多事毒論(2002年8月分)


すごいアクセスが・・
2002年8月31日(土曜日) はれ

トラヒックグラフ www.exp.org が叩き出すトラヒック量の統計グラフを見たら、今日の15時ぐらいから突然、上りのトラヒックだけが凄いことになっていた。普段なら 5分間の平均トラヒックで 100kbpsを超えることも珍しいぐらいなのだが、今日はなぜか 1700Mbpsを超えるような数字が観測されている。なんだこりゃ――もしかして smurf といった DoS attack の踏み台にでもされているのか? そう思ってモニタをかけてみても、攻撃らしきパケットは流れておらず、ただ異様な数の http が流れているだけだ。試しに httpd を止めるとトラヒックが急に落ちる。通常はあり得ないことなので、何らかの異常な状態が発生していると決めてかかってしまったのだが、やっぱり正常なリクエストが急に大量に来るようになっただけのようだった。

そう思って Apacheのアクセスログに目をやると、どうも連邦というサイトで液体窒素のページが紹介されたのが原因のようだ。連邦さんって知らなかったのだけれど、名前だけはどこかで見たような気がするな――と思って記憶を辿ると、Readme Japan のランキングで一位に上がっているところだった(ちなみに、多事毒論は300位ほど)。そんな大手さんからリンクを張られたら凄いトラヒックが発生するのも当たり前である。問題は、突撃実験室のサーバで使える回線帯域に、そんな大きな余裕がないこと。会社の回線にぶらさがっている居候サーバなので、ここのアクセスが過大になるとお客さまに迷惑が及ぶのだ。しょうがない、アクセスが集中しているところはほかの ISPに押し付けてしまえっ。ってことで、個人的に契約している Biglobeのサーバに急遽ミラーを作り、強制的にリダイレクトさせて解決。多くの人に見て貰えるのは嬉しいことだが、管理者としては悲鳴を上げなければならない事態になってしまった。

一昨日書いた謎のテレビ電波の話。ローカルな話だけれど、車に受信機を積んで鎌倉街道を走ってみたところ、上大岡の付近でもクリアに受信できることが判明。山の陰にならない限り、環状二号の内側ならおおむねどこででも受信できるようだ。こんな広い範囲で受信できるとなると、偶然に出ているようなものではなく、意図的に出されている電波だとしか思えない。ますます不思議である。



謎のテレビ電波
2002年8月29日(木曜日) はれ

東京タワーから発信されるテレビの電波ってどこまで届くのだろう? と思って遠距離受信例を調べてみると、条件のいい場所でキョーレツな八木なんかを立てれば、静岡・山梨・長野あたりでも受信できなくはないようだ(東側は不明)。Eスポ満開のときには考えられないようなところで写ることもあるだろうが、普通のときなら概ね半径150km県内ってところかも知れない。これらの県内にあるケーブルテレビ局では、東京キー局を放送しているところも多く、一体どうやっているのか不思議に思っていたのだけれど、どうも受信できる場所を探してきて、根性で東京タワーを受信しているようだ(たとえば長野にある伊那ケーブルテレビジョンのサイトには具体的な受信場所が書かれている)。どうにもならない場合は、遠方にアンテナだけ出張させて、ケーブルとか専用線で延々と中継することもあるのだとか。さすがケーブルテレビというだけのことはある。

受信できた謎のテレビ音声
音声周波数 (MHz)放送局名 (ch)
1140.8000テレビ神奈川 (42)
1152.8000NHK教育 (3)
1164.8000NHK総合 (1)
1176.8000日本テレビ (4)
1188.8000TBSテレビ (6)
1200.8000フジテレビ (8)
1212.8000テレビ朝日 (10)
1224.8000テレビ東京 (12)
ところで、この付近ではどういうわけか1200MHz付近でテレビの受信ができてしまう。1年ほど前に自宅で広帯域受信機をスキャンさせているときに発見して以来、桜木町駅周辺では、Sメータが振り切れるぐらいの強さでずっと受信できている。音声しか受信できないので確認できたのは音声周波数だけだが、広い範囲で「ぶー」と聞こえる周波数も途中にあるので、映像もしっかり出ているようだ。こんな周波数帯でテレビの放送が行われているわけはないし、そこらの微弱無線と言えるようなレベルではない。イメージとかそういうものを受信しているのかとも考えたが、周波数の並びからみてその可能性も否定される。簡単に調べてみたところ、どうもランドマークタワーから出ているようである。確かに、あそこには電波障害対策としてテレビのサテライトがあるのだけれど、東京タワーをUHFで再送信しているだけだから、それでこんな周波数が出るとは考えにくい。なんだろうこれ。事情を知っている人、いませんか?



