多事毒論(1999年8月分)



ノスタルジックな夏?
1999年8月31日(火曜日) はれ

8月も、もう終わりである。例年8月31日といえば、楽園が音を立てながら崩壊するような、にぎやかな遊園地が突如として停電するような、要するに来なくても良い8月最後の日が案の定訪れたという、未練でもなければ後悔でもない陰鬱な焦燥感を、心底味わいながら凄く短い一日。やがて西の空が紅く染まる頃には、数々のやり残しを胸中でリストアップしつつ、これこそが諦めという正念場なのかと妙な納得して風呂に入る。大方、そんな日だったりしたわけだ。

もっとも、いまの生活とは何ら関係のない話だ。夏休みも結局8月に取れなかったし、8月31日に何かが起きるというわけでも無い。しかし、夏というのは、妙なノスタルジックな季節である。この時期の、それとなく秋を予感させる澄んだ空気を感じると、小学生の頃、勝手に山へ行ったり海へ出かけたりして、その度に親とか漁師さんとか変なオジサンとか、それこそ誰にでも叱られた想い出がふと出てきたり。いや、いけないことをして叱られた記憶が大半なんだが。

夏がノスタルジックだと思うのは、単にわたしが夏好きだからだろうか。冬が好きで冬に楽しい(悪い?)ことをいっぱいした人間は、いつぞやの冬は良かったと感じたりしても不思議ではないが、ノスタルジアの表現を思わせるアニメなどは夏が多い気もする(となりのトトロとか)から、夏は特殊なのかも知れない。春夏秋冬のうち、最もノスタルジックと思うのはどれですか...アンケートを採るほどのことでも無いが、夏は言語道断、やっぱ冬だねという方はいませんか?



安っぽさの価値
1999年8月30日(月曜日) くもり

以前、映画タイタニックについての感想を書いた。簡単に要約すれば、あんな安っぽいラブストーリーのどこが良いのだ、何を間違えばあれが「感動の話」になるのだ、などと述べつつ、CGなどの特撮技術は素晴らしいというようなことだ。それがわたしの率直な意見であり、所詮は捏造されたに過ぎない感動の物語など、わたしの琴線には触れないのだ。だとすると、それでもタイタニックが、わたしに魅力を感じさせた部分は、何なのだろう?

「映画は芸術か」と問われたら、わたしは否と答える。なぜなら、わたしは芸術を「観念的な視聴覚的描写」と解しているから、観念を余すことなく織り交ぜて対象を描いた絵は芸術であっても、写真の連続である映画は、現実の写真描写に過ぎず、芸術であるとは言えない。だから、これは個人的な映画の見方だが、映画の見せ所は「腕」とか「技術」にかかっていて、シナリオの表現も、映像表現も、結局のところは芸術ではなく、より技術的なものだと思うのだ。

だから、例えタイタニックがクソみたいなラブストーリーだったとしても、凄い映像表現がそこにあるのなら、技術的な評価として見てしまうのだろう。タイタニックに限らず、例えそれが最低の戦争映画でも、例えそれがアメリカが世界を救う話の自国優位主義宣伝映画でも、つい見にいってしまう。その度に、多事毒論で酷評を書くことになり、馬鹿な失敗を懲りずに繰り返しているようにも思えるが、それはそれで楽しんだから良いのだ。

それで良いのなら、酷評を書く必要など無いかも...ということに気付いたのは、富野由悠季氏(ガンダムの監督)が、タイタニックについて語っていたのを聞いたときだ。氏の話を大雑把に纏めると、映画なんて本来は安っぽいもの、だから安易なラブストーリーでも、楽しめれば良いじゃないかというようなことを言っていたと思う。前述したとおり、わたしはその程度ではウケない悪い観客なので、シナリオ的安っぽさ自体は肯定しかねる。しかし、安っぽさを批判しながら鑑賞し、後から評価点を探す見方は、肩に力が入り過ぎかな、とも思った次第。

ま、一番悪いのは余計な期待を煽る宣伝かも。



かばん
1999年8月29日(日曜日) はれ/くもり

3年ぐらい前から買った方が良いのではないかと思っていた鞄を、やっと買ってきた。鞄ごときを買うのにそんな時間のかかる奴はそう多くない気がするが、あれば便利かも知れないが気に入るものがない、だけど敢えて探して歩くのも面倒臭いから今度にしよう、とか思っていたらいつのまにか忘れていた...なんてやってるうちに、えらい月日が経ってしまった次第。かかりすぎだけど。

そもそも、わたしは手ぶら主義なので、鞄など余計な荷物をゴチャゴチャと持つのは嫌いだ。財布と電話ぐらいをケツのポケットに突っ込んで、はい準備完了っていう人間だから、それ以外の持ち物は邪魔なのだ。そんなこともあって、鞄の必要性を余り感じていなかったのだが、それでも時には財布と電話以外の小物を運ばないといけないこともあるので、小型の鞄ぐらいは買っておくべきだろうと考えていたわけだ。3年前から。

しかし、男性用で調子の良い鞄って無い。いわゆるセカンドバッグはどうもいけ好かないし、リュックサックなんて、背中が暑苦しくて論外だ。手提げは大きすぎて邪魔だし、布製はフニャフニャして鬱陶しいし、ビニール製は何となく安っぽいし、下手に選ぶとジジィ臭くて駄目だ。って、そこまで贅沢いっていたら、本当に選ぶモノなんて無い。しかも、どんなのが良いのかというイメージすら無かったりして、早3年が経過した。

ところが今日、百貨店をうろついていたら比較的マシな鞄を見付けたので、買ったきた。モノはこれで、これぐらいなら、まあ許せる感じだ。大きさは、露出オーバーなタバコの箱が縦に3つ入る程度だが、これ以上のサイズになれば、もう嫌だ。



世界最小の Web サーバ
1999年8月28日(土曜日) ?

日のある時間はずっと寝ていたので、今日の天気は良く分からない。いったい、どういう生活リズムがこういう結果を生むのだか..本人としても大いに不可解なことだ。おかげで、今晩は眠たくならない。また、朝日が昇る頃に睡眠を取ることになるのだろう、昼夜逆転の典型例だ。しかも、平日は会社に行っているから、たった一日で。

最近、簡易的な TCP/IP スタックを実装しようかと思い立ち、RFC などの資料に目を通している。何にどこまで対応すれば良いのすら良く分かっていないのが実状なので、満たすべき仕様が書いてある RFC1122 を取り敢えず読んでみたりするのだが、これを読んだだけで、かなりやる気が失せる。理由は簡単で、調整しないといけない要求が多すぎるというか、書いてあることを全て合理的に実装するとすれば、かなり面倒な作業になりそうだ。

そんなことを思いついた理由は、世界最小の Web サーバなんてものを作った強者がいるからだ。PIC12C509A というワンチップマイコン一発に、256 命令程度の TCP/IP スタックと、残りの ROM に http 1.0 及び Telnet を実装したというのだ。しかも、RFC1122 が必要としている仕様は、全て満たしているとまで豪語している。PIC12C509A は 1024 命令分の ROM と 41 バイトの RAM を持ち、これは極めて小さい。

果たして、この限られたリソースの中に Web サーバを作ることは可能だろうか。TCP/IP の処理は複雑ではあるが、HTTP セッションに頻出するパケットだけに注目し、その送受信だけを想定してコードを書けば、かなり小さなリソースでも実装できるだろう。しかし、RFC1122 は、そのような仮定には期待すべきではないとしているから、この時点で仕様に忠実であるとは言えない。特に、41 バイトの RAM でパケットを適正に処理しているとは考えにくいことである。なぜなら、IP ヘッダと TCP ヘッダのサイズだけでも、最小で 40 バイトはあるからだ。

このように RFC1122 適合説については疑問が多いものの、一定の仮定に基づいたインチキな最適化を行えば、PIC12C509A のような小さなリソースでも Web サーバの実装が不可能とは言い切れない。世界最小の Web サーバ、是非その真意を知りたいところである。




