうも食事が終わった気がしないのだ。職場でも小腹が空くとこういう類のものを食べながら仕事をしていることがあるし、いまいち食欲がないときでもデザートだけなら食べられる。そんな調子で毎日1〜2個ずつ消費されているはずだが、それでも冷蔵庫から在庫がなくならないことを考えると、トータルでは相当な数を買っているのだろう。ほかの買い物のついでに少しずつ買ってくることが多いためか、コストとしては見えにくいところだ。もっとも、250円のケーキ系はコストパフォーマンスが悪いから、見切り品でもない限りあまり買わない。これはどちらかといえば嗜好品で、常食しているのは100円のゼリー系。最近のマイブームは、「たらみ」かな。



オオタカ
2002年2月23日(土曜日) 晴れ/曇り

道路や廃棄物処理場といった、環境保護に熱心な方々を刺激しそうなものが計画されて反対運動が巻き起こると、「オオタカ」ってやつが判で押したように出てくるのはなぜだろう。オオタカが希少種として指定されていることは事実だが、異なった地域で行われている多数の反対運動においてその名前が出てくれば、割とどこにでもいるではないかとさえ思えてくる。オオタカがどう分布しているのかは知らないけれど、どこにでもいるという印象を与えることは、意外といっぱいいるという錯覚を招く一歩手前ではないだろうか。その場所にしか生息していなそうな聞いたこともないような生物ならば、特に保護する必要もあるのかなと思えるけれど。

絶対数は少なくても割と広い地域で生息しているものならば、各地で発見されるのは当たり前だろう。仮にオオタカがそうであるなら、オオタカは環境保護運動を行う上でとても好都合な生物なのかも知れない。たとえば何らかの反対運動を行う際、希少種が生息しているという事実があれば一種の切り札として使えるはずだが、いるかどうかも分からない、その地域に特異な生物を探す作業は容易ではない。そこで、少数ながら広い地域に分布していると分かっている希少種に的を絞って探すわけだ。あくまで推測だけれど、オオタカは、地域差があまりなく、高い確率で効率よく発見できる手っ取り早い希少種種として抜擢されているのだろうか。

オオタカが出てくる理由は良く分からないが、オオタカが、何か反対運動や、より広範囲な意味での環境保護活動における象徴に過ぎないものに成り下がっていることは間違いなかろう。心からオオタカを愛していて、好きで好きで仕方がなくて、オオタカの保護を呼びかける運動なんて、そうあるものではないような気がする。



猫の日
2002年2月22日(金曜日) 晴れ

ねこの日。でも 2月22日 → 2 2 2 → ニャンニャンニャンには若干無理があるような?

中央線の踏切。それだけ。



日光集約装置
2002年2月20日(水曜日) 晴れ

先月、Las Vegas に滞在していたときのことだ。タクシーに乗って市内を移動していたら、たまたま通りかかった道路沿いのだだっ広い敷地に、パラボラアンテナに似た怪しげな物体が立っていた。衛星の地球局か何かだろうと思ったのだが、どうも違うようだ。無線通信用のアンテナにしては、タイルを並べて作ったような構造のパラボラは見慣れないものだったし、よく見ると太陽のある方向へ向けられている。最初はパラボラの背面しか見えなかったので分からなかったが、タクシーが進むにつれ、アンテナであればフィードホーンが取り付けられている箇所の様子も明らかになった。そこには力いっぱい日光が当っており、遠目にも眩いほどの明るさで純白に輝いている。

どうやらこのパラボラのようなものは、いうなれば巨大な凹面鏡を使った日光集約装置のようなのだが、どういう目的のものなのかはよく分からない。太陽光を効率的に使おうというコンセプトのものであることは確かだと思うが、これで発電でもしようというのだろうか。



続・護送車
2002年2月19日(火曜日) 晴れ

すぐ近くの橋から。いつも通るところなのに、なぜか普段よりも少し美しく見えた。クレーンがいいね。

米大統領が乗っているリムジンについて、各所からツッコミを頂いた。あの車には外交官ナンバーが付いている、エアフォースワンは米軍機なのだから米軍の車輌とも考えられる、などなど・・・。米大統領の身辺警護をやっている厳つい雰囲気のオニーサンたちは、財務省の下部組織である Secret Serviceだ(どういうわけか危ない仕事はみんな財務省の担当)。このサイトにはあのリムジンの写真がやたらとあるので、リムジンも Secret Sercice の車輌かと思う。どうでも良いが、あの連中を引き連れて居酒屋に入って来られたら、普通のお客さんは最初こそ珍客を歓迎していても、まるでヤクザか何かに監視されているような気分になり、しばらくすると何だか不快に感じるのではないかな。