市外局番
2002年8月26日(月曜日) はれ/薄曇り

中島みゆきの「ローリング」には「9桁の数字を組み替えて並べ直す/淋しさの数と同じイタズラ電話」という一節が出てくるのだけれど、9桁であった東京03地域や大阪06地域の電話番号が10桁化されたのは、それぞれ1991年と1999年のこと。「ローリング」がリリースされた1988年には、東京や大阪の電話番号はまだ9桁だった。ところで、いまでも 0460-D-EFGH と 0578-D-EFGH の二ヶ所に9桁の電話番号が残っている。電話番号の正当性をチェックする正規表現を作ろうとしたときに調べたのだが、電話番号の桁数は可変だから面倒くさいのである。携帯電話などの電話番号も含めると、単純に9桁〜11桁の範囲なら良しと実装も考えられるけれど、人間が電話番号を入力すると、誤って一桁飛ばしてしまったり、一桁多く入れてしまうことも考えられる。そんな実装ではこういうミスを検知することができないから、[0460|0578] と 0[789]0 と、その他の局番で条件分けすることにしたわけだ。

最近は、電話番号の不足から市外局番が激動の時代を迎えていて、妙な市外局番がいっぱい登場するようになった。いままでは、1桁の市外局番(頭のゼロは市外局番の一部ではない)は東京03と大阪06だけだったけれど、今年は04という市外局番が、番号の足りなくなった千葉県柏市に登場した。元は 0471 だったのだけれど、ハイフンの位置を一つ左にずらすと、既存の電話番号が 047-1DE-FGHI になり、市内局番が具合の悪いものになる(0と1から始まる市内局番は使えない)。だから、04-71DE-FGHI になったわけだ。以前は、大阪府の寝屋川MAで 0720-DE-FGHI が 072-8DE-FGHI に変わったように、こういうとき番号を変更していたのだけれど、番号を変えると利用者は迷惑するし、通信事業者としても広報するのがあまりに大変、ということで、こうした変更は寝屋川MAを最後にするという。桁ずれだけなら、市外局番を含めた番号は変わらないなら、全国(全世界)に広報する必要はない。

桁ずれだけの局番変更は(いちいち大規模な広報がされないだけで)あちらこちらで行われているのだが、あと少しで電話番号が足りなくなる大問題局番が042地区だ。ここもハイフンの位置をずらして04に変わることになっているが、すると東京・神奈川・埼玉・千葉という広範囲かつ離散的な地域が同じ04局番を共用することになるから、すごいものになる。042をはじめ、同じ市外局番の電話番号なのに料金区域が異なるので市外通話になってしまう地域はいまでもかなりあるが、こうなると市外局番からおおよその地理的な位置を判断することがますます困難となる。地理的関係が狂うことでややこしくなるのが、天気予報らしい。市外局番+177 でその地域の天気予報を聞くことができるが、たとえば 04-177 にかけたら、一体どこの天気予報が流れるのだ? という話になってしまうからである。これは、天気予報が流れる前に、どこの場所の予報を聞きたいかを入力する仕組みを導入することになるらしい。

これまでは、市外局番には地理的位置を明らかにする機能もあって、この番号にかけるといくらぐらいの料金がかかるだろうといったことを想像しやすいようになっていたのだが、いまは番号枯渇対策のためにこれをあきらめる方向にあるということだから、そういう意味では桁ずれは大規模な方針転換だと思う。たとえば、一見同じ市外局番の「近そうな」番号にかけているのに、柏市から所沢市までの長距離通話になっていることもあり得るからだ。そういえば、たしか10年ぐらい昔には携帯電話にかける際には、通話料金を明らかにする目的で、160kmを超えると040から始まる番号にかけたりしなければならなかったが、こんなものもなくなっている。電話サービスが急激に多様化した結果、もはやそんなことを気にしていられる余裕がなくなってきたことも大きいのだろうが、電電公社の時代から比べると、特に料金面は不明瞭になったなという気がする。いつぞやの鉄道運賃みたいに、計算が誤っているなんてこともあるんじゃないか? 誰も気付かないだけで。



