多事毒論(2001年2月分)


休みます
2001年2月28日(水曜日) くもり

諸事情により今晩の (もしかしたら明日も) 更新はお休みさせていただきます。



BROTHER
2001年2月27日(火曜日) はれ

先日、北野たけしの映画「BROTHER」を観てきて、まんまと騙されたような気分。はっきりいって本当にどうしようもなく下らない話が延々と続くので、観ている最中には一体なにが言いたいんだこの映画は、とさえ思ったぐらいである。けれども、何故か今でも強烈な後味だけがしぶとく残っていて、少し時間をおいてからようやく言いたいことが分かってきた。スルメを噛んでいるようなもので、最初は何となく不味いんだけども、噛んでいるうちに良い味が出てくるというやつだ。

組を失った日本のスジモンがアメリカへ逃亡するが、やっぱりそこでも大暴れ。指は消耗品の如く詰めるし、気に入らないヤツは何の脈絡もなく皆殺しだし、今時そんな仁義映画は四流の Vシネマですら撮らないだろうというようなことを、恐らく努めて何にも劣らないほど露骨にやってしまうところが北野の持ち味なんだろう。しかし、こんな笑うしかないほど歪曲した日本的仁侠を敢えて米国に上陸させ、日本人と米国人の考え方の違いを暗に表現しつつ「兄弟」なんてものを表現してしまうのだから本当に上手い。

あまり人にお勧めできる内容ではないけれど、個人的にはとても面白かった。



しっぽ
2001年2月26日(月曜日) はれ

Final Fantasy IX ってやったことがないのだけど、主人公にしっぽが生えていることを知って大感激。

かわいい。

ふりふり動くしっぽを見ると、かわいくてかわいくて、強いて何かに例えるならば、あ、あたし、もうダメっ、という次元のやや危険な衝動に襲われるのだけども、こればっかりは誰にも理解されないような気がする。しっぽという生体部品の何がかわいいのかと聞かれても、わたしにだってそんなことは分からない。ともすれば「かわいい」という感覚自体が、人間として生を受けた限り自動的に装備されてくる根源的な倒錯の一つであって、困るほどではない程度の病気なのかな、とも思う。

ねことか、ふりふりしっぽとか、うさぎ耳とか、わたしが「かわいい」と言いながら目をキラキラさせるものは色々とあるのだが、そのどれ一つについても何故それをかわいいと感じるのかは良く分からない。かわいいものは、かわいいからかわいいんだが、やっぱりかわいいって何だ? 末期的症状に至ればフェティズムと呼び名が変わる、やはりある種の病気なんだろうか。まあ、それはそれで良いんだけども。



更新報告
2001年2月25日(日曜日) はれ/くもり

実験ネタ新作「乾電池でゆで卵」を公開。

今回より古いブラウザの切り捨てを決定し、時代遅れなGIF画像を廃して積極的にPNG画像を使っていくことにした。一年ほど前にもPNG画像を使ってみたことがあるのだが、そのときは見られないという苦情により、結局PNG画像をGIF画像に切り替えたという経緯がある。一年前は、まだ時期尚早だという気もしたので改善というか改悪というべきことに応じたが、今回よりそうした苦情があったとしてもそれに応じる積もりは全くないので、PNG画像を表示できない古いブラウザをお使いの方は悪しからずご了承願いたい。

Web というところは、どうしても過去の遺産がダラダラと付きまとうものなので、過去の規格とは互換性のない新しい規格が出たからといってすぐに未対応のものを切り捨てられないことは重々承知している。新しい規格を使うときは、可能な限り未対応のブラウザでも問題なく見られるようにしているが、どうしてもそれが出来ないケースもある。だが、だからといっていつまでも低い水準に合わせることを美とすることは、必要な陶太と進歩を無用に抑止することに他ならない。

一時は、それが「後方互換性を配慮した美しい設計」であったとしても、相応の星霜を経れば(すべてとは言えないまでも)懐古趣味に対する苦しい言い訳でしかなくなる。当サイトのログにおいてブラウザの使用分布を見ていると、PNG画像が表示できないと思われるブラウザはかなり減ってきた。敢えて古いブラウザに拘る方々の意見にも一理あると思うし、あるいは不可抗力の原因により好まざるとも使わざるを得ない方がいることも分かる。何を使おうが当人の問題だから他人がとやかく言うべきことではないが、そろそろ懐古趣味として切り捨てても差し支えはないと判断した次第だ。



