多事毒論(2000年6月分)



避難所
2000年6月29日(水曜日) くもり/はれ

今日は、小規模な地震で一日中職場が揺れていた。

群発地震が発生していて無意識に警戒しているときには、実際は地震でも何でもないのに、地震で揺れているような錯覚に陥ることがある。例えば、椅子に座っているとき、無意識のうちに身体が動いて椅子が揺れると「あ、地震だ」と思ったりするのだ。にも関わらず、電車に乗っている時は少々揺れたって気にもしないどころか、気持ちよくて眠ってしまうときもあるのだ。「揺れている」という事実そのものは同じないのに、おかれた状況によって事実に全く違う解釈を加える人間という生物は、不思議なものだ。

それは、本来ならば揺れるはずのないビルが揺れるから恐いと感じるのではないか? と、思われるかも知れない。わたしもそう思っていたのだが、違うのだ。以前に勤めていた会社は、側の道路を大型車が通過すると局所的な有感地震が起きるという、とってもボロいビルに入居していた。揺れは、毎日のことだから普段は誰もそんなことは気にしていなかったのだ。しかし、それが問題となったのは阪神大震災の直後のこと。ビルが揺れる度に、みんなが「あ、余震だ!」と騒ぐ騒ぐ。要は、身体が警戒しているかどうかの問題であるらしい。

ところで、地震といった災害が起きたときの避難所というと学校の体育館がよく使われているが、体育館って安全にできているものなんだろうか。地震で倒壊したり、台風が来たときに強風で屋根が吹き飛ぶような建物では、避難所にはならない。その体育館といえば、鉄骨を組み合わせてトタン屋根を乗っけただけのような安っぽい建物が多く、とても丈夫には見えないのだ。特に、天井からぶら下げてある水銀灯なんか、いかにもちょっとした地震で落ちてきそうな印象がある。「水銀灯が避難者を直撃」なんてニュースが出てこなければ良いが。

体育館が避難所になると、マスコミが避難者にインタビューして苦情を聞いていたりする。

メシが不味いから、どうにかせい!

といった、明らかに勘違いしているような文句はさておき、もっともだと思ったのが「空調が欲しい」という話だ。学校の体育館といえば、ご存じの通り、夏場はやたらと暑くて冬場はやたらと寒い。そんな場所で生活しろ言われたら、一日ぐらいなら我慢できても、長期化すれば耐えられそうにない。体育館を避難所として使うのならエアコンぐらい準備しておけという意見も、あながち贅沢すぎることだとは思わない。滅多に使わない特殊な設備ならともかく、エアコンなんか普段からあっても困るようなものでもないのだから、付けおくべきだろう。

もちろん、空調に限った話ではない。避難所にいれば、ただでさえ尋常ならぬフラストレーションが溜まることぐらい容易に想像できる。学校の建物を避難所として使う前提があるのなら、少しぐらいは「住環境」としての配慮もされて然るべきであろう。もっとも、縦割り行政においては、防災計画課と教育委員会が協力するなんてことは有り得ないのかも。さすがの自衛隊も、「移動空調車」なんて持っていないだろう。



おたくは世界を救う?
2000年6月28日(水曜日) あめ

三宅島の火山活動が活発化し、住民が避難されているそうである。

前兆が確認された後に住民の避難がタイムリーかつ迅速に行われたのは、記憶に新しいところで有珠山の噴火に続いて、これが二度目。人類の勝利と言えよう。地震と違って、火山活動の予知はそれなりに出来るものなのか? という素人考えは的外れらしく、長年の観測や、過去の苦い経験、あるいは日頃からの備えがあるからこそ実現しうるものであるそうだ。普通の生活を送っている自分などには、日々火山のご機嫌を伺っている人がいるなんて想像もつかない。有珠山で、北海道大学の教授が一躍有名になったけれど、

外見からして「それ」と分かるアニメおたく

ということを示唆する「デブ・Tシャツ・眼鏡」みたいな記号があるように、

外見からして「それ」と分かる火山おたく

という奇妙な記号を全国に知らしめたあのキャラクタは、実にいい味を醸し出している。普段から、あのいつもの山がどんな健康状態でいるのか気になって気になってしょうがないんだ。おれが生きている間に噴火してくれるなんて、こいつぁ期待に応えてくれるカワイイ奴だよ、まったく。おっと、こんな不謹慎なことは間違っても言えないけどさ、今日のおれは燃えてるぜ! 内心はそんなように思っておられるのかも知れない。だが、パンピーには不謹慎と評価される姿勢も、人々の命を救えばそれで良いのだ。世界を良くするのは、いつだって「おたく」の役目なのだから。

ここで "Think different" と括れば、Machintosh だな。



後方互換性
2000年6月26日(月曜日) くもり

これは、どんなものについても言えることだ。新しいことを始めるのは容易いことでも、一度始めてしまったことをやめるには、始めたときと比べて何倍のも作業が必要となるケースは少なくない。物事の規模が大きくなれば大きくなるほど、その傾向が強くなることが普通だ。例えば、あるソフトウェアのバージョンアップが行われた際に、将来性を考えず、目先の目新しさや便宜だけで新しい機能が盛り込まれたとしよう。そういったものは、最初は良いとか凄いと評されても、いずれは時代遅れとなったり、かえって邪魔な存在として忌み嫌われることになる。

そのとき、多くの人が不要だと考え、廃止が適当だという結論に達したとしても、今更やめるわけにもいかない、ということになりかねない。同時に廃止すべきではない、別の重要な何かが廃止の対象となったものに依存していたり、あるいは、機能そのものは不全でも、使用者が根強くいるために、やめるにやめられないこともある。そこで、表向きは無くなったことにして、陰ではこっそり残すという妥協策が取られたりするわけだが、そうしたものは、必ずと言って良いほど全体の足を引っ張る結果となる。時代遅れなんだが、古代の仕様を引きずらざるを得ないというやつだ。