1999年8月27日(金曜日) くもり

今日で、左手人差し指に怪我をしてから丁度3週間になる。というわけで、こちらを更新した。

どうでも良いが、日本語のラップ音楽って凄く違和感がある。Dragon Ash はなかなか良い線を行っているが、それでも慣れるまでは何となく変な感じだった。過去にも日本語で似非ラップを歌うグループは何度か出ていたが、出た瞬間に消えていったのは、やはり変だったから? まあ、何も日本語を無理してまで黒人風に歌わなくても良い。河内音頭とかも十分にラップしているように聞こえるのだが(笑)

ところで、どんな歌詞でもラップらしく書こうと思えば書ける。キリの良いところで切った、ほぼ同じ長さの短い文を並べてゆき、そして文の切れ目毎に韻を統一すると「それっぽく」聞こえる。早い話が、脚韻(英語で言うところの rhyme)ってやつだ。例えば、下記の例では、ラップっぽく聞こえさせるために語尾が「ち」で統一されていて、一種の韻文になっていることが分かる。

「俺は東京生まれヒップホップ育ち
「悪そうな奴はだいたい友達

(Grateful Days - Dragon Ash より)

韻文は、多くの言語で聞いていて美しい。漢詩の韻文も(意味が分からないながら)聞き心地がよろしいし、英語でも多くの詩が rhyme するのは、纏まりがあるからだ。しかし、日本語は例外的に、脚韻を踏むと変に聞こえる傾向があると思う。文末の助詞や助動詞で文の意味が確定する言語では、韻文は歯切れが悪いのだ。これを解消するには、文を中途半端なところで切って助詞などが来ないようにすれば良いのだが、そうすると別の意味で変な文になったりするから、そういう気持ち悪さが、日本語ラップにあるのかも知れない。

「俺は大阪生まれサブカルチャ育ち
「オタクな奴はだいたい友達

とかだったら、恐いな〜




1999年8月26日(木曜日) くもり/俄雨

アンドロイドとか、欲しくなったと仮定してみる(あくまで仮定)。いや、例えば嘗めようが犯そうが文句一つ吐かず、絶妙な嫌悪と抵抗を見せながらも、生ハメ、そして中出しを受け付ける性欲処理専用人形(抗菌仕様)が欲しいと言っているのではない。でも、メシ作っとけ、掃除しとけ、洗濯しろ、などといった面倒くさいことを命令すれば、忠実に雑務をこなすメイドさんロボットは、いたら便利に違いない。

ロボットの物理的な設計を行うとすれば、人型が優れているに決まっている。なぜなら世の中は全て人間サイズに合わせて作られているからだ。ロボットの指先では、洗濯機のスイッチを押せないとかいったら困るし、押し方が強すぎてスイッチを壊されたら目も当てられない。それに、機械の塊が家にいつもいられたら落ち着かないし...このような理由から、メイドさんロボットは極めて人間に近い、アンドロイドが望ましい。

しかし、忠実に人を模倣しすぎたアンドロイドは、何となく情が湧きそうで嫌かも。機械と恋愛などしたくないし、やはり機械は機械の域を出るべきではなく、人間とは厳密に区別されるべきだと思う。例えば、人間的感情や性格がアンドロイドにおいて再現されれば、仕事を命令したときに「面倒」という感情が働くだろうから、機械として使い物にならない。ならばと、「忠実」という性格だけを増幅させるのも気持ちが悪い。何を命令しても反抗せず「はい」といって職務をこなす疑似人間? なんか嫌だ。

あまつさえ、凄い美人だったりしてアニメオタクの欲望を真っ向から吸収するような甘い声で、「はぁい」とか言われたら、本当に性的欲望処理人形になりかねない..気がしないでもない(笑)




1999年8月25日(水曜日) はれ/くもり

ここのところ、一文字表題シリーズが続いていることにお気づきの方は多いだろう。何故かって、凄く書きやすいのだ。厳密に枠組みを定めて書くよりも、漠然とした枠組みだけ設定しておき、あとは表題に包括されるであろう話を適当に書いているうちに一本完成。ちょろいものよ、フッ。って、そんな程度のものを毎日多くの方々に読んで頂くのは、わたしとしても心が痛いのだが、ネタが無いのだから仕方がない(言い訳モード)。

昨日、SkyPerfecTV の番組申し込みをしたことはお伝えしたが、一つ申し込もうと思って忘れていたチャンネルがあった。それは、某合衆国から配信されてくるニュース番組だ。ここで見られるのは幾つかあって、CNN と Fox NEWS、CNBC がある。個人的にお勧めなのが Fox NEWS である。CNN の質は高いが値段も高いし、雰囲気は硬い。CNBC は、経済色べっとりなので、金に執着心のない人には価値がない。それらと比べて、Fox NEWS はユーモアも多く、興味本位で見るには持ってこいの合衆国ニュースなのだ。

今朝、支度をしながら Fox NEWS を見ていたら、「動物の権利」なんてものを主張している人が論を展開していた。朝だからバタバタしていた上、英語を話さなくなって久しいので詳細までは聞けなかったが、動物にも人間にあるような人権(動権?)が必要だとか。じゃあ、お前は肉は食わないのか? と胸中でオーソドックスな突っ込みを入れようとしたところ、その人「特に知的な動物」には権利が必要だとか言う。恐らく、イルカとか鯨といった類の生物のことを指しているのだろう。

えー、、人間っていつから神になったのだ? 人間、つまりは他の生物と何ら立場は違わない人間程度の分際で、他種の生物を「知能」という基準で選別しようなどとは、これ上なくこれ傲慢で僭越なことだ。動物愛護主義や殺生はいけないという考え方にはまだ一理あるとしても、これほどまで人間優越主義に浸った者が「動物に権利を」などと主張するとは、おもしろおかしくて仕方がない。自分を神と勘違いしていることにも気付かず「正義」を唱える連中、哀れだねえ。

言うまでもないが、人間が食っていくには他生物を補食する必要があり、そのための犠牲はやむを得ない、というよりそうであって然るべきである。例えそれがイルカであっても、鯨であっても、食うためなら当然のように殺して食うのが節理ってものだ。それを知能などという基準で選別し、「牛は良いけど、鯨はが頭良さそうだから駄目よ」なんていう生意気な理屈を展開する神様カブレどもは、俺神様的基準からすると「頭悪そうだから」殺しちゃおうかな♪

と、無理矢理「神」について書いてみた今日の毒論であった。




1999年8月24日(火曜日) はれ/くもり

さて、女っ気の無い男の娯楽といえばテレビ(独断?)。今日、SkyPerfecTV の加入申込書を送付した。申し込んだチャンネルは、僅か3つで、金額にすると毎月1000円+基本料(290円)+消費税なのだ。実は、当初の番組選定計画で計算すると、視聴料だけで2千円を超える金額となってしまった。これが必要な2千円の出費ならば全く惜しくないが、果たしてこれが適正価格なのかどうかを仔細に検討してみたところ、そうではないという結論に至った。

視聴契約をした番組で得られる情報的価値あるいは娯楽的価値に、月々2千円以上の金銭的価値があるだろうか。情報の価値と言われても漠然としていて分かりにくいので比較対象を挙げると、四六時中アニメを放映している Animax が月400円で見られ、質の高いドキュメンタリを見せてくれる Discovery Channel が月300円で見られる。ESPN なども最初は考えたが、これは950円。趣味の問題もあるので一概には比較できることではないが、見比べると ESPN は何となく高すぎると思うし、逆に Animax や Discovery Channel は安すぎるとさえ感じる。

また、それ以上にボコボコと契約チャンネル数を増やしたところで同時に見られるのは1チャンネルだけだし、昼間は会社に行ってて見られない。暫くすればどうせ飽きて、時間のある限り衛星の毒電波に冒されることも無くなるだろうから、どうでも良いかということになり、気に入らなかったら後から変えられるし、取り敢えず欲張らず、Animax と Discovery Channel に Kids Channel を追加して1000円ぽっきりの契約に決定した(趣味が..)。

後は映画などと PPV で見たら、1本数百円というところか。仮に月2本の PPV を買って500円程度請求されるとすると、SkyPerfecTV に支払う金額は、全て合わせて税込みで2000円前後となるだろう。これがわたし的な考えに基づいて取り敢えず算出した「月々のテレビ視聴料金として適正な金額」で、契約チャンネルを追加しするにしても、合計で月々3000円ぐらいが限度だろうと考えている。高いか安いか。皆さんは、この金額をどう捉えられるだろうか。

