多事毒論(1999年7月分)



フライトシミュレータとセキュリティホール
1999年7月31日(土曜日) はれ

テレビを見ていると、少し前に起きたハイジャック事件の原因として、フライトシミュレータを挙げている番組があった。ハイジャックの容疑者がフライトシミュレータに熱中していたというとこから、ゲームのバーチャルな体験が現実世界での事件に発展させたという、ありがちな説を当てはめたものだ。香山リカ氏が出てきて、心理学的アプローチから色々と語っていたが、これでフライトシミュレータも、激オタク的有害指定を受けるのだろうか。

マシンガンで殺しまくることを楽しむゲームが事件を起こすというのなら、まだ何とはなしに理解できることだ。しかし、まさかフライトシミュレータのような、ただ平和に飛行機を飛ばすゲームがそういう扱いになってしまうとは、これを作った人間さえ想像しえなかったことだろう。そんなことを言っていたら、それこそ何にでも悪性説を成り立たせることができてしまう。高速道路で死亡事故を起こした人が、「デコトラ伝説をやってるうちに実車でやりたくなった」とかいったら、一体どうすればいいのだ(笑)

このハイジャック事件、そういうどうでもいいようなことよりも、空港のセキュリティホールを問題にするべきだ。確かに事件は人間が起こすことであり、起こした人間を研究することも重要なことだ。しかし、ネットワーク屋的見地から言えば、いくら凄いセキュリティ体制を準備していても、一カ所でも穴があれば意味が無い。手荷物が無チェックで機内に持ち込めるというセキュリティホールがあれば、別の場所でどれだけ厳しい検査を行っていても、その検査は通りすらしないのだ。

論理的なセキュリティというものは、表面的にやたらと厳しくても全く意味がない。X線検査機やら金属探知器、いかつい警備員やらを物々しく配置すれば、よこしまなことは、心理的にやりにくくなるだろうから、それはそれで効果のあることだ。しかし、クラッカー属性の鋭い人間に対しては、表向きの物々しさなど余り関係ない。論理的なセキュリティホールを見付ければ、それを塞ぐなり悪用するなり、某かの行動を起こしたくなるもので、これはネットワークの世界と同じだと思う。

従って、セキュリティに存在する全ての穴は塞がれていなければならないし、「出発ロビーへの逆流」程度のことに気付かなかった責任者は、転職を考えるべきだ。百歩譲って、人間のすることだから、セキュリティホールの一つや二つはやむを得ないということもできる。それにしても、明らかなセキュリティホールの存在を知った後も、応急の対策すら行わず、結果的にハイジャック事件の一要因としてしまった者の責任こそ、問題にされるべきではないだろうか。

訳の分からない心理学的アプローチは、本末転倒もいいところだ。



ワンピース
1999年7月30日(金曜日) はれ

駄目だこりゃ...先ほど、この文が並んでいるファイルを開いて自分で愕然とする。鋭い皆様はお気づきかも知れないが、ここ数日分の多事毒論の日付を間違えまくっているのだ。ここのところ仕事が多忙なお陰で、これを書く時刻には脳が正しく機能していない、0時を過ぎているのでカレンダの日付とは違う日付を書かなければならない、何よりも自動化されていない、といった理由から日付が狂ってくるのだ。ヘッダの日付ぐらい、自動化したいものだ。

時々、女に嫉妬を覚えることがある。何故なら、女って着る物に関しては選択肢がやたらと多いうえに、何を着ていても余りおかしく見えないからだ。実を言うと、暑さに耐えかねてワンピース的な服が欲しくなった。暑さ故、家ではパンツ一丁か、下着のシャツぐらいしか着ていないのだが、それだとクーラーの風が体に当たって少し寒い。だが、家で服を着るのも鬱陶しい。そのため、着ていることを意識させないような、薄い生地のダブっとしたワンピース的な服が欲しくなったわけだ。

しかし、そこら辺で売ってるワンピースはデザインが如何にも女臭くて、野郎のわたしが着たところを想像してみると、どう良く見積もっても変なのだ。女が野郎的な格好をしても、「ボーイッシュ」ということで一種のファッションとして認められるのに、野郎が女の服装をすると、変な趣味と勘違いされかねない。そりゃ差別だ! と言っても、世間がわたしの声に耳を貸すとも思えない。やはりここは、男性用のワンピースを開発し、市民権を得なければなければならない時なのだ。

女臭く無いデザインで、着ていることを意識させないぐらいの肌触りであり、尚かつ涼しくて風通しの良いものは無いものか? いや、探せばあるのだ。赤ずきんチャチャのセラヴィ先生が着ているようなやつ、と説明すると、今度はコスプレと思われ兼ねない。もうちょっと一般的に言えば、神様とか仙人が着ているようなローブを木綿で作って、もう少しダブつかせたようなものだ。しかし、その辺の洋服屋では売っていないし、作るのも相当な手間だ。どっかで売ってない?



休みます
1999年7月29日(木曜日) はれ

ノートパソコンにソフトいっぱい入れたら、重くなったの。

それはね、キャッシュが利きにくくなって、

いや、物理的に...

このような会話を論理的に分析すると、情報には質量があると考えるしかないのです。
脳味噌が自重に絶えきれず脳幹が圧延されているみたいなので、とりあえず寝てみます。



CPLD
1999年7月28日(水曜日) はれ/くもり

前々から少し触ってみたと思っていた、XILINXを買ってしまった。XILINXって何? 簡単な説明はここなどをご覧頂きたいが、ぶっちゃけた話、中身を書き換えられるICのことだ。中身を書き換えられるので、任意のICが作れる...と言っただけで、何となく琴線を擽るものがあると思わない? 思わない、と答えておいた方が廃人にならずに済むようだが。

仕事で書いてるソフト、ソースコードは納品しない事が判明し、少し安心する。あとから見直すと、その時の精神状態がコメントなどから読みとれ、そんなものを納品するわけには行かない。そこそこやる気のあるところはいいものの、やる気ゼロモードの時は

/* ここ、わからん */

/* いや〜ん、エラー処理へ */

/* データをラッチするのにゃ〜 */

という具合に、遊び心旺盛な、もとい訳の分からないことを書いたり。ソースを納品しないと知った今は、ますますエスカレートするかも知れない。。

でも、だっちゅーのには叶わない...



記憶
1999年7月27日(火曜日) はれ

人間の記憶は、連想によって復元されるという。考えてみれば、当然のことだ。いま、何かを思い出そうとしても、何から思い出せば良いのかすら分からない。しかし、例えば目の前にあるものから連想していくと -> いま使ってるモニタ -> 日本橋のDOS/V専科で買った -> あそこの店員は態度が悪くてイライラした -> そういえばあの日は暑い日だった -> という調子に復元されていくわけだ。

もっと現実的な話で言えば、例えば8時に電話をする約束になっていたとする。ぱっと時計が目に入って、8時頃だったら時計が連想のきっかけとなり、電話の約束を思い出すことができるし、たまたま電話機が目に入れば、それが連想のきっかけともなりうる。このように何らかのきっかけが連想を呼び起こす、きっかけ駆動型の記憶システムは、仕組みが分かりやすいので良い。

しかし、完全な無意識のうちに何かを思い出すというメカニズムは不思議な話なのだ。ぼーっとしていて何もしていなかったり、本を読んでいるなど全く関係のないことをしている時に、ふと「あ、電話かけなきゃ」と思い出すこともある。連想を呼び覚ますためのきっかけが特に無いのに、なぜ思い出せるのか? 人間にタイマ割り込みとか、その他のきっかけ発生機構が存在しているとも思えない。