不安遺伝子?
2001年2月23日(金曜日) はれ

やる前から下らん心配してねえで、そういうことはやってダメだと分かってから言え

行動する前から色々な想定を根拠に不安を訴える相談の内容が気に入らなかったのか、要約すれば概ねそんなようなことを怒鳴っている人がいた。その様子を見ていて、ふと昔から不思議に感じていたことを思い出した。経験的というか直感的な話なのだけれども、何かをする前に発生するこうした不安は、思いっきり感じる人と、ほとんど感じない人とのどちらかに二極化しているのだ。まずは結果をあれやこれやと想定し、堅いだろうと踏んでから行動に出る人もいれば、ほとんど出たとこ勝負で新しいことを始めてしまう人もいる。けれど、その中間と思えた人には出会ったことがない。

わたしとわたしの弟がちょうどこの関係にあるのだけれど、同じ親から生まれて同じ環境で育っていながら自分と弟とでは何が違うんだろうと昔から不思議で仕方がなかった。以前に弟が中国に行っていたことを書いたけれど、話を聞いてみれば準備らしいことは殆どしていなかったという。わたしは旅行へ行く前には色々と不安も感じるので、言葉のことといった問題点を緻密に洗い出し、ある程度の解決策を考えてから段取りを決めるが、弟は、中国も面白いかな〜と思った次の日には出国してしまいかねない人間だ。細かいことは現地で調整するとかですらなく、そもそも最初から考えないのである。

人間を出たとこ勝負タイプと、色々と考えるタイプの二通りに分類するのなら、友人も仕事で付き合いのある人も割と明確に線引きできてしまう。出たとこ勝負タイプは、行動が概して突発的で、着眼点がマクロ、考え方が立体的という特徴があるので、そんなのは色眼鏡だという意見もあろうが、だいたい分かる。最近、人間には不安遺伝子なるものがあるということを知った。これが、何にどう関係しているのかは知らないけれど、こいつのおかげで人間は不安を感じやすいタイプと、あまり不安を感じないタイプに二極化される、というのだ。随分とドライでロジカルな話ではないか。

こういわれると妙にすっきりと溜飲が下るものだが、何でもかんでもそれは遺伝子の原因だとして割り切ってしまう最近の風潮は如何なものかとも思う。日本人には、不安を感じやすいタイプの方が多いそうだが、これは遺伝子が云々以前の話だろう。やってみる前から必要以上に不安を感じ、色々と理由を付けては何かと前進できないその国民性が、何よりの証左であるような気がする。国民性の議論が、社会学から遺伝子学の分野に取って代わる時代が来るのだろうか。



風車
2001年2月22日(木曜日) はれ

ねこの日。にゃー。

東京電力の風力発電システムで使われている風車の写真を眺めていて思った。どうして、羽を2枚しか付けないのだろう? 他社の風車では3枚羽が一般的のようだけれど、いずれにせよ羽の枚数はそんな程度だ。わたしの素人考えでは、羽は付けられるだけ付けた方がより多くの風を受け、発電効率がさらに高くなるような気がするのだ。

世の中のデファクトスタンダードを見るところでは2枚ないし3枚の羽がある風車がもっとも高効率であり、この素朴な疑問は正しくないと考えられるのだが、それでもなお羽の寂しい風車では電力に変換されるはずの風が羽の隙間を素通りしてしまうのではないかという心理的な勿体なさを感じてしまう。検索してみると、Wind Rose というサイトを見付けた。こちらにも、先の東京電力のサイトにも原理的な話は書いてあるのだけど、小難しくてよく分からなかったから、寝る。

やっぱり、きょうはねこの日(無関係



袖口のヒミツ
2001年2月21日(水曜日) くもり/はれ

写真集・20世紀の痼疾 ── 「長すぎる袖に、男たちは何を見たのか」

そう、袖口なのだ。だが単なる袖口ではなく、ちょっと長すぎる袖の袖口なのだ。長すぎる袖の袖口が何かの記号であることは明らかで、さてその記号が何を指示しているのかは難しすぎて分からないけれど、何かとてつもなく深い意味がその背後にあることは間違いない。特に女性の着衣の袖が、長すぎて手が袖口に半分ほど隠れており、なおかつ、袖を手で少し引っ張っているので肘のラインがとても良く分かる状態にあるとき、なにかググっとくるものが発生するのだ。

