多事毒論(1999年3月分)



ちゃう!
1999年3月31日(水曜日) あめ

気づけばもう3月も終わりか...早いねえ、年を取ると。そのせいか、最近本当に書くネタが無かったりする。閏年が四年に一度だけ訪れる、いつもより一日多い年であるのなら、閏秒は四秒に一度だけ訪れる、いつもより数ナノ秒多い秒であるべきだ。とか、アホな屁理屈を述べても誰も喜ばないだろう。ましてや、このちゃうちゃうちゃうちゃうとちゃうんとちゃうか? なんて文字で書いても意味不明である。このチャウチャウ、チャウチャウと、ちゃうん、ちゃう? 読点を入れると意味が分かるかも。ちゃうけ?

PCは可燃物、いや、自己発火の恐れすらある危険物のようだ。なんか臭い(基板の燃えたような臭い)と思ったら、ある24時間稼働PCの電源のところに入っているファンが止まっていた。ケースには茶褐色の煙の後が付着していることから見て、何かが燃えたものと推測される。危険なのでPCを止めて電源を分解してみると、装置自体は燃えずにいたものの、ファンには煙の後が..どうやら、燃えたのは電源ではなくファンのようだ。

燃えたファンなんて、どうなっても良い。ファンは簡単にはバラせないように組み立ててあるため、ニッパーで邪魔な部品をもぎ取ってドライバで無理矢理解体。すると、中に入っているトランジスタが凄い温度になっていたらしく、周辺のベーク基板も道連れに朽ち果て、臨終していた。誰しも(?)、小さい頃にマブチモータの一つや二つは分解してみた経験はおありだろうが、PCのブラシレスファンは、小型の直流モータとはまるで構造が異なる。文字通り、ブラシや整流子は存在せず、ちょっとした回路が入っている。これが燃えたようだ。

24時間稼働のPC周辺には、燃えるものを置くべからず。うちのサーバ周りには何も置いていないので大丈夫だと思うが、燃えない保証はどこにも無い。一応、電源の中に溜まった埃は、燃える可能性もあるので時々掃除しているのだが、サーバはなるたけ止めたくないしので、ついつい溜まってしまうのが現状だ。半年ほど連続稼働したPCの電源ファンに圧縮空気をぶち込むと、埃が凄い勢いで噴霧する。ある意味、見物だよ。



電話の着信音、ほか
1999年3月30日(火曜日) くもり/あめ

携帯電話をお持ちの方は多いだろう。かく言うわたしも、最近はあまり使っていないPHSを所有しているが、登録されている着信音は概して「ダサイ」。わたしはシャープ製の端末が好きで、一番最初に加入したときに松下の端末を使った以外は、シャープ製の端末しか使っていない。しかし、シャープの電話機の欠点は、着信音のセンスが極めて悪いことなのだ。今や、メロディ着信音を使う人も多くなったりして、着信音はただ鳴れば良いというものではなくなった。好みもあるだろうが、美しく上品で、尚かつ楽しくなければならないものだ。

が、わたしが使っているドコモ(旧NTTパーソナル)の341S(シャープ製)は、デフォルトで設定されている音以外は、使い物にならないぐらい酷い。選べる着信音を擬態語で表すと、「ぴろぴろぴろぴろ」とか「ぴりっぴりっぴりっ」みないな感じで、脱力感が遺憾なく発揮されるような調子なのだ。メロディも入っているが、これも著作権の切れた古い曲しか使っておらず、やる気が感じられない。まあ、メロディ着信音はどうせ使わないからどうでも良いが、普通の音ぐらいは、センスを利かせて欲しいところ。

いくら機能の良い製品でも、操作性が良くて使いやすい製品でも、普通の人が触ってみて「ぱっと見のセンスが最悪」と思ってしまうものは色々とある。家電に関してはあまり思わないが、いわゆる情報機器と呼ばれる種の製品では顕著だと感じるところ。パソコン周辺機器も、事務所にデーンと置くだけの機械なら不格好でも構わないが、家に置くのは躊躇うようなものは多い。机の周りにあるものを見回すと、PCのケースやモニタなんか、インテリアという概念を一切考慮していない存在感を漂わせている。

PCなんてどうせ事務機器なのだから、それはそれで構わない、という意見もあろう。しかし、Appleの社長だっけ、I-MACを出してから暫くしてテレビのインタビューに出ていたのは。PCのデザインは悪すぎる、という彼の話は極めて的を射た考えだと思う。PC界のSONYを目指したいなんて言ってたっけな。確かに、SONY的な(言い意味での)宗教的製品製造理念は、PC界には欠けているものだろう。



FFTで遊ぼう
1999年3月29日(月曜日) 概ね、はれ

会社にいると、なぜかFFTの話が上がった。それもFFTを作れ、と...何じゃそりゃ?

そもそも、脳味噌の詰まっていないわたしには、FFTがどういう原理で動いているものかすら知らない。高速フーリエ変換..なんか知しらんが周波数成分が分かる..PCのサウンドカードでもそういうことができるらしい..というような断片知識は頭の中にあるのだが、それらに相互の繋がりはない。取りあえずInfoseekで引っかけてみると、サンプルソースや、アルゴリズム的なものは出てくるのだが、蕁麻疹の出そうな数式のオンパレードだったので、見るのをやめた。

もうちょっと面白いものはないか、と思って見つけたのがこれである。Waveファイルやサウンドカードの入力からの音声をFFT表示するシェアウェアだ。別にこれを「使った」だけでFFTの理屈が理解できるというわけではないが、遊ぶには十分なものだろう。マイクを繋いで自分の声を表示させてみると面白い。「あいうえお」って言ってみると、声の周波数成分が分かる..分かったからって幸せになることは全く無いが、まあ分かるのだ。

自分の声には飽きたところで、電車のVVVFな、あえぎ声を録音したものをFFTにぶち込んでみた。ほうほう、電車によって周波数成分はバラバラだが、ある電車は発車の時に1KHz近い一定の周波数が続けて出ており、少し加速したところでいきなり300Hzぐらいまで落ちる。そして、加速するにつれてほぼリニアに周波数が上がっていき、また急に低くなる。え、そんなことは一々調べなくても、電車に載ってりゃ分かるだろうって? ごもっとも。で、肝心のFFTのお勉強は、全然していないのであった。



スーツ&NHK
1999年3月28日(日曜日) くもり

この頃、よく紳士服屋からスーツのダイレクトメールが来るが、普通はこの時期に誂えるのものなんだろうか。新社会人バーゲンだか何だかしらないが、そんな格好で仕事に行くことはまず無いので、需要は無いのだ。良いこととは思わないが暑いときなんか、Tシャツ一枚だったりするもんね。真夏に暑苦しい背広を着て街を歩いている方々、頭が下がります。とは言え、フォーマルな服装が要求されることはないわけでもない。スーツと礼服ぐらいはあるものの、クリーニング屋の袋に入ったまま吊ってあるだけだ。

今日は困った訪問者が多い。まずは昼過ぎに新聞屋。契約が切れるので更新してくれと言う。そう言われて、新聞を取り始めてから早一年以上が経過していることに初めて気づく。契約更新は良いとして、新聞屋というのは贈賄の巣窟だ。更新の書類を持ってくるついでに、ポリ袋に乱雑に詰め込まれた洗濯洗剤を8箱も引っ提げてきた。前にも2箱持ってきているから、家には洗濯洗剤が10箱もあり、くれるのは有り難いが邪魔でしょうがない。もう少し使用状況を考えて欲しいところ。これだけあれば、向こう1年は間違いなく持つだろう。