よく考えると、2000円では NHK 料金すら払えない(と思う)。しかも NHK は滅多に見ないため、NHK 料金は支払っていない。それでも律儀に NHK 料金を払うとすれば(細かい事情は色々とあるにせよ、視聴料として割り切るなら)ドブに捨てるようなもの。見たい番組を選んで払う2000円と、半ば強制的に徴収される良く分からない2000円とでは、どちらの方が価値が高いか...そう考えると、NHK の存在意義すら怪しくなっているのが、放送業界の趨勢ではないだろうか。




1999年8月23日(月曜日) はれ

家に帰ってメシの支度じゃ。野菜を炊いて魚を焼いて、さあ食うぞ! メシ、メシ、茶碗と杓文字を手にして、炊飯器の電源が入っていない....ということは、あうあう? よく考えると、米を洗った覚えも無いから、メシが炊けてるはずなどない。しかし、おかずを並べるまで気付かないとは、我としたことがなかなかのボケようだ。というわけで、今日はおかずのみの食事、これがOKな人もいるが、おかずが無くてもメシだけは欲しいわたしのような人間にとっては、苦痛以外の何者でもない。

上手い食い物といえば、「銘菓・りんご焼」なんてお菓子を貰った。こいつは、長野県の土産物らしいが、なかなか美味しいのだ。それはそうと、マイナーっぽい菓子でも、それが土産物用となれば「銘菓」と一言、修飾してあると思うのは気のせいだろうか。そも、大して名産物に興味の無いわたしにとっては、その菓子が銘菓か否かなんて、知る由もない。従って「りんご焼」が銘菓なのかどうかも知らないが、だいたい、売る立場の側がわざわざ「銘菓」などと銘打つのは、これ誠に僭越なことであると思う。

会社の人が偽善者大国こと、アメリカに出張するという。アメリカへ行くと、まず困るのが食事。量はやたらと多いし、朝っぱらから重たいものを食わされるし、かなりの蓋然性でホテルのメシは不味い。無難なところでパンでも食おう..と思っても、アメ製のパンは日本のそれより格段に不味い。しかし、不味いという感覚にも個体差があるらしく、若い人は割と平気な顔をして、ともすれば喜んで食っている...ある意味、頭が下がるのだ。

そういうと、わたしは若くないように聞こえるかも知れない。そんなことはないと信じたい。きっとそうだと信じたいが、現実を知ることとは残酷なものである。何分、鋼鉄製の胃腸は装備していないため、数日なら絶えられても、次第に朝食は炊き立ての飯じゃないと嫌なのぉ! という我が儘に嘖まれ、やはり俺はジジィかも知れないと自覚するのであった。小学生の頃、ニューヨークへ行ったのは良いが、水とメシが合わなかったのか、哀れにも下痢に苦しんだ記憶しか残っていないし...




1999年8月22日(日曜日) はれ

アキバに行こうかと画策するも、えらい勢いで寝てしまったので、中止。まあ、豪快に寝たと言っても12時間程度なので連続最長睡眠記録を超えることはなかったが、久々に素晴らしい昼寝をして生まれ変わったというか、パワーアップしたというか、脱皮したような気分なのだ。気持ちがいい...のは今だけで、夜に寝られなくなり、明日の朝になる頃に眠たくなったりするから昼寝も困った物だ。

創傷や火傷も含めて、手に怪我をすることは良くあるが、小さな怪我では指紋が消えたりしないから不思議なのだ。指に軽い火傷を負った場合、その部分の皮膚は喪失するが、それでも新しく出来る皮膚には元の指紋が残っている。指紋なんて、予め図面が用意されているものではなく、その時の細胞の気分で生成されるものという気がするが、復元できることからして、そうではないらしい。遺伝子に指紋の図面が組み込まれている?

姿無き組織に所属するプロの殺し屋といった、倫理的に問題の多そうな職業に就く人間を題材にし、その宿命ゆえに生じる人間的な悩みを描いた作品は、星の数ほどある。中には、何が言いたいのか良く分からない、破綻したようなものもある。凄く腕の良い殺し屋が、殺し屋という職業に倫理的な問題を感じ、しかも常に組織の駒としてしか動けないことに憤りを感じ、組織に謀反する...なんてシナリオはありがちな例だ。

しかし、腕の良いプロの殺し屋は、標的を人間だと思って殺しているだろうか。あるいは、殺人について倫理的な問題を感じるだろうか。プロ意識を持って人を殺すということは、それなりのプライドを持って殺しに従事しているものと推測されるし、そうでなければ腕だって良くならないだろう。普段は温厚な人物であったとしても、仕事で人を殺すときは構え方が違っても、不思議ではない。そして何年も組織に対して忠実に殺してきた人間に、ある日突然、倫理観が勃起したりする?



親不知?
1999年8月21日(土曜日) はれ/くもり

何かと多忙なこの頃、疲れや寝不足は溜まり気味なのだ。そんなとき、大抵は口内炎の一つや二つが口の中に顔を出す。良くあることなので別に驚きもしないが、あれれ、今度は奥歯の奥が痛いぞ。原因を探るべく舌で探ってみると、何やら硬い物体の存在が確認でき、どうやら歯が生えかかってるらしい。歳から言えば、もう永久歯は全て生えていて当たり前なので、これはきっと親不知ってやつに違いない。

両親ともまだくたばってはいないので親不知という言い方は変であるが、現代人には不要とされ退化しつつある歯が芽を出したらしい。このまま変に生えてくれば、抜かなければならないだろう...まだ頭が出てきただけで、邪魔になるほどではないから、取り敢えず様子を見ることにする。口内炎と親不知のダブルパンチで、口の中は余り調子が宜しくなく、醤油物とかを食うときは、ちと辛い。

それはそうと、「魔法騎士レイアース」の主題歌には、主人公の名前(光・風・海)が歌詞にさり気なく登場しているらしい。改めて「キライになれない」(中村あゆみ)とかを聞いてみると、確かに出ては来るのだが、強引にキーワードをねじ込んだように思うのは、わたしだけだろうか。安物のミステリ小説なんかで、文章のどこかにそれとなくキーワードを隠すつもりが、浮いてしまってバレバレやん! みたいな。

まあ、どうでもいい。明日、アキバ行こうかなぁ。



怪しい葉書
1999年8月20日(金曜日) くもり/あめ/はれ

不在通知 ご覧のように「不在通知」と書かれた怪しい郵便葉書がポストに投函されていた(橙色の数字はわたしが書き入れたもの)。言うまでもないが、わたしは「オーナーズS」などという訳の分からない商品を注文した覚えは無いし、そもそも、宅配便の配達員は家の前まで来ているのだから、わざわざ郵便で不在通知を送る必要など無いのだ。
更に仔細に検分すると、下記のような不自然さが伺える。

  1. これが宅配便の不在通知だとすれば、普通は郵便で来ない
  2. 日付に8月18日とつけるぐらいだから、家には来てないようだ
  3. 宅配便なら「オーナーズS」と具体的な商品名は書かないはず
  4. やたらと本人にこだわるところも、何かありそう
  5. 運送会社の営業時間としては、明らかに不自然
  6. 「会社名」なら分かるが、「会場名」ってなんだ?
  7. 団体名も怪しく、少なくとも運送会社とは考えにくい
このようなことから推測して、この葉書が何かの名簿を元に送られた「ニセの不在通知」であることは明らかで、見え透いた新手の商法と断定して差し支えは無かろう。宅配便か何かの不在通知を装い、何も知らずに受け取った人間に電話を掛けさせ、その場で勧誘を行う。また「会場名」なんて書いてあるぐらいだから、電話勧誘が成功すれば会場とやらに監禁し、更なる勧誘を行って何かを売りつける。そんな塩梅ではないだろうか。

この葉書が使命を果たすには、一家全員の留守が前提として必要なので、普段から家族がいる家庭では成り立たない。従って、わたしのような独り住まいの人間だけを狙って送っているのかも知れない。