もしかすると、無意識の中に何らかのきっかけが芽生えていたのかも知れない。そんなわけで、今日から少し意識して心がけてみよう。何も考えていないときに、何かをふと思いだした場合、その直前に何を考えていたか、よく考えてみるという...極めて矛盾した話なのだが。



第n次産業(下)
1999年7月26日(月曜日) はれ

何故、わたしの母親にモノを作る仕事を嫌うかははっきりとしないが、数々の言動から推測するに、本人が商社で貿易の仕事をしていたという過去があることも一つの要因かと思えるし、親父が理系のブルーカラーで、何かと理屈っぽいところを嫌ううちに、そういう職業を嫌うに至ったとも思える。何れにせよ、どうも母親の中には「モノを生産する仕事=汚い仕事」あるいは「エンジニア=理屈っぽくて地味(つまるところ、オタク)」というイメージがあることは明らかで、それ故わたしがエンジニア的な仕事をしていることも不本意なのだろう。

そして、本意としては大学の文系学部を卒業し、そのまま大手企業のホワイトカラーな職に就き、ありがちなサラリーマン人生をやって欲しかったようだ(わたしは無理に決まってる)。お決まりというか、母親も「建前としては」それとは違う事を掲げており、好きにやりなさいぐらいのことは言うのだが、しかし、それが建前に過ぎないことは見え見え。そこまで下手くそなウソをいうぐらいならハッキリと言ってもらった方がスッキリとするものだが、何故か本音を明言することはない、一番質の悪いタイプである。

どうして、こういうことを書いているかというと、わたしは小さい頃から何らかの「モノ」を作る仕事をしたかったのだが、その頃を振り返ってみると、常に母親がその障害となっていたことを思いだしたからだ。別に深い理由は無いが、機械なりソフトウェアなり、自分で作ったモノが形になった時の快感が好きだったためか、電子工作から野菜の栽培まで、結果として何かが形となることは一通りやってきた。そういうことを仕事としてやるのは別かも知れないが、モノ作りに興味を示したわたしと、わたしの母親は相容れない存在だった気がする。

最近、第一次産業や第二次産業といった、「モノを作る」ことに直接的に関係する仕事に従事する人間や、あるいは生産技術に必要な技術者の不足を随所で耳にする。逆を言えば、モノを作らない、むしろ消費するだけの労働人口が増えているというわけだ。こういったことを、現在の教育制度(過剰な高学歴とか、職業能力に直結しない教育とか)が原因であるとする意見もある。それは間違ってはいないと思うが、ふと思ったことは、うちの母親のようにモノを生産しないことを積極的に望んでいる人が、案外多いのではないかということである。

教育制度は、いつのまにか勝手に形成されるものではない。誰かが方針を決めて初めてできあがることであると考えた方が適切だと思う。そして、誰がそれを望んでいるかというと...多くの親ではないだろうか。問題が多くても親が望めばある程度、希望した体系が出来上がるわけで(親と教育者の方針が一致していなければ、今頃は私立学校も塾も淘汰されているだろうし)、その結果に問題が多いとされるシステムができあがったと言うことはできないだろうか。



第n次産業(上)
1999年7月25日(日曜日) はれ

わたしが備わっている職業をエンジニアと呼べるのかどうかは分からないが、一応、限定された分野における技術でメシを食っている人間だから、そうなのかも知れない。尤も、エンジニアと一口に言っても、種類は千差万別なので様々な種類の人間がいることは言うまでもない。電子、電脳業界だけを取ってみても、半導体そのものを扱うような第二次産業に属するの者もいれば、ある程度まで形になった状態のモノを専ら第三次産業で扱う、システムエンジニアのような職業もある。

わたしは、そのうちのどれだろう。産業構造の専門家ではないので正しい判断は不可能だが、概ねの仕事はサービス業だと思うので、第三次産業の人間だろう。しかし、電子機器の開発というプロジェクトの中でファームウェアを書いていたりもするので、ここのところは製造業に近いかも知れない。無形であるソフトウェアを書く仕事が「製造」なのかと問われれば、何となく「はい」とも言いにくいが、少なくとも金融や運輸といった、カネやモノが右から左へ動くだけの「何も生産しない」産業とは趣が異なると思う。まあ、そんなことはどうでも良い。選んだ末にやる気満々でそうなったわけではなく、単に、それ以外にメシの種が無かったというだけの話である。

ところで、実家の母親は、わたしが具体的にどんな仕事をしているのかまでは把握していないと思うが、技術屋であるところまでは理解しているようだ。そして、明言こそはしないが、どうやらそれが極めて不本意らしい。親父は製造業の人間で、化学系エンジニアだが、母親がそういう技術職を嫌っていることは、以前に明言していた。この言い方がまた露骨で、どこまで本当かは知らないが、結婚を前提に付き合った人間の中には年収xxx万の商社マンとかもいて、給料の安い技術屋とかブルーカラーではなく、そっちと結婚すべきだった、ぐらいのことは平気で言うのだ(誇張ではない)。

そんな母親に言わせると、エンジニアは真っ当な職業ではなく、モノ作りや技術に全く貢献しない、机に向かって電話でモノを動かす仕事こそが理想的であるらしい。実際、母親は若いときに財閥系の某大手商社で貿易関係の仕事をしていて、余りに使える人材だった(本人談)ため、上司からいつも誉められていた(本人談)ので、その結果、そういう意識を持つに至ったとしても、不思議ではない。余り書くと離婚問題に発展しかねない話なのでこれ以上の詳細は控えるが、何にせよ、このような発言は、わたしの母親の素晴らしい性格を論証する上で、欠かすことのできない証拠である。

ここまで書いて疲れたので、続きは明日書くことにする。



はんだ付け
1999年7月24日(土曜日) はれ

ここのところ、はんだ付け技術向上週間が続いているというか、表面実装部品の数をこなして必要以上に腕を磨いているような気がする。チップ部品をビシバシ実装していると、頭がおかしくなる...とまでは言えないにしても、右手にはんだごてを、左手にはピンセットを持ちながら変な姿勢ではんだ付けしていると、腰と目に響くことは言うまでもない。残り僅かしか残っていない視力も、いつまで続くことやら。

こういう職業に就く以前、個人で色々と作っていたときは、使う部品の殆どが足の着いたものだったので、それほど高精度なはんだ付けが要求されることはなかった。蛇の目基板を使ったりするので、むしろ配線の引き回しを美しく仕上げる方に重点があったのだ。それが、仕事でやりだしてからはプリント基板にチップ部品が主となり、勝手の違いに少し苦労する。まあ、慣れれば大したことではないが。

どうでも良いが、ガキの頃から電子工作をやってる奴ぐらい、同年代の人間40人のうち、1人か2人ぐらいはいるだろうと思っていた。しかし、実際のところそんなことはないようだ。中学の時、技術の時間に感度の悪いラジオを作った。それで分かったことは、はんだ付けなど、やったこともないという人間ばかりであったということ。そのためだろうか、決して美しいとは言えないわたしの作成品を見て、何人の女が失神したことか(若干の誇張あり)。

実は、単にオタクのレッテルを貼られただけだが...



東京をぶち壊せ!
1999年7月23日(金曜日) はれ

巷には、

東京をぶち壊そうぜ!