更新報告
2002年8月25日(日曜日) はれ

台湾一周 (その2)」に「中正紀念堂」ほか追加。以上。



交流? 直流?
2002年8月24日(土曜日) くもり

ディスカウント屋で、車の DC12V を AC100V に変換するインバータを見ていたら、なんと「出力 DC100V」と書かれているものがあった。装置自体がシガーソケットプラグの形状になっている小型のもので、プラグの反対側にはコンセントが一つだけ付いている「携帯電話の充電器専用」とされている製品である。最初は「AC100V」の間違いではないのかと思ったが、能書きにはわざわざ「トランス式の機器は使用不可」と書いてあるから、間違いなく直流が出てくるのだろう。直流なら、確かに電源にトランスが入っている機器は使えない。しかし普通の人はそんなことを言われても分からんだろう? と心の中でツッコミを入れつつ、発想は賢いなと思った。DC12V から商用周波数の AC100V を作るよりも、DC100V を作る方が簡単だし、小型の家庭用電子機器なら AC100V との電源定格が示されていても、大抵のものが直流でも問題なく動いてしまうからだ。

電子機器の電源として、高価で鉄の塊みたいなトランスの出る幕が少なくなり、代わりにスイッチング電源が多用されるようになってきたおかげといえる。一般的なスイッチング電源では、わざわざ AC100V を整流して内部で直流を作っているので、交流を必要としているわけではないどころか、むしろ直流の方が良いぐらいだ。そもそも本当に 50Hz とか 60Hz の交流が必要な電化製品は家庭のなかにどれぐらいあるのだろう。トランスを使っている機器でも、原理的な問題からそのまま直流を印加できないというだけで、結果として中身は直流で動いている。エアコンなどのモータ系の機器や蛍光灯などでも、インバータ式のやつならいったん整流しているだろうから、もしかしたら簡単な改造で直流で動くものもあるかも知れない。どうしても AC100V でないと動かないものは、電子レンジとか安物のモータものぐらいだが、これらも直流用に設計することは可能だろう。

それならば、ちょっと大胆ながら家庭のコンセントを直流化すればよいのではないかと思えてくる。そもそも商用電力に交流が使われるようになったのは、エジソンとテスラが直流と交流でモメた時代には交流でないと変圧することができず、交流にした方がよいと思われたからだが、技術が進歩して直流の電力変換が効率よくできるようになったいまでは直流の方が扱いやすい場合もあり、長距離送電にさえ直流が使われるようになってきている。今後、家庭で電力を自給自足することが多くなれば、ますます電化製品を直流で動かすことにメリットが出てくるだろう。たとえば、太陽電池が生む電力は直流だし、夜間などに備えて電力を蓄積するバッテリも直流である。現在では、この電力をインバータで交流に変換するシステムが一般的だが、こうやってわざわざ作った交流を、そこら中の電気製品が踏みにじるように整流しているのだから、インバータの設備費用や変換ロスはかなり勿体ない。

極言すれば、いまでも家庭のコンセントに AC100V が来ているのは「後方互換性のため」と言えるだろう。100年以上も使ってきた交流のコンセントを、急に直流に変えることはできないだろうが、初めにも述べたとおり、いまの電子機器なら簡単な改造で、あるいは無改造でも直流で動いてしまう設計になっていることが多い。家庭で電気を作ることが一般的になってくれば、インバータがなくても動く「自家発電設備直結対応」機器が出てきたりするのだろうか。あるいは、家庭には AC100V のコンセントのほかに、直流コンセントが付くようになったりもするのだろうか。多数の電子機器が各々の直流電源をしょっているよりも「セントラル直流電源」を家に一個だけ用意して色んな電気製品で共用すれば、待機電力みたいなものも減らせると思うのだけれどな。

ちなみに、携帯電話の充電器に、家にある電源の最大電圧である DC36.5V をかけてみたら、なんとちゃんと充電できちゃいました。100V である必要はないというだけで、さすがに DC12V では動かなかったので、車でそのまま使うというのは無理っぽいけれど。



デュアルバンド
2002年8月23日(金曜日) くもり/雨

臺灣的猫模様(5)――ねこだらけ。台北にて。これでこのシリーズはおしまいです。

ドコモの移動機のうち、211シリーズや 504iシリーズから 800MHz帯と 1.5GHz帯を併用するデュアルバンド仕様になったことは(少なくともその筋の方々の間では)周知の話であろう。1.5GHz帯の割り当ては、都市部における 800MHz帯の混雑を解消するはずだったシティフォンやシティオのために以前からあるものの、これらがまったく売れていない状況では 800MHz帯移動機のデュアルバンド化こそが混雑解消の切り札なのだろうい。もっとも、ドコモはなぜかこのことをユーザには明らかにしたがらないようで、ドコモのサイトを見てもデュアルバンドの話は書いていない。移動機のバンド切り替えも、基地局から送られてくる指示に従って勝手に行われるので、どちらのバンドが使われているかもユーザには分からないようになっている。