馬鹿な不在通知は捨てるのが一番であるが、相手の目論みを知るために、敢えて記載されている電話番号に電話を入れてみた。まずは受付と思われる、感じの良い女性が出た。何も知らないふりをして葉書を受け取った旨を言い、相手から求められた通り整理番号と氏名を告げると、電話が保留された後に別の女性に電話が回される。今度は、いかにも電話勧誘員という感じの馴れ馴れしさと、気色の悪い色仕掛けを感じさせるクソアマだ。

わたし「不在通知を受け取ったのですが、これは何でしょうか。
勧誘員「はい、いまどちらから電話をかけているんですかぁ?
わたし「職場ですけど
勧誘員「携帯かなにかからぁ?
わたし「ええ、そうです
勧誘員「だったら、電話代もかかりますし、こちらからかけ直します。ゆっくりと説明したいので、連絡先を...
わたし「電話代は構いませんから、いま説明して貰えれば結構です
勧誘員「いえ、是非詳しく聞いて欲しいのでぇ、是非こちらから電話を..
わたし「だからね、こちらも忙しくてゆっくりと説明を聞いている暇は無いんですよ。
勧誘員「でしたらぁ、お仕事が終わって暇になった時間に電話しますから..
この女、コギャルみたいに馴れ馴れしくて気に入らない。会話の内容から分かるように、この葉書が不在通知とは何ら関係の無いことは明らかである。配達されてきた商品に詳しい説明もクソも無いし、「かけ直す」というのも明らかに変だ。しかも、こんな調子に連絡先を教えろと言い、埒があかないので、少し強く出て逆に尋問してみる。

わたし「あのですね、いま簡潔な説明が聞きたいんですよ。この『オーナーズS』って何なの?
勧誘員「はい、『オーナーズシステム』ですね。だから、こちらから電話して詳しくお話ししますので
ほうほう、オーナーズSとはオーナーズシステムの略だったらしい。名称からして、何かの権利を買わせて損をさせるようなシステムだろうか。この女、これ以上は梃子でも話さないつもりのようなので、それ以上は聞き出せず、良く分からない。腹いせに、虐めてやることにした。

わたし「別に詳しく知りたくありませんがね、こういう葉書を送りつけてその態度は失礼なんじゃない?
勧誘員「はい
わたし「そうだよね
勧誘員「はい・・・
わたし「でね、この不在通知とやらだけど...
勧誘員「はい・・・
この女、都合が悪くなったら「はい」の連呼ときた。あまり深く突っ込む人間も、そう多くないのかも知れない。こういう方向に話が流れると、マニュアルが備わっていないためか、自分のペースに戻せなくなるようだ。ここからは、完全にこちらのペースである。

わたし「実際は不在通知でも何でもないよね、この葉書は。
勧誘員「違います、不在通知です
わたし「じゃあ、8月18日に、誰かが家まで来たというのですね?
勧誘員「そうですよ
わたし「その時に何を持ってきたんですか?
勧誘員「オーナーズシステムのカタログを持って伺いました
わたし「そうですか、分かりました。忙しいので、もう切りますよ
勧誘員「はい
ばーか、カモの申し出から会話を終了するなど、電話勧誘員としては失格である。18日は実際に不在であったが、恐らく誰も家に来ていないはずである。だが、念のため「カタログを持って営業員が伺ったが、不在であった」という意味での「不在通知」という建前を作ってあるようだ。ここで電話代を使ってまで、その真偽を問いつめる意味もないので、このぐらいで終わりにした。これが悪徳商法かどうかは断定できないが、こんな調子で怪しげな商法であることは明らかだ。

しかし、こんな低レベルな勧誘に引っかかる馬鹿はいるのだろうか? 想像を絶するほど巧妙でない限り、変な勧誘の被害者に同情の余地はない。



黒人って
1999年8月19日(木曜日) はれ

漫画やアニメを見ていると、黒人キャラクタは滅多に登場しない。その理由は、単に日系の人種に肌の黒い人が存在しないから、日本で発表される作品に黒人を登場させても浮くだけだからだろうと思っていた。しかし、ゴーマニズム宣言を描いている小林よしのりによれば、漫画の中で「黒人」は非常に描きにくい、あるいは描いてはならないタブーのような存在だという。絵の雰囲気次第で「これは黒人に対する偏見を含んだ絵だ」というクレームが付くらしい。

なるほど、と思った。かつて「ちびくろサンボ」が、黒人差別の助長を理由に廃刊となったように、ここは黒人を題材すると訳の分からないクレームが付く国である。そんな場で敢えて黒人キャラクタを登場させ、危ない橋を渡ることもない。だから黒人は描かない、というポリシーはごもっともなことだ。絵の問題ではなく、ストーリーの中であからさまな黒人差別を描写しているならともかくとして、クレーマーは何を言うか分からないから、恐ろしい。

漫画に登場する黒人の姿は、実体と異なっていて当然である。媒体が漫画である以上、如実に描かれた黒人は登場しないし、それと同様に如実な白人も登場しない。あまつさえ、この世界には赤とか青の頭髪も存在するし、人物の眼が顔の三分の一の面積を占めていたりもするから、「正しいヒトの姿」すらロクに登場しないのだ。彼らクレーマーと同じ理論でこういった姿の「ヒト」を批判すれば、「ヒトに対する差別」と言うべきか。尤も、漫画の絵をみて、そんなことを言う奴は寡聞にして知らないが。

漫画やアニメに限った話ではないが、黒人などを描かないと逆に問題となる社会もある。アメリカの学校で使われている教科書に使われている写真に出てくる人物を見ると、国際色がやたらと豊かなのだ。白人や黒人は勿論のこと、ヒスパニック系やアジア系などに至るまで、様々な人種が偏りなく写真に登場する。それだけではなく、文章題に登場する人物の氏名も、これまた徹底している。あらゆる文化圏の氏名が教科書の随所に現れ、教科書の出版社は文化圏の調査の方が大変なのでは、と思うぐらい。

教科書検定制度は無いが、学校で使われる教科書の選定に際しては、過剰な国際色が重視されるらしい。



ちゃちゃ!
1999年8月18日(水曜日) はれ

今日も南南西の空から有害電波が降ってくる。何気なく番組表を見ると、そこには「赤ずきんチャチャ」なんていう文字列が...誘惑に負けて、つい見ちまうじゃねーかクソ、ANIMAXめ。そんな絶妙な手段を用い、辛うじてわたしの中に残っている健全さの破片まで奪取せんとする衛星の罪は計り知れない。それにしても、チャチャは良かったね。大方の意見とは裏腹に、わたしは大きい方のチャチャの方が好きなので、変身しなくなったときには、涙が零れ落ちたぐらいである。

と、そんなことを真剣に書かれても困る方が殆どだろう。時々、ここの Webmaster は、表向きは真面目な面を引っ提げ、本性を隠しているという噂を耳にする。特に実世界上のわたしを知る人間は、口を揃えて「別の人間が書いているんじゃないの?」などと仰るが、人間は多面的な存在であり、一面を見ただけでそういうことを言われては叶わない。見えないところでは何をやらかしているかなど、誰にも分からないのだ。だから、人は恐いのらぞぉ(って、何が言いたい)。



うひ
1999年8月17日(火曜日) はれ

朝から頭痛が酷くて、仕事にならない。時々我が身を襲うこの頭痛、酷いときは動くのも嫌になる。きっかけも無く来るので予想も出来ないし、いかにも不思議なことだ。さて、お盆に休んだ方々は、そろそろ夏休み明けというところだろうか。最近は、判を押したように皆が皆、決まった日に休むということも無いようだから、変な頃に休みを取る方も少なからずいらっしゃるだろう。逆に行楽地などは空いていて良いかも。

秋月電子で、液晶ディスプレイモジュールを買ってきた(2800円也)。良く売ってる、アナログ RGB 信号を入力すれば NTSC ビデオ信号が写る類のものではなく、デジタル RGB 入力のものだ。タイミング表をざっと見たところでは、各色の輝度信号を3ビットで出力し、同期信号さえ入れてやれば写るような感じ。同期信号はタイマーで作れば、マイコンから追加回路無しで直接制御できそうだ。が、よく考えたら液晶駆動用に高い電圧がいるので、デコデコがいるか。