ということに人生を捧げ、その大義名分として「腐敗した人間社会の浄化と新都市の建設、それ即ちユートピアの構築」などを掲げ、実際に東京を破壊するアニメなんかがあったりする。あるいは既に過去形になっており、「ぶち壊された東京」が物語の中に存在するものもある。時として、物語に盲信しすぎて「東京をぶち壊そう」とした宗教団体が現実社会に現れたりもするが、それだけ東京とは、破壊することに最大のロマンを感じる場所なのだ(違うって)。

ところで、ある日のこと。東京23区内だけが、何が起きたかを意識する間もなく綺麗さっぱり灰となったと想定しよう。わたしは横浜在住なので物的な被害は無いが、都内に日本のあらゆる重要な機能が集中している以上、少なからず間接的な影響は受けることになる。まず考えられるのが、インターネットだろう。NSPIXP-2をはじめ、国内のインターネットの主要な部分は殆どが大手町に集中しており、突撃実験室に来ている専用回線も例外ではない。すると、まず国内のインターネットの8割は機能を失うことになると見た。

ま、そんなことはどうでも良いとしても、次に影響のあるものは...枚挙に遑がないのでこれぐらいにするが、要するに東京が破壊されれば、日本全体が破壊されたも同然、という気がするのだ。東京に集中している重要な機能は、どこか気付かないところにバックアップがあるはずだと考えたくなるが...通信、交通、政治、預金口座のデータ、放送といった無くてはならない機能が、別の場所で概ね問題なくバックアップされるとは考えにくい。風が運んでいた噂で聞いた話、どこかの山奥の地下にコンピュータが置いてあり、郵便貯金のデータが随時バックアップされているとか。本当であれば嬉しいが。



地下街
1999年7月22日(木曜日) はれ/時々くもり

この頃、集中豪雨で地下に濁流が流れ込んだりして、死人が出たりもしてる。ビルなどのこぢんまりとした地下室は別として、地下街とか地下鉄の駅といったような、大規模な地下施設は、余程の凄い雨が降らない限り沈んでしまうことは無いと思っていた。日本の場合、都市には必ず地下街や地下鉄が存在するし、それも便利が良いように複数の施設を地下で繋げたりしている。そんなところに水が入り込んだらただでは済まない。

以前働いていた会社から近い地下鉄駅の出口をよく観察すると、かなり分厚い鉄板に本格的なゴムパッキンがついたような扉がついていて、例え外から水が入り込みそうになっても、それを閉めれば中は助かるような構造になっていた。でも、もう少し調べると全ての出入り口がそうなっているわけではなく、水が入り込める場所が他にあれば、箇所によっての防水扉も意味がないように思ったりする。実際はどうなのだろう。

憶測だが、規模の大きな地下空間は多少の水は入り込むことは前提にしているだろう。そのため、漏れ込んだ水を汲み上げるポンプも随所に設置してあったりする。けど、ポンプの能力にも限界があるし、それより地上が水浸しだと、どこへ汲み上げるのかやや不思議である。尤も、街中が洪水するほどの状況下で、地下だけを無事で済まそうという方が不自然だとも言えるが、少々の豪雨で沈んでしまうようなら恐いね。



便所紙
1999年7月21日(水曜日) はれ/この世の物とは思えない夕立

「便所紙」とはなんぞや? と思われるかも知れないが、わたしがトイレットペーパーのことを、勝手にそう呼んでいるのだ。単に、トイレットペーパーを和訳したらそうなったというだけのことで、日本語にしたほうが文字数も音数も短く、非常に合理的なのだ。トイレで使うペーパー、だから「便所紙」。こっちの方が簡単なのだから、なじみの薄い外国語を敢えて使う必然性は無い。ま、堅いことは言わずに便所紙だ。

国旗・国歌法案が、明日衆院通過とか。前にも書いた通り、良く分からないことを名文的に定めるのは、わたしは良いことだと考えている。世論調査によれば、多くの人間が日の丸や君が代を、それぞれ国旗、国歌と認めてはいるようだが、しかし、何故か反対意見は後を絶えない。わたしは、これは一部の左翼が拒絶反応のように騒いでいるからだと思う。そういうと左翼が悪いように聞こえるかも知れないが、そうとは言っていない。

左翼は、日本国という存在自体に一種のトラウマを持っているように思う。国という存在の延長線上にある、例えば国旗や国歌といった形而上学的な象徴にも、従って盲目的な悪い印象を持たざる得ない。トラウマは、偏にそれを抱える本人に帰すべき責任べきではなく、むしろ日本という環境に、問題の根本あると思う。その一つ原因が、日本の歴史についてのコンセンサスが、余りにも取れていないことではないかと思うのだ。

なんか知らんけど、日本は過去にとんでもないことをしてきたという劣等感、それ故生まれる、そんなえげつない共同体が国家として存立するのはけしからんという、一種の羞恥心。それが何から来るかと言えば、やはり歴史に対する反省に他ならない。過去を反省することは、大切なことだと思う。でも、人によってはどっかの虐殺で数万人死んと言い、人によっては無かったかというようなバラバラな状態では、反省どころではない。

誰も、歴史を都合の良いようにねじ伏せろと言っているのではない。しかし、この辺をもうちょっと合理的に...ここまでは事実としてあったでしょう。でも、ここからはどうだか分かりません...ってぐらいに議論できるようになれば大きな進歩だと思うし、そこまでの一定したコンセンサスがあれば、もう少し建設的な方向へ向かうと思うのだが、この国ではそうはならないものかね。書いてるだけだけで、他力本願? わたしは歴史研究家ではないから、悪しからず。



東芝
1999年7月20日(火曜日) くもり

Webmaster、15時間連続睡眠という快挙を成し遂げてしまったため、昨日は更新をサボってしまった。事の発端は、月曜日のことだ。朝起きて出勤すると、何となく調子が悪く、夏風邪を予感した。これはいけない、しかし布団さえあれば医者にも薬にも用は無いという持論から、夜の8時ぐらいにさっさと寝てしまったのだ。幸いなことに、明日は休み。どうせ明け方には目が覚めるから、用事はそれからやっても良いだろうと。ところが、目覚めたのは昼の11時。我ながら呆れてしまう。

言わずと知れた、東芝暴言問題だが、漸く東芝が謝罪し、問題は収束に向かっているように見える。ここまで問題が大きくなったのは、東芝が問題の本質を取り違えたために他ならないだろう。当初から、AKKY氏は東芝に対し、暴言を吐かれたことについての謝罪を求めていただけであり、(不本意だったかも知れないが)氏はビデオの性能や、東芝全体の対応などについてまで、糾弾してはいない。話の経緯としてはそういったことも書かれていたが、それは経緯に過ぎないことだ。

それに対する東芝の対応は極めて筋違いであった。最初に東芝が公式な見解としてホームページに掲載した文章では、ビデオに性能不良が無いことを強調し、AKKY氏が執拗に電話などをかけ、東芝に何ら落ち度が無いことを全面に出していた。暴言はさておき、客は執拗だったが誠意を持って対応したし、そんなことよりも自社製品は優れているということが言いたかったようだ。しかし、ビデオの性能に関しては大方の人が問題にもしていないし、誰もそのことで東芝を叩いていたわけではないのだ。昨日はどこへ遊びに行ったの、という問いに対して、僕は男性ですと答えているほど、外している。

その外し方が、わたしはものすごく可笑しく見えた。東芝が争うつもりなら、証拠捏造説や、流言飛語説でも出すのかと思っていたが、蓋を開けてみれば、自ら火に油を濯いでいたのだ。確乎たる証拠があるのに、それを覆そうとせず、客の執拗さを挙げて対処を目論んだのは、一体どんな判断だったのか理解に苦しむ。わたしは、東芝が個人サイトや口コミが実世界に与え得る影響を、考慮し忘れていたように思う。所詮は一個人、そんなものはねじ伏せればどうにかなると考えていたのかも知れないが、実際のところ、口コミというメディアは、一旦点火されれば、燎原の火の如く燃え広がるものだ。