どちらを使っているのかを意識する必要がないようになっているのだから当然といえば当然だが、分からないといっても、単にそのような表示などが出ないというだけのことなので、どうしても知りたければ実際に出ている電波を見てみれば良いことだ。先日わたしが買った P504iもデュアルバンド仕様になっている。1.5GHz帯が使われうるのは東京23区内のみだというが、ひょっとしたらと思って、スペアナにかけながら10回ほど発呼してみた。実験したのは今日の夕方だが、やっぱり観測されたのは 800MHz帯の電波のみで、1.5GHz帯の使用は確認できなかった。山手線が事故で止まった土曜日の夕方あたりに、新宿かどこかで実験すれば違った結果になったのだろうけれど、誰かやった人いる?



P504i
2002年8月22日(木曜日) はれ/くもり

2年半ほど使ってきた携帯電話(P502i)の電池がとうとう実用に耐えないほど弱ってきたので、P504iに機種変更。周りの人に聞くと、携帯電話の電池は、使い方にもよるが1年ほどで怪しくなってくることが多いという。だから、2年半も使えたのならそれなりに持った方なのかも知れないが、そういわれてみると、購入後1年ほどで持ちが悪くなってきたなあと感じた記憶がある。だらだらと喋っていると通話が終了するときまで電池が持たない場合もあったので、家にいそうな時間帯で長電話が予想されるときはなるべく家の加入電話にかけるように、というお達しを知り合いに出したのも、確かそのころだったはずだ。そんな状態でも、さらに1年半も騙し騙し使い続けたのだが、充電器にかけるのを忘れて寝てしまった翌朝には死ぬようになったので、決心したわけである。

いままで移動機を変える気にならなかったのは、気に入った機種がまったくなかったからだ。わたしは、電話機としての基本機能がしっかりしていればよく、あとはメールを少し使う程度である。だから、電話を使うに際して「開く」という面倒くさい手順をいちいち踏まなければならない折りたたみ型は、わたしに言わせれば欠陥構造。また、メールの細かい文字を読むうえでは、液晶ディスプレイは超ハイコントラストなものに限る。コントラストが悪くてなんだか見づらい STN液晶を積んだ初期のカラー機種なんか、欲しいとも思わなかった。そうした観点から考えると、ストレート型でモノクロ液晶を搭載した P504iは、わたしの理想に近い機種であったから、それなりに気に入っていたのだ。欠点は、ストレート型に縦長の液晶ディスプレイを無理に付けたような構造だったため、ちょっと長すぎたこと。何でもポケットに突っ込む人間なので、長尺物は困るのだ。

メーカもそれを嫌ってか、大型のディスプレイを搭載するようになった P502i以降の機種は、ほとんどが折りたたみ型になってしまったし、液晶ディスプレイもカラー以外のものは姿を消してしまう。そのような時代の趨勢から、P502iはストレート型でかつモノクロという組み合わせの最終世代になってしまい、世のニーズとは真っ向から対立する趣味を持つのわたしは、機種を変えることができなくなってしまったのだ。しょうがないから電池だけ買い換えようかなと思っていたところに出てきたのが P504iである。折りたたみ型ながら、ボタンを押すだけで開く構造なら、ギリギリ許せる。折りたたみ型は分厚くて重いからダメとも思っていたが、驚異的とも言える薄さ (16.8mm) と重量 (99g) なら、P502i とほとんど変わらない。長くない分、むしろこの方がいいかもしれない。液晶ディスプレイにも TFTが使われるようになって、コントラスト感もよくなった。

だったら買っても良いかなってことで、38,000円の散財。欠点を上げると、期待したほどでもなかったのが開くボタン。確かにボタン一つで開くことは開くのだが、完全に開かず、中途半端なところで止まるのがいまいち。それに、そのボタンは左手の親指で押すように設計されているようなので、電話は右手に持つわたしにちょっと使いづらい(これはひとそれぞれだろうが)。このほか、アンテナが二段構造になってちょっと伸縮しにくくなったのもペケ。伸ばさないでも使えるけれど、わたしは必ず伸ばす方なので。細かいところでは、イヤホンマイクのジャックが 2.5mmφのミニプラグではなく、変な平型コネクタに変更されてしまっているので、いま使っているイヤホンマイクが使えなくなってしまった。構造上やむを得ないかな、この辺は。そのうち慣れるだろう。