分かる人には直感的、直情的に分かるだろうし、分からない人には分からないだろう。分からない人のために自分で再現写真を撮って見たのだけれど、そうするとますます訳が分からなくなった。男の手ではだめなのか。それとも袖口のデザインが適していないのか。あるいは袖口だけを写しても意味が無く、手を口元に当てた状態で(?) 腕全体を写してこそ初めて特別な意味を持つものなのか。その真意は、Leafのサイトにリンクを張ったことで察して頂ければと。

味のする気体はあるの? ある方から「クロロホルム蒸気は、すごく甘い」とのご感想。そういえば、子どものころ歯医者で喰らった笑気は甘かったという記憶が蘇ってきた。味のする気体もあるみたい。



ヘリウム
2001年2月20日(火曜日) はれ

コンドームにヘリウムを入れてみたりする話を何日か前に書いたら、ヘリウムみたいな希ガスってどこから沸いて出てくるのか不思議になってきた。「希」というぐらいだから地球上には僅かしかないのかと思いきや、アルゴンは希ガスでありながら空気中に1%近くもあって液体空気を分留すればいくらでも出てくるらしい。ぜんぜん「希」じゃないだろ、そんなの。希土類元素も「希」と銘打っている割には中国にやたらとあったりするそうなので、化学の「希」に騙されてはいけない。

ある情報筋によれば、舐めるとヘリウムの風味がするという凄くユニークな岩石がアメリカに存在するそうだ。からかわれているとしか思えない。ヘリウムがやたらと多く混じって出てくる天然ガス資源がアメリカにあるというのは事実なので、ヘリウムの混じった岩石がアメリカにある、というところまでは認めるとしても、舐めたらヘリウムの味がするってどんな味がするというのだ。そもそも、味のする気体ってあるのだろうか。



棺で眠りたい
2001年2月19日(月曜日) はれ

どういう原因があるのかは知らないが、わたしは昔から寝るときは壁にピッタリ寄り添っていないと落ち着かない。だから、両横に何もないベッドとか、部屋の真ん中に敷いた布団は、寝床としては不適当なのだ。布団は、縁が壁に反り上がるぐらいの勢いで壁際に寄せて敷くのが基本である。そして横になるときは背中を壁に預け、少し膝を曲げた状態で丸くなって寝るのが好きなのだ。いつもこんな姿勢で寝ているものだから、いつか起こしに来た親に「お前は猫か?」と言われたりしたことがある。

うん、ぼく猫だもん。だから、もっと寝る・・・という言い訳は残念ながら通用せず、普段よりも一層激しく叩き起こされたのだが、そう言われてみると、もしかすると自分には猫の血が流れているのではないかと思ってみたり。猫って、なぜか「すみっこ」とか「身体がちょうど収まる空間」を好むように、わたしもそういう場所は大好きだ。猫と違う点があるとすれば、ぴったりと収まりすぎて、自分で入ったところから出てこられなくなる、というお馬鹿なことはやらないことぐらいか。

そんなわけで、子供の頃は四方を壁に囲まれた押入の中で寝るのは大好きだった。普段は使っていない布団がいっぱい積み重ねてあって堪らないほどふわふわもこもこだし、壁に凭れられるし、それ以上に自分だけの空間があるってのが嬉しかったのだろう。押入で寝ていて、こっぴどく叱られた覚えがある。姿が見当たらないので誘拐でもされたのか、というところまで問題が発展しかけたところに、そんな心配を知る由もなく幸せそうに寝ている倅が押入から発掘され、緊張が大爆発したやつだ。

いまは、もう身体が押入の中に入らないと思うのでそれは無理だけれど、寝返りできる程度のちょっと広めの棺があれば、喜んでその中で寝られると思う。こんなことを書いていたら、なんだか本当に今晩から棺で寝たくなってきた。就寝用の棺というか、棺といえば死人が入るものだから・・・就寝箱と言えばいいのか。果たしてそんなものが世の中に存在するのだろうか。