あのリムジンを日本に持ち込んだ場合は、どうなんだろう。ニュースの映像でちらっと見ただけなのではっきりとは分からないが、確かに青いナンバープレートが付いているように見える(ちなみに米軍車輌のナンバーは白地に黒文字)。事故を起こすと極めて面倒なことになるとか、状況から見て明らかに私用なのに、渋谷とか表参道あたりのいかにも邪魔な場所に堂々と路駐している車輌として悪評高いアレである。聞き伝えだが、あの外交官ナンバーは、在日外国公館が欲しいといえば、外務省から必要枚数が交付されるらしい。そのストックがあれば、一時的に持ち込まれたリムジンに取り付けるぐらい、訳のないことだ。良く分からないが、大統領のリムジンも外交特権で走っているんだろか。



護送車
2002年2月18日(月曜日) 晴れ/くもり

ランドマークタワーを見上げる公園で、チャンバラごっこ。チャンバラなんて言葉は使うのは、スポチャン業界を除き、わたしぐらいの世代までだろうか。洋風ファンタジー風な RPGの流行により、いまは「剣で戦う」と言った方が通りが良いのかもしれない。ランドマークタワー、直訳すれば「目印塔」とはよく名付けたものだ。ここらにいると、とんでもないところから見えたりする。ローカルな富士山みたいな存在だ。

来日中のブッシュ大統領が乗っているリムジンは、米国から一緒に運んでくるそうだ。あれが日本の公道を走る際、警察の一存であらゆる交通標識が板きれ一枚になってしまうことは分かるとしても、外国から持ち込んだ自動車がいきなり無保険・無車検で走行することを法律は想定しているんだろうか。たとえ要人護送車であっても、厳密にいうとあれは超法規的なものかも知れない。よく見ると、リムジンのトランクには大小いろんなアンテナが取り付けられている。交通の規制はできても、電波はピンポイント的に規制できるものではない。電波法どこ吹く風で行われていると想像される警護要員の無線通信も、グレーゾーンなんだろうか(日本にも米国政府関係機関用の割り当てはあるが)。

要人来訪があったりすると、どうもアンテナとかに目が行ってしまう・・・



夕陽
2002年2月17日(日曜日) くもり/雨

しばらく更新が途絶えてしまい申し訳ない。どういうわけか過去数日間ほど腕と肩がピリピリと痛くてキーボードを打つのが辛くなり、無理を押してまで文章を書く気にはなれなかった。普段やらないような運動をしたとか、重いものを運んだとか、原因らしい原因も思い当たらないのでなんでかよくわからない。昔から、ちょっと疲れが溜まると神経痛みたいなものが出る傾向があるので、そんなようなもんかな。

ちょっと疲れたときに行ってみたりする場所から見た、日の出。綺麗だった。ところで、刑事ドラマなんかのエンディングに出てきそうな「空が真っ赤に燃える感じの夕陽」は、インチキ臭いが、赤いフィルタを入れて撮影することであのような色を醸し出しているらしい。日の出の写真でも青と緑の成分をほとんど消して赤っぽく改造すると、確かに夕陽っぽく見えるかな。



ATOK15
2002年2月13日(水曜日) 晴れ

日本語入力支援ソフトは、なんだかんだといって ATOK が最高だと思う。いつも短時間で殴り書きしている多事毒論の文章でもそこそこ正しいのは、ATOK の功労にほかならない。そんなわけで、最近出た ATOK15 を入れてみた。特筆すべきは、関西人の誰もが望んでいたわりに実装されることのなかった、関西弁入力モードが実装された点だ。いままでは正しく変換されず、平仮名で打つしかなかった関西弁の助動詞や補助動詞もほとんど正しく変換され、たとえば「往生し末世」などと変換されて本当に往生していた言葉も、関西弁モードにすると「往生しまっせ」に変換されて往生せずに済む。