ポン引き
2002年8月21日(水曜日) はれ/くもり

臺灣的猫模様(4)――なかよし?。鹿港にて。

あまり治安のよろしくない場所に住んでいるという認識はあるけれど、ご近所で現金輸送車が襲われて警備員がハジかれたとかいうと、やっぱり物騒だ。こういう突発的事件はまだ良いとしても(いやよくないんだけど)、ここらで生活していてうっとうしいと思うのはポン引きの数の多さである。しつこいのはあまりいないが、数百メートル歩くと最低2〜3回は何らかの声がかかるから、うざったいったらありゃしない。ヘルスなんかの前を通過するたびに「どうですか」だし、夜中に一人で歩こうものなら、胡散臭い外人のお姉さんが寄ってきて片言の日本語で「マッサージいかがですか」などと言ってくる。車に乗っていても窓の隙間から声をかけられたりするが、そんな急には止まれないってば。面倒くさいので、「地元住民なので遊びに来たわけではありません」と書いた札でも首からぶらさげておきたくなるぐらいだ(笑)



日本語はしゃべりやすい?
2002年8月20日(火曜日) はれ

暫定公開した「台湾一周 (その1)」を加筆修正。さらに、「台湾一周 (その2)」の一部を暫定公開。ほんと、こんな調子でやっていたらいつ終わるか検討もつかない。

台湾の街を歩き回っていたとき、もし言葉さえ伝われば・・と、悔しい思いをした場面は幾度となくあった。何かを食べるにしても、指さしで注文をするしかないから、明文化されたお品書きのない店には入りにくいし、かわいい娘がいても声をかけられないというのは実にもどかしいことだ。なにも街でナンパしたいのではないが、レジ嬢が好みのタイプだったりしたら短い会話でも交わしたくなるのが男というものだ。喋れなければ、筆談を使うという手もある。文字は漢字だから、各漢字の字形や意味は少し違っていても、日本人なら何とかなるのだ。が、ちょっとした会話をするのにいちいち帳面を引っ張り出したりするわけにはいかない。ましてや、筆談でナンパなんざやるバカは、さすがにいないだろう(しないけど)。

そんなわけで、少し北京語の勉強でもしてみようかと思ったのだが、発音では「声調」というわけの分からないものがモノが出てきて、かなり嫌だなという感じ。北京語にもローマ字表記のようなものはあるけれど、これにはアクセント記号がもれなくついてくる。台北市内の地下鉄の案内図なんかでは地名にそれが併記されていたりするのだが、外国人があれを正しく読むことなどまず不可能だろう。そうしたアクセントが重視される言語と比べれば、誰だ、日本語は外国人には難しいなどと言い出したバカは? 日本語なんて、極めて外国人フレンドリーな言語ではないか。どんな言葉でもアルファベット表記が可能だし、無茶苦茶なアクセントの付いた外国人の日本語でも、我々にはだいたい理解できる。ローマ字さえ読めれば、発音練習などしなくても、取り敢えず日本語らしいものを喋れるわけだ。

毛唐よりもマシな文脈理解能力を持っていることが大きい気もするけれど。



ピアノ
2002年8月18日(日曜日) くもり/雨

臺灣的猫模様(3)――車の上で。鹿港にて。

友人がピアノコンペティションの地区予選で入選し、全国本選に出ることになったというので、都内の某ホールへ。わたしのようなシロウトには、ピアノが壊れるんじゃないかと思えるほどの激しい演奏の方が「いかにもピアノ弾いてますよ」という感じがして分かりやすいのだけれど、やっている人間に言わせると、パフォーマンスでやっているわけじゃないんだから格好が決まっていれば良いものではないという(そりゃそうか)。聞く人が聞けば、演奏を通じて伝えられる感情のみならず、奏者の人生背景まで分かるらしく、そんなほとんど形而上学的な部分に評価の重点が置かれているそうだから、なんだか難しい。問題だらけの人生を送ってきたわたしでは、逆立ちしても良い評価は貰えないだろう。ともあれ、おめでとう&お疲れさまでした>関係者。