次にやって来たのが、背広姿のNHKの集金員。ちょうどPCをバラしていて、それもケーブルが届かなかったりして、かなりイライラとしていた時のことだ。見えない速度で身分証明書を見せるなり、かなり強引な口調で契約をせよと言う。「まだ支払ってないですよね。じゃあ、これから契約を行いますから書類に...」と、契約の意思すら確認しないまま一方的に話を進める。あたかも「払って当然」という態度が頭に来た。低姿勢な集金員なら丁寧にお引き取り願うところだが、こういう相手だと、そうは行かない。

とっとと帰って欲しい、というか関わりたくないので「払いません」と言いながらドアを閉めようとすると、「いや、払って貰います」とか言いながら、無理にドアを開けて中に入ろうとする。一線を超えたな、コノヤロー! ドアを閉めようとする手から力を抜くと、ドアが自動的に集金員に向かって全速力で開くらしく、そうすると相手は力を抜くので、その間にドアを閉める。その後もベルを鳴らしノックを繰り返していたが、怒鳴ってやったら、やっとお帰りになった。そこまで取り立てするぐらいなら、電波法改正運動でもやった方が建設的だと思うが(笑)

前にも書いたが、NHKの存在意義は薄れてきていると思う。わたしもテレビは見るが、NHKは殆ど見ていないし、NHKの放送が無くなっても惜しいとは思わない。得意げに「世界で初めてNHKが〜」とか「NHKが新開発した〜」というような言葉を番組内で連発したがるところを見ると、技術革新に貢献しているところもあるのだろう。しかし、どうしてもNHKでなければ出来ないことばかりとは思わないし、難聴地域対策だって衛星放送が普及すれば、その意義はますます薄くなるだろう。コンテンツ勝負の pay per view との兼ね合いを考えてみても、一局だけが半ば強制的に料金徴収するのも変な話である。無くなれとまでは言わないが、NHKもそろそろ潮時ではないだろうか。



健康たばこ?
1999年3月27日(土曜日) くもり/あめ

ランドマークのショッピングモールをウロウロしていると、喫煙所の近くでチャイナ服を身に纏ったお姉さんが近づいてきた。どうも、新しいタバコの販促をやっているらしい。話を聞いてみると、「中国産の漢方薬配合タバコ」を売っているらしい。配合された薬が、ニコチンなどの有害物質を中和してくれ、喉に優しい「健康タバコ」だという。まあ買う気は無いが、話の種にサンプルを貰ってきた。

サンプルに同封されているチラシには「ライトの誘惑・健康たばこ」とか「健康を気づう方は是非一度お試し下さい」とか、怪しいことが色々と書いてある。そもそも、タバコというもの自体が「健康的」ではないのに、なかなか奇想天外な発想を引っ提げてきてくれるものだ。健康を気遣うぐらいなら、初めからタバコなど吸わなければ良いだけのこと。それでも吸うのなら、健康などそっちのけでスパスパと吸う。男たる生物、何事も筋を通さなければならない(間違っている場合もありますので、予めご了承下さい)

実物は、確かに漢方的な香りがする。ハイライトに漢方薬を混ぜたような感じの香りだ。吸ってみると軽く、普通のタバコよりは何となく甘ったるいが、漢方薬配合を強烈に主張するものが無い。胃薬みたいな「おえっ」と来る味だと面白いと思ったが、それだと売れないだろうね。



あうあう
1999年3月26日(金曜日) くもり/あめ

最近、殺菌成分入りの歯磨き粉なんてものがテレビで宣伝されている。口の中には菌が○億個! とか十分に大きい数字を挙げて置いて適当に騒ぎ立てて消費者の不安を煽り、そういう時は殺菌が効果的ですよ、っていう具合の典型的な「不安商法」である。前に原発の話で書いたが、大きな数字ってコンテキスト次第で恐ろしい洗脳効果を遺憾なく発揮する。こういうCMを見ただけで「この会社の製品は絶対に買わない事にしよう」と思うのが人情だ。

ところで、口の中に菌が存在していて、何か不都合でもあるわけだろうか。口がいつも無菌状態に保たれるぐらいなら、研究所も病院も無菌室なんて大袈裟な設備を用意する必要もなくなるだろう。実際、無菌室に出入りする物体で最もばっちいのは人間ではないかと思う。人間社会の中で人間以上に汚いものはあまりなく、逆を言えば、人間にはそれなりの免疫力が備わっているということだ。自らの免疫力すら信頼せずして、真っ当な人生など送れようか。抗菌製品なんてそろそろ世の中から末梢して頂きたいところだ。



JR運賃の不思議
1999年3月25日(木曜日) あめ/くもり

会社の用事でアキバへ。1400VAのUPSを買って、それも電車で持って帰ると疲れるらしい。

ご存じの方も多いと思うが、JRの運賃には矛盾が多い。ここ横浜の桜木町から秋葉原まで通しの切符を買うと、距離は32.8キロで540円だ。ところが、桜木町から途中の品川まで買うと、22.0キロで380円。残りの品川から秋葉原までは8.8キロで160円である。これを合計すると同じく540円となるが、途中で降りているのに同じ料金になるのは変だし、通しで乗車した場合を考えても品川からの料金の跳ね上がり方が急だ。実は、前に料金が改定されるまでは桜木町から品川は370円だった。従って、途中で降りた方がむしろ安かった頃もあったというわけだ。

このようなケースは、探せば多くある。首都圏のJRは余り詳しくないのだが、関西圏だと安くなるところを頭に叩き込んであったので、この方法で多く節約したものだ。例えば、奈良から大阪まで通しで乗ると780円である。しかし、ここでちょっと工夫し、途中の天王寺までの切符を買うと450円なのだ。そして天王寺で大阪までの切符を買うと190円。この場合でも結果的に全く同じ経路で大阪駅に到着するが、途中で降りた場合の運賃は640円だから通しで買った場合と比べれば、140円も安くなる。天王寺駅で降りたついでに缶コーヒーを買って一服しても、まだお釣りが出る。

言うまでもないが、これは不正乗車でも何でもない。時間の無いときはやってられないが、暇な時は大いに活用すべきなのだ。料金にこのような差が存在するのは、ほぼ同じ区間を併走する私鉄との競合を考えてである。前述した例で言えば、桜木町品川間には京浜急行が、奈良天王寺間は近鉄がほぼ併走して営業している。JR側は距離から普通に運賃を決めると私鉄の料金よりも大幅に高くなるため、併走区間だけに特別に安い料金を設ける。そして競合する私鉄が無くなる駅で普通の運賃を適用するので、それ以遠は急に高くなるわけだ。それにしても、一駅程度の違いで大幅に高くなるのは、どうも納得がいかないのだが。



ネタがないけど..
1999年3月24日(水曜日) はれ

最近、かつての多事毒論と比べると「毒素」が薄れてきたという意見が聞かれる。しかし、恒常的に毒を盛っておれば、いずれは免疫が出来るに至ることであろう。適度なところで毒の投与を中止して免疫力を低下させ、ある時から再び毒を盛ることは、読者の興味を一定のレベルに保つ上で必要不可欠なことである。やや飽きてきた所に強烈なネタを一発。強烈なネタに免疫が現れたところで軽い話題。多少、位相を進めながらこの波と共振することが、極めて重要なことなのである。