時が流れても過去の蓄積をそのまま引き継げる有り様、すなわち後方互換性の必要性を考えれば、古いものを引き継ぐことも無論のこと重要なことだ。しかし、本来ならば要らないようなものが足枷となって、全体の発展を阻害するような結果は、決して芳しいことではない。こうした矛盾の責任は、最初に将来性を考えなかった判断の誤謬にあるわけだが、そういったものをいったん世に出してから気付くようでは、時既に遅し。身近なところでは、Windows がそうした流れの中で破綻寸前となり、棄てざるを得なくなった産物の良い例だ。革新となるはずだった Windows NT も、多くの面で悪いものを継承してしまっている。

というお約束の結論では面白くない。こうした視点で、先の総選挙で焦点となったような日本の問題を見るとどうなのだろう。取り敢えずの間に合わせに過ぎない姑息な拡張を重ねていった結果、やめるにやめられないけれども悪いものばかりが将来に継承されていくような、Windows 型の社会になっては困る。だが、後方互換性というものを考慮すれば、いままでの積み重ねを急に廃止して革新するわけにもいかない。だからといって、必要以上に保守的な態度を貫けば、更なる発展を阻害するだけのこと。結局、何をどうすべきなのか明確にならないまま、間に合わせの拡張が行われることだろう。



更新報告
2000年6月25日(日曜日) あめ/くもり

液体窒素ネタ第二弾を実験室に追加。
でも、液体窒素の話からは大幅に脱線してしまった模様。

これも時代の流れというか、そろそろ時代遅れになってきた HTML 3.2 を廃して HTML 4.01 を突撃実験室でも一部に導入しつつある。最初は、そんなものは必要ないと高をくくっていたのだが、多事毒論をフレーム化した際に、全てのファイルを強引に 4.0 に書き換えることとなった。ところで、HTML 4.01 では「原則として全てスタイルシートで表現せよ」という暴挙に出た。確かに、理想を言えば使いにくい <FONT> タグなどは撤廃し、テキストの修飾は全てスタイルシートでやった方が美しい。しかし、そうすると古いブラウザではマトモに見られなくなるという大きな問題がある。

そこで、過渡的な仕様である HTML 4.01 Transitional を敢えて使い、古いブラウザで閲覧しても問題がないように考慮はしているが、もういい加減に Obsolete なブラウザに、いつまで付き合えるかは分からない。もっとも、当サイトにおいては、テキストに写真が貼ってあるだけの地味な構成が基本だ。お世辞にもお洒落とは言えない造りだから、HTML 3.2 でも表現力に不足はない。しかし、スタイルシートを使えば行間の幅が可変になるなど、文字の読みやすさという面では利点も多くある。文字の多いサイトとしては、こういう機能も(適量の範囲内で)積極的に使ってゆくべきだと思う。

今回追加した液体窒素ネタでは、実験ネタで初めて HTML 4.01 を使ってみた。ついでに、何となく配色を変えてみた。真っ白な背景に飽きが来たというだけで、深い理由は特に無いのだが、なんだか輪を掛けて地味になったような気もする。まあ、良いか。



パクリ
2000年6月23日(金曜日) あめ

朝日新聞が中国新聞から記事をパクって謝罪。で、記者のモラルがどうのとか書いてあるのだが、

全国紙でパクりゃ、誰がどう考えてもバレるだろ。

という火を見るより明らかな結果を無視して、大胆不敵にもパクってしまうとは気合い入ってるよ、全く。

それでも、どういうわけがあるのだか、明らかにバレバレなパクりは後を絶たない。仮にパクるとしても、それなりの努力をしなければ、やはりプロとは言えないのだ。引用元の文献が何なのか判断できないほど様々な資料から引用しまくって、文章を微塵切りのようにしておけば、万が一盗作疑惑が発生しても「何となく似てるけど、酷似とは言えないよね」という結末になるのだ。物量作戦で後処理を極めて困難にすることは、立木トラストの原理と同じである。

人の子であるが故に、スランプなんかで筆がなめらかに動かないときもあるだろう。だが、時間とは残酷なもので如何様な理由があろうとも、待ってくれることはない。そのようなときに「ぎゃー、もう間に合わあねえ〜」という状況におかれた人間は、後先を少しも考えず、物書きの生命とは永遠に決別することも恐れないほどの大胆かつ強靱な神経を持ちうるものなのだろうか。まさに、カオス。わたしが生きている間に、人間の理解不能な行為までをも忠実に再現したアンドロイドが登場することは、このことからも有り得ないと推定可能である。



逆リンク
2000年6月22日(木曜日) やや曇り気味/あめ

こういう下らない話ばっかり書いていると「一体どういう人間が見とるんじゃ?」ということも時々気になったりするもので、その対策としてアクセス統計というものを仕組んであったりする。でまあ、暇なときはこれを「逆リンク」としてリンクして頂いている方々のサイトを覗き見に行くわけだが、時として「恐れ入りましたっ」というサイトにブチ当たってしまうことがある。マジで笑ったのが、WEB自己満足。ここにある「そういえば」。臭ってきそうです...