カンロ飴
2002年8月17日(土曜日) はれ/くもり

臺灣的猫模様(2)――ちょっと淋しそう?。瑞芳にて。

懐かしい香りってあるでしょ。あ、この香りは確かあのときの・・・と、記憶の奥底に埋もれていた古い想い出を一瞬のうちに呼び覚ませてくれる香りとか、ガキの時分のいちばん楽しかった夏の日にワープしたような気分にさせてくれる香りとか。そんなしがないノスタルジアの世界へと続くのは、一袋百数十円で買える「カンロ飴」。小学生のころに住んでいた家から少し離れたところを通る山陽本線の線路脇だったか、そこにカンロ飴を作っている工場があって、その工場の周辺にはいつもカンロ飴の強烈な香りが漂っていたから、いまでもカンロ飴の香りを嗅ぐとそのころの情景を彷彿とさせてくれるのだ。カンロ飴自体はとりたてて美味しいとも思わないのだけれど、あの異様に甘ったるくて何となく醤油くさいようなカンロ飴の香りは、きっと死ぬまで忘れないだろう。

どうでもいいが、肛門の中まで洗浄する「浣腸式ウォッシュレット」なんてあったら恐いな。



食べかす
2002年8月16日(金曜日) くもり/雨

12日の「台湾の動物模様」に出てきたねこさんは、密やかな人気を博している模様。にゃは。

昼食を食べるために通用口からビルを出ると、通路の真ん中になんだかとっても猟奇的な感じの物体が無造作に転がっていた。狩りに成功したネコさんが食事をしたあとなんだろうか。かつてはカラスだったと思われるこの残骸にもっとよく近づいて観察すると、残っているのはほぼ羽と骨のみで、いやはや随分と綺麗に食べたものだなとちょっと感心してしまった。なぜこの通用口を選ぶのかは知らないが、ここにはときどき珍しいものが落ちている。過去には、人間のものとしか考えられない大便と、糞まみれになったパンツが一緒に置いてあったこともあった。汚くて臭いだけならまだましな方で、小麦粉のような白い粉が大量に入っているハンドバッグが落ちていたときには、犯罪の匂いすらし、さすがにこれは・・・ということで同僚が警察に通報。引き取りにきたお巡りは遺失物として処理したが、あれは本当に単なる遺失物だったのかな。

毎日新聞社には「中島みゆき」さんという名前の記者がおられるようで、同社のウェブサイトでは、たとえば「最貧国の債務削減 自立促す柔軟な方法で」という署名記事から、中島みゆきさんの生息を確認することができる。歌を歌っている方のみゆきさんとは何の関係もない同姓同名の方だろうが、取材のアポを取るときには、わざと「中島みゆきが取材に伺いますので、よろしくお願いします」と言ったりして、取材当日には相手をがっかりさせたりしているのだろうか(おい。もし、あっちの方の中島みゆきさんが、あっちの方の中島みゆきさんのノリで「最貧国の債務削減 自立促す柔軟な方法で」といった類の記事を書いていたならば、いますぐにでも毎日新聞を取るところなのだけど。それとも「中島みゆき×中島みゆき(毎日記者)」なんて対談記事やりませんか、毎日さん。



平和の神様
2002年8月15日(木曜日) はれ

終戦記念日の前後になると平和の連呼が始まったりすることには、何となく違和感を覚えるのだが、それがなぜなのか少し考えてみた。メモリアルがなぜ平和の話に繋がるのか。人によっては、何らかの体験から色々と想うところもあるだろうし、戦争体験を後生に語り継ごうというのも良いが、極言すればこういうのは個人的な体験談に過ぎず、歴史的な重みが内容に伴っているという違いを除けば、そこらのオッサンの武勇伝とあまり違わない。ところが、そんなところから突然なんの脈略もなく「平和の誓い」みたいな大局的なものが出てくるからおかしいのではないか。個人的な体験談が、平和の誓いといった観念へと昇格する過程で何らかの合理的な説明がなされているのなら分かるが、一般的にその説明は行われず、代わりに話を琴線に触れるような形式に整形することでヒューマニスティックに訴えるという手法が取られている場合がほとんどだ。