特ダネのメディア的価値は、過激かつ斬新であればあるほど高く、それも普通では考えられないような非日常性を含んでいれば、価値はさらに高くなる。録音は過激で想像を絶するものであり、それだけでも価値は十分に高い。あまつさえ、対峙している者が個人vs大企業と来れば、個人が大企業にケンカを売るという構造自体に、自分は傍観しているだけなのに、一種の鬱憤晴らしのような快感が認められるのだ。口コミであれマスコミであれ、言葉は悪いが、そこに面白さを見ないわけが無いのである。当事者には悪いが、それが下賤な大衆の心理というものだ。

そのため、東芝が自らに与えた不信感は計り知れない。東芝の謝罪が第一に「皆様方」に当てられている点が、多くのことを示唆しているように思う。AKKY氏一人なら、訴訟でもちらつかせ、ねじ伏せることも可能だったかも知れない。しかし、「皆様方」と当てられた、何百万といる外野に与えた不信感までねじ伏せることは、流石の大企業でも能わなかったことを身を以て学んだはずだ。掌を返すように「弁明」が「謝罪」へと代わった所に大きな反省があり、東芝が出した歯切れの悪さが感じられる謝罪文の行間には、後悔の念が染み出ているように感じるのである。



ウイルス
1999年7月18日(日曜日) くもり時々若干はれ

昨日はウイルスの話について、少し触れた。さて、知らぬ間にうちの親父でさえ、Linux なんて固有名詞を知ってしまう時代になってしまったが、もし仮に Windows のようなOSが淘汰され、Linux や FreeBSD といった PC-Unix が全盛となれば、ウイルスといった存在は、過去の物となり得るだろうか。一般的に言って、ウイルス除去ソフトは Windows や DOS 固有のもので、Unixをターゲットしたものは寡聞にして知らない。それは、単に必要がないからだ。

なぜなら、Unix系のOSはセキュリティ的に堅牢な設計がなされており、そのためウイルスが入り込める余地は少ないからだ。元来、複数の利用者が共同で一つのコンピュータを利用し、少数の管理者のみが管理業務を行うことを想定しており、システムの全てを扱えるのは管理者(スーパーユーザ)のみである。一般ユーザは、OSが制限的に割り当てた資源を扱える程度で、このようにスーパーユーザと一般ユーザの間には、権限に絶大な差がある。従って、一般ユーザの不注意により、システムが破壊されるようなことは、あり得ない。

同じ理由で、一般のユーザがインストールしたソフトウェアに、何らかの破壊を目的としたコードが含まれていたとしても、せいぜいホームディレクトリ以下を綺麗にされる程度で、システム自体の破壊に至ることは無いと言える。例え、ユーザが触れない部分の破壊を行おうとしても、権限が無いと言われて終わるだけだ。もし、一般ユーザの権限でシステムの破壊が可能であるとすれば、それはウイルス以外のアプローチでも破壊が可能であることを意味しており、それ即ちOS自体の内部的なセキュリティホールである。

このように、一般ユーザによるシステム破壊は不可能である。しかし、一般家庭で使われているPC-Unixマシンでは、自分は一般ユーザであると同時に、スーパーユーザであることが殆どだろう。すると、一般ユーザとしてでは出来ることが少なすぎ、従って、その絶大な権能ゆえにシステムの破壊さえも極めて容易に行えるスーパーユーザとして作業する機会も多くなるのは、当たり前のことだ。スーパーユーザとして執り行われる作業が増えてくるとすれば、そこを狙って破壊を目的としたコードが仕組まれることは想像に難しくなく、PC-Unix は堅牢なセキュリティ設計のため、ウイルスにシステムを破壊されることは余りない、などとは言っていられない。

その表面的な対策として、ダウンロードしてきたソフトウェアをインストールする前には電子署名やチェックサムを調べ、不正な改竄が行われていないか確認する、といったような手段は一般的である。しかし、本質的な問題は、スーパーユーザには、権限が集中しすぎていることだと思う。その絶大な権限故に、スーパーユーザは常に細心の注意を払って作業せねばならないとされてきた。しかし、コンピュータの前にいるのは所詮は人間である。いくら注意が必要だと言っても、人間はミスを行い、人間は必要な確認を怠る生物であるという前提に立たねばなるまい。

ウイルスでなくても、わたしも自分のうっかりミス(具体的には "rm -r /" をやってしまった)で、システムを根こそぎ壊した、経験がある。家庭での利用を主なターゲットとした PC-Unix システムを作るのならば、スーパーユーザには及ばないが、一般ユーザよりは多くの権能を持つ、準スーパーユーザという存在が在った方が、苦い経験をせずに済むと思う。

ところで、アニメなんかを見てると、どっかの重要な基地に設置してあるコンピュータが、敵の仕組んだウイルスによって動作不能になり、それもどういうわけか、ついでに爆発炎上するという、現実的に考えればただならぬ事態に陥るシーンが時々ある。つい、そんなミッションクリティカルなコンピュータを、ウイルスにやられてしうようなヨワヨワ仕様に設計にし、おまけに爆発するというPL法完全無視のエンジニアを糾弾したくなるのは、わたしだけだろうか。



ファイヤウォールとICQ
1999年7月17日(土曜日) はれ

今日は、人生でワースト5位に入るような日であった。昼頃に干した洗濯物が、風に煽られて物干し竿から落下。それだけならまだしも、クーラーのドレンから出た水が流れるベランダの排水溝に落ちてやがった。塵一つ落ちていない排水溝なんて物はあり得ず、結局、8割乾きのところで再洗濯となり、日が暮れるまでに乾くことはなかった。やっぱり、人生ワースト5位としか言えない。

それはそうと、自宅ファイヤウォールの設定強化を行った。理由は、知り合いの方からWindows NT が稼働しているマシンをウイルスに乗っ取られたという報告を受けたためだ。話に依れば、このウイルスがメモリに常駐していると、ネットワークを介して指令を与えることにより、遠隔操作が可能となり、システムの破壊が可能となるらしい。それは恐ろしいってことで、気休めだが甘いと前から気になっていたファイヤウォールの設定を強化した次第なのだ。

日常業務に支障を来さないファイヤウォールの設定というのは、思いのほか面倒くさい。取り敢えずUDPは全て塞いだ方が良いだろうなんてやると、ネームサーバが見えなくなり、53番を開けたかと思うと、今度は桜時計とかリアルオーディオが使えなくなってしまっていることに気付く。TCPは、要求される全ての接続を塞いでしまったが、これにも盲点があって、ICQが動かなくなった。主にクライアントとして使うマシンは、接続の要求を行うだけで待ち受けはしないため、接続要求を塞いでも問題ない。ところが、ICQは接続の待ち受けを行うため、TCP接続要求を塞ぐと駄目になる。

ならば、ICQが使うポートを調べて開けてやればいいことではないか? いや、ICQはデフォルトでは空いているポートを見付けて動的に使うため、質が悪い。同じ理由で、ダイアルアップルータなどで、IPマスカレードを組んだ場合でも、ICQが使えなくなるかも知れない。少し調べると、待ち受けするポート番号を指定できることが分かり、指定したポートだけを開くことにより解決した。IPマスカレードでも、ポート番号を指定し、静的に変換テーブルを生成するようにしてやれば、使えるようになりそうだ。



家電製品
1999年7月16日(金曜日) はれ

家にある家電製品を見回してみると、スイッチの押しにくいものが氾濫していることに、ふと気付く。五十路を過ぎて六十路への道を歩みつつある実家の親父なんかは「最近の機械は老眼になると使えん」とか文句を垂れていたりするが、あながち年寄りの戯言だけでは無いように思うのだ。特に、フィルムの中にタクトスイッチが並んでいるのが嫌いで、賛否両論はあろうが、