弊サイトにリンクしてくれるのは結構なことなのだが、形式的に「リンクしました。ご報告まで」とだけ書いてあるメールは、ご遠慮頂きたいと思う。ぶっちゃけた話、自分がリンクを張ることで、他人に負担をかけることが芳しいとは思えないからだ。特に、雑誌などで紹介しても良いかといった問い合わせのメールには、鬱陶しいものが多い。用件が単刀直入に書いてあるのならまだ良いが、しばしば「この度は○○マガジンで△△コーナを新設いたしまして、××に関するページの特集を(以下略)」といった、実のない話がダラダラと書いてあったりする。

そこらのサイトを紹介するだけの手抜きな商売のために、人の手を煩わすのは止めてくれ

と思いながらも、いつも二つ返事で「どうぞ」。



森首相
2000年6月21日(水曜日) くもり

「関心がないといって寝てしまってくれれば・・・」

なんだか失言めいたことを言うと、あべこべに「いい人だ!」なんて言われたりする森首相は、ああ見えても実はかなりの策略家かも知れない...というのは買いかぶりだが、よく言えば正直な人間、悪く言えば政治畑に向いていない単純な人間なのだろう。言いたいことは、よく分かる。無党派層が政治に関心を持てば持つほど、自民党は不利になるようになっている。建前としては「みんな投票所に行きましょう」ということになっているが、自民党の本音としては「是非とも家で寝ていて欲しい」ところに違いない。

というわけで、わたしも「是非とも家で寝ていて欲しい」種類の人間の一人だったりする。セオリー通り、自民党を省くとすれば...これがまた、難しいのだ。積極的無党派というわけでもないのだが、特定の政党でがあるわけでもない。消去法でいと、最後まで残る政党は必然的に出てくるのだが、やっぱり消しちゃたりするから全部消えてしまう。そこで、意表を突いて共産党? という昔は通用した気もする方法も、何だか最近の共産党は妙に角が丸まってきている感じがして、ぜんぜん意表を突けないこのご時世。

いま必要なのは、もっと時代に即した政党なのだ。やる気のない若者の心を掴む「サボタージュ労働党」とか。



風邪
2000年6月20日(火曜日) はれ

朝から身体が怠い、軽い風邪をひいてしまったらしい。

わたしは、昔から母親に「身体を冷やすと風邪をひく」ということを前提に、冬場はなるべく暖かい格好をするよう指導されてきた。これは、うちの母親だけが勝手に信じているようなことでなく、ほかのお母さんたちからも聞いたことのある話だから、割と一般的に信じられていることだと思う。しかし、本当にそうなのだろうか。わたしは、経験的に「身体が冷える」ことと「風邪をひく」こととの間には、何の因果関係は無いという考えを持っており、そんな言いつけは一度とて守ったことがない。

いまはそんな元気も無いが、中学生のときは冬場でも夏服の半袖シャツで学校に通っていたこともあった。しかし、そのときに風邪ばっかりひいた記憶もないし、いまでも薄着主義だが、極端に風邪の疾患回数が多いとは思わない。そこまで極端でないにしても、薄着の人の方が多く風邪を引いているとは言えないと思うし、逆に、むしろ暑いような今頃の時期でも風邪をひくときはひく。これらを帰納すると、「身体を冷やすと風邪をひく」という発想は、論理的に正しくないのだ。

冬場は寒い。寒いと身体が冷える。身体が冷える寒い冬場には、確かに風邪患者が多い。従って「身体を冷やすと風邪をひく」というような発想が三段論法的に生まれても不思議ではないのだが、冬季の風物詩に過ぎないような話を都合良く解釈したような根拠で病気のことを議論されては困る。わたしは医者じゃないので詳しいことは知らないが、風邪をひくときは、身体の抵抗力が落ちたときだろう。寒さと風邪にかかることとに何らかの因果関係があるとすれば、身体が冷えると身体の抵抗力が落ちるということになるが、そういうことは本当にあるのだろうか。

冬場に風邪が流行る原因として、「身体が冷えるから」以外にも「窓を閉め切ることの多い冬場は、病原体が部屋にたまりやすいからだ」とか、「風邪のウイルスは冬場の乾いた空気を好むからだ」とか、「乾いた空気が喉の粘膜を弱くするからだ」とか、様々な説を聞いたことがある。ちょっと医学的な根拠が織り交ぜてあるだけ、これらの方が理に適っている感じがするが、どれも言い伝え的に聞いたような話ばかりで眉唾だ。これらのうち複数の原因が複合的に作用して冬場に風邪が流行るのかも知れないし、どれもが根拠のない噂話かも知れない。わたしには、よく分からない。

もっと訳が分からないのは「風邪をひいたら風呂に入るな」という話だ。「風邪をひいたら身体を冷やすな」という話や「暖かくして寝ろ」という治癒方法が効果的なのであれば、身体の暖まる風呂は、むしろプラスに働きそうなものだから理解に苦しむ。どうして、このような話が信じられているのだろうか。今でこそ風呂の無い家は少ないが、家に風呂が無くて寒い冬でも風呂屋まで出かけなければならなかった時代ならば、風呂を禁ずることは「身体を冷やすな」ということ辻褄が合うと推定することもできる。だとしても、今の時代に合った発想ではない。

以上に述べたように、風邪にまつわる話はとにかく矛盾だらけだから、とても真面目に実行する気にはならない。こういったことは、妄信する前に「時代が変わっても、科学が発達しても、言い伝えだけが歪に残ってしまった結果でないのか」として、再検討してみる必要がある。少し調べると、医学都市伝説というサイトでは、ずばり「冷えると風邪をひく」を、都市伝説のバリエーションとして扱っている。他にも、いろいろなネタがあって面白い。

で、わたしが唯一正しい信じている風邪の対処法は「寝る」ことだけ。寝たら治るのだ、風邪なんて。



グラディエーター
2000年6月18日(日曜日) はれ

久々に青空を見た。朝からお洗濯。

映画「グラディエーター」を観る。古代ローマ帝国のコロシアムで暴君な皇帝本人とバトっちゃう剣闘士の物語。観る前から大方の粗筋は予想できていたが、実際に、ほぼ予想通りのありがちでチープなシナリオであった。主人公は強くて勇敢で戦いぶりは見事だが、それによって英雄性を強調したいわけでも無さそうだし、何だか最後まで掴み所がない。リンクしたグラディエーターの Webpage に詳細なシナリオが丸ごと書いてあるぐらいだから、制作者側もストーリなんか二の次と思っているのだろう。