と、このようにネタが無いことすら強引にパラグラフにしちゃう様は、切羽詰まったこの頃の日々をよく表した例である。スーパースターでも何でもないわたしは、毎日のように新しい発見があるわけでもなく、永遠に続く日常を、ただ平凡に生きるだけの一生物に過ぎない。薄弱な日々からネタをでっち上げるだけでも楽ではないが、そこに「毒の効いたもの」という条件を付けられたら、それこそ書くことが無くなるだろう。

何年か前まで、そのような変化のない日々に嫌気がさしていたこともあった。毎日、朝になったら起き、ある時刻になれば電車に乗って学校へ行き、夜になったら家に帰って寝る。ごく当然の生活なのかも知れないが、あと何十年間と、自分が死ぬまでこんな毎日が続くのだろうと考えただけで、何とも言えない耐え難さがあった。朝になったら会社に行って夜になると帰宅する、ごく普通の生活を営む親の行動すら、とても不思議に感じられた覚えがある。

某アニメの名台詞となった「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ」って、こういう詰まらない日常から逃げては行けないよ、ってことを言っているのかも知れない。しかし、わたしは逃げばかりを選び、高校中退後にプーを経きた人間だ。しかし、もし逃げずに平凡に生きていたら今の自分はなかったらだろうし、それはそれで悪いことではないと思っている。無理してまで嫌なことをやり遂げることに、幾何の意味があるのか。努力しないわたしには、永遠に理解できないことであろう。

今でも、ミクロなレベルでは気づいていないのかも知れないが、マクロなレベルでは逃げ続けているんだろうな。でも、それは時が経なければわからないだろう。



親バカ
1999年3月23日(火曜日) はれ

万物創世記で「赤ちゃんスペシャル」みたいなことをやっていたので見たが、赤ちゃんは、何だかんだと言ってもかわいい。しかし、あんな番組にビデオを投稿する親御さんって、悪い意味ではないが、みんな親バカも甚だしい。ホームページなんかに自分の子供の写真を載せまくり、今日はネコと出会ってびっくりしただの、タンスの角で頭をぶつけて泣いただの、いわゆる

だからどうしたの系

のサイトと本質的には変わらないだろう。だって、赤の他人であるわたしが、写真入りの育児日記を見たところで何らトクすることなど無いんじゃない...と、今まで思っていた。ところが、知り合いのお宅で子供が産まれたりと色んなことがあったりして、最近、何となくその辺の気持ちが分からなくもなくなってきた次第。わたしは、ガキは決して好きではないのだが(要するにうざったい)、もし自分に初の子が出来たりすれば、嬉しくて堪えきれずに写真をベタベタと載せちゃうかなあ。

# その前に生ませる女を見つけろという突っ込みは却下。

考えてみるとわたしは長男だったりして、昔のアルバムを見てると、両親が頬を垂らしながら撮影した様子が目に浮かぶ。写真一枚一枚に書かれた、やたらこまめななコメントには、短いながらも両親のメロメロな気持ちが大変良く伝わって来るもんだ。(s54.7.20) 生まれて3ヶ月になりました! 今日はおばあちゃんの家に遊びに...はいはい、そうですか。対して弟の写真は少ない事から見ると、よほど嬉しかったんだろうねぇ。



続・Lava Lamp
1999年3月22日(月曜日) はれ

昨日の Lava Lamp 実験では、200mlのフラスコという容器に難があることが判明した。

そこで、部屋には春の日差しが燦々と照りつけるので外は暖かいのだろうと推測するも、実は外の気温は真冬並に低く、それも北風が異様に強く吹き荒れ、干していたシーツが飛ばされそうになり、凍てつく真冬の網走を彷彿させた今日、フラスコの代替となる新たな容器を求め、長く辛い旅に出た(っていうか、ちょっと寒い中、近所のスーパーへ行っただけ)

SUNTORY SODA早速、容器を探すことなど忘れて夕飯のおかずを買う。埼玉県産のほうれん草が、未だに値崩れが回復していないらしく1束50円と大変お買い得。さっと塩で茹でて醤油と胡麻油で調理し、隠し味に味の素を振りかけると一品の出来上がりなのだ。普段は高くて買う気のしないほうれん草も、この値段だと購買意欲が沸くものだ。最近、そんな理由からほうれん草ばかり食っているような気がする。

それから、肝心の容器を探すことに。調味料のワゴンセールで、普段398円のみりんが200円と大変安かったので買っておくことにするが、よく考えるとみりんの瓶は暫く空くことは無いだろう。そもそも、調味料の瓶で Lava Lamp の容器に必要とされる条件を満たすものは余りなく、Lava Lamp に使うことはできない。次に清涼飲料水売場へ...おお、これは! と、買ってきたのが、左の写真である。

サントリーのソーダ水。瓶は細長く、形的には最適であり、値段も安い。耐熱性にはちょっと疑問があるものの、極端に高温になるものではないから、まあ目を瞑っても問題はないだろう。しかし、ソーダ水の中身は、水と炭酸ガスでしかなく、そのコストなんてたかが知れているはずだ。値段の大方は、容器代と輸送費というところだろう。最近は水に毛が生えただけの清涼飲料水が流行らしく「ニア・ウオーター」などと称して多く売られているが、あの中身も水と香料だけなんじゃないかと思うと、なんか容器代と輸送費を飲んでいる気がして、あまり買う気がしないのはわたしだけだろうか。



Lava Lamp
1999年3月21日(日曜日) あめ

雨の中、昼から渋谷へ...家に帰ってから、先日示唆した Lava Lamp の実験をしたのだ。詳しくは下記のリンクを見ていただきたいが、相手はなかなか手強い。結果的に今回は不成功に終わり、近日中に復讐予定。で、実験を終え、図を書いてHTMLを書き終わると、午前3時45分。なんかもう疲れたので、更新報告だけして寝るとしよう。

というわけで、実験記事を追加



定点観測
1999年3月20日(土曜日) あめ

日曜日に、さあ、これがどう汚されていくのでしょうか。なんて書いた。

これはいわゆる定点観測ってやつだ。結果発表、これが一週間で貯まるがらくたの図である。別にヤラセでも何でもなく、一週間前のことを思いだし、物は何も動かさずに撮るとこうなった。実は、これなんかまだまだ綺麗な方で、今週は美しく保つよう、頑張ったのだ(笑) これが、月末だったりすると電気・ガスなどの検針票、それに電話三社(NTT、PHS、長距離)の請求書並びに同封されてくるチラシとか、開けて放ったらかしてある封筒とかが散らばり、見られた物ではないはずだ。しかし、湯飲みぐらいどけろよな...

ここのところ、「歳を取った」ことを示唆する予兆が多くて戸惑っている。第一の前兆として、数週間ほど前から腰が痛くなった。これは不味いってことで、毎日家に帰ってからストレッチとかしていたら、自然と治ってくれたのだが...そして、第二の前兆として、先日、10Kg入りの米を買って持って帰る途中、「重い」と感じてしまった。以前はある仕事で20Kg入りの脱脂粉乳を2袋運んだりしていたので、10Kgの米如きで重いと感じることなど無かったのだが。

もうジジィなんだ...