「来えへん」(来ない)「あかん」(ダメ、できない)は当然ながら大丈夫だし、いまでは年寄り臭い言い方になりつつあるが「せなんだら」(しなかったら)も変換できた。しかし、助詞の「は」や「を」などを省略する話し言葉は理解できず、「これ〈は(←省略)〉あかんわ」は、「来れ明かんわ」になってしまう。文節は正しく区切られるが、文脈の判断ができずに誤変換されるようだ。「なんでやねん」とか「ほんまかいな」のツッコミは大丈夫。かなり大阪弁らしい言い回しである「好っきゃねん」(惚れた女に告白するときとか、やや照れくさいニュアンスを伴う「好きやねん」といえば良いのか)も変換できた。

ちょっとお下品な方面はどうだろう。「零しよった」「しよらへん」といった使われ方をする「よった」や、その否定形である「よらへん」「よらん」は漢字を含めて変換できる。だが、来ないという意味での「きよらへん」を変換すると、候補には「着よらへん」しか現れない。中途半端に標準語の辞書を引きずっているのだろうか、「着よ」はあり得ても「来よ」がないからかも知れない。もっと喧嘩腰になってくるとダメで、「あほんだら」「何さらしとんじゃ」「誰やと思とんじゃ」は変換できたが、「何さらしてケツ観念」はご覧のとおり通じなかい。こんなの言う人は滅多にいないから良いが、「けつかる」が辞書にないようだ。

徳島の会社だし、次は阿波弁でも実装するのかな?


ぜんぜん関係ないが、Solaris について今日おぼえた(訳註:はまった)こと。setitimer で設定されたインターバルタイマは、fork しても子プロセスには引き継がれない。つまり、本番では fork してデーモン化することになっているが、-DDEBUG なんかを付けてコンパイルすると fork しないデバッグ版が生成されるようにして開発する場合、それで調子よく動いていると信じて本番前チェックに行くと思いっきりはまる可能性があり、見事にはまった馬鹿がここに約一名・・・本番用は SIGALRM 発生メッセージも出ないようになっていたから、なおさら悩んだ。

fork の man にはちゃんと書いてあるが、setitimer は fork したのち、子供にやらせようね(ぼそ)



服装
2002年2月12日(火曜日) 晴れ

空き地に枯れ木がぽつり。逆さにした竹箒みたいだった。
柿生陸橋の横にある空き地(グランド?)は、いつ見ても妙な風景だ。

不要となった衣類を親戚から譲り受けたり、年に一度か二度ほどユニクロへ行くぐらいで、わたしの着るものはだいたい間に合っている。下着類は必要限度において良質なものを選んでいるが、その方が長持ちするから結果的にお得という理由からそうしているに過ぎず、衣服に関しては徹底的な合理主義を貫いている。と言えば聞こえは良いが、買いに行くのが億劫なので、なるべく買いに行く機会を少なくしているのだ。その程度の在庫しか持っていないので、会社に行くときの服装も我ながら見窄らしいものだ(零細企業の内勤だから問題はないのだが)。フォーマルな服も一応持っているが、客先のエライさんと打ち合わせがあるなど特殊な予定があるときに着るのみ。

毎朝背広で出勤しているオヤジに言わせると、お前よくそんな格好で仕事をする気分になれるな、みたいな感想を持っているらしいが、わたしにはむしろ、おおよそ10分で職場に着くとまず作業服に着替える人間が背広で出勤することの方が不可解だ。作業服を外で着るのが嫌だと感じる人もいるかもしれないが、うちのオヤジの場合は家の目の前に置いてある車に乗り込み、自分の事務所の真ん前にある駐車場に車を横付けすれば通勤は完了だから、その心配もなさそうである。それならば、予め作業服を着用して出勤し、フォーマルな服装がいることもあるのなら、むしろ背広の方を更衣室に常備しておいた方が、どう考えても合理的だと思うのだが。

その点についてオヤジは、そう言ってしまえばそうなのだがと前置きしつつも、家を出るときの服装が締まっていないと、どうも仕事に行くのだという気分にならないのだと弁明する。そろそろ定年になろうとかというサラリーマンには、合理主義だけでは割り切れない何かが染みついてしまっているんだろうか。年に何度か、いわゆるサラリーマン風の格好で外を歩く羽目になると「なんか板に付いてないなあ」「こんなのは本当の自分じゃない」なんて思って嫌になってしまう、わたしのような人間には理解しがたい何かが。