というわけで、こいつは何も考えずにバトルを楽しむための作品だ。兵士も奴隷も猛獣も皇帝も、戦える者はおおよそ誰でも動員し、一部終始血生臭い戦いが続くのだ。幕開けを飾る、雪のちらつく森林での大規模な戦闘からして、なかなかの出来映えである。そして、コロシアムでの対決シーンがまた凄い。剣と剣が甲高い金属音を立てながらる繰り広げられる剣闘士の接近戦を間近で撮影したショットは、すごい迫力だ。ほぼ一対一のリアルな接近戦を間近で撮ったものとして、戦場での乱闘といった一種の物量作戦で迫力を追求した、ブレイブハート的バトルシーンとは異なる迫力がある。

そうして観客も、「生もの」を使用した真のエンターテイメントを求めてコロシアムで熱狂する、血に飢えた古代ローマの民衆の一員となれるわけなのだ。バトル観戦が好きな向きは、ぜひとも劇場に出向いて観られたい作品である(けれども、それ以外の部分はボロボロ)。



おじさん臭い?
2000年6月17日(土曜日) くもり/あめ

「おじさん臭いね」

長年、わたしはそう誹謗されながら生きてきた。そしてその都度、涙を呑みながら、堪え忍んできた。

「おじさん臭いね」

そして、あるときわたしは悟りを開いた。「おじさん臭さ」も、自分を説明するために必要な記号の一つなのだと。

「おじさん臭いね」

だが、携帯電話を手にしただけで、そう言われてしまう世の中は、何かが間違っている。

「ワレ、何がおじさん臭いんじゃ ボケぇぇッ」

と、非常に丁寧な口調で尋ねてみると、その彼は心持ち怯えながら以下のような点を指摘した。

要するに、携帯をドノーマルで使っているから「おじさん臭い」らしいのだ。

ストラップは、邪魔としか思えないキャラクタなどがブラブラと付いているやつに取り替えるのが当たり前。電話が鳴ったときにまで聞かなければならない理由は全く無いが、着信音は流行りの音楽に。汚らしいだけだと感じるが、携帯には鬱陶しいぐらいプリクラを貼りまくって、ステッカーチューンをすべきだと。曰く、「携帯なんぞ電話として機能すれば、見栄えなど何でも良いだろう」という反論そのものが、もう「おじさん臭い」んだそうだ。

そういった類のことが「若いこと」の証であるとすれば、「若いこと」とは「遊び心」が旺盛なことであると解釈することができる。しかし、ここで挙げたような「若い感じがする携帯電話」あるいは「遊び心旺盛な携帯電話」は、「敢えて合理性や実用性を無視した携帯電話」と思えてならず、従って、わたしはそのようなチューニングを施す気にはならないのである。携帯電話としての実用性を重んた合理主義一本の携帯電話を持っているから、「若い携帯電話」を持っている人は、わたしのことを「おじさん臭い」と誹るのであろう。

確かに、わたしの「携帯電話に遊び心がない」ことは、歴とした事実である。しかし、それは携帯電話を使用するに際して、端末そのものに「遊び心」の必要性がないから派手なチューニングしていないだけのことであり、「わたしに遊び心がない」つまり「わたしがおじさん臭い」ことを裏付ける証拠にはならない。そういうと、それこそが、その携帯電話の所有者の気質が具現化したものではないか、と言われるかも知れない。もっともなご意見だが、このことから判断できるのは、当人が物的な合理性を重んじるか否かだけで、そのことと「遊び心」は無関係である。

なぜなら、「遊び心」と「合理性や実用性」は、必ずしも相対立する要素ではないためで、「合理的かつ実用的でありながら、遊び心も伺えるもの」は、何ら問題なく存在しうる。携帯電話の例で言えば、Fast & First で紹介されているように携帯電話の液晶をネガ表示にしたり、バックライトの色を変えたり、あるいはスケルトンボディに変えるような改造は、別段に実用性を阻害するものではなく、なおかつ見栄えもチューニングできて面白いと思うのだ(面倒だから実際にはやってないが)。「合理性や実用性」を重んじることと、「遊び心が無い」すなわち「おじさん臭い」こととは何ら関係がないのである。



眠いよ〜
2000年6月15日(木曜日) くもり/はれ

昨晩のことだ。布団に潜り込み、ようやく寝付いたかな、という瀬戸際に...

ヂリヂリヂリヂリヂリヂリヂリヂリ・・・

大音響で鳴り響く、火災報知器のとっても不快なベル音に叩き起こされる。もっとも、聞こえないような音や、心地よく寝ていられるような音色で鳴っても火災報知器として機能しないからそれで良いのだが、それにしても無用に神経を逆撫でする音だ。避難すべきか調べるため起きて外に出てみると、自分のいる建物で鳴っているのでなく、近くに建っている別のマンションからであった。ご近所中に響き渡っているらしく、ベランダから外を眺めていると、そこらじゅうの窓に明かりが灯りはじめた。

とにかく、「寝耳にベル」とはこのことだ。時計を見ると、午前2時30分。いつまでも鳴り続ける喧しいベルのお陰で一気に目が冴えてしまい、いつまで経っても鳴りやまないベルを無視して寝るわけにもいかず、消防無線でも聞くことにした。ここ横浜市中区で何かがあれば、まず 146.86MHz の救急2方面を聞いて入電を確認しよう。火災の通報であれば、次に 151.23MHz の消防3方面に周波数を変える。現場が近くなら、中署の署活系である 466.40MHz も同時にモニタしておくと、なおよろしい。