うう
1999年3月19日(金曜日) あめ

家に帰ってメシを食うと、突如、眠気に襲われる。無理に起きている理由も無い少し横になったら、テレビと電灯つけっぱなしで寝てしまい、喉が渇いて起きたのが午前2時半。どうもメシを食って直ぐに寝るのは胃に良くないらしく、胃が重いのだ。しかし、以前はこういう睡眠の取り方を規則的にやっていたこともある。家に帰って直ぐか夕飯を食ってから直ぐに寝て日付が変わる頃に起き、また午前3時か4時に寝て朝になったら起きるというパターンの生活だ。

これはこれで悪くない。何故か夜よりも深夜の方が仕事が効率的に進むというセオリー(?) もあり、こういう寝方をしたほうが深夜に時間が多く取れるので時間が有効に使える「気がする」のである。本当に有効なのかと聞かれると自信を持ってハイとは言えないのだが、深夜の方がインターネットが早くなったりして、あくまで気持ち的に良かったりする。しかし、問題がないわけでもなく、次の日は昼飯を食った後に異様な眠気で午後の仕事が進まなくなるという弊害もあったりする。

ネコのように、寝たいときに寝て必要な時に起きるという身体になりたいものだ。ネコは暇な時は寝ていて、起きるときは伸びをするだけで復活するからね。ネコが起きるときに必ず行う豪快な「伸び」、これは、身体を急速にワームアップさせてスパッと目を覚ますためには、非常に重要なことらしい。

話は変わって、今年は源泉徴収票が3枚...定職に就いたのに、プーの時と変わらない(笑) 本業と、前の仕事の給与所得と、翻訳などの報酬と。ちゃんと計算していないのだが、足りない分と報酬の一割天引きが相殺し、トータルの収入額と源泉徴収税額は、まあ良い線を行ってるようだ。面倒だから確定申告はしていない。親の方は、わたしが扶養家族から抜けたので大変だったらしい。年末調整でがっぽり持って行かれたとか。



だんごだんご
1999年3月18日(木曜日) はれ

本年2月16日の多事毒論において、以下のようなことを書いた。

> もし全開になっていればそれ以上へ回ることはないが、もしかすると
> その人は「最初は堅いのかな」と思って、力一杯回してバルブを破壊
> しかねないから、危険である。

何かおかしいと思わないかい? 普通、右へ回すとバルブは「閉まる」のだ。従って、バルブを開ける時は「左」へ回すのが正しい。しかし、何故こんな間違いに気づかなかったのだろう...バルブなどを回す時、どの方向へ回すべきかなど身体で覚えているので、いちいち右とか左とか意識することは少ないからかも知れない。今日、酸素ボンベを扱う業者にお勤めの方からご指摘を頂いてやっと気づいた次第(苦笑)

最近、「だんご三兄弟」っていうのが何か知らないが流行らしい。それは別に構わないのだが、街を歩いていると必ずどこかの店で流れていたりするのでちょっと気持ち悪いものがあるのだ。どうも洗脳効果を孕んでいるらしく、家に帰っても脳が勝手に「だんごだんご」と繰り返し再生しやがる。ちょっと、やめてほしい。まあ、こういうのも流行が終われば、あれは一体何だったのだろう、という激しい虚無感におそわれる物という気がする。たまごっちもそうであったように、消える時も直ぐだろう。

ところで、ああいう歌を専門とする「歌のおにいさん」と「歌のおねえさん」たち。わたしも小さい頃はNHKのそういう人たちが出てくる幼児向け番組を見ながら育った人間だが、無垢で一点の汚れすら感じられない健康的なオーラを漂わす者のみが「歌のお○○さん」という聖職に就く権利を有することは昔から変わらないようだ。如何にも悪そうな人間や、ガリヤセとかデブとか根暗は出てこない。かといって、控え室に隠れた瞬間、テーブルに足を投げ出して大あくびをし、くわえ煙草で下品な雑誌を読んだりしていないと言い切れる根拠もないね(笑)

しかし、あの職業が続くのも若い間だけだろう。暫くすると番組の人事異動で居なくなる「おにいさん」や「おねえさん」、みんなあの後は何をしてメシを食うのだろう。



更新報告
1999年3月17日(水曜日) はれ

今日はこちらに小ネタを追加。厳密に言えば掃き溜め写真館ネタだったかも...

愛用の急須が割れてしまった(つまり、割ったのではない)。まだ半年も使っていないのだが、陶器ではなく、耐熱ガラス製のものである。割と頑丈そうな格好をしているのだが、茶葉を変えようとして蓋を開けただけで、豪快にヒビが入ってしまった。落としたとかならまだ諦めがつくが、いつもと変わらない扱いなのに、納得がいかないのだ。

ビーカーも耐熱ガラスで出来ているが、あれも少しでも欠けると全体に巨大なヒビが入ってしまい、割れることが多い。それと同じ様なことが起きたのだと思うが、耐熱ガラスの宿命なのだろうか? もっとも、この急須はビーカーのような薄っぺらいガラスではないのだが...



世界に繋がる、それ即ち..
1999年3月16日(火曜日) はれ

インターネットは世界に繋がるらしい。
だが世界に繋がる、それ即ち自分も世界から繋げられるということ。

自分から相手が見えるということは、相手からも自分が見えている。人間と人間が直接会って会話をしている場合には、このようなことは一々考えなくても当たり前のことだが、ネットワークという抽象的な媒体においては、そのようなことを意識することは少ないように思う。しかし、ネットワークにおいてもまた然り。例えば、自分のパソコンからどこかのWEBサーバに置いてあるデータを見たとする。それは多くの場合、自分から相手だけが見えるのではなく、相手からも自分が見えるものと考えて間違いは無い。

このようなことは、インターネットにおけるセキュリティを考える上では欠かせないことである。IPの世界はサーバもダイアルアップ接続されたパソコンも、全て平等な「ホスト」であり、そのホストがどのような仕事を担っているか、というようことに基づいた差別は存在しない。従って、セキュリティは、専用線で常時接続されているサーバのみで考えれば良いことではなく、インターネットに接続されている全てのホストにおいて重要なことだと言える。もっとも、どこかの著名なサーバに比べればあなたのパソコンが攻撃される確率は極めて低いが、原理的には攻撃されうる立場にある。

中には、マイクロソフトのようにこのようなことをする極悪な企業もある。パソコン内部の情報を、インターネットなどを通じて勝手に送信するようなコードをOSやアプリに仕組んでおけば、知らぬうちに誰がどんな組み合わせのアプリを使っているかというような市場調査や、誰が違法コピーをしているかというような調査までできてしまう。だが、こんなことは別に驚くことでも何でもなく、「自分から相手が見えるということは相手からも自分が見える」のなら原理的に可能なことであり、MSを筆頭に、そういうことをする企業があったとしても何ら不思議は無い。

いまご覧のサーバ、www.exp.org は常時インターネットに接続されており、言い換えれば常に攻撃される危険性に晒されている。実は攻撃を試みたものと推測される形跡がログに残っていたりすることは時々あるのだが、以前にSMTP中継に使われたことを除けば(対策済み)、成功に至ったケースは無いようだ。こんなへっぽこサーバだから大丈夫だろうと高を括るのは間違い、へっぽこサーバこそセキュリティが甘く設定されていたりして攻撃に成功する可能性が高いので、その対象となりやすいらしい。

ところで、そんなへっぽこサーバに置いてある突撃実験室は、本日午前にアクセスカウンタが10万を超えました。ご多忙中、多くの皆様に頂いているようでありがとうございます。今後とも本サイトを宜しくお願いいたします。



うむ〜
1999年3月15日(月曜日) 嵐?