インバータとか
2001年2月17日(土曜日) はれ

昨日ちょっと触れた、フルカラー LED の PWM 調光器を作ってみたり。取り敢えずハードは作ったけども、ファームを書くのが面倒くさくてまだ未着手。最初は PIC マイコンでやろうと思っていたのだが、あれは使い勝手が悪くて余り好きじゃない。代わりに、秋月で買ってあった H8/3664 マイコンボードがあったので、これを活用することにした。タイマを設定するだけで、ハードウェアで簡単に三相 PWM を出力できるから、これを使うっきゃないでしょって感じなのだ。

シングルチップマイコンのこうした機能は、「インバータ」を売り文句にする家電用途を狙ったものだと思うが、いまだに謎なのが何年か前の「インバータブーム」だ。やたらと「インバータ」という言葉が家電製品のカタログに登場するようになり、そればかりか機器本体にもロゴがてら「Inverter」という文字が踊ったりしていた。当然、インバータな家電製品はそうでない製品よりも値段が高いのだが、インバータだと何が違い、どう良いのかは、販売員も分かっていなかった。

結局その説明は「省エネ仕様である」といった無難なところに落ち着き、より効率的な制御をしているという意味ではそれはそれで間違っていないから良いのだけれど、それならそうと分かりやすく書いておけば良いことで、なぜ敢えてインバータを強調するのかは、理解に苦しむばかりだ。そのブームに悪のりしてしまったのか、電車にまで「Inverter」と書く鉄道事業者も現れた。近鉄の VVVF 制御な車輌には、文字と一緒に三相交流の波形を模したロゴがペイントされていたりする。

ここまでくると集団ヒステリーというか、インバータを教祖とする一種の宗教ではないかと思わせるものがある。例えば自動車なら、AT車の車体のどこかに「オートマチック車」とか書くのはタクシーぐらいだろうし、エンジンが電子制御になったからといって、トランクのふた辺りに「マイコン制御車」とか書いたりしない。もし書いてあったら、ダサくて売れないに決まってる。しかし、家電にあっては「インバータ」とか「マイコン搭載」とか、制御方法を明記することで箔が付くらしいのだ。

わたしには、このセンスが痛く感じられてしょうがないんだが。



あう
2001年2月16日(金曜日) はれ

本文は別紙の通り」としておきながら、別紙をわざとうっかり用意しなければ良いことなのだ。それってかなり顰蹙だけども、ネタに困るとこういう変なアイデアばかり出てくるから、もうダメダメ。

この前、つい「フルカラーLED」なるものを買ってしまったのだ(秋月で一本700円也)。赤、緑、青に光る三つの素子が一つのエポキシパッケージに入っていて、その組み合わせによりどんな色にでも光ってしまうという、これまた光モノなマニア魂を神髄から揺さぶるような逸品なんだけども、ただ光らせるだけでは面白いわけもなく、いまのところ使い道がなくて困っている。いっぱい買ってきてフルカラーナイトライダー的なものを作れば面白そうなのだが、値段が値段だから3個ぐらいが限度か。

よく考えたら On/Off だけの制御では、8色しか表現できない。デジタルRGBの時代なんかとっくに終わったから、PWM 制御器でも作っちゃえ。



写真日記
2001年2月15日(木曜日) はれ

できるかな? の「いろいろ」を見ていたら、写真日記の話が出ていた。多事毒論は書き物が主なので、写真は挿し絵がてらに使う程度だが(例外もあるけど、ほとんどの記事は写真を見なくても分かるように意識して書いている)、その方針のまったく逆を行く写真だけの日記というのもけっこう面白い。細かい解説はしないから、写真だけ見てあとは自分で勝手に考えろみたいな突き放した感じのスタンスが、長文の多い毒論とは対極的だ。

どっちが良いというものでもないけれど、自分でも「ごちゃごちゃと細かく書きすぎた」とか「いつのまにか自己完結しちゃってる」と思うことがあるので、そういう勝手に考えろ的な突き放しがあってもいいような気はする。でも、文だけでそれをやるのは難しいのだ。ちゃんと撮った写真を見せてあとは勝手に考えろというのはアリだろうけれど、逆に情景描写を簡潔に文字だけで出来りゃ、いまごろは別の職業に就いていると思う。百聞は一見に如かずというより、やっぱり感想も書きたくなる。

そんなわけで(要するにパクリなんだけど)そこらへんの妥協点を探りながら試験的に写真日記を作ってみた。内容は、はっきり言って下らない。草稿レベル。これといったネタがあったわけでもないので職場での日常(まあ、一気に色んなことがありすぎる職場なので、これでもかなり省略しているんだけど)を撮影して「言いたい放題+でっちあげ形式」でまとめただけなんで。