まあ、このぐらいが電波法に抵触しないギリギリの線だろうから、これ以上は詳しく書かないでおこう。そんなことをしているうちに、複数のサイレン音がどこからともなく聞こえ始めた。大したことで無くても、消防車はやたらとやってくる。マジかよ、ってぐらいやってくる。間もなく、近所の道路は消防車で埋め尽くされてしまった。こうなると、けたたましいサイレン音やチラチラと鬱陶しい赤色灯のため、とてもではないが「さあ寝ようか」という雰囲気では無くなる。うう、寝たいのに・・・

幸いなことに大した火災ではなく、事が収束したのは、午前3時過ぎであった。ようやく夢に戻ることができ、うとうとしてきたところで・・・今度は、新聞配達に起こされる。畜生、次から次へと、みんな何の恨みがあって俺の安眠を妨害するのだ? もうちょっと静かに新聞いれていけよ、クソ。と呪詛しながら寝付いた頃には、東の空は明るくなっていた。実を言うと、一昨日の晩も不審な音に起こされて寝ていないのだ。今晩こそ、何も起きなければ良いが・・・二度あることは、三度ある?



100円
2000年6月13日(火曜日) あめ

うそをつくのは、にんげんだけなんだにゃー ま、何となく。

別のものを買いに 100円ショップへ入ったら、猫の置物を発見。普段は無駄な買い物はしない方なのだが、「かわいい〜」と魔が差した瞬間、猫の姿は買い物かごの中にあった。取り敢えず写真を撮ったので適当なコメントを付けてみるも、事前審査で不評だったので、ボツ。まあ、わたしに松本人志みたいな才能はない。それは良いとして、気に入ったから会社の机に置いてある。毎朝会社に行くと、ねこねこ、なのだ。

関西人はケチだと言われるが、わたしは必ずしもそうだとは思わない。確かに、1円でも安くなるのなら、その努力は厭わないという傾向はある。そういう細々としたところでは、病的なほどケチるのだ。だが、関西の客はみんな財布の紐が堅いから商売も上がったりですわ、なんてことはない。使うと決まれば、意外とドカンと使ったりするから、長い目で見たときの出費額は、どうせ同じか、場合によっては普段からケチな言動を見せない人より多いことさえあるんじゃないかとも思う。

例えば、8万円の品と10万円の品を並べたとしよう。本意としては10万円の品に憧れるが、それはちょっと高いから8万円のやつにしておこう、というのは、ちょっと違う。気に入れば10万円の品を買うことも躊躇わないが、そこで9万円ちょいに値切って買うのが関西人のケチり方ってやつだろう。かく言うわたしもそういう金の使い方が多く、どうでも良いようなものを買いすぎるってことは余りない。アキバで何万円か散財しても、100円ショップでどうせ使わないようなものを「つい」買ったりはしない方だ。

が、それでも 100円という見事な価格設定が無駄使いを誘発することがある。同じものに 200円の値札がついていれば、下らない割に高いと感じて買わないことにするだろう。だが、それが缶ジュース一本よりも安い 100円となれば、まあいいかという気のゆるみは、いくらケチでも、あるいはケチだからこそ働く気がする。どこへ行っても 100円ショップは繁盛している。ちょっと気になるのは、みんな一回の買い物でどのぐらいの金額を使っているのだろうか、ということだ。わたしは、300円前後が多い。

ケチな大阪と、そうじゃない場所では、この平均額も変わってくるのだろうか。



日経と FreeBSD
2000年6月12日(月曜日) あめ

FreeBSD のメーリングリストである FreeBSD-users-jp で花火が上がっていると思ったら、無謀にも「現在はまだ無名のソフト」として FreeBSD を紹介した記事が、日経ITニュースに出現。Linux 全盛の時代ではあるが、流派や好き嫌いは別として、PC-Unix を少し囓ったことのある人間なら、FreeBSD の名前ぐらいは知っているものだ。FreeBSD が無名云々というより、「筆者はそんなものを聞いたことがないが」とは流石に書けなかったので、「無名」ということにして片付けた、と解釈するのが妥当だろう。

こういう記事を定期的に書いてくれる日経は、当たり前のことだが、FreeBSD のコミュニティでは非常に評判が悪く、FreeBSD に関係する記事が出ると、その余りの酷さに FreeBSD-users-jp で叩かれまくるということが定期的に発生している。もっとも、FreeBSD-users-jp の論調は、一歩間違えれば揚げ足になりかねないようなものも多く、第二当事者にありがちなやや偏った議論は、全面的に賛成できるものではない。しかし、どうして日経は、「FreeBSD-users-jp に罵られる記事」を平気で出してしまうのだろうか。

こういった齟齬を理解するには、日経は文系のメディアであるという認識を持つことが、最も重要なことだ。

例えば、件の記事をそのまま技術系の雑誌に投稿して掲載されるかと言えば、否、それはまずあり得ない。なぜならば、初めからあの記事は、物事を「動向」として理解する文系の人間に向けて書かれたものだからである。あの記事によって「FreeBSD というものが脚光を浴びている」という事柄が、事の仔細はさておき「動向」として伝われば、その使命を全うしたと言えるのだ(伝わった内容が事実かどうかは別の問題だが)。悪い言い方をすれば、文系は、「無名なものが脚光を浴びているのか」と感動できれば、何でも良いのである。

そのアプローチと真っ向から対立するのが技術屋である。技術屋が一種のスペシャリストであるとすれば、極言すれば、マクロなレベルでの「動向」を知っても仕方がない。代わりに、例え重箱の隅をつつくようなことだと罵られようとも、ミクロな点を重要視する傾向が多かれ少なかれある。FreeBSD-users-jp のような技術屋集団が、その価値観とプライドを維持したまま日経が書くような厳密性や客観性に欠ける記事を読めば、そりゃ当然「そこは違うぞ」と突っ込みを入れずにはいられなくなるだろう。こういった、文系と技術屋の発想の違いが、一種の対立を生むのだとわたしは思う。

