多事毒論(2003年6月分)


説明
2003年6月26日(木曜日) くもりっぽい

クラゲ。石川町駅の下を流れる中村川をふと見たら、どういうわけか大量のクラゲがいた。半透明の身体を絞ったり開いたりしながら実にのんびりと泳いでいる、というよりも、ほとんど流されているような感じで、なんだか愛らしい。橋の欄干にもたれかかって、しばらく水面を眺めていたあと、ふと振り返ると、通行人が心配そうな目でわたしを見ている。う〜ん、思い詰めているようにでも見えたんだろうか。試しに ISO1600 相当まで CCD の感度を上げて撮影してみたらノイズが目立ってしょうがないなあ。200 あたりで使うのが上品みたいだ。

某ISPのサービス案内を書き直してみた。こういうサービス案内みたいなページの作成は、どうも苦手だ。地味を極める雰囲気といい、いかにもスタイルシートで作りましたと言わんばかりのレイアウトといい、自分でもこのダサさはどうにかならんのかと思うのだが、これでもかなり小綺麗になった方だ。見栄えはともかくとして、文章も難しい。わたしが作ると、まるで何かの仕様書みたいなページができあがってしまうのだが、それでは一瞥しただけで読む気をなくすのが普通だろう。そこで、今回は読みやすくする工夫をかなりやった・・つもり。細かい説明は別のページにまとめて、主要なページに書くのは要点だけとし、冗長な説明は因数分解して、多少の宣伝文句も入れると。ところが、今度はページ間の相互参照が増えてしまい、新たな不満が出てきてしまった。

案内を書くときに苦慮するのは、厳密さと分かりやすさのバランスだ。案内を読む側は、要点だけを手っ取り早く知りたいという意識で読んでいるのに対し、不特定多数の目に触れる案内を書く側としては、乱暴に言えば「聞いてねえ」を「読んでない方が悪い」で処理しやすくするためにも、なるべく厳密さを求めたくなる。案内にはこんな相反する課題があり、その妥協点として、読まれもしない但し書きだらけの案内が生まれたりするのだろう。それはそれで見通しがいい気もするが、あとから補完するぐらいなら、初めから本文をきちんと書いた方が誤解がなくて良いんじゃないかとも思える。このバランスで、意外と参考になるのが役所のサイトだ。住民向けの手続き案内みたいなのを読んでいると、上手いと思う。説明に無駄がないというか。



男と女
2003年6月25日(水曜日) 曇り時々晴れ一時雨

中島みゆき嬢によると、女に生まれて喜んでくれたのは、菓子屋とドレス屋と女衒と女たらしだとか。田嶋陽子氏にぜひご意見を伺ってみたい気がするこのリスト、まあボロカスに言われるのは間違いないと思うが、女をテーマとしたペシミズムをやって行き着くのはだいたいこんなところだろう。これに対し、男に生まれて喜んでくれたものはなんだろう。女衒に類する商売が現代にあるとしても男性を専門に取り扱うヤツは希だろうし、レイプしたくてしょうがない男はいるが、レイプされたくてしょうがない淫乱女は、たぶん男が作り上げた幻想だけの存在だ。男に生まれたがゆえの不幸って・・・あるのかも知れないけれど、これは悲観論には行き着かず、むしろ美化されることで処理が行われている気がする。

小学生ぐらいのときは、どうして男に生まれてしまったんだろう、女に生まれていたらよかったのにって思っていた記憶がある。性同一性障害的な不一致感ではなくて、男という社会的なシバリがない分、女の方が気儘に見えて羨ましかったんだと思う。具体的に、女のどんなところがそうのように感じられたのかは思い出せないのだけれど、考えてみると小学生ぐらいのころって男女間に妙なカベがあったもので、その男ばかりの共同体には、男であるがゆえのオキテみたいなものがあったからかな。わたしは性差というものをあまり意識しなかった方なので、そういう男女二元論を男ほど意識しない(ように思える)女の子との方が、感覚的に合っていたのかも。そのせいか、女の子の友達がやけに多かった(いまとなっては信じられないと思うけど)。

いまでは、女のイジメについて聞くたびに、男に生まれて良かったなと思うのだけど。



多層基板
2003年6月23日(月曜日) 雨

昨日 D100 についてゴチャゴチャと書いたら、やっぱりレンズじゃねえの? との指摘。それはまあ分かるのだが、無い袖は振れないからなあ。ここまで色んなものが正直に写ってしまうとは思ってなかったぶん、なおさらに意外だった面もある。それでも、解像度では銀塩には叶わない。CCD で 35mm判フィルム並みの解像度を得ようとすると、記録画素数が1000万ぐらいのものが必要だと言われる。これを考えると、何気なく使っているフィルムってけっこうスゴいものなんだな。