み゛ょ〜
2001年2月13日(火曜日) くもり

三笠の「み」に濁点。例えば「み゛ょ〜」ってどう読むんだろう、ぜひ柴田亜美に読んで貰いたいと思う。

三連休明けに社会復帰できるわけないやん〜☆ とばかりに仕事を早く切り上げて秋葉原とか池袋へ。せっかく秋葉原に来たのだから散財しようと思ったのに、会社に買ってこいと頼まれた部品を探しているうちにそんな時間は無くなってしまう。頼まれると、ついでだから良いよ良いよと安請け合いする自分も自分だが、くそったれ、どうも便利に使われ過ぎている気がする。そういうときは、森総理よろしく「ここはプライベートだよ」というセリフが効果的かも知れない。あの人、上手くすりゃ流行語大賞も夢ではないぞ。

池袋では某サイトのオフ会。素で虎舞竜のロードなんか歌って、大合唱になるとは、ある意味ツワモノ揃いだね(ふつうは引く)。



今日のワンポイント
2001年2月12日(月曜日) くもり

一生懸命、生卵をコンドームに突っ込んだりしながら過ごした、とても充実した三連休。本来収まるべき棒状のものなら簡単に入るのに、卵は意外と入りにくい。薄いくせにやたらと伸びるので、卵ぐらいならすぽんと入ると思ったのだけれど、卵の直径が最大になるところで引っかかってしまうのだ。しかも、コンドームに塗ってある潤滑油が食べるものに混ざるのは少々嫌な感じがして洗剤で洗い流してしまったから、なおさら滑りが悪い。かといって、ゴムが裂けたり卵が割れてしまう恐れがあるから、力任せにねじ込むわけにもいかない。

押したり引っ張ったり伸ばしたり不毛な努力を繰り返した末、卵を突っ込もうとする前にコンドームを水で満たし、卵の直径以上に膨らませておくと、すぽん(どぼん?)と収まってくれることが分かった。コツさえ掴めば簡単なことだ。皆さんもコンドームに生卵を突っ込みたくなったときは、この方法を試すと良いだろう。コンドームの話で思い出した。ヘリウムと空気をある割合で混ぜた気体でコンドームを膨らませると、天井まで昇るわけでもなく、中途半端な高さでプカプカと空中浮遊するものを作れるらしい。

そう言われてみれば、コンドームではないけれど普通の風船でも一定の高さで安定して浮遊するものを見たことがある。その風船は、うまいこと空中浮遊する条件がかなり微妙で、ゼムクリップで重さを加減して高度を調整するようになっていたと思う。どうして一定の高さで上昇をやめてしまうのだろう、少し考えてみたけれど良く分からない。で、思い思いに空中浮遊するコンドームを大量に作って浮かべておくと、洒落たインテリアにもなるそうだ(情報提供者談)。



女は理屈じゃないんだよね?
2001年2月10日(土曜日) はれ

宗教裁判にかけられたガリレオガリレイは、「それでも地球は回っている」という名言を残している。そこで「すんません、わたしが間違ってました」とでも言っておけば情状酌量もあっただろうに、なぜ敢えてこんなことを言ったのだろう。この話は、その程度のことでは主張を曲げなかったという、意志の強さの象徴として語られることもあるが、現実にそんな人間がいたら「不器用」とか「頑固者」と言われるのがオチである。意に反する事象に遭遇したとき、何を曲げて何を曲げないのか。その線引きは、わたしにとってとても難しい。

自分の主張を通した結果、角が立っているなどと言われることにはもう慣れたので何とも思わないけれど、議論の過程で相手を潰すための手段としてではなく、自分の言っていることが正論であるという論理的な証拠が欲しくなることがよくある。たとえ詭弁であろうが何であろうが、こうであるからこれが正しいのだということが明確になっていないと、後から自分で納得できなくなるのだ。問題さえ思い通りに片づけば細かい理屈なんかどうでも良いのだからそんな証拠作りを自分で自分に課す必要はないのに、どういうわけかほぼ生理的にそんな要求が発生するのだ。