ヒトじゃない
2002年2月11日(月曜日) くもり/晴れ/にわか雨

昨日の夕日は綺麗だった。春はまだかな。

「知的生命種」の定義には諸説あると思うが、とりあえず文明らしいものを築いている種という意味では、少なくとも地球上ではヒトが唯一の知的生命種だ。しかし、もしヒト以外にも、言語を用いて何らかの文明を築き、家を建てて土地を占拠したり、国家を作って統治する種がいたとしたら、どんな世界になっていたんだろうか。同じヒト同士でも人種やら文化やら思想やら国籍やらといった些細な差異が元で諍いが起きるのだから、種類からして違うくせに文明を持とうなどとはけしからんにも程があるとか、そこは俺の土地だから明け渡せとかいって互いを滅ぼし合うんだろうか。それとも、よい関係を保つなり適度な距離を置くなりして、共存できるんだろうか。

いずれにせよ、そんな世界では、ヒトとヒトとの争いは比較的少ないかも知れない。より警戒すべき集団がほかにいたら、同種同士の問題にエネルギを割いている場合ではないから、仲良くすることはできなくても、ヒトの存続自体に関わるより大きな問題がほかにあるから放っておこうかということになるような気がするからだ。SF的に相対化すればそんな話になるんだろうが、現実の歴史では、冷戦ってやつが世界をそのような構図にさせ、良くも悪しくも細かい紛争の歯止めになっていたことはよく言われる。冷戦の終焉で平和の光が見えたかと思いきや、それがパンドラの箱を開けるきっかけとなってしまい、抑えられていた潜在的な地域紛争が次々と実体化したとする説である。

特に、ある種の人間の存在を地上から殲滅することが目的である民族紛争みたいなものに対しては、人類に対する犯罪という言葉がしっくりくる。人類の構成図や分布図を塗り替えようというのだから、まさにそのものである。これをどう防ぐかという話になると、貧困解消から変なユートピア論まで無数の策が出てくるわけだが、もしかしたらヒトには、種の異なる競争相手がいるという緊張感がないから、人類による人類に対する犯罪が起きるのではないかとも思う。冷戦を例に取れば、これを肯定するつもりはないが、東西が互いを「別種の生物」ぐらいに捉えたことで、種の存続をかけた仮想の生存競争が機能し、対立による一種の安寧秩序が生まれたのだと考えられなくもない。

ヒトではない知的生命体とか、なにか得体の知れない人類共通の要注意集団がいると、皮肉な話だけれど、少なくともヒトとヒトは割と仲良くできるのかな。まあ勢力が拮抗しているのならともかく、ヒトの方が強ければそれは単なるスケープゴートであり滅ぼすための種だとも言えるし、別種である相手の方が強ければ、ヒトは滅ぼされるだけかも知れないけれど。種の異なる生物との和平は、何となく見込み薄な気がするなあ。



人口
2002年2月10日(日曜日) くもり/晴れ

カタギに限って使ったりする「若い衆よこすぞ」という捨て台詞に出てくる「衆」という漢字の部首は「血」でいいらしいのだが、そんな部首があること自体しらなかった。なにが部首だか分からない漢字も多いというのに、知らない漢字を調べるときの検索キーとして部首に頼ることは、果たして理に叶っているといえるのか。ほかに検索キーになりうるものもないのだが、知らない漢字を読もうとするときは「感じ」で読むことが多い気がする。「更迭」を「こうそう」と読んでみたり「教諭」を「きょうりん」と読んだりするようにだ。もっとも、感じだけでは読めない漢字もあるからな。「鬱」なんて漢字は、知らなければ絶対に読めない。

巷では「世界がもし100人の村だったら」なんていう陳腐なヒューマニズム物語が流行しているようだが、その村は現実に存在しうるものなんだろうか。一気に人口が減るような事故さえなければ、しばらく村の人口を維持できそうな気もするし、いわゆる「未開の地」が世界の大半を占めていたときは、人口が100人ほどで外部との交流がなかった部落も実際にあったかも知れない。しかし、個体数が少なくなってくると、みんながみんな近親相姦するような状態になってまともに繁殖できなくなり、いずれ絶滅するんじゃないのかな。取り敢えず子供を作ることはできても、その子供は、兄弟姉妹やら親ぐらいしか夜のお相手がいない、みたいな。

人間が安定的に繁殖するためには、最低限どのぐらいの個体数が必要なんだろう?