これが三流週刊誌なら話題にする人も少ないだろうが、相手はどこか業界標準誌的な香りを漂わす日経だ。そんなところがいい加減なことを書いていてどうするということで、余計にムカツクのだろう。しかし、そこで怒ってはいけない。所詮は、日本経済といった訳の分からんものを問題にしている集団のすることだ。そんな連中に、技術屋的な視点や正しさ、あるいは価値観といったものを理解せよという方が間違いだ。

・・・と、文系の人からは石が飛んできそうな内容になってしまったが、そんなことを気にすることはない。技術屋は、結局のところは文系の下僕である。金を握っているエライさんは、いつも文系だからねぃ。



続・NIC
2000年6月10日(土曜日) くもり/小雨

散財活動のため、秋葉原へ行く。

6月8日に書いた、Ratoc のタコな NIC は放棄することにして、新しい NIC を買ってきた。Planet の FNW-3602-T、CardBus の 10baseTX、6,450円に消費税なり。全然関係ないが、またゾイドを見逃しちまった。なんだか暫く見ていないうちに、みんな大きくなってやがるから違和感バリバリだ。やや疎遠な親戚の子と数年ぶりに会うと、成長期を過ぎた後で全くの別人になっていたりすることがあるけれど、あれと同じようなことかも知れない。

買ってきた NIC を持ち帰ってドライバを入れるのだ。IPアドレスなどを設定してから再起動すると、HUB 側での速度自動認識も問題なく行われているらしい。よしよし、やっと悪夢から解放されるのだなと、胸をなで下ろしながら動作確認を行うも・・・あろうことか、動かない

水子の霊にでも取り憑かれてるんじゃないの、俺?

と、半ばマジに思ったぐらい、このときはショックだった。

しかし、宗教が技術的な問題を解決することは無い。壺とか数珠を買う前に、こういうときは DOS 窓を立ち上げて、原因を究明するのが筋である。手始めに ping を打っても、タイムアウトする。ま、当然そうだろう。次に、route print の結果を調べると、ここは正常だからネットワーク層レベルの問題でも無いらしい。HUB の LED は、ping のパケットが出るたびに点滅するから、物理層レベルの問題でも無さそうだ。arp -a で arp テーブルを覗くと、arp テーブルすら作られていないことが分かる。面倒なケースだ。

逆に、別に動いている FreeBSD マシンから ping を打ってやると、10発に1つぐらいの割合で返ってくる。しかも、(当たり前だが)このときは arp テーブルも出来ている。ということは、完全にダメというわけではなく、非常に不安定な状態にあるらしい。100Mbps full duplex が嫌なのかと考え、10Mbps half duplex に落としてみた。すると、今度は問題なく動作する。うーん、どういうことなのだろう。色々と設定を変えたりしているうちに、Windows が立ち上がりすらしなくなった。最悪。ま、治したが。

ここで、ふと BIOS の設定項目に 「PCI クロック制御」という項目があることを思い出した。Let's note CF-S21 では、これが「有効」になっていると CardBus な PCカードが正しく動かないことがあるらしいのだ。「無効」にしてあったのだが、件の Ratoc を動かそうとしていたときに、「有効」に変えていたのであった。それを思い出して「無効」に戻してみたら、100Mbps full duplex で問題なく動作するようになる。呪われていたわけではなかったらしい。



ハロー!
2000年6月9日(金曜日) あめ/強風

「強風波浪注意報」のことを、子どものときは「強風ハロー注意報」だとばかり思っていた。

英語による挨拶の一種としか解釈できない「ハロー」の何が危険なのか、それが疑問に思えて仕方がなかったのだ。そのようなとき、ガキというものは自分なりの意味を捏造し、強引に不可解なことを説明してしまうものである。そうだ、これはきっとこういうことなのだ。風の強い日は、頭のイカれ気味なアメリカ人とかがどこからともなく湧いてきて、そこら中で「ハロー」「ハロー」と連発するから、無用にビビらないよう、注意せよということなのだ。うんうん、そういうことに違いない。

しかし、誠に残念なことながら、わたしは未だかつて一度もそのような現場に遭遇していない。見てみたいものだ。



NIC
2000年6月8日(木曜日) はれ/あめ

ノートパソコンのPCカードスロットに挿してある 100baseTX な NIC の調子が芳しくない。Ratoc の REX CB-80 という CardBus の良いやつで、2年ぐらい前に 25,000円ぐらいで購入したと記憶している。当時は 100baseTX の製品というとまだ贅沢品で、特に HUB が高価であったから、家で使っていた HUB も 10baseT のものであった。しかし、PCカードは使い回しができることも考慮すれば、これからは 100Mbps という時代に 10Mbps の製品を買っても将来性がない。値は少々張るし、直ぐに必要なものでもなかったが、取り敢えず買っておくことにした。

10baseT の HUB で、こいつを 10baseT の NIC として使っている間は特に問題も無く使えていたのだが、100baseTX のスイッチング HUB が安くなってきたので購入したときに、このカードが 100Mbps では動かないことに気付いた。さて、これは HUB との相性が悪いのか、それとも他に問題があるのか? 色々と調べてみたが、結局はっきりとした原因は分からないまま HUB との相性が悪いのであろうと結論して 10baseT の NIC として使い続ける羽目となった。ところが、最近手に入れた別のメーカの 100baseTX スイッチング HUB に挿しても動かないことが判明。

詳細は割愛するが、ほかの様々な状況から考えても、HUB ではなく、NIC の不良であることは明らかだ。仕方がないので先週の土曜日、Ratoc のサポートに詳細な状況を書いたクレームを送ったのだが、未だに回答は来ていない。まだ木曜日だから、のろいサポートなら「処理中」ということも考えられるが、生憎ながらわたしは気が短いから、いつまでも待っていられないのだ。「分かりません」でも良いから何らかの反応が欲しいところだが、今週末までに返事が来ないようであれば Ratoc の製品は、二度と買わないことにするつもりである。