きっと、何事にもそれを裏付ける理屈がないと(たとえそれが自分であれ)信用できず、納得できない性分なんだろう。もし自分が自己不信に陥りやすい人間であるとすれば、その原因はなんだろうと帰納的に考えてみて、得た答えがこんな理屈だから、もう救いようがないような気がしてきた。ときには理屈でなく直感を使うことも必要だということは分かっているけれども、ここら辺は簡単に変わるものでもない。宗教でもやれば変わるのかな・・・そもそも入信するのが無理っぽいけれど、わたしの場合は。

☆ 明日の多事毒論はお休みします。



ADSLとか
2001年2月9日(金曜日) はれ

バックボーン回線の価格が下がらない限りブロードバンドなインターネットはあり得ないという記事が Internet Magazine に書いてあったけれども、まったくその通りだ。勤務先である某ISPでは、ADSLのサービスをするのかという問い合わせが増えてきたのだが、やったとしても今は上位に繋がっている回線が一人が64kbps以上の帯域を占有することがない前提で計算されているのだから、それで満足できる実効速度を維持できるかどうかは怪しいのである。太くなった「感じ」は得られるだろうけど、実際に太いかどうかは別の問題だ。

ADSLの帯域を使ったサービスをするのと、ADSLの帯域を生かしたサービスをするのとでは、雲泥の差がある。後者であれば勿論のこと歓迎すべきことだが、前者は、コンピュータ業界の悪いクセであるカタログスペック商法にほかならない。ISDNではたかだか64kbpsしか出ないけれど、ADSLを使えば640kbpsとか1.5Mbps出ますなどと宣伝したところで、実際に10倍の実効速度を得られなければ、そんなものはカタログだけの問題だ。ISDNと全く変わらないなんてことはあり得ないだろうけれど、そういう数字だけで物事を計ってはいけないのが電脳業界の鉄則である。

じゃあそれに合わせて上位の回線も増速しようかという話になると、これがまた簡単なことではないのだ。各々の加入者に繋がる足回りの回線は、安価で速いものが利用できるようになり、価格対帯域比は一気に十分の一ぐらいにまでなった。けれども、その上位に繋がる回線の価格の下落はそんなに激しくないのだ。ならば値上げでもしない限り、低いパフォーマンスには目を瞑るといった歪みがどこかで出てくるはずなのだが、既にADSLサービスをされている小規模な第二種ISPさんがこういったことをどうお考えになっているのかは、とても興味があるところ。

自前で回線を持っている第一種通信事業者なら良いかも知れないが、チマチマとやってる小さなISPは、はっきり言ってそういうところにはもう太刀打ちできない状態にある。第二種通信事業者とは、第一種事業者から通信回線を借り、さらに特別な付加価値を付けて再販することで初めて存立しうるのだ。あるときまではインターネットに繋がるということ自体が付加価値であったが、いまや第一種事業者がそれを行っているので、それはもう付加価値にはならない。接続事業だけのISPはこれからどんどんと陶太されていくんだろうが、それは要するにこの付加価値という次元での切り分けが行われた、ということに過ぎないだろう。



はあ
2001年2月8日(木曜日) はれ/くもり

なんかムカつくことがやたらと多かった一日。でもここで愚痴っても始まらないから、寝よ。



菊座
2001年2月7日(水曜日) あめ

中島みゆき「うらみ・ます」の間奏にある尺八の演奏には、明らかに恨みがこもっていてとっても危険な感じがする。だからどうなのだと言われると困るけれど、あの歌を繰り返し聞くと、今以上に女性恐怖症になってしまいそうだ。本気で藁人形に釘を打ったりする女性を知っているだけに・・・わたしって、とことん女運が恵まれていないんだなあと。しかし、藁人形による人の殺傷が日本の法律では罪に問われないというメリットには注目すべきである。リスクフリー、うまくいけばハイリターン。カメハメ波とかも不能犯で通りそうだ。

パネルに部品を取り付け、ひたすらナット締めを行う。たまにパソコンのないところで頭を使わず手を動かすだけの作業をすると、何だか至福の境地のように感じられなくもない。その部品とパネルの間には、菊のような形をした座金である「菊座」を入れてあるのだけれど、この「菊座」という言葉には、困ったことに全く違うもう一つの意味があったりする。語意自体は必ずしも下品ではないのだが、なにせそれは後ろの方の穴である。もしそうした用語に明るくないシロートさんに
、「菊座カマして締め付けるという指示を出したらとんでもない誤解を受けてしまいかねない。