唐突だけど、多層基板なんかもう嫌い。配線が基板の表面だけを通っているうちは回路を目視で追えるから楽なのだが、電源やグランドだけでなく信号線も内層を通っている基板になると、解析にかかる手間は何倍にも増える。実装の高密度化とか、電子機器の小型化っていうのは素晴らしい技術ではあるはずなのだけれど、他方、リバースエンジニアリングをする立場から見ると、そういうのは新たなる強敵の出現にほかならないわけで、まったくイヤなご時世だ。小さすぎて見えないのもあるし、端子間ピッチが 0.5mmよりも細かくなってくるとはんだ付けの限界を感じる。というわけで、何となく引き受けちゃったけど、また厄介なものと格闘する羽目になったなあ。ちょっと忙しいです。



続・D100
2003年6月22日(日曜日) 曇り/雨

先週買った Nikon の D100。雨が多かったり時間がなかったりして、なかなか遊ぶ機会がないのだけれど、折を見てちょこちょこ撮っている。撮影した写真をパソコンで見てみると、確かに綺麗のだけれど、期待していたよりも写りが悪い。具体的に言うと、どうもピントが甘く、色の滲みも酷いような感じがするのだ。その原因は、CCD の性能が良すぎて、撮影者の腕とか光学系の性能が、それに追いついていないからだろうか。考えてみると、プリントしてしまえば分からなくなってしまうような手ブレといった小さなアラでも、高解像度の画像として見たら全てバレてしまう。これを考えると、プリントという名のアラフィルタが介在しないデジカメって大変な代物かも知れない。

つまんない写真ばかりで申し訳ないけれど、たとえば 640 x 425 pixels まで縮小したモノレールの流し撮りは、まあ上手く撮れているように見えるかと思う。が、原寸のモノレール(2240 x 1488 pixels,802kB)は、決してピンぼけというわけではないのだが、全体的に甘い感じがする(特に車両後部)。車内の吊革まで写っているのは立派だが、逆にここまでちゃんと写ってしまうと、カメラと被写体の速度差は、ほとんどごまかせないだろう。もっと際どいと思われるのが夜景の写真だ。640 x 425 pixels まで縮小した夜の観覧車はなかなか綺麗だけど、原寸の観覧車(2240 x 1488 pixels,802kB)は、甘いというか、ハイライト部分が滲んでいる。それに、少しでもブレたらバレバレ。

もっとも、パソコンで鑑賞することが目的である写真では、2240 x 1488 みたいな大きさは現実的でないから、「縮小すれば綺麗になる」っていうのもありだと思う。半分の 1120 x 744 pixels に縮小してみた観覧車は・・・色は綺麗だけど、微妙だなぁ。




2003年6月18日(水曜日) 曇り/雨

新しいカメラを買ったというのに、雨ばっかりだわ、仕事は忙しいわで試し撮りもままならない。梅雨の季節にカメラを買うのは、ちょっと考え物だ。しょうがないので夜景でも撮ろうかと考え、雨の合間を狙って深夜のみなとみらいへ行くと、いつもよりも街が暗くて雰囲気が寂しい。よく考えたら例の電力不足問題で、深夜のライトアップは自粛していたのだった。どうせ深夜帯は供給力は余りまくっているのだから、ライトアップを自粛したところで電力不足問題の助けにはならないし、アピールという名の、下らん精神主義でどうにかなることでもないと思うのだけど。梅雨もさることながら、電力が不足気味のときにカメラを買うのも考え物だ。夜景も撮れやしない。

梅雨と言えば傘の出番だ。わたしは、普通の人ならとっくに捨てているであろうボロボロのビニール傘を長年にわたり愛用していたのだが(ちょうど一年前の2002年6月18日の雑記登場したもの)、事務所の傘立てに置いてあったら、いつのまにか無くなっていた。問いただすと、わたしが不在だったときに、事務所に来ていた取引先の人間に貸してしまったとのこと。その後、何度か催促したが返ってこないらしい。どうやら、この方は根本的にだらしがないようだ。事務所に来ても挨拶はないし、備品は無断に使う、ゴミは放置したままで帰る、といった具合で前々から気に入らないと思っていたから、ちょうどいい機会だな。