思い返せば、100baseTX の NIC にはロクな想い出がない。今回の Ratoc もそうだし、以前に買った Corega の NIC も完全なタコであった。どうしてこうも「ハズレ」が多いのだろう。わたしの運が悪いだけなのか、それとも誰もが経験していることなのだろうか。そういえば、最近のスイッチング HUB は、10Mbps/100Mbps 混在環境でも、「建前上」は、各ポートの通信速度を自動認識して使えることになっている。それは良いことだが、しかし、ちょっと気の利いた HUBは「全ポート手動設定可能」を売りにしているものが多い。

そのことは、「自動速度認識なんてアテにならないケースが多い」ということを、HUB のメーカが暗に認めていることの証左ではないかとも思えてしまう。こういった個々の事実を帰納的に解釈していくと、どうしても「100Mbps のネットワーク機器は、実のところ凄くいい加減なものが多い」という結論に達せざるを得ないのだ。いろいろと使ってみたが、その中では、Planet の NIC が最も良く動いている。Planet は、ISA バスの 10baseT な NIC で何度か苦い経験をしたが、100Mbps にしてから問題は起きていない。

さらに、今時 100baseTX の PCカードな NIC なんて 4,000〜5,000円で買えることが判明して、妙にムカつくが、仕方がない。結局一度もまともに使えなかった 25,000円の NIC は、諦めて放棄することにした。秋葉原で少し見ていると、意外なことに CardBus を歌った製品は非常に少ない。CardBus は、どうも流行らないのだろうか。普通のPCカードは、ISAバスをベースにした仕様である。できることなら、時代の趨勢に合わせて PCI をベースにした CardBus のものが欲しいのに。



鉢合わせ
2000年6月6日(火曜日) はれ

「うお、誰かと思えば椚座やんけー」

「ありゃー、お前こんなところで何やってんの?」

「買い物に決まってるやろ」

というような会話は、ありがちだ。

二人の人間が出会うためには、双方の人間が同じ場所へ同一の時刻に洗われなければ実現しない。日本には1億を超える数の人間がいる。集落全体が顔見知りという田舎ならまだしも、都市部においては掃いて捨てるほどの人間が縦横無尽に行き交っているのだ。ましてや、待ち合わせをしていたとしても、距離がたった数メートル違っただけで互いの存在に気付かないことすらある。であるにも関わらず、全くの偶然で、思いもよらぬ場所で、おおよそ想像もしなかった人間とばったりと出会うことがある。

こういう状況に遭遇したときに交わすべき挨拶は、「世の中、悪いことは出来んなー」と決まっていることから見ても、相当数の人間が「鉢合わせ」を経験しているものと推測される。朝の通勤時間帯に地元の駅で、近所のご主人と出会ったというのならまだ分かる。しかし、旅行先で何気なく立ち寄った百貨店をうろうろとしていたら、同じく旅行中だった別の街に住む知人と数年ぶりに出会ったことが実際にある。自分も相手も地元ではないという条件でも出会えてしまうのだから、不思議としか言えないのだ。

ところで、わたしの場合は、

「△曜日、○○にいた?」

「ん? いたけど、どうして?」

「やっぱりお前だったの。何度も呼んだんやけどねー」

「あ、ごめん。気付かんかったー」

「まあ、急いでるみたいやったから」

このように、後から証言されることの方が多い。昨日書いた通り、市街地を通行中のわたしは、前をチンタラと歩く人間が大勢いるお陰で常にイライラとしており、邪魔者を効率よく追い越すことに全神経を集中しているのだ。そのためか、声を掛けられても気付かないらしい。周囲からは、血相を変えて急いでいるように見え、どこか近寄りがたいオーラが漂っている...という理由から、「とても追えるような状況ではなかった」と言われたこともあるが。それは良いとして、後ろ姿だけを見たという人曰く、

「あの独特のファッションセンスと歩き方は、お前以外にあり得ないから」

おい待て。そりゃどういう意味だ?



混雑の原因
2000年6月5日(月曜日) くもり/はれ

2日に書いたサイホンの説明、少し間違っていたらしい。わたしの不理解により

タンクに入れた管の取水位置よりも、タンクの外に出した管の先端の方が低い位置になければ水は流れない

と書いたところ、「取水位置」じゃなくて「液面」だというご指摘を頂いた。うう、そうだっけ(汗)


仕事で新宿に出向く。久々に都内へ出かけると、ストレスだけが溜まるのだ。

どいつもこいつも俺様の前をチンタラ歩いてんじゃねー

というのが主な理由だ。気の短いわたしにとっては、自分の歩行ペースを乱す奴は全員が敵であり、すなわちバトルの対象なのである。新宿駅の階段など、人で溢れかえっている場所を通行する際には、前をチンタラ歩いているグズ野郎どもを如何にして追い越すか、ということしか頭にない。ほんの僅かでも、前方に隙間を認めたときが仕掛けるタイミングだ。すかさず身体を隙間の形状と合致するように曲げ、身体を滑らすように、つまりややドリフト気味に通過するのが、混み合った場所での基本的な通行方法である。

ノンベンダラリと歩いている奴がこうも多いのはどうしてなのだろう? オバハン3〜4人連れが、何故かその近辺で最も邪魔なところを選んで通行妨害活動を展開するのは、理屈では説明できない「定説」だから、説明の必要はないだろう。年寄りがトロトロと歩くのも、分からなくもない。で、最も排除すべきなのは、そのサンダル(あるいはブーツ)では、どう考えても普通に歩けないでしょと言いたくなる若いコギャル達である。あれがいるから、人の流れが悪くなるのだ。あれさえいなくなれば、世の中はもっと平和になるのである。なぜなら、