言語
2002年2月8日(金曜日) 晴れ

随分と昔のことだが、アメリカのとある空港にいたときのことだ。

ふいに何か話しかけられたので立ち止まると、長身痩躯の若いアメリカ人男性が、少しだけお時間をいただけないかと続けてきた。言語こそ英語だが、こちらが外国人であったための配慮だろう。鷹揚な口調で単語を分けながらはっきりと発音するしゃべり方は、さながら英会話教室の初級クラスで授業をする先生のようだった。平均的なアメリカ人なら、まずこんなしゃべり方はしてこない。彼らなりに配慮しているつもりでも、英語の不自由な者にしてみれば早口で捲し立てられているように聞こえてしまうのが常である。それだけで、外国人相手の会話では、かなりの場数を踏んでいると人だと分かる。

初めに簡単ながら礼儀正しい挨拶を済ませると、これまた丁寧に、あなたはどこの国の人ですかと問われた。そこで自分は日本人であると答えると、その瞬間、会話が日本語に切り替わったことには驚かされた。アクセントを付けすぎた発音はいかにも欧米人らしいもので、流暢とは言い難いものの、決して片言ではない。会話が成り立つレベルだったからこそ、驚いたのだ(日本人だと分かると、コンニチワだのテリヤキだの、片言の日本語を知っている限り披露するアメリカ人はごまんといる――こちらはリアクションに苦慮するが)。そしてここからは少々怪しげな日本語で、話しかけてきた目的をゆっくりと語りだした。

自分は宣教師であり、キリスト教の布教活動をしている。キリスト教に興味はないか、という。もっとも、分厚い本を片手に抱え、一見しただけでそれと分かる服装をしていたから、話を聞く前からだいたいそんなことだろうとは思っていた。興味はないので、鄭重にお断りする。しかし、どうしてそうも上手く、しかもこんな急な場面で日本語が出てくるのか不思議に思い、別れ際に尋ねてみた。すると、その人は布教活動のためにあらゆる言語圏を旅しており、布教活動が効果的に行えるようにと、主要な言語は出来る限り勉強しているのだといった。その過程で日本に立ち寄って、日本語を勉強したこともあるそうだ。

何となく頭が下がる思いだったのと同時に、宗教が絡むと人間はここまで熱心になれるのかとも思った。日本人なら日本語以外の言語として、とりあえず英語を勉強する人が多いだろう。嫌々ながら勉強せざるを得ない立場にある人も多いだろうが、二カ国語ぐらいなら、努力次第で何とかなる範囲だ。しかし三カ国語目を超えてくると、困難を極めると、実際に勉強しようとした人から聞いたことがある。中途半端な修得状態でまた異なる言語に手を出すと、何が何だか分からなくなってきて、あとから覚えた言語では、違う言語の単語が混ざって出てきたりしてしまうらしい。

普通の人間が努力して修得できる言語は、頑張っても三つが限界ではないかということだった。



菜食原理主義
2002年2月7日(木曜日) だいたい晴れ

友人から、ある筋金入りの菜食主義者の苦悩を教えてもらった。その人は、植物以外のものは絶対に口にしないと決めており、たとえ微々たる量であっても、その信念を曲げることはあり得ない。このため、特に飲食店での食事は困難を極めるのだという。たとえば、豆腐なら大豆から作られているので食べられるだろうと思ってうっかり注文すると、ダシがかかって出てくることがある。鰹のエキスをふんだんに含むダシなど、その人の信念に照らせば問題外だといい、これはもちろんダメ。調味すらされていない生の食材だけをぽんと出す無愛想な飲食店なんてそうあるわけではないから、外食は難しいだろう。そういえば、昆虫類はどうなんだろう。イナゴの佃煮も菜食主義の原則に反するのだろうか。