さて、周知のとおり、わたしと握手をした女の子は、最低一週間は手を洗わない。わたしが口を付けたというだけで、廃棄物である空き缶ですら数秒後には誰かに持って行かれることもご存じであろう。となれば、わたしの手垢がベットリと付着している愛用のボロいビニール傘など、もはや値段の付けようがあるまい。いったいどうしてくれるんですかと、こんな感じでやったら、どういう反応をされるんだろうなあ・・・。



D100
2003年6月15日(日曜日) 曇り/雨

なんか強烈なデジカメが欲しいにゃー、とか思っているうちに Nikon の D100 を買ってしまった。迷ったのがレンズで、とりあえず常用に便利なやつを一本選ぶとしたら・・・わたしは風景写真を撮っていることが多いので、普通に色んなものを撮っている分には、望遠なんかよりも広角なレンズが欲しくなる。しかも D100 に 35mm 判カメラ用のレンズを装着すると焦点距離が 1.5倍ほどになってしまうことからも、広角なレンズが望ましいといえるだろう。これからすると 18〜35mm みたいなのが良いなと思えるのだが、これでは望遠側が寂しすぎる気もする。色々と考えた末に、とりあえず 24〜85mm F3.5〜4.5 っていうごく普通の安いやつを買った。ま、こだわりだすとキリがないし。

デジカメに慣れてしまうと、一眼レフという形状は、カメラの最適解ではないと感じる。寝そべったりしないと撮れないような低いアングルの写真とかでも、真ん中で折れ曲がったりするようなデジカメなら、かがむだけで撮れる。そんなところに一工夫あるデジカメの形状は先進的だし、合理的で良いと思うのだ。それでもなおデジタル一眼レフを買う気になったのは、普通のデジカメだと「いまいち撮った気がしない」から。それなりの質量感と、シャッタがカシャッと鳴る音がないと、どうも撮ったいう感じがしないのだ。あほらしいと思われるかも知れないが、理由はそんなもの。クルマはうるさくないと乗った気がしない、っていう感性の人がいるのと似たようなものかな。



Matrix Reloaded
2003年6月13日(金曜日) 雨/曇り/晴れ

Matrix Reloaded を観る。一言でいうと、ファイナルファンタジー7の世界でスーパーデラックスなワイヤアクションをやりました、っていう感じの映画だった。ドツキ合いシーンは、香港映画を彷彿とさせるようなアクションに、CGを巧妙に織り込んだようなもので、これは一見の価値はあったと思う。CGを多用しまくったアクションなんか、もう手垢で汚れまくった手法だし、どうせ例のノリで車がぶつかったり爆発したりするだけなんでしょ、なんて思ってナメてかかっていたけれど、このアクションは、素直にスゴイと思えた。実際のところ、車は例によってたくさん吹っ飛ぶのだが、気合いの入り方が違う。

Reloaded は前作の Matrix の続編なのだが、これは観ていない。したがって、ストーリはよく分からなかったというのが正直なところだけれど(粗筋すらない)、理解できないながらも飽きずに最後まで観られたから、初めての方でも大丈夫だろう。むしろ、状況やストーリの説明はかなり丁寧で、映画としての作りには好感が持てた(資料を別に読んでおかないとついて行けないような映画なんて、作品としては半完成と言うしかない)。しかし、最後の方で話している内容は難解すぎて、前作を観ていたとしても完全に理解するのは無理なんじゃないかな。会話では普段は使わないような言葉が、間を取らずにボコボコと出てくるのだが、字幕ではそれが一行ほどに要約されているし。



グリーン車
2003年6月12日(木曜日) 雨

所用で東京へ行った帰り、何となくリッチな気分を味わいたくなって東海道本線のグリーン車に乗ってみた。実際、乗車券が540円の区間に750円のグリーン料金を払うのだから、リッチでなければ使えない。周りの乗客も、どことなく金持ちっぽい雰囲気のあるビジネスマン風の方々が大半で、リッチな気分以前に、むしろ場違いなぐらいだ。意外なのが、横浜駅で下りる短距離利用の乗客もわりといることだ。個人的には、東京から横浜までの移動ぐらいでグリーン車に乗る必要性は感じないので、もうちょっと遠くまでの移動に使うものなのだろうと勝手に想像していたが、ラッシュ時にはすし詰め状態になる普通車から逃げる方策として使われているのが現実のようである。