・足の指で押せない
・手の指でも比較的押しにくい
・掃除はやりやすいのは良い
・間違って隣のを押しちゃったりとか

足の指で操作したくなることはないだろうが、うちの電子レンジ(シャープ製)がこの典型で、フィルムに包まれたスイッチは押しにくい。フィルムの方が掃除がしやすいなどといったメリットがあるのも分かるが、昔のタイマーを回すと勝手に動作が始まり、何の羞恥心もなく「チン」と、擬態語にすると下品とも言える音が鳴る電子レンジの方が256倍は使いやすいのだ。なんか、茶碗蒸しモードとかピザ暖めモードとか色々とついているようだが、一度も使ったことがない。

シンプルイズベストというよりは、露骨イズベストって感じだろうか。10年も以上前の車についていたような中波ラジオのような「がっちゃんスイッチ」が良いとまでは言わないが、0.5mm 押しのようなタクトスイッチは、電子的なスマートさが感じられるかも知れないが、それよりもある程度は押下距離の深い、より露骨なスイッチの方が使いやすいと思うのだ。足で操作するのが通例である扇風機とかは、そうでなくてはならないし、うちの扇風機みたいに、リモコンをつけるのは邪道である。

もっとも、何でもかんでもマイコンが入るようになった結果とも言えるだろう。組み込みソフトを書いてる人間としては、今日の記事は失言かもしれない。



あう
1999年7月15日(木曜日) あめ/くもり/はれ

もう明日が過ぎれば今週も終わりなのか、という感じである。で、またいつものように休みが来たりするわけだが、仕事が計画の通りに進んでおらず、このまま休むのは何となく寝覚めが悪い。数日前まではハードウェアの修正、それが終わったかと思ったらファームウェアのコーディングと、そのデバッグで毎日が終わるこの頃だが、キリの悪いところで家に帰ったりすると、家に帰ってから色々と考えてしまうので気持ちが悪いのだ。

しかし、メシを食いながら、便所で力みながら、寝る前に布団の中といった何気ない場所からの方が、机に座って考えているより正しい答えが出やすいというのも、不思議な事実である。昨日は23時頃までバグに悩むも解決には至らず、溜飲の下らないまま帰宅。ところが、家に帰るや否や思い当たる節がふと脳裏に浮かび、忘れないうちに書き留めておいた修正案を早速コードにしてみると、あらあらエレガントなこと。

仕事場でもこういう発想が、打出の小槌を打つように出てきてくれればいいのだが、そうはならないのが脳味噌の不味いところだ。頭を使えというが、使えば使うほど能力が停滞し、何故か一服した頃に快調に動き出す。なるほど、だったら常に一服していれば良いのだ! なんて思ってしまうが、そうは問屋が卸さないだろう。まあ何とも世知辛い世の中なり。どうでも良いが、常時一服モードのネコは羨ましいね。


*お詫びと訂正:昨日の多事毒論で書いた秋葉原駅での人身事故写真撮影について、「轢断された死体を撮影してWebで公開したらしい」と書きましたが、ご本人のサイトによれば、遺体そのものの撮影はされていないとのことです。お詫びして訂正いたします。



死体は物体である
1999年7月14日(水曜日) 雨/はれ/土砂降り/くもり/もうわからん

先週の土曜日に、JRの秋葉原の駅で飛び込み自殺があったらしい。わたしも秋葉原にいたが、地下鉄で帰ったため、新聞で読むまで気付かなかった。だが、この日この場所をたまたま通りがかった人の中に、これまた都合良くデジカメを持っていた人がおり、その人が轢断された死体を撮影してWebで公開したらしい。物好きなわたしは、早速見ようと思ったのだが、そのURLが分からなくて、まだ見ていない(もう無くなってるかも?)。

ところが、どうもこのことが「プロの」報道関係者にとっては気に入らなかったらしく、新聞でバッシングされていたとか。そんな話を聞いて家の新聞(国辱記事満載の全国民が愛すべき朝日新聞ね)を手動検索してみたのだが、見付からなかったので、他の新聞かも知れない。わたしは、別に礫死体の写真が公開されようが、問題ではないと考える方であるし、自分だってまともな記事を書けない新聞にそれを叩く権利は無い。そんな報道機関の人間が腐っていることは、いまさら言うまでもないことなので、その話はする必要もなかろう。

死体の写真に関しては、明確な根拠もなくやたらと「不謹慎」を主張する人間も多いが、何が謹慎で何が不謹慎なのか、はっきりとして貰いたいところなのだ。わたしに言わせれば、生きていた人間が死ぬのは当たり前のことで、生きているかそうでないかの違いで、写真撮影の可否を線引きするのは筋違いな話。対象が人間という物体であることには違いなく、それ以上の物でもそれ以下の物でもない。従って、その場の映像を固定化するという行為についても、さしたる違いは無いと考える。

死体撮影不謹慎論者の魂胆には、死は隠蔽されるべきものであって、日常に入り込んではならないものと、考えているのではないだろうか。町中で人が死ぬのは普通のことではなく、忌憚すべき異常な事態であり、それ故に撮影は愚か「見ること」すら何となくいけないことのように感じてしまう。そういうことのない無い日常こそ平和で自然で美しく、仮にあったとすれば、見なかったことにして片づけてしまい、あとは「不謹慎だから」のような建前を付けて忘れよう。そんな傾向が、少なからずあるように思う。

しかし、先にも述べたように、人は死んで当たり前なのだ。例えそれが自殺であろうが事故であろうが、その結果が原形をとどめない礫死体であろうが、あるいは焼け爛れた焼死体であろうが、誰かが死ぬときは死ぬのである。それを無理に隠蔽しようという立場の方が不自然だと思うし、隠蔽したからといって、目の前にある現実から死というものが削除されることもない。不謹慎さを目隠しに現実を見ないのは当人の勝手であるが、他者もそうしないと自らの目隠しが透けてくるとばかりに、不謹慎を主張するのはやめて頂きたいものだ。



たまご関係
1999年7月13日(火曜日) 雨

どういうわけだか、卵に関するネタは反響がでかい。何故だろう。一見したところ何の変哲もない卵も、よく考えれば白身と黄身という大まか2種類の異質の物体から構成されており、調理方法によっては、これらが奇々怪々な現象を醸し出す。あまつさえ、殻というベールで内部を隠蔽された卵には、その未知なる構造ゆえ、チラリズム的な誘惑があるのかも知れない。だいたい、堅い殻を食塩などの分子が透過し、中に味が付くというだけでマッドの心を揺さぶる何かがある。

掲示板に書き込まれていたこのURLにも、卵に関して色んなことが書いてある。元ネタが「発掘!あるある大事典」であり、スタジオゲストが、志村けん・かとうかずこ・大河内奈々子・池谷幸雄と来ただけで何となく信用するのが嫌になるが...そちらに書いてある内容を見た限りでは、卵を食べ過ぎても特に問題は無いらしい。まあ、わたしも割とボコボコと食べているが、死ぬ様子も無いので大丈夫であろう。ちなみに、実家だとオカンはコレステロールの過剰摂取を気にし、弟はアレルギーを気にして大量の卵を食すのは禁じられていたりする。

このアレルギーってやつ。わたし、ハウスダスト(壁蝨の糞とか)でアレルギー的症状が認められた以外には、特に無いらしい。食品類で食えないものは無いし、薬もアレルギーで駄目と言われたことが無い(医者嫌いで薬を殆ど使っていないからかも)。問題はこのハウスダストというやつだが、これはどこの家庭にも普通に存在するらしく、特に梅雨の頃は花粉症のような症状が出まくって大変だった。それを克服すべく、小学生のころ週に一度ぐらい注射を打っていたら、いつの間にか治った次第。今は何ともない。