風でガタガタと鳴る窓には雨粒がたたき付けられてパチパチと響く鬱陶しい夜。それだけで無気力感が溢れ出し、食事でさえ億劫に感じられるダメなわたし。今日の天気が悪いのは、昨日部屋を掃除したためであろうか。普段は汚い所を急に美しくすると天変地異を招くという伝説とは、まさにこのことを言っているのかも知れない。会社の机も掃除すると気持ち悪いとか言われてしまうし。自称、几帳面。一生の不覚なり。

先日、電車に乗っていたらムチャムチャ可愛い女性が乗ってきた。そこにだけ、特殊なオーラが漂っているものだから見落とすことはあり得ない。
(で、こういうことを書くとまた「ロリコンだぁ!」なんて言われてしまうのだが)一瞥したところでは、彼女は14歳(誤差測定限界以下)の眼差しを呈していた。しかし、わたしの目を誤魔化すことはできない。再判定の結果、彼女の実年齢は自分と同い年か少し下。つまり18歳(誤差±5%)と見た。女性は14歳を辺り過ぎると顕著に顔が大人びるのはご周知のことであろう。ここまでの美しいな童顔は、億に一つあるかないかの原石である。

というような微笑ましい光景を楽しんでいられたのも束の間、間もなくわたしは彼女を見失ってしまう。そんな話を仕事先ですると、「なんで捕まえないの」「せめて声ぐらいかけないと」「そんなのだから、いつまで経っても彼女できないのよ」という、厳しいご意見多数。キビシイネ。いきなり見ず知らずの女性に声なんてかけられるものなのでしょうか? その辺の諸問題が片づいたと仮定しても、小渕総理さながらのボキャ貧で言葉が思いつかないという悲しい現実はどうすればいいのでしょうか。

しかし、そういった問題は一向に解決せず、「所詮は高嶺の花」と諦め、そのような不条理な合理化により現実から逃避する自分を「一生ダメな奴」と決めつけて自暴自棄に陥る。そんな自己嫌悪と自己卑下の堂々巡りを、世間では一般的に「人生」と呼んでいるらしい(著しく間違った認識である可能性もありますので、予めご了承下さい)。



お掃除なのだ
1999年3月14日(日曜日) はれ

平日は何かと忙しいので、お掃除は日曜の晩にやるのが習慣となっている。夕方ぐらいから一週間分の塵や埃を除去し、散らかっている物を整理整頓し、新聞を纏め、途中で夕飯を食ったり、メールの返事を書いたり、お茶を飲んだりし、ダラダラとやっているうちに夜中になる。そして日曜日に部屋の構成が最適化されると水曜日ぐらいまではそこそこ美しく保たれているようなのだが、木曜日か金曜日ぐらいになると机の天板が何色だったかも分からなくなり、次の週末には足の踏み場がなくなるという始末。

面白いのが、部屋を整理すると音の反響が明らかに多くなることなのだ。わたしは人の三倍は強くキーを叩く方なので、いつもキーボードをバチバチと鳴らしているのだが、部屋が綺麗といつもと違って顕著に響く。音を吸収する物が減るからであろうが、ちょっと整理するのとしないのとではかなり変わる物だ。人間はこの「反響」に大して割と敏感らしく、以前に家具の配置を変えたときも音の響き方が変わったことに直ぐ気づいた。無響室というのか、音が全く反射しない部屋に入ると気持ち悪くなるそうだが、一度体験してみたいと思う。

さあ、これがどう汚されていくのでしょうか。



うひゃ
1999年3月13日(土曜日) くもり

久々に、実験ネタを追加。

上記リンクの写真に何気なく写っているものは何だろう? 中世ヨーロッパの美術品や建造物が好きな母親は、NHK辺りでやっている特集を見ながら「お城は良いね」というようなことを言っていたが、わたしは、品性の無さを漂わす、あのゴテゴテとした高級感は好きではない。お城は一つあると便利な道具であるが、買うなら配偶者のいないうちでないと離婚問題に発展するかもしれない。悲しいかな、あなたは永遠に独身なんだから関係ないでしょと言うご意見多数...

テクトロニクスのTDS-220、100MHz、1GS/s という調子で、デジタルオシロとしては比較的安価に感じたので、つい(要するに馬鹿)。使ってみたところでは機能的、性能的に大きな不満は感じないが、徹底的なコストダウンの痕跡が見られ、スイッチやつまみ類はできるだけ省略されていて不便なところもある。スイッチで操作できないものは液晶画面中でソフト的に操作できるのだが、過剰なデジタル化の害というものか。これが案外面倒なのだ。



静電気
1999年3月12日(金曜日) くもり

空気が乾燥すると、静電気という実に鬱陶しいものが発生する。何かを触る度にバチッと感電し、激しいときは指先から青い火花が散るときもある。しかし、人によって「静電容量」は異なるようだ。わたしは余り帯電しない方なのだが、会社で「ぴかちゅう」呼ばれている方は、事ある毎に放電されている。ぴかちゅうが単独で感電するのなら良いが、間違ってその人の身体に触れると自分にも被害が及ぶため、ちょっと危険なのだ。

なぜ静電気が溜まるかということについての詳しい説明はこちらが詳しいので省略するが、同じ環境に居てもバチバチと派手にスパークさせている人と、そうでない人がいる。この違いは、貯まった電気量の違いに他ならない。端から電気は貯めないことが理想的だが、空気が乾燥していると空気に自然放電することが難しくなり、また一般的なゴム底の靴を履いていると、ゴムは絶縁抵抗が高いので足下からも逃げることができないので、そう言うわけにも行かない。

そこで、電気の逃げ道を作ってやると良いのだ。人間を地球に繋いでおくと、貯まった電気は地球へと逃げてくれるので静電気が貯まることはほぼなくなるが、まさか一日中、人間を電線でアースに繋ぐ訳にもいかないだろう。その対策として、人体と地面の間の電気抵抗を比較的低くした靴もある。そういうものを履けば、電気は急激に放電する前にそこから逃げてくれるので、バチッと来ることも無くなるらしい。もっと、こういうのは静電気を発生させると大事故に繋がる工場などで使われるもののようだが。

わたしは職業柄、基板むき出しの電子機器を扱う事が多いので、静電気は困った存在なのだ。基板に触った瞬間、指先と部品の足の間で放電が...なんて事があると、壊れるかもしれないのでヒヤっとする。実はそういう経験は一度や二度では無いのだが、意外と丈夫にできているようで、壊した経験は無い。電子工作の入門書を読むと口を揃えてC-MOS素子は静電気に弱いとか書いてあるのだが、そう神経質になるほどのことでも無いようだ。



ババ
1999年3月11日(木曜日) くもり/あめ

人間が一生に生産するうんこの量は、5トンを超える。

とかいきなり書いたりすると、

色々な突っ込みはあろうが、改めて書いてみると結構な量だ。

算出根拠はこうである。平均的な日本人の大便一回の排泄量は200グラム程度だそうで、これが毎日出てくるとすると、平均的な日本人の寿命80年掛ける365日で総量が導かれる。200 * 80 * 365 = 5,840,000g という結果になったわけだ。ちなみに、健康な大便の約8割が水分であるらしい。残りの固形成分は消化しきれなかった食物繊維、それと大腸にを居住地とする菌の死骸だとか。菌は微少なものだが、塵も積もれば何とやら。結構な量である。

ところで、大便の事を「ババ」と呼ぶのは関西人だけなのだろうか?