「仕事中に何を考えてるんですか、あなたは!」・・・相手が女性の場合は、こうならないよう特に気を付けよう。「うらみ・ます」ほどでなくとも、一部の女の思いこみ(=恐らく本人も分かってはいるんだろうが、言った以上は引くに引けなくなって、あくまで自分が正しいと言い張る)には容易ならざる問題がある。最近は、電車で痴漢と間違われてしまう男性の冤罪事件が増えているそうだが、そういう事件を起こす女に限って「札束で頬を叩かれてお願いされても絶対に触らんぞ、ボケ」という感じの自意識過剰系だったりするのかな、やっぱり。



もう一人の自分は
2001年2月6日(火曜日) はれ/くもり

職場の同僚が古いパスポートを持ってきたことをきっかけに、ガキのころの写真や署名の汚い文字をネタに爆笑する(馬鹿にする)という妙なブームが職場に巻き起こった。この純真無垢な子供がどう間違って成長するとこんな悪い大人になるのかねえ・・・ガキのころの写真には、とてつもない爆笑を誘うパワーが秘められている。しかし、我こそはと古いパスポートを引っ張り出して自信満々で参入したわたしがそのことで分かったのは、「俺の方が凄い」「俺の写真には叶うまい」などといった不毛な争いは、止めましょうということでだけであった。

追記 そんなお馬鹿な理由で引っ張りだした古いパスポートを久々に眺めていたら、追記事項としてこのパスポートが再発行である旨が書かれていることを思い出した。いま手元にあるパスポートは、元々持っていたパスポートの行方が分からなくなってしまったために、再発行されたものなのだ。単なる紛失で再発行されたのならまだ良いが、このときはビザを更新する際に盗難にあったものと考えられた。

盗まれたと思われるわたしのパスポートの行方は結局いまも分からないし、盗まれたのだとすれば、そのパスポートがどのように利用されているのかも良く分からない。どこかの誰かが不法な目的に転用したのかも知れないし、あるいはそれは考えすぎで、単に何らかの事故が発生して消えてしまっただけなのかも知れない。でも、もしかすると自分になりすませた人間がいて、まったくの別人がさも自分であるかの如く日本に入国したのかなと思うと、正直言って気持ちは悪いが、ちょっと不思議な感じもする。

もしかすると、もう一人の自分がどこかにいるのかな、なんてね。



負け犬です
2001年2月5日(月曜日) はれ

ある掲示板に書いた戯言。

生きることを放棄した時点で、犬は死体になるのです。しかし負け犬が負け犬として負け犬ながらの方法で生を全うできれば、それはそれなりに素晴らしいことだと思うのです。悲劇美というやつでもないけど、失敗ばかりの日の当たらない人生もまた人生。ダメなのは明らかでも一応生きておこうと考えるときに必要となる一種の自己正当化が、「負け犬」という言葉に集約されてるようなものでして、本来ならば無視すべき細かな自己嫌悪に対して変に気張っているよりも、いちいち正当化という理由付けをやっていく方が自分の性に合っているようなのです。

自分で書いておきながら、いま読み返してみるとよくこんなことを書いたものだと思う。しかし、この文章にはわたしがいう「負け犬」という言葉の定義がとても端的にまとまっていて、そのうち消える掲示板の書き込みのままで終わらせるには何となく勿体ない気がしたので、加筆修正してここに残しておくことにした。こうして並べてみると多事毒論を書くときと、どこかの掲示板に書くときとでは、わたしは随分と異なったアプローチで物事を考えているように見える。掲示板の方が、いつもよりも少し素直になれるのかも知れない。



バーニングどこまでも〜
2001年2月4日(日曜日) くもり

「ノーベル数学賞」が無いのは、ノーベルが数学者にフラれたというノーベルの個人的な恋愛感情の縺れを原因とする説があるけれども、単に数学そのものが具体的に何かの役に立つことはないからだ、という説もある。もっとも、フェルマーの最終定理を証明したアンドリュー・ワイルズは、「この定理は何の役にも立たない」と実に分かりやすく語り、むしろ何かの役に立つことを嫌悪しておられるので、それはそれで問題ないようだ。だったらやめとけよという率直な感想は・・・突撃の Webmaster が言うべき言葉ではないような気がする。

数ヶ月前、何となく「ニオイ喰い・無香空間」とやらを買ってきて、以来ずっと部屋に置いてある。中にはプリプリとしたゼリー状のビーズが入っているのだけれど、どうしてこんなものが臭いを食べるのかが不思議でしょうがない。おまけにこのゼリー状のビーズは時間の経過とともに減っていくのだが、一体どこへ消えていくというのだろう。臭いを食べているんならその証拠を見せろ証拠を、と思って中に残っているビーズをくんくんと嗅いでみても、別に臭くも何ともない。ますます、本当に臭いを食べているのかが疑わしくなってくる(分解しちゃってるのかも?)