パーソナルサポート
1999年7月12日(月曜日) くもり/雨

朝から晩までオシロ見ながら半田付けしていたら、肩・腰・目がやたらと疲れたので、できればこんなところは省略してお布団とお友達したいところなのだ。しかし、長い間書いていると不思議な義務感が「なんか書け」と背を押すから困ったものである。そんな理由で書いているのならやめれば? というご意見は確かに的を射ているが、やめることを考えると、仲の良い友人が一人、突如と去るような虚無感に駆られるのも、これまた大変不思議なことなのだ。

よりにもよってそんな絶好調な日に、パーソナルサポートを求めて実家からPCが送られてくる。インターネットに繋がらないのが気に入らないらしく、プロバイダのサポートに電話をかけまくり、わたしのところにも幾度と無く助けを求めて電話がかかってきたが、電話ではとうとう解決しなかったので、送り込みサポートとなった次第だ。五十路を過ぎた親父がやることは、何というか、アプローチが悪くてお話にならない。その年齢になり、社会的地位のあるオジサンほど、サポーターにとって厄介な存在である気がする。

話を聞くと、ネットワーク関係の設定が悪いとかではなく、モデム自体が正しく動作していないというふうに見えた。そのモデムは内蔵型のもので、わたしが買って送ってやったものだが、別に難しいことはない。モデムをスロットに挿すのも、プラスドライバが1本あればできる。後は電源を入れれば Windows 95 はお馬鹿ながらも、ドライバを求めてくるので、ドライバを読ませればおしまい。仮にも技術屋でメシを食ってる人間だから、そのぐらいのことは..と判断したのが、そもそもの誤りであった。

送られてきたPCを立ち上げてみると、何をしたのかは分からないが、中途半端な状態になって孤児化しいるドライバが、2つも組み込まれていた。なんてことはない、それらを削除して再起動しただけだ。すると「新しいデバイスが検出されました」と、例のダイアログが表示されたので、ドライバを読ませて愛でたし解決。それだけのことなのに、どこでどう間違えられるのだ?? 世の中には常識が通用しない人もいるのだと実感することの多い、この頃の蒸し暑い日々である。



更新報告
1999年7月11日(日曜日) 雨/くもり

実験室、久々の更新となってしまったが、味付けゆで卵・超音波編を書いた。味付けゆで卵ネタは、そろそろ時代遅れな気もするが、有力情報が手に入ったのでやってみたというわけだ。しかし、このお陰で昨日から卵を7つも食べている。卵って、食べ過ぎると身体に毒だとかいうが、何が悪いのかな。今のところ、身体に不調などは感じられないから、まあ大丈夫だろう。

どうでも良いが、家にある靴下の半分以上に、穴が空いていることに気付いた。3足980円とかの靴下さえも買えないほど貧乏...というわけではなく、単に買いに行くのが面倒なだけなのだ。そのため、いつも同じ服を着ていると友人に指摘され、南極の真ん中でもエベレストの頂上でも同じ格好で現れそうだと皮肉られ、それもあり得ると認める自分も情けない。人の集まる場所はいけ好かないし、この時期のように雨が降っていたりすると、やる気マイナス百億万モードである。

とは言え、昨日は昼から秋葉原に行ったあと、夕方の6時頃には所用で渋谷の真ん中にいたりしたのだ。もちろん、人が多くてイライラ全開なのだ。何がイライラの原因なのか? わたしは、無茶なことは言わない。建物の中とか電車の駅などは、空間的に限られているし、そう動き回るような場所でもないので、人で混み合っていても仕方がないと諦められる。だが、道路など空間的な制約の少ない場所で、人がチンタラと歩いていたりすると、極めてイライラするのである。

要するに、
道はく場所であって、それ以外のことをする場所ではない。

簡単に言えば、どいつもこいつも、
とっとと歩きやがれ! ということである。例えば、ここは国会じゃないんだから歩道で牛歩戦術を決めて見せたり、大した用事も無いクセに立ち止まったり、格好良くも無いのにナンパしたり、あるいはぶっさいくな女連れて公衆の面前でいちゃついたりとか、

するんじゃねーぞ

と言っているだけのことである。間違ってる?



存在って何だろね
1999年7月10日(土曜日) くもり/小雨

我々にとって、万有の存在とは一体なんだろう。その場に居合わせ、その場で見た事象を存在というのも結構。自分を取り巻く環境の全てが存在であるというのも結構。だが、それらを五感、あるいは第六感でも良いが、何らかの手段を以て人間が対象を認識できなければ、それらは存在しないことと同義である。例え物体が目の前に実在していたとしても、それが目に入らなければそれまでの話だ。当人がそれを認識するまでは、その物体が在ったとか無かったという問題すら、その人の脳裏には浮かばないのだ。

そうすると、存在というものは、一般的に各々の人間の主観や偏見にまみれ、その人なりのフィルタを通して確認した認識でしかない。従って、これこそが真実であると断言できる絶対的な存在など普通はあり得ないし、強いて絶対化するとすれば、物理現象を数式として表すように論理的な手段に頼るか、あるいは宗教のように何らかのカリスマ的な手段を以て、対象の絶対的価値を認めさせる程度しかなかろう。通常、ある人が存在しているものと認めるものは、その人にとっての認識に過ぎないのである。

このことを取り違えると、ややこしいことになりかねないと、わたしは思う。ある人間が目で見たり、耳で聞き取った現象は、その人にとっては自ら感じ取った立派な実在であり、真実と位置づけるに足る信憑性のある現象かも知れない。しかし、実際の物理的現象はどうであれ、その人が真と信じていることは、その人の認識でしかないのである。もしかすると、その認識は実際に起きた物理的現象の通りかも知れないが、あるいは、認識の一部または全部が実際とは異なっている可能性とて大いにあり、「俺が絶対に正しい」と言い張れる合理的な根拠はない。

そんなことは、くどくどと説明されなくても当然だと言われるかも知れない。だが悲しいかな、何故か人間には自分の認識が正しいと頑なに信じ込む悪癖がある。写真やビデオといった、認識の正当性を裏付ける普遍的な証拠があるのならともかく、それすら無いのに「自分が見た物は確かに間違いない」と言える過剰とも思える自信はどこから生まれてくるのであろう。いわゆる目撃証言と呼ばれるものは、ある人物の恣意的な認識でしかないのに、どれほどの信憑性があると言うのだろう。たかがその程度の曖昧なものを真実と取り違え、刺々しく振りかざす人間は、自分が神とでも思っているのだろうか。

何が言いたい? これは二通りの自戒の意味を込めて書いている。一つは、いままで自分が見た物は、それなりに正しいと信じてきたことに対する自戒だ。案外、そうでもないと、今更ながら思ったりする。もう一つは、それとは正反対に、こういう考え方は損であるという自戒である。何故なら、自分こそが正しいと信じていれば何かと強く、多少なりとも無茶な主張も通すこともできるだろうから、お得であることは論を俟たない。だが、そうと知りつつ、そんなことをするのは人間として質が悪すぎる。さて、境界線はどこに引くべきなのだろう...