とすると「過去に学ぶことも多い」などという理屈で、説明のない飛躍を正当化するのは単なる詭弁である。過去の「おっかない」体験談を聞くことも学びの一種だとは思うからそれ自体を否定する気はないが、参考知識が増えるまでのこと。「おっかなかったから、今後もおっかなくなるようなことはやめておきましょう」といったノリで、現に存在する、あるいは未来に出てくるであろう具体的な問題を解決に導けるというのだろうか。これが未来永劫に不可能であることは、「原爆投下は戦争の終結を早める結果となった」という毛唐の論理を崩せず、そして「どうして理解されないのか」などと、悔しさをだらだらと嘆くばかりで御茶を濁してきた50年間の実績が示唆している。大戦の勝者というしがらみがあるから仕方がないと言われるかも知れないが、本当にそうだろうか。しがらみのないことでも、抗議して嘆くだけの構図は変わっていないのでは。

なぜ分からないのかという嘆きは「なぜ神の存在を信じない」という信仰とほとんど同じであり、我こそは正しいことを言っているのだという根拠のない信念に基づくもの。このタイプの平和主義者は、平和というものを絶対的で超越的な存在として一神教的な信仰の対象に据えてしまっているといえ、それはもう唯一無二の恒久的平和を目指してユートピアの夢を見る宗教であるといえる。しかし、当たり前だが平和というものが信仰で得られるわけはない。もし、いまある平和の概念で対応できない事象が存在したならば、もとより不出来であったり、いつしか時代遅れになってしまった平和の概念に固執しているのではないか。観念は正しくても何らかの手法が間違っていたのではないか。そのような反省が行われて然るべきなのだが――わりと最近までそうした考え方がタブー視されてきた気がするのは、相手が神様で、引きずり下ろしにくいから?



ビクビク
2002年8月13日(火曜日) はれ

台湾から帰ってきてからすでに何日か経っているというのに、道路を横断するときに執拗なまでの安全確認をしながら歩く癖がなかなか抜けない。もちろん、安全をよく確認すること自体は悪いことではないのだけれど、周りの人はごく普通なのに、自分だけ変にビクビクしながら道を歩くのは何となく変な気分なのだ。そういえば、地雷という危険のあったボスニア・ヘルツェゴビナから帰ってきた弟が、帰国後に未舗装の場所を歩く人々を見て妙な違和感を覚えたと言っていたが、何となくその気持ちが分かる気がした。すでに安全な場所にいるのだと頭では分かっていても、しばらく危険な環境にいると身体は無意識に防御反応を見せるのだろう。台湾の道を安全に渡るには、原付の切れ目を予測するとか、斜め後方に最大限の注意を払うといったコツがあり、これがいまだに出てくる。

台湾の交通マナーは一般的に極めて悪く、いや台湾には台湾なりのマナーはあるのかも知れないが、少なくとも日本でいう「歩行者優先」が重視されているとは考えられない。いちばん危険なのが原付で、歩行者を跳ねる事故も多いようだ(実際に何度か目撃しているし)。奴らはとにかく先へ進むことしか頭にないようで、日本では考えられないようなすり抜けもよく見られる。おまけに見ているのは進行方向だけ、という輩が多いから危険度が高い。歩行者横断中でも右折する原付が突っ込んでくるし、大きな通りでは二段階左折が原則なので、左折する予定の原付が横断歩道を越えて、交差する道路に突っ込んでくる(ちなみに台湾は右側通行なので右左折は日本とは逆である)。慣れてしまえば、あまり危険を感じなくなったけれど、台湾に行った初日は道を渡るのが本当に恐く、地元の人はよくこんなところを渡るものだと思ったものだ。



台湾の動物模様
2002年8月12日(月曜日) くもり/はれ

臺灣的猫模様(1)――坂の上にある住宅街の塀の上。台湾でも、にゃんこを見付けては追っかけたりしているバカなわたし・・・。淡水で撮影。

台湾の動物模様の特徴として、野良猫よりも野良犬の方が遙かに多く見かけられたことが挙げられる。台湾の街では、あらゆるところに屋台が出ていたりしているので、猫が生息するには好都合な環境が整っているように思えるだが、不自然とさえ感じるほど猫がいない。ただどこかに隠れているだけなのか、それとも本当にいないのか、そこまでは分からないけれど、猫がいっぱいいる日本の飲食街とは対照的である。いたとしても、デブ猫なんて例外中の例外。臆病なのかすぐ逃げてしまうので写真は撮れなかったが、標準的な野良猫は、別な種の生物ではないかと思えるほどの細さなのだ。大きさは成猫サイズなのだが、身体は骨と皮だけ、というような(上の写真の猫もそれに近いことがお分かりだろうか)。そんな猫は、日本ではまず見かけない。台湾の人は、猫に餌をやったりしないのだろうか。