混雑の激しい普通車を利用する者としては、グリーン車なんかどうでもいいから普通車を増やしてくれよと言いたくなるところだが、カネで楽をするオプションが用意されているのも悪いと思わない。こんな値段では使う気にならないというのが庶民の常識的な感覚ではあるけれど、人間、調子が悪くてどうにもならない日とかもあるもので、そんなときには気の利いた存在である。それより非難されるべきは鉄道事業者のやる気のない姿勢だと思う。東海道本線なんか、日中の閑散時ですら座れないぐらい混んでいることも多く、輸送力が根本的に不足しているのは明らか。これでも乗る人がいるのは、乗らざるを得ないからで、それゆえサービス向上なんていう発想は生まれてこないのだろう。

ラッシュ時は仕方がないとしても、もうちょっとどうにかできんものかな・・。



radius
2003年6月11日(水曜日) くもり/雨

梅雨入りかぁ。それを聞いただけで何となく鬱だ。

某ISPの radius サーバを入れ替えることにした。radius っていうのは、フレッツとかダイヤルアップといったもので接続してきた利用者の認証を行うための仕掛けで、つまるところ、送られてきたユーザ名やパスワードを見て OK か NG かを回答するだけのものなのだが、実際の運用はそれほど単純ではない。なぜかというと、認証時には、各ユーザの契約条件などの判定もやらないといけないからだ。例として、フレッツ・ADSL契約のユーザが、契約外である Bフレッツで繋ごうとしているとしよう。もしこれができてしまうと、使えないはずのサービスが使えてしまうことになるので、こういう場合はここで判定して認証NGにしなければいけない。

で、この判定はけっこう複雑なのだ。ADSLや光といったメディアが出てきたり、オプションサービスが付いたりして契約形態が多様化するなか、判断しなきゃいけない内容は増えるばかり。しかも、現行の radius サーバは、契約条件の判定をやる必要がなかったダイヤルアップ時代から使っているものをベースに、あとから必要な判定機能を場当たり的に付け足していったものなので、限界に近づきつつある。そんなわけで、前々から新しいものにすべきだとは思っていたのだが、何年間も機嫌良く動いているものを作り直すのは勇気のいることで、いまいちその気になれずに手直しで対応していたのだった。しかし、新しいサービスを始めるにあたり、手直しする気がなくなったので、入れ替えることに。

問題は、何を使うかだ。いまやっていることもすべて引き継げて、なおかつ新しく出てくる要求にも応えられるものでないといけない。使えそうな radius サーバを探していると、やたらと configurability をウリにしているものが目立つし、他社さんはどうやってるのかなと思ってみると、内製しているところも多いみたいだ。そうでもしないと、あれやこれやという特殊な要求に対応できないのだろう。特に、巨大なユーザ数を抱え、色んなサービスのある大手ISPは強烈なものを作っていると思う。まあ、うちの規模では作るほどでもないので、あるオープンソースな radius の実装を少し改造して使うことにしたのだが。認証がコケると責任重大だよな・・と思うと、頭が痛い・・。



SCSI
2003年6月8日(日曜日) 晴れ

Windows が壊れて修理に半日。あうー、治そうにも、セーフモードにすると立ち上がりすらしないとは一体どういうことやねん・・。だいぶん前から色んなところが怪しくなってきているので、もう再インストールと行きたいが、手間を考えると面倒くさくてなかなか踏み切れない。Windows 以前の問題として、どうせやるならハードウェアも近代化したいところ。ときには PC 自体を起動不能にしてくれるほど怪しい動きをしている老齢の SCSI カードなんざいい加減に葬りたいし、住宅事情にそぐわないフルタワーケースもどうにかしたい。が、ディスクベイは目一杯埋まってるわ、その半分以上のデバイスが SCSI にぶらさがっているわ、という状況を考えると、一筋縄ではいかない。

SCSI の整理をやるとして、真っ先に捨てたいのが 2GB の(当時としては巨大な)ハードディスク。160GB みたいなものがある時代に、ほとんど誤差みたいな容量のディスクなどあるだけ邪魔である。それに、デジカメに使っているコンパクトフラッシュを、SCSI のリムーバブルディスクとして読み書きするのもそろそろ止めたい。こんなもの、800円ぐらいで買ってきた USB のチープなやつでも何ら問題ないのだし。SCSI の CD-R ドライブもあるが、こいつも ATAPI のヤツにすればいいことだ。でも、どうせ買い直すのなら CD-R も CD-RW も DVD[+-](なんとか) 系も読み書きできる良いやつにしたい、などと考えると、どうも選択が難しい。