「まっちゃん、どこ行ったか知らんか?」
「便所行く言うて出ていったけど、それにしては長いな...」
「ババでもしてんねやろ。」
という会話はよくあるが、関東人に「ババ」は通じなかった。



睡眠
1999年3月10日(水曜日) くもり

給料日。しかし先月は忙しかったりして生活費以外の支出が殆ど無かったので、単に貯金が増えただけかねぇ。

今日は何となく久々に早く帰宅する。納期仕事っていうのは納期が迫ると遅くまで会社に居たりすることがあるのでして。しかし、連日深夜まで仕事をすると言われる計算機業界の皆様、よく身体が持つものと関心するばかりである。わたしは体の造りが甘いのか、徹夜や寝不足は直ぐに響いてしまう方なのだ。10時間は寝ないとすっきりしないこの体質、改善できるものならそうしたい。6時間も寝れば十分という人もいるが、そういう人はわたしよりも4時間、多くの時間が使えるのだからうらやましい。

一つは、わたしがぐっすり寝ていないのが原因なのであろう。同じ量の睡眠を取るのでも、密度が違えば必要な時間が変わってくる。要はこの密度をどう濃くするかであり、実は色々と試してみたこともあるのだが、どれも効果は無かった。また、あまり疲れていない日は「眠いから寝る」のではなく、「直ぐに寝なくても良いが、そういう時間だから寝る」ことが多い。これもまた、熟睡していない原因である気がする。

それに、思えばいくら疲れている日でも布団に潜ってから無意識のうちに色々と考え事をしていることが多い。明日の毒論ネタは何々を書こうかなとか、今日書いたコードはもっとスマートになるはずだとか、今日は誰々に悪いことしちゃったなとか。そうやって酷いときは一時間以上も考え事をしているうちに意識がなくなって寝るという調子なのだ。一日の行いを寝る前に整理することも重要かもしれないが、はっきり言って、とっとと寝たい。

わたしの弟は便利にできていて、毎日決まった時間に眠たくなり、瞬時に寝付けるそうである。夜になるとソファでテレビを見ているうちに寝てしまうこともあり、あるいは便所で座ったまま(つまり大の方)寝ているのを発見したこともあるし、歯ブラシを口に入れたまま寝ているのを発見したこともあるし、風呂で寝ているのを発見したこともある。そして、そうなると多少ぶっ叩いても起きないのだ。発見次第、邪魔なので強引に起こして布団へと移動させるのだが、朝になると何事もなかったように置きだし、昨晩の事は何も覚えていないという始末。

便所や風呂では寝たくないが、非常にうらやましい。



所沢ダイオキシン騒動から考える原子力発電所(後編)
1999年3月9日(火曜日) あめぇ

(昨日からの続き)

民衆が「それらしい数値」に踊らされる性質のものだとすれば、所沢の農協が農産物のダイオキシン調査結果を「数字だけが一人歩し、混乱を招く可能性がある」ことを理由に非公開としていたことは、極めて的を射た判断だと言える。マスコミには「持っている情報は隈無く公開するべきだ」と糾弾されていたが、ニュースステーションが数値を公開したことで、農協の予想通りに「混乱」は発生した。ならば、農協が素直に検査結果を公開していた場合でも、同じような事態になっていたことは十分に考えられ、農協の実際の意図はともあれ、農協の主張が単に「役所が資料を非公開にするための愚にも付かない言い訳」のみとして片づけられるものでは無い。

ここでわたしが言いたいのは、検査結果などの数値を、無用な混乱を避けるため非公開とするべきだるということではない。原則から言えば、そのような調査結果を非公開とすることはあってはならないことである。しかし、先ず問わなければならないのは、ともすれば不本意であるかも知れない検査結果を、冷静に受け入れられる能力が民衆に備わっているか、という点であろう。だが残念ながら、所沢ダイオキシン騒動の結果を鑑みれば、そのような冷静さがあるようには、わたしには見えない。様々な資料の情報公開制度が叫ばれる中で、公開される側に、公開された資料を冷静に分析する能力がなければ、「混乱を招く」という役所の非公開理由を突っぱね返すことすらできないように思う。

原子力発電所についても、所沢ダイオキシン騒動と同じような構図がある。原発に対する民衆の不信感(つまりは閉塞感)は、故動燃の体質など運営側の不透明さや、放射性物質という何となく危険な香りの漂う物体が関わっていることによるものが大きいと思う。詳しいことは所沢ダイオキシン騒動を事例に書いたので割愛するが、原発が危険だとする議論の多くは、言葉に対する先入観や何かの測定数値、あるいはお得意の諸外国の事例といったものを挙げて不安な人々の心を捕らえる宗教的なものであり、根拠の曖昧なものであるように感じられる。

そういった事情を踏まえて、もし原発の運営を透明にすべく全てがガラス張りになればどういう事態になるか、ということも考えなければならないだろう。例えば周辺環境の調査資料が公開されたとすれば、色んな測定値が出て来ると思う。しかし、いきなり「○○ベクレル/平方メートル」とか、そういった感じの非日常的な単位が出てくれば、その意味を知らない人間は、情報操作的な議論をする者の格好の餌食となるだろう。同じ数値でも、コンテクスト次第でどうにで情報操作ができる。例えば、人間が普通に食べている食品中にはカリウム40という放射性同位元素が含まれているが、

A  いま食品が危ない!! 干し椎茸から700ベクレル/Kg検出!

B  干し椎茸のカリウム40放射能量は700ベクレル/Kgである。

と、例え同じ事を書くのでも、Aのような余分なコンテクストを含めて書けば、誰でも「えっ」と思のが当然だ。Bは事実を書いただけで、数値をどう見るかは読者自身の判断によるが、Aを見たとき程ビビることは無いだろう。また、「放射能」とか「被曝」といった言葉を聞いただけでも背筋ゾーとする人も案外多くいるようだ。しかし、情報操作というか心理操作というか、その類のものは、冷静に考えればアホ臭いところを突いたに過ぎない方法で来る。例えば危険な食品を挙げた文献なら、干し椎茸に含まれるカリウム40を過大に書き立てて如何に危険であるかを強調するかも知れないが、わたしは干し椎茸を食ってるが一向に死ぬ気配はないし、上記の数字が発表されたのは15年以上も前のことだが、干し椎茸が販売禁止になったという話も知らない。

ましてや「原子力発電所からは絶えず放射性物質が放出されている」なんて話に変なコンテクストが付けば、パニックになりそうである。どこの誰が言い出したのか、「原子力発電所から放射性物質が漏れ出すことはない」「あるとすれば事故」なんて話は事実ではない。無用な不安感を煽ることを考慮してなのか、「安全なレベルではありますが、原子力発電所からは放射性物質が放出されています」とマスコミなどで明言した話は、寡聞にして知らないが、実際のところ、原子力発電所からはクリプトンやキセノンなどの希ガスや、ヨウ素の放射性同位元素が(密かに、ではないのだけど)大気中に放出されている。勿論、ある程度まで放射能を弱めてからだが。

こういったことに限らず、{ 摂取量 | 被曝量 | その他 }がゼロに成り得ないもの(ほぼ全てのものがそうだが)は、どこまで妥協できるのか、という姿勢で見ることが大切だと思う。被曝はできる限り避けたいし、ダイオキシンもできる限り体内には入れたくないものだが、どうしても微量に摂取する宿命に人間はあるのだから、ゼロでないとヤダなんて我が儘な考えでは何事も解決しない。また、詰まらない議論を聞いて怖がっていても永遠に事態が解決する事はない。極端な言い方をすれば、「ちょっとは汚染されているけど死ぬほどではないし」という姿勢が、無くすことのできない毒物との正しい付き合い方ではないだろうか。