コンクリート崩落事故
1999年7月9日(金曜日) くもり/小雨

山陽新幹線の福岡トンネルで、コンクリート崩落事故があったことが、連日のように過剰と思うほどニュースとなっている。新幹線の事故と報道の話については以前にも少し書いたが、過剰な反応は未だに安全神話が根深く信じられているところにあると、わたしは思う。まさか、トンネルのコンクリートが落ちてきて、それも通過中の新幹線に直撃するなんてことは想像できないのだろう。

だが、日本の新幹線は、建築学的立場から見なくても危険な構造であるようにわたしは思う。ある時は山や海の下を潜り、またある時は川を超え、平地ではいかにも不安定そうな高架橋の上を、凄い重さの物体が凄い速度で通過しているのであり、あまつさえ地震などの天変地異に晒されているわけである。そういった場所に列車を通すのは、日本の地理的構造上しょうがないことではあるが、こういった脆いものを「事故はあり得ない」というには無理があるのではなかろうか。

事故は無いに越したことはない。そのためには、ちゃんと設計して、ちゃんと工事して、ちゃんと点検しなければならないが、いくらちゃんとやっていても、建築物は人間が作った形ある物である以上、壊れないとは絶対に言えない。バグはどこかに必ず潜んでおり、劣化は現在進行形で進み、すなわち事故という舞台を実現するための役者は揃っている。だから「直ちに危険とは言えない」なんて言葉は欺瞞でしかないのだ。虚構を信じ、事故がある度に「そんなはずはー」と騒いではいけない。

そもそも、安全神話とは、誰が作り上げた幻想なのだろう? 役人のやることに間違いはないという年寄りの戯言のように聞こえるが、やっぱり役人なのだろうかね。ウソでも良いから自信満々で恐いことが起きないことを誇るっていうのは、技術者の沽券に関わる話であるからして、技術者には、そういう人は比較的少ない気がする。危険な現実を知るってことは残酷なことであるが。



おはよう
1999年7月8日(木曜日) はれ

おはよう...って、それは朝の挨拶であるが、ここを朝起きてから書くのは今週で2回目なのである。何故か早寝早起きの健康的過ぎる日が多く、昨日はポケモンの2時間スペシャルを見ながら、寝てしまった。そのまま朝まで寝たのだから、きっと10時間近くは寝たに違いない。嬉しいこと、嬉しいこと。

わたしは、挨拶などの儀礼を重んじる方ではないが、特にメールなどでは挨拶を書いてくれると凄くありがたいと思う。何故なら、挨拶も書かずに失礼な奴だというようなこともあるが、それより一言でも前置きがあると本文が読みやすいという良さがある。いきなり本文が来るよりも、ワンクッションは大切、というわけだ。

例えば、「はじめまして、○○と申します」などと書いてあると、「初めてメールを頂く方なんだな」という心の準備ができるし、「以前はお世話になりました」とか書いてあると、「誰だっけ。。」と、過去のメールを検索したりする。逆に「突然メールを差し上げる失礼、お許し下さい」と始まっていると、どうせどうでも良い広告だろうと、削除の準備ができるわけだ。尤も、最初の数行で中身を判断したいという物臭な性格の現れかも知れない。

今日の朝刊の見出し...「外国人学校卒業生 国立大学受験認める」とのこと。わたしは、良いことだと思う。外国人学校に特別な思い入れがあるわけではないが、一つ思うのは日本の教育制度が余りに形式化しているということ。形式化が必ずしも悪いこととは言わないが、しかし、形式が正しく成立するためには、一定の前提が成り立っていなければならない。従って、何らかの理由で前提から外れた形式外の人間は、苦労することとなる。

誰もが当たり前のように形式の中に収まっていれば良いのだが、実際問題そういうわけには行かない。文部省の「形式」からすれば、わたし自身、形式からかなり外れている部類の人間だし、少なからずいる。そういう人間を寛容に受け入れる制度も、あっても良いのではないかと思うのだ。例えば、コミュニティカレッジ的なものとかもね。



YAHOO その後
1999年7月7日(水曜日) はれ

今年の1月10日には「やる気あんのか!」と、ボロカスに書いた Yahoo Japan! だが、あの後しばらくしてもう一度登録申請を出したところ、ようやく突撃実験室も登録していただいた。ただし、登録カテゴリが「雑誌 -> その他」と、ちょっと変。まあ、オンライン雑誌と言えば雑誌...でも、雑誌ではない気もする。尤も、このようなサイトの分類というのは非常に難しいものがあり、突撃をサーチエンジンなどに登録するときなどは、いつも分類に苦労する。

とまあ、擦った揉んだの末に登録されたわけだが、内職(でも実は無報酬)で作ったサイトは、至って簡単に登録された。会社のサイトなので、個人のサイトとは別の扱いなのかも知れないが、Yahoo Japan! の厳しいと想像される感覚から見れば、優良なサイトではないと思う(むしろ、もっと頑張っている個人サイトの方が多いぐらい)。社会的存在価値でも認められたのだろうか。何にせよ、電話で「俺が登録しとくからー」なんて気軽に言った手前、シカトされたら寒い...という心配は無駄であったようだ。

今日は七夕だ。笹の葉さーらさら...えーと、以下何だっけ?



ももの皮むき
1999年7月6日(火曜日) あめ/くもり/はれ

こちらの実験でミカンの皮を剥いていた時に、桃の缶詰の桃はどうやって皮を向いているのだろうとか、ふと思った。あれも刃物で剥いたような痕跡はなく、オバハンがズラリと並んでシコシコと剥いているのでないことは明らかだろう。必ずしも薬品処理とは限らないが、何らかの自動化テクニックを使っているに違いない。

だが、桃は高いので、予備実験用に安いスモモを買ってきた。しかしよく考えたら、スモモは同じ「モモ」でも「桃」とは異なる気もしてきた。「酢桃」などという種類の桃があるわけではなく、実際のところ「李」というそれ専用の漢字が存在するわけだだから、生物上の分類はどうであれ、スモモは根本的に別種と考えるが妥当か? 細かいことは気にしないで、取り敢えずスモモを苛性ソーダなどに浸けたりしているのだが、現在のところ進展はない。

最近、実験室の更新が停止しているという噂があるというか、事実そうなのだが、書いてる奴が多忙で、なかなか実験をする時間が無いのが実状なのだ。断片的な暇な時間はちょくちょくとあるのだが、纏まった暇な時間、これが無いと実行に移しにくい。今日は5時過ぎに起きて、家に帰ったら9時過ぎだし..もう眠いのらー。



村八分
1999年7月5日(月曜日) くもり/小雨

村八分なんて今時あるのかと思ったりするが、実際にあるのはご周知の通りだろう。幾つかの自治体がオウム信者の転入届を不受理とし、ニュースでは、それを暗示的に肯定する形で報道されているが、色んな意味で非常に見苦しい話である。村八分それ自体が見苦しいというのもあるが、もっと見苦しいのは、自己矛盾に陥っているのはマスコミだ。一方で民主国家とか法治国家などといった綺麗事を並べながら、もう一方では何の根拠もない私的制裁を肯定するような素振りを見せる彼らに、賛同することはできない。

人を裁くのは誰(何)であるべきなのだろう。実質上は建前かも知れないが、法治国家では法律という明文化された普遍的基準に基づいて裁きを執行するのが最も論理的であり、なおかつ公平であるとされている。わたしは、そのことについての異存はない。もし自分が何かやらかして、罪を受けるとするならば、法律によりさっぱりと裁かれたいと思うし、ねちっこい嫌がらせが罪ならば、寝覚めが悪くて仕方がない。ならば、私刑は否定しなければならないし、相手により例外を認めて良いというものでも無い。

暴走した世間による私刑が如何なる結果を招くかということは、松本サリン事件で実証済みだろう。「今となっては間違いであることが発覚したが」という前置き付きで、第一通報者といわれながらも、明らかにスケープゴートに仕立て上げられた河野氏が時々テレビに出演されているが、氏曰く、最も憤りを覚えるのは警察でもマスコミでも無く、世間であるらしい。脅迫電話や脅迫の手紙など、ねちっこい私的な制裁があったそうだが、真相を何もを知らない世間が何を根拠に? でも、暴走した世間にとって、確たる根拠など不在でも構わないのだ。

世の中には冷静な判断ができない馬鹿が多くいるのだからと、世間には世間という名の免罪符があるとしても、その暴走を煽ったのはマスコミだ。訳の分からない事件が起き、取り敢えず納得するための容疑者(もといスケープゴート)が欲しかった世間と、それに必要なプロパガンダを断片的な憶測情報により提供したマスコミの罪は計り知れない。しかし、こんなことはいまさら蒸し返さなくても良いはずである。松本サリン事件の後、議論はされ尽くされ、マスコミは反省し、河野氏への謝罪もあったはずだ。