食に対するコダワリの一種としての菜食主義が悪いとは思わないが、ここまでの原理主義になると、もはや主義の範疇ではない意味不明の宗教のように思えて感心できない。意に添わないものを食べない限り餓死するというとき、どうするのだろう。鰹だしがダメだというぐらいなら、動物に由来する原料を使った医薬品も拒否の対象なのだろうか。急な治療でその類の薬が使った結果、とかの証人よろしく訴訟を起されれば医者もたまらない。コダワリを持つこと自体は悪いことじゃない。だが、それは迷惑にならない程度の適度な例外と妥協が伴っていてこそ許されるもので、周囲の迷惑省みず、自己の満足だけを満たそうとする者に、真っ当な信念があるとは到底考えられないのだが。

そんな半端なことを言えるのは、わたしが日本人だからだろうか。食文化だけをとってみても、現代の日本において食卓に上る食材の品種はそれこそ星の数ほど存在する。特定の食材を排斥することは安全上の疑問があるときに一時的に発生するぐらいで(その安全意識自体が一種の宗教だという議論はさておき)、少なくとも信念的な理由からそういうことが行われることはまずない。そもそも、もうルーツが分からないほどに舶来の食文化が入り交じった日本の現代食文化が形成された背景には、異文化でさえチャンポンすることに何の疑問も抵抗も感じない、日本特有の、美味であれば結果オーライな万能雑食文化があるといえるだろう。

こんな文化的土壌で育った人間としては、中には食に対して特殊な信念を持つ人がいるということを意識する段階からして難しいような気がする。偏食なら分かるが、何々を食べることが冒涜だといわれても、ぴんとこない。本来の意味とはちょっと違う意味でエンゲル係数が高めのわたしとしては、理解しようとも思わないが。



算数
2002年2月6日(水曜日) 曇りのち晴れ

インターネットウミウシっていうウミウシがいるらしい。模様が張り巡らされたネットワークに見えることから、そういう名前になったそうだ。ウミウシとはぜんぜん関係ないが、「シクロアワオドリン」という名前の化合物もあるらしい。由来はご想像の通りで、合成して命名したのは徳島文理大の西沢研究室。もし新潟だったら「シクロコシヒカリン」ぐらいになるんだろうか。いいね、こういうウケ狙い系のネーミングって大好き。

Fast & Fast掲示板に、

○+△=7
□+○=6
□+△=5

以上の式を満たす3つの自然数を、小学校2年生に理解できる解法で求めよという問題が出ていた。し〜ばらく考えた末、小学生らしくないかも知れないが、式どうしを足すことで解けたことは解けた。しかし、どんな解法を使うにしても、建前上は小学生向けとされている問題がさっと解けない自分が情けないったらありゃしない。あるいは、小学生には解けるけれど、もうちょっと成長すると解けなくなる問題もあるということなんだろうか。電車の中で日能研のチラシも見るたびに、そうであって欲しいと思ったりする。国語の問題はわりと解けたりするんだけどなあ。漢字は、書かないという条件付きなら、概ねの形ぐらいは思い出せるので。

どういうわけか、わたしは何らかの未知数を求める問題が苦手で、電気の世界では似たようなものとして回路に存在する未知の抵抗の値を求めるような問題がよく出てくるが、少し複雑なものになると必ず苦戦する。というか、頭でやる計算はどれも出来ないといった方が正確だろう。計算ができないことは実生活で困ることも多く、たとえば1000円ごとに特典がつくスーパーで買い物をするとき、あと幾ら買えば1000円を超えるか? という暗算がさっとできない。そこで余裕を見て買いだめをすると、1990円ぐらいになることが多いようだ。余計な機能が満載の携帯電話も、電卓機能だけはありがたいと切に思ったりする、今日このごろ。



C++
2002年2月4日(月曜日) くもり

主に Unix と組み込み屋という職業柄、C言語とかアセンブラはいじることがあっても C++ は滅多に使う場面がないので、たまにやると疲れる。食わず嫌いで知らんとも言ってられず、少しは勉強したつもりだが、どうも馴染めないのは慣れの問題かな。確かに Cの欠点が改善されていることは理解できるが、やることなすこと全て言語そのものに管理される社会主義体制がいまいち性に合わないらしい。例として、クラスを設計するときは私的部と公開部をきちんと使い分けましょうとか教科書に書いてあるのでその通りにすると、当たり前だが自由にいじれない領域が出来てしまう。しかし、いじりたいときもあるわけで、この辺が余計なお世話に思えてくるのだ。