所沢ダイオキシン騒動から考える原子力発電所(前編)
1999年3月8日(月曜日) くもり

日本の原子力発電所については多方面で論議が聞かれ、賛否の線引きも難しいように思う。また同時に、多くの議論は非常に偏ったものだったり、利権絡みの救いようの無いものだったり、あるいは原発については素人のわたしでさえ笑ってしまうぐらい不正確なものだったりし、あまっさえ日本人特有と言える付和雷同精神が、低レベルな議論に尚更の拍車を掛けているように思う。もっとも、何事も科学的に根拠があって論理的な筋道さえが通っていれば良いというものでも無いが、前述したような種の議論は建設的とは言い難い。

少し前に騒動となった所沢ダイオキシン問題と、前述したような原発議論の低質さを同種の問題として考えると、極めて多くの類似点があると思うのはわたしだけだろうか。ダイオキシン問題の魂胆は産業廃棄物という厄介者にあると言えるが、同じように原発も放射性廃棄物という厄介者を生む。また、産廃が排出される限り産廃処理施設は無くせないし、日本のエネルギー事情を鑑みれば原発も同様に無くすことのできない施設と言える。産廃処理施設が嫌われている原因はダイオキシンという事実上不可視の毒物を発生させる原因となっているからだが、原発が不可視の放射線を生むことで恐れられている点もよく似ている。

そういった特徴を持つ産廃や原発の絡む騒動が一筋縄で解決されないのは、両者ともに共通の閉塞感を生む要因が幾つかあるからだと思う。例えば、本意としては欲しくないが、無ければ困る。じゃあどう妥協すべきか、という議論で答えが一向に出てこない[*1] ことによる閉塞感。あるいは、役所などの機関が、施設や環境の安全性などに関する具体的な資料を出さなかったり、事実隠蔽をすることが招く不安感と、それに伴う閉塞感。そのような不安要因が重なり合うと、ちょうど不況の間は閉塞感からの脱却を目的とする新興宗教が繁盛する法則と同様に、宗教的な議論が多数出てきて賛同する者が多数になり、例えばダイオキシン問題と絡んで野菜の価格が暴落するような事があっても不思議ではない。

[*1] 「一向に出てこない」という言い方は他力本願主義的だが、
    ここでは自分で出そうにも出せない意味も含めての「出てこない」。

しかし、だからこそ、極端な話そのような議論は軽く聞き流すべきだと考える。傾向から言えば、何かの解決しがたい問題が浮上したときに発生する議論には、冷静になって考えるとかなり怪しい物も多い。ダイオキシン問題においては農協が具体的数値を出さず、そのため民衆が不安感を抱く中で、テレビ朝日が数字を挙げた。その結果、野菜の価格が暴落することになり、テレビ朝日が出した数字の信憑性、あるいは発表方法が問題となる。しかし、ここでは数字の真偽は大して重要な事ではない。これは殆ど取り上げられなかったように思うが、不安感を抱く人間に「それらしい数値」を提示すれば、多少の正確性は欠いても飛びつくのは当然の結果であり、「それらしい数値」は情報操作の常套手段である。

結局、これについてテレビ朝日の善悪を問うことは本質ではなく、罪に問われるべきなのは詰まらない情報操作[*2]に乗せられた民衆に他ならない。情報操作を行う方が悪いと言えばそれまでの話だが、恣意的な情報に踊らされ、野菜は怖くて食えなくなり、農家が存続の危機に立たされるなど、結果的にアホを見るのは踊される側なのだ。テレビ朝日の肩を持つわけではないが、最も大きな実害を被った農家は、テレビ朝日をスケープゴートに祭り上げたに過ぎない。それで万事解決と思いきや、民衆が自ら改善しない限りは、同じようなことはいつでも起こり得ることである。マスコミが情報操作の元となるのなら、数字に踊らされない自戒が必要だと思う。

[*2] この現象を情報操作と言えるかどうかは別として、ここではそう呼ぶことにする。



Pentium
1999年3月7日(日曜日) あめ

インテルCPUの商標として知られる Pentium という名称は、AMDやCyrixなどの互換CPUメーカーを封じ込む対策と聞いたことがある。従来の 80386 とか 80486 というような数字だけの型番だと、商標として認められないので他社が同じ型番で製品を出しても文句は言えない。そこで、法則から言えば 80486 の次に来る 80586 という型番は敢えて使わず、5の接頭語である penta + ium で Pentium にしたとかしないとか。

Pentium 登場からしばしの時が経ち、後続品として Pentium II とか Pentium III なんてものが出てきている。しかし、命名法則から言えば、それぞれ Hexium とか Heptium というような名称になっても良いと単純に思っていた。Pentium という名称が定着し、枝分かれとして Celeron とか Xeon(これは別シリーズではなく Pentium II の親分だっけ?)などが出てきたところから、Octium (8) とか、強いては Dodecium (12) とか、Eicosium (20) なんてものには期待できないね。

更新報告;

コシヒカリ特集2を追加(写真多数激重注意)
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お風呂洗剤、その後
1999年3月6日(土曜日) はれ

先日「春になると、何故かお風呂洗剤の臭いがする」というような話を書いたが、わたしだけの思い込みではなかったらしい。人々は口を揃えて「お風呂洗剤かどうかは知らないが」と付け加えるが、「確かに甘い香りはする」とのこと。そんなところに、ある方から「それは沈丁花ではないか」という情報を頂いた。沈丁花、名前は知っているが、「これが沈丁花だ」と意識して実体を見たことはない。

多分、家の近所にも生えていると思うが、その方のアドバイスに従い、デジカメを持って神奈川県立音楽堂の周辺へお散歩に出かけた。寒い間は、どうしてもという用事が無い限りは出かける気も起こらないので、久々の無用事外出である。音楽堂の裏側にある塀の脇に、問題の沈丁花は植えられていた。確かにお風呂洗剤の臭い。疑うのなら、「ルックお風呂の洗剤」を嗅げば、その類似点が分かることであろう。

とういわけで、掃き溜め写真館を更新(一部捏造)。



陰毛
1999年3月5日(金曜日) はれ/くもり/にわか雨

チ○毛はなぜ一定の長さを保っていられるのだろう? それなのに、頭髪はなぜいくらでも延びるのだろう? そんな疑問は割と簡単に解ける。毛は一定の速度で伸び、一定の期間を過ぎると抜け落ちる。その二点の数字さえ分かっていれば、どのぐらいの長さ以下に保たれるか分かる。チ○毛の延びる速さは1日に200μm程度で、1年程度で抜け落ちるらしい。すると計算上、チ○毛は73mm以上には伸び得ないということになる。わたしの場合、その辺に落ちているものを拾って長さを測ってみると、60mm程度のものが多い。短い方なのかも。

じゃ、頭髪は? 頭髪も、抜けるからには一定の長さに保たれても良いはずである。頭髪は1日に350〜400μmほど伸びるそうだ。寿命は、男性の場合で3〜5年程度で、女性の場合はもう少し長いらしい。男性の最大値で計算すると、73cmしか伸びない計算になる(でも、もっとメートルオーダーで伸ばしてる女を見たことはあるんだけど)。頭髪がいくらでも伸びるように思うのは長さが飽和するまでに切るからだろう。たとえばわたしの場合、最長で40cmぐらいまでしか伸ばしたことがない(それでも肩より下まで届くけど)。