SCSI との訣別が難しいのは、スキャナと MO ドライブだ。まあ、MO はあまり使わなくなっていないから、MO というメディア自体とおさらばしても良いような気もするが、スキャナはときどき使う。USB に SCSI デバイスを繋げる変換コネクタのようなものがあるので、それを使うという手もあるが、あれはちゃんと動くんだろうか。SCSI のスキャナといえば、ホストコントローラとの相性問題が色々とあったことで有名な装置なので、ちょっと不安だ。悪あがきするより、USB ネイティブなスキャナを買ってきた方が安上がりじゃないの? 紙なんかデジカメで撮れば? 相談するとそういう意見が出てくる始末だ。6年も前のスキャナなんて捨てろよ・・・ってことですかねえ。



パエリア
2003年6月6日(金曜日) 晴れ

今週のお料理実験の題材は、ムール貝のパエリアもどき。ムール貝を衝動買いしちゃったので(え?)、その使い道として作ってみた。材料はムール貝のほか、米/タマネギ/ピーマン/パプリカ/マッシュルーム/ニンニク/トマト缶詰/ブイヨン/オレガノ少々、といったところ。初めて作ってみたわりには美味しくできた方だと思うが、ご飯が思っていたより水っぽくなってしまったのが反省点だ。ダシは米に吸収される予定だったのだが、やや多すぎた模様。それに、ジャポニカ米では粘度がありすぎて、この手の料理で使うとはっきり言って食感が悪すぎる。次回は、もっとそれらしい米を使って、水分管理をきっちりやれば、かなり美味しくなるんじゃないかなという感じ。

しかし、最近はこんなことばっかりやっているので、元から高めだったエンゲル係数は高くなる一方だったり・・。



接客
2003年6月5日(木曜日) 晴れ

百貨店で店員をされている方の話を聞いていて、キョーレツな客はどこにでも現れるもんだと思った。普通の店であれば「潰す」という選択肢も用意されているわけであるが、面子にこだわる百貨店だと、どんなに理不尽なことを言われてもなかなかそうするわけにはいかんのだろう。しかし、そういうスタンスこそが、つけ上がる客を生み出している側面もあると言える。いつぞやにどっかの航空会社が、機内で暴れたり、客室乗務員のケツを点検したりする客は積極的に潰す方針に転換したという話があったが、それが常識的な対応というものだろう。飛行機とイメクラを勘違いしているオヤジが近くにいたら、一般に周りの客はウザいと感じるわけだから、こういう客は容赦なく排除するのが最良の客室サービスだ。

わたしの接客基本原則は、「客の理不尽さと顧客満足度は反比例させなければならない」である。普通のお客さまより、問題のある客の方が得をするようでは、道理に叶わない。「それはできかねます」という回答が、暴言やら脅嚇によって「それでは今回だけは特別・・・」に覆ったのでは、まるで罵詈雑言に長けた人だけを優待しているみたいだ。それでは、どう考えても不公平だし、筋が通らない。お客さまの無理を聞く用意はあるが、少なくともわたしが対応する場合、それが通るかどうかは出方次第。横柄な態度でも別に構わないが、それで特殊な要求が満たされることはないだろう。逆に、下手に出られれば、何とかしてあげたいと思ってしまうもの。謙った態度を求めているわけではないが、本来はやらないことをやるときの判断は、だいたいそんなもんだ。




2003年6月3日(火曜日) 晴れ

ここのところ頭の頭痛が痛い案件ばかりだ・・・。

怪我をすれば創傷の記念写真を撮り、戦う女の子は返り血をたっぷりと浴びてなきゃ認めねぇとこだわる(自称)鮮血マニアのわたしが、血に関する基本用語を誤って覚えていたとは誠に恥ずかしいことだが、いままで、無用な報復の繰り返しは「血を血で洗う」ものだと思っていた。しかし、ふと気になって調べてみると、正しいのは「血で血を洗う」。Google 先生に聞いてみると、「血で血を洗う」では、6,440件のヒットがあるのに対して、「血を血で洗う」は、656件のヒット。これから見ても「血で血を洗う」が正しいと分かるが、良く似ているから間違えやすいのか、「血を血で洗う」と書いちゃう人もそれなりにいるみたいだ。

ついでに「血」に関する知識を幾つか。「血」という漢字の部首は、ずばり「血」であり、「血」そのもの以外にも、「血部」に分類されている漢字はいくつか存在する。その中で、日常的に使われていると思われる唯一の漢字は「衆」だけ。「衆」の部首は「血冠」とでも呼ぶんだろうか。「冠血管」という血管なら心臓にあるけれど、「血冠」があるかどうかはよく分からない。JIS にある文字に限定すると、「衆」以外で血部に属する漢字は「衂」と「衄」の二文字しか見当たらない。こいつらの部首は木偏ならぬ「血偏」とでも言うのかな。



停電
2003年6月2日(月曜日) 晴れ

我らがデーモン様、ばい菌扱い。こりゃちょっと酷いんでねえか?