暇になったら、AKI-H8 用にドライバライブラリを書こうと思うのだが、ビデオ関係のプログラムって実は書いたことが無い。この時代に CUI なんて流行らないのかもしれないが、業務用の実用ソフトなんて、テキストベースで概ねの事は足りるし、そちらの方が軽くて良いことも多い。まあ、グラフィックベースなプログラムを書く人でも、Windows 上などでは、VRAM がどういう構造になっているかとか、気にする必要などないのかも。

Unix にしても、Windows にしても、そのような低レベルな泥仕事はOSが包み隠していて、楽しみが減ったと感じるのはわたしだけだろうか。DOS のリアルモードで I/O をガリガリ叩きながら、いまの時代の感覚からすれば非常に極悪なコードをビシバシと書くっていうのも楽しいモノ。実際に何が起きているか明らかでない API というブラックボックスだけでソフトが出来ちゃうというのも、何か詰まらないものがあると感じてしまうのだ。



SkyPerfectTV
1999年8月16日(月曜日) くもり/はれ

先週の土曜日、一人でアキバへ行ってしまったことが、身に降りかかった宇宙的な過ちの始まりだったかも知れない。普段はいるはずの制止係と呼ばれる人物が不在だったため、即決で SkyPerfectTV のチューナを買ってしまった。電車で行ったので配達してらい、今日モノが来た。ふへへへ...無垢の心を持つわたしは、純粋な小学生的ウキウキ笑みを浮かべながら仕事を早く上がり、早速アンテナ設置作業を開始。会社の人も手伝いに来てくれたこともあり、割と簡単に済んだ。

そして、センターに電話して試聴受信の開始をお願いする。電話をかけると、常に手元に置いてあると推測されるマニュアルを機械のように読み上げる、有り体に言えば愛想の欠片も感じられない男性が電話に出た。必要事項を伝えて(椚座淳介、名前の漢字がいつものように伝わらない!)試聴開始。色々と見ているが、金を払う価値のありそうな放送はさほど多くない。SkyPerfectTV はチャンネルの多さばかり自慢しているようだが、数は問題ではない。重要なのは質であることは言うまでもない。

取り敢えず申し込もうと決めているのが、映画関係のチャンネル(PPV ではない垂れ流しのやつ)とアニメぐらい。前者は、映画は元から金を払って見るものなので、別に勿体ない気はしない。アニメは、まあ一種の趣味だから、これも良いだろう。しかし、そのように合理的な番組選択をしていくと、金を払ってまで見るに値する番組など無いに等しい。番組内容の希薄性に対する批判でもあるが、例えそうであっても、趣味やニーズに合わせて多様なチャンネルから選び、視聴できるシステムは良いと思う。

ちらっと聞いた話だが、アニメを見るなら DirecTV の方が良いとか? SkyPerfectTV でアニメを見るは Animax と アニメフリークなどが主だが、いずれも若干の物足りなさがある。四六時中アニメを流してるクレイジーなチャンネルが、4〜5チャンネルぐらいあれば、それなりに楽しめそうなのだ。料金は少々高くても構わないので OVA 専門チャンネルとか出てこないかな。少しだけ気になるのが画質。微妙に、デジタル圧縮的なジャギっぽさを感じることがある。実際、普通にしていれば気にとめる程ではないが、画質はBSの方が綺麗と思うのだ。



遊園地へ
1999年8月15日(日曜日) くもり/はれ

弟と、そのツレが遊びに来た。みなとみらいにある巨大な観覧車のある場所に連れていけというので、午後から行ってきた。途中で横浜在住の別の友人と合流するというので女かと期待したら、あろうことか野郎。計男4名という、大変むさ苦しいメンバーで、その観覧車があるコスモワールドという遊園地へ行ってきた次第なのだ。実は、わたしも地元に住んでいながら、あの場所へ足を踏み入れるのは今回が初めてだ。

コスモワールドは入場料が無料で、乗り物代が若干高めに設定されている。少しだけ立ち寄って遊ぶことを考慮した料金体系だろうが、それは大変ありがたい。が、観覧車が一人700円と決して安くない値段なのが難点だ。結局、わたし以外の連中は、ジェットコースターに乗っていた。なぜ自分は乗らなかったかって...単に好きではないからだ。金を払ってまで恐怖を体験したいとは思わない。

彼らを待っている間に、つい設備の構造を深く観察してしまうのは、技術屋の性ってものだろうか。例えば、複数のコースターが同じ線路を通過するようなものでは、線路上の随所にフォトセンサーが取り付けられており、それらと連動して動くブレーキが随所に設置されている。つまり、車間距離が必ず一定以上に保たれるような仕組みがあるのだ。遊園地でセンサーと制御の連動を観察しているのも、それなりに面白い。なにしろ、FA部品の宝庫なのだから。

しかし、こういう目を持ちながら遊園地へ行くと、全然面白く無くなったりすることもある。自動化されたお化け屋敷(館内をコースターが低速で動くやつ)などに入ってみると、フォトインタラプタの光源で次のイベントが予測できたりするのだ。あのLEDを遮った瞬間、きっと何かが起こるぞ...ほら、やっぱり! なんて調子だと、全然面白くないのだ。せめて、可視光ではなく赤外線のフォトセンサーを使って欲しいと思うのは、わたしだけだろうか。



オタクの会合
1999年8月14日(土曜日) くもり/あめ

8月のこの時期と言えば、誰しもが知るあのイベントが開催される季節である。そう、都内某所の埋め立て地において、常人からしてみれば想像を絶する集会が執り行われることで大変有名な、アレのこと。もちろんであるが、わたしは産声を上げてから一度も現場に足を踏み入れたことは無いし、今年も同様である。だが、それ目当てで都内に濃ゆい人々が集結する日である今日、オタクの会合なるものに顔を出してきた。

以前はそういう方面の付き合いも少しあったので、濃い集まりに参加することもあったが、ここのところは健全な日々を送っていた。そんなところに、ヲの付く業界を闊歩する面々と久々に接点を持ったことは、色んな意味で新鮮だったというわけだ。一見してソレと分かる集団の中で過ごした、有意義な一日であった。

どうでも良いが、今日は断続的な集中豪雨で電車が遅れたり、運休したりということがあったようだ。幸い、横浜−東京間の交通に大きな乱れは無かったものの、昼過ぎに横浜駅から東海道線に乗ろうとしたら、少し遅れ気味の様子。しかも、どこぞの踏切で非常ボタンが押されて、電車が止まってどうのこうのというアナウンスが流れた時は少し焦った。おいおい、よしてくれよ...と思ったら、何事もなく東京駅に到着。よかった。



寝ます
1999年8月13日(金曜日) くもり/あめ

流石に「寝ます」だけなら怒られそうなので、ケガのかんさつ日記だけは更新した。

マジ眠い...



夏休み
1999年8月12日(木曜日) はれ

世の中は夏休みに入っているところが多いらしく、街が全体的に静かな感じなのだ。それはそれで大いに結構なことだが、何の因果か今日は深夜までお仕事だったりする。何事も予定通りに進んでいればこういうことにはならないはずなのだが、予定は未定であって、しかも予定通りに進行する仕事の方がむしろ例外と考えれば、至極当たり前のことかもしれない。

それはそうと、やっぱり皆さんは夏休みらしく、盆前後に遊びに行くから家に泊めろというような予約が何件かあった。こっちはそれどころではない、とか言いつつも弟が友人と泊めさせろというので、休みの夜だけならOKという条件で承諾。うちで計3人の人間が寝るには廊下なども活用しないと厳しいなのだが、そこも片づけないとならない。かといって、散らかっているものをどこに片づけるのかという問題があったりして。

弟が大学を受けるとか、受けたとか、もしかすると受かったとか言っていたから、世の中何が起こるか分からない。更に驚くべきことは、某一流大学の法学部だったりするから、仮にあんな不真面目な人間が受かったとすれば、真面目に勉強している人間に刺されかねない気がする。かく言うわたしは高校を2度中退するぐらいの筋金入りの不真面目だが、その代わり大学を受けようなんて僭越なことは端から考えなかったので、刺される心配はないだろう...