世の中には、永久脱毛をする人がいる。業界用語では「エピ」と呼ぶそうだが、主な方法には毛根に電波を放射して焼き切ったり、レーザーを当てて毛根を焼き切るものがあるそうだ。後者はどうだか知らないが、個人的な意見だが、前者は何となく危険な気がするのでやめておいた方が良いように思う。わたしのところにも新聞と一緒に「無料でやります」みたいな広告が時々入っているのだが、別に自然に生えているくるものぐらい、生やしておけばいいんじゃないの? 自然に生えてる毛って、そんなに見苦しいのかな。



妖精
1999年3月4日(木曜日) はれ

世界には色々な妖精が住んでいる。それは、わたしの自宅とて例外ではない。

朝。人が気持ちよく寝ている最中、眠りの快楽を容赦なく叩き壊す悪魔とは、他ならぬ目覚まし時計のことである。毎朝のように起きるそのような事態を見かねた妖精は、気を利かせてくれているようで、朝になると部屋の音を全て消し去る魔法を唱えてくれるようなのだ。わたしは寝ているのでその現場を目撃したことは無いのだが、目覚まし時計のスイッチが入ったまま、時には夕方まででも寝ていられる事実を理論的に説明する説としては、これ以外に考えられない。

わたしの目覚まし時計は一旦アラームを止めても数分でまた鳴り出すタイプを使っており、これは目覚ましのスイッチを切らない限りは1時間ほど続く。それも2つの目覚まし時計では事足りず、テレビも朝になると大音量で鳴るように、タイマーを設定しているのだ。それでいて起きず、スイッチが入ったまま寝ていられるのは、繰り返しになるが妖精の仕業としか考えられない。そこで、妖精の親切心を裏切るようで悪いのだが、新しい目覚まし時計を買ってきた。

何となく時計屋に立ち寄ってみると、訳の分からない安物の時計が税込み1000円で売られていた。妖精のパワーが及ばないぐらいの、なるたけ強烈な音で鳴る物が理想的だが、サンプルの時計を鳴らしてみると、これがまた激しいは何の。高級品でも、気持ちの良い目覚めを基本理念として人間工学重視で設計された、爽やかな電子音が徐々に大きくなるような物は失格である。人間工学無視など言うに及ばず、予告もなく生のベルが猛烈に鳴るような時計でなければ、家に住み着く妖精には勝てないのだ。



和訳
1999年3月3日(水曜日) はれ

和訳するとダメになるものランキング! (音楽業界編)




お風呂洗剤と春
1999年3月2日(火曜日) はれ

弥生と言えばもう春の季語である。今日は天気が良くて暖かく、春を思わせるような一日であった。暫く寒い日が続き、久々に暖かい日が来ると心が和むというもの。さて、今日はネタが無くて季節の話題で埋めている訳ではない。今日のような、初めて春を感じさせるような日について、昔から一つの大きな疑問があるのだ。

それは、どういう訳か空気が
お風呂洗剤 のような香りがすること。

何故だろう、毎年の事なのだが三月の暖かい日に外へ出れば、お風呂洗剤の仄かな香りが鼻に入るのだ。以前は、天気が良いので近所の人がたまたま車でも洗っているのだろうと思っていた。その時にお風呂洗剤のような香りのする洗剤を使っているとすれば、簡単に説明がつく。しかし、この現象は大阪、横浜、神戸、香川などを始め、全国で確認していることだ。日本中の人間が平日の昼間から一斉に車を洗うとは考えにくいし、他に理由があるはずだ。

あるいは、花の香りであることも考えられる。暖かい日に日本中に生えている何かの花が一斉に開花すれば、空気がその臭いで充満しても不思議ではないことだ。洗剤の香りは自然に存在する何らかの香りを真似たものなのだから、花の香りを洗剤と間違えることもあり得ること。ところが、わたしの家の近所でも香りは確認できるが、花が生えている場所はない。花屋とか、近所の人が花を植えていることもあるかも知れないが、それだけで香りが充満するとは思えない。

結局わたしには何だか分からない。もしかすると、わたしの鼻が狂っていて、本当は存在しない分子を嗅ぎ取っているのかも知れないし、あるいは多くの方が同じ事を思っているかも知れない。

そのような香りを嗅ぎ取られた方、お風呂洗剤臭の正体をご存じの方、是非教えて下さい。



検索エンジン
1999年3月1日(月曜日) くもり

検索エンジン無しに、わたしの生活は成り立たないと言っても過言ではない。何か知りたくなったら、はい検索エンジンというパターンは、日常茶飯事というレベルを超えるかも知れない。例えば、サワラが旨そうだ、買ってきたのは良いが凝った調理はないだろうか、なんてとき。買ってきた電子機器をバラす、知らない部品が入っている、検索エンジンで型番を入れる、データシートが出てくる、というような使い方もある。

わたしが最もよく活用するのは Infoseek である。同じ全文型検索エンジンとして知られる goo も以前は時々使っていたが、goo は語彙力が足りないのか、マニアックな単語では引っかからない事が多いし、いまはどうか知らないが、一時期はMS社のサーバを使うようになってから、信頼性的にもタコになってしまったという事実がある。結局、しょっちゅう死んでるような頼りにならない goo からは離れてしまい、殆ど使わず。案外そのような利用者は多いのではないだろうか、サーバ選定の誤った判断が、命取りであることを如実に示す例である。

話は逸れたが、Infoseek のような全文検索型の検索エンジンには、文章に存在するほぼ全ての単語がデータベース化される。それも、データベースに積極的に登録せずとも、ロボットが勝手にデータを拾っていくという性質もある。断片として存在する情報から集中管理された豊富なキーワードを持つデータベースを用意することで、資料を探す者にとっては、極めて有用なものだ。しかし、知らない内にロボットがデータベースに登録するようなシステムにおいては Web ページは著作物にもなりえず、「リンクはインデックスに張ってして下さい」というWebmasterの希望も、ロボットがインデックス以外のファイルをデータベースに登録すれば、それまでの話である。そのような批判は必ずあるようだ。

しかし、わたしは Web ページという存在自体が巨大な分散型データベースであると考えている(そもそもそういうものだった)。確かに、現在の傾向を見る限りでは Web ページがただの資料という範囲を超え、創意工夫のある著作物という存在になりつつあることは認識しているが、そもそも Web ページは、広く公示されるべき資料を配布する一つの方法なのだ。従って、作者の希望を聞くことは出来ても、システム側から見れば「そこに公開されていたから登録した」という無味乾燥な理由で否定されうるものだと思う。従って、Web サイトにおいて、「リンクはどこそこに張れ」とか「ファイルの複製は全面禁止」というような主張には、何となく齟齬を感じる。

じゃあ、そういうお前の所はどうなのか、といわれそうである。突撃実験室も、例に漏れず一種のエンターテイメントを目的としたサイトだと、わたしは自覚している。が、別にわたしは誰にどういう気持ちで見て欲しいという希望もないから、ラーメンを啜りながら読まれようが、夏休み自由研究のネタとして使われようが、知ったことではない。また、何かに役立つ資料となれば、それはそれで幸いなのだ。ちなみに、何かの資料を探すために検索エンジンでひっかけてここに来てしまったが、何も見つからなかった方、ごめんなさい。

多事毒論はキーワードの宝庫のようで、自分が自分のページを引っかけてしまったこと多数ありなのです。



突撃実験室