ところが、マスコミは表向きだけの反省の素振りを見せたのみで、実質のところ何も変わってはいない。オウムが購入した不動産の前にバリケードを張る市民を見て、そういった私刑についての議論を大々的に行うわけでもない。相手はオウムなのだから、市民の活動に不当性はなく、公共の福祉という観点から然るべきであると暗に示唆する風潮は...奴は○○したかも知れないから私的制裁は当然であるという、過去に解決したことになっている過ちに、いつなんどき繋がるか分からない。



NTT 顧客情報横流し
1999年7月4日(日曜日) はれ

9時半ぐらいに起きてから、メシを食い、昼過ぎに本を読んでいたら急に眠たくなったので横になる。そして起きたら、18時過ぎ。1時間ぐらい寝てスッキリするつもりが、半日がかりの盛大な昼寝となってしまった。ところで、ドリームキャストの宣伝で出てくる「後藤喜男」って誰なのだろう。どっちにしろ、あの量産体制では19900円にはならないと思う次第である。

最近、NTT の顧客情報が名簿屋などに得られているなどと報道されているが、そんなことは今に始まったことではないだろう。今回はたまたま明るみに出てきたというだけのことで、NTT の社員が顧客名簿という金になる情報を前にして、一儲けしてやろうかと画策するのは想像に難くない。倫理の問題に帰すとしても、情報を扱う彼らが人間である以上、限界がある。何しろ、氏名、住所、電話番号などがセットで手に入り、それも殆どの人間が加入しているサービスなのだから、美味しい話だ。

NTT で電話オペレータをやっていた人間から直接聞いた話だが、顧客情報を端末から引き出すのは極めて簡単なことだったという。その人は普通の受付だったので、業務上必要と認められる範囲以外の個人情報を引き出せる立場ではなかったそうだが、それができるように設定された端末を使えばどうにでもなるらしい。一応パスワードはかかっていたと言っていたが、上司が馬鹿なので誰でも分かるものに設定されていて(例えば1234とか)、パスワードの意味は全く無かったとのこと。

わたしが現場を直接見たのではないので、どこまで信憑性があるかは未知数だが、そういう管理体制であると言われても、頷かざるを得ない。日本の全体的な傾向として、個人情報隠蔽の重要性に関する意識は希薄だと思うし、パスワードなど、暗証の必要性を本当に理解している人も、果たしてどれぐらいいるのだろうか。パスワードなどに自分の誕生日などを設定するのは論外だが、そういう人は案外多い気がする。想像を絶するものを設定しなければ意味がないが、面倒なので無い方が良いとさえ感じる人もいるようだ。

最近聞いて笑った話は、OCN エコノミーなど簡易的な専用線接続サービスにおける加入者側ルータのパスワード未設定の話。決まったCIDRブロックから少量のIPアドレス範囲を割り当てられる OCN などのサービスでは、ルータのIPアドレスも決まってしまっているようなもので、攻撃対象を見付けるのは極めて容易である。最近のルータは、Web 設定ができるので、ルータに割り当たっていると想像されるアドレスを、普通のブラウザで叩いてゆけば良い。まさかと思うかもしれないが、意外と簡単に、フィルタもパスワード未設定のままになっているルータが発見できるだろう。

これで、無茶苦茶な設定に変えられた上で、無茶苦茶なパスワードを設定されても、当然ながら文句は言えない



綱引き大会
1999年7月3日(土曜日) あめ時々くもり時々はれ

朝飯を食っていたら電話がかかってきて、どういう風の吹き回しなのか、突如として敵のいない綱引き大会の日となった、謎の土曜日であった。綱引きなどやるのは小学校以来のことであるが、敵が不在の綱引きとは...パイプに詰まった同軸ケーブルの引き抜き作業とは誰も想像できまい。まあ、それはそれで楽しいものであり、肉体労働でありながら、そのような仕事は割とエンジョイする方だ。普段、事務所に一日中いることが多いためか、たまには本当の意味で汗をかく仕事もいいだろう。

昨日は余り寝てないので、脳味噌が規定クロックの半分ぐらいでしか稼働しないようだ。そろそろ寝ることにする。



論理派?
1999年7月2日(金曜日) はれ/くもり時々あめ

ここを読んでいる方々の話によれば、わたしは論理派という分類に入るそうだ。論理的になるよう意識して書いているという訳でも無いのだが、そうなってしまうのは生まれ持った性なのだろうか。わたしのオカンを含め、親戚には文系の人間が多いためか、どうも理詰めで物事を考えることに抵抗を覚えるようだ。こうなのだから -> そうであり -> ああなるのは間違っている、という流れで理非を問うよりも、感情的アプローチにより漠たる結論を出す方がお好きらしい。オカンには、そういう倅を生んだ自分を恨むよう伝えてあるが。

わたし自身、理屈っぽいと咎められるのは気分の良くないことだが、かといって誉められること、少し不本意だったりする。基底的な考え方としては、境界のぼやけた対象に正邪の線引きを行う方法に、論理以外に何が挙げられるのだという感じなのだが、正しさも邪さも漠然とし、言うなれば、はっきりとしない対象に不安を感じているからこそ、その必要性があるという逆説もまた真である。目印すら無い広野に取り残されたとき、そこから脱出する手段としては何ら意味を持たないとしても、その場所の緯度と経度が分かれば、幾ばくかの不安は解消されるといったものだろうか。

そんな論理の甲冑に身を包皮した自分は、今まで一体何に対して不安を覚え、怯え、そして自らの身を守ろうとしてきたのだろう。重厚な鎧で心を閉ざしたことに、間違いは無かったのだろうか。量子化の過程で起きうる誤差はどこへ消えたのか? ロジックで真偽を判定できなかったアナログ的なものは無かったのか? あったとすれば、それらは否認しているだけではないのか? 過去は振り返らないとしても、これからもそれで良いのであろうか。最近、そんな自問をすることがあったりする。



もう7月やんけ
1999年7月1日(木曜日) はれ

と、タイトル通りに歳を取ると時間が経つのが早くて困る。何だかんだと言ってる間に、もう1999年も半分が終わってしまったのだ。1999年7月と言えば、恐怖の大王が空から降ってきて人類がどうのこうのという、訳の分からない予言がされている年でもある。予言は、わたしが物心のついた頃から知っていて、1999年はえらい先の話だと思っていたが、いつの間にか来てしまった。

本日の朝日新聞夕刊によれば、「予言に不安を感じている大学生が半数」などと書いてあるが、それにしては盛り上がりに欠けるところだ。不安と言っても、半信半疑というか、「そんなことがあれば恐いけど」と「あほくさー」という程度のものと思う。かく言うわたしも、話のネタにしている以外には気にもしていない。信じていたら、会社に皆勤で行ったりはせずに、毎日14時間睡眠デーにするんだから。

そんな予言というものは、予言が実世界上の社会的傾向に連想させる点が無ければ成立しないと思う。第三次世界大戦で核攻撃のオンパレードになりそうな予感のする熱い時代ならまだしも、センセーショナルな事件が少なく安定した1999年には、相応しくない内容だ。阪神大震災とか、オウム事件などが立て続けに起き、ついでに北の某国が怪しげな動きを見せていれば、もうちょっと盛り上がっていただろう。

さあさあさあ、人類滅亡の序曲もいよいよクライマックスを迎えた七の月。皆でイカれた世紀末を満喫しようでは無いか。久々に晴れたので、わたしは張り切って洗濯物を処理したぞ!(所帯じみてるね)



突撃実験室