人がさっさと歩いて混雑が無くなる

おかげで仕事が速く片づく

時間的な余裕が増える

余った時間をレクリエーションに活用

サラリーマンのストレス減、個人消費が上昇

経済も好調

みんながハッピー

というシナリオが予想され、コギャルさえいなくなれば、世界に平和が訪れることは確実なのだ。


注:コギャル

1.ゴリラを模倣を日常的に行う若い女性。
2.スケープゴート。いけにえ。

(代用語の基礎知識)



更新報告
2000年6月4日(日曜日) くもり/はれ

実験を一発追加。液体窒素ネタである。

編纂後記...久々にググっと手応えのあるネタで、書くのに2日もかかってしまった。話自体は、どうでも良いような下らないことばかりなのだが、食後の感想は意外と大変なのだ。そこら辺にあるような食べ物じゃないから、安っぽい温泉紀行番組に出てくる三流芸人が言いそうな月並みな感想ではいけない。ボキャ貧なりに頑張った結果がこんなものである。液体窒素ネタはもう一本暖めてあるので、次回もお楽しみに。



サイホン
2000年6月2日(金曜日) くもり/はれ

弟から電話がかかってくる。

「ねえねえ、ちょっと教えて?」

うっ。すご〜〜く、嫌な予感。弟であれ、友人であれ、この調子で話を切り出す電話は、ロクでもない話ばかりである。やれ、何やらの設定が分からなくなっただの、何とかの配線が云々だの...まったく、うちは無料パーソナルサポートセンタじゃないといっているのに、当人が匙を投げた問題は、なぜだかここへ回ってくる仕組みになっている。それで、弟は特に悪びれることもなく、

「サイホンってどうやるの?」

はぁ? 一流大学の大学生がする質問じゃない。ま、教えてあげたが。

サイホン ところが、電話を切ってから、どうして右図のような仕掛けだけで水が流れてゆくのかと、ふと疑問に思った。自然な状態におかれた水は(どんな液体でも)、高いところから低いところへと流れることぐらい、経験的に知っていることである。サイホン管もその例外に無くタンクに入れた管の取水位置よりも、タンクの外に出した管の先端の方が低い位置になければ水は流れないから、道理から外れたものではない。

でも、管のある部分が液面より高い位置にあっても水は流れるから、不思議である。サイホンの原理なんて、今まで深く考えたことが無かった。上と下の関係が問題になっているのだから、重力も関わってそうだ。水が管に吸引されるのであれば、管内の圧力も一枚かんでいるだろう。さらに、圧力が関わっているのであれば大気圧にも関係がありそうだし、水が流れるってことは分子間力も無視できそうにない。

んー、圧力と重力と分子間力の不適切な関係がサイホンってところだろうか。いや、適切だからサイホンなんだけど。



多事毒論
2000年6月1日(木曜日) はれ

かなり悩んだ末、多事毒論を毎日更新することは、今月からやめることにした。これからは週に数回のペースで書くつもりだ。

随分と前から内々ではやめようと思っていたのだが、ほぼ毎日更新していた時期も含めれば、3年以上に渡って書き続けてきたコラムだ。これを毎晩書くことは、風呂に入って歯を磨くことと同じように、既に日常生活の一部となっているから、毎日書くという行為そのものを負担と感じたことは、正直なところ殆どない。しかし、悪い意味で書き慣れてしまったところがあるのだろうと思う。ネタが無い日は無理矢理ネタを作って埋めることぐらい、今となっては訳もないことだが、最近はそれが嫌になってきた。

というのも、平素は会社へ行って家に帰るだけの生活をしている身である。怒濤のごとき日々が毎日のように駆けきたる人生を送っているのならともかく、平凡な会社員の日常にあっては、日刊で特筆すべき出来事が起きることもない。従って、これといって身のあるネタが無い日は、空きを作らないことだけを専らの目的として強引に捻出されたネタで埋めているのが現状である。これを書き始めた当初のように、毎日更新によってリピータを増やすことが目的ならば、それでも構わない。

だが、今はリピータ獲得が目的ではなく、純粋に書きたいことがあるから続けているというのが本意である。にも関わらず、今に至っても一日一発という原則を守ってきた結果、深く掘り下げて書きたいネタがあるのに、ゆっくりと暖める時間が充分に無くて不本意な話になってしまうことが、これまでにも幾度と無くあった。しかも、それらが代わりに量産された穴埋めネタの谷間に埋もれてしまうようでは、本末転倒である。ここにきて、量よりも質を少し重視してみたくなったわけである。

ならば「書きたいことがある日にだけ、書きたいことを書けば良いではないか」と、結論すれば済むことで、一層のこと日記形式の多事毒論は撤廃し、単発ネタとして書こうかとも考えた。しかし、雑音の中に信号が紛れており、S/N 比が悪いからこそ良いという意見もある。何より、「毎日読んでます、これからも頑張ってください」という励ましのメッセージも数知れず貰ってきた。撤廃するとなれば、毎日ここを読んでくれている皆さんを裏切ることになるという呵責を、個人的に少し訳があって、感じる。

取るに足らない一介の人間が書いている文章を、毎日読んでくれる人がいるという事実は、正直に言って非常に嬉しいことなのだ。それに勝るとも劣らず、このコラムには個人的に様々な深い思い入れがあり、安易に止めたくないのが本音である。そんな葛藤の渦に苛まれながらも、やはり無駄と思えてきたネタ埋めだけの記事を書くことはやめることにした。未だに、「やめる」の代わりに「見合わす」という曖昧な言葉をつい書いてしまったりして、内心、自分でもまだ迷っているらしい。



突撃実験室