挙証責任すら果たさない無香空間とやら、まあ気休めぐらいにはなるか。



圧着端子
2001年2月2日(金曜日) くもり

日本圧着端子製造のサイトを見ていたら、こんなことが書いてあった。

JIS<C−2805>。日本工業規格には、「圧着端子」という規格がありますが、これは当社の製品名からの引用なのです。

目から鱗だった。いままで「圧着端子」は一般名称だとばかり思っていたから、これが製品名だったとは思ってもいなかったのだ。JIS が「圧着端子」という名称を使うぐらいだし、ヒロセなど他のコネクタメーカのカタログにすら登場する言葉だから、実質的に一般名称化した製品名なのだろう。しかし、ここまで一般化すると凄いものだ。同様に、「味の素」という名称もほぼ一般名称化していると思われるかも知れないが、必ずしもそうではない。競合他社に勤務する親父は、絶対にグルタミン酸ソーダを略して「グルソ」という呼び方をするから。

まあ「圧着端子」という言葉は、素晴らしすぎるネーミングなので一般名称化するのも分かるのだが、電子部品業界というのは、いくら一般名称で言いたくてもそれを避けて通れないものがけっこう多い。例えば、パソコンのシリアルポートやプリンタポートのコネクタに多用されている「D-SUB コネクタ」も、どこかの製品名称でありながら他に良い名称がないし、「トライアック」や「サイリスタ」もまた然り。どこかのメーカがそういうものを作って名前を決めてしまうと、一般名称が無いままいつまでも引き継がれてしまうのだろう。

それ以前の問題として「圧着」という言葉は、専門用語というより圧力を加えることによって二つ以上の物体を接着するような加工方法を表す一般用語だと思っていたのだが、ATOK13で変換できず、しかも広辞苑にも載っていないところを見るとそうでもないらしい。「圧延」は、変換もできるし、広辞苑にも載っているんだが。



こわ〜
2001年2月1日(木曜日) あめ

ある装置の半田付け不良を治そうとしたときのことだ。横目で見ながら半田を手に取り、そして不良個所に半田付けようとした・・・その瞬間、

「ぶっぁぁちぃぃっっ」

という大音響とともに、青白い火花が飛び散った。なななななな、なにが起きたんだ? なにやら、スイッチング電源の基板付近から何やら煙がモクモクと出ているではないか。どうやら、電源のどこかがショートしたらしいのだが、突然のことに冷や汗たらたら。何かの実験をしていて、ショートしたり部品が燃えたりすることが事前に予想されるときなら驚きもしないし何の問題も無いのだけれど、いきなりの「ばちっ」は、やっぱり怖い。一度やるごとに、寿命が一年は確実に縮まってしまう。

ひえええ、おっかねえ・・・などと言いながら火花の飛んだ箇所を見てみると、周囲には溶けた半田と思われる金属片が飛び散っている。どうやら手に取った半田が当たってショートし、その熱で半田が溶けた際に半田のヤニが煙になったらしい。さらに仔細に見てみると、スイッチング電源の入力部分にあって AC100ボルトの商用電源に繋がっているヒューズと、ヒートシンクに、思いっきりスポット溶接されたような痕跡がある。あはは・・・怖い怖い。当たったのが溶断される半田で良かった。ほかのものなら本当に溶接されてしまうところだ。

活線で作業していた自分がいけないのだが、まあ滅多なことでは感電しないのもまた事実であるためか、細かい修正ならついつい電源を切らずにやってしまうところは弱電屋さんの悪い癖かも知れない。でも、ショートさせて火花が飛んだときに、いちいち驚いてしまうようでは決まりが悪いことが、今回の事件で良く分かった。次回からは、焦らずビビらず驚かず、ごく日常的で当然のことのように構えながら「見たかね、これが電気の威力だよ」などと、富野節気味にキメたいもんだ。



突撃実験室