殺菌ブーム
1999年8月11日(水曜日) はれ

最近、やたらと増えている殺菌効果のある洗剤やらスプレーやら。売れるから売るのだろうが(あたりまえ)、こういった菌に対する過剰な反応に病理的なものを感じるのは、わたしだけでは無いかも知れない。手洗い石鹸を初め、食器洗い洗剤も洗濯洗剤も殺菌効果が歌われてたりするわけだが、果たしてどのぐらいの効果があるのだろうか? ちなみに、わたしの家にある日用品で殺菌効果があるというのは手洗い石鹸だけだ(別に選んで買ってるわけではないけど)。

聞くところによれば、殺菌効果があるという手洗い石鹸を使っても殆ど意味は無いらしい。手を洗った瞬間は殺菌されたとしても、普通に手を洗った場合、それだけで終わりではない。水道のコックを閉め、タオルで手を拭き、洗面所の扉を開けてまた閉める。だいたい、そのような動作の中で菌が手に着き、しかも直ぐに繁殖するから殺菌された細菌も直ぐに復活するらしい。まあ、菌なんてどこにでもいるものだから、当たり前のことであろう。

巷に溢れる殺菌何たらも、その場限りの効果はあったとしても、長時間に渡り無菌状態を持続できるはずはない。得られるのは、潔癖症を満足させる心理的な清潔感ぐらいで、後は訳の分からない流行りで、洗剤屋が儲かるぐらいだろう。わたしも食品衛生にはある程度は気を遣っているが、実際のところ常識的なことをしているだけで、殺菌スプレーなどは使っていない。それでも食中毒になったりしないところを見ると、変な殺菌習慣など、やってもやらなくても同じという気がする。

しかし、潔癖症ブームはどこまでエスカレートすると収まるのだろう。そのうち、どっかのリフォーム屋が「手洗いは殺菌だけでは駄目なんですよぉ」なんてコマーシャルが流し始めたらどうしよう。洗面所の扉を手で触るのは不衛生だから、ここはもちろん自動ドア。水道のコックだって、自動開栓でなければ不潔だ。おっと、タオルのような不潔なもので手を拭くのは以ての外。殺菌灯付きの温風乾燥機を据え付けて、「正しい手洗いを実践しましょう」...とかなったら、恐ろしいねえ。



たれぱんだ
1999年8月10日(火曜日) あめ

今日は頭が全く稼働してくれないので、とっとと家に帰って寝る。動かずに頭痛を起こすぐらいの能しかないのなら、最初から要らないとか思う次第だ。従って、夜の7時頃には寝ていたものの、11時半頃に電話のコールで起こされて非常に寝覚めが悪く、気分も悪い。電話は取らず、発信者の番号だけが虚しく記録されていたが、それからして急ぎでもなければ身のある話でもなかったに違いない。深夜の電話ではまず起きない自信はあるものの、中途半端な時刻では眠りが浅いので起きてしまう...くそ。

こういう風に疲れて眠いときは、癒されたい? 最近は流行語のように癒し癒しと騒がれている気がするが、癒しすら受動的な手段によってしか得られないような、消極的な人間が急増しているということだろうか。挙げ句の果てには「たれぱんだ」なんかまで「癒しグッズ」という扱いになっているらしいが、あれのどこをどう解釈すれば「癒し」に繋がるのか、わたしには理解不能なのだ。脱力系キャラクタとしてなら良いだろうが、あれを見て癒されるとは断じて思わないし、逆にそういう見方をすると、その消極性に何となく虫酸が走る(ボコボコに殴ると気持ちいいかも)。

なんだかんだと、どうも理解に苦しむことが多い最近の「癒されたい」という感覚。そんな魔法を唱えれば、白馬に跨った王子様が癒しに現れるわけでも無く、結局のところ自分でどうにかしなければならない自身の問題だ。癒されることさえ自分で能わない、救いようのないやる気ゼロモードに入ってしまってる人間ばかりでないとすれば、いつどうやって癒されれば良いのかすら分からない忙しすぎる人間もいるのだろう。だが、人もまた生物であり、魂胆にあるのは生理的欲求なのだ。寝て寝て寝まくって...そして、最後にあるのは性欲かも。

あ、緑の頭髪を生やした性欲処理人形が癒し道具の金字塔であるとする説も(謎)



SN比
1999年8月9日(月曜日) はれ

SN比、日本語で言えば「信号対雑音比」であるが、Web ページにもSN比というものが存在する。ネタが豊富にあるときは良いが、枯渇しはじめれば忽ちSN比が悪化し、酷いときはノイズばかりで埋め尽くされることになる。まあ、サラリーマン生活などやっておれば、一日中会社に籠城し、しかもそこから生み出されるものに雑音を超えるものはないので、それを復調した結果に生み出される文章も、雑音にしかなり得ないわけだ。

所詮は生産設備という雇われの身。同じ景色ばかりが坦々と続くマンネリズムで構成されし日常には、僅かな楽しみを発見するだけで精一杯だ。その希薄さを補う増幅器として作用するよう書かれた文章も、よく見れば雑音を増幅したに過ぎない無意味な文字の羅列以上のものにはならないだろう。そうしてSN比の悪化を改めて認識したとき、新たな改善手段を画策するも、最近はこれがまた無い。

つーわけで、なんか面白いことないですかね?
と、今日もまたノイズだけを吸着させて多事毒論のファイルサイズは太るだけ。



郵便配送調査?
1999年8月8日(日曜日) はれ

昨日、横浜港郵便局より郵便物の配送状況を調査する調査票が届いた。数日前に配達されたはずの葉書がいつ、どのような状態で配送されたのかを調べたいらしい。調査の対象となった葉書は、どうでも良いダイレクトメールで、わたしがこの調査票を目にした時点では既に存在すら忘れていた。記憶を探り、漸く問題の葉書を発掘したのは、ゴミ箱の中。しかも、その程度のものだけに、葉書がいつ配送されたかなど記憶にない。恐らく、先週の金曜日だったと思うが、確証はない。

状況から察するに、この調査は無差別な抜き打ちで行われているようだ。尤も「この郵便物を調査するから」なんて取り決めを事前に行えば、実務の調査にはなり得ない。しかし、どの郵便物が、いつ、どのように配送されたかなど覚えている人は希だろう。その郵便物が、愛しい彼女が僕に対するピュアな感情を切々と綴ったラブレターならまだしも、ダイレクトメールともなれば、見ないままゴミ箱行きである。調査対象を受け取る予定の本人に、こっそりと知らせるぐらいの配慮はして欲しいところだ。

そればかりでなく、この調査票と同封されて送られてきたのは、冊子小包の宣伝チラシと来たものだから、恐れ入る。不必要な低姿勢を要求している訳ではないが、調査に協力して頂いた上で、ついでに宣伝まで行う姿勢は、調査に協力して頂く者としての然るべき態度とは言えない。どことなく「調査に協力して当然」という雰囲気があって、返送率は低いに違いない。「ご返送頂いた方から抽選で毎月n名様に切手シートを差し上げます」と「餌」でも用意すれば返送率は上がるだろうに、やる気の感じられない調査手法だ。

実のところ、同じ横浜港郵便局が扱う職場宛に来た郵便物の配送は、かなり杜撰であった。最近は無いようだが、以前は全く関係のない住所の郵便物が配達されていたり(部屋番号を間違えたとかではない)、あるいは、人がいるのに速達が郵便受けに入れられていたこともあった(速達は部屋まで持ってくるのが当たり前)。配達態度の悪さに業を煮やした会社の外渉管理室長(?) が、配達員を呼びつけて厳しく叱責し、それから改善されたようだ。



いててて
1999年8月7日(土曜日) はれ/集中豪雨

面白そうだから、ケガのかんさつ日記なんてものを書き始めた。ある意味、大変気持ちの悪い写真がたくさん登場する、体を張った企画なのだ。昨晩から人生最悪の切り傷に貼っていた絆創膏を剥がそうとしたら、やたらと頑丈にひっついていやがる。痛くてこれを剥がすのに、ほぼ1時間を要した。タバコをくわえながら流し台で指に水を垂らし、しかも凄い形相で暴れていた姿は...誰も想像できまい。