福島や柏崎の原発の運転再開ができなかったら停電が起きるかも知れない、などと騒いでいるよりも、ぼちぼち具体的な停電計画を明らかにした方がよほど建設的ではないだろうか。あちこちから電力をかき集めたり、節電をお願いするといった対応策も悪いとは思わない。しかし、「最悪の場合は」と前置きされつつも、供給が不足するシナリオもあり得ると分かっているのなら、具体的にどうなるのかを前もって説明するのが正しい姿勢である。事故なら突然の停電も仕方ないが、これは事前に計画できること。やっぱり足りなくなったとして、「抽選結果の発表は停電をもってかえさせていただきます」みたいなことをやるのは論外で、時間的余裕がなければ、需要家として何らかの対応を行うこともできない。

しかし、この危機感の薄さは異常だと思う。そう感じるのは、わたしが人一倍、電気に頼って生活しているからかも知れないけれど(仕事でも電気に特殊な変調をかけて売るような商売をやっているし)、それにしても原発云々は抜きにして、供給不足が起きるかも知れないこと自体が、もっと騒がれて然るべきだろう。ここは北朝鮮ではないのだから、いまや生活も何も電力抜きには成り立たない。現に、都市部でやや規模の大きな停電が起きれば、その日の夕刊には間違いなく「都市生活大混乱」といった見出しがトップで踊る。停電が容認されたのは過去の話で、少なくとも都市部では、いまは停電などかなり希にしか起きない異常事態という扱いだ。これが予告されているのは、相当に重大なことだと思えるのだが。

このあたりに、複合的に絡み合った、極めて日本人的な態度が見られるような気もする。停電なんて言ってるだけで、まさか本当に起きるはずはないと大多数の人が高を括っているとか。電力の安定供給を金科玉条としているがゆえに、面子的に停電には言及したがらない電力会社とか。責任問題の話にも繋がってしまうし、どうせ下手に具体的な停電の話をすると無用な混乱を招くだけだからと、分かっていても詳細は最後まで隠しておきたい行政とか。そしてマスコミとしても、いままで原発批判のトーンが強かった関係で、今さら電力供給の問題は大きく取り上げにくい心情があるとか。う〜ん、個人的にはかなり困るが、いっそ本格的に停電させてしまうのが社会のためになるのかも。大切なものは、いつも失うまで分からないもんだ。



ゴーヤ
2003年6月1日(日曜日) くもり/晴れ

店じまい。散歩の途中で。

最近、ゴーヤを使った料理にハマっている。沖縄風の調理方法は経験がないので、わたしが作るとやや中華っぽくなるのだけれど、クセのある野菜を食べるときにモノを言うのは、味付けよりも何と組み合わせるかだと思う。傾向として、この手のやつは「毒をもって毒を制す」とばかりに香りの強い野菜と合わせるのがいいみたいで、具体的には、セロリやピーマンなんかと一緒に料理したら、ゴーヤ臭さが相殺されて食べやすい感じになった。これまで作ってみた料理のなかでわりと成功だったのが、ゴマ油で豚肉などと炒めたあとに生のアサリを放り込み、丸ごと酒蒸しにしたもの。アサリの風味と日本酒の香りが、苦みと良く合う。写真ではエリンギも入っているが、これはちと失敗。ゴーヤとの相性は悪かった。

刻んだネギが大量にあったので、「ネギ餅もどき」を作ってみた。余り物の処分だからできる限りシンプルに、ってことで、薄力粉を水で練っただけものにネギと少量の食塩をぶち込んだものを、やや多目のゴマ油を垂らしたフライパンでキツネ色になるまで炒めてみただけ。あまりに適当すぎるのでたぶん不味いだろうと思いながらも、炒めたものに食塩を振りかけて食べてみたら、これが案外うまかった(でも冷めるとイマイチ)。油を大量に吸い込んでしまうので、それがイヤなら油は薄く塗るぐらいでも良いと思う。甘くない即席のお茶請けとして使えるかな。



突撃実験室