猫の代わりにやたらといるのが、野良犬。それも、ほとんどくたばりかけている野良犬ばかりなのだ。その雰囲気を一言でいうならば、生きながらも腐敗しつつあるような感じ、という形容がしっくりとくる。身体はヨボヨボで全体的に細く、中にはところどころに血が滲んでいたりするものもいる。人間を見付けて、「なんかくれ」というような顔でフラフラと寄ってくるときの足取りも、泥酔者の千鳥足よりさらに頼りない。そもそも、ちらっと見ただけで人間に関心を示さないものも多いが、寄ってきても足下でウロウロとするのみで、吠えたり飛びかかってきたりする気力があるようにはとても見えない。ほんと、いったい何が起きるとそういう犬ばかりが大量に発生するのだと問いたくなるぐらい、台湾で見かける野良犬は揃いも揃ってくたびれていた。

臺灣的「くたびれた」犬模様(1)――バイクの下で籠城中。隠れているつもりなのか、日陰を探してここに辿り着いたのか。カメラを向けても、ちらりと見ただけであった。瑞芳にて。

臺灣的「くたびれた」犬模様(2)――軒下の先客さん。突然の豪雨で商店の軒下に避難したら先客がいた。一度はフラフラと起き上がってきたが、場所を移動しただけで、すぐにまた床ずれ増産体制へ。台南にて。

写真のストックはあと少しあるが、それはまた後日。



台湾一周その1
2002年8月11日(日曜日) はれ

台湾一周 (その1)」を暫定公開。ざっと書き上げただけなので、入れるつもりだった地図も入っていないし、文章も随時修正していくつもりだが、これ以外のネタがあるわけでもないので取り敢えず公開しておくことにする。旅行の初めの方ではそれなりに真面目な日記を書いていたので、「その1」は書いてあった日記を加筆修正しただけで文章になったのだけれど、日付が進むごとに文章がだんだんと箇条書きっぽくなってきているから、今後はそうも簡単にいきそうにない。終盤に至っては、「人間の脳みそなんざキーワードを与えてやりゃ思い出すんだよ」とばかりに、箇条書きどころか言葉の羅列のようなものになっている。こんなもの、なにをどう書き直せばまともな文章になるのやら、書いた当人にすら良く分からない。

さらに頭が痛いのが、台湾で撮影してきた 2,000枚近い写真の取捨選択とパノラマ合成。うー。



台湾から帰国
2002年8月10日(土曜日) はれ/くもり

台湾から帰国。旅行自体は合格点はあげてもいい内容であったが、なぜか言いしれぬ悔しさも残っている。なにがそんなに悔しいのか、いまの時点ではよくわからないけれど、9泊10日の日程で台湾を一周するにはやはり無理があったのか。台北を除くと各所で数時間しか取れなかったので、すごく美味しいのに、ケチ臭いつまみ食いしか許されなかったことも大きな原因だろうし、ほかにも言葉が通じないもどかしさとか、天候によるプランの変更とか、様々なところに原因があるはず。詳しい話は追々書くとして、今回はいつにもましてハードな日程だった。連日のように早朝から深夜までの行動が続いていたから、よく身体と精神が最後まで正常でいてくれたな、というのが振り返ってみたところの正直な感想。結局、ゆっくり温泉に浸かったのは一日だけで(名目は温泉旅行だから)、旅行というよりも苦行というべきものだった気がする。

夏休みにどこかへ行くと、天候には絶対に恵まれないというジンクスがある。一昨年には奈良県の吉野で激しい雨にやられたし、去年は台風が接近するさなか、和歌山県の白浜で海を見に行く羽目になった。今回の台湾も例に漏れず、ほとんど雨。それも単なる雨ならまだ良い方で、標高2,000mを超える場所に行くバスは集中豪雨で決壊しつつある道路を無理やり通っていくし、登山列車が渡っていく頼りない橋梁の下では、普段は美しく流れているはずの沢も、濁流としか言えないような状態になっている。いや、降ってくるものが水滴ならどんな雨でも構わない。一辺一国。この発言のおかげで、テレビのニュースでは、ミサイルの雨霰が大陸さんからお見舞いされる可能性について論じているではないか。結局、笑い話で済ませられる程度の事故がいくつか発生しただけで、命に関わるようなことは無かったが、凄いといえば凄い内容だった。

ところで、多事毒論を10日も休んだのは初めてですね。ごめんなさい。今日から復活です。



突撃実験室