そりゃ言語仕様の不理解ゆえでしょと言われれば全くその通りなのだが、自治と掟だけで平和に回っていたところに、いきなり国家という化け物が生まれ、法治主義やら公共の福祉やらで小回りが利かなくなったときのフラストレーションっていうのだろうか。取り敢えず最初のうちだけでも C++ らしい機能を生かしたカタギなコーディングをやろうとしているから面倒くさいのかなと考えると、そのうちグレちゃって、C言語にありがちな自治と掟を基本的規範としつつ、C++ の甘い汁だけはしっかり吸うヤクザ屋さんになるかも知れない。どのような体制下であっても、器用に立ち回って恩恵だけを受けるアウトローはいるものだ。

わたしの場合、C++ 食わず嫌い向けのテキストか何かに書いてあった「オブジェクト指向なんて言葉は忘れろ」「いままではプログラマがやってた『構造的に作る』ことが言語仕様に盛り込まれただけ」という説明を読んで、C++ に対するとっかかりをつかんだ気がする。クラスだのメンバだの、公開だの私的だの、新しい言葉が出てきて戸惑っていたが、そう言われてみれば、Cでも規模の大きいプログラムを書いてれば、たとえば構造体を作ってそれを操作する関数を書いたり、部外者無用の関数には static 宣言を付けて似たようなことを暗黙のうちにやっていたわけで、従来よりあったそうしたスタイルに名前を与えただけかという極論的理解が良かったみたいだ。



整理整頓
2002年2月3日(日曜日) あめ

いまにも大崩落を起こしそうな部屋を少し片付ける。それでも、一般的に「よく整理されている」といわれる状態からは程遠いが、床面積が倍ぐらいになった気がするので良い方だろう。大掃除した直後だと、その状態をできるだけ長く保たなければならないという心理が働くのであまり散らからないのだが、時間とともにどこかが少しずつ散らかりだすと、整理された状態を保とうとする気概は途端になくなり「少し散らかってる方が便利だし」に方針転換してしまう。ひとたび解れた糸が元に戻ることはあり得ず、その後の行方は、堰を切ったようにとでもいうべきだろう。

住環境を圧迫している主な原因は書籍で、増設に増設を重ねた本棚も、そのキャパシティなどもうとっくに100%を超えているから、いつのまにか床に塔ができたり、机に層ができたりするばかりでなく、おおよそどんな空きスペースにも本置き場が出現してしまう。考えてみれば、二度と読み返すことはないだろう文庫本とかいらないものも相当あるので、何とか処分したいと思いつつ、潔く売るようなことを考えるとつい二の足を踏む。内容は下らなくても、どこそこに出てくる表現はなかなか面白いなとか、なんて思っているうちに、たった数行のために保存される本が溢れてくるというわけだ。

もっとも、これは覚えておきたいなという箇所が一冊の本の中にそう多くあるわけではないので、どうにかして電子化することも考えたことがある。打ち込むのはあまり苦じゃないし、スキャナに読ませるという手もある。CD-R一枚あれば相当な量の文字数が入るし、その方がよほど構造的かつ合理的に管理できるはずである。しかし、膨大な紙面のなかから当該箇所を見付けだして保存する作業の手間暇を想像しただけでやる気がなくなってしまい、まだまったく着手していない。多分、永遠に行われることはなく、引っ越しか何かのおりに泣く泣く捨てる羽目になるんじゃないかな。



変なディテール
2002年2月2日(土曜日) はれ

ブックオフに行ったら「盗聴」と題された文庫本を見付けたので、どんな内容なんだろうかと手に取った。ページを捲ると、いきなりめちゃくちゃ濃い書き出し・・・これだけを見て思わず買ってしまった。

「……警視庁から各局へ――。基幹系傍受の通り、丸の内管内、皇居外苑祝田橋付近にてマルXらしき爆発音を確認。各勤務員は臨場のうえ、徹底したマル索に勤められたい。なお、現時点での265はなし。繰り返す、皇居外苑祝田橋付近にて……」