もう帰省ラッシュが始まっているのか、今日はどこも大渋滞であった。保土ヶ谷バイパスも、東名へ向かうトラヒックで繋がっており、帰省の途中なのだろう。個人的に、仕事がバタバタと忙しくて、もう世の中が夏休みに突入しつつあるという実感が無い。とはいえ、みんなが判を押したように休む盆の前後に休むこともないのだ。どこも混むし、やってられん! というわけで、9月に入ってから休んじゃったりするかも。



人生最悪の日
1999年8月6日(金曜日) はれ

モロ最悪。夕方、晩飯の支度をしていたときのこと。このような不注意により、身体から剥がれ落ちた数グラムの肉体が生ゴミとともに捨てられてしまった。昨日、火星人を侮辱するような訳の分からないことを書いたから、罰が当たったのだろう。これは火星人の仕業に違いない。

真面目な話、職業柄、指が使えなくなると大変困る。キーボードが打てない、ハンダ付けが出来ないとなると、仕事にならないからだ。取り敢えず、この記事を書いた限りでは、指は正常に動作しているようで、良かった。切り傷ならそれぐらいで済むことだが、これが骨折ともなればかなり大変なことである。

まあ、注意一秒怪我一生。皆様も刃物などを扱うときは、気を付けて下さい。



眠い
1999年8月5日(木曜日) はれ

(全略)




...とかやってみたいぐらいに眠いが、そのネタは前にも使いかけて思いとどまったことを思い出す。

結局、何か書いておかないと、

・Webmaster -> 謎の死を遂げる
・原因調査 -> 他殺、自殺、斬殺、暗殺、屠殺、殴殺、貿易摩擦、全ての疑いあり
・ホームページ -> 昨日は更新されていない
・更新すら忘れるほど嫌なことがあったに違いない
・死因は自殺と断定

なんてことになりかねない。しかし、毎日更新していれば、

・Webmaster -> 謎の死を遂げる
・原因調査 -> 他殺、自殺、斬殺、暗殺、屠殺、殴殺、貿易摩擦、全ての疑いあり
・ホームページ -> 毎日バリバリ元気良くクールに景気良く更新されている
・自殺とは考えられない
・更なる調査の結果、火星人による人肉しゃぶしゃぶの密かなブームが明るみに
・死因は火星人による屠殺と断定

このように、正しく捜査することが可能となるのだ。

さーて、強引にネタを作ったから寝よう。



The Prince of Egypt(感想編)
1999年8月4日(水曜日) はれ

The Prince of Egypt の話もう一度話を整理すると、要するに主人公のモーセが様々な手段を用いて、エジプトの王からヘブライ民の奴隷を解放するというストーリーであり、端的に言えば民族紛争的なもの美化してアニメで描いたものだ。しかし、彼が執る手段は本格的な嫌がらせであったり、無差別殺人だったりして、しかもそれらは「神の奇跡」であり、モーセ自身は何もしていない。悪く言えば、ヘブライの民に奴隷から解放すると言い、神の力を借りて数々の奇跡を起こし、王国をぶっ潰したというだけのことなのだ。そう考えると、別にそんなことはモーセでなくてもできることだ。

アニメの中での描かれは、明らかに奴隷を酷使する王の側が悪であり、奴隷の自由と解放という使命を背負ったモーセ、あるいはヘブライの民が善とされている。だが、モーセと神がやっていること、例えば嫌がらせというかテロリズム活動、あるいは民間人を無差別に殺害するような行為を鑑みれば、どちらが善でどちらが悪なのかを、明確な区別するこができない。確かに、民族による差別、あるいは奴隷の酷使は正当なこととは言えないかもしれないが、かといって何をしても言い訳ではない。民族的な争いを、平和的な手段を用いて解決し、有名になった指導者とはまた違う。

こういった内容を現代的な民族紛争に置き換えれば、モーセ=独裁者、神の力=兵器の力、数々の嫌がらせ=テロリズム、無差別殺人=無差別殺人、神のお告げ=プロパガンダ、という見方ができ、何となく現実と重なる部分があると思う。独裁者モーセが神のお告げという名のプロパガンダを用いて、ナショナリズムやエスノセントリズムといった感情を煽り立て、神の奇跡という兵器を用いてテロリズム、あるいは大量殺戮を行い、勝利を得る。要するにそういうことなのだが、この一連の事態を監督したモーセは、必ずしも善人であるとは言えないだろう。

現実にある争いは、アニメで描かれているように善悪二分法は通用しないし、しかも第三者から見れば大変醜くい。方が全面的に正しく、もう一方が全面的に悪いということもあり得ない。相手が何をしているかはともあれ、結局は善とか悪というものは主観的なものであり、これは単にヘブライ民族の側から見た正義を美化したものに過ぎないのだ。
わたしは何となく、そういう調子に実際に起きている民族同士の争いと重ねながら見てしまったためか、むしろ善と悪という区分が曖昧で、結果オーライながらも「本当にこれが正しいのか」という疑問をどこかに残しておいて欲しかったと思う。

そうならなかった背景には、奴隷の酷使、あるいは人種差別的なものを前提に盛り込んだのが不味かったのではないだろうか。相手は、そういう悪いことをしているのだから、叩きつぶすべき存在である。だから、少々のことはしても良いという、いわゆる「アメリカ的な偽善」がそこにはあり、善悪に二分できないドロドロとしたものを、主観的に都合良く善と悪に二分した上で、一方を美化し、そしてもう一方を極悪非道と位置付ける。言い方を変えれば、「我らが世界の警察ことアメリカ」的な視点から描いたという感は否めない。

技術面は、大変良くできていたと感じたものの、CGを多用しすぎてかえって不自然さが目立っている感もある。この辺りは、CGを前面に押し出して美しく見せるアメリカ的なやり方、一昨日「となりの山田君」について書いたような、ジブリのようにさり気なく取り入れて効果を狙う主義の違いだろう(わたし的には、後者の方が好きだが)。両者に共通して言えることは、背景と動画がシームレスなところではないだろうか。The Price of Egypt においても、どこが背景でどこが動画の部分なのか、区別のつかないカットが多い。

案外、こういうアニメの書き方は好きで、明らかに「ここが背景で、ここがセル画」と判別できるものよりも、見栄えがいい。もう一つ、登場人物の動きがやたらと自然で、実際に人が歩いているところを取り込んで、それを動画に使っているのではないかと思うぐらいのシーンもある。が、アニメからアニメ的な歩き方を排除し、現実的な歩き方を取り入れると、そこだけリアルすぎて逆に不自然さを感じるカットもあったので、この効果は何とも言えないが。絵は概ね美しいが、カット毎の美しさにばらつきが多い点は、少し気になった。



The Prince of Egypt(粗筋編、ネタバレあり)
1999年8月3日(火曜日) はれ

アニメ二本立てってことで、となりの山田君に続いて The Prince of Egypt も見てきた。ストーリは、端的に言えば「民族紛争を美化し、アニメ化したもの」。宗教的な伝説に関しては明るくないが、確か旧約聖書にあるモーセの物語が元ネタだ。まず、以下のような話からプロローグが始まる。主人公モーゼは、ヘブライの奴隷の子として生まれる。しかし、命令により生まれた子は殺さなければならない。そこで母は、彼を救うため赤ん坊である彼を籠に入れてナイル川に流すのだ。やがて、モーゼを乗せた籠はエジプト王の宮殿に流れ着き、そして王妃が彼を拾って育てる。

ここまで書けば、その後の展開は書かなくても分かるだろう。そういった事実を知らないまま、モーセは王子として成長する。そして彼にはラメセスという名の兄がおり、実の兄と信じて強烈な兄弟愛で結ばれていた。ある日、彼がヘブライの奴隷の子であり、拾われて育てられたという真実を偶然にも知ることとなる。そして、エジプトの王、つまり彼の育ての父は、彼の民族であるヘブライの民を奴隷として酷使し、しかも過去には大量に殺害していたことを改めて認識する。結果、彼は宮殿を去る。

その後、色々とあってモーセの前に神が現れ、彼に「ヘブライの奴隷を解放せよ」と告げる。訳が分からないままそれを承諾した彼は、神の力が余すことなく漲る魔法の杖を手に、取り敢えず宮殿に乗り込んだ。そして、彼が去ったあとに王位を継承した彼の兄に対し、自分がヘブライ人の奴隷を解放する使命を負っていることを告げ、まずは話し合いによる解決を目論む。が、交渉決裂。敵方の王とはいえ、最愛の兄に対して宣戦布告するのは辛かろうが、やむを得ず力による解決に出る。

ここは勇者らしく正々堂々と戦うのか? いや、そうではない。まずは、魔法の力で川の水を血で染め、エジプト王に「マジ」であることを見せつける。そして、これまた魔法の力で蛙の大群を宮殿に送り込んだり、イナゴの大群発生させるなどし、


 極めて陰湿な嫌がらせ作戦!!