これ、真保裕一の著作である。真保裕一というと「ホワイトアウト」の作者で、映画は見たが、主演の織田祐二が格好よければ何でも良いみたいなノリのとっても下らない内容だったので、原作の小説は読んでいなかった。しかし、この無線交信を見る限りでは、変なマニア的リアリティに期待できるかも知れないと思い、「盗聴」とともに「ホワイトアウト」も購入する(まだ読んでないけど)。

ミステリでも特に、「壮大なスケールの」とか「予想外の」といった言葉が帯紙で踊っているような種類のものは、大抵どれもつまらない。いくら手が込んでいようが、どう考えても現実的でないトリックなどについて延々と説明されたところで、感想は「どうせあり得ないし」の一言しか出てこない。しかし、むしろどうでもいいようなところでディテールにこだわったやつは好きなのだ。やりたかったからやったんだ、分かるヤツには分かるから説明など必要ないと悪びれることもなく割り切った書き手のマスターベーションみたいなものが、あり得ないことにも妙な現実味を帯びさせてくれるからである。

序章に出てくる上記引用部分も、本編を続けるための必然として書かれているわけではない。というか、これが仮に重要な部分であったなら、解説コラムでも入れない限り、「265はなし」なんて普通の人にはまず意味が通らない(ちなみに「爆破予告はなし」の意)。



狂牛病
2002年2月1日(金曜日) はれ

狂牛病(以下BSEと称す)に感染したウシの日本第一号が発見されたのは、昨年9月のことだった。あのとき、どえらい騒ぎになったのはご存じの通りだが、釈然としないのは、なぜ、端的にいえば「たった」それだけのことが、あそこまでの騒ぎになったのか、ということである。畜産業や農水省など、ウシと直接の関わりのあるところに衝撃が走るのは理解できるが、マスコミが大事件として取り上げたあと、どういうわけか消費者の側においても比類を見ない規模の買い控えといった反応が起きた。だが、そこまで大袈裟な反応の発端となったのは、つまるところ「たった」一頭の感染だった(ちなみにその後も感染が確認され、現時点で計3頭が確認されている)。

少数だから無視できる程度だとか言いたいのではないが、敢えて「たった」を強調したいのは、この一頭や、次の一頭が消費者に与えたインパクトはなんだったのかということを考えてみたいからだ。行政に不手際があったことは言われている通りだろうし、安全でないと思われるものは口にしたくないという気持ちは分かる。しかし、その後は全頭検査などの対策が比較的迅速に採られたこともまた事実だ(それすら信用ならないという人もいるかも知れないけれど)。にも関わらず、BSEが一例でも発見されれば当該国の畜産は終わったも同然、しかもそのウシを食べた人間は人生も終わったようなものだ、というぐらいの論調でBSEについて熱く語る人もいる。

10年ほど前、BSEに感染したウシが一年間に万単位で確認される(リンクは国際獣疫事務局の統計)という事件が英国で起きた。その後、変異型クロイツフェルト-ヤコブ病(いわば人間版BSE)の原因は、BSEに感染したウシの牛肉を食べたことではないかとする説を根拠に、BSEが人間に感染する可能性が指摘されはじめる。いまでも因果関係がはっきりとしないためか、かなり信仰的な論議の元にもなったりしているから、そういうものをご覧になった方も多いかも知れない。狂牛病というと、一般的にこのイメージへ結びついてしまうのだろうか。安全でない牛肉を食べたら脳がスカスカになって必ず死ぬなんて言われたら、そりゃ確かにおっかない話である。

では、そういうことが実際にどの程度起きているのかということは、狂牛病の超大国である英国の事情を参考にするとよい。英国保健省内の Creutzfeldt-Jakob Disease & Bovine Spongiform Encephalopathy に統計が出ており、これによれば、英国内において変異型クロイツフェルト-ヤコブ病で死亡した人間は、1995年から現時点までで104名であるという。仮に、BSEが変異型クロイツフェルト-ヤコブ病の原因であるしよう。累計18万頭を超えるウシがBSEに感染している国で、104名のクロイツフェルト-ヤコブ病による死亡者が出ているという数字が多いか少ないかは、意見の分かれるところだろう。多いと見て、以後牛肉を食べないようにするのも良し、問題にならないと見て、今後も食べ続けるのも良し。

という判断なら良いと思うが、意味不明な馬鹿騒ぎは、いかがなものか。



突撃実験室