による解決を目指す。ところが、それでも王は譲らない。それを知った神は、ヘブライの民だけにお告げを行う。「今晩、死にたくない奴は、自分の家の玄関に羊の血を塗ったくときな!」と。はて、何を起きるのかと思いきや。最後の手段として、その日の深夜、皆が寝静まった頃に

 自民族以外の子供を無差別に殺害!!

する。それまでのストーリーの中では、王は憎むべき悪役として描かれていた。そして、その深夜の無差別殺人により王の息子も死亡し、その結果、王は負けを認め、奴隷の解放を認める。尤も、それで王が復讐に出ないはずはない。解放後も追っ手が襲ったりするのだが、こういった不測の事態にも、モーセは速やかに「魔法で」対処し、無事に民を紅海の向こう岸まで誘導し、話は終わる。

(感想は明日書きます)



となりの山田君(ネタバレ多少あり)
1999年8月2日(月曜日) はれ

毎月1日は映画が全館で千円均一とお得である。その日を利用して「となりの山田君」を見てきた。元ネタは新聞の4コマ漫画だが、所詮は新聞の連載。時事的要素や風刺的要素も多いとは言え、各々の場面だけを取り出して見れば、ほんの些細な日常的な出来事を描いているに過ぎない。敢えてそのようなものを長編アニメに仕立てるとすれば、一体どうやってネタを繋いでいくのだろう。あるいは、終始一貫したシナリオを用意し、細々とした場面を無理にでも当てはめていくのだろうか。そういう興味から見に行った。

が、何て事は無かった。チャプターとチャプターの間には俳句朗読という分かりやすい繋ぎが入れてあるものの、それ下層に属するネタの細切れの間には、何の繋ぎもない。ただただ、次から次へと混沌としたネタがボコボコと出てくるだけで、そういう流れには歯切れの悪さを感じる。随所に笑えるネタも織り交ぜてはあるのだが、ウケ狙いと言えるほどでもなく、かといってシリアスでもない。敢えてそういった中途半端さを狙ったのかも知れないが、わたしは冗長だとしか思わなかった。

そんなたわいもない話を延々と見せつた上で、最後に明文化された大義名分が発表される。要するにこの映画の中で言いたかったことは「こんな感じに家族で楽しく生きようぜ」ということで、現代の家族は病的に細かいことを気にしすぎではないの? これまでの茶番劇は、それを説明するための長ったらしい心理描写だったんだよ、という調子で締めくくられておしまい。そのことは仰る通りだ。しかし、高畑のメッセージを、強引にアニメに擦り付けたという感は否めず、そういう意味では、医学的見地と「楽しく生きようぜ論」を強引に組み合わせた、「脳内革命」に通じるところがあるように思う。

しかし、絵はご存じの通り全体的に水彩画タッチに書かれており、背景とセル画という構図から離れた新感覚はなかなかよかった。とはいえ、一部始終がこんな調子ではなく、その時々の心理を表すように、色んなタッチの絵が使い分けられている。尤も、それだけなら大した新しさも感じなかっただろうが、水彩画タッチの立体動画は特に良かったと評価したい。特に、オープニングに流れた途切れなくシーンが移り変わってゆく水彩画風の動画や、立体的に動く水彩画はなかなかの見物。話の内容はともあれ、こういう表現の巧妙さは、ジブリならではである。

ところで、語尾の微妙な上げ下げといった、大阪弁の使い方が全体的に変だと思ったのはわたしだけ?



やっぱり8月は来た
1999年8月1日(日曜日) はれ

誰もが人類最後の日を予感した一九九九年七の月。幾星霜に渡り築き上げてきた文明が、迫り来る恐怖に対して完全に無力であることを認識した人類は、ただ絶滅の日を待つことしか能わなかった。民衆は皆、腹を空かせた巨大な鱶が背後で口を開き構えているような混沌とした不安を覚え、資金を持つ者は助かる僅かな可能性を信じて備蓄し、そのため物価は高騰。最中、数多くの者は根拠のないデマに翻弄され、治安の悪化は極限にまで達しつつあった。

というような、どう考えてもあり得ないシナリオを練った奴は今頃どんな面を引っ提げているのだろう。恐らく、そのような発想を世に発表できるぐらいの大胆さを持ち合わすぐらいだから、また新たな「人類最後の日」のシナリオを練り、別のペンネームで出版を急いでいるところかも知れない。フィクションなら面白い話で済むが、よりリアルにするために「予知」などという大義は与えないで欲しいものだ。フライトシミュレータの悪影響なんて話が論ぜられているが、訳の分からない予言の方が、よほど悪い影響を与えている。

ところで、ノストラダムスの予言における人類滅亡説とやらを本当に信じて疑わず、「2000年問題に対応するのは無駄、仕事は辞めて最後の晩餐」とかやっちゃった奴はいるのだろうか? 広い世の中には色んな人がいるのだから、そのような凄い方が一人や二人、いても良いはずだ。そういえば、2000年問題についても、恐ろしいシナリオを唱えながら、計算機の存在しない地へと疎開する人がいるらしい。何も準備をしない我々は、計算機の誤作動により間違いなく絶滅するのだ。人類の遺伝子を伝えるという偉大な任務を請け負った彼らに、精一杯のエールを送ってあげよう。

結局、ごく当然のように7月は終わり、8月が訪れ、そして9月がやってくる。

それはそうと、ここ1ヶ月ほどは公私を問わず、想像を絶する多忙な日々が続いており、そのため心身ともに疲労の極みにあった(誇張あり)。そんなときは、行く宛てもなく街を歩いてみるのも良い、と思いきや。ここは熱気を吸収する装置が欠落している大都会。そう、そこは照りつける真夏の太陽が無機質なアスファルトに反射して熱風を巻き起す場所であり、あまつさえ冷媒圧縮機という名の「地球暖房装置」が随所に点在する場所でもある。そんな中を散歩してきたら、余計に疲れた。

とりわけ糞暑い昼下がり。馬車道を港の方へと向かって歩いていくと、やがて大きな道路にぶつかるが、その通りには小綺麗なビルが立ち並ぶだけで面白みもない。そこで、細い路地に立ち寄ってみる。ふと、密集した建物の間にできた僅かな隙間に目を遣れば、そこでは猫の親子がお昼寝中。大仰な図体で腹を出して寝入る母猫と、その腹にしがみつくような格好で、スイスイと熟睡する3匹の仔猫たち。最初に思い浮かんだ言葉は「この上なく気持ちよさそう」だった。余りに気持ちよさそうだったので、カメラがあれば写真を撮っておきたくなるような、猫好きにとっては堪らない光景であった。

猫は涼しい場所を見付けるのが、とにかく上手い。人がやっと通れる建物の隙間は、太陽がどう動いたって日陰になるような構造になっており、それも人通りがなく静かな路地の奥に位置する場所だ。夏場は強烈な西日がガンガンと射し込み、ついでに都会の喧噪も侵入してくる自宅は昼寝に向いた場所ではない。こんな打ってつけの場所で、わたしも大の字になって昼寝したいものだ。実は散歩のついでに映画を梯子してきたのだが、どうでも良いことを書いているうちに、ご好評頂いている辛口批評を書く時間がなくなった。というわけで、また明日。



突撃実験室